GLOCOM 「地球智場の時代へ-情報社会学シリーズ- 」(情報通信ジャーナル連載)

Center for Global Communications,International University of Japan

国際大学GLOCOMの研究員が『情報通信ジャーナル』誌で行ったリレー連載 「地球智場の時代へ-情報社会学シリーズ- 」の各論文を、電気通信振興会様のご好意により1月遅れで転載・公開するものです。

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~情報社会学シリーズ~ »

第9回 : ポストモダン 情報社会の二層構造

国際大学グローコム 教授・主幹研究員 東 浩紀

 ご好評いただいている本連載も第9回目。今回は東浩紀教授・主幹研究員に、情報社会を「ポストモダン」という観点から分析していただいた。東教授 によると、ポストモダンの現代は、近代国家を特徴づけていた「全体性」への信頼が失われた社会である。その結果、多くの日本人が惰性的に"日本"というイ ンフラに寄りかかりつつも、全体性を意識せずに生活し、アイデンティティの拠りどころは「別に求める」という事態にある。また、情報社会の中で次第に強ま る「環境管理型権力」とは? 情報社会化、ポストモダン化は私たちを自由にするのか、不自由にするのか? 東教授が大胆かつユニークな視点で迫る!

ポストモダンとは何か

 筆者は、情報社会を「ポストモダン」という観点から研究している。

 ポストモダンとは何か。ポストモダニティ、後期近代、再帰的近代といった問題意識が相次いで出てきたのは、1970年代の日米欧においてである。 そこで焦点化されたイシューはさまざまだが、たいていの論者は、現代社会が、近代の国民国家を特徴づけていた「全体性」を失いつつあるという点で一致して いる。ポストモダン社会とは、全体性が失われた社会--より正確には、「全体性がある」との信憑が社会の構成員に共有されなくなった社会である。フランス の哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールは、それを「大きな物語」が失われたと呼んだ。

 それでは、この社会はどのような構造を取るか。ここで重要なのは、「全体性がなくなった」ことと「全体性があると信じられなくなった」ことをはっ きりと区別しておくことである。ポストモダニティという言葉は、前者ではなく、後者の認識を指している。ポストモダンになったからといって、全体性そのも のが失われるわけではない。

 この点は強調しておきたい。ポストモダン論への典型的な批判として、ポストモダンと言っても、国家は残るし政策だって機能しているではないか、だ とすればポストモダンの認識は表層的なファッションにすぎないのではないか、といったものがある。しかしこの批判は間違っている。

 現代社会の研究でポストモダニティの観点が必要なのは、国家の消滅を高らかに謡いあげるためではなく、国家への信頼の凋落を冷静に見つめなければ ならないからである。確かにいまでも国家は存在するし、その全体性は地理的・制度的実体によって支えられている。そのことを疑う人はいない。しかし、たと えば日本では年金問題や治安の悪化やニートの増加に現れているように、その全体性への信頼は大きく切り崩されている。そのこともまた疑う人はいないだろ う。

 結果としていま起こっているのは、多くの日本人が、惰性的に日本というインフラに寄りかかりつつも、その全体性を意識せずにだらだらと--宮台真 司風に言えば「まったりと」--生活し、アイデンティティの拠りどころは別に求めるという事態である。おそらく、この傾向は今後も加速し続けるだろう。そ れこそが筆者が「ポストモダン」と呼ぶ状況である。21世紀はポストモダンの時代だ。

二層構造

 ポストモダンにおいても国民国家が消滅するわけではない。しかし、その役割は大きく変わる。21世紀の国民国家は、19世紀にヘーゲルが描き出し たような、全体性を体現する存在ではなくなる。インフラとしての国家は機能し続けるが、その機能は、かつてなく無意識化され不可視化されるようになる。そ して、人々の社会生活は、脱国家的な多様なコミュニティに多重帰属しつつ行われるようになる。

 インフラと価値観の解離。これがポストモダン化の1つの帰結である。アメリカの哲学者、リチャード・ローティは、公的なものと私的なもののこの解 離を「アイロニー」と呼んだ。

 この特徴を図にしてみよう。図1は、ポストモダンの社会秩序が、価値中立的なインフラ/アーキテクチャの層と、価値志向的なコミュニティ/イデオ ロギーの層に大きく分けられることを示したものである。近代社会は、インフラと価値観の統合を理想とした。たとえば、日本国家に属する人間は、日本人とし ての文化や規範意識を身につけるべきものだとされてきた。それに対して、ポストモダン社会は、誰もが利用可能な必要最低限の共通サービスの上に、市民それ ぞれが自分の好みで選べる多様なコミュニティ・サービスが乗る、という二層構造を理想としている。日本人だからといって、特定のライフスタイルを強制され ることはない。

図1:ポストモダンの二層構造/東浩紀[ 拡大した図を表示 ]

 ここで「理想」という言葉を使ったことに注意されたい。近代社会もポストモダン社会も多様である。現実はそう簡単には類型化できない。しかし、 19世紀においても、21世紀においても、「あるべき社会の姿」は漠然と共有されている。筆者が言いたいのは、その姿が20世紀半ばに大きく変容したとい うことである。私たちはいま、多文化主義的な社会の理想にあまりに慣れている。しかし、つい半世紀ほど前までは、多くの社会では、性的志向や文化的感性の 多様性はそれほど許容されていなかった。その変化の意味を捉えるためには、時代分析の視線が不可欠である。

 二層構造は、ポストモダン社会の構造というだけではなく、その理想の構造、言い換えれば、ポストモダン社会のもつ自己イメージの雛形でもある。し たがって、この構造は随所で幾度も現れる。インフラの層とコミュニティの層の分割は、グローバルな市場とその上に乗っかる国民国家としても、多文化主義国 家とその上に乗っかる人種・地域共同体としても、あるいは、インターネットとその上に乗っかる多様な消費者コミュニティとしても読み解ける。グローバルな 「帝国」であれ国民国家であれ、現実社会であれサイバースペースであれ、現代社会である領域を「社会」として認知したときに、そこには必ずこの2つの層が 現れる。このような遍在性が見られるのは、いささかアクロバティックな表現になるが、私たちが、ポストモダンに生きてポストモダン社会を分析するという自 己言及的な円環のなかにいるからである。つまり、ポストモダンとは、そのなかの市民が自分たちの社会をつねに二層構造で把握していくような、そういう文化 的特徴をもった社会なのだ。

 ちなみに、ここで「乖離」ではなく「解離」という漢字表現が用いられているのは、この二層構造が、精神医学で言う「dissociation」と 深い関係にあることを示唆するためである。近代社会の市民が、自分のアイデンティティ(自我)と所属組織のアイデンティティ(超自我)を統合しようと不断 の努力を繰り返す「抑圧的」な人格モデル(フロイトのモデル)を採用したとすれば、ポストモダン社会の市民は、複数のアイデンティティを使い分け、自分と 組織を簡単に切り離す「解離的」な傾向を強くもっている。解離性人格障害(多重人格)の症例が急増したのも、やはり1970年代以降である。

規律訓練と環境管理

 この図はまた、ポストモダンの社会が、2つのタイプの権力を使い分ける社会であることを意味している。2つのタイプの権力とは、「規律訓練型権 力」と「環境管理型権力」である。

 規律訓練と環境管理とは何だろうか。原理的に考えてみよう。人間の生は、そもそも、主体的な意志や欲望をもった「人間的」な部分と、身体的な反応 や欲求による「動物的」な部分の組み合わせで成立している。

 この対立は、よく言われる論理と感情の対立とは違う。ここで「人間」と「動物」を分ける指標になっているのは、フロイトの言葉で言えば、その原理 が「快楽原則の彼岸」にあるのか「此岸」にあるのかである。人間の行動原理の根底には、自己否定の契機、すなわち、自らを否定する「死」や「他者」の観念 がある。したがって、人間は、自殺もするし、大義のため自己犠牲も払う。他方、動物はそんなことはしない。動物は、快楽原則に忠実に生きる。その点では、 人間のほうがよほど感情的で、動物のほうがよほど論理的だと言える。

 人間的な行為と動物的な行為は、行為そのものによってではなく、ほかの行為との連鎖によって分けられる。たとえば、人間は酒を飲む。飲酒は多くの 場合、社交や気分転換と結びついている。その場合、身体はアルコールを欲していないこともめずらしくない(たとえば、二日酔いを我慢して忘年会に出席する ようなとき)。これが、「人間的」な行為である。他方、アルコール依存症の患者を考えよう。彼らが酒を飲むのは、彼らの身体がアルコールを欲しているから である。そこで主要な役割を果たしているのは、社会的欲望ではなく、依存を強化する生理学的なメカニズムである。筆者はこれを「動物的」な行為と呼ぶ。

 人間には以上のような両面性がある。したがって、人間集団の統治にあたっても、人々の人間性に焦点を当てるのか、動物性に焦点を当てるのかによっ て、大きく2つの統治方法がある。すなわち、一人ひとりのコミュニケーションや価値観に働きかけて間接的に行動を管理するタイプの介入方法(たとえば、忘 年会に出席しないと社内で立場が悪くなるぞ、と空気を作り上げて酒を飲ませる方法)と、もっと簡潔に、快・不快に働きかけて直接行動を管理するタイプの介 入方法(たとえば、部屋を熱くして水を与えず、ビールを注文させる方法)である。

 筆者は、前者を規律訓練、後者を環境管理と呼んでいる。規律訓練は人間を人間として内面によって管理する権力であり、環境管理は人間を動物として 身体から管理する権力である。前者が価値観の層での秩序形成に、後者がインフラの層での秩序形成に大きな役割を果たすものであることは、あらためて指摘す るまでもないだろう。ポストモダンは、コミュニティの層とアーキテクチャの層を分けることで、2つの権力の作動域や目的を切り離した社会でもある。

監視社会

 ここまでで筆者は、(1)現代社会の秩序構造が、価値観とインフラの分離という二層構造で捉えられること、そして、(2)その二層は、それぞれ、 人間の「人間的」「主体的」部分に焦点をあてた管理手法(規律訓練型権力)が働く領域と、「動物的」「身体的」部分に焦点をあてた管理手法(環境管理型権 力)が働く領域に対応していることを指摘した。最後に、この理解が情報社会の現実とどのように関係するのか、1つの例を挙げておこう。

 イギリスの社会学者、デイヴィド・ライアンは現代社会を「監視社会」と呼んだ。実際に、私たちの社会は、近くは商店街の監視カメラから、遠くはア メリカの国防総省が進めている神経症的な監視計画まで、かつてない規模と精度で電子的監視の網の目を張り巡らせている。しかし、なぜそうなってしまったの か。

 筆者の考えでは、これもポストモダン化の1つの帰結である。フランスの哲学者、ミシェル・フーコーが分析したように、ヨーロッパの近代社会は人間 中心主義的であり、規律訓練の整備を重視した。言い替えれば、人々の行動を価値観によって操作しようとした。それに対して、ポストモダンは価値観の多様性 を原則としている。したがって、規律訓練では社会秩序は維持できない。図1から明らかなように、規律訓練はひとつのコミュニティのなかにしか力を及ぼすこ とができない。そこで環境管理への依存が増すことになる。

 そして情報技術は、環境管理型権力の可能性を拡大するのに本質的に適している。分かりやすい例として、公共交通の不正乗車問題、いわゆる「キセ ル」を考えてみよう。乗客が正規運賃を支払うかどうかは、かつては乗客の規範意識(価値観)に任されていた。都市部では改札が行われていたが、それもごま かすのは不可能ではなかった。しかし、自動改札の普及は状況を大きく変えた。現在では、正規運賃を払わなければそもそも改札口が開かない。近い将来には、 RFIDの利用によって、交通機関を使うと、口座から自動的に運賃が引き落とされるようになるだろう。キセルはいまや物理的に不可能になっている。不正乗 車は、かつては規律訓練的手法で阻止されてきたが、いまでは環境管理的手法で抑え込まれている。

 情報技術は、規律訓練でしか管理できなかった領域を、次々と環境管理の範囲へと引き入れている。そしてこの環境管理の拡大は、現代社会の強いセ キュリティ志向によって支えられている。

 テロ対策がよい例である。現代社会は、テロを防ぐためにテロリストの価値観を変えようとしない。現代社会は、その代わりに、テロを物理的に不可能 にするインフラの整備を進めている。テロリストが飛行機に乗れなければ、資金がなければ、相互の連絡がとれなければ、テロを起こすのはきわめて難しくな る。そのために私たちは、いま、パスポートにバイオメトリクスが導入され(ヒトの移動の管理)、テロ資金供与防止条約(資本の移動の管理)やサイバー犯罪 条約(情報の移動の管理)を相次いで整備している。そこに見られるのは、テロリストに法を説くのは無意味だから、彼らの行動はアーキテクチャ(インフラ) で抑え込むほかない、という固い決意である。

 ポストモダン社会は、価値観の多様性を理想とし、規律訓練の影響範囲を小さなコミュニティのなかに閉じこめてしまった。だとすれば、大きな秩序形 成は環境管理で行うほかない。したがって、監視社会の台頭は必然だと言える。監視社会の問題について考えるときには、まずこのような時代認識が不可欠であ る。

自由

 情報社会についてのイメージは、公文俊平が描くような「智民」たちの明るい姿と、社会学者や運動家が憂慮するような「監視社会」の暗い像のあいだ を揺れ続けている。情報社会化、あるいはポストモダン化は、私たちを自由にするのか、不自由にするのか。この問いは、あらゆる場所で形を変えながら反復さ れている。

 それに対する筆者の答えは、情報社会は、私たちをコミュニティ=人間的主体のレベルでは自由にするが、アーキテクチャ=動物的身体のレベルでは不 自由にする、というものである。21世紀においては、私たちは、かつてなく自由なコミュニケーションを享受しながら、同時にいつのまにか強力な管理のなか に捉えられている、そのような矛盾にあちこちで遭遇することになるだろう。いまでも私たちは、グーグルのアドセンスやアマゾンのアフィリエイトに接すると き、似たような矛盾を感じているはずだ。

プロフィール

東浩紀<あずま・ひろき>1971年東京都生まれ。国際大学GLOCOM教授・主幹研究員。批評家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。専攻は現 代思想・表象文化論・情報社会学。サブカルチャー評論でも知られる。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、サントリー学芸賞)、『郵便的不安たち』(朝日 新聞社)、『動物化するポストモダン』(講談社)、共著に『自由を考える』(大澤真幸氏との共著、NHK出版)など。