GLOCOM - publications

Center for Global Communications,International University of Japan

« 日本の技術経営(MOT)と最高技術責任者(CTO)の現状と課題 | メイン | セッション:023-024 ised第5回設計研 »

シンポジウム - 情報社会の合意形成  ~不安の時代を超えて~

  • 吉田民人 : 東京大学名誉教授
  • 國領二郎 : 慶應義塾大学環境情報学部教授
  • 鈴木 健 : 東京大学大学院総合文化研究科博士課程/国際大学GLOCOM客員研究員
  • 公文俊平 : 国際大学GLOCOM代表/多摩大学情報社会学研究所所長
  • 司会:東 浩紀 : 国際大学GLOCOM教授

「設計」とは何か

 GLOCOMf o r u m 2005の締めくくりとなる本シンポジウムでは、「情 報社会の合意形成」を可能にする条件として、パネリストがそれぞれの立場 から関わる「設計」の在り方について討議が行われた。というのも、司会の 東氏が述べたとおり、個人の多様なライフスタイルを許容するインフラスト ラクチャーが溢れかえる今日では、人々が共通の意見にコミットするための 条件が既に欠落し始めているからであり、社会が一つのまとまりを維持す るためには、人々の協調を可能にするための社会設計こそが必要となるから だ。

 シンポジウムでは、まずパネリストから、各々の考える「設計」の意義に ついて十五分程度の報告が行われた。それを受けて後半では、「設計」にま つわる問題点、また、ありうべき「設計科学」の方向性について討議がな された。その中から浮かび上がってきた「設計」のイメージとは、かつて の社会主義が行ったような上からの計画的設計ではなく、モチベーションな き人々の自発的な社会参加を促すような仕組み、國領氏の言葉を借りれば、 社会のミドルウエアとしての「プラットフォーム」というものだった。「設 計」にまつわるマイナス・イメージをもはや過去のものと捉える新しい世代 によって、情報社会の未来が拓かれていくことを予感させるシンポジウムに なったと言えよう。

 以下、シンポジウムの内容を紹介していこう。

最適化と満足化

 まず、吉田民人氏より、独自の科学論の立場から「設計」を巡る問題提起 がなされた。吉田氏は、議論のテーマをより包括的な問いによって位置付け るべく、二つのアジェンダを提示した。

 第一は、「人間の社会にとって『設計』とは一体何なのか」。

 第二は、「情報社会の設計と情報社会以外の設計はどう違うのか」。あるい は、情報社会の中でも、「インターネット空間の設計」と「インターネット 空間以外の情報社会」、例えばGLOCOMという組織の設計が当然ある。 つまり、「設計とは何か」という問題と、「インターネット空間の中での設計 が、社会一般の設計の中でどういう位置を占めるのか」という二つの問題か らアプローチする、と吉田氏は述べた。

 第一について、吉田氏は「人間の社会の特徴として、例えば、星や宇宙の 秩序というのは法則によって生成するのであるが、人間の社会は設計図に よって構築される。ただ長い間伝統的に、人間の社会も近代科学の発想によ れば、何か社会法則があって、社会法則によって生成するのではないかと思 われていた。しかし、実際には、人間の社会には法則はない。経験則はある が、いわゆる物理化学法則のような意味での、非常に普遍性の高い法則とい うのはない」として、あるのは、「代わりに設計図があるだけだ。その設計 図が時代とともに変わってきたわけである」とする。「人間社会にもっとも 特徴的な要因が設計であるということは、長い間人類社会の中で気付かれて いなかった。それは自然発生的な設計であるし、無自覚的な設計であった。 それが慣習法とか倫理とか、そういう伝統的な人間の広い意味での設計行為 だったわけであるが、少なくとも無自覚的に設計していた」のである。そこ で「第一の大きな変革として、実定法という考え方が登場した。人間社会の 法律は、人間の手でつくるものであり、ある意味で設計思想が近代社会の原 点として、法治社会というイメージを結んできた。それが今やあらゆる領域 で、人間社会の特質である『設計』という行為が、まともに姿を現すように なってきた。家族の設計、組織の設計、社会の設計、社会の民間部門の設計、 公共部門の設計というように。そういう意味で設計という現象は、人間社会 の最も本質的な秩序形成の特徴なのであるが、それが長い間人類そのものに よって自覚されていなかった。それが100%自覚されるようになったのが、 この情報社会の特徴である。そのようにまず位置付けたい」と、吉田氏は人 間の社会にとっての「設計」を位置付けた。

 だが、第二については、吉田氏は、情報社会の設計と情報社会以外の設計 は簡単には定義しにくいとして、問題点を抽出する。

 (1)設計主体をどうやって設計するのかという問題、(2)設計の結果出 てくる新しいプログラム(新しいプログラムの計画と伝統的な敵対、衝突す るプログラムとの関係)、(3)倫理と設計----などがある。

 これまで「伝統的に設計は、工学的な表現をすれば、目的関数の『最適 化』ということになる。ところが、現実には決定基準というのは最適化だ けではなく、もう一つ『満足化』というのがある。ハーバート・A・サイ モンによれば、人間の合理性には限界があって、彼自身は、限定合理性 (bounded rationality)の下で、最適化(optimizing)という発想を諦めて満 足化(satisficing)という道を選んだのである。だが、このサイモンの理解 は、現実に採用されている最適化が「不完全情報のもとでの最適化」、いわ ば「主観的最適化」であることを見逃していた。すなわち、現実の人々の意 思決定には「主観的な最適化」と「主観的な満足化」とが共存している。そ の主観性の中味は、満足化の場合なら「一定の満足水準の設定」であり、最 適化の場合なら「一定の与件」の設定である。ところが、ほとんどの工学者 と経済学者が満足化を考慮せずに、最適化一本の議論をしてきた。それは暗 黙の前提として、目的関数の主観的な「最適水準」を目的関数の主観的な「満 足水準」と規定してきたからである。しかし、満足水準は最適水準以外にも 理念的水準や慣習的水準、等々、多様なケースがあり、満足水準を最適水準 に設定するのは、実現不可能なことは考慮しないという現実主義的価値観の 反映以外のものではない。満足化と最適化を独立のものとして組み合わせる なら、①最適化しているが満足化していない水準、②最適化していないが満 足化している水準、③最適化し、かつ満足化している水準、④最適化も満足 化もしていない水準という四つの主観的状態を識別する必要がある。いずれ も不完全情報と主観性を前提にしている。従来の工学や経済学の最適化理論 は、このうち③と④だけを扱い、①と②を無視してきた。その結果、「与件 の変革」や「満足水準の上方調整・下方調整」という動態的な過程を「最適 化や満足化と一体のもの」として理論化できなかった。つまり、吉田氏は「満 足化と最適化を組み合わせなかったら見えてこないような状況が、これまで の意思決定理論、社会学理論でほとんど無視されてきたのではないか」と指 摘する。

 インターネット空間での設計主体を考える場合に、吉田氏は、(1)イン ターネット空間の中ですべての社会の設計主体の特徴をどう捉えるか(分 権・参加という設計主体の特徴)、(2)コンピューター・シミュレーション が非常に簡単にできるようになってきた──などがおそらくインターネット 空間固有の特徴であろう、と示唆している。

 (1)について吉田氏は、「分権的か集権的かということ、それから委任型 か参加型か、という二つの軸を組み合わせると単純に四つに」分類できると し、「インターネット空間の最大の特徴は、分権で参加という二つの特徴が あり、これを活かした設計機構が重要な役割を果たしていることである。絶 えずいろいろな領域で、分権的で参加型の設計機構が登場する。それが成 熟すれば、集権的委任型のものになってしまうかもしれない。絶えず分権的 で参加型の設計機構が常に創発し続けている、ということは重要なことであ る」と説明する。そして、「それは集権よりも分権の方が、はるかに発想が 豊かになる。それに、委任に比べれば、参加が豊かな発想を保証すること は当然のことである。そういう意味でインターネット空間に参加分権型の設 計主体を次から次へとつくっていくと、それが成長すればなくなっていく可 能性もあるわけである」から、「それは人間の社会の創知という角度から言 えば、極めて重要な情報機構、あるいは設計機構がインターネット空間の中 で絶えず族生し続ける、創成し続ける、ということは非常に重要な特徴であ る」と語る。

 (2)について吉田氏は、「普通われわれは思考実験という形でシミュレー ションをやっているわけであるが、あらゆる領域でコンピューター・シミュ レーションが使われるようになってきて、人間の社会でも今まで頭の中でし かできなかったことが、コンピューター・シミュレーションによって非常に 簡単にできるようになってきた」ことの重要性を指摘した。

プラットフォームの設計

図1:プラットフォーム上の価値創造

 続いて國領氏からは、氏の基本的な設計思想である「プラットフォーム」 についての説明がなされた。

 國領氏は、「『デザインする』というアプローチが、非常に重要なコンセプ ト」であり、そこが國領氏の出発点であるとして、「合意形成の話というの も、ダイナミックにシステムのデザインの変化の中で、考えていかなければ ならない」と指摘する。これは「研究的に言うと、ではどういうアプローチ をとるかというと、気になる現象がある中から、法則性というものを何らか の形で抽出していくプロセス、たぶんそれがアブダクション(仮説的推論) なのだろう。そういう中から得られた知見を、実際のシステムの設計に反映 させて適応させていく中から、新しい知見を与えていく。こういうような循 環の中で情報システムを進化させていき、それに伴う知を進化させていく」 ということになる。

 國領氏は、「『社会科学の人間というのは、出てきた技術を後追いで解釈 するばかりで、文句を言うばかりであり、役に立つことを何も言っていない じゃないか』というのが、おそらく大多数の技術を開発している人間が、社 会科学をやっている人間に対して感じている不満だと思う」として、「例え ば、アーキテクチャーという人工物をどういうふうにデザインするか」と いう概念の話になっていく。國領氏は、「全体システムをどういう機能でモ ジュールにして、その間のインタフェースをどうつくっていくか」というこ とをもってアーキテクチャーだと考える。「この辺になってくると、人間が 操作可能で、かつ、こういうアーキテクチャーにすると何が起こるのか、と いう辺りを知るということが、次のアーキテクチャーをどうデザインするの かということに反映できる」ので、重要である。つまり、「つくったデザイ ンは、必ず次のシステムに反映させ、そこから新たな知見を得ていく。この ようなプロセスを考えていこうということである」。

 では、何をデザインするのかというと、コミュニティーはデザインできな いので、「現実問題として、デザインが可能なものがプラットフォームでは ないか」。ネットワークにパケットが流れはするが、「見ず知らずの二者が取 引しようとしても、とても信用できないので、仲介者がどうしても必要にな る。第三者間の相互作用を活性化させる物理基盤とか制度とか財とかサービ スといったものがないと、たとえパケット・レベルでつながっても、実はつ ながらない」。そこで、設計可能なプラットフォームに注目する。その上に いろいろなコミュニティーのようなものが生成されるのであるが、それ自体 はほとんど操作できない。「プラットフォームとは、煎じ詰めると言語空間 であり、語彙とか文脈、文法、文脈、規範を共有化することによって、主体 間の相互作用が可能な状態をつくっていくのである」と國領氏は言う。

 「プラットフォームは明らかにデザインの世界である。すごく重要なテー マとして、プラットフォーム上に生まれる相互作用の中から生まれてくる社 会の構造にパターンがあるかないか、という辺りが興味深い」と、國領氏は 問題提起をした。

「なめらかな社会」へ向けて

図2:設計研の執拗低音

 続く鈴木氏の提起は、かなりのロング・スパンで考察されているのが特色 である。「グーテンベルグが1400年代に活版印刷を発明して、フランス革命 まで三百年以上かかっている。両者の間に何の因果関係があるのかという と、ルソーがその数十年ぐらい前に『社会契約論』を書いていて、これがフ ランス革命に大きな影響を与えているわけだが、これを広めるのに貢献した のが印刷技術なのである。1970年代にゼロックスのPARC(パロアルト研 究所)でアラン・ケイがパーソナル・コンピューターという概念とプロトタ イプを発明してから、大体二、三百年ぐらい後にどうなっているのかにつ いて考えてみたい」。これは、「インターネットが普及して十年ぐらいになる が、私はまったく世の中が変わったような気がしない。本当に変わるのな ら、もう少しロング・スパンで考えなければいけないと思っている」という ことがベースであるという。

 鈴木氏はised研究会の設計研というグループの司会をしており、そこで 「なめらか」という概念を一つのテーマにしている。鈴木氏は「『なめらか』 は情報社会の設計の執拗低音であり、シグモイド関数(Sigmoid Function) を使うと非常に解りやすい」という。

 「シグモイド関数のxとλ(ラムダ)の二つの変数のうちxを変えていく と非常になめらかな関数になる。で、λの値を変えていくと非常に切り立っ た形(ステップ)になる。ステップというのは、二つの二項対立的な切り立っ たもの、差違、非対称性があるものである。ではフラットがいいのかという と、フラットというのは、非対称性が浅い。ここには文化というものが発生 しない。だが、世の中はフラットである、などということはない。ここで『な めらか』、つまり、ステップでもなくフラットでもなく、二つの差違をなめ らかにつないでいくということが、これからの情報社会における執拗低音、 つまり何度も繰り返し流れているものではないかと考えている」

 ここで鈴木氏は、セル・オートマトン(cell automaton)という、一個一 個の点がセル(細胞)という要素で、隣の要素と相互作用するようにプログ ラムされた機械仕掛けの細胞のようなものを示して説明する。「一つ一つの 要素(セル)は、隣の要素と相互作用するだけなのであるが、全体的に内側 と外側を分けるような不思議な振る舞いが現れる。一個一個の要素はミクロ な相互作用をしているだけなのに、マクロ的には膜のような存在ができて、 内側と外側を分ける細胞という存在が出現する。つまり非常にフラットな世 界から、内側と外側を分けるような切り立った(ステップな)世界が生まれ ている」(http://ised.glocom.jp/ised/08040611参照)

 鈴木氏は、ミューラーの図形(同じ長さの線が矢印によって、異なった長 さに見える有名な錯視図形)を示し「錯覚、イリュージョンであるけど、そ の錯覚は一種の正解である。つまり錯覚というのは、一種の進化的な、もし くは形態生成的な意味での正解である」とする。そこで鈴木氏は、「おそら く、社会システムを考えるに当たっては、このような知覚を再構成するよう な社会の本質を考える必要があるのではないか。つまり、人間が一人ひと り持っている知覚が社会システムを維持しているというのではなく、社会シ ステムによって社会システムが再構成されていく、そのようなものを考えた い」とするのである。

 具体的な例として貨幣を挙げ、「PICSY( ピクシー:Propagational Investment Currency SYstem)という伝播投資貨幣を紹介する。PICSYとい うのは、価値が伝播していく新しい電子貨幣システムなのであるが、対立 概念が決済貨幣、普通の貨幣ということでSECSY(セクシー:SEttlement Currency SYstem)というふうに呼ぶ。では価値が伝播するというのはどう いうことなのか。どう『なめらか』になるのか」として、医師の例を説明す る。

 SECSYな社会、つまり普通の社会では、たくさん薬を投与すればするほ ど病院が儲かるわけである。良い医師は薬も使うかもしれないが、とっとと 治してしまう。早く治してしまうと、かえって経営が苦しい、ということに なる。

 ここにPICSYを導入すると、患者が治療によって完治した場合、元気に なったその患者の収入が、伝播して医師のところまでくるわけである。反対 に、悪い医師の場合は、薬漬けにされた患者はベッドで寝たきりなので、医 師の通帳の残高も、価値が伝播してどんどん減っていく。良い医師の場合は 患者の収入が伝播してくるので、どんどん収入が増加してくるということに なる。PICSYは、「ある種のサービスや財を提供するということが投資にな るような貨幣システム」だという。

 実際には、Aさん、Bさん、Cさんという三人がいるとして、Aさんから Bさんにモノが提供されて、BさんからCさんにモノが提供される。その とき0.3とか0.2とかいう価格が設定されていたとしたら、それをかけ算し たものをCさんからAさんに戻してやれば、価値が伝播したような感じにな る。三人ではなく、百万人いたらどうするか。しかもループになっていた場 合に計算をどうするか、という問題が発生するわけであるが、実はこの問題 というのは、線形代数の行列計算を使うと、解くことができる。計算の基本 的なアルゴリズムは、「ページ・ランク」というアルゴリズムと基本的に同 じである。鈴木氏は、「なぜ価値が伝播すると良いのかというと、要するに、 『社会に対して貢献している人は、より高い購買力を得られる』ということ なのである。つまり、すべての取引を投資してしまうというシステムをつく ることができる」。そこで必要になるのが、「取引のインタフェースというこ とである。それを『カンパニー』として用意する。ここで重要なのは、この 『カンパニー』というものは、非常に仮想的な、単なる取引のフローを媒介 するだけのインタフェースで、そのつど解体することができる。これを仮想 解体と言う。貨幣レベルで組織をバーチャルにする貨幣が可能であるという ことで、社会OSのレベルで『なめらか』にすることができるということに なる」。

 だが、これもロング・スパンで考えなければならない。鈴木氏は、「この PICSYは、最終的に百年か三百年ぐらい先に国際通貨として使われればい いと思うのであるが、今実際にゲームでの通貨とか社内人事評価システムと して使うというようなことも進めている」ということである。 設計し、フィードバックすることが必要

 公文氏は、「プラットフォームでは十分な設計をするという立場はありう るだろう。だが、設計をして認識をして、またやり直していくというフィー ドバックが絶えず必要になってくる」とする立場である。

 まず、かつては、「自然科学と違って社会科学は実験などできない。ちょ うど今、人体実験などはしてはいけないと考えられているように、社会実験 などしてはいけない、という考え方が非常に強かった」。その一方で、「計画 ということに対するオーバーな期待と信頼というものがあり、計画経済こそ 未来である。資本主義、マーケットなど衰退するに決まっている。だから、 賢明な計画を立てて社会をつくっていく、という二つの考えがあった。だ が、社会主義の計画もうまくいかなかった。結局人間の浅知恵では計画など うまくいかない。計画してみても、どうなるか正しい予測はできない。大体 失敗に終わるものである、という悲惨な経験を積み重ねてきたのが20世紀 だ」と考察する。

 そこに「最近、また『設計』という言葉が出てきた。情報化と呼ばれる変 化の中で、計画と呼ばれてきたものとは違うタイプの設計が、ある程度まで 可能になりつつあるのではないか。要するにわれわれには、実際に実験をや る代わりに、バーチャルな世界、ゲーム理論だとかシミュレーションによっ て実験ができる、という大きな進歩がある」と公文氏は言う。政府、大企業 がやるのではなく、いろいろな人がローカルな実験をやって、あるいは設計 をしてその結果を相互作用させる、ということも可能となった。「そういう 意味での情報社会における設計というのは、ポジティブに考えてもいいので はなかろうか」。その際に、「新しい設計のプログラムをつくっていくとき に、古いプログラムとの関係をどう考えるのか。更地に家を建てるような形 で設計をやるわけにはいかないのだということは、やはり気を付けておかな ければならない」。

 注意しなければならないのは、「そういう意味で現在の情報社会、とりわ けインターネット空間などでは分権型、参加型の設計が可能になり、現に行 われるようになっているけれども、成熟すると話が違ってくるかもしれな い。そのことはインターネットに限らず、あらゆる社会、ひいてはわれわれ のあらゆるシステムで、常に分権型、参加型で面白いものが作られ続けてい く、ということばかりではないということも考えに入れておく必要が確かに ある」と、公文氏は言う。つまり、「いずれは何かあるという原則が見つか るにしても、今この時点で、『あるアーキテクチャーを考えた、あるプログ ラムをつくったというとき、こういうことが起こりそうだ』ということがど こまで自信をもって言えるのか。そういう知識をどれだけ持っているかとい うと、それほどわれわれの知識はまだ大きなものではない」。したがって、 設計をして認識をして、またやり直していくというフィードバックが絶えず 必要になってくるのである。

 公文氏は「プラットフォームは直接操作できるが、その結果は一つではな い。ローカルなルールという意味での、ローカル・ルールで人々が相互作用 した結果、何が起こるか、それをなかなか予測できない。掌を指すように操 作することは通常できない」としつつも、「その上で、プラットフォームで は十分な設計をするという立場はありうるだろうと思う」としている。

分権参加型社会のアポリア

 続いて、パネリストの議論が進められた。

 公文氏からは「結果論として言うのであれば、参加分権型の設計がいかな る場合でも良い結果をもたらす、という保証はない。ただし、ある種の技術 革新が進んでいくというような状況の下では、参加分権型ではいろいろなこ とを試すこともできるし、良い結果をもたらす可能性が高い。むしろ世の中 が落ち着いてきて、あるいは参加分権型がいきすぎて、過当競争のような 形になってしまったら、これはむしろ結果として悪いものが生まれることも 十分ある。競争が独占を生むということはいくらでもあるわけである。そし て、独占が形成されたから、一義的に悪いとも言えないわけである」と参加 分権型を評価する意見が示された。

 吉田氏はこれを受けて、「今まで委任よりも参加がいい、集権よりも分権 がいい、ということであったが、それに対してテクノクラートのグループで は、どちらかというと、素人に任せるよりも、分権よりも集権委任で一本 化した方がいい、ということになる。それが極端な形でイデオロギー対立に なったのが、資本主義対社会主義である」とイデオロギー的に捉えられてき た過去を振り返った。「インターネットが参加と分権に関して一番特徴的だ し、新しいものを出すという角度から言うと、それが非常に望ましい意思決 定構造である」と吉田氏はインターネットを評価する。

 大きなデザインのトレンドとして、なぜ分権構造の方が相対的に優れてい るかということを、國領氏は、「場面で発生する情報量がものすごく増えて きて、処理しなければならない場面の情報が増えてきているということであ る。電子タグのようなものを使うとか、センサー・ネットワークのような話 になってくると、膨大な情報量が場面から発生しているときに、いままでの ような集権構造をつくっていくと、ボトルネックが中央にできてしまう。ど んなに優れたテクノクラートでも、今現在、場面で発生している情報量を処 理しようとすると、明らかに限界がある」と説明した。

 國領氏は、イデオロギーというよりむしろ、「処理するべき情報量があま りにも膨大なので、分権型でしかありえない。よりしっかりした分権的構 造を取り込めるようなデザインを競争で開発していくことが、戦略的に大事 だ」と強調した。

 公文氏は、「インターネットでもまさに分権・参加でやっているから、す ごいスパムなどが出てきたり、気が付いたらそっちが優勢になっていたりす る。何千社もあった自動車メーカーの中から、ほんの数社しか残らない。こ れは誰が選択したわけでもなく、選択作用が働いているからである。昔の石 油開発などというのも分権的にやったので、それこそ盗みあり、脅迫あり、 何でもありでやって、少数の独占資本ができた」ということから、「分権参 加型、必ずしも正義ではない」と注意を喚起した。

 だが、分権・参加型というのは、一定期間においてのみ持続可能なストラ クチャーで、長期的にはむしろ集中型になって落ち着くかというと、公文氏 は、「それもいつまでも続くわけではなく、また新しいものが出てくるとい うことの繰り返しではないか。例えばOSでも、Windowsがロック・インさ れて、そのまま行くのかなと思っていると、Linuxが出てくる」と言う。

 Googleのようなものもプラットフォームで、集権化とまでは言わないが、 今や巨大なものとなり、一つのプラットフォームを使う状態になってきてい る。だが、國領氏は、プラットフォーム論が出てきた当初から、「規模の経 済というのは独占性がある」という議論があったが、「単純なマーケット・ セグメントの中におけるマーケット・シェアの高さというのは問題にしない が、ただしそれを梃子(てこ)にしてほかの市場、周辺市場にまで独占的か つ優越的な地位を適用しようとするときにはチェックをかける。プラット フォーム自体への参入の可能性というものが完全に排除されているような状 況においては、参入可能性を担保する。そういうようなルールづくりをし、 それを賢く適用していくというような話ではないか」と、むしろ規制の在り 方を指摘した。

 鈴木氏は、独占を覆すには、貨幣レベルで仮想化しなければいけないと し、「貨幣レベルの売り買いという関係から、投資する投資されるという関 係になると、コミュニケーションの在り方が根本的に変わってしまって、大 きな組織を持つという意義自体が失われてしまうというふうにならないか」 と期待を述べた。

参加へのリテラシー育成は必要か

 東氏は、「今のインターネット・ユーザーは参加しているという意識はほ とんどなく、テレビを見ているような感覚」ではないかと問いかけたが、公 文氏は、「本当に一義的にいかない、というのが率直な感想である。一応、 今のインターネットは自分で参加して、自分で判断しているように思ってい るのだけれど、結果的には委任をしてしまっている。インターネットも最初 は、私たちは参加しているつもりだったのであるが、東氏の言うように、今 の人は最初からそのつもりはないのだということであろう」という。

 では、参加のモチベーションをどうやって取り戻していくのか。鈴木氏の 話は、モチベーションはなくても参加してしまうようなアーキテクチャーを 長期的につくってしまうということではないか、ということだった。

 一方、「情報を開示している会社は信用できる、ということがある。開示 されている情報を確認するか、あるいは情報が正しいか吟味するということ がなくても、開示しているという姿勢を示すだけで信用できる、としている 人が多い。不合理だけど、インターネット上での食品情報の開示を巡る実態 だ。理想論を語るのではなく、実態がどうなっているのかという検証をしな がらデザインしていかないと間違える」と、國領氏は指摘する。

 公文氏は、「お仕着せでも十分満足できるということなら、わざわざ参加 することもないし、参加のコストを払うこともない。満足化が働けば、無 理に最適化する必要はない。参加自体は価値なのではなく、手段である。ま た、満足する人もいるし、満足しない人もいるわけである。ほかに選択の余 地があるのではないかと思う、そういう知識を持つのは、現状に不満である ということなのである」とみる。東氏は、「比較対象がないので満足するか どうかではなく、それしか使っていないので、満足も不満足もなくて、ほか にないということで使うということがある」と指摘した。

 情報の受け手に内容を吟味できるリテラシーを付けてもらうシステムは必 要なのか。

 國領氏は、「開示するからには、正確な情報を開示しようとするし、それ が競争優位にする。自分の会社はより信頼できる食品を提供している会社 だ、というイメージ戦略の方へ持っていこうとするわけである。開示するこ とは、企業の利益とより広い社会的利益とが合致する方向に向いている」と する。

 國領氏は以前から、環境問題や個人情報保護の問題のように、経済的な利 益の追求とは別の倫理でやりなさいというイメージがある中で、それが経済 的利潤として帰ってくるようなモデルをプラットフォームとして提案しなけ れば駄目なのだ、ということを主張されている。鈴木氏によれば、PICSY は、「それはもっと下位の構造を変えればできるじゃないか」という提案に なっているのだという。

 公文氏は、「消費者のニーズを考えると、何で情報を開示してもらいたい と思うのか。私であれば、自分にとって不利な情報を隠されていると困るか らである。細かいことを知りたいのではなく、隠されていないという信頼、 保証がほしいということである。ところが開示すれば、それは一つの答えな のだけれど、逆にマイナスがいろいろ起こる。同じような意味で、個人情報 も不当に利用されないという担保は欲しいが、それであらゆる個人情報の利 用に強い制約を課してしまうと、別な不都合もたくさん起こる。本来のニー ズにそのままスパっと応えてくれるようなことではなく、間接的な解、たい ていのものはそういう形でしかできないので仕方がないのだが、ここでも開 示することがいいことだとか、個人情報を徹底的に保護することがいいこと だというふうにいくと、たぶん初めのニーズからはズレてくる」。ここでも、 解は一義には定まらない。

「設計」のイメージ転換

 「情報社会というのは、原理的に合意形成ができないような社会なのだ」 と考えて、あるいは「合意形成ができたとしても、小さな合意形成しかでき ない。小さな合意が乱立していくだけで、大きな合意は難しくなる、という のが情報社会の本質だ」とすると、どうなるか。

 吉田氏は、「正しいものがどこかにある、ということを前提にしない方が いい。常に試行錯誤を前提にして考えるべきだということである。例えば、 社会主義機構は崩壊したけれども、実はあれもタイム・スパンを短くとれば 失敗でしかないが、二百年、三百年のタイム・スパンをとってみれば、試行 錯誤の一つとして、非常に貴重な体験だったわけである。そういう意味で は、一発で常に正しい設計があるとは限らないので、ある状況で望ましい設 計が、別の状況になったらまったく望ましくない、ということはいくらで もある。状況によって、現在の分権構造にしろ、集権構造にしろ、少なくと も、既得権益の擁護が望ましくないというような状況があるとき、情報量が 多くなるから分権の方が望ましいということを認めた上で、なおかつ全般と して、イデオロギーとしてどちらがいいとは、一概に言えない」とし、「あ る段階でベストな、つまり最適なデザインが見つかったとしても、目的関数 が変わればガラっと変わる。目的関数が同じだとしても、制約条件が変われ ばガラっと変わる。そういうことで、常に再検討を余儀なくされるというの は、人間社会の設計機構の宿命であるという前提をおいて考えたい」と、人 間社会の設計に伴う問題を指摘する。

 國領氏は、「今われわれが扱おうとしているのは、特性の違うもの、ソフ トウエアを扱おうとしているのであって、かつ物理媒体とアンバンドルされ たソフトウエアがプラットフォームとして機能するという状況下で、どうい うやり方をすればよいのか、ということである。ただし、ソフトウエアだか らといって、誰でも作れるからネットワークの外部性がないというのは、 とんでもないことである。楽観してはいけないのだけれど、そこの違いとい うものを明確に理解しておかないと、過去の社会主義の設計主義の話と、今 われわれが考えている話との違いが認識できないのではないかと思う」とし た。

 東氏は、「設計という言葉のイメージで、ある種の世代間の知的背景の違 いが浮き彫りになった」と感想を述べたが、時間の制約もあり、各パネリス トのコメントで集約に入った。

 公文氏は、「集権的システムに帰るということは考えにくいのであるが、 一人ひとりの分権でやるにしても情報量が多いのだったら、もうコンピュー ターに任せてしまえ、検索エンジンに任せてしまえば、という設計の方に 行くのだろうか」と問いかけた。東氏は、「そうなると思う。むしろそこに 情報社会の新しい中央集権みたいなものがあるのだと思う。一人ひとりが ローカルな場所でも情報処理ができるようになった結果、アウトソースす るとか、個人情報にしても個々のサイトで判断できないからP3P( Platform for Privacy Preferences)のエージェントを使うとか、ニュースを集めるにも ニュースボットを使うということになるわけである」と応じた。

 國領氏は、「肝腎なのはアカウンタビリティーとか監査ということになっ てくると思う。占有すること自体は悪ではないが、占有を梃子にして変なこ とをするのが悪なのである」と今後の方向性を示唆した。

 吉田氏は、次のように述べた。「公文氏と私と、あとの3人との世代ギャッ プが顕わになったということは、ご指摘のとおりである。第一に、私の場 合、直接社会主義の計画経済ということではなく、それ以後の、ニュー・コ ンサバティズムの理論的根拠の一つとされたハイエクの自生的秩序、これは 今でも社会科学者の間でかなり支持者が多い。ハイエク流の自生的秩序も設 計の特殊タイプなのだということも含めて、人間社会がとにかく設計抜きに はありえないという特徴が、長い間気付かれていなかった。それがやっと顕 わになってきた、ということを言いたかった。一番身近なところでは、ハイ エクの自生的秩序論、あれだって一種の極めて分権的な設計の一つではない かということである。次に、情報社会というのは、基本的に操縦が可能な環 境のイメージをチェックすることによって、いわゆる権力的なコントロー ルではなくても、人々の意思決定を操作できる。イメージが正しいかどうか をチェックするような社会設計であると、その単純なケースは、NPOとか その他が仲介機能を果たすようなものが登場するように設計したいし、身近 なケースだと、監査会社が今までそれを全然やっていなかったわけである。 監査法人に対して相当厳しい、真面目にやれよ、という社会的チェックがか かってきたわけである。環境のイメージを操作することによって、その環境 を信じ込んで自律的に決定しているように見えて、実際は操作されていると いう状況を排除するために、環境の操作があるかどうかをチェックするよう な情報機構を整備するといったことを、設計の一部に含める必要があるので はないか。さらに、語彙があって、文法があって、文脈の共有があって、あ る種の規範で行動する、という四つの条件がプラットフォームの最小必要条 件だということであるが、これは実は情報機構の最小必要条件だと思う。例 えば、遺伝情報機構も、ATGCという記号があって、それの文法があって、 生体内生体外の環境条件、言わば文脈要因があって、物理化学法則によって 作動するというものである。國領氏は『一言で言語空間と言ってもいい』と 言ったが、そういう共通の言語空間があるということが設計行為の大前提に なっているわけである。その意味でプラットフォームというのは、情報機構 が成立するための最小必要条件であり、その上にさまざまな組織なりコミュ ニティーができていく。その次に意思決定機構をどうするかという問題が出 てくるわけである」

 鈴木氏は、「私は『参加する、参加しない』という二元論からいかに脱却 するかということを考えている。人間は他人の利益のために一番残酷になれ ると思う。自分の利益のためにやるよりも、他人のためにやる方が残酷にな れる、というのは歴史が証明している。参加したコミュニティーなり、共同 体の中で、部分最適を目指していくことが、外側に対する全体最適になると は限らない。ただ、部分最適を目指した組織は非常に強い。その強さという ものによって、生命というのは進化論的に生きているし、国家というものが 維持されているということである。ではどのようにして、『敵と味方を区別 する』『参加する、しない』という二元論から脱却するようなシステムが構 成可能なのか、ということについて議論しなければならないと思う。そのた めに、『参加している』と『参加していない』の間の中間的な領域をつくっ ていかなければならない。このような問題の解決策として、参加というもの の閾値を下げる。参加というものを楽しくする。ゲーム性を持たせる。参加 することが苦痛ではなく、参加しても満足する、というようなものが必要で あろうと考えている。ある程度技術的なものによって、閾値を下げるとか楽 しくしていくということをやりつつ、最終的には倫理的なメッセージを伝え 続けていくということである」と締めくくった。

協調のための設計

 東氏は、自身の情報社会に対するイメージというのは、「エンパワーメン トされている個人が政治とか社会にどんどん参加できる」というのとは、か なり反対のものなので、むしろ、「個人が社会から離脱することが非常に容 易になる、そういう技術をつくったのだと思う」と述べた。例えば、コンビ ニエンス・ストアというのは何のためにあるかというと、ちゃんと家庭を 持ったサラリーマンが生活を維持するというよりは、一人暮らしの人が、 「ずーっとゲームなんかしていて24時間食いたいときに食う」「昼でも夜で も関係ない」という生活をサポートするためのインフラなのである。「流通 がきめ細かくなった」「インターネットがさまざまなサービスを提供します」 「クレジット・カードですべての決済が可能である」というのは、すべて脱 社会的に、もう少し正確に言えば、「社会全体が非同期的になっていくので ある」として、「そのときに、人々の共同行為を摺り合わせるにはどうすれ ば良いのだろうか、となるわけである。そういう意味で合意形成というよ り、協調をどう作り出すのかということだと思う。情報社会というたいへん 合意形成をしににくくなった社会で、もう一度社会というものをどういう形 で、人々が社会を作り上げるようにどのように誘導していくのか。そういう システムを設計するために学問に何ができるのかということについて、多少 はイメージを持っていただけたかなと思う」と全体を概観した。

 全体として、世代によって異なる「設計」への先入観を持ちつつも、計画 経済のような設計でもなく、また自由放任の状態から生じる秩序を信頼する のでもない、新しい時代の設計が求められていることを感じさせられる議論 であった。情報社会の、放っておくとめいめいが自分の領域に閉じ込もって しまう特徴については、近年議論されるところであるが、そうした状態に陥 らないために、モチベーションなき人々を、いかにして参加へと促す社会が 設計できるか。新しい世代の発想に、今後も一層期待したい。 (編集部)