GLOCOM 「地球智場の時代へ-情報社会学シリーズ- 」(情報通信ジャーナル連載)

Center for Global Communications,International University of Japan

国際大学GLOCOMの研究員が『情報通信ジャーナル』誌で行ったリレー連載 「地球智場の時代へ-情報社会学シリーズ- 」の各論文を、電気通信振興会様のご好意により1月遅れで転載・公開するものです。

地球智場の時代へ

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第2回 : 監視社会論 - 再考(1)

青柳教授近影

 国際大学グローコム-情報社会学シリーズ"地球智場の時代へ"の連載第2回は、青柳武彦教授による「監視社会論-再考」を3回にわたってお届けす る。高度な情報通信技術に依存する現代社会は、社会の統治や管理のシステムを必然的に「監視型」へと向かわせるが、そこには、たとえば個人のプライバシー 確保という厄介な問題も絡んでいく。便利さと危うさをあわせ持つネット社会の諸刃の剣…。我々は「監視社会」にどう向き合い、その健全なあり方に対して、 どのような "合意形成"を図っていくべきなのか。青柳教授に存分にペンを揮っていただいた。

国際大学グローコム教授 青柳 武彦

はじめに

「監視社会」という概念は、監視カメラ、住基ネット、個人情報保護法等に関する議論の中で頻繁に出てくるが、ほとんどの場合、アプリオリに「拒否すべきも の」として扱われている。本稿では、監視社会というのは本当は何なのか、良い面はまったくないのか、悪い面を抑えて全体を前向きに活用することはできない のかなどについて、これから3回にわたって考えてみたい。第1回は「監視社会論の系譜」、第2回は「プライバシーと監視社会」、第3回は「共の原理を支え る監視」とする。まず、これまでのおもな監視社会論を概観することから始めよう。

第1章 監視社会論の系譜

ジョージ・オーウェルの『1984』

 監視社会を批判する者が、よく持ち出す話しにジョージ・オーウェルが描く小説『1984』(1949)がある。これは高度な科学や技術が人間の幸 福に使われずに、管理と支配の道具となってしまった世界を描いた寓話である。そこではビッグブラザーという名の支配者が"テレスクリーン"というテレビ状 のスクリーンを通して市民を監視する。主人公のウインストン・スミスは、やがて当局に逮捕されて拷問を受け、最終的にはビッグブラザーに従うように馴らさ れてしまうのである。

 オーウェルは、全体主義国家の社会システムを支えた監視と管理の世界に注目した。彼が描いたのは、党によって終始監視されている市民の姿、そのよ うな「見えない観察者」の手先として自分を密告するかもしれない隣人への恐れと怒り、さらには、そのような密告者に成り下がるかもしれない自分自身に対す る懐疑と絶望であった。

 オーウェルの時代の全体主義的な国家における監視の主体者は常に権力者であって、監視の結果は権力維持のためにのみ使われた。これに対して現代の 自由主義社会における監視は、相互の安全、協調、協調統治、および管理のための市民による相互監視の場合の方がむしろ多いのである。そのような「監視」 は、オーウェルの描く世界の「監視」とはまったく異質のものであるから、「監視」を論ずるに当たって、オーウェルの論議を現代社会に当てはめて一般化しよ うとするのは、じつは見当違いなのである。

ベンサムの『パノプティコン』

 18世紀までの欧州においては、刑罰の考え方は専ら"応報刑主義"であった。しかし応報刑では犯罪者の心の領域にまでは立ち入ることができないの で、これを見直して、より前向きな予防的・教育的な刑罰を実現する方法論を確立することが社会的に求められていた。

 19世紀になると、英国の哲学者ジェレミー・ベンサムが"教育刑実現"のための方法論として、パノプティコン(一望監視型監獄装置)を考え出し た。それは、中央の監視塔の周囲に円環状に独房を配置した構造で、中央の塔から差し込む光によって、看守から囚人は見えるが、囚人の方からは、光が邪魔に なって看守を見ることができない仕組みであった。

 囚人からは監視人が見えないから、監視人がいてもいなくても、囚人は視線を意識して常に緊張するようになる。そして無意識のうちに監視人が期待す るように、自らを律するべく努めるようになる。ベンサムは、それが長い間習慣化すると、無意識のうちにそれが自発的な更正につながると考えたのである。

 現在"パノプティコン"という言葉は「常時監視によって、個人の尊厳を傷つけて人間性を否定する忌むべきシステム」という意味を込めて使われる場 合が多いが、決して管理の便宜を図ろうとした非人間的な監視装置ではない。ベンサムの真意は、囚人の更正に向けての自発的な努力を監視によって支援しよう という、きわめて前向きで積極的なものだった。それにもかかわらず、現在でもこの言葉が否定的に使われる場合が多いのは、人間が他者の視線によって人工的 に再構成されるという点についての"嫌悪感"が背景となっているものと思われる。しかし、それが正当なものかについては、その後種々の考察が行われた。

アービング・ゴフマン『日常生活の自己呈示』

 アービング・ゴフマンは、特に監視やプライバシーに特定した研究を行ったわけではないが、その著書『日常生活の自己呈示』(1959)の中で、劇 場における演技、役割、観衆、舞台裏という比喩を用いた演出的分析(ドラマトゥルギー)を用いて人間の社会的な行動の分析を行った。そして、人間が互いに 見たり見られたりするのは「当然の社会的事象である」として、監視の本質を考える上での貴重な理論を提供した。

 ゴフマンは、人間の社会行動を分析するためには、その内的な動機やパーソナリティだけでなく、人々が相互の接触の中でお互いに作り上げる表面的な 外見をも分析しなければならない、という。ゴフマンは、自己の構造は「役柄としての自己」と「パフォーマーとしての自己」から構成されているという。前者 は、自己が社会において適切な存在であるということを周囲に認めてもらうことを目的として、その場にふさわしい自己像を用意する自己のことである。後者 は、そのような役柄を役者が劇場において演じるように他者に向けて呈示する自己を意味する。

 パノプティコンにおける囚人は、看守のまなざしを受けて期待される「役柄としての自己」像を用意し、その自己像を看守に向けて呈示する「パフォー マーとしての自己」を演じる。そしてそのような相互作用こそが内面から人間を創りあげてゆくのである。

ミシエル・フーコーの『監獄の誕生』

 ミシエル・フーコーは、『監獄の誕生』(1975)のなかで、パノプティコンは、囚人をして塔の監視者の視線を常に意識せしめること(内面化)に よって、囚人が命令されなくとも自発的に外部の規範に合致する行動(主体化)をとるようにさせてしまう装置だと分析した。

 さらにフーコーは、この装置は、権力を自動的なものにし「没・個人化する」と述べ、この装置が現代の社会の基本的なモデルとなっているとも指摘し ている。つまり、被支配者の身体の表面に注がれる支配者のまなざしが、被支配者の精神と身体を拘束し、それによって社会全体が改善されるというものであ る。パノプティコンの社会的な意義を普遍化したものである。

 フーコーは、パノプティコン的な装置はすでに日常的になっているという。たとえば、労働者を独居空間に閉じ込めた近代の工場や、子供たちを学習机 や教室という独居空間に閉じ込めた学校においても、監督者や教師が監視を行っている。このような空間は基本的に汎用的なパノプティコン装置であるという。

 パノプティコン装置においては、「矯正」や「懲罰」、「褒賞」などを通じて、人の内面への介入が可能となり、個々の身体的知的能力の比較・序列化 も可能となるとフーコーは考えた。そして、これを敷衍して、近代社会における学校・監獄・病院・軍隊・工場などは「権力テクノロジーを実行する場に他なら ない」と指摘し、そのような権力テクノロジーを、彼は「規律・訓練」装置と呼んだ。個人は主体的であるという自己意識を持っているにもかかわらず、じつは 「監視する者に対して自発的な服従の構えをとっているに過ぎない」というのだ。

バンス・パッカード『裸の社会』

 パッカードは、監視や盗聴によるプライバシーの侵害に対して、きわめて厳しい"批判と懸念"を持って『裸の社会』(1964)を書いた。プライバ シー侵害の実例とその手口が「これでもか、これでもか」とばかりに紹介されている。後世のニクソン大統領による"ウォーターゲート盗聴事件"に対する米国 民の厳しい批判も、こうしたプライバシー侵害に対する危機感と批判が背景となっているのだ。

 彼は、プライバシーを陥れる5つの力として、次の諸点を挙げている。(A)集団生活の普遍化や巨大組織の台頭、(B)政府の圧力、(C)あり余る ことの危 機、(D)民間調査業の出現、及び(E)電子の目と耳と記憶力、である。(E)においては「技術の発達した今日では、暗闇の中を見通すカメラが出現し、記 憶能力を備え た巨大な機械が、市民一人ひとりの生涯に起こった失敗、トラブル、当人に不利な行為など、どんな些細な事件でも数秒間で思い出してくれる」と指摘してい る。

 パッカードは、こうした個人のプライバシーを破壊しようとする"強い力"が野放しになっていることを指摘し、それは徐々に全体主義の下地を形成し つつあると懸念する。結局パッカードは、監視の「抑圧と管理」というマイナス部分を強調するあまり、監視にも「保護と配慮」というプラスの部分があるとい う点には思い至っていない。

ギャリー・マルクスの監視社会論

 監視社会を最初に学問的に論じたのはギャリー・マルクスといわれている。彼はその著書『監視社会』(1985)において「個人の履歴、身元、住 所、取引記録、身体的特徴、購入の習慣、その他の行動の記録など、それら一つひとつは、小さな情報に過ぎないが、それらを大規模に収集、つなぎ合わせて、 発達したコンピュータ技術を利用すると、それらデータ利用の可能性が飛躍的に向上する」と述べている。

 かくして、データベイランスという新しい手法が生まれた。コンピュータは監視をルーティン化し、拡大し、そして徹底化した。それは究極的には、全 面的な統制を実現するためのものとなる。マルクスは「こうしてわれわれは『透明な社会』に入りつつあるのだ」と分析した。

ウイリアム・ボガード『監視ゲーム』

 ウイリアム・ボガードは、その『監視ゲーム』(1996)において、"観察者"と"被観察者"とが分離した関係は、現代の情報化社会においては、 すでに崩れ去っていると指摘した。特にデジタル技術とインターネットの世界においては、観察者も他者から観察され、被観察者も他者を観察するようになって いる。つまり情報化社会においては「誰もが有名かつ無名な」社会なのだという。

 ボガードは、そもそもプライバシーというのは「観察者と被観察者の分離が前提になった概念」であるという。被観察者は、パノプティコンにおいてさ えも観察者から見られたくない部分を持つことになるが、これがすなわち"プライバシー"であるという。

ディビッド・ライアンの『監視社会』

 カナダ・クイーンズ大学社会学のディビッド・ライアン教授は、その著書『監視社会』(2001)において、統治や管理のプロセスに情報通信テクノ ロジーに依存するすべての社会は「監視社会だといえる」と述べて、監視社会は高度情報化社会の必然的な帰結であることを指摘した。彼によれば「人類は常に 互いを見張りあってきたし、それによって危険を回避すると同時に、不安を誘発してきた。だが近代以前では、その規模は概して小さく、警戒も体系化されてい なかった」のである。

 そして監視には、肯定的すなわち生産的な側面と、否定的すなわち抑圧・管理的な側面の2つの顔があるという。ただし現実には、ほとんどの場合、 「監視体制による束縛」や、ましてや「管理を感じている人」も滅多にいないのであって、結局彼は、監視システムへの順応というのは「社会という一種のオー ケストラ」への参加として理解できると述べ、そして、何らかの理由で周辺に押しやられたり、あるいは外側に排除されたりしていない限り、社会への参加と は、一般に「自分たちの日常生活を追跡・モニターする"メカニズム"に能動的に関与することなのである」と指摘している。

 ライアンの主張によると、面と面を突き合わせての"物理的接触"は、いまや電子メール、電話、テレビなどの"抽象的接触"によって代わりつつあ り、その過程で"生身の身体"は消滅してしまう。そして、消えゆく身体を補填していくために種々の技術が出現するという。そうすると今度は技術によって代 替されたものが「本物か偽者か」を識別するために監視が必要になってくる。

 そのために、生体認証(指紋、網膜、虹彩、声紋、容貌などのバイオメトリクス)やDNA情報などが活用されるようになった。それは生身の全体とし ての個人ではなく、その断片化された個人が注視されるようになったことを意味する。

 彼はこうした「消失する身体の世界」にあっては、抽象的データが特権化されて前面に押し出されるにしても、その順番を逆転させること、生身の個人 の対面的な関係を展望に収めた観点から、コミュニケーションを評価することこそが大切だという。つまり個人を"再・身体化"することが積極的な前進の道な のだと、ライアンは主張するのである。そして、それによって、社会的なものが「技術的なもの」を形成する方向に向かうはずだと述べ、決して、その逆ではな い、ことを強調する。

ラインゴールド『スマートモブズ』説

 本書の主要テーマは、急速に発展しつつある情報通信技術は、監視やプライバシーの問題を伴いながらも、これまでの「競争の原理」に代替する「協力 と協調の原理」を着実に推進しつつあるということである。現実にいま、人々の間では、ケータイやインターネット上でテキストをやり取りし、何か一つものを 作り上げようと協力する活動が目立ってきている。ハワード・ラインゴールドによれば、この協調活動の主体こそが、スマートモブズ(賢い群衆)であるとい う。

 しかし、もしこれからの社会生活における価値体系が大きく変化して、競争から協力・協調へと移ってゆくとするならば、競争のメリットが消失しない までも弱体化し、同時に協力・協調のデメリットが浮上してくることになる。そこで、協力・協調のデメリットを防ぐ工夫のひとつとして監視の役割が浮上して くるのである。

公文俊平の『情報社会学序説』

 公文俊平は、近著『情報社会学序説』の中で、モバイルでユビキタスなコンピュータ群が持つセンサー機能が「可視社会化」する傾向にあるとし、それ は時に「監視社会」化と呼ばれることがあると指摘している。だが、同時にライアンがいうように、監視には常に「二つの顔」、すなわち他人への配慮の顔と管 理の顔とがあることを忘れてはならないとも述べている。

 公文は、監視には常に、ほとんどの人々が喜んで受け入れるような、それなりの正当化が伴うと指摘している。実際、監視の利点には、その主目的に関 する限り、現実的かつ明白で否認し難いものがある。最も洗練されたプライバシー侵害は、秘密警察ではなく、"商人"によって行なわれる場合がますます増え ている。

 たとえば、最近の日本での「住基ネット」導入をめぐる騒動や、米国における無線IDタグの導入をめぐる混乱などについて、公文は、それは9.11 テロの後、「社会的な安全」を理由にして、些か性急かつ強引に進められてきた上からの制約的な監視の"行き過ぎ"に対する揺り戻しが、個人のプライバシー 問題のこれまた"行き過ぎた強調"という形で始まっているように見える、と述べている。

 公文は、まず考えなければならないことは「町の平和」というのは元来、警察の手によって守られるべきものではなく、元来、人びとが自分たちの間で 自発的にコントロールし、標準化した、複雑でほとんど意識されない細かい仕組みによって維持されるべきであり、さらに"彼らの手"で強化されるべきである と主張する。

 つまり、配慮と管理の両面をあわせ持つ人々の自発的な相互監視(とそれに基づいた相互制裁)は、専制的政府のための「相互密告の手段」ともなりう る面は持っているにしても、もともと人々の間の自発的な「協力の技術」の不可欠な構成要素なのである。このような協力のシステムは、人類の歴史とともに" 古いシステム"なのである。

 可視社会化が可能にしつつある相互監視技術の発達は、それがうまく利用されるならば、協力と協調の原理の弱点を、これまで以上によくカバーする可 能性を与えてくれるだろう。

 公文は言う。われわれは、二つの顔を持つ相互監視のシステムが悪用・濫用される可能性は常にあるにしても、それが本来は「協力と相互奉仕のシステ ム」の一部として発達してきたことを念頭に置きながら、改めてその重要性と有用性について社会的に合意するとともに、その活用を真剣に試みるべきではない だろうか。

 だがその場合でも、たとえば、企業や病院、教育機関などによる個人情報の収集と利用、とりわけその濫用と悪用には「一定の歯止めをかける」必要が ありそうだ。

 私(および公文)は、そのための仕組みの一つとして、協力と協調の原理に立脚したグループ、それもこの場合には単なる群がり(スウォーム)ではな くて、意思決定と行為の明確な中心を持つNPOのようなグループを、仲介者として利用することを提唱したい。

 公文は言う。プライバシーを侵害されやすいという意味で「相対的に弱い個人」を、情報の透過を制限するようなグループの"膜"で護ることによっ て、個人がプライバシーの心配をしないでも社会関係を結びやすい"媒介現実"のようなものを、ハードやソフトも含めたグループというシステムで作り出そう とする試みの一例である。 (次号につづく)

プロフィール

〈あおやぎ・たけひこ〉1934年生まれ。58年東京大学経済学部卒、伊藤忠商事入社。85年から95年まで、NTTと伊藤忠の折半出資の合弁会 社、日本テレマティーク株式会社社長。その後、国際大学グローバルコミュニケーションセンター(グローコム)に招かれ、95年から2000年まで副所長を 務めた。おもな著書に『ビデオテックス戦略』『電子出版』『ネットワーク戦略』『グローバル企業の情報戦略(共著)』『電子公証システムと法律制度』 『2005年日本浮上(共著)』などがある。また論文も「ビジネス方法特許」「電子商取引の法環境」「情報化時代の個人情報保護とプライバシー保護」「プ ライバシーの法環境」など、こちらも多数ある。