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情報化によって支えられる人間性 『カーニヴァル化する社会』の向こうへ
GLOCOM研究員
- 『カーニヴァル化する社会』
- 講談社
- 2005 年5 月発行
- 新書判、175 頁
- 税込価格735 円
無気力に帰責させられる若者たち
働かない若者が増えている、と言われる。フリーターという言葉に、ニー トという言葉が加わり、さらに「ひきこもり」や「パラサイト・シングル」 のような、本来の定義からすれば無関係なカテゴリーまで一緒くたにされた 上で、こうした若者の労働問題は語られていると言えよう。
むろん、こうした大雑把すぎる認識を批判することはできる。そもそも若 者達の労働問題が浮上する背景には、不景気による採用構造の変動という要 因があるわけだが、その帰結として、非典型雇用に就く若者が増加している のであって、すなわち、若者達の労働問題には「働かない」というより「働 けない」という側面が大きいのだ。
にもかかわらず、こうした労働問題を、社会構造に起因するものというよ り、若者自身の「意志」に起因する問題として理解される傾向が強い。それ はいわば、現代の若者の無気力という手垢の付いた論理なのであるが、食生 活の偏りから左派による政治的イデオロギー(その帰結としての若者の脆弱 な自我)まで、様々な要因がそこに付与される形で、事態を、彼ら自身の責 に帰するべきものとして処理する社会の作動が、現在の状況を作っているの である。
ことを自己の意識の問題へと収斂させるこうした発想は、一方で、やる気 の欠如ゆえに働けないのだ、という自己解釈を導き、他方で、とにかくやる 気さえあればいつかなんとかなるのだ、という自己啓発を呼び出すという、 自我の躁鬱的な分裂状態を招くことになる。労働問題それ自体がいかに社会 政策上の手当てを必要とするものであっても、こうした意識を問題にすると いう姿勢が、若者たちに対しても「自意識中心主義」の生き方をもたらすの である。
暴発する「感情の政治学」
こうした、躁と鬱とに分断されていく自意識を見いだすことが出来るの は、なにも労働の分野だけに限らない。むしろ、日常の鬱々とした状態を、 感情の暴発に任せた熱狂状態によって乗り越える、といった一種の「祭り」 が、近年散見されるようになってきたのだ。
祭りはかつて、伝統社会においては農耕のリズムと関係した、決まった時 期に行われるものだった。それが近代社会になり、時間が一定の社会制度の 中に組み込んで管理されていくに及んで、祭りは次第に時間から、空間へと 固定されるものに変容していく。それがいわば、「都市における祝祭」であ る。
しかしながら現代の祭りは、時間や空間に固定されない。突発的に、そし て創発的に生じるのである。そこではあらかじめ決められていることは存在 しないか、あったとしても容易に裏切られる。ときにそれは、誰にもコント ロール不可能な巨大なうねりとして、私たちの社会を動かすのだ。
そのもっとも目に付きやすい例が、サッカーなどスポーツの応援などに見 られる狂騒だろう。もはや試合そのものよりも、熱狂すること自体が目的と なっているかのような若者たちの「祭り」は、私たちの多くを戸惑わせてい る。
さらに言うならば、こうした「祭り」は、大小を問わず、私たちの周囲に 散発するようになってきた。例えば、インターネット上から発生する「祭り」 がそうだ。2004年に起きたイラク人質問題などを巡る「ネット世論」の盛 り上がりは、それが単なる「便所の落書き」レベルではなく、マスコミ、政 府での見解にも影響を与える事態となった。
これはいわば憲法学者キャス・サンスティーンの言う「サイバー・カスケー ド」、すなわち、一人ひとりの小さな声が濁流となって滝のように流れ落ち、 巨大な力となる現象が起きたのだと言える。こうしたカスケード現象は、 ネット上では非常に起きやすいものであるとサンスティーンは指摘している のだが、重要なのは、その力が政治的な水準にまで達してしまうことが、 往々にして起こるということだ。
日常の生活から出てくる何気ない感情が、ネットによって集約されること で、大きな根拠を持つ「政治的主張」へと昇華される。それが、私たちの躁 と鬱へ分断されていく自意識から生じるのだとすれば、その分断と暴発のメ カニズムは明らかにされねばならないだろう。
非選択の選択化
私の考える限り、論点は大きく言って二つある。一つは、なぜこのような 形での自意識への収束が生じるのかということ、もう一つは、そうした自意 識を、現代の情報社会化がどのように支えているのかということだ。
第一の論点は、おそらく、社会環境の変化に関わっている問題だ。冒頭に も述べたとおり、若者たちにとって現在の社会は、多くのことを、自意識上 の操作──すなわち「気の持ちよう」──によって解決せざるを得ないとい う状態に追い込んでいる。これは逆の言い方をすれば、あらゆることを社会 の問題として処理したり、他者からの手当てによって解消したりすることが できなくなっているということである。つまり、気の持ちようで生き方を変 えるということの背景に、「自己責任原則」のようなものが、べったりと張 り付いていると考えられるのである。
近年、こうした自己責任論は様々なところで耳目にすることが多くなって きたが、ではこうしたロジックは、いったい何が生ぜしめたものなのだろう か。私の考えでは、それはいわゆる「リスク社会化」と呼ばれる、現代社会 の持つある種の傾向によって引き起こされたものである。
リスク社会とは、日常の、特に未来予測に関する出来事がすべて「リスク」 として算定されるようになる事態を指している。リスクとは何か。それは、 まだ起こってはいないが、未来において生じる可能性のある危険のことであ る。例えば、今後十年の間に交通事故で死亡する確率、といったようなもの がそれに当たる。こうした未来の危険が様々な形で数字として表示されると いうことは、一見便利なように思えるが、必ずしもそうではない。
確かに私たちは、未来にどのような危険があろうとも、リスクをとった選 択をしなければ、道は拓かれない、と考えがちだ。だが、こうした「選択」 をあらゆる場面で迫るリスク社会においては、選択そのものの過剰が生じ、 結果として自己決定を困難なものにしてしまうという逆説が起こるのであ る。
例えば、私たちは確かになにがしかの確率で、車の運転中に事故に遭って 死ぬかもしれない。しかし、そうしたリスクが潜在的なものだった時代に は、たとえ事故死したとしても、それはいわば「偶然」に生じるものだと見 なされていたわけである。ではそうしたリスクが可視化されるとどうなる か。これこれの確率で事故死のリスクがあるのだから、エアバッグやその他 の対策を施さなければ、その人は事故というリスクへの対処を怠ったと見な されるのである。その人が、まったく同じ車に乗っていたとしても。
こうした「選択しないこと」すらも一つの選択であるかのように人々に強 いていく過剰なリスクの可視化が、結果として自己責任の重要さを肥大さ せ、かわりに「社会」に対する要求を減少させていく。自意識による処理が 前面化するのは、こうした「非選択の選択化」が存在するというのが、第一 の論点だ。
データベースから現出する自己
第二の論点は、携帯電話やその他の情報デバイスが、私たちの生活に与え る影響に関するものである。すなわち、躁状態や鬱状態という自意識は、一 体どのような形で備給されているのかという点において、こうした情報デバ イスの果たす役割が、非常に重要なのである。
こちらの詳細は、拙著『カーニヴァル化する社会』の主要な論点となって いるので、そちらを参照して欲しいが、おおづかみに言うと、以下のような ことが起きつつある。すなわち、若者たちの携帯電話の利用方法などを調査 してみると、多くの若者が、携帯電話を、効率よく、広く他者と「繋がりう る」状態に自分を置いておくために利用している。例えばそれは、メールの やりとりを始終欠かすことの出来ない依存状態であったり、知り合った人間 とまず電話番号やメールアドレスを交換し、アドレス帳に登録した上で、関 係の結び方を決めていったりするような、ケータイ的な対人関係のことであ る。
インターネットも含めて、近年の電子的なコミュニケーション・デバイス における、コミュニケーションそのものの重要性の増大、言い換えれば、他 者との繋がりを提供してくれるネタになりさえすればどのようなものでも よい、という事態が、若者たちの間に広がりつつある。こうした「ネタの消 費」とでも呼びうるような状態を支えるのは、まさに人間関係のデータベー ス(電子的な情報の蓄積)としての携帯電話であり、インターネットなので ある。
換言すれば、若者たちの消費の前提として、データベースへの参照という 行為は非常に重要なものになっているのである。人間関係のデータベースを 参照することで、彼らは、いま自分が繋がりうる友達は誰で、それは何人い るのかを把握し、あるいは、自身の購入履歴などのデータベースを参照する ことで、次に自分が消費するべき商品が分かる、などのように、まさに自己 確認が可能になるのである。
要するに私たちは、躁鬱状態に分断されながら常に「自己」としての責任 を要求されるという、非常に苦しい立場に置かれているのだが、そこでそう した「自己」のありかを示してくれる電子的なデータベースへの依存度が 極大化するという、いびつな自我によって支えられる存在になりつつあるの だ。これは、近代社会において求められてきた責任的な主体というモデルか らはかけ離れたものであり、その意味で、私たちは大きな時代の曲がり角に 来ていると、言わざるを得ないのではないだろうか。
アイデンティティの過剰を超えて
データベースが自己についての情報を備給し、その情報によって、いわば ハイテンションな自己啓発が行われる。こうしたフィードバック関係が際限 なく続いていくことが、私の言う「カーニヴァル化」に当たるわけだが、問 題なのは、そうした「自分についての情報」が過剰に溢れかえることで、あ らゆるところに「自分」が見いだせてしまうということだ。そうした無数の 自己アイデンティティのようなものに囲まれて生きる私たちに、いま必要な ものは何だろう。
おそらくそれは、近年とみに言われるようになった国家の権威の回復、大 いなる栄光や輝ける未来を(たとえ仮想的にでもいいから)若者たちに与え るべきだ、といったような、古典的な意味での「保守主義」の処方箋ではな い。むしろ求められているのは、そうしたアイデンティティを支える超越的 な仮構ではなく、より地に足のついた、対面の親密圏における安定した関 係ではないか。その意味で、来るべき情報社会の未来について考えるに当た り、本書は、その第一段階を提供したに過ぎない。更なるプロジェクトは、 この後にまだまだ控えているのである。