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カーニヴァル化する社会

  • 鈴木謙介
  • GLOCOM研究員/首都大学東京非常勤講師

 7月1日、鈴木謙介GLOCOM研究員を講師に、IECP読書会が開催された。

http://www.glocom.ac.jp/img/chijo/carnivalsociety.jpg

 テーマ書籍『カーニヴァル化する社会』は、「2ちゃんねる」の突発オフに代表される「祭り」現象の多発を、若者の自我構造から読み解こうとする社会論である。

 読書会では、鈴木氏が本書を執筆された動機、カーニヴァル化とは何か、ネタ消費の実像などについてお話をうかがった。なお本書は、東浩紀GLOCOM主幹研究員が主宰したメールマガジン『波状言論』に連載されたコラム「カーニヴァル・モダニティ・ライフ」を、書籍化に当たり大幅に加筆・修正されたものだということであった。

突発的な祝祭の頻発

 本書でいう「祭り」とは、歴史や伝統に裏付けされ、共同体によって管理された祭りではない。「21世紀に入って以降の我が国で、そしておそらく欧米では20世紀の終わり頃から顕在化し始めた、日常生活の中に突如として訪れる、歴史も本質的な理由も欠いた、ある種、度を過ぎた祝祭」(本書、p. 8)である。具体例として鈴木氏は、2002年ワールドカップや03年阪神タイガース優勝の際のバカ騒ぎ、01~02年にかけて多発した突発オフ、仮装して鳴り物入りで行進する反戦デモなどを挙げた*1。これらの特徴として、日常の町中で突然、お祭り騒ぎが始まること、お祭り騒ぎ自体が目的で他に明確な意味を持たないことなどが挙げられる。

 こういった祭りに対する評価は、両極端に分かれる。真面目さを欠いた無規制な集合行動であって放置しておくと危険だというネガティブな見方と、電子ネットワークによって可能になった新たな協力関係が政治的な力を持ち始めているとするポジティブな見方*2である。他方で、キレやすい若者や少年による凶悪犯罪の多発、引きこもりやニートが社会問題となったこともあって、若者達の奇妙な逸脱行動は、食生活やTVゲーム、携帯電話等々と関連付けて語られることも多い。

 これは一体何なのか。なぜ今になって多発するようになったのか。祭りのメカニズムを明らかにすることで、より本質的なものが見えてくるのではないか。これが、本書執筆の動機の一つだということであった。

祭りをひき起こす躁鬱状態

 祭りをひき起こす要因として、鈴木氏は、若者の自我構造を挙げる。彼らは、ハイ・テンションな自己啓発と落ち込みを繰り返す躁鬱状態に追い込まれているのだという。彼らを追い込んでいるのは、頑張ればどうにかなるはずだという価値観であったり、流動的な雇用形態であったり、適職という幻想であったり、先行きの不透明な社会であったり、将来に対する漠然とした不安だったりする。すなわち、さまざまな社会的条件が組み合わさった結果、気持ちが盛り下がったり上がったりの繰り返しの中に置かれているのだという。

 例えば、就職活動を始めた段階で、彼らは適職探しを強いられる。本来、適職とは、経験や実績、人間関係の積み重ねの上に語られるもので、自分の内部に蓄積されたものを通して見いだされるはずのものである。ほとんど就労経験のない学生に、どういう仕事が向いているのかと聞いても分かるはずがない。そこを無理にでも、「これが自分のやりたい仕事です」と自らを盛り上げなければ、就職試験には臨めない。しかし、もともと無理があるのでハイ・テンションな状態は長続きしない。長続きしないが故に落ち込み、落ち込むが故にハイ・テンションが要求されるという循環に陥るのだという。

躁と鬱のループを支えるデータベース

 さらに鈴木氏は、この循環を支える背後には自分に関する情報のデータベースが存在すると指摘する。ネットで買い物すれば購入履歴が、GPS付きのケータイを持って行動すれば移動の日時や経路が、電子的な記録となって蓄積されていく。鈴木氏はこれを「自己監視」と呼ぶ。つまり他の誰かが私を監視しているのではなく、私の買い物や行動の履歴、興味や持ち物の状況などがデータベースに蓄積され、それを自分でいつでも参照できるということである。

 鈴木氏によると、ハイ・テンションな自己啓発が要求されたとき、自分がとりあえず何を目標にするのかといったものを、このデータベースが供給するのだという。例えば、ネット書店のamazonでは、過去の購入履歴から「あなたへのおすすめ商品」を推定して表示してくれる。自分の興味や嗜好をデータベースが判断してくれるのである。同様に、自分のやりたい仕事は、適職診断プログラムが判定してくれるかもしれない。これが躁と鬱のループを、さらに空回りさせる要因になっているという。

記号消費からネタ消費へ

 では、このようにして形成された若者の自我は、社会をどう動かしていくのか。政治的なパワーを持ちうるかどうかはともかく、消費動向やライフスタイルに何らかの変化をひき起こしていることは確かである。それを鈴木氏は、「ネタ消費」という言葉で表現する。

 これは、「生産中心(必要が商品を生む)」の消費社会から「記号消費(差異が必要を生む)」へ、さらに「ネタ消費」へという図式で表される。20世紀前半には必要なモノを買うということであったものが、20世紀後半になって必要なモノが充足されてしまうと、クオリティーの高いモノ、いま流行りのモノ、他人とは違うモノ、自分の好みに合ったモノといった差異が商品となって消費されるようになる。

 ところが、自分のデータベースに依存することで形成された自我は、他人との差異に興味を示さない(もちろん程度の違いはあるだろうが)。これが流行っているから、みんなが欲しがっているから、といったストーリーが通用しなくなる。そこで、新しく消費の動機付けとなるのが、「今の瞬間を楽しむことができるかどうか」、「話のネタにできるかどうか」である。ここでは消費が、価値や記号を消費するというより、刹那的な暇つぶしに近いものになっているというのである。鈴木氏は具体例として、口コミで広がる奇妙なファッションや、社会との接点を欠いたマイ・ブームの隆盛などを挙げた。

彼らの祭りをどう捉えるか

 講演の後の質疑応答では、次のような質問や意見が出された。

  • 個人の躁状態が、集団的な祭りになるには何らかの仕掛けが介在する必要があると思う。直接結び付けるには無理を感じる。
  • カーニヴァル化を団塊ジュニア世代に特異な現象と見ることもできるのではないか。そうであれば一過性の現象だろうか。
  • 若者のお祭り騒ぎは昔からあり、今に始まったことではないのではないか。
  • 前半の不安から逃避するためのカーニヴァルと、後半のコンサマトリーのための消費行動は意味が違うように読める。うまくつながってこない。
  • 『スラムダンク』ファイナルイベントの成功に、祭りとネタ消費との相関が見られるのではないかと思う。
  • マーケティングが読めない。何が当たるか見当が付かないので、悲観的にならざるをえない。

 おそらく参加者は、四十、五十歳代の方が多かったのではないだろうか。捉えどころがない若者の思考や行動傾向について何かヒントを得ようと、非常に熱心に質問をされていたが、今一つ腑に落ちないという、もどかしさのようなものも感じられた。その中で「分からないといって突き放すのではなく、どうにかして言葉でコミュニケーションができるようにもっていくべきではないか。我々はいずれ彼らに依存して生きていかねばならないのだから」という参加者の言葉が印象的であった。

2005年7月1日開催(編集部)