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Center for Global Communications,International University of Japan

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電子コミュニケーション環境における文字 秀英体プロジェクトの活動を中心として

  • 講師:高橋仁一・伊藤正樹
  • 大日本印刷株式会社C&I事業部IT開発本部秀英体プロジェクト

 パーソナル・コンピュータを使うようになるまで、私たちが知らなかった、あるいは知る必要のなかった操作や機能は少なくない。ファイル、ウィンドウ、データの保存、スクロール、かな漢字変換、再起動、インストールといった言葉を、パーソナル・コンピュータを使うようになる前から理解していた人がどれだけいるだろうか。

 「フォント」という概念も、「コンピュータ以後」に私たちにとって身近なものになったものの一つである。文字の入出力を伴う、およそすべてのアプリケーション・ソフトウェアでは、書体あるいはフォントを選択することができる。私が使っているコンピュータでは、日本語フォント、欧文フォントだけでなく、イヌイット語のフォント、国際音標文字(IPA)などを選択することができる。さらに、日本語フォントの中には、ゴシック、明朝、ポップ、楷書、行書といったさまざまな書体、書風をもつものが含まれている。フォントや書体をはじめとする字形デザインがこれほどまで身近になった時代は、これまでに恐らくなかっただろう。

 1月26日に開催されたIECP研究会では、「電子コミュニケーション環境における文字:秀英体プロジェクトの活動を中心として」と題して、大日本印刷「秀英体プロジェクト」の高橋仁一氏と伊藤正樹氏のお2人に、活版印刷の時代から脈々と受け継がれてきた日本の印刷書体が、デジタル時代の新しいコミュニケーション・スタイルの中で遂げようとしつつある変容についての紹介と分析が行われた。

 秀英体とは、もともと大日本印刷の前身である秀英舎が明治時代に完成させた明朝体活字である。東京築地活版所の築地体と並ぶ「明治活字の二大潮流」と称される代表的な書体であった。秀英体は、幾度もの「改刻」を経て、100年以上経った現在でも数多くの出版物で使用されている。代表的なものとしては、国語辞典の『広辞苑』や、最近のものでは、綿谷りさと並んで史上最年少で芥川賞を受賞した金原ひとみの『蛇にピアス』も、秀英体を本文に使用して印刷されているという。

 ところで、ひと口に「秀英体」といっても、100年間まったく同じデザインを守りつづけてきたわけではない。活字が改刻される際に、その時代の流行りやニーズによって、秀英体のデザイン自体も少しずつ変化してきた。同じ「い」という字をとっても、左にやや傾いた字形を採用した時代もあれば、第1画と第2画がつながっている字形を採用した時代もある。まったく経緯を知らなければ、その2つが同じ書体の系譜に属するとはおそらく分からないだろう。ある2つの書体が同じかどうかは、共通のデザイン・コンセプトに従っているかどうかということだけでは決められず、同じ歴史と伝統を共有するかどうかによって決まるのである。

 「書体」という概念は、このような歴史的な産物であるのだが、電子コミュニケーションの時代にあって、書体をめぐる考え方も少しずつ変わってきている。伝統的な活字は、印刷物で使用することを前提としてデザインされてきた。しかし、デジタル・コミュニケーションの時代には、文字やテキストが印刷を介さずに直接画面上で生成され、消費されることも少なくない。メールやウェブ・ベースのコンテンツは、一度も印刷を経由することなく、作り手の画面から受け手の画面へと送り届けられる。このような利用形態がテキスト・コミュニケーションの大きな部分を占めるなら、書体のデザインも新しい利用形態に合わせて変わらなければならない。

 秀英体の版元である大日本印刷では、このような問題意識からディスプレイ表示フォントのための調査研究を進めている。画面上での判別性を高めるため、漢字の字面、点画間の空間、バランス、骨格などの要素を見直した。そうしてディスプレイ表示用に最適化された新しい秀英体(秀英DPF-L)は、起筆(筆画の書き始め)が強調されるほか、横画が全般的に太くデザインされ、点画や「はらい」の先端が太めにデザインされることになった。画面上で点画の縁を滑らかに見せるための、グレースケール処理が施されたときにも、筆画が判別、あるいは推測できるようにデザインされている。素人がデザインだけ見ても、同じ書体には見えないだろう。

 現状の文字処理技術は、文字を符号化する技術とその符号化に基づいた応用技術が中心に構成される。このような技術は、機械処理には有効であるかもしれないが、人間は機械と違ってその符号を直接操作できるわけではない。符号化された文字は、高度に抽象化され普遍化された共通の記号だが、実際に人間がテキストを読み解くときには、インクの染みや画面上の光の点の集合という具体的な形状をもった字形を読むわけである。今後、コンピュータ、携帯電話、PDA (Personal Digital Assistance)、電子ブックを通じて、画面から画面へのコミュニケーションがより一層増えていく中で、このような視点からの文字の研究と実践は、次第にその重要性を高めていくことになるに違いない。

    上村圭介(GLOCOM主任研究員)