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個人生活の危機と社会的安全
- 鈴木謙介
- 国際大学GLOCOM研究員
不安感情の増大
子供たちが犠牲になる事件が相次いでいる。2004年の末に、奈良で幼女が誘拐され、殺害されるという事件が起き、2005年の末には、広島と栃木、そして京都で、同じく幼い子供が犠牲になる事件が起きた。栃木の事件を除いて容疑者はすぐに逮捕されたものの、私たちの生活に、「セキュリティー」を意識しなければならなくなる事態が頻発している。
こうした、子供たちが被害者に(ときには加害者にも)なるのではないかという大人たちの危惧に対応して、「子供を守れ」のかけ声とともに、様々なセキュリティー・ソリューションが提案されている。子供に無線ICタグを持たせ、学校や塾のゲートを通ると保護者に通知されるシステムや、防犯機能を内蔵した携帯電話など、最新技術を駆使したものがその中でも特に目立つ。
とはいえ、そもそも私たちはそれほどまでに危険な社会に生きているのだろうか。警察庁の発表によれば、犯罪の認知件数、特に凶悪犯は2003年以降減少傾向にあり、現在もその傾向が続いている。「振り込め詐欺」などの知能犯は増加しているものの、未成年者が被害者となる事件だけを見ても、殺人や強盗などの凶悪犯の被害者は、2004年上半期との比較で12~ 16%程度減少しているという(以上、警察庁発表資料『平成17年上半期の犯罪情勢』より)。
だが、犯罪の減少傾向にもかかわらず、治安に対する不安、いわゆる「体感治安」は悪化している。内閣府が2005年2月に行った「社会意識に関する世論調査」では、日本の「悪い方向に向かっている分野」として、47.9%が「治安」と回答しており、前回から10ポイント近く上昇した。また、博報堂生活総合研究所が毎年行っている調査でも、「日本の誇れること」として「治安」を挙げる割合は、1994年の81.1%から、2004年には47.6%にまで下落した(博報堂生活総合研究所『生活定点』より)。
また、個人の生活に対する危険は、何も犯罪に限らない。2005年は4月、12月と脱線事故が相次ぎ、アスベスト被害や耐震強度偽装問題が明るみに出るなど、生活を脅かす事故や事件が頻発した。これらの事件は、一見安全であるように思われる日常生活のそこかしこに、未来の危険に繋がる要素が潜んでいることを私たちに思い知らせた。「いつどこで危険な事態に遭遇するとも限らない」という感覚が、大きな不安として私たちの日常を覆い始めている。
不確実な未来
日常生活への不安が私たちの生活にもたらす影響とはどのようなものか。そのことについて考える前に、私たちが未来に対して抱く不安の中身について考えてみよう。松原隆一郎は、F・ナイトの議論を援用しつつ、「リスク」と「不確実性」の差違について述べている(『分断される経済』NHK出版)。彼によれば、私たちが未来に生じうる出来事について予測するときには、その出来事が生じる確率があらかじめ分かっている「リスク」と、どのくらいの確率で出来事が生起するか分からない「不確実性」とが存在しているのだという。松原が日本経済の「失われた10年」を振り返って分析するのは、新古典派経済学の前提、すなわち「人は与えられた情報の中で合理的に振る舞うはずだ」という想定が実際は無根拠なものであり、不確実な未来に備えるためには、「人は合理的な想定以上に消費を手控える」ということだ。
同じことが、生活のあらゆる場面に当てはまる。年金を払うかどうか、アメリカ産の牛肉を食べるかどうかという問題に対して、私たちは未来の不確実性を前提にする限り、どれだけ「安全性」を強調されても、不安をぬぐうことができない。それゆえ、数値上の安全性を強調することだけでなく、人々の不安の源泉となる未来への不確実性を減少させることが、社会政策上必要となる。要するに、実質的な安全よりも、心理的な安心を回復させなければ、人は不確実な未来に踏み出そうとはしないのである。
では、その安心を回復するためにはどうすればいいのか。重要なのは、そもそも「リスク」という考え方自体が、未来の不確実性を減少させるために生まれた発想だということだ。例えば、海外から通信販売で商品を送ってもらう場合を考えてみよう。荷物がきちんと届くかどうか分からない不確実な状態では、なかなか通信販売を利用する気にはならないが、郵便事故が起こる確率があらかじめ分かっていれば、その高低に応じて対処することができるようになる。低いのならば海外郵便を利用できるし、高いのならば他の代替手段を用いればいいのだ。
しかしながら、そうしたリスク計算にも関わらず、人が行動を手控える場合がある。それが、たとえ確率が低くても、一度起こってしまったら取り返しのつかないような事態だ。事故などの、生命に関わるような事態がそれに当たる。例えば、2004年のデータでは、交通事故で死亡した人の数は7,358人、殺人事件で死亡した人の数は699人であるという(警察庁調べ)。だが、殺人よりも交通事故で死ぬ確率の方が10倍高い、と言われても、多くの人は納得しないはずだ。たいていの場合、人はその確率の高低ではなく、自分(あるいは自分に近しいもの)が、その確率の内側にいるのかどうかを気にするからだ。
実際の犯罪の発生率ではなく、犯罪に対する不安の方がフォーカスされてしまう理由は、まさにこの点にある。たとえ確率としては一パーセントであろうと、個人の側から見れば凶悪犯罪は「絶対に起こってはならない」出来事なのである。
信頼に基づく協力を
そのことがもたらすのは、社会の「安全」を確保するための方策と、人々の「不安」を解消するための方策とが、それぞれ別個の論理で動きうるような事態である。さらに踏み込んで言うならば、たとえ社会的な安全が確保されず、あるいはますます危険を生むような方策であっても、ある人々にとって「不安」が解消されればよい、というような考えが生じてくる可能性すらあるのだ。
というのも、不安をあくまで心理的な要素だと考える限り、それは様々な帰属処理によって解消されるものだからだ。例えば、「これは天災ではなく人災だ」という物言いがある。重大な事故が生じた場合に、それを偶然の出来事ではなく、人為的ミスによって引き起こされた、あるいは被害の拡大したものである、と見なす発想である。そして、こうした「人為的ミス」が事故の主たる原因だ、とする言説の後には決まって「事前にこうした事故が予見できなかったのか」「対策は十分だったのか」という非難が続くことになる。
むろん、そうした批判が正当性を持つような場面は、確実に存在する。出来事の因果的な帰属と、責任の帰属を弁別して考えるのも、近代社会では通常の振る舞いだ
こうしたパラノイア的に責任の帰属先が要求される社会では、そもそも「責任を取る」という行為そのものが宙づりにされてしまう。結果として生じるのは、たとえ一パーセントであろうとも、一度重大事故が起こってしまったら、責任者としてひたすら謝罪するか、他者に責任を転嫁して開き直るかという選択肢のみが生じ、その「安心」を巡るポリティクスの背後で、「安全」そのものは置き去りにされてしまうという事態なのである。
必要なのは、個人的な「安心」と社会的な「安全」を峻別し、それぞれに異なった対策が講じられることである。少なくとも安全に関する限り、この近代社会は、危険な出来事を個人にとっての絶対的な視点(私の身に降りかかったらどうしよう!)ではなく、社会の中に一定確率で生起するものだとみなし、それゆえに社会全体でそのリスクをシェアするという発想で営まれてきた。安全が安心と混同され、個人的な出来事として処理される限り、そのリスクは、他者とシェアするためにではなく、より高リスクな集団と自らとを分かつために算定されるものにならざるをえない。
社会の水準で安全を確保しつつ、一定確率で不幸な出来事が生じるにもかかわらず安心して生活するためには、地域や仲間といった信頼のネットワークの再構築──何かあったときはお互い様──が欠かせない。不安に基づいた治安維持、責任者捜しによる相互不信のネットワークばかりが広がりつつあるが、それは根本的な解決にはならないことを理解しなければならない時期が、遅かれ早かれ来るであろう。