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<title>GLOCOM　「地球智場の時代へ-情報社会学シリーズ-　」（情報通信ジャーナル連載）</title>
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<modified>2008-06-25T02:04:08Z</modified>
<tagline>国際大学GLOCOMの研究員が『情報通信ジャーナル』誌で行ったリレー連載　「地球智場の時代へ-情報社会学シリーズ-　」の各論文を、電気通信振興会様のご好意により１月遅れで転載・公開するものです。</tagline>
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<copyright>Copyright (c) 2008, tomohisa</copyright>
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<title>第38回: アドレスバーか、検索バーか、それが問題だ</title>
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<modified>2008-06-25T02:04:08Z</modified>
<issued>2008-06-18T01:30:59Z</issued>
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<summary type="text/plain">上村　圭介(国際大学GLOCOM　主任研究員) ドメイン名の昔と今 ウェブページ...</summary>
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<name>tomohisa</name>

<email>tomopisa@gmail.com</email>
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<![CDATA[<p class="author">上村　圭介(国際大学GLOCOM　主任研究員)</p>

<h4>ドメイン名の昔と今</h4>

<p>ウェブページの場所を特定するURLや、電子メールの送受信に使われるメールアドレスは、いずれも他と紛れることなく一意に区別されることが必要である。http://www.glocom.ac.jp/index.htmlやｋｍｍｒ　@　ｇｌｃocom.aｃ.ｊｐといったURLやメールアドレスが一意に区別できるためには、ドメイン名が一役買っている。index.htmlというファイル名をもつウェブページは世の中にいくらでもあるだろうし、kmmrというユーザ名を使ったメールアドレスも（まかさとは思うが）重複しないとは言い切れない。ドメイン名が一意であるからこそ、その他の部分が多少重複していても識別子全体としての一意性が保たれる。 
<p>インターネットに接続されるコンピュータにはIPアドレスという識別子が割り当てられ、通信するコンピュータ同士が相手を間違わないようになっている。IPアドレスさえあれば、ウェブページへのアクセスも、メールの送受信も原理的には可能である。しかし、IPアドレスは現在主流のIPv4の場合、32ビットの数値をとる。これは、一般的には4組の0から255までの数で表現される。通常の人間の記憶力では、このような数字の羅列であるIPアドレスを覚えることは困難である。ましてや、今後普及が進むと思われるv6アドレスは、256ビットの数値で表されるため、0から255までの数が16組必要になる。
<p>そこで、コンピュータに与えられたIPアドレスに、一種のニックネームを付けて管理するという手法がとられることになった。インターネットの初期には、インターネットに接続されるコンピュータの数も限られていたため、IPアドレスとニックネームの対応表は手作業で、しかも単純なリストとして管理されていた。しかし、このような手法は、ネットワークに接続されるコンピュータが増加すると破綻する。1980年代初頭には、このようなリストによるアドレスと名前の管理は、現在われわれが使っている分散管理による階層構造をもつデータベースによる管理の仕組みに移行した。Paul Vixieは、ドメイン名システムを「分散型モデルに基き、一貫性を維持した、高信頼で、自律的な階層データベースとして最初で唯一のもの」<a href="#1" >*1</a>と称している。どの登録事業者を通じてドメイン名を登録したとしても、その情報は間違いなく世界中に伝播される。これほどの広がりをもった分散データベースは、確かにほかにはないだろう。
<p>ところで、ドメイン名には、もう一つの側面がある。それは、インターネットの商用化の歴史が、ドメイン名の商用化の歴史と重なっていることである。1993年から1999年まで、インターネットのドメイン名のうち汎用トップレベルドメイン（gTLD）と呼ばれる、.com、.net、.orgの三つのドメインは、アメリカの全米科学財団（NSF）の委託の下、Network Solutions社によって管理されていた。1995年のインターネットの商用化に伴い、同社はドメイン名の登録に際して登録料を徴収するようになるが、この登録料の扱いの是非や同社によるドメイン名登録「ビジネス」の事実上の独占が大きな問題となってきた。今日、インターネットガバナンスと呼ばれている問題の一つには、結果として独占的に行われてきたドメイン名管理の市場をどのように開放するかという問題が含まれていたのである。
<p>このようにドメイン名は、今日のインターネットのありようと非常に深く関わっている。

<h4>ドメイン名の「難しさ」</h4>

<p>利用者の視点からみると、ドメイン名は、インターネット利用を煩雑にする要因であるとも言われる。ドメイン名は、IPアドレスをそのまま覚えるよりはマシだが、それでも省略語や専門用語の組み合わせであることが多く、覚えにくい。しかも、その省略語は英語で表記されることや、英語以外の場合でも通常の正書法では使われないローマ字表記によって表現される。これでは、英語やラテンアルファベットに馴染んでいない言語話者が、インターネットを思い通りに使うことができないおそれがある。
<p>このような問題を解決するべく、国際化ドメイン名（IDN）という仕組みが段階的に導入され始めている。通常のドメイン名がアルファベットと数字、それから一部の記号の組み合わせであるのに対して、IDNは、それ以外の文字によってドメイン名を表現するための仕組みである。こうすることで、ラテンアルファベットに親しみのない利用者でも、自分が慣れ親しんだ文字によって表記されたドメイン名を使うことができるようになる。
<p>一方で、それとは逆向きの動きも見られる。ドメイン名やURLが理解しにくいものである場合、それを理解しやすいものに作り替えようとするのではなく、そのような仕組みをそもそも使わずにすむようにしようという動きである。もちろん、このような動きが組織立って展開されているわけではないが、目的とするホームページに到達するために、「アドレスバー」にURLを入力するのではなく、そのホームページの名称を検索することで、そのホームページに到達するというような事例は最近では珍しくない。個人的には何かの間違いであってほしいと思うが、GoogleにアクセスするためにYahoo!で「Google」と検索するというような、笑うに笑えない光景を筆者は実際に目撃したことがある。
<p>Andrei Broder<a href="#2" >*2</a>。によると、AltaVistaの検索ログを分析した結果、純粋に情報を求めようとして検索を行うのは全体の48パーセントにすぎず、残りのうち30パーセントはショッピング・サイトなど、それ自体が情報ではないサイトを探すためのものだったという。さらに20パーセントの検索は、ナビゲーションのため、つまり、知らない情報を探すための検索ではなく、既知のサイトや、当然存在するだろうと思われるサイトにたどり着くための検索だった。
<p>2007年5月に筆者が新聞上で行われているウェブページへの「誘導」（URLや検索語を提示し、特定のウェブページに利用者を導くこと）の数を数えたところ、約一週間で1470件に上った。そのうち、37件（全体の2.5％）が検索語を含んでいた。検索語による誘導を含むもののうち、10件は検索語だけでホームページに誘導しようとするものだった。全体から見ればまだごく少数に過ぎないが、検索語の提示が、ウェブページに利用者を誘導する手法として使われ始めていることがうかがえた。今では、その数はさらに増えていると思われる。

<h4>検索語によるナビゲーションの皮肉</h4>

<p>ところで、検索語によるウェブページへの誘導には実は大きな問題が隠れている。それは、検索語では目標とするウェブページに利用者を正確に誘導できないという問題である。先ほどの調査とあわせて、筆者は新聞、雑誌、広告などで提示されている検索語が利用者を目標のウェブページに誘導できるかどうか調べてみた。その結果、目標ウェブページが検索結果の最上位に表示されるものは全体の約65％であった。また、目標ウェブページそのものではなく、そのウェブページに関連すると思われるウェブページ（例えば階層上、目標ウェブページの下位または上位に位置するウェブページ）が表示されたケースが約16％あった。これらをあわせると、割合にして81.4％の検索語は利用者を目標サイトあるいはその関連サイトに利用者を誘導することができることになる。
<p>ところが、残りの2割近くの検索語では、検索結果の最上位に表示されるのは、目標サイトとは全く関係をもたない、あるいは外見上関係が明確でない無関係なウェブページであった。最上位が無関係ウェブページであるということは、利用者は目標ウェブページに到達できないか、与えられた検索語で検索した上で、そのサイトを探し回らなければならないということである。
<p>もっとも、無関係サイトが検索結果の最上位に表示されていたとしても、第2位以降の検索結果や広告リンクを通じて目標ウェブページあるいは関連ウェブページが表示されれば、ある程度までは利用者を目標ウェブページへ誘導することができるだろう。それでも、約1割の事例では、検索結果の中に広告リンク、目標ウェブページ、関連ウェブページのいずれも出現しなかった。
<p>このような結果から言えることは、検索エンジンは、特定のウェブページに利用者を誘導するためのナビゲーションツールとしては、よくてベスト・エフォートのパフォーマンスを示す程度であり、場合によってはまったく関係のないウェブページに誘導しかねないということである。
<p>検索語を提示することによって目標とするウェブページに到達してもらおうとするのは、利用者の手間を省いたり、利用者のリテラシーの不足を補うことが目的だと考えられる。しかし、現実的には、目標とするウェブページに到達できないことが少なからず起きていることを考えると、利用者には検索結果を理解し、自分が目標とするウェブページを探し出すための別の手間やリテラシーが求められていることになる。ある種のリテラシーがなくてもアクセスできるように配慮をした結果、別のリテラシーが求められるようになっているというのは皮肉なことではないだろうか。

<h4>アドレスバーか、検索バーか: ドメイン名の未来</h4>

<p>筆者は、検索語の提示によるウェブページへの誘導という手法が、今後より洗練された誘導の手法へと発展することを否定するものではないし、URLの手入力が得意でない利用者のリテラシーに応じたサービスを提供するという姿勢を否定するものでもない。今の段階で、注目すべきなのは、このように検索エンジンへの依存度が高まりつつある一方で、検索エンジンがそのような依存や期待に現実問題として応えきれていないという点にあるのではないだろか。Yahoo!でGoogleを検索するという笑い話のような例は別としても、利用者の利便性という観点から、検索語によるウェブページへの誘導はますます高まっていくだろう。
<p>ドメイン名がインターネットのサービスで使われることのもうひとつの理由は、IPアドレスはISPの変更やその他の理由で変更される可能性があることだろう。IPアドレスが変更されても、ドメイン名システムが緩衝剤となることで利用者はその変更を意識する必要がない。例えば、そのような緩衝剤の役目を検索エンジンが果たすようになるとしたらどうだろうか。ウェブページのIPアドレスが変更されたとしても、検索エンジンがきちんとその変更を追いかけてくれるなら、ドメイン名でその変更を吸収しなくてもいいかもしれない。どのみち、利用者がURLによらずに、検索エンジンで目的のサイトを探すのだとしたらなおさらである。
<p>ところで、ウェブページへの誘導の目的でURLを使わなくなるということは、ドメイン名の役割が縮小していくということでもある。ドメイン名が何であれ、IPアドレスが何であれ、検索して出てきたリンクをクリックしてウェブページにアクセスするのであれば、誘導には検索語さえあればよいことになる。
<p>インスタントメッセンジャーやSkypeなどのIP電話サービスでは、相手方を識別する際にドメイン名は使わない。スクリーン名やSkype IDのように、ドメイン名をもたない識別子の体系が使われる。ソーシャルネットワーキングサービス（SNS）も、外部から見た場合にはドメイン名を含んだURLを使っているが、例えばそのSNS内部のサービスはドメイン名とは無関係に成立しうる。
<p>無線のWi-Fi端末を使うときに、わたしたちはドメイン名を意識するだろうか。そもそも、インターネットをどこまで意識するだろうか。インターネットにもつなぐことのできるゲーム端末がアクセスしたいのは、インターネットなのか、それとも便宜的にインターネットで接続されてはいるが、その先にあるゲームやコンテンツのサービスなのか。このような利用形態をとる情報機器では、間により効率的なネットワークがあるなら、インターネットでなくても構わないということさえありうるのではないか。
<p>そういう意味で、検索語によるウェブページへの誘導は、長期的にはインターネットの利用形態、アドレシングのあり方に影響を与える大きな変化への入り口を垣間見せてくれる一つの例だと筆者は考えている。Kevin Werbachは、これまでのインターネットが求心力によって、何でもフラットにつないでいこうという姿勢をもってきたなら、これからのインターネットは遠心力によって分断化していくとの見通しを示している。そして、アプリケーションごとに使われ始めているドメイン名に代わるアドレシングの仕組みはその一例であると述べている<a href="#3" >*3</a>。そのような流れの中で、ドメイン名というアプリケーションを越えたグローバルなインターフェースのあり方も、次第に変化していくことになるだろう。あるいは、もしかすると、インターネットが、常にグローバルで、オープンなネットワークではない時代というのは、思ったよりも近くまで来ているのかもしれない。

<p>          ＊          ＊          ＊          ＊  </p>

<p>これまで、2005年1月号より39回にわたって続けてきた本連載も今回が最終回です。本連載では、国際大学GLOCOMの研究員の視点から、情報社会を研究するということがどのような広がりをもつのか、またそのような研究からどのようなことが明らかになるのかを示すことができたのではないかと思います。最終回の執筆者として、また、国際大学GLOCOMを代表して読者の皆様のこれまでのご愛読に感謝します。 

<p><br />
<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >注<br />
<p><a  name="1">*1</a> Paul Vixie. (2007). DNS Complexity. ACM Queue, Vol. 5, No. 3. (<a href="http://www.acmqueue.com/modules.php?name=Content&pa=showpage&pid=481">http://www.acmqueue.com/modules.php?name=Content&pa=showpage&pid=481</a>)<br />
<p><a  name="2">*2</a> Andrei Broder（2002）A taxonomy of web search. ACM SIGIR Forum, Vol. 36, Num. 2. (<a href="http://www.acm.org/sigs/sigir/forum/F2002/broder.pdf">http://www.acm.org/sigs/sigir/forum/F2002/broder.pdf</a>)<br />
<p><a  name="3">*3</a> 2007年9月の第35回Telecommunications Policy Research Conference (TPRC)での同氏の報告より。</p>

<p><br />
<h5 class="profile"> プロフィール</h5><br />
<img  src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/kmmr.jpg" width="86" height="105" alt="kmmr" align="left" /><br />
<p><かみむら・けいすけ><br><br />
国際大学グローバル・コミュニケーション・センター主任研究員。同センターにて、これまでP2Pアプリケーションの分析、マルチメディア・マークアップ言語の開発、デジタルデバイド、インターネットと多言語主義、ブロードバンド政策に関する調査・研究に従事。著書に『クリエイティブ・コモンズ』（NTT出版、2005年。共著）、『インターネットにおける言語と文化受容』（2005年。共著）などがある。</p></p>]]>

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<title>第37回: デザイン戦略による価値創造と日本企業の課題</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/2008/04/37.html" />
<modified>2008-04-02T07:54:55Z</modified>
<issued>2008-04-02T07:06:06Z</issued>
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<created>2008-04-02T07:06:06Z</created>
<summary type="text/plain">宮尾　尊弘(国際大学GLOCOM　主幹研究員) 日本の製品デザインは「世界最高水...</summary>
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<name>tomohisa</name>

<email>tomopisa@gmail.com</email>
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<![CDATA[<p class="author">宮尾　尊弘(国際大学GLOCOM　主幹研究員)</p>

<h4>日本の製品デザインは「世界最高水準」か</h4>

<p>いま日本で「デザイン」がブームであるといわれる。確かにいろいろな「デザイナー」がマスコミに顔を出すようになり、デザイン関係のニュースやイベントなども一般に広く話題になっている。しかし、デザインの作品やデザイナーについての文献は多いものの、デザインの機能や活動がビジネスにおいて持つ意味や役割を論じたものはまだあまり見当たらない。ごく最近、ブランド戦略などとの関係で、デザインを議論する傾向が出てきたが、その内容はまだ断片的でよくまとまっていない。しかもその中で、日本のデザインに対する評価は、絶賛するものから酷評するものまでさまざまのようにみえる。
<p>そもそも「デザイン」とは何であろうか。「デザイン」を辞書で引くと、狭い意味では「意匠」、広い意味では「設計」といった言葉が出てくる。しかし、この二つの言葉の持つ意味はかなり異なる。通常「意匠」とは、物品に施された造形についての計画という狭い意味を持つ。「意匠法」による定義によれば、意匠とは「物品の形状、模様もしくは色彩またはこれらの結合にかかる美的創作物」と定義されている。それに対して、「設計」とは、例えば「制度やシステムのデザイン（設計）」というような表現にあるように、必ずしも物品や造形に関するものでなくても、何かシステムを計画するといった広い意味で使われる。典型的には、技術者が設計図を描くといった場合がそれに当る。
<p>しかしこれらの言葉は、しばしば現実には対立関係に対応する場合も生じる。例えば、企業組織の中で、よく「デザインと設計は水と油でケンカ相手」といった表現が聞かれるが、これは「デザイン対機能」あるいは「デザイン対製造」という対立関係に対応していると考えることができる<a href="#1" >*1</a>。この背景には、デザイナーが自分たちの感性にしたがって製品の形態などを提案するのに対して、技術者を中心とする設計部隊は、製造の視点から機能や性能を考えて形状などを導くという違いがある。
<p>このように考えれば、日本製品のデザインについて二つのまったく異なる評価が存在する理由が見えてくる。一方においては、「わが国の商品デザインのレベルは世界最高水準で・・・・そのような、優れたデザインに毎日触れている我々のデザインセンスも世界最高レベル」<a href="#2" >*2</a>という礼賛が出てくる。確かに、「意匠」という意味での製品デザインの考え方や仕事の内容は、戦後米国から導入されたもので、同様に戦後導入されて日本で発展した品質管理と並んで日本の製品の競争力を高めることに役立ったことは間違いない<a href="#3" >*3</a>。しかしそれは、あくまで製品の機能や性能を第一に考えた上で、できるだけデザイナーの意見を入れて、商品として魅力的なパッケージにするかという問題意識で発展したものとみなすことができる。つまり、それはいわば「機能美」ともいえるデザインのあり方といえる。
<p>他方、日本製品のデザインに対する厳しい見方は、特に欧州のブランドとデザインを評価する立場から出されており、例えば、イタリア式の商品デザインと比較して、「日本のモノ作りは、マスマーケットを前提とした品質、コスト、納期の深化がビジネスだと思い込み、人間の感性をないがしろにしてきた」という厳しい意見が聞かれる<a href="#4" >*4</a>。さらに、「いいものさえ作っていれば、いつか誰かが認めてくれるだろう」という態度が日本のデザインする側にみられ、「正しい人を探して、その人から正しい情報を引き出し・・できたものの情報を正しい人に正しく伝える・・・この過程を経て、はじめてきちんとしたデザインができる」ことを忘れているという批判も強い<a href="#5" >*5</a>。このような批判的立場の背景にある考え方は、「職人には、時代の先を行くデザイナーの感覚を持ちにくいし、デザイナーには、思い描いたものを製品にする技術を得がたい・・・・この両輪が必要である」というもので、それが日本の製品デザインには欠けているという<a href="#6" >*6</a>。

<h4>デザインは「企業戦略」とみなされているか</h4>

<p>以上の二つの見方の差はどこからくるのであろうか。まず、前者の日本デザイン礼賛論の立場は、逆説的であるが、デザインが企業の戦略レベルではなく、技術開発や品質管理に付随したオペレーションのレベルに位置づけられてきた事実が背景にある。戦略ではないにもかかわらず、この分野で日本が「最高水準」と認められようになったのは、これまでの日本企業の経営においては、現場におけるボトムアップの意思決定方式が支配的だったために、戦略のレベルとオペレーションのレベルの違いが明確には意識されず、そのために現場のオペレーションレベルで、商品デザインにかなりの注意が払われたからといえよう。
<p>しかしその反面、いわゆる「デザイン対設計」ないし「デザイン対製造」という対立が生じた場合は、最終的には戦略的に下位にあるデザイン側が企業の戦略的な要請に応じることで解決されてきたと考えられる。そのような日本的なやり方にもっとも適した組織が、いわゆる「インハウス・デザイナー」という会社に属する社員デザイナーの存在である<a href="#7" >*7</a>。この会社内デザイナーたちは、独立したデザイナーと違い、名前や顔が表に出ない専門家集団で、企業のさまざまな要請によってデザインを調整し、まとめあげるノウハウをもったオペレーション組織といえる。このような組織があるからこそ、日本製品のデザインは高い品質に見合った機能美をもち、その点で世界的に評価されるようになったのである。しかしその反面、企業間で技術的に共通の製品はデザイン的にも似通ってしまう傾向があり、真に独創的なデザインという点では、イタリアやフランスなどの欧州のブランドものに一歩譲ることになる。
<p>この点を批判的に指摘するのが、日本のデザインに対する二つの見方のうち後者の厳しい立場で、それはデザインが企業における「戦略」のレベルまで高められなければならないという主張を反映している。戦略的に位置づけられたデザインの技能と職人的な技術は、対立するものではなく、車の両輪のような相乗作用を持ち、消費者とのコミュニケーションを促進する。日本でこのような見方が浸透してきたのは、近年日本の企業でもグローバルな競争下で、従来のボトムアップ経営ではなくトップダウンの戦略的アプローチが必要であると考えられてきたためであり、それに加えて、デザインの持つ戦略的パワーが広く認識されるようになったことによる。
<p>このようなデザインについての戦略的位置づけの変化は、デザイン関連イベントのあり方にも反映されている。これまでは、デザインそのものやデザイナーに焦点を当てたイベントが中心であったが、最近では企業戦略の立場からデザインを評価する活動「デザイン＆ビジネスフォーラム」が主催する「デザイン・エクセレント・カンパニー賞」などが注目を集めている<a href="#8" >*8</a>。またビジネススクールのレベルでも、デザインと企業の戦略や競争力、およびデザインと企業や社会の創造力の関係などが正面切って取り上げられるようになった。

<h4>デザインは「ブランド」とどのような関係にあるか</h4>

<p>このように日本でもデザインが企業の戦略的な視点から重視されてきた背景には、デザインと密接に関連した「ブランド」の戦略的重要性が増したことがある。それでは、「ブランド」と「デザイン」はどのような関係にあるのだろうか。この点で明確な答えは、パトリック・ラインメラと米倉誠一郎の共著論文『企業活力としてのデザイン』によって、次のように与えられている。
<p>「ブランドは企業の顧客への約束である。そして、デザインとはその約束を守るための形と考えている。ブランドとは、いうまでもなく無形資産である。したがって、それが具体化するのは最終製品やサービスであるが、それだけではフランドは確立しない。その製品・サービスに結実した・・・企業の思いを絶えず顧客にコミュニケートしなければならない。[ここで]、デザインは約束であるブランドを履行するための形を生み出すプロセスである」<a href="#9" >*9</a>
<p>この文章の一つの解釈は、ブランドは資産という「ストック」なので、その価値は、ブランドが毎期毎期「フロー」として生み出すものの割引現在価値の合計とみなせるというものである。これはブランドの資産（エクイティ）価値を決める方法のうち、「インカム・アプローチ」あるいは「キャッシュ・フロー・アプローチ」に対応している<a href="#10" >*10</a>。ただし、上の文章で指摘されているように、ここでの「フロー」は単なる製品・サービスの価値ではなく、それがデザインなどを通じて顧客とコミュニケートして生み出す「付加価値」の流れの割引現在価値が、ブランド・エクイティの価値となるという解釈である。これは、通常の製品デザインを考えると分かりやすい。なぜなら製品デザインは毎期毎期発売される新しい製品のデザインとして「フロー」の付加価値を持つとみなせるからである。
<p>しかし、すでに上の節で見たように、最近ではデザインが戦略的な位置づけを与えられて、ブランドと重なり合う役割を持ちつつあるとすれば、それをどう解釈すればよいのであろうか。そのためには、デザインをブランドと同じ次元の「資産」ないし「ストック」とみなして、ブランド資産とプラスの相互作用を起こし、それが毎期毎期のフローの付加価値を高めると考えればよい。デザインがストックとしての価値を持つ例としては、ブランドを象徴するロゴ（アップルやナイキなど）や模様（ルイ・ヴィトンやバーバリーなど）や企業コンセプト（スターバックスやヴァージンなど）のデザインは明らかに毎期毎期出される商品に固有のデザインという形ではなく、それらを貫いた永続的なデザイン価値を提供し、消費者の心の中にブランドイメージを強烈に焼付ける役割を果たしているといえる。日本の場合は、例えば企業名を言えばロゴのイメージが浮かび上がってくるような企業があまりない。日本企業がグローバルな市場で競争する場合に、このような知的な資産ないしストックとしてのデザインの価値を認識することが必要になっているのである。
<p>実は、海外市場ではブランド以上の重要性をデザインに与える企業戦略が注目されている。具体的には、韓国を代表する企業「サムソン電子」がEU市場において若者世代にアピールする斬新なデザインの携帯電話を投入することでマーケットシェアを獲得し、技術面や品質面では必ずしも確立していない「サムソン」のブランドネームを広めることによって、さらなるビジネスにつなげていく戦略である。これこそデザインを最も重要な武器として競争の緒戦を制して、それに後からブランドや技術がついていくことで長期の優位性を確立しようとするものと解釈できる<a href="#11" >*11</a>。

<h4>デザインは真の「企業価値」を生み出すか</h4>

<p>「サムソン電子」のようなデザイン戦略については、日本の伝統的な技術を重視する立場からは疑問が提示される傾向がある。その立場からすると、デザイン中心のイメージ戦略はかなり危ういもので、「見た目や連想とか想起というイメージはあくまで二義的なもの」という批判が出てくるであろう<a href="#12" >*12</a>。しかしこのような批判は、デザインが本質的にもっているアートとしての創造性が、新たな価値感（ないし価値観）を生み出すという戦略的な意味を重視しないことから出てくるものといえる<a href="#13" >*13</a>。
第1に、企業戦略としてのデザインは、組織のメンバーに創造的なイメージとエモーションを共有させることに役立ち、それによって組織内メンバー間および組織の外部とのコミュニケーションが促進され、新しい企業価値創造に結びつく<a href="#14" >*14</a>。「大切なことはデザインという創造過程を商品企画から設計、生産、販売といったすべての領域に埋め込むこと」という表現が的を射ているといえよう<a href="#15" >*15</a>。つまり、「デザイン・エクセレント・カンパニー」とは、単によいデザインの商品を生み出す企業としてだけでなく、企業活動全体が創造的なデザイン思考に貫かれている企業という意味なのである。
<p>第２に、戦略としてのデザインは、これまで日本企業でみられた現場の技術主導の「カイゼン型イノベーション」に対して、現在もっとも必要とされる真に創造的な「破壊的イノベーション」をもたらす力を与えてくれる。創造的なデザインが戦略的として位置づけられれば、「デザイン対設計」や「デザイン対製造｣の対立があった場合、基本的にデザインを生かす設計や製造が求められ、それがまったく新しい発想を技術革新面でもたらす可能性がある。日本における最近のデザイン優先の例としては、auのデザイン携帯「INFOBAR」の開発がよく指摘されるが、真に「破壊的なイノベーション」にむすびつくためには、技術部門の人材も創造的なデザイン思考を持つように教育・訓練を行うことが必要不可欠であろう<a href="#16" >*16</a>。
<p>第３に、デザインが、「ビジネス・イノベーション」に対して持っている意味に注目すべきである。例えば、「バリュー・イノベーション」というアプローチからすると、まったく新しいデザインが、市場で消費者がこれまでもっていた価値感（ないし価値観）を覆し、新しい価値次元へと企業と消費者を高める役割を果たす。「サムソン」のデザイン戦略は、それまで技術と機能面で競争していた携帯電話市場の価値感が根本的に変化する上で大きな節目となった。また具体的なデザインでは、キャラウェイがクラブヘッドを巨大にしたデザインのゴルフクラブによって、それまで飛距離で競争していた市場に、ボールへの当てやすさという価値感をもたらしたことがよく知られている。これが、未開拓の市場へ乗り出す「ブルー・オーシャン戦略」と呼ばれるものであるが、そこでデザインが本質的に重要な役割を果たしているのである<a href="#17" >*17</a>。
<p>以上のようなデザインの持つ力に注目して、デザインを最上位の戦略に位置づけてイノベーションを促進しようとするグローバル企業が増えており、またそれを「新しい資源」とみなしてデザイナーを養成し訓練する学校などを充実する国も目立っている。特に、韓国、中国、シンガポールなどアジア諸国が国家戦略としてデザイン力の強化を打ち出している<a href="#18" >*18</a>。これに対して、日本は戦後を通じて企業内における製品デザインが重視されてきたものの、そのビジネスにおける発想が依然として狭い意味での「意匠」にとどまっているため、それが企業全体の創造性、ひいては社会全体の創造性にあまり本質的な影響を与えていないようにみえる。日本が今後ますます必要となる創造性や革新性を発揮できるようにするためにも、その第一歩として日本が文化の中に本来もっているデザイン力を再発見して、それを企業活動にも社会活動にも積極的に生かす努力をすべきではないだろうか<a href="#19" >*19</a>。

<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >脚注
<p><a  name="1">*1</a> 野中郁次郎・勝見明『イノベーションの作法』（日本経済新聞出版社、2007年）、p. 156-157
<p><a  name="2">*2</a> 木全賢『売れる商品デザインの法則』（日本能率協会マネジメントセンター、2007年）、p. 18
<p><a  name="3">*3</a> 木全賢（前掲書）、p. 230
<p><a  name="4">*4</a> 小林元『イタリア式ブランドビジネスの育て方』（日経BP社、2007年）、p. 8
<p><a  name="5">*5</a> 奥山清行『フェラーリと鉄瓶』（PHP研究所、2007年）、p. 120-121
<p><a  name="6">*6</a> 長沢伸也『ルイ・ヴィトンの法則』（東洋経済新報社、2007年）、p. 204、および遠藤功『プレミアム戦略』（東洋経済新報社、2007年）、p. 140
<p><a  name="7">*7</a> 会社内デザイン集団の役割や問題点は以下の文献に詳しい。山本雅也『”インハウスデザイナー“は蔑称か』（ラトルズ、2005年）、喜多俊之『ヒット商品を創るデザインの力』（日本経済新聞出版社、2007年）
<p><a  name="8">*8</a> デザイン＆ビジネスフォーラム『デザイン思考がビジネスを革新する』（ダイヤモンド社、2007年）、p. 3-12
<p><a  name="9">*9</a> 一橋ビジネスレビュー『デザインと競争力』（2007年AUT.）、p. 7
<p><a  name="10">*10</a> ブランド資産評価については、以下の文献を参照。榛沢明浩『図解ブランドマネジメント』（2007年、東洋経済新報社）、p. 40-41（「インカムアプローチ」）、広瀬義州・吉見宏『日本発ブランド価値評価モデル』、p. 34-40（「期待キャッシュ・フロー・アプローチ」）
<p><a  name="11">*11</a> 一橋ビジネスレビュー（前掲書）、p. 36-46
<p><a  name="12">*12</a> 菊池隆『実践ロジカル・ブランディング』（日本評論社、2005年）、p. 31-32
<p><a  name="13">*13</a> 坂井直樹『デザインのたくらみ』（トランスワールドジャパン、2007年）、p. 4-5
<p><a  name="14">*14</a> 一橋ビジネスレビュー（前掲書）、p. 11
<p><a  name="15">*15</a> 一橋ビジネスレビュー（前掲書）、p. 75
<p><a  name="16">*16</a> 野中郁次郎・勝見明（前掲書）、p. 154-171
<p><a  name="17">*17</a> 竹内弘高・楠木建『イノベーションを生みだす力』（ゴマブックス、2007年）、p. 108-110、およびキム・モボルニュ『ブルー・オーシャン戦略』（ランダムハウス講談社、2005年）、p. 139-140
<p><a  name="18">*18</a> 喜多俊之（前掲書）、p. 157-170
<p><a  name="19">*19</a> 喜多俊之（前掲書）、小林元（前掲書）、奥山清行（前掲書）などイタリアのデザインを重視する著者は、日本の伝統的な職人のデザインを再評価している。また、社会や生活にデザインを生かす最近のアプローチについては以下の文献が詳しい。紺野登『ソーシャル・イノベーション・デザイン』（日本経済新聞出版社、2007年）、荻原修『デザインスタンス：新世代のクリエイターと仕事1』（誠文堂新光社、2007年）
</font>

<h5 class="profile"> プロフィール</h5>
<img alt="MiyaoPhoto.JPG" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/MiyaoPhoto-thumb.JPG" width="150" height="112" />
<p><みやお・たかひろ><br>
慶応義塾大学経済学部卒、同大学経済学修士課程終了（修士号取得）。米国ＭＩＴ経済学部博士課程終了（Ph.D.取得）。トロント大学経済学部助教授、カリフォルニア大学サンタバーバラ校経済学部准教授、南カリフォルニア大学教授を経て帰国。筑波大学社会工学系教授を歴任。著書『Dynamic Analysis of the Urban Economy』（Academic Press）、『現代都市経済学』（日本評論社）、『日本型情報社会』（ちくま書房）など多数。1997年7月より現職。</p>]]>

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<title>第36回: グローバル社会のイノベーション行動プラットフォーム</title>
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<modified>2008-03-19T06:31:04Z</modified>
<issued>2008-03-19T02:42:14Z</issued>
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<summary type="text/plain">野村　恭彦(国際大学GLOCOM　主幹研究員) 背景:  企業も国家もイノベーシ...</summary>
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<email>tomopisa@gmail.com</email>
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<![CDATA[<p class="author">野村　恭彦(国際大学GLOCOM　主幹研究員)</p>

<h4>背景:  企業も国家もイノベーションを希求する</h4>

<p>今日のグローバル社会で、企業にしても国家にしても、イノベーションを求めない組織はない。消費社会は成熟度を高め、新商品を出してもすぐに市場が飽和してしまう。多くの商品は既存のものの改善か、小さな差異化を行ったものばかりになってしまっている。またエネルギー消費についても、このペースでは地球環境も限界に近づきつつあり、持続可能性(Sustainability)を求める声は日増しに高まってきている。その一方で、イノベーションを成長戦略の中心に掲げながら、新規事業への研究開発投資を抑制し、コア事業に集中することでイノベーションから遠ざかってしまっている企業が多いのが現状だ。
<p>2006年の国内のメディアコンテンツの市場規模は、13兆9890億円にのぼる。これらを流通メディア別に分類すると、パッケージ流通（図書、新聞、音楽CD、ビデオソフト、ゲームソフトなど）が49．6％の6兆9415億円、放送が28．7％の4兆158億億円、映画、カラオケなどの拠点サービスが12．6％の1兆7678億円。これに対し、インターネットは5．6％の7857億円、携帯電話が3．4％の4782億円となっている。

<p>シュンペーターが定義したとおり、イノベーションは社会の停滞を克服する鍵である。ニーズとシーズが新結合を起こすと、そこに大きな市場機会が生まれる。そのプロセスは、インベンション(発明)、イノベーション(革新)、ディフュージョン(普及)の三つで表される。例えば自動車が発明されても、最初はその効用はコストとのバランスを欠き、実用というよりは、資産家の趣味的な用途でしかない。低コストの自動車が生産され始めると、これが「どこにでも個人の意志で移動できる手段」というニーズとの新結合を起こす。結果、これが大量供給されて普及する。その後もこの領域で、小さなイノベーションは多数起きることになる。ワンボックスカーができれば、家族でわいわい楽しみながらドライブしたいというニーズに、新結合を起こす。しかし、そのイノベーションの効果はだんだん小さくなる。社会インパクトが、相対的に小さいものになっていくからだ。そこで再度必要になるのが、大きなイノベーションである。それが、社会や市場を停滞から抜け出させ、次のステージへと引き上げる。企業にとっても、社会にとっても、イノベーションは重要課題である。

<p>しかし、本来予測不可能なイノベーションプロセスを管理しようという試みの多くは、十分な成果を挙げることができずにいる。イノベーションマネジメントは、見込みのないテーマを早めにやめさせるためだけの管理手法に成り下がっていることが多い。いくらこのようなマネジメントを強化しても、イノベーションが起きやすくなるわけではない。ノンカロリーシュガーをたくさん飲んでもやせないのと一緒で、無駄なものをやめているに過ぎない。一番難しいことは、「良いテーマをイノベーションに結びつける」ことなのである。

<p>産業革命に代表される「大きなイノベーション」の幻影が、「普及しないものはイノベーションではない」というプレッシャーをかけ、「市場の見えないイノベーション活動は失敗する」という間違った論理展開を導いてきたのだ。「市場の見えているイノベーション活動」などという、語義矛盾も甚だしいことが多くの企業で標榜され、結果的に研究開発の短期志向を生んでしまった。普及を伴わないものはイノベーションと呼ばない、このドグマが、研究開発者につねに自らのアイデアの市場性を問え、問え、と迫ってきているのだ。

<p>経営の効率化を図ることは、企業にとって重要な課題のひとつである。しかし経済効率の指標にのみ集中することによって、企業の将来にとって好ましくないさまざまな問題が、目に見えないところで起こっている。研究開発費に対してまで短期間での回収を求めてROI(Return on Investment: 投資収益率)を追求し始めると、ROIの読めない先行研究は削減されていくことになる。すると、既存事業との関わりの強い無難な開発的研究が増え、その結果、何も新しいものが生まれてこなくなる。イノベーションが起きないと企業の収益率はどんどん悪くなり、その結果、長期的な先行研究はますますできなくなるという悪循環を招きかねない。

<p>ダイナミックに変化し続ける市場に対応し、さらには自ら変化を作り出していくためには、「経済効率」の呪縛から逃れ、新たな価値を創造するための研究開発に取り組むことが欠かせない。そして、企業内で常識化している働き方（ワークウェイ）そのものを変える必要がある。マネジメント層こそ、その重要性に気づき、ワークウェイ革新に積極的に取り組むことが必要である。

<p>イノベーションの成功要因は、個々のテーマの評価や管理にはない。一つひとつのテーマが成功しても失敗しても、それらの経験からしぶとく学び続ける組織能力にある。一回のイノベーションの成功確率を高めることは困難であっても、長期的にイノベーションの成功確率を高めていくことは可能である。なぜなら、アイデアが市場で成功するかどうかは、企業の組織能力や事業戦略に大きく依存するものであり、企業経営そのものの問題であることが多いからだ。イノベーションに成功するための企業体質を持続的に作っていくこと、それがイノベーション経営のあり方といえよう。

<p>本稿で提示する最大の仮説は、イノベーションの成功確率を高めるものは、「既存の枠組みを新たな価値体系に再構築するための組織ネットワーク能力にある」ということだ。さらに、このような組織ネットワーク能力を高めるために最も重要な駆動要因として、「イノベーション行動」という考え方を導入する。イノベーション行動とは、特定の個人が既存の組織ネットワークに不均衡を与え、新たな価値体系を組織に受け入れ可能にする振る舞いである。

<h4>イノベーションブローカー:  組織ネットワークを再構築する個</h4>

<p>イノベーションの神髄であるニーズとシーズの新結合を実現するためには、様々な領域の技術に関する知識、技術者のネットワークへのアクセスを持つだけでなく、様々なエンドユーザとの関わりを持っている必要がある。さらに、ビジネスに関する知識、提携先候補とのネットワークなど、ビジネス構築の能力も必要になる。

<p>これらすべてのプロセスをたった一人の社員が実践することは、きわめて難しい。産業革命を起こすような大きなイノベーションをねらって研究開発することは、容易なことではない。その結果、技術の小さな発明、顧客にとっての小さな革新、そして市場への小さな普及をねらいとした研究が蔓延することになる。研究開発者は、自らの小さな発明に固執する。徹底的に固執する。たとえそれが小さな革新にすぎないとわかっていても、あたかも大きな市場への普及が待っているかのようなビジネス計画を「作文」することになる。

<p>このような偽イノベーターの自作自演が、企業社会の中ではびこっているのはきわめて不健全な状態である。しかし産業革命を起こすようなイノベーター像こそが、研究開発者を追い込み、そして不正直な計画作りへと駆り立てているのだ。これはまさに研究開発部門の組織的な「イノベーションの誤謬」と呼べる大問題である。

<p>この誤謬を取り除くためには、イノベーションリーダーのモデル像を「完全無欠のイノベーター」から、「イノベーションの媒介者」へと切り替える必要がある。この新しいリーダー像を私たちは「イノベーションブローカー」と呼ぶ

<p>イノベーションブローカーとは、イノベーションを起こした立役者として、表舞台に立つ人ではない。誰かの役に立ちたくて、どうしてもその問題を解きたくて、異質なメンバーを集めて場をつくり、結果的に社会に大きな変化をもたらす活動家である。人と人をつなぎ、新しい意味や価値を生み出す。21世紀社会でもっとも必要な人材、それがイノベーションブローカーである。

<p>図1に、これまでのナレッジマネジメント(KM)の概念の変遷を示す。1990年代後半の初期のKMの焦点は、分散された知識コンテンツを組織全体で共有することであった。2000年に入り、「KMは、情報の収集(collecting data)ではない、人をつなぐことである(connecting people)である。」と言われるようになり、専門知識を共有するコミュニティ オブ プラクティスなどの概念が、KMの中心として議論されるようになった。ナレッジブローカーという役職を作り、専任で企業全体の人と知識をつなぐ仕事を行う体制を築く、巨大オイルメジャーなどのグローバル企業も現れた。

<center>
▽図1：ナレッジマネジメントの概念の変遷
<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/nomura1.html" onclick="window.open('http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/nomura1.html','popup','width=565,height=365,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/nomura1-thumb.jpg" width="350" height="226" alt="" /></a>
</center>

<p>そしてKMの究極の形と言われるのが、組織的な知識創造の型づくり (Knowledge Creation)である。2006年にグローバルに調査したイノベーション経営の先進企業には、新たな価値を生み出すために、独自の知識や能力を持つ専門家をタイムリーに組織し、イノベーションを起こす人材、役割が存在していた。これが、人と人のネットワークを最大限に活用し、組織の創造性を高める役割を果たす「イノベーションブローカー」であった。

<p>イノベーションブローカーの典型例が、「磨き屋シンジケート」を立ち上げた高野 雅哉氏(燕商工会議所地域振興課 課長補佐, 磨き屋シンジケート お客様窓口) である。中国の安価な磨き工場の台頭により、世界一の技術を持つ磨き職人が次々と廃業に追い込まれる中、高野氏はたった一人から、この活動をスタートした。大口顧客をシンジケートとして受注し、企業横断のネットワークで仕事を分業して行く仕組みを構築した。高野氏は、ときに頑固にみずからの技術を囲い込もうとする職人に対し、一人ひとりと対話し、協調を引き出していったと言う。 燕市の磨き職人をネットワーク化し、競争力を再生させたのは、高野氏のイノベーションブローカーとしての意志と行動力であった。このようなイノベーションブローカーと呼ばれる人材が、育ち活躍するためにどんな経験を積んできたのか、またどんな行動環境が必要なのかを考えることは今後ますます重要になろう。

<p>KMの進化は、組織ネットワーク能力の進化として捉え直すこともできる(図2)。知識コンテンツ共有 (Knowledge Sharing)のレベルでは、組織階層に応じたネットワークしか目立ったものはない。次に学習する組織 (Knowledge Utilization)に進化すると、組織を越えて専門が近いもの同士が直接つながりあう。組織横断のネットワークが均一に張り巡らされる。そして最終形の組織的な知識創造の型づくり (Knowledge Creation)では、イノベーションブローカーが活躍をする。誰が中心にネットワークが再構築されるか予測不可能であり、新たなネットワークが生まれ続けている状態なのである。

<center>
▽図2：組織ネットワーク能力の進化
<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/nomura2.html" onclick="window.open('http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/nomura2.html','popup','width=574,height=365,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/nomura2-thumb.jpg" width="350" height="222" alt="" /></a>
</center>

<p>イノベーションブローカーは、組織に新たな課題や価値観を持ち込み、ネットワークにゆさぶりをかける。ニッチな顧客ニーズ、未完成の技術シーズ、他社とのアライアンス機会など、個のセンシング能力で引き寄せた機会を自らのソーシャルネットワーク(人脈)に働きかけることで、組織を越えた知の融合を引き起こす。

<h4>提言:  イノベーション行動プラットフォームの構築を急げ</h4>

<p>ではなぜ、イノベーションブローカーは、このような「イノベーション行動」に駆り立てられるのであろうか。組織の人事制度や時間管理の手法は、あらかじめ計画されていないタスクの実行に対して、多くの場合はブレーキをかける。また組織のトップであれば、ステークホルダーから、リスクの少ない、短期的なリターンを要求される。あらゆるインセンティブが、イノベーション行動を阻害する方向に働いているといっても過言ではない。

<p>しかし、組織の中の誰かがイノベーション行動に出なければ、組織は停滞し、活気も成果もゆるやかに下降線をたどることになるだろう。イノベーション行動の研究はまだ緒に就いたばかりであるが、次の3つのイノベーション行動の型を考えることができるのだろうか。

<ul>
<li>顧客主導型イノベーション行動:</li>
<p>顧客の困りごとをなんとか解決したい、期待に応えたいという一心で、自社の常識を破り、組織を動かすタイプのイノベーション行動。典型例は、「このような商品が御社にあれば、ぜひあなたのところから買いたい」というロイヤルカスタマーの期待に応え、優秀な営業担当者が、他の顧客ニーズも拾い集めて量を確保し、同時に生産部門に掛け合って、この例外的な商品を生産ラインに乗せるところまでがんばる、というタイプの行動である。

<p><li>スポンサーシップ型イノベーション行動:</li><br />
<p>経営トップから白羽の矢を立てられ、企業変革を担うタイプのイノベーション行動。組織横断のプロジェクトを立ち上げ、既存部門の抵抗にあいながらも、新たな仕組みを作っていく。</p>

<p><li>独立自尊型イノベーション行動:</li><br />
<p>ある部門や子会社など、独立性の高い組織、または個人が、自らの権限の範囲を少しずつ拡大しながら、新たな活動に取り組むタイプのイノベーション行動。小組織や個人が理想を追求することによって、大きな組織全体のイノベーションにつながる。社内起業家による新製品開発、新規事業会社の立ち上げなどが典型例。</p>

</ul>

<p>イノベーション行動の最大のインパクトは、特定の個人の行動が、既存の組織ネットワークに不均衡を起こすことである。組織には必ず、過去のやり方を継続しようとする慣性力が働く。新たな価値体系を組織に受け入れ可能にするためには、組織ネットワークの再構築が行われなければならない。それは、既得権益の破壊でもあり、構造改革を伴う厳しいものでもある。しかしイノベーション行動を促進しない組織運営、あるいは政策を続けていれば、組織や国家の活力は次第に失われて、どんなに求めてもイノベーションの起きない、失敗を恐れて挑戦しない体質に陥ってしまう。イノベーション行動の欠如は、決して個人の問題ではないのだ。

<p>企業も政府も、イノベーション行動を起こしやすくするプラットフォームを作り、誰もがイノベーションブローカーに成り得る組織ダイナミクスを構築すべきである。そして、成功からも失敗からも学び、そのたびに組織ネットワークの再構築を進めていくべきである。その結果として、長期的に多くのイノベーションを起こしていける企業や国家を作っていってほしい。

<p></p>

<h5 class="profile"> プロフィール</h5>
<img alt="nomura.jpg" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/nomura.jpg" width="137" height="149" />
<p><のむら・たかひこ><br>
博士(工学)。慶応義塾大学大学院理工学研究科修士課程終了後、富士ゼロックス株式会社入社。同社総合研究所にてCSCW (Computer Supported Cooperative Work)研究、コーポレート戦略部にて事業ビジョン構築に従事した後、新規ナレッジ・サービス事業の企画立案を行い、自らKDI(ナレッジ・ダイナミクス・イニシアティブ)の立ち上げに参画。現在は、同社KDIシニアマネジャー。05年慶応義塾大学大学院理工学研究科後期博士課程修了。06年4月より東京工業大学21世紀COEプログラムSIMOT(インスティテューショナル技術経営)特任准教授。また、情報処理学会グループウェアとネットワークサービス研究会幹事/連絡委員(1998〜)、情報処理学会論文誌編集委員(2000〜2006)、内閣府「社会イノベーションとソーシャルキャピタル研究会」委員(2007～)などを務める。「コミュニティ・オブ・プラクティス」(翔泳社)監修。専門分野は、情報処理分野(CSCW、グループウェア、ソーシャルネットワーク)、経営学分野(知識経営、コミュニティ オブ プラクティス、イノベーション経営)。
</p>]]>

</content>
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<title>第35回: 住基ネット裁判の批判的考察</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/2008/03/36.html" />
<modified>2008-03-19T09:05:24Z</modified>
<issued>2008-03-18T08:42:42Z</issued>
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<created>2008-03-18T08:42:42Z</created>
<summary type="text/plain">青柳　武彦(国際大学GLOCOM　客員教授) 要約 全国各地で住基ネット違憲訴訟...</summary>
<author>
<name>tomohisa</name>

<email>tomopisa@gmail.com</email>
</author>
<dc:subject>text</dc:subject>
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<![CDATA[<p class="author">青柳　武彦(国際大学GLOCOM　客員教授)</p>

<h4>要約</h4>

<p>全国各地で住基ネット違憲訴訟が進行中である。訴訟のベースはいずれも、プライバシーは自己情報コントロール権であるとの説（以下、「自己情報コントロール権説」と称す）に拠って、プライバシー権の根拠を憲法13条の幸福追求権に求めている。筆者は、自己情報コントロール権説も憲法13条説もともに誤りであり、したがって違憲訴訟そのものが成り立たないと考えている。

<h4>住基ネット訴訟の論点</h4>

<p>住基ネットについて各地の住民の一部から違憲であるとの訴訟が提起され、現在、全国各地で約20件の裁判が進行中だ。うち次の15ケース<a href="#1" >*1</a>については既に判決が出ている。
<p>地裁レベルでは金沢地裁の判決を除いて全てが合憲判決だ。金沢地裁の違憲判決も後に控訴審の名古屋高裁金沢支部による合憲判決によって覆された。高裁レベルでは、大阪高裁が違憲、名古屋高裁金沢支部、及び名古屋高裁が合憲と、1対2で判断が分れた。いずれも控訴・上告が行なわれているので、今後は舞台が最高裁に移る。
<p>住基ネット訴訟における原告の主要な論点は殆ど共通しており、次の通りとなっている。

<ul>
<li>地方自治体が住民の個人情報を、セキュリティに問題がある住基ネットによって管理するのは、住民の自己情報コントロール権を侵すものである。</li>
<li>自己情報コントロール権を侵すことは、憲法13条の「幸福追求権」によって保証されたプライバシー権侵害を意味する。</li>
<li>したがって住基ネットは憲法違反である。</li>
</ul>

<p>筆者は、いずれの論点も成立しないと考えるものだが、以下にその理由を述べる。

<h4>住基ネット訴訟の論点</h4>

<p>この説は、1967年にコロンビア大学のアラン・ウェスティン教授がその著書『プライバシーと自由』の中で、プライバシー権とは「自己に関する情報の流通をコントロールする個人の能力のことである」と述べたことがきっかけとなっている。ウェスティンは、来たるべき情報化時代にはウォーレンとブランダイスのいわゆる「ほうっておいてもらう権利<a href="#2" >*2</a>」という受身の姿勢だけではプライバシー権は効果的に護れないと考えて、もっと積極的な能動的な姿勢で自己情報を何らかの形でコントロールする必要があると述べたもので、その限りにおいては卓見と言ってよいだろう。
<p>ただし、この説は、英米法系国家に特有の類型的アプローチの過程で、一つのプライバシーの類型として述べられたものであることを忘れてはならない。他の種類のプライバシーや保護の方法まで否定しているわけではない。つまり、自己情報のコントロールが失われたら即プライバシー侵害であるとまでいっているわけではないのだ。
<p>それが、日本においては要件主義的なアプローチの思考形態の中でプライバシー権の“定義として”解釈されてしまった。ということは、自己情報のコントロールが失われたら即プライバシー侵害であるということになるのだ。現在では多くの学者や法律家によって熱烈に支持されてほぼ定説化している。これは日本特有の奇妙な現象である。例えば、インターネットで調べてみてもこの説をプライバシーの定義として支持している海外の学者は殆どいない。
<p>同説に言及する場合でも、ちょうど経済学説史においてマルクス経済学が言及されるのと同じで、過去の偉大な注目すべき学説の扱いである。因みにグーグルで「Definition of privacy」で検索すると上位10サイトのうちで「Westin」教授の名前を含むサイトは一つもない。実際、これをプライバシー権の“定義として”考えると次のような種々の問題が生じてくる。

<h4>定義としての自己情報コントロール権説の問題点</h4>
<p>第一に、「自己情報をコントロールする」ことはプライバシーを保護する方法・手段の一つに過ぎないのであって、達成目標概念であるプライバシーそのものではない。定義は目標概念の本質論的考察から導き出されなくてはならないのに、護る手段・方法が自己目的化するのでは本末転倒である。
<p>第二に、この説では自己情報を定義していないから範囲が広すぎる。したがって、乱用の危険性がでてくる。必ずしも“全ての”自己情報とはいっていないが、プライバシーに属するのは自己に関する情報のある一部に限るべきであるという制限的な主張が含まれていない。
<p>第三に、自己情報をコントロールすることは、個人情報について財産権的な把握をすることが可能であることを前提とするが、この前提は現行の法体系下では成立しない。そもそも自己情報を“全て”自分でコントロールすることなどは不可能であるし、それを法律で守るべき法益として社会に認知せしめる必要もない。
<p>第四に、同説は自律権に関するプライバシー権や、私生活の平穏・静謐を護る権利をカバーしていないから定義としては包括的でない。米国では、妊娠中絶問題のロー対ウエイド事件<a href="#3" >*3</a>、安楽死のカレン事件<a href="#4" >*4</a>やテレサ事件<a href="#5" >*5</a>の例に見るとおり、不可侵私的領域（Untouchable personal domain）における行動や決定に介入されたり妨げられたりしない権利、すなわちある種の自律権が、プライバシーの最も重要な部分として認められている。日本では情報に関するプライバシー（インフォメーション・プライバシー）権ばかりが関心の的となっているのと対照的である。
<p>第五に、自己情報コントロール権説は、住基ネット訴訟のベースとなっている一般不法行為理論と矛盾する。同説によれば、個人データが漏洩や盗難によって、本来の保管責任者の手から離れて放置されることは、情報主体者の自己情報コントロール権が侵されるわけだから、即プライバシー権侵害となる。ところが、民法第709条の一般不法行為が成立するためには次の四つの要件が全て充足されなければならない。すなわち、①加害者の故意、又は過失、②権利侵害の現実の発生、③損害の発生、および④侵害と損害発生の間の相当因果関係である。
<p>住基ネットは、氏名・住所・生年月日・性別の基本4情報（以下、住基ネット・データと称する）を住民票コードで管理してネットワーク利用が出来るようにしているものだ。住基ネット・データは公知の事実であるからそれ自体にはプライバシー性はなく、秘匿したい事柄とアンカリング<a href="#6" >*6</a>されてはじめてプライバシー権侵害となる。つまり、個人情報が漏洩して静的な侵害誘発状態に置かれたということは、セキュリティ事故が起きたことを意味するだけだ。プライバシー権侵害行為も損害の発生もまだ起きていないのだから不法行為の要件に合致しない。

<h4>公共財としての基本的個人識別情報</h4>
<p>住基ネット・データのような基本的個人識別情報は、社会的な有用性が極めて高いものだから、一種の公共財として積極的に流通・活用したほうが社会全体のためにはよい。公知の事実であるからプライバシー性もない。住基ネット・データは、京都府宇治市のデータ流出事件において最高裁がプライバシーと認定したと称されることがあるが誤りである。最高裁の判決は、宇治市の「本件データは（旧）住民基本台帳法第11条<a href="#7" >*7</a>によって何人も閲覧することができるもので、公開されている情報」であるから公知の事実であり、したがってプライバシーではないとの主張を退けたに過ぎない。
<p>判決は、第一に住民基本台帳は国民の誰でもが閲覧することが出来るけれども閲覧には請求者の住所・氏名を明らかにして請求事由を明らかにするなどの一定の手続き上の制約が課せられているので単純な公開ではないこと、そして第二に4項目のほかにも転入日、世帯主名や続柄などの情報も一体化しているので、公開を欲しない情報と結びつく可能性もあることを指摘するものであった。判決は、それゆえに「住民基本台帳記載の全てが公知の故を持ってプライバシー権がないとまではいえない」と述べたものであって、それ以上はいっていない。それに、これは住民基本台帳データの流出事件であって住基ネット・データ流出事件ではない。

<h4>プライバシー権の憲法上の根拠</h4>
<p>プライバシー権の根拠としての憲法13条説は、多くの学者や法律実務家によって支持されてきた。憲法学の泰斗、芦部信喜教授は、人格権の一つとしてのプライバシーの権利は、「学連事件、前科照会事件等の最高裁判決によって憲法上の権利としても確立した。それを広く、個人の人格的生存にかかわる重要な私的事項（たとえば容ぼう、前科など自己に関する情報）は各自が自律的に決定できる自由ということができる<a href="#8" >*8</a>」、と述べている。
<p>佐藤幸治教授も「プライヴァシーの権利は、個人が道徳的自律の存在として、自ら善であると判断する目的を追求して、他者とコミュニケートし、自己の存在にかかわる情報を開示する範囲を選択できる権利として理解すべきものと思われる。かかる意味でのプライヴァシーの権利は、人間にとって最も基本的な、愛、友情および信頼の関係にとって不可欠の環境の充足という意味で、まさしく『幸福追求権』の一部を構成するにふさわしいものといえる<a href="#9" >*9</a>」と述べている。その他にも、錚々たる憲法学者が13条説を支持しているので、数の上からは本説が圧倒的に有利である。

<h4>13条根拠説批判</h4>
<p>少数派ではあるが、伊藤正己（元）最高裁判事は、13条説に批判的な立場<a href="#10" >*10</a>を取っている。筆者もそれを支持するものだ。伊藤は四つの理由を挙げているが筆者はもう一つ追加したい。
第一に、憲法13条は、国のあり方を示す客観的秩序を宣言するもので、具体的権利を与えるものではない。
<p>第二に幸福追求権という観念はあまりにも不明確で漠然としているから、これを根拠とするのであればどんな法益でも成立してしまう。幸福追求権から派生せしめ得る憲法上の人権の候補としては、他にも環境権、日照権、眺望権、嫌煙権などいくらでもある。このどれかを憲法13条の幸福追求権に基づくものとして裁判所が承認すると、当該権利が憲法上の人権という名誉ある位置を占めることになる。それは司法による立法権の侵害に他ならない。
<p>第三にプライバシー権という具体的権利の根拠となるためには法律上の当事者適格、権利の射程範囲、侵害に対する救済方法などが明らかにされねばならないにもかかわらず13条からはそれらが明確にならない。
<p>第四に、憲法には私人間（しじんかん）効力の問題、すなわち近代憲法は、政府や自治体を対象とするものであって、私人間の関係は私的自治優先の原則に任せるから、憲法の規定は特別立法なしには私人間の関係には及ばないという基本原則があり、普遍性を欠く。したがってプライバシー権のような拡がりを持つ権利の根拠法たりえない。
<p>筆者は、伊藤の反対論に次を第五の論点として追加したい。プライバシー権は自然権とは言えず、近代以降に形成された新しい人為的な人権であるので、既存の幸福追求権のような漠然とした条文に頼るべきではない。人為的かつ正当な立法措置を経て実体法として認知すべきものである。
<p>もしプライバシー権が国家の成立以前に成立している自然権といえる性格のものであれば、たとえ憲法に明文化されていなくても憲法上の権利と考えることは出来る。しかし、プライバシー権は人々の生活が物質的に豊かになって、精神的な欲求が高度化してはじめて生まれ、社会的にも認知された新しい人権なのだから、明文規定のない憲法に根拠を求めるのは無理がある。
<p>プライバシー権に限らないが、すべての権利を憲法上のものとして考える必要はない。プライバシー権は、自然権的な普遍的妥当性を備えている他の種の自由や人権と競合・衝突した場合の調整にあたっては、譲るべき場合がどうしても多くなる。しかし、プライバシー権はその生成が新しくかつその成立の過程に困難さが伴っただけに、儚いものであり、それゆえにこそ貴重なものである。

<h4>結論</h4>
<p>住基ネットは、社会的に極めて有用な基本的個人識別情報を活用して、行政コストを削減し、かつ行政サービスを向上させるために必要不可欠な社会的インフラストラクチャーである。行政システムの向上は、現状の縦割り行政システムの横断的統合を行なうことがスタートとなる。住基ネットの住民票コードを行政機関が保有するデータベース全てに共通なプライマリーキーとして活用すれば名寄せが可能になるから、現状では全て縦割りとなっている行政システムを横断的に連結して個別の住民をターゲットとした行政サービス・システムをその上に構築することが可能になる。
<p>プライバシー権は高級で高尚な人権だから十分に尊重しなければならないが、物で言えば奢侈品や芸術品に相当する。生活必需品ではないのだから、より基本的な人権や自由、および公益と衝突したり競合したりしたときには優先順位は低くなる。他の基本的な人格権と比べると優先順位が高いわけではないのだ。
<p>全国各地で進行中の住基ネット違憲裁判は、誤った自己情報コントロール権説にとらわれて、しかも根拠が漠然としている憲法13条説を援用したものだ。筆者は原告の主要な論点は全て成立しないから、憲法上の問題は存在しないと考えている。すでに15ケースで判決が下されているが、違憲判決となったのは地裁で1件、高裁で1件に過ぎず、後は全て合憲判決だ。ただし、いずれも控訴・上告中だ。日本の法曹界は可及的速やかに自己情報コントロール権説の呪縛から逃れるべきだ。

<p><br />
<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >参考文献<br />
<p><a  name="1">*1</a> 判決が出ている住基ネット裁判15ケース：【地裁レベル】…金沢地裁（05.5.30　違憲）、名古屋地裁（05.5.31　合憲）、福岡地裁（06.3.14　合憲）、千葉地裁（06.3.2　合憲）、大阪地裁（06.4.7　合憲）、東京地裁（06.4.7　合憲）、和歌山地裁（06.4.11　合憲）、神戸地裁（06.6.9　合憲）、東京地裁（06.7.26　合憲）、横浜地裁（06.10.26　合憲）、さいたま地裁（07.2.16　合憲）、福島地裁（07.5.15　合憲）。<br />
【高裁レベル】…大阪高裁（06.11.30　違憲）、名古屋高裁金沢支部（06.12.11　合憲）、名古屋高裁（07.2.1　合憲）。なお、この他に名古屋高裁（06.4.19　合憲）による「住基カード」のプライバシー権侵害訴訟における合憲判決がある。<br />
<p><a  name="2">*2</a> 「ほうっておいてもらう権利」：1890年に刊行された「ハーバード・ロー・レビュー 193」にSamuel B.WarrenとLouis B. Brandeisが発表した論文 “ The Right to Privacy ”が、米国でプライバシー権の概念が形成されるに至ったきっかけである。同論文の中で、プライバシー権とは “ Right to be let alone “ （ほうっておいてもらう権利）と規定されている。米国においては現在でも判例にしばしば引用されている。<br />
<p><a  name="3">*3</a> ロー対ウエイド事件：米国テキサス洲の妊婦がおこした中絶の権利を求める裁判で、連邦最高裁は1973年にこれを認める判決を下し、人工妊娠中絶がプライバシーの権利の一部であると認めた。それまでは、多くの州において中絶は違法とされていた。<br />
<p><a  name="4">*4</a> 木カレン事件：1975年、当時21歳であったカレン・アン・クインランは、パーティにおいて飲酒後に精神安定剤を服用したところ、突然昏睡状態に陥ってしまい、植物状態になってしまった。家族は担当の医師に生命維持装置をはずして安らかに死なせてやって欲しいと嘆願したが、医師はこれを受け容れなかったので、訴訟になった。第一審は家族を敗訴としたが、控訴審のニュージャージ州最高裁判所は「合衆国憲法により認められているプライバシー権は患者が治療を拒否する決定を下すことも含まれている」として家族を勝訴とした。皮肉なことにカレンは生命維持装置をはずされてからも自力呼吸を続けて9年間も生きながらえた。<br />
<p><a  name="5">*5</a> テレサ事件：1995年、米フロリダ州でテレサ・シャイボ（当時26歳）という女性が植物状態になり、その後栄養チューブによる延命治療を受けてきた。2003年に至り夫が尊厳死を求めて訴訟を起こして、これを認める判決を勝ち取りチューブははずされた。ところが、カレンの場合と異なり女性の両親はこれに反対して訴訟をおこしたので激しい論争が起きた。フロリダ州の上下両院は、知事に裁判所の決定を覆す権限を一回だけ与えるという珍しい臨時の時限法案を緊急可決したのでブッシュ知事は再び生命維持用の栄養チューブを挿入させる異例の命令を出した。これを不満とした夫は州裁判所にて提訴し、州裁判所は再び夫の希望を認めたので、テレサさんの栄養チューブは2005年に再度、取り外された。キリスト教右派などが延命を求めて抗議行動を展開するなど大論争が起こった。テレサはそうした中で同年3月31日についに息を引き取った。<br />
<p><a  name="6">*6</a> アンカリング：カナダ生まれの米国の社会学者、アービング・ゴフマンは、個人識別情報と秘匿したい事柄が結ぶつけられることをアンカリングとよび、アンカリングこそがプライバシー侵害の本質であると述べた。<br />
<p><a  name="7">*7</a> （旧）住民基本台帳法第11条：１．何人でも、市長村長に対し、住民基本台帳の閲覧を請求することができる。2．前項の請求は、請求事由その他自治省令で定める事項を明らかにしてしなければならない。ただし、自治省令で定める場合には、この限りではない。(以下、略)<br />
<p><a  name="8">*8</a> 芦部信喜（高橋和之補訂）『憲法〔第３版〕』岩波書店2002年　118ページ<br />
<p><a  name="9">*9</a> 佐藤幸治『憲法〔第3版〕』青林書院1995年p453～454<br />
<p><a  name="10">*10</a> 伊藤正己「憲法　第三版」1999年　ｐ229～230<br />
</font></p>

<p><br />
<h5 class="profile"> プロフィール</h5><br />
<img alt="aoyagi.jpg" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/aoyagi-thumb.jpg" width="150" height="112" /><br />
<p><あおやぎ・たけひこ><br><br />
国際大学グローコム客員教授【情報社会学、サイバーロー（情報法）】1934年生まれ。1958年、東京大学卒。伊藤忠商事（株）入社。1985年から1995年まで日本テレマティーク株式会社（NTTと伊藤忠の折半出資によるソフト開発会社）社長、1995年から2006年3月まで国際大学グローコム教授。主な著書：『ネットワーク戦略』、『グローバル企業の情報戦略（共著）』、『2005年日本浮上（公文俊平らと共著）』、『サイバー監視社会』、『個人情報「過」保護が日本を破壊する』他。<br />
</p></p>]]>

</content>
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<title>第34回: コンテンツビジネス、事業構造の変化</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/2008/02/34.html" />
<modified>2008-03-19T06:31:04Z</modified>
<issued>2008-02-27T07:49:57Z</issued>
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<summary type="text/plain">福冨　忠和(国際大学GLOCOM　客員教授) ネットコンテンツは拡大しているか？...</summary>
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<name>tomohisa</name>

<email>tomopisa@gmail.com</email>
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<![CDATA[<p class="author">福冨　忠和(国際大学GLOCOM　客員教授)</p>

<h4>ネットコンテンツは拡大しているか？</h4>

<p>2006年の国内のメディアコンテンツの市場規模は、13兆9890億円にのぼる。これらを流通メディア別に分類すると、パッケージ流通（図書、新聞、音楽CD、ビデオソフト、ゲームソフトなど）が49．6％の6兆9415億円、放送が28．7％の4兆158億億円、映画、カラオケなどの拠点サービスが12．6％の1兆7678億円。これに対し、インターネットは5．6％の7857億円、携帯電話が3．4％の4782億円となっている。

<center>
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</center>

<p>この5項目の流通別の比率は、インターネットでのコンテンツサービスが開始された90年代末からの調査・分類にはじまり、わずかづつ変化している。たとえば、インターネットおよび携帯電話を通したコンテンツの流通規模は、2002年からの5年間で比率、数値共に倍増している。コンテンツ市場全体の成長率が、毎年1～3％の間で推移してきたことから考えると、インターネット、携帯電話を併せたネットコンテンツは急成長分野だと考えられなくはない。

<center>
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</center>

<p>しかし、市場全体の中での比率からは、「微増している」というほかなく、旧来のコンテンツの市場流通規模には遠く及ばない。
<p>21世紀に入って、国内のインターネットの利用者人口は5000万人増加、携帯電話人口は8000万人増加、ブロードバンド利用者数も3000万人に届く。一般消費者向けの電子商取引も2004年時点で5兆6430億円（経済産業省）の規模となっている。にもかかわらず、ネット・携帯を通じたコンテンツ流通の規模は、市場の1割にやっと届いたところなのだ。伸び率から単純に試算すると、コンテンツのネット配信が旧来のメディア産業に届くには最短でも数十年かかってしまう。
<p>2005年にはCurrentTVが米国で開始され、インターネットテレビ・GyaOが開始された。また、同年はYouTubeのサービスもはじまり、ブログ、SNSなどともに、Web2．0型ビジネスの可能性が大いに語られた。あわせて2005、6年を一括りに「動画配信元年」と呼ぶ向きもある。気の早い論者はネット動画やCGM(Consumer GeneratedMedia）が、旧メディア産業を駆逐するという寓話を描いたり（「EPIC2014」）、メディア産業が「総表現社会」（梅田望夫）に代替されると予測した論もあった。しかし、そういう社会は、そんなに早く実現しないと見るべきだろう。
<p>その原因について、筆者はすでに幾つかの文章で触れてきている（たとえば　『デジタルコンテンツ白書2007』（財団法人デジタルコンテンツ協会）や『月刊ウィンドウズモード』（毎日コミュニケーションズ）2007年8月号特集「ネット動画ビジネスのゆくえ」での拙論など）。
<p>ここでは、こうした近年のネットコンテンツの希望的観測に溢れた喧噪とは違うところで、コンテンツ産業の側で静かに進行した収益構造、環境の変化について、述べておきたいと思う。

<h4>ウィンドウィングとグッドウィルモデル</h4>

<p>コンテンツ産業で進行しているのは、マルチユース化とメディアミックス化であり、もう一つは海外市場の開拓である。この2つの動向の中で、本来創造の原資を担ってきたにもかかわらず、下請け企業としてバリューチェーンの最下層にあった制作会社が最上層に浮上する機会が生まれた。同時に作品あたりの予算規模や事業規模も拡大しつつあり、そのための資金調達手法が開拓され、制度としても整いつつある。
<p>一般に、（ワンソース）マルチユースと呼ばれる事業化のスタイルは、劇場用映画の旧作をテレビ放映やビデオパッケージとして発売する、いわゆるウィンドウ戦略として知られている。しかしメディアミックスと呼ぶ場合には、もう少し広範で、小説原作を映画化することや、マンガ、アニメ作品から商品化が行われるキャラクターマーチャンダイジングなども含まれる。後者については1961年のテレビアニメ版の『鉄腕アトム』が国内の初期の例であることも知られているとおり、いずれにしても日本国内市場では、古くから行われてきたビジネスの形である。
<p>木村誠は、これらのコンテンツビジネスをウィンドウィングモデルとグッドウィルモデル（後述）の2つの理念モデルに分類している<a href="#1" >*1</a>。ウィンドウィングモデルは、「同一コンテンツを供給時期と画面サイズの異なるメディアに対して、価格差異化を行いながら提供していくモデル」である。このモデルには本質的に、

<p>1）規模の経済、範囲の経済の追求<br />
2）安全な配給経路の保によるリスク削減<br />
3）排他的配給経路により参入障壁を築く</p>

<p>などの傾向が進む特長があるとされる。<br />
<p>ハリウッドビジネスとして確立したこのウィンドウズモデルは、単純に言えば収益機会の最大化を目指すため、コンテンツ制作から流通整備までを伴う大規模なモデルであり、その結果、多くのハリウッド資本では、撮影スタジオ、映画配給、興業、ビデオ発売、放送、出版、ネットなどを含めた企業合併・吸収が1990年以降活発化し、メディアコングロマリッド化を推し進めることになったと考えられる。<br />
<p>『鉄腕アトム』以来行われてきた日本のメディアミックスのモデルでも、長らくウィンドウィングのように、特定メディアの中で評価を得た一作品の影響力、波及力を、別のメディア展開や商品化によって活用するだけの、二次利用、再利用の側面が強かった。<br />
<p>しかし、近年一般化しているのは、単なる再利用ではなく、最初の創作・制作立案の段階で、コンテンツの構成要素である物語、シーン、キャラクター等を抽出し、それを元にした二次的創作などによって、商品化や、そこから派生する別のコンテンツを、同時に展開・事業化させるような試みである。木村がグッドウィルモデルとして理念化すること事業モデルでは、コンテンツが同時に複数のメディア配信、商品化そのほか多面的な展開の中からユーザーに訴求され、それが総体としてグッドウィル(goodwill、質的資産）を形成し、それらの著作権、商品化権、意匠権ほかの権利化を通し、総合的な収益化が図られるていく。<br />
<p>木村はそれを、図３の4つのコンテンツの変換パターンとして分類している<a href="#2" >*2</a>。</p>

<center>
<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/fukutomi3.html" onclick="window.open('http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/fukutomi3.html','popup','width=596,height=414,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/fukutomi3-thumb.jpg" width="400" height="277" alt="" /></a>
</center>

<h4>コンテンツビジネスの転換点</h4>

<p>もともとグッドウィルモデルは、戦略的に考案されたものではない。たとえば、『鉄腕アトム』では、テレビ局にアニメ放送の前例が乏しかったため、極めて低く設定された制作費を補うため、製菓会社とのキャラクターマーチャンダイジング契約が進んだ経緯があったようだ。つまり、ウィンドウウィングモデルが「収益の最大化」モデルであるとすれば、グッドウィルモデルは後述する製作委員会方式ともども、「リスクの最小化」モデルとして日本特有のメディア、コンテンツの市場環境から生まれてきたと言えるだろう。
<p>このグッドウィルモデル＝メディアミックスの戦略化がコンテンツ市場で前景化してきたのは、1980年代末から90年代初頭にかけてである。この時期、普及した家庭用ゲームソフトとマンガ、アニメ作品などとのメディアミックスが進行し、エニックス（現スクウェアエニックス）のように、出版ビジネスに参入するゲーム会社も登場した。
<p>たとえば『オバケのQ太郎』『ドラえもん』などでアニメ作品にマンガ原作を提供してきた小学館は、1990年にメディアミックス編集部を設置し、98年にキャラクター事業センターを設立。出版社に初めて映像プロデューサー職を導入し、同年にアニメ「ポケモン（ポケットモンスター）」テレビシリーズを開始させている。同時期、小学館、集英社、講談社、秋田書店などのマンガ出版の大手で、マンガ誌の販売部数が減ったことを受け、読者年齢が拡大しすぎた少年誌を、再度、実年齢の少年層へと回帰させる戦略がとられたことも背景にある。
<p>『オバケのQ太郎』の成功から本社ビルがオバＱビルと呼ばれることもある小学館が、こうした経験からメディアミックス展開を積極化したことは推測できる。しかし著作権法上は、原作を出版するだけの出版社は著作物の著作権も隣接権も持たない（たとえば『鉄腕アトム』の発行は単行本、雑誌掲載含め、数社の出版社で行われている）。したがって、出版以外のメディア展開に出資者・事業主として主体的に関与する必要が生まれたと考えられる。キャラクター事業センターの成功を受けてか、2004年には、日本国内の映画興行収入ベスト10作品中、6作品の原作が小学館発行のものとなっている（アニメ4作品、小説2作品）。
<p>1991年にはテレビ東京が6局の大都市圏ネットワーク（メガトンネットワーク）を完成させたことで、テレビアニメの全番組数は80年代の週40本程度（30分番組換算）から90年代末には週80本以上に増え、アニメビジネス全体が拡大したことも大きな要因だろう。この時期に広がった衛星放送、CATVなどの多メディア化と、ゲーム、出版、映画などを含めたメディアミックス展開が市場規模を広げ、市場競合で作品の質が向上することで、マンガ、ゲーム、アニメを中心とする日本コンテンツの評価が国内外で大いに高まる契機となったといえる。

<h4>事業モデルと資金調達の新たな可能性</h4>
<p>これらの変化は、事業モデルや資金調達にも変化をもたらしている。
<p>従来のテレビアニメ番組などの場合、キー局が広告代理店を介して調達した広告費の一部が、制作費となり、制作会社は放送局の下請けとして制作を受託する。制作会社にリスクは無いが、番組（作品）の権利の大半は放送局に帰属し、その後の番組の再販の権利もそこからの収益も、本来バリューチェーンの最上流に位置すべき制作会社に無い。
<p>しかし、メディアミックス、マルチユースによって、マスメディア外の収益比率が高まることで、徐々に製作委員会方式などの事業形態が広まっていった。この方式では、メディア企業（テレビ局、映画会社）以外に、原作権を持つ出版社、広告代理店、玩具メーカー、商社などによる製作委員会（民法上の任意組合）が設立される。出資者である組合員各社には出資比率に応じて利益が配分されるが、それとは別途に、個々の権利（興行権、放送権、出版権、商品化権、海外販売）の窓口権を得ることになる。つまり、製作委員会方式では、各組合委員が投資と事業化の両方を担う形で、二重の回収方法が用意されており、そういう意味でも「リスク最小化」モデルと考えられるのである。
<p>しかし製作委員会方式でも、コンテンツの制作会社は、自己資金を持たない限り、下請け会社であることにかわりは無い。製作委員会方式には、各分野の会社が直接関わるため、事業の専門性が高く、成功確率が高いというメリットがある。反面、成果物の著作権は出資者の共有となり、事業運営も長年の信頼などに頼って展開されるため、権利の管理については逆に複雑となったり、外部からの資金を調達しにくいなどの短所もある。
<p>90年代末以降は、業界外部からも出資ニーズが生まれ、並行して進んだ制度整備と相補的に、事業モデルと資金調達にも新たな形態が採用されるようになっている。
<p>たとえば、1998年に施行されたSPC法（特定目的会社の証券発行による特定資産流動化に関する法律）を元に、著作権の証券化が可能になった。この方式を用いアニメ制作会社ゴンゾが資金調達を行った例が知られている。
<p>2004年の信託業法改正（受託可能財産の制限の撤廃）による知的財産信託を用いた資金調達では、シネカノンの作品に対して行われ、映画『フラガール』で大成功した事例もある。このほか、2005年施行のLLP法（有限責任事業組合契約に関する法律）に基づくLLP設立による資金調達（日本テレビとＮＴＴドコモによる事例など）、2006年施行の会社法の合同会社（LLC）の設立による資金調達（フジテレビとチームラボビジネスデベロップメント）のなど、リスクの低い潤沢な資金調達で、メディアミックス化の中で作品の質を向上させながら、制作会社の権利を確保していく道筋も見えてきた。制作会社の株式公開（プロダクションＩＧ、ＧDＨほか）などと相俟って、新たな制度整備がコンテンツ産業の可能性を広げつつあることも間違いがない<a href="#3" >*3</a>。
<p>コンテンツビジネスは、、グッドウィルモデルと新しい資金調達・事業方式の採用によって、その都度ビジネスの局面を切り開いてきた。マスメディアを中心に縦に階層化され、最下層に位置づけられていたクリエイターやコンテンツ制作会社が、表現能力を原資にして、本来あるべきバリューチェーンの最上層に浮上してきたというふうにも見える。そうしたコンテンツ産業から見ると、市場の新たな出口であるインターネットや携帯電話によるコンテンツ配信の可能性は無視できないだろう。
<p>しかし逆に、インターネットや携帯電話などのネット配信ビジネスが、旧来のマスメディアの地位に代替し、コンテンツ産業を配下に置く、というようなイメージを持っているとすれば、ネットコンテンツの可能性は閉ざされることになるだろう。

<p><br />
<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >参考文献<br />
<p><a  name="1">*1</a> 木村誠「コンテンツビジネスの基本モデル」、長谷川文雄・福冨忠和・編著『コ<br />
ンテンツ学』（世界思想社　2007年）第六章。<br />
<p><a  name="2">*2</a> 木村誠「コンテンツビジネスを射程とするプラットホーム戦略の試み」『経営<br />
情報学会2006年春季全国研究発表会予稿集』。<br />
<p><a  name="3">*3</a> 戒野敏浩・著『デジタルコンテンツマネジメント』（同文社出版　2007年）など<br />
参照。<br />
</font></p>

<p><br><br />
<br></p>

<h5 class="profile"> プロフィール</h5>
<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/071104_000323_M.jpg"><img alt="071104_000323_M.jpg" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/071104_000323_M-thumb.jpg" width="150" height="200" /></a>
<p><ふくとみ・ただかず><br>
専修大学ネットワーク情報学部教授。デジタルハリウッド大学客員教授。国際大学グローバルコミュニケーションセンター客員教授。『デジタルコンテンツ白書』編集委員会委員長、デジタルコンテンツグランプリ、グッドデザイン賞他の審査員を務める。『インターフェースの大冒険』（アスキー　2000年）、『ヒット商品の舞台裏』（アスキー　2003年）、『メディア学の現在（新訂）』（共著　世界思想社　2007年）『コンテンツ学』（共編著　世界思想社　2007年）ほか。
</p>]]>

</content>
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<title>第33回: 政策形成・選挙と、情報技術を使いこなす人々（２）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/2008/02/33.html" />
<modified>2008-03-19T06:31:04Z</modified>
<issued>2008-02-27T07:24:27Z</issued>
<id>tag:www.glocom.ac.jp,2008:/j/publications/journal_archive//11.10869</id>
<created>2008-02-27T07:24:27Z</created>
<summary type="text/plain">庄司　昌彦(国際大学GLOCOM　研究員) エリート民主主義と参加民主主義 前号...</summary>
<author>
<name>tomohisa</name>

<email>tomopisa@gmail.com</email>
</author>
<dc:subject>text</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/">
<![CDATA[<p class="author">庄司　昌彦(国際大学GLOCOM　研究員)</p>

<h4>エリート民主主義と参加民主主義</h4>

<p>前号では、公共的な問題に関心を持ち、情報技術を活用して情報収集を行ったり、情報発信を行ったりする人々が台頭してきていることを紹介した。このような人々は、従来型の政産官の政策コミュニティに必ずしも属していないけれども、部分的には現実の政策形成過程や選挙に影響を与え始めている。
<p>ただし、詳しく見るとこのような人々の姿は多様である。専門知識を生かしてマニフェスト作りや個別の政策議論に深く関与する人々から、特に専門知識を持たないがコンテンツやネット上の盛り上がりを生み出すことで政治や政策形成に影響を与える人々までが含まれており、人々の属性や具体的な振る舞いも大きく異なっている。そこで、まずは公共的な問題に関心を持つインターネットユーザーの行動を政治学の知見をもとに整理し、そして今後の政策形成を議論していくことにしたい。
<p>政治学では、人々の政治・政策形成への「参加」について「エリート民主主義」論と「参加民主主義」論という二つの立場で整理している。「エリート民主主義」論とは、一般的な人々の政治的な能力を疑問視し、政治を安定・効率的に運営するためにはエリートに政治を任せる代議制が望ましいという立場だ。代表的な論者は、経済学者のヨーゼフ・シュンペーターだ。これに対して「参加民主主義」論は、一般の人々は政治に参加することで公共的課題への関心を深めるなど、政治参加には教育的な意義や規範的な意義があると考え、より多くの人が政治に参加するよう求める立場だ。
<p>もちろんこれらは、どちらが必ず正しいというものではない。エリート民主主義を推し進めれば、一部の人々が自分たちに都合がいいように政治を牛耳っているなどとの批判が起こり、参加民主主義を推し進めれば、ポピュリズムや衆愚政治などといった批判が起こる。財界大手企業との関係が深い米国の（現）ブッシュ政権は前者の批判を多く受け、従来型の政策コミュニティの秩序よりも国民の直接的な支持に訴えた日本の小泉政権は後者の批判を多く受けた。
<p>情報社会における政治・政策過程への参加についても、「エリート民主主義」論と「参加民主主義」論を踏まえて次のように整理することができる。
<p>まず「情報社会のエリート民主主義論」は、情報社会の進展などによって、「エリート」である知識人が、霞ヶ関を中心とする旧来の政策コミュニティの外部にも存在するようになったことを認める。そして、新たな「エリート」と政治・政策エリートとの情報交換や協働作業を、情報技術を活用して行おうということになる。たとえば、新潟県の泉田裕彦知事が知事になる前から提唱していた「政策プラットフォーム<a href="#1" >*1</a>」は、政府の政策形成に有識者や強い関心を持つ人々がテーマに応じて適宜参加する審議会のような仕組みであり、全国民（県民・市民）の考えを取り込もうとしている訳ではないという意味で、エリート民主主義的である。また前号で紹介した、東国原知事を支えた若手専門家の事例もこちらに該当するであろう。
<p>次に、「情報社会の参加民主主義論」は、情報技術によって表出された世論や、情報技術を活用した政治運動などが、直接的に政治・政策過程に反映されることを支持する。たとえば、毎日15万～20万のブログ記事を分析して「話題のキーワード」として提示しているkizasi.jp<a href="#2" >*2</a>が2007年参議院議員選挙に際して特集ページを設けて一種の世論分析を行ったが、このようにより多くの一般の人々の関心を明らかにすることは参加民主主義的であるといえよう<a href="#3" >*3</a>。このほか、情報技術を活用する人々が世論を盛り上げ、選挙の投票率を引き上げるなどして大きな力を発揮した韓国の事例も、こちらに該当するであろう。

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<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/33.html" onclick="window.open('http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/33.html','popup','width=492,height=246,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/33-thumb.jpg" width="400" height="200" alt="" /></a>
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<h4>「一般的な人々」の知性</h4>

<p>エリート民主主義論では、多くの一般人は政治的な能力が低く、優秀な人（エリート）は少ししかいないと考え、政策議論や高度な判断についてはエリートへの権限委譲を求める。一般人としては、政治的な能力が低いので権限を委譲せよという議論は受け入れがたいものがあるが、残念ながら人間の「能力」と呼ばれるものの中に偏りがあるというのはあながち嘘ではない。たとえば、ある企業の収益の80％は20%の従業員が上げている、犯罪事件の80%は犯罪者のうちの20%の人間によって犯されている、などといったことが実際のデータあるいは経験則として語られ、これらは「パレートの法則（80対20の法則）」と呼ばれている<a href="#4" >*4</a>。あまたあるブログの中で、多くの人の注目を集めるブログは一部の人に限られているとか、メーリングリストでの発言量は一部の人が他の人々よりも圧倒的に多いといったことなど、「平等」というイメージがもたれがちなコミュニケーションやネットワークの分野でも「偏り」が存在することはよく知られてきている。
<p>その一方で、一般の人々の知識や判断の集積が、エリートのそれよりも正しかったり大きな成果を生み出したりすることがある。それは「集団の知性」「集合知」などと呼ばれ、ジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい（原題：The Wisdom of Crowds）<a href="#5" >*5</a>』に詳しい。たとえば次のような話がある。日本ではフジテレビ系で放映されている人気クイズ番組「クイズ＄ミリオネア」では、回答者が答えにつまった時に、4つの選択肢のうちどれが正解と思うかを会場の観客にコンピュータ投票システムを使ったアンケートで聞いてみることができるが、米国版のこの番組における観客の正答率は91%であったという。この番組を見たことがある人ならば、なぜあんなに難しい問題の答えを観客が的確に当ててしまうのか、疑問に思ったことがあるのではないだろうか。観客はどこかから集められた専門家などではなく一般の人たちで、（たまたまその問題の正答を知っていた人もいるだろうが）ほとんどの人が答えを知らないまま4つの選択肢の中からひとつを選んでアンケートに答えているだけだ。それでも観客の多数は正解を当ててしまう。
<p>スロウィッキーは、このような「集合知」が発揮されるのは、クイズの例のような、ある時点で答えが出る問いを予測する「認知」問題と、集団の中で人々が他人の行動を予測しながら自分の行動を決めて調和を作り出す「調整」問題<a href="#6" >*6</a>、集団のメンバーが互いに一定の不利益を受け入れながら全体の利益のために行動する「協調」問題においてであるという<a href="#7" >*7</a>。ただし（１）意見の多様性（各人が独自の私的情報を多少なりとも持っている）、（２）独立性（他者の考えに左右されない）、（３）分散性（身近な情報に特化し、それを利用できる）、（４）集約性（個々人の意見を集約して集団の一つの判断にするメカニズムの存在）が確保されていることが条件である。
<p>スロウィッキーによれば必ずしも専門ではない人々の集合知は、アメリカ海軍が事故で沈没した潜水艦の沈没地点を特定するときにも、スペースシャトル「チャレンジャー」事故で原因となった欠陥の責任を負う企業の予測にも力を発揮したという。それだけではなく、じつはGoogleの検索アルゴリズムはこの考え方に基づいている。サイトから別のサイトへのリンクを人々による「支持」の表明であるとみなし、より多くの人々の支持を集めたサイトがより有益な情報源であると捉えているのだ。このほか、ソーシャルブックマークやWikipediaなど、いわゆる「Web2.0」サービスには、集合知の活用を謳うものが少なくない<a href="#8" >*8</a>。またアメリカ大統領選挙の結果を先物取引の形で予測する「予測市場」という仕組みも集合知の応用例で、世界経済フォーラム（ダボス会議）でも世界の政治経済事象の予測に活用を試みている。

<h4>「一般的な人々」のパワーと失敗</h4>

<p>「一般的な人々」の可能性は、知的な能力だけではない。当然のことながら彼らが持つ物理的な「パワー」や影響力も社会を変えるほどの大きさを持つ。それは、さまざまな革命や反乱、デモなど歴史的な事件が証明しているとおりだ。そして、このような社会的な運動の場面で情報技術が駆使されるようになってきている。
<p>コンピュータや携帯電話を駆使して協力関係をつくり、バーチャルな世界だけではなく現実に大きな力を発揮する人々を、ハワード･ラインゴールドは「モバイルでパーベイシブな環境、ウェアラブルコンピューティング技術、集合的コンピューティング技術に支えられ、時には評判システムを頼りに、直接知らない人々とも互いに協力して行動する人々」と描写し、「スマートモブズ」と名づけた<a href="#9" >*9</a>。1999年にシアトルで開かれたWTO総会で閣僚会議を決裂させたNGOのデモ隊、2001年にフィリピンで携帯電話のショートメッセージ（SMS）を駆使し、エストラーダ大統領を退陣に追い込んだ人々、2003年に中国でSMSを通じて政府が隠していたSARS（重症急性呼吸器症候群）の発生を暴露し広めた人々などがスマートモブズの例だ。
<p>また、インターネット上の行為に目を向ければ、掲示板やブログなどでいっせいに多くの人が特定個人の批判を書き込んだり個人情報を暴いたりして当事者が対応しきれない状況になる「炎上」という現象が話題になっている。2006年2月には、施行を目前に控えた電気用品安全法（PSE）法に関連して、経済産業省消費経済部長の谷みどり氏が関連情報を自身のブログに掲載したところ、PSE法に対する疑念や不満、罵詈雑言などのコメントが1100件以上も寄せられ、対応ができずにブログが閉鎖に追い込まれるという事件があった<a href="#10" >*10</a>。この炎上事件の影響だけではないが、中古楽器等の取引がしにくくなるということでPSE法への反対キャンペーンが拡大し、最終的には経済産業省が立法時と施行時のミスを認め、大臣が幹部に厳重注意処分を下すという事態にまで発展している。
<p>だが、このような「運動」の影響力と、判断の正しさや知性の高さとは必ずしも結びついているわけではない。両者は別の問題であって、多くの人々が参加し影響力のある運動が、政治をより民主的にするとか、より優れた政策を生み出すといった効果に結びつくとは限らないのである。ラインゴールドも言及しているが、スマートモブ化とは単に人々の協力のあり方の変化であり、結果の善し悪しとは関係がない。多くの人に支持されて、悪しき独裁者を産みだす可能性もあるのだ。
<p>先述のスロウィッキーによれば、集団の判断が誤るのは、その集団が（１）意見の多様性、（２）独立性、（３）分散性、（４）集約性という条件を満たしていないためだ。行政機関が有益な情報を集めていても集約に失敗すれば政策の効果は十分に得られない可能性があるし、独立性を保たずに周囲の人の意見に安易に同調したり、影響力の大きな人物の判断に従うだけであったりしては、判断を誤る可能性が高い。特に「調整」や「協調」の問題では4条件の成立が難しいといえるだろう。
<p>しかも、情報技術はさらにマイナスの効果をもたらす可能性すらある。憲法学者のキャス・サンスティーンは、インターネット上のコミュニケーションでは、同じ意見を持つ人どうしが出会って仲間になることが容易なため、主義主張の純化や先鋭化が進み、対立する立場を無視・排除する傾向が強化される「サイバーカスケード」が頻発すると述べている。彼によればこの現象が進むと、「異なる立場間のコミュニケーション」や「社会的な共通体験」など、民主主義を支える重要な要素が社会から失われてしまう<a href="#11" >*11</a>。容易に同調しあう人々が集まり、主張を先鋭化したり、対立する立場を排除して幅を効かせたりするこの現象は、集団の知性を発揮しているとは言えず、単にあちこちで「炎上」のようなことを起こして社会に混乱をもたらすだけだといえる。
<p>このように、人々の集合行動には高い知性を発揮する可能性も、物理的な力や影響力によって社会を動かす可能性がある一方で、「失敗」することも少なくない。しかし情報技術を用いることでこのような集合行動が実行しやすくなっている面があり、今後の政治（選挙）や政策形成を考える上では無視できないテーマになってきたといえる。

<h4>今後の情報通信政策論議</h4>

<p>2005年から2006年にかけ、竹中平蔵大臣の下で総務省は「通信・放送の在り方に関する懇談会（竹中懇）」「IP化の進展に対応した競争ルールの在り方に関する懇談会（IP懇）」などを設置し、通信政策や放送政策の大幅な見直し議論を行ってきた。その結果、2010年のNTT再々編の検討やNHKのインターネット進出容認、通信・放送分野の法体系の大幅な見直しなど、しばらく議論されていなかった大きなテーマが今後の課題として提起されている。これから2010年頃までの情報通信政策は、大きく現状を変えるような改革を議論する時期になるといえるだろう。
<p>本稿ではここまで、情報通信技術を活用して政治や政策形成に影響を与える人々について述べてきたが、彼らの中には、当然ながら情報通信政策の行方に関心がある人が少なくない。例えばP2Pファイル交換ソフトユーザーへの帯域制限の問題に代表されるインターネット接続サービスの価格と帯域幅、利用の自由度などは彼らの利害に直結する問題であるし、著作権保護期間を50年から70年に延長する問題は、コンテンツの視聴や二次利用などにかかわるため、非常に大きな関心事である。
<p>情報通信政策のような専門性の高い議論は通常、国政選挙の争点になることもなく、政府が設置する研究会や審議会などの場で合意形成がされている。だが、今後の議論のテーマや展開によっては、専門知識を持ったユーザーからの鋭い批判や、利便性の低下に反発する人々の「炎上」運動のようなものが生まれてくる可能性も否定することができない。
<p>そのため、情報通信政策の議論は、専門家やユーザーとの意見交換をさまざまなレベルで行いながら進めていかざるを得ないであろう。例えば、竹中懇・IP懇の後を受けてスタートした総務省の「ネットワークの中立性に関する懇談会」では、詳細な議事録や配布資料の公開やパブリックコメントの募集（これらは他の懇談会等でも基本的には行われる）を行っただけではなく、外部の研究者や企業人などから成る「オブザーバ」との議論をSNS（iSpring）上で行った。
<p>また文部科学省の文化審議会著作権分科会では現在、著作権法の保護期間延期問題が議論されているが、権利者側の委員が保護期間を50年から70年に延長することで議論をまとめようとしている中で、専門委員の津田大介氏がユーザーの立場から議論を提起している。津田氏は自身のブログ「音楽配信メモ<a href="#12" >*12</a>」で議論の背景などを詳細に紹介し、この問題への関心を高めることに役立っている。また2006年11月には、十分な議論を尽くすよう求める弁護士や作家、研究者などによって「著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム<a href="#13" >*13</a>」が発足し、賛否についての公開フォーラムやオンラインでの議論などを活発に行っている。
<p>米国では、オープンにユーザーを巻き込んだ運動を政治・政策形成に持ち込もうとするインターネットサービス企業の活動が活発化している。例えば、ネット中立性問題に関し、GoogleやYahoo!などの企業は政治団体を設立し、ユーザーに連邦議会へ中立性の義務付けを働きかけるよう求めるキャンペーンを展開した。またGoogleは2007年4月に社としての公式ブログ「Public Policy Blog 」を設置し、プライバシー、オンラインセキュリティ、著作権などについての見解を積極的に表明している。
<p>これからの情報通信政策に関する議論がどう進むのかはまだわからない。だがいずれにしろ、政策形成過程は大きく変化している。おそらく、さまざまな立場のユーザーや企業や専門家などが、何らかの形で意見を表明し、積極的に議論に知参加しようとすることになるだろう。その時にはぜひ、意見の先鋭化や対立の中で物事が決まるのではなく、集団の知性が発揮される状況で政策決定がなされることを期待したい。

<p><br />
<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >注<br />
<p><a  name="1">*1</a> 泉田裕彦、「政府の機能と情報化による知識創造の場の拡大」、野中郁次郎・泉田裕彦・永田晃也（編著）『知識国家論序説』第2章、東洋経済新報社、2003年。泉田は政策プラットフォームを、「情報通信技術も活用して知識循環の輪を拡大し、組織を超越して特定の政策形成について共通の問題意識や利害関係を有するものから構成される「場」」と定義している。<br />
<p><a  name="2">*2</a> 運営は（株）きざしカンパニー。2007年の東京都知事選挙でも同様の特集ページを開設した。<br />
<p><a  name="3">*3</a> たとえば公示日の7月12日に行ったブログ分析では「参議院選挙」という言葉に「年金／年金問題」「消費税」という言葉が多く関連付けられていることや、「争点」という言葉に「消費税」「年金問題」「（政治と）カネ」「憲法改正」が多く関連付けられていることが明らかになっていた。「【参議院選挙特集】公示前　争点はいかに？」、『ブログクチコミレポート（ブログクチコミサーチ　オフィシャルブログ）』、2007年7月12日、http://blog.kizasi.jp/biz/55。<br />
<p><a  name="4">*4</a> アルバート＝ラズロ・バラバシ（著）、青木薫（訳）、『新ネットワーク思考　～世界のしくみを読み解く～』、NHK出版、2002年、p98-99。<br />
<p><a  name="4">*5</a> ジェームズ・スロウィッキー（著）、小高尚子（訳）、『「みんなの意見」は案外正しい』、角川書店、2006年。<br />
<p><a  name="4">*6</a> たとえば、ニューヨーク市で誰かと会わなければならないが、場所も相手もよくわからず、会う前にその人と話す手段もない場合に、多くの人が全く同じ場所（グランドセントラル駅の案内所）を選んだ（1958年社会学者のトマス・C・シェリングの実験）、といったこと。<br />
<p><a  name="4">*7</a> たとえば、商取引秩序の維持や税金の負担、環境汚染の軽減など。この場合、互いの信頼関係を悪用するようなフリーライダーに適切な制裁を与え、協調の果実は正しく分配されるようにフィードバックをしなければいけない。<br />
<p><a  name="4">*8</a> 伊藤穣一は、Wikiやブログといった「Web2.0」の主要を成すツールが登場した後すぐに、「（ツールの進化に伴うインターネットの）覚醒は、権力が企業や政府に集中した結果として腐敗してしまった民主制が本来もっていた基本的属性を支援するため、技術によって可能になったひとつの政治モデル構築を促進することになるだろう。新しい技術は、より高度の秩序をもたらし、その結果として、複雑な諸問題に対処しつつ現行の代表民主制を支援、変更、もしくは代替しうるような、新しい形の民主制が創発してくる可能性がある」と述べ、権力の集中を排する新しい民主制への期待を述べていた。（伊藤穣一、「創発民主制」、『GLOCOM Review』、国際大学GLOCOM、2003年。）<br />
<p><a  name="4">*9</a> ハワード・ラインゴールド（著）、公文俊平ほか（訳）、『スマートモブズ　〈群がる〉モバイル族の挑戦』NTT出版、2003年。<br />
<p><a  name="4">*10</a> 谷氏のブログは、製造物責任やリコール、ネットオークション等の消費者問題等を解説する個人的なものだった。その更新が、平日の勤務時間内に行われたため、勤務時間内に個人的なウェブサイトを更新することは、国家公務員法の職務専念義務に違反するのではないか、という批判がPSE法に反対する人々から上がった。谷氏の行為は、施策に疑問を持つ人々に理解を求める、従来の電話対応や対面での対応と同様の説明行為であったともいえるが、原則的には組織内の正式な手続きを踏むか、完全に個人の立場で個人の時間とお金と責任の下で行うべきであった。しかし谷氏は、省の記者発表や公式サイトの情報では足りないと考え、安価な方策として、個人で契約しているプロバイダの無料ブログサービスを使用した。公的な目的で、公的な立場を明らかにしながら、しかし私的な活動として執筆したため、ブログの「公」「私」の位置づけが中途半端だった。そこをブログという多数の人々が匿名でコメントできる公開の場で突かれたため「炎上」になった。<br />
<p><a  name="4">*11</a> たしかに韓国では、サイバーカスケードによって政治的な立場の分裂が進んだ。盧武鉉政権の最盛期には、情報技術に慣れた若い人々が左派系のネット媒体を読んで現政権を支持し、情報技術に弱い年長世代が右派系の紙媒体を読んで野党を支持していた。<br />
<p><a  name="4">*12</a> 音楽配信メモ　http://xtc.bz/<br />
<p><a  name="4">*13</a> 著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム　http://thinkcopyright.org/<br />
</font></p>

<p><br><br />
<br></p>

<h5 class="profile"> プロフィール</h5>
<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/shoji.jpg"><img alt="shoji.jpg" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/shoji-thumb.jpg" width="150" height="225" /></a>
<p><しょうじ・まさひこ><br>
国際大学グローバル・コミュニケーション・センター助教、研究員。中央大学大学院総合政策研究科修士課程修了。おもな関心は情報社会学、政策過程論、電子政府・自治体、ネットコミュニティ、地域情報化など。共著に『地域SNS最前線　－Web2.0時代のまちおこし実践ガイド』（2007年、アスキー）、『クリエイティブ・シティ　－新コンテンツ産業の創出』（2007年、NTT出版）など。
</p>]]>

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<title>第32回: 政策形成・選挙と、情報技術を使いこなす人々</title>
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<modified>2008-03-19T06:31:04Z</modified>
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<summary type="text/plain">庄司　昌彦(国際大学GLOCOM　研究員) これまでの日本の政策形成 日本は、政...</summary>
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<email>tomopisa@gmail.com</email>
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<![CDATA[<p class="author">庄司　昌彦(国際大学GLOCOM　研究員)</p>

<h4>これまでの日本の政策形成</h4>

<p>日本は、政策形成において行政府の存在が立法府よりも大きい「行政国家」であるといわれる。立法府は法律案や予算案を審議し、修正し、承認を与える重要な役割を担うが、アジェンダを設定し、対処方針を立て、法律案を作成し、予算を確保し、実施し、評価を行うのは行政府が主導することの方が多いためである。
<p>行政国家的な政策形成の成功例として語られるのは、高度経済成長期の産業政策だ。日本が高度経済成長を達成したのは、通商産業省が業界を監督指導しながら輸出産業を育成するのに成功したからであるといわれる。他の省庁も、たとえば銀行業界に対して大蔵省がとった「護送船団方式」のように、中央省庁が業界と密接に連絡を取りながら許認可や行政指導によってコントロールすることで効率的、効果的に政策運営を行ってきた。官が主導する政産官の密接な関係（鉄の三角形）に基づいて行う政策形成は、産業の近代化や諸外国へのキャッチアップが必要な開発主義段階ではたいへんよく機能した。

<h4>90年代以降の変化</h4>

<p>だが、1990年代以降、いくつかの大きな変化が政策形成過程に起きている。たとえば連立与党間の政策調整プロセスの登場や、内閣機能の強化である。

<p>1993年の細川政権の成立によって自民党の単独政権時代が終わり、連立政権の時代が到来した。与党が複数になったことで、政権の方針作りや法案の提出にあたっては、連立与党間の調整プロセスが加わった。この与党内調整において、行政から出てこないような政策の実施が合意された例が見られる。代表的なものは、小渕政権で公明党が実現した地域振興券や、自由党が実現した党首討論の導入や政府委員制度の廃止などだ。連立政権を構成する政党が、政権運営や選挙への協力、あるいは協力取り下げの可能性を示すことで、自党が掲げる政策の実現を図るのである。

<p>内閣機能の強化については、小泉政権下では経済財政諮問会議の役割が特に大きかった。この会議は、2001年に中央省庁が再編された際に、経済財政政策の主導権を財務省（大蔵省）から首相へ移すために作られた。小泉政権では、経済財政担当大臣と4人の民間委員らによって、改革の方針（「骨太の方針」）や改革プロセス（「工程表」）の明示、改革のフォローアップなどが行われ、行政からの積み上げ型ではないトップダウンの政策形成を行うルートが確立した。諮問会議のほかには、公務員倫理法（2000年）も機能している。企業関係者と官僚が宴席やレジャーなど非公式の席を共にすることで行われていた情報交換が減少し、政産官の鉄の三角形を弱めていると考えられる。

<h4>政策形成への参加と情報化</h4>

<p>さらに、新しい変化も起きつつある。それは、鉄の三角形の中に入っていなかった民間主体の活動だ。まず特定非営利活動促進法（＝NPO法、1998年）によって、非営利組織の活動が活性化し、社会的な問題の解決に取り組む人々が行政の外部に増えている。

<p>また情報公開法（1999年）によって、政府関連の公開情報が飛躍的に増加し、検索や入手が容易になった。そのおかげで、NPOや大学、シンクタンク、企業などの民間主体が政策研究や政策評価、チェック活動などを行いやすくなってきている。この二つの動きは、情報技術の普及やそれに合わせた人々の知識生産や協力行動の変化、つまり「情報化」とも深く関連している。

<p>行政の側でも、政策課題の多様化や複雑化によって必要となった専門知識や現場の情報を政策形成過程に導入するために、民間の専門家の登用や、パブリックコメントの募集、NPO等との協働事業などに取り組んでいる。また行政における「情報化＝電子政府構築」においても、1990年代からバックオフィスの電子化に取り組み、2000年頃からはフロントオフィスの電子化をすすめてきたが、2005年頃からはネットコミュニティを用いた行政への住民参加や行政と住民組織の共働が主要課題になってきている。

<p>ネットコミュニティを用いた行政への住民参加は、先駆的な事例が1990年代後半から存在する。それは電子掲示板（BBS：Bulletin Board System）を、政府や地方自治体が設置するという取り組みで、藤沢市（1996年開設）、大和市（1998年開設）、札幌市（1999年開設）や、政府の教育改革国民会議と連携した「教育改革ラウンジ」（2000年開設）が代表例である。慶應義塾大学SFC研究所と NTTデータ システム科学研究所の共同研究 によると、2002年には全国で733の地方自治体が電子掲示板を設けていた。だがその後、「荒らし」などの問題や利用者が増えないことなどを理由に大半が閉鎖されてしまった。

<p>そしてこの流れを引き継いで登場したのが、人の「つながり」に着目した会員制ネットコミュニティのSNS（Social Networking Service）だ。2004年12月に熊本県八代市で誕生した「地域SNS」の取り組みは、総務省の旗振りやオープンソースプログラムの普及によって全国数百ヶ所にまで広がり、2007年8月には兵庫県などの主催により初の「地域SNS全国フォーラム」が開催された。また総務省では、地方の総合通信局と本省の職員が使用するSNS（SMILE）を開設したり、外部の研究者と情報通信政策に関する議論をSNS（iSpring）上で行ったりするなどの取り組みを行っている。この他、地域経済活性化や、地域住民との情報交換の場としてSNSを活用しようという取り組みが、他の省庁や独立行政法人、地方自治体などにも広がりつつある。

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<strong>図：iSpringトップ画面</strong></p>

<p><a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/ispring2.html" onclick="window.open('http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/ispring2.html','popup','width=726,height=694,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/ispring-thumb.bmp" width="400" height="382" alt="" /></a><br />
</center></p>

<p><br />
<h4>選挙でソーシャルウェアが普及する</h4></p>

<p>次に、話題を「選挙」に向けてみたい。選挙では、どれだけ多くの人が投票に「参加」するかが関心事である。それは投票率によって政党や候補者の有利・不利が変わるからだが、投票率が継続的に低落傾向であることも、よく話題になる。たとえば2007年8月に行われた埼玉県知事選挙の投票率は27.67%で、全国で過去三番目の低さであると話題になった。数年前には「どうせ何も変わらないだろうから投票しない」という有権者の無関心が大きな問題であった。また、公職選挙法が選挙期間中におけるインターネットの活用を禁じているとの解釈がされていることもあり、日本ではインターネットを活用して政治家やその支援者がより多くの人を巻き込もうとする取り組みは、海外と比べるとかなり低調である<a href="#1" >*1</a>。

<p>それでも、選挙が行われるたびにインターネットの活用が話題になる。これは、インターネット上のサービスが持つ双方向性や公開性、効率性などの特徴を生かすことによって、より多くの有権者が候補者の支援に参加したり、資金を提供したりすることが期待されているからだ。そのため選挙運動では、さまざまなインターネット上のサービスが試される。海外まで目を向ければ、インターネットを活用しようという取り組みは、行政的な政策形成過程よりも選挙目的の方が非常に盛んだ。選挙はさまざまな情報技術やサービスが発達する機会でもある、と言い換えることもできるだろう。

<p>特に2000年以降は、ブログやSNS、動画共有サイトなどの「ソーシャルウェア」が選挙で一定の役割を果たし注目を浴びている。ソーシャルウェアとは、情報の共有や新たな知識の創造など、人々の社会的な共働活動を支援するソフトウェアや情報サービスのことだ。双方向のコミュニケーションを促すという意味では「インターネットらしい」サービスだともいえるだろう。

<p>たとえば2004年の米国大統領選挙に向けた民主党の予備選では、ハワード・ディーン候補がブログを活用して積極的な情報発信を行い、支持者はSNSを活用して数多くの集会（meetup）を組織し、ネット経由の献金を集め、有力候補に浮上した。2008年の大統領選に向けた現在のキャンペーンでも、民主党の有力候補たちはYoutubeで演説や活動状況を動画配信し、MyspaceやFacebook、FlickrなどのSNSサイトで支援コミュニティを運営し、またdel.icio.us等のソーシャルブックマークで注目記事を共有するなど、ソーシャルウェアを積極的に活用している。特にバラク・オバマ候補は、非常に完成度の高いSNSサイト<a href="#2" >*2</a>を独自に運営し、ジョン･エドワーズ候補は22ものソーシャルウェアを活用したり<a href="#3" >*3</a>３D仮想世界のSecond Lifeでキャンペーンを行ったりしている。またYoutubeやMyspaceといったサイトの側でも、大統領選挙の特集ページを設け、有権者の情報発信や交流、候補者とのコミュニケーションを支援している。一部の先進的な人々だけが使っていたソーシャルウェアが注目度の高いイベントである選挙で活用されることによって、より多くの人に利用されるようになったり、新たな試みを生み出したりしている。

<p><br />
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<strong>図：Youchoose（Youtube）トップ画面</strong></p>

<p><a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/youchoose2.html" onclick="window.open('http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/youchoose2.html','popup','width=1008,height=695,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/youchoose-thumb.bmp" width="400" height="275" alt="" /></a><br />
</center></p>

<p><br />
<p>米国以外でも政治とソーシャルウェアの関係は深い。韓国では、市民記者制のインターネット新聞「OhmyNews」が2002年の大統領選挙で盧武鉉候補を支援し当選に貢献した。また盧武鉉大統領の弾劾決議の是非が争点となり最終的には大統領を支える与党ウリ党が議席を3倍増させた2004年の国会議員選挙でも、野党寄りの主要メディアが報じないニュースを報じたOhmynewsや、パロディサイト「Mediamob」「DCinside」などが、インターネットとの親和性が高く盧武鉉大統領支持者が多いとされる若者の投票率を上昇させた。韓国の世論形成では「ネチズン」と呼ばれるこのようなインターネットユーザーの影響力が強く、政党や政治家はインターネット上での情報公開や彼らとのコミュニケーションにかなりの労力を割いている。このほか、2007年に行われたフランス大統領選挙ではニコラ・サルコジ候補、セゴレーヌ・ロワイヤル候補の双方がセカンドライフ上に事務所を開設してキャンペーンを行った。またスペインの地方選挙でも、与党・社会労働党（PSOE）と国民党（PP）のセカンドライフ上の事務所が双方の支持者によって攻撃されたというニュースがロイターによって報じられた。</p>

<h4>日本の選挙とソーシャルウェア</h4>

<p>2007年は2回の統一地方選挙と参議院議員選挙が4ヶ月の間に行われるという「選挙の年」であった。先述の通り、日本では公職選挙法が選挙期間中におけるインターネットの活用を禁じているとの解釈がされているが、いくつか注目すべき現象がみられた。

<p>その第一は、現職知事の辞任により統一地方選挙に先立って行われた1月の宮崎県知事選挙である。この選挙では元タレントのそのまんま東（東国原英夫）候補が、中央省庁出身で政党の支援を受けた有力2候補などを破り当選した。この当選の要因のひとつに、東候補が早稲田大学大学院の同級生やその友人の専門家たちと作ったマニフェストが挙げられている。このマニフェストは、当事者たちが述べているように「インターネットで県のホームページなどを調べながら数日で」作られた。政産官の「鉄の三角形」の外部の専門家たちが、インターネット上に公開されている情報を駆使して作成したものが実際の選挙で高い評価を受けたという、情報化の申し子のようなマニフェストであった。

<p>第二は、4月の東京都知事選挙できわめて特徴的な演説を行い大きな話題となった外山恒一候補の政見放送が、動画共有サイトのYoutubeにアップロードされ、テレビで見逃した人がいつでも視聴できるようになったことである。しかも、その政見放送にBGMを付け加えたり、音声を加工したり、字幕を付与したりするなどの「二次創作」を行った動画作品がたくさん作られた。東京都選挙管理委員会はYoutubeに削除要請を出し、実際に多数の動画が削除されたが、結局すべてを削除することはできず、この動画は今でも見ることができる。また参議院選挙でも、選挙期間前に動画配信サイト「ニコニコ動画」の公式動画コンテンツとして民主党の小沢一郎代表が出演したところ、誹謗中傷も含む多数のコメントが動画に書き加えられ、さらに様々な改変を行った二次創作作品も多数作られるなどして、選挙期間中も視聴された。

<p>第三は、参議院議員選挙期間中に、政党ウェブサイトの更新が行われたことである。これまで、公職選挙法では、選挙期間中は法定ビラなどを除く視覚的な文書図画の配布を禁止しているため、インターネットでの選挙運動はできないとされてきた。だが今回の選挙では、自民党と民主党は「選挙活動」ではなく通常の「政治活動」であるとして、党首や幹部の演説などをウェブサイトに掲載した。今回のウェブ更新は、法改正が行われていないのに、これまで行われてこなかったことが突如行われたため、「なし崩し」的なネット選挙解禁であるともいわれる。今後も、SNS等の事前登録された会員制サイト内での情報発信は、現行法の解釈内で可能であるなどとして行われていくかもしれない<a href="#4" >*4</a>。

<h4>公共的な問題に関心を持つ人々の台頭</h4>

<p>以上のように、公共的な問題に関心を持ち、情報技術を活用して情報収集を行ったり、情報発信を行ったりする人々が台頭してきている。このような人々は、従来型の政産官の政策コミュニティに必ずしも属していないが、部分的には現実の政策形成過程や選挙に影響を与え始めている。

<p>ただし、詳しく見るとこのような人々の姿は多様である。マニフェスト作りなど専門知識を生かして個別の政策議論に深く関与する人々から、特に専門知識を持たないが選挙のような物事の可否の判断において意思表示をする人々までが含まれており、両者は属性や具体的な振る舞いが大きく異なる。前者を重視する立場は、政治学ではエリート民主主義論などと呼ばれてきたもので、後者を重視する立場は参加民主主義論などと呼ばれてきた。

<p>次号では、このような公共的な問題に関心を持つインターネットユーザーの行動を分析し、また彼らの存在を踏まえてどのような政策形成過程や選挙制度をデザインすべきかという議論を行いたい。

<p><br />
<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >注<br />
<p><a  name="1">*1</a> 2005年の衆議院選挙と2007年の参議院選挙では投票率が上昇し、それぞれ自民党と民主党の大勝という顕著な結果が現れた。また、広い意味で公共的な話題や社会問題に関心を持つ人や、それをブログ等で論じる人は増えている。「政治的無関心」への流れは落ち着いてきているようだ。<br />
<p><a  name="2">*2</a> http://My.BarackObama.Com<br />
<p><a  name="3">*3</a> 2007年9月11日現在。http://johnedwards.com/action/networking/<br />
<p><a  name="4">*4</a> 政党･候補者にとっても、有権者にとっても、グレーゾーンが広くさまざまな行為の法的な可否が明らかではない現在の状況は、本来は民主主義として望ましいはずの情報発信・収集や討議に「萎縮」をもたらしていると考えられ、望ましくない。公職選挙法の改正によって、具体的に可能な行為と禁止される行為が示されるべきである。その際には、選挙公報と政見放送を選挙管理委員会など特定のウェブサイトで見られるようにしたり、届出のあったウェブサイトの更新を認めるなどによって、徐々にインターネットの活用を広げていくのが望ましいだろう。<br />
</font></p>

<p><br><br />
<br></p>

<h5 class="profile"> プロフィール</h5>
<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/shoji.jpg"><img alt="shoji.jpg" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/shoji-thumb.jpg" width="150" height="225" /></a>
<p><しょうじ・まさひこ><br>
国際大学グローバル・コミュニケーション・センター助教、研究員。中央大学大学院総合政策研究科修士課程修了。おもな関心は情報社会学、政策過程論、電子政府・自治体、ネットコミュニティ、地域情報化など。共著に『地域SNS最前線　－Web2.0時代のまちおこし実践ガイド』（2007年、アスキー）、『クリエイティブ・シティ　－新コンテンツ産業の創出』（2007年、NTT出版）など。
</p>]]>

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<title>第31回: トレースバックシステムへの期待</title>
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<modified>2008-03-19T06:31:04Z</modified>
<issued>2007-10-24T01:16:37Z</issued>
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<summary type="text/plain">新谷　隆（国際大学GLOCOM 主幹研究員） 若狭　賢（財団法人日本データ通信協...</summary>
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<name>tomohisa</name>

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<![CDATA[<p class="author">新谷　隆（国際大学GLOCOM 主幹研究員）</p>
<p class="author">若狭　賢（財団法人日本データ通信協会テレコム・アイザック部）</p>

<h4>はじめに</h4>

<p>「インターネット上のインシデントの解決にトレースバックシステムが有効である」と言いたい。

<p>しかし残念ながら、この文章が何を言わんとしているのか、理解できないのがフツーである。そもそも「インシデント」も「トレースバック」も、いずれも一般には、ほとんど馴染みがない言葉だ。
<p>インシデントとは、「インターネットにおけるセキュリティ上の脅威となりうる出来事」を意味する。トレースバックは、「逆探知して問題の発信源を突き止めること」である。つまり、インターネット上でトラブル引き起こし、不正行為を行う「攻撃元」を特定し、インシデント被害の解決に役立てようという試みがなされているということである。そして日本には、熱心にトレースバックシステムの研究開発に取り組んでいる研究者、技術者たちがいる。しかしながらこの技術は、まだまだ発展途上であり、実用化するまでには多くの課題をクリアーしなくてはならない。

<h4>インシデントとはなにものか</h4>

<p>トレースバックシステムの意義を検討するためには、インターネット上でのインシデントの内容について検討する必要がある。そもそもインシデントの中身は何であるのか。代表的なものに、不正アクセスや不正侵入、サーバ等への攻撃、ワーム等のウイルスによる攻撃、そしてスパムメール送信やそのための攻撃などがある。図１は、さらに細かい手口ごとに日本のインターネットサービスプロバイダー（ISP）において発生しているインシデントの頻度をまとめたものである<a href="#1" >(注)</a>。

<center>
<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/tb0.html" onclick="window.open('http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/tb0.html','popup','width=498,height=345,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/tb0-thumb.jpg" width="300" height="207" alt="" /></a>
<p>図１：　日本のISPにおける発生インシデント
</center>

<p>日本のISPにおいては、ウイルスの感染はもちろんのこと、DoS攻撃やポートスキャンなどの手口による攻撃や不正アクセスなど、さまざまな種類のインシデントが発生していることがわかる。さらにスパムメール系のインシデントは、ソースアドレス偽装のような形態で発生しており、その発生件数が多いだけでなく、急速な増加傾向を示している。こうした、いわば「悪者たち」にどのように立ち向かってゆくか、そのための知恵と施策が求められている。その結果、より安心で安全なインターネットの実現を求めてゆくという課題は、インターネット利用者、すなわち多くの国民の関心事となっている。

<h4>ISPにおける対策の実態</h4>

<p>もちろん業界も手をこまねいてばかりいるわけではない。各ISPのネットワーク管理者は、インシデント発生現場に身をおき、ネットワークの安定運用のための個別的な対策にあたっている。ウイルス系のインシデントに対しては、対策ソフトウエアの普及が進み、一時期ほどの深刻さは感じられない。また、不正アクセスや攻撃に対しては、それを探知する技術を導入し、セキュリティホールを突かれてしまうことがないようにソフトウエアのアップデートをしている。さらに、深刻なスパムメール被害に関しては、迷惑メールの送信の際に使われる論理的な出入口である25番ポートを使えないようにブロックする対策（OP25B）や、迷惑メールが届いたらそれをフィルタリングするソフトウエアで除去するなどの工夫がなされている。これまでに実施されてきたインシデント対策の多くには、一定の効果があり、努力が報われている部分があるのは事実だ。
<p>インシデント対策は、インシデントの種類ごとに個別に対策が練られ、かつ悪質なインシデントが発生すれば、発生する度に具体的な対応が求められる。この点にインシデント対策の難しさがある。多くのインシデントに対して共通に使える万能の対策手法はないのだろうか。おそらくそれは永遠に見つからない。
<p>さらに厄介なことに、新たな手口のインシデントが次々と生み出されてしまう。つまり次から次へと新しい対策を練りださなくてはならない。例えば、詐欺被害が深刻化しつつある「フィッシング」は、インターネットの中核的な役割を担うサーバを狙った「毒入れ」と呼ばれる新種の攻撃パターンによって、専門家でもウソを見抜けないほどに巧妙化している。当然、その新手の攻撃パターンに対しての対策が実施されているのだが、悪知恵は尽きずにいたちごっこが続く様相を示している。
<p>インシデント対策の実態は、現場にいるネットワーク管理者による日常的な、個別具体的な対応が基本である。なんらかの対策システムを導入さえすれば、後は自動的に攻撃を防ぎ、勝手にトラブルを回避してくれるわけではない。人手をかけて、一件ごとに、目の前に生じたインシデントに対して、それがもたらすマイナスの影響を排除する作業をコツコツと実施してゆくのである。
<p>現在実施されているインシデント対策には、その効果に深刻な限界がある。それは、インシデントの発信源に対して働きかけるタイプのものではないということだ。それはまるで防弾チョッキは着用するものの、銃を持った犯人を取り押さえるのに必要な武器は持っていない、という状況に似ている。
<p>たとえば、スパムメール対策において広く実施されているフィルタリングは、届いてしまった迷惑メールを読まないことを目的としていて、迷惑メールそのものの流通を止めようとはしていない。また、OP25Bの対策では、迷惑メールの流通を止める努力はするものの、迷惑メールの送信をビジネスにして世の中に害を与えているスパマー見つけて文句を言いに行こうということは眼中に無い。ここに紹介するトレースバックシステムは、まさに発信源を突き止めることを容易にする技術であり、これまでのインシデント対策とは一線を画するものである。

<h4>トレースバックシステムへの期待</h4>

<p>トレースバックシステムには、どのような効果が期待できるのであろうか。日本全国のISPにトレースバックシステムが導入されるとすれば、いろいろなパターンの攻撃に対して、その攻撃元を突き止めることができる。インターネット上での攻撃は、巧妙なものが多い。攻撃者は、特定されないように、偽のアドレスを使い、他人になりすましたりする。ところがトレースバックシステムは、簡単には騙されず、真の攻撃者を特定してくれる。
<p>トレースバックシステムは、犯罪防止にも役立ってくれるかもしれない。悪質な法律違反をしている攻撃者に対しては、犯人逮捕につながる可能性が高くなる。さらにサイバーテロと呼ばれるような深刻な事態への対処も迅速に正確に行えるかもしれない。悪いことをすれば、スグに特定されてしまうので、誹謗中傷の書き込みが減り、音楽や映画をネットに流して著作権侵害を犯す人も少なくなると期待したいところだ。
<p>これらの効果を期待し、トレースバックシステムが導入されれば、今よりもはるかに安全・安心、そして健全なインターネットの実現につながるのであろうか。答えはもちろん「そんなに簡単ではない」というのが正解である。なぜ簡単ではないか、その理由を３つ視点から指摘してみたい。
<p>1つ目は、技術面での制約である。とりわけ技術標準化がうまくいかないと、このシステムはうまく機能しない。トレースバックシステムを機能させるには、インターネット上たくさんの結節点に、トレースバック・データを収集する装置を置く必要がある。データの収集装置や解析装置は、相互に連絡を取り合うための標準が必要である。
<p>2つ目は、法律的な側面への配慮である。トレースバックシステムをインターネット全体の安心・安全に寄与すべく活用する場合、ISPの施設内に各種装置を設置する方法が有効である。ところでISPは、通信事業者である。となれば、データ収集装置を施設内に設置する場合に、通信の秘密保持の法的義務に違反しないようにしなくてはならない。つまり、完全な適法性が保証されなくては、そもそも設置ができない。
<p>これら２つの点については、独立行政法人情報通信研究機構（NICT）より日本電気株式会社ほか５社への委託により実施されているトレースバックの研究開発プロジェクトにおいて、着実な努力が積み重ねられてきている。さまざまな技術的な課題は、専門の研究者の知恵があつまり、詳細に整理・検討されている。法的な側面についても、取り扱うデータの内容を読み込むことなく、通信の痕跡となる特徴情報（Hash値）のみを保管することによって、通信の秘密が保証される方法が検討されている。
<p>それらよりも難関なのが３つ目の側面である運用上の課題である。トレースバックシステムの有効性を高めるためには、なるべく多くのインターネット上の結節点に、データ収集装置を設置する必要がある。できれば、日本の全てのISPに設置をすることで効果を高めたいところだ。しかし、設置を強制するというのは現実的ではなく、設置がなされないISPもあるだろう。しかもより困難なのは、外国のISPにも同様に設置をしてもらわない限り、攻撃元の特定は、攻撃元が国内のネットワークにいる場合だけに限定されてしまう。ないし、攻撃元は「海外です」ということだけが分かることになる。サイバーテロ等に役立てようとするならば、世界的な標準をきちんと作り上げて、世界中から賛同を得なくてはならない。これは、大変な時間と労力がかかる仕事である。
<p>では、こうした難点があるから、トレースバックシステムは、結局のところ役にたたないのであろうか。いや、けっしてそうとは言い切れない。確かに目的を世界中のインターネットの安心・安全に寄与する決定版の技術であると想定してしまうと、それは過度な期待である。より現実的な目標を設定すると、ISPにとって、また日本のインターネットにとって、大きいプラスの貢献をもたらす可能性がある。

<h4>トレースバックシステムに期待される効果</h4>

<p>トレースバックシステムの運用には、ISPの協力が欠かせない。ISPのネットワーク内に必要な装置を設置し、稼働させることによって、有効なトレースバックが可能となる。
<p>そこで、多数のISPがトレースバック・ネットワークに実験ないし本運用参加することを想定したフィージビリティ調査を行った。その結果、まずはトレースバックシステムの技術的な優位性は必須であるという。そのことが社会的に意義深いことも必要である。そして運用に協力することにより得られる経済性も重要である。つまり、技術の優位性」「社会性」及び「経済性」の３要素をいずれも重視するという見解が優勢であった。
<p>さらにISPにとって、トレースバックシステムの実験または、本運用に協力するかどうかを経営判断する際に最も重要なファクターは「お客様の声」であるという。トレースバックシステムを導入することで、サービス品質が向上するなどにより、売上げ向上に結びつくかどうかが、最大の関心事である。つまりISPからの協力を得るということは、すなわちインターネットユーザからの賛同を得ることに等しいということだ。
<p>日本のISPは、トレースバックシステムの導入について、条件付きながらおおむね肯定的である。判断を保留する態度のISPも少なくないが、はっきりと拒否するケースは少数である。
<p>トレースバックシステムに関する技術的な詳細を説明しながらヒアリング等の調査を実施すると、ISP側が期待する２つの主要な効果が見えてくる。その一つ目は、インシデントの発生源を特定するまでに至らないとしても、これまでにない強力なツールがあることによって、不正アクセスやサーバへの攻撃、各種ネットワーク犯罪、誹謗中傷や著作権侵害などの行為を「抑止する効果」が期待できることである。電話の逆探知システムがあることで、電話を使った犯罪への抑止力が働いているのと同じ効果をインターネットにおいて期待するというものである。
<p>もう一つの効果は、ISPのネットワーク管理やサポート「業務の質が向上する」という効果である。そのことをわかりやすく説明するために、ISPにおいて日常的に何件も発生している「お客様からのネットワーク不調に関する苦情問い合わせ」に対応するケースを取り上げてみよう。
<p>まず、トレースバックシステムが無い場合、どのようなことが起こるかというと、図２のように、ユーザーからインシデント発生の問い合わせを受けたISPのA社は、そのトラブルの対処のために、いくつものISPに連絡をしなくてはならないケースがある。これは、大変手間のかかる作業だ。

<center>
<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/tb1.html" onclick="window.open('http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/tb1.html','popup','width=438,height=588,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/tb1-thumb.jpg" width="300" height="402" alt="" /></a>
<p>図2：トレースバックシステムが無い場合（資料提供：財団法人日本データ通信協会テレコム・アイザック部）
</center>

<p>こうした面倒な作業が待っていることがあらかじめ分かっているため、各ISPでは、トラブルの発生源を探して原因を追究することを最初からあきらめているというのが現状である。
<p>ところが、トレースバックシステムがあれば、図３のようにどのISPから、またはネットワークのどちら方面から攻撃が来ているかを簡単に短時間で知ることができる。攻撃元が特定できない場合でも、お客様に対して、例えば「今回の攻撃は、海外のネットワークから寄せられているようです」といった回答が可能となる。

<center>
<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/tb21.html" onclick="window.open('http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/tb21.html','popup','width=479,height=396,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/tb2-thumb.jpg" width="300" height="248" alt="" /></a>
<p>図３：トレースバックシステムがある場合（資料提供：財団法人日本データ通信協会テレコム・アイザック部）
</center>

<p>このように、トレースバックシステムの導入は、インシデント対策に明け暮れるネットワーク管理者にとっての朗報になる可能性がある。これまでのネットワーク管理業務の質を高め、負担を軽減することが期待できる。さらにユーザーサポートの質を向上させる効果も期待できそうである。

<h4>今後の課題と展望</h4>

<p>トレースバックシステムは、まだ研究開発段階であるが、日本において実証実験を実施する計画がある。技術的にうまく機能するかどうかを検証するのはもちろんのこと、運用上のノウハウの獲得が課題となるであろう。
<p>トレースバックシステムへの取り組みは、インターネットにおけるセキュリティ向上のための一つの挑戦である。そしてそれは、分散型のオープンなネットワークにおけるセキュリティを現実的にどこまで高めることが可能であるのか、という基本的な問いかけに対して、実践を通じて一つの答えを出してゆくことになるのであろう。

<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >注
<p><a  name="1">(注)</a> 図１および本稿の内容には、独立行政法人情報通信研究機構（NICT）の委託研究による成果が含まれている。
</font>
<br>
<br>

<h5 class="profile"> プロフィール</h5>
<img alt="%E6%96%B0%E8%B0%B7.jpg" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/%E6%96%B0%E8%B0%B7-thumb.jpg" width="150" height="141" /><p><しんたに・たかし><p>1961年東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、国際大学大学院国際関係学科修了。現在、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター主幹研究員、専門は、情報社会学、ネットワークコミュニケーション、インターネットビジネス。インターネットの社会的な影響や、ITビジネスに関する実践的な 研究を手がける。著書『メディアキッズの冒険』（NTT出版）にて、テレコム社会学賞奨励賞受賞（1997年）。最近は、スパムメール対策、ドメインネーム、サーバーホスティング等 をテーマにした実証的な調査研究活動に従事。 </p>
<img alt="%E8%8B%A5%E7%8B%AD.jpg" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/%E8%8B%A5%E7%8B%AD-thumb.jpg" width="150" height="142" /><p><わかさ・けん><p>1982年横河電気入社後、プラント制御システムの開発・SEサポートを経て、前者ネットワーク構築・運用、全社セキュリティ体制を構築し、Telecom-ISAC Japan事務局に至る。2005年1月から、財団法人日本データ通信協会職員を兼務する。CSS2006において、優秀論文賞を受賞。]]>

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<title>第30回: 仮想資産（Virtual Property）は誰のものか？</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/2007/10/30_virtual_property.html" />
<modified>2008-03-19T06:31:04Z</modified>
<issued>2007-10-24T01:05:43Z</issued>
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<summary type="text/plain">森田　沙保里(国際大学GLOCOM　研究員) はじめに 仮想世界の黎明期が来てい...</summary>
<author>
<name>tomohisa</name>

<email>tomopisa@gmail.com</email>
</author>
<dc:subject>text</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/">
<![CDATA[<p class="author">森田　沙保里(国際大学GLOCOM　研究員)</p>

<h4>はじめに</h4>

<p>仮想世界の黎明期が来ていると言われる。
<p>米リンデンラボが提供するセカンドライフがその代表格である。ネットワーク上のサーバが作り出す３D仮想空間は、「メタバース（Metaverse）」とも称され、参加者がアバター(分身)を通じて仮想世界を構築し生活を営むこともできる。そして、仮想世界がもう一つの世界を形成していく中で、現実の世界が経験してきたような様々な現象や問題も発生し始めている。
<p>昨年、セカンドライフの中でドイツ人のアンシェ・チャンという女性が、仮想の土地不動産業で100万ドルものリアルな富を獲得したことが話題になった。一方、セカンドライフの土地やその他のオンラインゲーム内の仮想アイテムの取得を巡る利用者と運営会社間のトラブルや訴訟も多発している。
<p>かつてはテレビゲームのコインやアイテムはゲーム内、つまり閉ざされた仮想空間に限って価値をもち、現実からは切り離されていた。しかし、現在の仮想世界に存在するアイテムや通貨は、新たな資産としての価値を持つようになってきており、仮想資産（Virtual Property）の扱いを巡る議論がアメリカなどを中心に加熱しつつある。
<p>本稿では、急速な勢いで拡張する仮想世界の中で特に財産権（仮想資産）の問題に注目し、法的な観点から、仮想世界の法秩序と現実世界の財産権制度との関係などについて概観していくこととする。

<h4>拡大する仮想世界の波紋</h4>

<p>セカンドライフの中では、既に700万を越える世界各国の参加者――いわゆる「住人」が自ら作り上げた仮想環境の中でコミュニケーションをとり、経済活動など様々な活動に参加している。そこでは「リンデンドル」と呼ばれる仮想通貨が流通し、現金との取引が容認されており、その年間取引量は、2008年に1兆2500億円に拡大するとまで予測されている<a href="#1" >*1</a>。
<p>セカンドライフの魅力の一つは、セカンドライフ上で住人が作ったアバター、キャラクター、衣服、スクリプト、テクスチャ、オブジェクト、デザインなどのデジタルコンテンツの著作権、知的財産権がすべて利用者に帰属すると利用規約で定められていることである。他方で、アカウントやそれに基づくデータはリンデンラボに帰属することも規約で定められており、利用者がビッグ６と呼ばれる禁止事項に違反した場合の処分など、最終的なコントロール権はリンデンラボが持つことになっている。
<p>セカンドライフは無料で遊ぶことも可能であるが、月額9.95ドルを払うと仮想の土地の所有権も取得することができ、その土地でビジネスを行うことも可能である。日本でもセカンドライフには多くの企業が注目し、広告や新たなビジネスチャンスを求めて参入している。
<p>こうしてセカンドライフの新しいビジネスモデルが注目を集める一方で、利用者が仮想不動産(土地)の所有権をめぐってリンデンラボを提訴するといった仮想と現実とが交錯するような事件もおきている。例えば、8000米ドル相当の仮想の土地を所有する弁護士のMarc Braggは、不正な方法により安価で土地を取得したことを理由にリンデンラボからアクセス制限をされた。これに対しBraggは、リンデンラボの行為が「土地の競売契約違反、詐欺、ペンシルバニア州法法取引行為・消費者保護法違反」にあたるとして、仮想土地の所有権を求めてペンシルバニア州で提訴した<a href="#2" >*2</a>。
<p>仮想の土地(資産)を現実と同様に扱い、現実のルール(法)に基づいてその権利を主張するという現象は、仮想世界の拡大に伴って頻繁に発生しうるまったく新しい権利問題である。

<h4>仮想世界の権利</h4>

<p>それでは、仮想世界の資産は現実世界においてどう法的に位置づけられるのであろうか？
<p>仮想世界の土地、アイテム、通貨は一種の「仮想上の資産」といわれているが、当然ながら現行法には「仮想資産」の定義や扱いを定める条文はない。これは日本でもアメリカでも、おそらく他国においても同様である。仮想世界の法秩序を考える上で、その保護対象である仮想資産の扱いをどのように捉えるかは根源的な問題となる。
<p>それでは、仮想資産の権利は無体物に対する著作権なのだろうか？　あるいは、「土地の所有権」のような有体物に対する権利なのか？　そして、仮想資産の所有権が存在するとすれば、それは運営会社、利用者のどちらに属するものなのだろうか？
<p>こうした点を考察する前提として、仮想の土地やアイテムなどの権利関係を考えてみると、セカンドライフという仮想空間上では島や土地を所有していることとなっていても、セカンドライフ上の「土地」は、現実世界においてはもちろん土地ではない。これらの実態はサーバー領域の一部や、デジタルコンテンツであり、無形の財産として知的財産権や著作権によって保護されうるものである。ただ、著作権の保護を受けるには、新たな創作性(独創性)が前提となるし、特許法や商標法などで保護を受けるためには、一定の要件を満たした上で公的機関の承認を得なければならない。つまり、仮想世界の土地やアイテムなどのうち広義の知的財産権（著作権、特許権、意匠権、商標権などを包含する概念）として認められ保護の対象となるものは一部にしか過ぎない。
<p>そこで、仮想世界における知的財産権の核となる著作権はどのように整理されてきたのかを簡単に振り返りつつ、その流れの中でセカンドライフ的な仮想世界がどう位置づけられるのか考えてみよう。
<p>かつてのゲームでは、運営者がゲーム内で現れるキャラクターなどあらゆる著作物の著作権を持ち、当然ながらその運用についても一元的にコントロールしてきた。
<p>日本のゲームに関する過去の判例を振り返ってみても、1982年の「スペースインベーダⅡ事件」、その翌年の「パックマン事件」など、初期の段階から違法な複製行為や不正な改変行為に対し、権利者が著作権を行使し対抗してきたことがうかがわれる。
<p>この頃は、運営会社の作った世界の中でプレーヤーが単独で楽しむゲームが主流であり、運営者（権利者）側の想定するストーリーの中で物事が完結していた。よって権利者の著作権によるコントロールも効きやすく、権利者と利用者という一対一の構図も明確であった。
<p>ところが、一つの世界に複数のプレーヤーが参加するMMORPG（多人数同時参加型オンラインロールプレイングゲーム）が出現するようになると、こうした一対一の構図では収まらない状況が現れるようになる。
MMORPGでは行動が逐次サーバーに記録され、前日にプレーヤーがレベルアップしていれば、次の日からはよりレベルアップした状態から再スタートできることになる。そして、高いレベルに達したプレーヤーはゲーム上のアイテムを集める上で有利になるため、過去の蓄積を活かして貴重なアイテムを長期間かけて収集していくことも可能となる。こうして異なったアイテムを収集した複数のプレーヤーがゲーム上に現れると、仮想世界でありながら人間社会が存在するような状態となり、プレーヤー間でアイテムの取引などの経済活動が生まれる。
<p>もちろん、運営者側はそうしたアイテムの「所有権」などが運営者に帰属することを利用規約によって定めているが、莫大な時間、労力、コストを費やし、キャラクターを育て、アイテムを獲得した利用者は、それらをあたかも自分が所有するものと認識しがちである。
<p>つまり、利用者側は数百時間もの投資と、さらには自分が手を加えた仮想世界の新たな創作性を保有したいと考え、時にその権利を主張することになる。実際、多数の利用者が参加することで仮想空間内に起こるストーリーや展開に幅が広がっていくため、スタート時点でのゲームと比較すれば、共同著作物とは言えないまでも、ある種の独創的な価値が利用者によって加えられるようになる。しかし、こうしたアイテムに対して現実社会の著作権が認められるためには、利用者による新規創作性が認められるだけでなく、ゲームの運営管理者がゲーム内で産まれた著作物に対する著作権を利用者に開放していなければならないが、以前にはそういうことを認める運営管理者はほとんど存在しなかった。一方、ゲーム上のアイテム等に対し、現実世界における所有権はストレートには成り立ちえない。
<p>そうだとすると、利用者の側にすれば、せっかく時間をかけて育てたキャラクターやアイテムに権利が認められないことになり、多大な時間を投資してそういったキャラクターを育てるインセンティブを失うことになる。
<p>セカンドライフはこのような従来の著作権のあり方を覆した。
<p>実はリンデンラボも、2002年のβ版開始当時には、「すべての著作権はリンデンラボ側に帰属する」という従来のゲームと同様の方針を示していた。しかし、利用者数が1万人を突破した2003年、クリエイティブコモンズの提唱者でもあるスタンフォード大学のローレンス・レッシグの助言に従って、著作権を作成者に帰属させることを利用規約に盛り込んだのである。
<p>リンデンラボは、「従来の仮想世界のコンテンツは、その世界を開発提供する会社の財産となっていた。セカンドライフは利用者の功績によるものであり、コンテンツを作成した利用者が著作権およびその価値を所有し、そこから生み出された価値を共有できるようにすべき」<a href="#3" >*3</a>であり、「著作権の保有により仮想世界を構築することができる」との見解を示している。
<p>セカンドライフはクリエイティブコモンズのルールを援用しており、利用者は自らが作成したコンテンツの著作者表示や改変の禁止などについて、自分でコントロールの程度を決めることができる。セカンドライフの場合、仮想世界を住人が1からつくりあげるというコンセプトであるためにこのようなルールとの親和性が高い。また、クリエイティブコモンズのルールを援用することで、法秩序を一から創り上げる手間の煩雑さも回避している。これは、多数の利用者が参加する仮想世界における法秩序の一つのあり方を提示しているといえよう。
<p>2003年の開設当初の5ヶ月間で1000人に満たなかったと言われているセカンドライフも、今では全世界の700万人が参加している。こうした急速な発展の大きな要因の一つとして、仮想資産（デジタルコンテンツ）の著作権を利用者に帰属させるというオープンなポリシーがあったと言われる。つまり、自分で創ったものに対する著作権が認められ、場合によってはその売買で巨額の富を得られる世界だからこそ、より多くの人がその世界に参加意欲を持つようになり、独創的な工夫を凝らすようになるのである。そうやって多くの人が参加し、独創的な様々なアイテムが創られるようになれば、クリエイターだけでなく、単なるオブザーバーや、商人のような人たちも集まり、仮想世界は一層賑わう。
<p>こうした点について非常に示唆的な経済史研究がある。
<p>ノーベル経済学賞受賞者のダグラス・ノースらはかつて、欧米諸国が他の地域に比べて持続的に経済発展した歴史的要因について分析し、その大きな要因として、国家が所有権制度を早い時期に整備したことを挙げている（North and Thomas 1973）。ノースらは、ロナルド・コース、オリバー・ウィリアムソンらの取引費用（transaction cost）についての研究を経済史研究に応用し、国家が所有権についての法制度を整備したことで、各種の契約にかかる取引費用が大幅に削減され、人々の活発な取引参加意欲と、取引の拡大を呼び込んだと指摘した（North 1990; Williamson 1998）。
<p>こうした指摘はまさに、ノースらが研究の対象としたかつての欧米社会と同様に生成発展を続ける現在の仮想世界において当てはまる議論ではないだろうか。セカンドライフが、参加人員数的にもその中で行われる経済取引の量でも、今までのMMORPGを圧している一つの理由として、新しく整備された著作権（仮想世界の中では所有権）のルールがよく挙げられるからである。そういう意味で、歴史は、仮想世界と現実世界を超えて、繰り返すのかもしれない。

<h4>RMTとデジタルコンテンツの新たな資産価値</h4>

<p>仮想世界を法的な面などでさらに複雑としているのは、そこで通貨が流通し貨幣経済が成り立っていることである。そのため、現実世界側から見たデジタルコンテンツとその著作権という話だけではくくれない、様々な権利関係が生じることになる。
<p>この背景にあるのが、ゲーム内の仮想通貨やアイテムと現実の通貨との取引、すなわち、RMT（Real Money Trade）である。MMORPGを中心に行われているRMTの取引市場は、物々交換の域を遥かに超えて急激に拡大し、現在ではその規模は、韓国・アメリカで1000億円以上、中国は500億円、日本でも150億円にも及ぶと推定されている<a href="#4" >*4</a>。
<p>仮想通貨やアイテムと現金との取引は、仮想世界の発展における非常に重要な要素であると同時に、詐欺やマネーロンダリングなどの違法行為の温床になるという潜在的な危険性をはらむ。組織的な犯行が多発するような事態になれば被害は大きくなり、仮想世界の場合は国境を超えて被害が一気に広がる可能性も高い。また、RMTを直接的に取り締まる法律もない。そこで、多くのゲーム運営会社はリスク回避のために利用規約でRMTを禁じ、違法なRMTに対しては利用規約違反としてアカウントを解除するなど、厳格なコントロールを施している場合が多い。
<p>こうした事情を背景に、仮想資産をめぐるまた新たな対立が生じている。例えば、RMTと関連した仮想資産をめぐる権利については、02年にアメリカでおきたBlackSnow対Mythic Entertainmentの事例において争われた。オンラインゲームを運営するMythic社は、BlackSnow社がメキシコ人労働者を雇い長時間かけて高度なキャラクター育てさせ、それをオークションで販売し利益を得ていた行為に対し、規約違反であるとBlackSnow社の全アカウントを削除した。これに異論を唱えたBlackSnow社が更に提訴し、自らの行為は「著作権の譲渡を行ったわけでも著作権を侵害する行為でもない」と主張した。この件では結局、Blacksnow社が数ヶ月後に提訴を取り下げ、事件の解決前に倒産してしまったために、仮想資産に対する権利についての判断は出ないまま終わってしまった。しかし、RMTと関連しつつ、長時間かけて育てたアイテムや仮想資産は誰のものなのか、という疑問を問いかけるものとなった。
<p>セカンドライフにおいては、多くのMMORPGと違って仮想通貨による取引が推奨されている。ビジネスや経済が存在すれば現実世界と同等の問題が生じる可能性もあり、仮想資産に現実と同様の財産的価値をみとめるのか、現実と同様の法規制を適用するのかという課題が生じている。

<h4>仮想資産は誰のものか？</h4>

<p>それでは、仮想資産にはすでに述べた著作権だけでなく、所有権のような財産権が設定されうるのだろうか？　
<p>著作権はあくまで作成者に強い独創性が認められるものに対してのみ認めうるため、その他の様々な仮想資産に対し所有権的な権利が認められるかは、今後の仮想世界の発展にとって大きな意味を持つ。
<p>現実世界の(日本の)法制度では、著作権は著作物の創作と同時に発生し、思想または感情を創作的に表現したものであり、本来的に無体物を客体とする排他的支配権である。また作成者の独創性も強く要求される。一方、所有権は有体物を客体とする権利であり、そうした有体物を直接排他的に支配する権利である。美術品の所有者とその作者が同一とは限らないように、著作権と「物」の所有権とは別のものとして存在する。
<p>ノースらの研究でも明らかにされたように、現実社会での経済・産業の持続的発展は、私有財産制とそれを担保する所有権制度の上に成り立っている。しかし、仮想世界において財産権制度は未発達である。仮想の土地の「所有権」という概念はセカンドライフの出現によって話題にはなったが、現実世界の所有権という概念は有体物の支配を想定しており、これをそのまま仮想世界に適用することは難しいだろう。といって、著作権で保護される対象は、あくまで独創性のある一部のアイテムやキャラクターに限られるため、非常に限定的な範囲に留まる。
<p>Fairfieldは「Virtual Property」(2005)において、ドメインネームやURLやメールアドレスなどを仮想資産として取り上げ、MMOPRG内の資産はそれがより高度に発達した形態と位置づけている。
<p>この論文の中でFairfieldは、仮想資産として保護される対象の性質としてrivalrousness、persistence、interconnectivityの３つをあげる。まず、競合性があるという点で著作権や知的財産権と区別し、本の著作者の権利と所有者の権利が別に存在するのと同様に、仮想資産の財産的権利は知的財産権を排除するものではないという。また、仮想資産には永続性があり、サービス提供者側の都合で勝手に消失させてはならないとする。このような仮想資産に対する財産権が認められれば、利用者の立場はより強くなり、運営者側もリスク回避を検討する必要が生じるだろう。
<p>現時点のアメリカ連邦法下の判例では、仮想世界の一部資産としてドメインネームなどに所有権が認められているが、それ以外のオンラインゲーム内のデジタルコンテンツの所有権等については、利用規約によってゲームの運営会社にコントロールする権利があるとされるのが一般的<a href="#5" >*5</a>であり、仮想資産の定義や法概念はまだ確定していない。判例もいまだ少ない。
<p>たとえば中国では、ゲーム内アイテムの所有権を利用者側に認める判決があるといわれているが、この様な問題は世界的に生じており、今後も判例を蓄積して判断されていくことになるだろう。セカンドライフの土地所有権を巡るペンシルバニア州の裁判にも注目が集まっているが、ここで利用者の所有権を認める判決が出れば、従来ゲーム運営会社がコントロールしていたデジタルコンテンツの権利制度は新たな局面を迎えることになる。
<p>アメリカでは、仮想資産に対する課税や法的保護についての検討が進められており、2008年初頭までに議会が方針を出すと言われている。問題となっているRMTの規制や課税、法制度の検討の前提としても仮想資産の価値や権利概念は重要であり、更なる議論が必要となる。

<h4>セカンドライフが抱えるその他の法的課題</h4>

<p>セカンドライフでは自治もすべて利用者に委ねられているため、今まで論じてきた仮想資産に対する権利関係を含め、どのようにして秩序を保っていくかが大きな問題となる。たとえば運営者による利用者のアクセス権の剥奪などによって利用者の仮想資産が喪失する事態となったときや、利用者間において仮想世界内部で財産権をめぐる争いになったときの紛争処理機能について課題が残る。
<p>リンデンラボは紛争処理的な機能を持たない。セカンドライフ上の住人が自主的に作る裁判所も全体の紛争処理施設として機能しているわけではない。よって、利用者は結局のところ現実世界における紛争処理機関に頼らざるを得ないことになる。実際、セカンドライフの利用規約には仲裁条項があり、紛争が生じた場合は訴訟を提起する前にサンフランシスコの国際商業会議所の仲裁を受けるべきことが定められている。ただし、Bragg対リンデンラボの土地所有権を巡る裁判では、仲裁条項による解決を主張するリンデンラボに対し裁判所がその効力を否定した。
<p>また、裁判管轄権の問題も今後の課題となりうる。国境のない仮想空間では国際的な交流は容易であり、セカンドライフ内で「他人」に話しかけてみたら外国人だったということはごく当たり前に起こる話である。このように仮想空間には国境はないが、紛争問題を裁く法的機関やその該当者のいる現実社会には国境がある。仮想世界を構築するリンデンラボのサーバーは米国にあり、利用規約でも「（本規約に基づく当事者の）権利と義務は，統一商事法典を含むカリフォルニア州の法律に準拠する」旨が記載されている。今後、仮想資産の財産権を巡って国際的な裁判となることも容易に想像でき、裁判管轄権が問題となる事例も起こりうるだろう。

<h4>おわりに</h4>

<p>セカンドライフが仮想世界における著作権や仮想資産の所有権について新たなパラダイムを提起したことは確かである。しかし、仮想世界そのものが黎明期と称されるように、仮想世界の権利関係や仮想資産の法的扱いについての議論は未成熟であり、今後の検討課題である。
<p>セカンドライフの世界の総加入者数は、2008年末に2億5千万人に到達<a href="#6" >*6</a>し、2010年以降は、多様な仮想世界が誕生する「マルチバース」時代になるとも予測されている。
<p>このままセカンドライフ人気が続き仮想世界の人口がセカンドライフに集中していくのか、あるいは他の新たな仮想世界が発展していくのかはまだわからない。しかし、所有権制度をはじめとする法秩序の整備がなければ拡大した仮想世界はトラブルの渦となるであろうし、そもそも仮想世界自体の発展は法秩序なしには実現しないだろう。ノースらが過去の現実世界で指摘した事象が、仮想世界において再現されようとしている。
<p>仮想世界ではゲームを運営する主体（企業）が存在し、権利の設定についての裁量権を持つ。つまり、運営会社の利用規約はその世界の憲法的な役割を担うことになる。しかし、仮想世界の拡大とともに利用規約だけで様々な権利関係の紛争解決をはかることには限界が生じるため、仮想世界における権利の概念を明確に議論し整理しておくことが、仮想世界の持続的な発展をもたらす制度設計やルール作りの上でも不可欠となる。
<p>現在の仮想経済における現象は、「すべての権利は運営会社のもの」という当然の概念を変えつつある。エンターテインメントや社会、技術の発展は法の変容をも迫るのである。混沌とした仮想世界をどのように発展させていくか、新たな法秩序の検討はまだ始まったばかりである。

<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >注
<p><a  name="1">*1</a> 野田総明、山口勝、「セカンドライフ」に見る仮想世界・仮想経済の可能性、Mizuho Industry Focus vol.57
<p><a  name="2">*2</a> Mark Bragg,plaintiff, v Linde Research,Inc.and Philip Rosedale, Defendants.Civil Action No.06-4925
<p><a  name="3">*3</a> http://secondlife.com/world/jp/commerce/press-release.php
<p><a  name="4">*4</a> 井上明人、2006、「オンラインゲームと経済　リアルマネートレード（RMT）の動向」
<p><a  name="5">*5</a> 渡辺弘美、2007、「仮想世界を巡る法制度的な議論」
<p><a  name="6">*6</a> 野田総明、山口勝、「セカンドライフ」に見る仮想世界・仮想経済の可能性、Mizuho Industry Focus vol.57
</font>

<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >＜参考文献＞
<p>Fairfield, Josha. 2005. VIRTUAL PROPERTY. Boston University Law Review, Vol. 85, page 1047, 
<p>North, Douglass C. 1990. Institutions, Institutional Change and Economic Performance. Cambridge. Cambridge University Press. 
<p>North, Douglass C. and Robert P. Thomas. 1973. The Rise of the Western World: A New Economic History. Cambridge. Cambridge University Press.  
<p>Reuveni, Erez. 2007. Our Virtual Worlds:Copyright and Contract Law at the Dawn of the Cirtual Age.  82 Indiana L. J. 262, 290 
<p>Williamson. Oliver E. 1998. The Economic Institutions of Capitalism. New York. Free Press.
</font>
<br>
<br>

<h5 class="profile"> プロフィール</h5>
<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/morita.jpg"><img alt="morita.jpg" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/morita-thumb.jpg" width="150" height="150" /></a>
<p><もりた・さおり><br>
国際大学GLOCOM研究員。2000年慶應義塾大学法学部法律学科卒。同年、東日本電信電話株式会社入社。法人営業、知的財産業務を経て、2006年より現職。
</p>]]>

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<title>第29回: インターネット上の人権侵害問題を考える</title>
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<modified>2008-03-19T06:31:04Z</modified>
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<summary type="text/plain">前川徹　　(国際大学GLOCOM主幹研究員) 「炎上」「祭り」「発掘」 サイバー...</summary>
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<email>tomopisa@gmail.com</email>
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<![CDATA[<p class="author">前川徹　　(国際大学GLOCOM主幹研究員)</p>

<h4>「炎上」「祭り」「発掘」</h4>

<p>サイバースペース上の人権侵害問題は、古くて新しい問題である。古いというのは、「ニフティ事件」（パソコン通信サービスのNIFTY-Serveの「現代思想フォーラム」という電子掲示板で起きた人権侵害問題）のように、インターネット普及前のパソコン通信の時代から存在している問題だからであり、新しいというのは、インターネットの普及や匿名電子掲示板の誕生によって問題が深刻化しているからである。たとえば、インターネット上の人権侵害が、現実の生活に影響を及ぼすような事件が起きるようになっている。
<p>事例を紹介しよう。ある評論家の池内ひろ美さんが、居酒屋で偶然会った期間工だという若者について、その向上心のなさをブログに書いたところ、ブログのコメント欄には批判が殺到してブログが「炎上」すると呼ばれる状況になった。さらに、２ちゃんねる上に、池内さんが期間工を侮辱したというスレッドが立ち、池内さんに対する罵詈雑言、誹謗中傷はもちろん、家族を侮辱するような書き込みがされ、そして2007年２月には、池内さんが講師をする教室に「火をつければあっさり終わる」、「一気にかたをつけるのには、文化センターを血で染め上げることです」と２ちゃんねるに書き込みをした45歳の会社員が逮捕されるという事件にまで発展した。
<p>著名人であるかないかを問わず、誰かのブログの内容が、巨大な匿名電子掲示板である「２ちゃんねる」などに取り上げられ、そのブログが「炎上」することは珍しくない。昨年の秋には、『五体不満足』の著者である乙武洋匡さんのブログや神奈川県の県会議員のブログが炎上しているし、2007年になってからも、水着写真集を出版したために退学処分を受けたグラビア・アイドルのブログが炎上するという事件が起きている。
<p>また、場合によっては「２ちゃんねる」上に関連のスレッドが立ち、そこに利用者が集中して、個人を誹謗中傷するような書き込みが大量に行われることがある。これを「祭り」という。さらに「発掘」と呼ばれる作業によって、ブログを書いた個人の実名や写真、勤務先、家族構成、子供の通っている学校などが明らかにされることがある。こうなると、メールや電話、場合によっては路上で知らない人から問いつめられたり、本人やその家族が嫌がらせを受けたりする。そんなことが現実になっている。

<h4>動物病院事件と日本生命事件</h4>

<p>インターネット上における名誉毀損事件や業務妨害事件は、インターネット上の匿名電子掲示板が誕生した頃にかなり話題になった。マスコミが取り上げたため有名になった事件に、2001年の「動物病院vs.２ちゃんねる事件」がある。この事件は、ある動物病院について「過剰診療、誤診、詐欺、知ったかぶり」、「えげつない病院」、「やぶ医者」、「動物実験はやめてください」などの書き込みが行われたことに始まる。こうした書き込みに気付いた病院側は、削除依頼を出したのだが、今度はその依頼の方法が間違っているとさらに揶揄され、この動物病院とその経営者である獣医師が２ちゃんねるの管理人を訴えたという事件である。この裁判では、動物病院側の言い分が一部を除き認められ、動物病院側のほぼ全面勝訴となっている。
<p>この動物病院事件とほぼ同じ頃に「日本生命vs.2ちゃんねる事件」という事件もあった。これは、2000年秋ころから会社を誹謗中傷する書き込みが続けられているとして、日本生命が2001年3月に書き込み削除の仮処分を東京地裁に申請したという事件である。東京地裁は2001年8月に該当する書き込みの削除を求める仮処分命令を下している。
<p>これらの書き込みは、大きく3つに分けられる。第1は、日本生命という会社自身を直接的に誹謗するもので、「極悪だ」とか「潰れろ」などの発言であり、第2は、社内での愛人スキャンダルなどを取り上げて、会社の風紀が乱れていると指摘するという種類のものである。そして第3は、生命保険の外交員などの営業姿勢や営業方法に関する書き込みで、「うちの近所のニッセイに勤める人が、『某大手生保が危ないらしい』『ニッセイに乗り換えるなら今だ』とか、デマを流しているよ」「最近、ニッセイのおばちゃん、やたらと私の保険を解約しろと言う。あんたの加入している保険会社は危ないと」「俺も言われている。東京生命が潰れて、次はあんたの生保だって」「保険料安くしてやると言われているんだけど、たしかそれってまずくなかったっけ」という種類のものである。
問題は、この最後に分類される書き込みである。東京地裁が書き込み削除の仮処分命令を出してから2ヵ月あまりたった2001年11月、金融庁が日本生命に対して、他の生命保険会社を誹謗中傷するような資料を作成して営業活動を行っていたとして業務改善命令を出したのである。つまり、日本生命が事実無根であるとして削除を要求した書き込みの中には、かなり真実に近い、あるいは真実に基づいた書き込みが含まれていたと考えられるのである。

<h4>誹謗中傷と言論の自由</h4>

<p>あらためて指摘する必要はないと思うが、インターネット上での誹謗中傷は、その書き込みが事実であろうがなかろうが、名誉毀損（刑法230条）や侮辱（刑法231条）、業務妨害（刑法233条）といった犯罪であり、民法709条、710条等の規定によって不法行為とみなされ、損害賠償の対象となる。
こうした行為はあきらかに犯罪であり、かつ犯罪者として逮捕された事件や裁判で損害賠償を命じられた事例が数多く存在するにもかかわらず、インターネット上での名誉毀損や誹謗中傷が増加しているのはどうしてなのだろう。
<p>警察庁が2007年2月に発表した「平成18年のサイバー犯罪の検挙及び相談件数について」を見ると、警察に寄せられた、サイバー犯罪等に関する相談件数の中で「名誉毀損、誹謗中傷に関する相談」の占める割合は、2004年は5.2%、2005年は6.9％であったが、2006年には13.1％に増加している。件数でみても2004年は3,685件、2005年は5,782件、2006年は8,037件であるので、２年間で倍増していることがわかる。警察に相談できずに泣き寝入りしているケースが多いことを考えると、この数字は氷山の一角であり、事件はもっと起きているにちがいない。
<p>こうした違法行為の増加の原因の一つとして、インターネットの匿名性があるのは確かだろう。インターネット上では自分が誰であるかを明かす必要がないばかりか、身分や年齢、性別すら偽ることができる。匿名だから、他人をどれだけ攻撃しても自分は攻撃されないという（間違った）安心感が過激な書き込みを助長している。
<p>第２の要素は集団心理である。特定の個人を誹謗中傷することは人権侵害に相当するものだという認識があっても、誹謗中傷だらけの掲示板を見ていると合理的な判断ができなくなってしまい、同じような書き込みをしてしまう利用者も多いのではないだろうか。
<p>第３の要因は、憲法21条で言論の自由（表現の自由）が許されているのだから、電子掲示板に何を書いてもよいと誤解している利用者が存在していることである。もちろん、言論の自由は無制限に認められる権利ではなく、人権を侵害するような言論は憲法が保障する言論ではない。しかし、誹謗中傷と正当な言論の境界は明確ではない。
<p>名誉毀損を定めた刑法230条には230条の2という例外規定が設けられている。公開された事実が名誉を毀損する内容であっても、それが公共の利害に関する事実であり、かつ、その主たる目的が公益を図ることにある場合には名誉毀損にはならない。これは言論の自由・報道の自由を社会的に保護するための規定である。前述の日本生命の営業方法を批判した書き込みは、対象が企業ではあるものの、公共の利害に関する事実であり、その目的が公益を図ることにあった可能性は否定できない。
<p>誹謗中傷を書き込んでいる利用者の中には、自分は公益目的で事実を指摘しているのであり、正義のための言論、正当な批評・批判であると信じて行動している利用者もいる。もちろん、これらの中には、本当に正義のための言論と、そうとは言えない誹謗中傷が混在している。
<p>さて、我々はこの問題にどう対処すればよいのだろう。

<h4>匿名性をめぐる議論</h4>

<p>インターネット上での人権侵害や業務妨害などの問題を解決するために、匿名性を排除すべきだという意見がある。確かに、匿名であることが、誹謗中傷やプライバシー侵害にあたる行為を助長している面がある。しかし、だからと言って、インターネット上の匿名性を排除することが正義であり、合理的な解決策であるということにはならない。
<p>一方では、インターネットの匿名性は守られるべきであるという意見も多い。それは、場合によっては情報の発信者を守ることが必要になるからである。内部告発のように、匿名でなければ危険で情報が発信できない場合がある。社会にとっては有益である情報であっても、自分が属している組織にとってはマイナスである情報、たとえば社内で隠蔽されている自動車の欠陥情報のようなものは、匿名でないと発信できないことが多いだろう。犯罪を告発する場合には、告発した個人が攻撃される恐れがある。反社会的な組織が相手であれば、実名で告発すれば身に危険が及ぶ可能性が高い。こうした場合、匿名であることが個人を守ってくれる。
<p>また、こうした極端なケースでなくとも、世間の注目を浴びるような発言をすれば、インターネット上で「祭り」上げられたり、その情報発信を快く思わない人々から嫌がらせを受けたり、場合によっては、マスコミによってプライバシーを侵害される恐れがある。
<p>インターネット関連の事件が起きると、すぐにインターネットの匿名性が問題の根源であるかのような報道がなされることが多い。実名でないと情報発信できないようにすべきだという意見すらみかける。しかし、一方で匿名によって守られるものがあることを考えなければいけない。
<p>1776年2月に出版された『コモンセンス』は、米国独立戦争に大きな影響を与えた。現在では『コモンセンス』の著者がトーマス・ペインであることはよく知られているが、当時、そこには著者の名前はなかった。ペインは、その序論の中で次のように書いている。

<blockquote>

<p>Who the Author of this Production is, is wholly unnecessary to the Public, as the Object for Attention is the Doctrine itself, not the Man. Yet it may not be unnecessary to say, That he is unconnected with any Party, and under no sort of Influence public or private, but the influence of reason and principle. Philadelphia, February 14, 1776.</p>

<p>（この出版物の著者が誰であるかについては、明らかにする必要はまったくない。注目すべきものは、この主義主張であって、これを書いた者ではないからである。ただし、著者がどのような党派とも関係がなく、良識と道義には基づいているが、公私を問わず何者にも影響されていないことは、述べておいた方がよいかもしれない。1776年2月、フィラデルフィアにて）</p>

<p>（出典：英文は、<a href="http://www.bartleby.com/133/">http://www.bartleby.com/133/</a>、和訳は著者）</p>

</blockquote>

<p>まったくペインの言うとおりである。重要なのは、その発言内容であり、発言者ではない。本当に問題がある場合に限り、発言者を特定できる仕組みがあればよいのである。
<p>そもそも、インターネット上から完全に匿名性を排除することは現実的ではない。ネットワーク上のコミュニケーションは、ほとんどの場合、実質的に「匿名」である。ネットワーク上における本人認証は技術的に可能ではあるが、それは個人が自ら、第三者が確認可能な電子署名などの認証技術を利用した場合に限られる。
<p>仮に、インターネット上での発言をすべて実名で行うようになったところで、本当にその本人が書き込んだのかどうかを確認するのは容易ではない。ネット上に「前川徹」の名前で書き込みがあったからといって、一般のインターネット利用者にとっては、前川徹本人による書き込みであることを確かめる手段はないに等しい。

<h4>トレース可能な仕組みとサイバー・リテラシー</h4>

<p>現実的な解は、インターネット上での発言が人権侵害や業務妨害などに該当するかどうかを見極め、問題がある場合には、その発言者を特定できるようにしておくことではないだろうか。
<p>幸いにして、日本には電子掲示板などで誹謗中傷などを書き込んだ個人を特定するための法律が存在している。「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律」（通称「プロバイダー責任制限法」）である。
<p>インターネットには匿名性があるが、その匿名性は完全な匿名性ではない。匿名電子掲示板でも、ログと呼ばれる通信やサーバー利用の記録が残されていれば、どこからどのパソコンを使って書き込みが行われたかをほぼ確定できる。2002年5月27日に施行された「プロバイダー責任制限法」は、インターネット上の情報によって自己の権利が侵害されたとする者が、プロバイダーやウェブサーバー運営者に対し、発信者情報（ログ情報）の開示請求を可能にした。実際に、発信者情報を請求する件数は増加している。
<p>しかし、この発信者情報請求の仕組みは十分機能していない。機能していれば、インターネット上での人権侵害はここまで深刻化していないだろう。この発信者情報開示の問題は2つある。１つは電子掲示板などの運営者にログの保存を義務づけていないことである。もう一つは、明確な基準がないために発信者情報開示が迅速に行われないことである。この2つを改善しないとインターネット上の誹謗中傷事件は増加する一途を辿ることになる。
<p>こうした対策に加えて、言論の自由と人権に関する教育も必要だろう。言論の自由は社会として守るべきものではあるが、公共の利害に関する事実であり、かつ、その主たる目的が公益を図ることにある場合でないかぎり、人の名誉を毀損するような言論やプライバシーを侵害するような書き込みは犯罪である。
<p>インターネット上での人権侵害事件の増大を理由に、匿名による発言を禁止したり、匿名の書き込みを制限したりするような規制は、言論の自由の観点から望ましいものではない。だからと言って、表現の自由や言論の自由を振りかざして、むやみに誹謗中傷で人を傷つけることは許されるべきではない。表現の自由や言論の自由も基本的な人権ではあるが、誹謗中傷で人を傷つけたり、個人のプライバシーを侵害したり、人を恫喝したりするような書き込みをする自由までは与えられていないのだ。
<p>こうした言論の自由と人権に関する考え方を教育の場できちんと教え、インターネット社会を正しく安全に生きるために不可欠な知識と能力を養っていく必要がある。そうすれば、インターネット上の人権侵害事件は、ゼロにはならないだろうが、かなり少なくなるのではないだろうか。

<h5 class="profile"> プロフィール</h5>
<img alt="maegawa3.jpg" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/maegawa3-thumb.jpg" width="83" height="119" align="left" />
<p><まえがわ・とおる>サイバー大学 IT総合学部教授、国際大学GLOCOM主幹研究員。1978年 3月、名古屋工業大学情報工学科卒、同年に通産省に入省、機械情報産業局情報政策企画室長、JETRO New York センター産業用電子機器部長、情報処理振興事業協会（IPA）セキュリティセンター所長、早稲田大学 大学院 国際情報通信研究科 客員教授（専任）、富士通総研 経済研究所 主任研究員などを経て、2007年4月から現職。主な著書として、『ソフトウェア最前線』（アスペクト／2004年）、『サイバージャーナリズム論』（東京電機大学出版局／2003年）などがある。
</p>]]>

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<title>第28回: 社会と企業の対立の系譜―仲介機能を果たす情報技術―</title>
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<summary type="text/plain">中島洋　　(国際大学GLOCOM主任研究員・助教授) 情報通信技術が「内部統制」...</summary>
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<name>tomohisa</name>

<email>tomopisa@gmail.com</email>
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<![CDATA[<p class="author">中島洋　　(国際大学GLOCOM主任研究員・助教授)</p>

<h4>情報通信技術が「内部統制」を企業に促す</h4>

<p>たびたび企業の「不祥事」が世間をにぎわす。かつては主たる監視役はマスメディアだったが（労働組合や消費者運動もマスメディアに取り上げられることでその影響力を補強していた）、今日では、インターネットの掲示板やブログなど、影響力を持つ「監視役」は急速に増加しつつある。
<p>企業は生産財、消費財の生産や金融、流通、サービスなどの活動やプロセスにおいて外部（本稿では、これを象徴的に「社会」と呼ぶ）と関係を維持しながら存続する組織体である。社会に役に立つことによって対価を得る。消費者や取引先、近隣の住民などが「社会」である。がまた企業は、従業員に給料を支払う代わりにその行動を一定程度、制約するが、その生活保証や健康維持に対する責任も負っている。これも本質的には外部の資源を企業の中に取り込んで活用する、という意味で、便宜的に「社会」と呼ぶことにする。さらに、企業は利益を上げて、その収益の一部を株主に配当する責任も引き受けている。「株主」も企業にとっては社会の一部である。
<p>企業はこうした関係者（英語ではステークホールダーと呼ぶ）との相互依存関係の下に事業を続けることができる。企業の側からの側面を取り上げてみると、ステークホールダーへの責任と義務を負っている、と言える。06年5月1日施行の新しい会社法や08年度から上場企業に適用される日本版ＳＯＸ法（金融商品取引法）において、その責任は一段と明確になっている。特に、「内部統制」という言葉で、企業は経営者から従業員に至るまで、ステークホールダーに対する責任を果たすように組織体制を構築することを義務付けられた。
<p>本稿では、こうした内部統制の動きが、実は情報通信技術の進展によってもたらされたものであることを提示したい。情報通信技術が高度に発達してきた結果として、企業は内部統制が可能になり、それが可能になったが故に、法律・制度は企業に対して内部統制の質を上げ、厳格に組織を運営することを要求することになったのである。特に、会社法や日本版ＳＯＸ法で、このことは明白になった。
<p>日本版ＳＯＸ法の制定過程の議論で際立ったのは、「日本版ＳＯＸ法は企業経営を萎縮させ、過度の負担を企業に課す天下の悪法である」という主張だった。この主張は無知に暴論か、あるいはこの法律の不備な部分を過度に拡大させて全体の効果を減殺させようとする「ためにする議論」の類である。特に後者の場合には、内部統制の質が向上した結果、従来、隠れて行ってきた「不都合なビジネス活動」が白日の下にさらされることを恐れた意図的な妨害活動も混じっているかもしれない。情報通信技術がもたらした「透明性向上」の猛威を恐れたものといえる。
<p>しかし、残念ながら、すでに情報通信技術の「透明性向上」の動きはスタートしてしまった。社会全体に浸透するには時間はかからない。情報社会はそういうものであることを確認して、ビジネス活動の心構えを新しい時代に合わせたものに切り換えることである。

<h4>企業の歴史は事業活動の制約強化の歩み</h4>

<p>日本版ＳＯＸ法への不満の一つに「なぜ突然に企業活動はこんな制約を受けなければいけないのか」「企業活動はもっと自由であるべきだ」などというものがある。しかし、これは全くの歴史認識の錯誤である。企業の歴史は、社会に害悪を流していることの顕在化とその対応策としての企業活動制約の繰り返しである。企業はその活動の影響力が大きいので、予測を超えて社会に害悪を与えることが明らかになって、それを事後的に制約し、規制を加える、という連続である。そのたびごとに企業にとってはコスト負担の大きな「理不尽な規制」と映じるが、その規制が定着すればそれが新しい常識となる。
<p>古くは足尾鉱毒事件や水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息など、工場から出る廃水や煙突から出る排煙による周辺住民の健康破壊事件があった。その結果、企業が工場から出す廃液や排煙には厳しい制約が課せられた。もちろん、企業側からは厳しい規制に反対論が噴出した。「こんなに厳しい制約を課せられては国内で操業できない」と海外に工場を移転する企業まで出た。
<p>さらに自動車から出る排煙が大気を汚すことが顕在化して、エンジンの性能や排気装置の機能にも規制ができた。ずっと後になるが、事業所が使用するエネルギー・資材や排出する廃棄物が地球環境に負荷を与えるとして、廃棄物に対する規制、使用するエネルギー・資材が地球の炭酸ガスを増加させないようにする企業活動への規制もできた。企業活動は決して自由ではないのである。
<p>粉ミルクに猛毒の砒素が混入した、あるいは、毒性の強いＰＣＢが食用油に混入して消費者に犠牲者が出る、などという消費者に対する「企業犯罪」も起きた。腐敗した牛乳による中毒事件も起きた。食品衛生管理の規制はそのたびごとに厳しくなってきたし、運用管理も厳しさを増してきている。アレルギーを起こす食材に対する表示義務、あるいは、アスベストなどの建材など、相当に普及してから規制をかける、などというケースもある。いずれも企業がその責任を問われる可能性が出たケースである。
<p>さらに従業員に対して、企業は労働基準法を遵守した勤務体制、パワーハラスメントやセクシャルハラスメントを防止するための企業内の組織体制の義務付けなど、企業に課せられる義務は増大して行くばかりである。
<p>そして、現在、日本版ＳＯＸ法によって今度は株主に対する責任が明確になった。財務報告の適正化の要求である。単なる精神規定ではなく、企業内部に財務に影響するようなミスや不正が起こる可能性がないか、具体的に点検して起こらないような仕組みを構築すること、さらに、その仕組みが効果的に運用されているかどうかをチェックすること、こうした活動を企業トップ自らが確認して、株主に報告するのを義務付けたのである。これに違反した場合には懲役刑が待っている、という厳しい法律である。

<h4>事業継続への要求</h4>

<p>もちろん、企業と社会の関係の再構築作業は、ここで終わるわけではない。日本版ＳＯＸ法以降では、取引先に対する製品やサービスの安定供給の責務が強化されようとしている。ＢＣＰ（事業継続計画）の策定である。何かの災害や事故によって、商品やサービスが長期間、ストップすることがないように企業組織を整備することの義務化である。
<p>消費期限切れの食材を使って菓子を製造した企業が操業停止処分を受け、製品供給先の多数の菓子小売店が長期間、閉店するという事件があったが、企業が事業を中断することは「取引先」という「社会」に大きな損失を与えるのである。地震で電子部品工場が被災し、専用部品の供給がストップして、あるメーカーの携帯電話の製造が長期間、全面的に停止してしまったことがある。取引先への部品供給を継続するために、どこまで対策が施されているか。台風で自動車道路が寸断されて、これは短期間だが自動車部品の供給が停止して、1週間程度、アッセンブリー工場の操業が停止したケースもある。産業構造が階層化されて原材料や部品、製品など、供給元となる川上部分への依存が強まれば、供給側の事業継続への責任は重くなっている。
<p>こういう中にあって、情報システムの継続性の責任はとりわけ重大である。企業活動が情報通信システムに依存する比率が高まるにつれて、事業継続には情報システムのデータの保存、バックアップ体制による情報システム運用の継続の保証が求められるようになる。情報社会が高度に進展するにつれて情報システムの無停止、あるいは短期間での修復が求められるようになる。これも企業のコスト負担を強いられるものだが、しばらくすれば、それが常識として定着してしまうだろう。事業活動のインフラとして情報システムは中断なく、あるいは中断期間を最小化しながら運転することが要求されるようになる。
<p>事業継続の前提条件としての「情報システムの運転の継続」の要求は偶然に出てきたものではない。情報システムの運転の継続性が高度に保証できる仕組みが可能になったために、その上に構築する事業継続が実現できる可能性が見えてきたのである。安価で大容量伝送が可能な高速通信網の発展によって、遠隔地でバックアップができるディザスターズリカバリー（ＤＲ）サイトがそれだ。ここ10年は、ＤＲサイト建設の時代だろう。ＤＲの装備は常識となり、その準備がない企業は社会から認められなくなる。

<h4>トレイサビリティと可視化と透明性</h4>

<p>ミスや不正をなくして企業や経営トップが社会に対して責任を果たすことを可能にする情報通信技術がすでに準備されたといえる。
<p>上述してきた不祥事のケースを元に考えてみよう。まず、洋菓子会社はなぜ、消費期限切れの食材を工場現場で使用するのを抑止できなかったのか。経営トップが、こうした不適切な行為を抑止する仕組みがなかったからである。これは同義反復の言葉遊びをしているのではない。かつては、工場で起きている事象を経営トップが監視するということは、ほとんど不可能だった。「わが社の社員には不適切な行為をする者はいない。仕事に誇りをもつように従業員教育は十分に行っている」という自信たっぷりの自慢話で不適切行為がないことを主張して済ませていた。しかし、現実には、不適切な行為は行われ、経営トップが気付いていなかっただけなのである。あるいは、経営トップもうすうす気付いていたが、証拠がつかめないので知らないフリをしていただけかもしれない。
<p>この不適切行為の抑止を可能にするのが情報通信技術である。一般的に「可視化」と呼ばれる技術だが、本来は、プロセスの進行状況を直感的に把握できるようにし、生産性能向上や適切な意思決定を下すことを目的にしたシステムだが、同時に、違法行為や不適切な作業行為を抽出する機能にも転用できる。
<p>対応策の一例を考えてみよう。原材料には製造過程や食品成分、消費期限などのデータを書き込んだ電子タグを付けて、作業者は作業の際には必ず、作業者のＩＤ、投入する原材料の電子タグを読み込ませて、次の行動に移るビジネスプロセスを構築する。この一つ一つの作業は省略できない。省略すると次のプロセスに進めないようにする。
<p>例外的に「省略」のプロセスをとる際にはその記録は複数の上司に自動的に通知され、原因を確認する作業が要求される。また、消費期限切れ、あるいは不適切な成分が入っている食材は、警報が鳴り、プロセスが自動停止する。その作業者の行動を監視するカメラが作動して、責任者のモニターに映し出される。そこで責任者との会話が行われて、新たに作業指示が出され、適切な行動に移ることになる。もちろん、このプロセスは記録され、必要に応じて再生されて行動が適正かどうか、点検される。
<p>警報が鳴ったケースはいつでも上位の立場の人間は点検できる。ネットワークを通じて、遠隔地の作業現場で起きているデータを集計し、経営トップも不審がないかどうか、いつでも点検できる。データの統計処理によって、不審な作業プロセスを抽出し、安全が確認できない箇所の絞り込みができる。経営トップは、こうした不審なプロセスを点検して安全を最終確認する。こういう情報通信システムの利用によって、経営トップは確信をもって「弊社の製品の品質は安全である」と主張できるのである。
<p>さらに、経営トップが見ることができるデータを、取引先からもアクセスできるようにシステムを構築すれば一段と前進する。取引先は、供給元が事業継続できるような内部統制の仕組みを運用していることを確認できるのである。
<p>事業所内のプロセスが適切に運用されていることを確認するシステムの一部を取引先に開放する、というアイデアは、もっと一般的に企業と社会の間の緊張関係を緩和することに役立つかもしれない。すでに、消費者が手元にある商品の製造プロセスや成分をネットワークで確認する仕組みは一部で利用されている。トレイサビリティシステム（生産履歴情報管理システム）である。また、公害防止対策の状況を工場周辺の住民に確認できるように一部のデータを開放することもネットワークを通じて可能である。情報システムを通じて住民が従業員の活動の監視役となるのである。
<p>企業活動の「透明性」を向上させる仕組みである。同様の仕組みは株主に対しても構築できる。不正やミスを防止するための企業会計のチェック項目ついて、経営トップがアクセスできる監視システムを株主もまたアクセスできるように仕組みを作ることも考慮に値するだろう。利害関係のある外部の人は真剣に点検する。アナロジーで言えば、スーパーやコンビニのレジで、レジ係りが入力している金額を買い物客にも見せているあの仕組みである。監視役は上司ではなく、買い物客（取引先や株主）である。それで完全にミスや不正がなくなるわけではないが、抑止力としては効果が大きいだろう。

<h4>情報通信システムで可能なことはルール化せよ</h4>

<p>情報社会の進展によってこれまでの社会ルールは変更を余儀なくされる。情報システムによって企業内部で行われている作業プロセスの可視化が進み、透明性が高まるならば、経営トップは企業内部のミスや不正を抑止する道具を手に入れることができる。そうならば、経営トップに企業内部のミスや不正を防止する義務を課すことは、それほど過酷な要求とは言えないだろう。
<p>もちろん、これまでの仕組みに慣れて、情報通信技術を活用した新しい仕組みへのイマジネーションをもてない経営者やビジネスマンにとっては、新しいルールは厳しすぎるものと感じられるかもしれない。しかし、それは情報通信技術に対する無知である、と断定しても良い。
<p>情報通信技術によってトレイサビリティ、可視化、透明性が高められた社会では、新しい行動ルールが次々と登場するのである。

<h5 class="profile"> プロフィール</h5>
<img alt="nakajima.jpg" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/nakajima-thumb.jpg" width="116" height="136" align="left" />
<p><なかじま・ひろし><br>
１９４７年生まれ。東京大学大学院（倫理学）修士修了。７３年日本経済新聞社入社。産業部で２４年にわたり、ハイテク分野、総合商社、企業経営問題などを担当。この間、雑誌『日経コンピュータ』『日経パソコン』の創刊を担当。１９８８年から編集委員。９７年～２００２年慶應義塾大学教授。現在、日経ＢＰ社編集委員、ＭＭ総研所長、国際大学教授、首都圏ソフトウェア協同組合理事長。情報化推進国民会議専門委員会委員長、未踏ソフトウェア創造事業審議委員などを務めている。主な著書に、「デジタル情報クライシス」「激動を奔る～伝説の営業マンからのメッセージ（編）」「アクセンチュア」「勝者のＩＴ戦略」「ユビキタス･ドキュメントはビジネスを超速化する」「イントラネット」「マルチメディア・ビジネス」「エレクトロニック･コマースの衝撃」「インターネット就職」。監修に「ＢＡＭ～可視化経営の実践～」（日経ＢＰ企画）など多数。
</p>]]>

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<title>第27回: 教育再生・学校不信は本当か？</title>
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<summary type="text/plain">豊福晋平　　(国際大学GLOCOM准教授・助教授) はじめに このところ学校教育...</summary>
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<name>tomohisa</name>

<email>tomopisa@gmail.com</email>
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<![CDATA[<p class="author">豊福晋平　　(国際大学GLOCOM准教授・助教授)</p>

<h4>はじめに</h4>

<p>このところ学校教育関連では、ゆとり教育の見直し、いじめ自殺、単位未履修とホットな話題に事欠かない。安倍内閣発足後に教育再生会議が設置され、世間の教育議論は盛り上がる一方である。
<p>だが、教育にかかわる人々はこの急激な動きに戸惑いを隠せない。そもそも教育の「再生」とは、前提とする崩壊を既成事実化するものだ。教育の課題山積は多くの人が納得自覚するところだが、もちろん、あちこちで学校運営が頓挫するような滅茶苦茶な状態ではない。にもかかわらず、まるで教育業界全体に無能の烙印を押し、他分野からの精神注入が必要だとも言いたげな議論は、国の意志決定にかかわる首相官邸らしからぬ強引さといわねばなるまい。
<p>しかしながら、このような教育再生会議が拙速な議論でガタついてもなお、世間や教育業界から、それほど大きな反対が起こらない背景の方が、実はもっと深刻な課題である。それは社会に棲みついてしまった学校不信という亡霊である。
<p>亡霊という以上、正体もオチもある。本稿で筆者が主張したいのは、学校不信が実はフィクションであり、憑きものを落とすための方法を見いだそうという、いたって真っ当な話である。

<h4>火のないところに煙は立たぬというが</h4>

<p>筆者は教育工学の研究者だが、学校べったりという関係でもない。一般社会人の教育に対する意識も共有できれば、教育現場の声にも比較的アプローチしやすいという中間的な立場にある。そもそも、筆者の研究（後ほど述べる）題材は、もとといえば、世間の学校不信を出発点にしたもので、学校に対するふがいなさや、批判的な感情が相当含まれていると自覚している。
<p>だが、教育現場をよく知るほど、不信のタネとは、実は単なる洋服のボタンの掛け違いではなかったか、としか思えなくなってくる。教育現場でのヒアリングや各種統計をみても、急激な学校教育の崩壊を裏付けるような結果は容易に見つからないし、いつも不信や批判の矢面に立たされる教育現場は、生真面目ゆえの不器用さ、萎縮や混乱といった側面が目立つからである。現場に漂っているのは、「これだけ誠心誠意子どもたちを相手に頑張っているのに、なぜ？」という無念さや理不尽さであり、訳もわからず荒れ狂う社会の嵐に対して身をかがめ、ひたすら守りの体勢になっているようにも見える。

<h4>学校不信はなぜ起こるのか</h4>

<p>では、学校不信はどのようなメカニズムでここまで大きくなったのか。原因は以下の4点にまとめることができる。
<p>1点目は、保護者・地域市民の潜在的欲求と学校側対応との不均衡である。
<p>特に年少児童の保護者にとってみれば、自分が直接ケアできない学校での時間、わが子の様子がどうであったか知りたいと願うのはごく自然な気持ちである。しかし、保護者や地域市民が「学校の日常をよく知りたい」という素朴な欲求に対して、学校側は真摯に応えているとはいえない現実がある。防犯安全対策の影響もあって、学校側は外に対して守りを固める傾向が強くなり、このことがかえって周囲からの不透明感を募らせ、風評を生む原因となっている。
<p>2点目は、マスメディアによる非日常事象の日常事象化錯誤である。
<p>マスメディアはマス（大衆）を対象に、注目を集めるような話題（イベント・ゴシップ・事件・不祥事・課題）を伝えるのが仕事であるから、実際には滅多に起こらない非日常事象をいかにセンセーショナルに扱って目を惹くかが競われる。ひとたび事件や不祥事で世間の関心が集まれば、それまでは埋もれていた類似事象までが引っ張り出され、連日のようにラベル付けが強化されるような情報操作がなされる。これは一種のメディアスクラムである。
<p>一般に、公務員・教職員・警察といった職業に対する社会の倫理的要求水準は高く厳しい。教職員のゴシップ・不祥事は世間的に「あってはならない」たぐいのものとされているがゆえに、事件が起これば記事は破格の扱いを受ける。
<p>このようなマスメディアの作用が重なると、今度は非日常的な事象が日常であると誤解されるようになる。その結果、まるで全国の学校すべてが病んでいるかのような危機的イメージが植え付けられるのである。
<p>3点目は、マスメディアが「学校の現実」を構成するということである。
<p>マクルーハンらのメディア研究を継承するメディア・リテラシー<a href="#1" >*1</a>は、重要な原則の一つとして「メディアは現実を構成する」という一文を掲げている。この文の意味する現実とは、個人の経験や記憶に基づくものだが、実際の経験以上にメディアからの情報接触が過多になれば、メディアが伝える観点や主張がそのまま個人の現実に置き換わってしまう危険を述べたものだ。一般に、教育現場に日常身を置く人々とそうでない人々との間に著しい学校イメージのギャップが生じやすいのは、ひとえに依拠する現実感の違いによるもので、学校外部の人々が、いかにマスメディアの作るイメージに誘導されやすいかを示している。
<p>4点目は、記憶の中の学校イメージと、「危機的学校イメージ」との対比から生まれる現状批判である。
<p>教育社会学の専門家である広田照幸<a href="#2" >*2</a>,<a href="#3" >*3</a>は、学校のいじめ報道に関して、大人たちはかつて自分の身の回りで起こった軽微ないじめを、マスコミが大々的に書き立てる現在の極端ないじめと比較し、「昔の子供たちは限度をわきまえていた」と思わせ、ともすれば、懐古主義に走らせてしまうメカニズムについて述べている。
<p>人にもよるが、自身が体験した学校の記憶の大半は、平凡で淡々とした学校の日常であって、事件や不祥事はほとんど起こりえない。一方で、マスメディアが報じる危機的学校イメージは、非日常的な極端な事象であるにもかかわらず、現実感を伴っているがゆえに、同列に比較されてしまう。このため、「昔の学校はもっと平穏だったのに、今の学校の荒廃はけしからん」という批判に転じやすくなる。

<h4>学校不信を利用する人々</h4>

<p>学校不信が単なる話題ですまされないのは、社会の学校不信を逆に利用して、学校教育の立場を脅かす動きが最近目立つことである。
<p>一つは、教育基本法改正を筆頭とする、政治や国の介入である。
<p>ちなみにOECD（経済協力開発機構）の「教育指標の国際比較」によれば、わが国の国内総生産（GDP）に対する公財政支出学校教育費の割合は加盟国の平均以下である。誤解を恐れずに言えば、現状学校が抱える課題について、教育予算を倍増し必要な人材を手当てすれば、解消できることはたくさんありそうだが、議論は実質的な現状把握や予算検討よりは、むしろ、何でもいいから抜本改革ありきとインパクト重視に傾いており、学校関係者をスケープゴートにこらしめと尻たたきの方法ばかりが求められているようで、およそ建設的でない。
<p>もう一つは、公教育を消費サービスとして読み換え、規制緩和や競争原理導入とともに教育の市場化を加速させようともくろむ動きである。
<p>それぞれのニーズに応じたOne To One教育サービスを提供することが究極であると仮定すれば、教育はオーダーメイドのサービスになり、数多くの学校は不要になる。だが、このような発想を突き詰めれば、金で買えるサービス以外は得られなくなり、格差はおのずと拡大し、地域やコミュニティの要素は排除されてしまう（学校には、サービス価値以外に、共に汗を流して地域教育を作る価値があると筆者は考えている）。
<p>先に述べたように、学校現場が十分検証されることなく、現状教育の全否定と教育再生という決めつけから、なりふりかまわぬ改革が行われることになれば、社会に対する長期的なダメージを被る危険性が高い。
<p>少なくとも正常で健全な教育議論が行われるには、膨れあがった学校不信から脱却し、あらためて教育現場の実態を直視するための具体的解決策が求められていると言えよう。

<h4>学校自身が情報源になること</h4>

<p>では、学校不信を乗り越えるには、どのようにすればよいだろうか。
<p>小学生の誘拐殺人事件が世間を騒がせていた頃、小学生の子をもつ親からこんな事を言われた。「小学生の誘拐殺人事件は自分にとって他人事ではないので、報道されれば食い入るように見てしまう。ただ、悲惨な事件現場を何度も放映することや、遺族の心情に踏み込むことは、けっしてわれわれが望んでいることではない」と。マスメディアはセンセーショナルな報道を好むが、半当事者の保護者の立場からすれば、身の回りの状況について、もっと現実的な教訓、課題、対処方法を知りたいと思う。つまり、マスメディアの情報は、身近な生活情報の置き換えには絶対なり得ないのである。
<p>学校不信の問題は、一言でいえば、学校教育側から発信される情報よりも、マスメディアの情報量が圧倒的に勝っており、マスメディアが学校の現実を構成しているということであるが、これを逆手にとらえれば、学校教育が直接有力な情報源となって、情報を欲する対象に正確かつ十分な情報提供を行えば、2次情報しか扱えないマスメディアの影響を確実に減らすことができる。これは、地震等被災時に流言飛語被害を防ぐために正確な情報が必要とされるのと同じ理屈である。

<h4>問題解決に至るハードル</h4>

<p>だが、これにはいくつかの大きなハードルを乗り越えなければならない。
<p>1点目は、メディア（媒体）の問題である。
<p>学校では、「学校だより」を印刷して保護者に配布することが慣例とされており、ほとんどの学校が毎月「学校だより」を発行している。ただし、「学校だより」の伝達範囲は、在籍児童生徒の保護者だけが対象であり、直接プリントを手渡しできない人々には情報を伝えることはできない。
<p>学校自身が広報手段として自律的に活用できるのは、学校ホームページである。ただ、多くの学校や教育委員会はホームページによる情報発信に対して過度に慎重である。これが2点目の問題である。
<p>図1は自治体別に集計した学校ホームページの平均更新率<a href="#4" >*4</a>である。ネット業界では有名はパレート分布そのものであり、ヘッド部分にあたる一部の熱心な学校が多くの情報を発信している一方で、ロングテール部分にあたる大半の学校ホームページはメディアとしてほとんど機能していない。

<p><a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/toyo.png"><img alt="toyo.png" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/toyo-thumb.png" width="431" height="300" /></a></p>

<p>更新頻度の高いサイト運営者に聞くと、「実績が伴わないホームページ開設当初が一番困難」という答えが一様に返ってくる。まず、学校組織内には情報提供に対する動機付けがなく、ホームページは単なる負担増と理解されやすい。外部からの批判攻撃に対して守りの体勢になっているため、隙を突かれるような「余計な」情報を出したがらない。個人情報保護や防犯安全を理由に、教育委員会側から厳しい規制や指導監督を受け、手続きや承認が煩雑になりやすい。さらには、学校に対して不信感を持った保護者から「学校ホームページなどとんでもない」とストップがかかる、といった具合である。
<p>3点目は、教職員が学校広報とマスメディアや宣伝とを混同するという問題である。
<p>学校広報に関していえば、「生徒募集をする必要もないのに宣伝する価値があるのか」という意見を聞くことがたびたびある。たしかに、宣伝と称してある事ない事飾り立てるのは、教職員の倫理に照らしても、受け入れられないだろう。ただ、保護者や地域が知りたいのは、あくまで学校の毎日の「地味でベタな情報」であって、マスメディアのような編集や粉飾が要求されているわけではない。その点が勘違いされると、教職員の意識はネガティブに固まってしまう。
<p>4点目は2点目と関連するが、死のロングテール部分を脱し、自律展開を始めた学校ホームページに対する意義を、他の多くの教育関係者が正当に評価できないという問題である。
<p>学校ホームページの成功例を聞くと、更新頻度がある一定水準を超えると、保護者や地域の反応がまず変わるという。いわば評価の分水嶺である。ただ、保護者の評価が変わっても、周囲の教育関係者の意識を変えるのは難しい。もともと学校も教育委員会も消極的な守りの体勢になっているうえに、概して教員は他教員の業績に無関心で、組織メリットまで考える管理職は希有であるから、せっかく地道に成果をあげても、誰も評価してくれないという状況になりがちである。

<h4>学校を外部から応援する</h4>

<p>これらのハードルはかなり困難な課題ばかりであるうえに、教育行政内部の改革を待っていたのでは、解決がいつになるかわからない。
<p>そこで、筆者が研究として進めているのは、オープンなホームページという特性を活かし、教育行政組織の外部に学校情報発信の支援・フィードバックの仕掛けを作る試みである。言い換えれば、硬直的な教育ガバナンスに対して、もっともミニマムな学校とステークホルダ<a href="#5" >*5</a>との関係を外部透明性によって構築し、各地で地道に頑張っている学校を「勝手に」発掘・表彰することで、学校自身の情報発信を促そうとするものである。
<p>これには大きく分けて学校ホームページの量的評価と質的評価の2点がある。
<p>ホームページの量的評価アプローチは、全国学校ホームページの活性度評価である。国際大学GLOCOMで1995年から運営されている「i-learn.jp」<a href="#6" >*6</a>は、学校ホームページの活動状況を集約するサイトとして機能しており、全国34,000件を超える学校ホームページの更新状況を毎日12時間おきに把握している。2000年以降収集された更新履歴情報は、学校別・自治体別に集計されランキングとともにフィードバックされる。
<p>学校ホームページの活動実績は電子情報であるがゆえに埋没しやすいが、第三者としてのi-learn.jpが客観的に実績数値を証明することで、他のホームページ運営者や一般利用者の関心を集めたり、他の教育関係者に説明したりすることが可能になる。
<p>ホームページの質的評価アプローチは「全日本小学校ホームページ大賞<a href="#7" >*7</a>（通称J-KIDS大賞）」である。このコンテストは、全国17,000以上の小学校ホームページを対象とし、応募不要、社会人ボランティアによる勝手選考、客観的評価指標を特徴としている。
<p>コンテストのための無用な負担を省く代わりに、本来の学校広報活動がしっかり行われているか、一般社会人や保護者の視点から厳しくチェックしていただき、毎年、優れた学校ホームページ400件以上に賞を授与している。受賞するのは、ICTに強いモデル校や大学付属校とは限らず、むしろ、過疎地の小規模校が頑張っているのがわかる。
<p>筆者としては、これら二つの取り組みで発掘された学校（ホームページ）をぜひ一度訪れて欲しいと思う。頑張っている各地の「学校の現実」とはいかなるものか、理解していただけるだろう。そのうえで、学校教育に今必要とされるものは何か、われわれ自身が学校教育に対して何を支援できるか考えてみたい。
<p>学校教育全体の問題から見れば、こんな試みは焼け石に水かもしれないが、巨大な行政組織を相手に「大山鳴動して鼠一匹」よりは、ずっと着実で効果的で、かつわくわくすると思うのである。

<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >注
<p><a  name="1">*1</a> カナダオンタリオ州教育省編［1992］『メディア・リテラシー』リベルタ出版
<p><a  name="2">*2</a> 広田照幸［1999］『日本人のしつけは衰退したか～「教育する家族」のゆくえ』講談社現代新書、p.177
<p><a  name="3">*3</a> 広田照幸［2005］『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、p.48
<p><a  name="4">*4</a> 自治体内全学校ホームページの過去90日中更新日数を合算し、学校数で割ったもの。図は学校数3校以上の自治体1,736を対象にグラフ化した。ホームページ設置率が高く、更新頻度が高いほど数値が高くなる。
<p><a  name="5">*5</a> 学校のステークホルダとは、教育関係当事者と保護者・児童生徒だけでなく、地域市民、納税者、卒業生や転入学希望者まで含まれる広い概念である。
<p><a  name="6">*6</a> <a href="http://www.i-learn.jp/">http://www.i-learn.jp/</a>
<p><a  name="7">*7</a> <a href="http://www.j-kids.org/">全日本小学校ホームページ大賞（J-KIDS大賞）</a>
</font>
<br>
<br>

<h5 class="profile"> プロフィール</h5>
<img alt="toyofuku05.png" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/toyofuku05.png" width="115" height="152" /><p><とよふく・しんぺい><br>
1967年北海道生まれ。1996年4月より国際大学グローバル・コミュニケーション・センター主任研究員。2002年10月より同センター助教授。専門は教育工学・学校教育心理学。
</p>]]>

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<title>第26回: 情報社会のポリフォニーモデル構築をめざして</title>
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<modified>2008-03-19T06:31:04Z</modified>
<issued>2007-04-16T06:36:28Z</issued>
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<summary type="text/plain">砂田薫　　(国際大学GLOCOM主任研究員・助教授) 「寛容」を出発点とする社会...</summary>
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<email>tomopisa@gmail.com</email>
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<![CDATA[<p class="author">砂田薫　　(国際大学GLOCOM主任研究員・助教授)</p>

<h4>「寛容」を出発点とする社会発展モデル</h4>

<p>10年後、20年後の日本や地球はどうなっているのだろうか。あるいは、どうあってほしいと私たちは願っているのだろうか。
<p>情報社会の発展は、情報技術（IT）の進歩を抜きにして語ることはできない。コンピュータの普及が始まった1960年代から今日にいたる40年余りで、ITは社会に不可欠のインフラとなりさまざまな領域へ浸透した。20世紀末から21世紀にかけてインターネットが全世界に広がり、情報化とグローバル化の波は相互に作用しつつダイナミックに進んでいる。今後ますます地球上で時間と距離の障壁は取り払われていくだろう。テクノロジーの側面から社会を見れば、間違いなく激変が起こったということができる。
<p>にもかかわらず、私たちが頭に思い描く理想的な社会のイメージは、近代化の停滞が始まった1970年代からさほど大きく変わっていないようにみえる。すなわち、中央集権的で（大量生産・大量消費に代表されるような）画一的な経済成長最優先の競争社会から、自律・分権的で多様性に富んだ持続可能な共生型社会への移行という進路である。1970年代中頃、西欧諸国では経済成長の鈍化による慢性的な失業が大きな社会問題となった。一方、日本でも1973年のオイルショックを引き金として高度経済成長が幕を閉じた。また、水俣病に代表される公害問題によって地球環境への関心が高まり、反原発運動に見られたように巨大科学技術への懐疑が深まった。効率化と合理化の追求によってもたらされる経済成長を最優先とするような思考への反省が起こり、社会発展のオルタナティブなモデルが模索された時代だった。
<p>むろんその後には、テクノロジーだけでなく、政治・経済・社会のさまざまな面で新たな現象が起こった。米ソの冷戦時代が終わってからは国際的なテロの脅威が高まるなど、国際政治と安全保障に起こった変化はとりわけ注目されるだろう。その背景には、富の不均衡の拡大によって貧困問題が深刻化しているという現実がある。1970年代に描かれた社会発展モデルのキーワードが「多様」「分権」「共生」であるとすれば、現在はこれに「寛容」を加えたいと考える人が少なくないはずだ。
<p>小説家の大江健三郎は、2006年11月に朝日新聞社から発行したエッセイ集『「伝える言葉」プラス』の記述を「不寛容」という言葉の説明から始めている。21世紀に入って世界に政治的な不寛容が蔓延し亀裂を深めていることに対して、大江は警告を発し、「寛容」の重要性を繰り返し強調してきた。
<p>鶴見和子は、その大江健三郎の小説『燃えあがる緑の木』に見出される「ポリフォニー」に注目し、自分たちと利害や意見が異なるものを排除するのではなく、小説を通じて「異質なものをすべて受け入れて新しい配置のうえに新しい意味を付与する社会変動のあり方を模索している」と分析した<a href="#1" >*1</a>。「ポリフォニー」とは一般的に複数の声が調和して成り立つ多声音楽を指している。鶴見の説明によれば、一人の指揮者がいて一つの曲を多くの楽器で統一的に演じる「シンフォニー」とは異なり、ポリフォニーはそれぞれが違う曲を奏でていながら全体として調和を保つ音楽を指すという。また、小説ではドストエフスキーの中にポリフォニーがあることをミハエル･バフチンが発見し、大江はそこから学んだと指摘している。
<p>ポリフォニーの出発点は寛容にある。だから、異質なもの同士の分権的な共生が可能になるのであり、結果として多様性に富んだ持続可能な社会となる。まさに21世紀の情報社会の一つの理想的なモデルをポリフォニーは提供してくれると言えるだろう。そこで、このような方向をめざす社会発展のモデルをここでは仮に「ポリフォニーモデル」と呼ぶことにして、以下、その起源となる理論と現代の情報社会への適用について若干の考察をしてみたい。

<h4>1970年代の問題提起</h4>

<p>ポリフォニーモデルの起源となる概念には、鶴見和子が提起した「内発的発展」とスウェーデンのダグ･ハマーショルド財団が『何をなすべきか？』と題した報告書で提起した「もう一つの発展」の二つがある。いずれも、自然環境や伝統文化を重視した内発・自律・分権的な社会発展モデルを指している。
<p>西川潤は、この二つが1970年代中頃に期せずして東西でほぼ同時に現れたのは、「欧米の近代社会がつくり上げた世界的な国際分業体制が崩れて、第三世界の国々が独立し、新たな、自らがその犠牲となってきた支配型発展とは異なる発展の道を模索し始めたことと関連していよう」と述べている。ただし、内発的発展の思考の起源はさらに古く｢19世紀にイギリスが『世界の工場』への道を歩むとともに、イギリス起源の自由主義・普遍主義が後発地域を巻き込もうとした時点で、ドイツ、フランス、アメリカなどで、この自由主義・普遍主義に対抗する思想として現れた｣と考察している<a href="#2" >*2</a>。
<p>20世紀には欧米に続いて日本が経済成長を果たし、さらにアジアや南米の国々もそれに続いた。そして、21世紀初頭には中国が「世界の工場」となった。しかし、最初に産業化が始まったイギリス以外の国でも、内発的発展モデルが主流を占めることはなかった。むしろ、その対極にある外発的な発展モデルを採用する国や地域が多かったと言えるだろう。日本はその典型である。
<p>イギリスの産業主義にアメリカは技術主義で対抗した。村上泰亮は、19世紀の産業主義と20世紀の技術主義を区別したカール・シュミットの議論を参照しつつ、「20世紀前半における技術主義の代表はアメリカであり、20世紀後半に技術主義を徹底化し、それを活かす産業政策を発明したのは日本である」と指摘した<a href="#3" >*3</a>。その理由は、後発国、敗戦国というハンディキャップから立ち直る鍵は技術向上にあるという判断がとられたためである。しかも、日本はヨーロッパと異なり、啓蒙主義、産業主義、技術主義という歴史の道程の重荷を背負っていない。そのために技術主義を徹底できたというのが村上の分析である。
<p>村上は日本が採用した欧米へのキャッチアップ型の産業化を「開発主義」と呼んでいるが、これはまさに内発的発展とは正反対の考え方と言えるだろう。その結果、輸出型製造業が急成長を果たして経済を牽引した半面、日本の企業行動は開発主義的なものとなってしまった。村上は「国際的に過当競争がいきすぎ征服型の行動を生んでいる」にもかかわらず、日本企業の経営者は自覚に乏しく、経営者に自覚を促す社会的作用も弱いと批判した<a href="#4" >*4</a>。 日本ではこのような開発主義がもたらす弊害が1970年代の内発的発展論の誕生の背景にある。

<h4>内発的発展論と情報化理論の交差</h4>

<p>一方、1960年代から70年代にかけては情報化をめぐる議論も活発になり始めていた。日本は世界に先がけて1960年代に「情報化」という言葉を生み出し、情報社会論では先導的な役割を果たしてきた。そして、すでに述べたように、1970年代には「内発的発展」の概念をいち早く発信している。にもかかわらず、両者を結びつけるような社会発展モデルの理論化が日本で熱心に試みられることはあまりなかったようにみえる。
<p>おそらく、その最初の本格的な論考は、フランスの経済学者でミッテラン大統領時代に補佐官をつとめたジャック・アタリの1979年の著作『情報とエネルギーの人間科学』<a href="#5" >*5</a>ではないだろうか。アタリは「情報」を、①意味作用をもたない「メッセージ」と、意味作用をもつ以下の４レベルすなわち、②サイバネティック情報／シグナル（反応をおこすレベル）、③セマンティック（意味連関）情報／言説（知識の交換過程レベル）、④象徴的（記号学的）情報／シンボル（社会的メッセージの文化過程レベル）、⑤無制約的情報／相互交通（人格相互の関係で交換される情報の総体レベル）、の５つに分類した。
<p>一方で、社会モデルを記述する３つのパラメータを次のように分析した。

<p>（１）経済･･･････外展開：コミュニティと無関係、自然開発の制限を無考慮<br />
　　　　　　　　　　内展開：一定圏域の使用価値を増大化<br />
（２）権力･･････集権化：意思決定が中央機関で行われる<br />
　　　　　　　　　 分権化：意思決定が分散している<br />
（３）権力の正統性･･他者管理型：資本を制御する小集団にゆだねる<br />
　　　　　　　　　　　　 自己管理型：共同的な政治上の手続きを経る</p>

<p>以上の３つのパラメータの組み合せによる８モデルのうち、可能であるのは以下の３つの社会モデルであるとしている。

<p>（１）意味連関社会－－－－－外展開・他者管理・集権化<br />
（２）サイバネティック社会－外展開・他者管理・分権化<br />
（３）相互交通社会－－－－－内展開・自己管理・分権化</p>

<p>外展開型の秩序は、必要性に乏しくとも利潤が最大となるような生産が増大し、エネルギー消費、都市の規模、道具などあらゆる領域が指数関数的な加速化を引き起こす。また、組織が生産物、雇用、生活様式を規定し、諸個人は広範囲にわたって組織からの制約を受けるとアタリは指摘する。
<p>とするならば、会社をほぼ唯一の共同体として組織してきた戦後日本の企業中心主義は、日本の特殊性というよりは、外展開型社会に共通する傾向を日本が最も過激に徹底化させた結果なのだと見ることができるだろう。つまり、日本は20世紀後半に技術主義と外展開経済を結びつけて徹底化させたわけである。
<p>アタリの結論は言うまでもなく内展開・自己管理・分権化の相互交通社会をめざすというものである。しかし、アタリによれば「技術進歩が外展開過程を拡大する用具となるためには分権化への渇望を外展開のイデオロギーのなかに徐々に統合していく必要がある」<a href="#6" >*6</a>という。これは、外展開の経済構造は深く根をはっているため、集権化から分権化への移行が進んだとしても、外展開から内展開への転換には大きな困難がともなうという見通しを述べたものだろう。しかし、内展開という概念で特徴づけられるアタリが描いた相互交通社会にはまさに内発的発展と共通の思想がある。
<p>1980年代に入ると、アメリカでも新しい経済発展のモデルが提起された。代表作の一つがピオリとセーブルの共著『第二の産業分水嶺』である<a href="#7" >*7</a>。大量生産・大量消費モデルの次にくるものとして柔軟なクラフトモデルを提唱した。
<p>また、1980年代終わりから90年代にかけて、アタリが描いた変革の構想を発展させる研究も進んだ。アタリは、価値増殖ではなく価値創造（活性化）の原理に基づき、一定圏域内での使用価値を高めるような「内展開」の経済秩序を形成してくには、自己組織的な秩序変容をもたらす錯乱要因「ノイズ」が変革の源泉になると述べた。その「ノイズ」に着目して議論を発展させた須藤修は、個人の創造力や構想力を高めることで、既存秩序の意味を問い直し差異化を企てる「自省的行為」の重要性を指摘した。そして参加主体の自律性を保証し、自省的行為を活性化する構造として「複合的ネットワーク」を提示した<a href="#8" >*8</a>。
<p>その後1990年代後半からは、インターネットの普及と歩調を合わせて、ネットワーク理論が発展していった。当初は、草の根的な市民運動と結びついたネットワーキング理論が提唱されたが、ネットワーク構造の研究が進むにつれて、オープンに誰もが参加できるネットワークの中に著しい不均衡や不平等ができるべき法則が働くことが明らかにされて<a href="#9" >*9</a>今日にいたっている。

<h4>キーパーソンと多様性の時代へ</h4>

<p>以上の研究の蓄積をふまえて、これからは情報社会のポリフォニーモデルについての考察を深めることが与えられた課題となっている。理想的な社会モデルのイメージとして「ポリフォニー」という言葉を気安く使ってはみたものの、その概念を明確化するにはまだ多くの研究が必要であり、途方もないような作業にも思われる。とはいえ、まったく手がかりがないわけではない。
<p>一つは情報化の主役交代である。グローバル化も情報化も、国や企業が主役となって推進した時代から個人が主役の時代へ移行しつつある。米国のジャーナリスト、トーマス・フリードマンはこのような歴史的新局面を「グローバリゼーション3.0」と呼んだ。彼は2005年に米国でベストセラーとなった著作『フラット化する世界（The World Is Flat）』で、グローバリゼーションの進展を、(1) 国家が主役の「グローバリゼーション1.0」（1492年～1800年）、(2)他国籍企業が主役の「グローバリゼーション2.0」（1800年～2000年）、(3)個人が主役の「グローバリゼーション3.0」（2000年～）、の３段階に分類したうえで、近年はIT革命の進行によって世界が小さくフラット（平ら）になったと指摘した<a href="#10" >*10</a>。
<p>画一的なテクノロジーがグローバルに普及する一方で、個人が主役の時代、それをあえて楽観的にいえば、組織の制約から解き放たれて個性が尊重される時代を迎えたのだ。
<p>鶴見和子は「内発的発展とは、目標において人類共通であり、目標達成への経路と、その目標を実現するであろう社会のモデルにおいては、多様性に富む社会変化の過程である」と定義している。そして、市井三郎の議論を引用しつつ、それを担うのは旧来からのエリートではなく、人々や情報の結節点となるキーパーソンだと述べている<a href="#11" >*11</a>。情報化がキーパーソンの活動を支援し、また人々のコミュニケーションを活発にするのであれば、アタリのいう内展開型社会への道が開けてくる可能性もある。
<p>もう一つは、インターネット・ガバナンスの動向に見られるように、多様性（ダイバーシティ）への要求の高まりである。2005年11月にチュニジアで開催された国際連合の世界情報社会サミットで、ドメイン名などの技術面での管理は引き続きICANNが担う一方で、国際的な公共政策課題については国際連合主催のインターネットガバナンスフォーラム（IGF）を新設することで合意に達した。そして、2006年10月30日から11月2日にかけてギリシャのアテネで開催された第1回IGF会合では、表現の自由や情報の自由な流通促進に関する「オープンネス」、プライバシー保護やサイバー犯罪に関する「セキュリティ」、相互接続政策に関する「アクセス」と並んで、多言語対応やローカルコンテンツの促進に関する「ダイバーシティ」、が議論テーマとなったのである。
<p>さらにIGFで注目すべきは、インターネットに関する国際的な公共政策課題を市民団体、エンジニア、政府関係者などのマルチステークホルダーの参加によって議論する場を創設した点にある。ともすれば従来の国際会議では、政府関係者が主旋律を奏で、それ以外の参加者は伴奏にまわるというのが常識だったが、IGFはすべてのステークホルダーが対等に音楽を奏でる、まさにポリフォニーモデルを採用したのである。
<p>IGFの成果が問われるのはこれからだ。ただ、グローバルであれローカルであれ、それぞれの場面で吹き出したポリフォニーの芽を大切に育てていくことから、新しい情報社会の展望が開けていくように思われる。

<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >参考文献
<p><a  name="1">*1</a> 鶴見和子[1997]『日本を開く』岩波書店、193頁。
<p><a  name="2">*2</a> 西川潤[1989]「内発的発展論の起源と今日的意義」、鶴見和子/川田侃『内発的発展論』第1章、東京大学出版会、5頁。
<p><a  name="3">*3</a> 村上泰亮[1992]『反古典の政治経済学　下　21世紀への序説』中央公論社　447-448頁。
<p><a  name="4">*4</a> 村上の同上書348-352頁
<p><a  name="5">*5</a> Attali, Jacques[1979]  La Parole et l'Outil, Presses Universitaires de France （平田清明・斉藤日出治訳[1983]『情報とエネルギーの人間科学』日本評論社）
<p><a  name="6">*6</a> アタリ同上の日本語訳170頁。
<p><a  name="7">*7</a> Piore, Michael and Sable, Charles[1984]The Second Industrial Divide, Basic Books(山之内靖・永易浩一・石田あつみ訳[1993]『第二の産業分水嶺』筑摩書房
<p><a  name="8">*8</a> 須藤修[1988]『ノイズと経済秩序－－資本主義の自己組織化－』日本評論社、および須藤[1995]『複合的ネットワーク社会』有斐閣
<p><a  name="9">*9</a> アルバート・ラズロ・バラバシ[2002]、青木薫翻訳『新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く』NHK出版。
<p><a  name="10">*10</a> Friedman, Thomas  The World Is Flat: A Brief History of the Twenty-first Century　Farrar Straus & Giroux (邦訳は,トーマス・フリードマン著・伏見威蕃訳『フラット化する世界』日本経済新聞社、2006年）。
<p><a  name="11">*11</a> 鶴見和子/川田侃の前掲書、鶴見和子著の2章「内発的発展論の系譜」を参照。
</font>
<br>
<br>

<h5 class="profile"> プロフィール</h5>
<img src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/s%5B1%5D.jpg" width="105" height="153" alt="s" align="left" />
<p><すなだ・かおる><br>
国際大学GLOCOM主任研究員・助教授。中央大学（情報通信産業論）、国士舘大学（国際情報論・情報政策論）の非常勤講師を兼務。
1979年、千葉大学理学部物理学科卒業。1997年、東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了（社会学修士）。2002年、同博士課程満期退学。1980-2003年、IT関連の雑誌出版・執筆活動。2003年GLOCOM入所。主な著書に、『起業家ビル・トッテン』（コンピュータ・エージ社／2003）。訳書に、ウィリアム・H・ダットン『情報通信テクノロジー4：情報ネットワーク社会の理想と現実』（共訳／富士通経営研修所／1998）、エリ・ノーム他『テレコム・メルトダウン』（共訳／NTT出版／2005）。
</p>]]>

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<title>第25回:　ゲームのデファクトスタンダード競争の後に来るもの</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/2007/04/25.html" />
<modified>2008-03-19T06:31:04Z</modified>
<issued>2007-04-16T06:11:38Z</issued>
<id>tag:www.glocom.ac.jp,2007:/j/publications/journal_archive//11.8791</id>
<created>2007-04-16T06:11:38Z</created>
<summary type="text/plain">　井上明人 (国際大学GLOCOM研究員) &quot;PS3 vs Wii&quot; という構図...</summary>
<author>
<name>tomohisa</name>

<email>tomopisa@gmail.com</email>
</author>
<dc:subject>text</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/">
<![CDATA[<p class="author">　井上明人 (国際大学GLOCOM研究員)</p>

<h4>"PS3 vs Wii" という構図を支える「常識」</h4>

<p>2006年末、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)のプレイステーション3(PS3)と、任天堂のWiiという二つの次世代の家庭用ゲーム機がたてつづけに発売され大きな話題を呼んだ。
<p>新型ゲーム機がどうしてこの時期に、こういうものが発売される必要があったのだろうか。よく知られていることだが、その理由は次の３つに集約される。
<p>まず、前提として家庭用ゲーム機はデファクトスタンダードとなりうることができなければ利益のない商品である。PS3や、Wiiは単に玩具として見ると、とても高価な商品だが、ゲーム機単体での販売利益は赤字である場合が多い。特に新型機になりたての時期は一台一万円以上とみられる赤字を出しながら販売していることがよくある。しかし、一度デファクトスタンダードを握ってしまえば、後に出てくる利益は莫大だ。家庭用ゲームソフトのメーカー全てが、任天堂なりソニーなりを通してでなければ商売そのものができなくなるからだ。
<p>第二に、デファクトスタンダードを握ってもそれは5年しか効力を持たない。なぜならば2006年に最新の家庭用ゲーム機の性能は、2011年のパソコンの性能と競争しても勝てないからだ。それゆえに、「最新のゲーム機」が定期的に発売される市場構造になっている。前回のゲーム機競争からちょうど5年近くが経ったいま、ゲーム機は誰が望まなくとも、それが欲望されるようにマーケッティングが行われ、自動的に発売されることになっている。
<p>第三に、発売時期をクリスマスの後にしてしまっては意味がない。ゲームの売り上げが大きく動くのは、年に三回あるといわれる。春休み前、夏休み前、冬休み前の三回だ。これは言うまでもなく子供達が暇を持て余す時期に対応している。それぞれ春商戦、夏商戦、冬商戦（あるいは、クリスマス商戦）と呼ばれ、この時期に大きく売っておけばライバルに大きな差を付けることができる。
<p>2006年末のマスコミ報道も「ゲーム市場のメインイシューといえば、どこが家庭用ゲーム機戦争に勝利しデファクトスタンダードを握るかである。」ということを軸にして成立していた。こうした見方は、ゲームのことを少しでも知っている者にとっては「常識」だろう。しかし、いまや、この常識は半分は正しいが、半分は正しくないと筆者は考えている。事態は変化を遂げつつあるからだ。
<p>本稿は、この「変化」について検討していきたい。

<p><br />
<h4>「常識」が形成されるまで</h4></p>

<p>そもそも、家庭用ゲーム機をめぐるこの常識はいつから形成されたのか。一般にハードメーカーの競争がよく報道されたのは90年代中ごろの競争からだ。ゲーム機の競争が認識されたのはおそらくこの時の影響が最も大きい。そして、家庭用の据え置きゲーム機の市場においてデファクトを獲得することがこれほど大きな意味を持つ、ということはやはり80年代半ばのファミコン(ファミリーコンピュータ)の普及によって支えられている認識だろう。
<p>では、それ以前のゲームの世界はどうなっていたのか。家庭用ゲームの世界、アーケードの世界(ゲームセンター)、PCゲームの世界、と多くのゲームの世界がそれぞれに可能性をもち、さまざまな試行錯誤がなされていた時代があった。
<p>その中でファミコンが中心的なものとなっていく過程で、現在のような家庭用ゲーム機市場を中心に据えた形でのゲーム市場の競争枠組みは作られていったといえる。家庭用ゲームではなく、アーケードゲームや、PCゲームが最大の市場となっていた場合には別の競争枠組みが存在していたであろうことは言うまでもない。事実、2000年前後になってゲームが本格的に普及することとなった国では、まったく別の種類の常識が流通し、別の枠組みでの競争が行われている。現在の日本のゲーム市場についての常識とは、即ち家庭用ゲーム市場の常識でしかないのだ。

<h4>独り勝ち構造の崩壊　―　ゲームはデヴォリューションへ。</h4>

<p>なぜこうしたことをわざわざ確認する必要があるのか。日本のゲームがナンバーワンであり、家庭用ゲームがナンバーワンであり続ける限りにおいてはこの常識の起源について再確認する必要はない。だが、実は近年のゲーム市場は、日本も、家庭用もナンバーワンであるとは言えない状況がある。
<p>まず、国内ゲーム市場の規模は90年代末をピークとしてその後ゲーム市場は拡大できず現在は当時の8割程度の市場規模で落ち着いている。一方で、欧米をはじめとする海外のゲーム市場はこの10年で2倍近くの市場規模に到達。売れているもの自体も日本のものよりも、アメリカではアメリカ産のゲームが、韓国では韓国産のゲームが人気を集めている。
<p>そして、家庭用の据え置き型ゲーム機の一人勝ちという状況も崩れている。ある調査<a href="#1" >*1</a>によれば、日本のゲーム市場におけるソフト販売本数シェア推移は2006年にはニンテンドーDSのソフトが過半数の51.2%を占めた。日本市場でははじめて家庭用据置型ゲーム機の市場が首位から転落する、という事件が起こっている。また、（携帯ゲーム機ではなく）携帯電話機のゲームというのもここ数年間で毎年2倍近い成長をつづけ大きな市場を形成しつつあり、2005年の市場規模は1000億円を超え<a href="#2" >*2</a>、これもあと2,3年もすると据え置き型ゲーム市場をいつのまにか超えてしまうかもしれないような金額が動いている。また世界では、PCをプラットフォームとしたオンラインゲームの市場が急成長している。韓国などでは、ゲームといえばほぼ全てPCをプラットフォームとしたオンラインゲームの世界である。
<p>つまり、ファミコンの延長線上に成立してきた市場が量的にも、質的にも頭打ちになっている。国内市場規模は伸び悩み、ゲームの描画水準の向上もゆきつくところまでゆきついてしまった。
<p>同時に、この10年でPCとインターネット網の本格的普及が全世界的で行われたことでオンラインゲームなどの市場が巨大化した。世界市場の覇権を、日本の「家庭用据置型ゲーム機」メーカーが握っていた時代に陰りがみえ、携帯ゲーム機、携帯電話などがゲームのプラットフォームとして力を持ち始めている。今までゲーム市場でナンバー１であった「日本」「家庭用据置型ゲーム機」や、「プラットホームホルダー」「エンターテインメントゲーム」<a href="#3" >*3</a>といった様々なものが求心力を失ってきている。
<p>ゲーム市場は、一人勝ち状況が崩壊したのちに、市場規模としては拡大。そして同時に、ゲーム市場の性質としては中心性が失われて拡散している。
<p>つまり、ゲームは拡大・拡散という形で二重の意味で拡がっている。中心性を失ったまま拡大していくこの市場では、家庭用ゲーム機のデファクトを握ったからといって業界全体をハンドリングしていくことはできないのだ。
<p>任天堂のゲーム機「Wii」の開発時コードネームは「REVOLUTION」と呼ばれていた。
すでにREVOLUTIONというコードネームが使われなくなった2006年9月、千葉でWiiのお披露目講演が行われた。その際に任天堂の岩田社長は「より豪華でよりすごいゲームを作ればゲームマーケットは拡大していくんだ。」という発想を「過去の成功法則」であると断じている。任天堂の新ハードにはそういった過去の成功法則からは離れたものにならなければならない、という意図がここにはあったと見ることができる。REVOLUTION＝革命を起こしてやろう、という意志がこのコードネームからは伝わってくる。
<p>しかし今、まず確認できる事態は、レヴォリューションというよりも、ゲーム業界が巨大産業になるにつれて生じていた様々な一人勝ちの構造から、力が分散されていく分権化＝デヴォリューションというべき事態である。

<h4>ユーザークリエイトコンテンツの世界</h4>

<p>では、このようなゲーム市場において今後どのような戦略的な振る舞いに期待がもたれているのだろうか。
<p>いま大きな注目を集めているものの一つが「ユーザークリエイトコンテンツ」の世界である。「ユーザークリエイトコンテンツ」とは、Web2.0の文脈でいま言われているCGM(コンシューマー・ジェネレーテッド・メディア)と近い意味であるが、それよりもさらに強い意味をもつ。
<p>この10数年の間ゲームの制作費というのは高騰をつづけてきていた。最近では、数10億といった予算をかけて数百人が何年もかかわるといったプロジェクトもそう珍しいものではない。こうした開発コストの肥大化をうけて、このコストをどう抑えるか、ということが問題になった。また、かつては趣味でゲームを作っていた人というのが大量におり、趣味が昂じてゲームを作るプロになる人が多かったのだが、ゲーム制作が専門化・高度化したことによって、趣味でゲームを作るアマチュアが減少した。これはゲーム産業の巨大化が生み出した一つの影響だった。そうして90年代後半以降のゲーム業界は慢性的な人材不足に陥ることになる。
<p>こうした状況に対して北米のゲーム業界は、これを解決するための一つの方法を見つけ出した。それが｢ユーザークリエイトコンテンツ｣という方法だ。
<p>現在のゲーム開発はゲームをいざ作ろうと思うと、途方もない値段のする開発ソフトが必要とされる。だがある企業が、通常であれば何百万もするようなゲームの開発環境をユーザーに与えてしまった。
<p>ゲーム開発用のソフトウェアを無料で使えるようにしたところ、ユーザーの作ったゲームが世界的に大きくヒットするという事態が発生する。『カウンターストライク』など、世界中に数千万本売れるようなゲームが実際に登場してきているのだ。
<p>また、インターネットの未来系として今大きな着目を集めている『セカンドライフ』も「ユーザークリエイトコンテンツ」の一つだ。ユーザーが勝手にゲームの中の衣装や、アイテムや建築物をつくってしまって、それを売買できる。また、ゲームの中でライブが開かれたり、展覧会がもよおされたり、会社の会議や、大学のカンファレンスや授業などもなされている。IBMは30万人の会議を『セカンドライフ』上で開催した。また日産、トヨタ、ロイター通信、スタンフォード大学などの組織も『セカンドライフ』を利用している。例えば、トヨタであれば自社の車を『セカンドライフ』上に作成し、トヨタスペースにやって来たユーザーは、トヨタの車にオンライン上で試車してみることだって可能だ。APIが公開されているので、ユーザーが勝手にゲームのなかで思いもつかないような試みをやってしまう。そうした試みによって『セカンドライフ』の中の世界はどんどんと豊かな世界になってゆき、先日ユーザー数が170万人を突破した。
<p>こうした形でゲーム自体を作ったり、ゲームの中で何か新しい機能を付け加えて行ったりするというようなことが、プロの開発者だけのものではなくて、「ユーザーの手によって」行われる。そして、ユーザーが遊びながらゲームをいじりながら作っていくことによって、世界に大きなインパクトを与えるようなゲームが生まれつつある。

<h4>エヴォリューション(進化)か、レヴォリューション(革命)か。</h4>

<p>ゲームのデヴォリューションこの状況をどう評価するか、ということについては二通りの方向がありうる。
<p>一つは、ユーザークリエイトコンテンツのような、新しいものが生まれてきたことにより、元気を失いつつあったゲームの世界が、再び活気を取り戻すという見方がある。
<p>もう一つは、これはゲームというメディアの寿命を長くするのではなく、もはやゲームというメディアとは別の方向にむかっていくのではないかという判断である。つまり、ゲームというメディアからはじまって、ゲームでないメディアを作ってしまう可能性だ。
<p>前者については、たとえばユーザークリエイトコンテンツというものの登場によって『カウンターストライク』を作るような優秀なアマチュア開発者等の登場が定期的におこるであるとか、特定のコミュニティが何年にもわたって活気付くことに貢献していくようなことというのは、その見方を支える根拠となるだろう。つまり、ユーザークリエイトコンテンツによって、ゲーム産業は今抱えている欠陥を取り除き、進化(エヴォリューション)が可能になる、という発想だ。
<p>後者については、たとえば、『セカンドライフ』のようなケースだ。『セカンドライフ』の世界は、あまりゲームという方面では括られることは少ない。むしろ『セカンドライフ』によせられている期待は、単にゲームであることよりも2Dウェブブラウザを超える新しいウェブの可能性としてだったり、新しいコミュニケーション空間という位置づけであることが少なくない。『セカンドライフ』はゲーム、というよりもそれ自体が一つの新しいメディアとして独立してゆく可能性を秘め、Persistent World（持続している世界）とも呼ばれる。こちらはゲームが、ゲームとして進化するというより、ゲームが別物に変容していくそれこそ革命(レヴォリューション)のような可能性である。(任天堂の意図する”REVOLUTION”とはだいぶ毛色の違うものかもしれないが)
<p>現時点では、どちらの動きが盛んになっていくか断言することはできない。もしかしたら、進化と、革命はどちらも別々に起こっていくのかもしれない。
<p>いずれにせよ、問題はゲームの旧来の構造とはまったく別の方向性をむきはじめている、ということだ。旧来のゲーム機競争の構造的限界が起因となって両者は成立し、旧来のゲーム機競争とはまったく別の方向性をむきはじめている。

<h4>新しいメディアを作り出す力</h4>

<p>新しいメディアはどういうときに生まれるのか。
<p>水越伸<a href="#4" >*4</a>によれば、メディアが勃興し、普及してくる過程には、文化的な担い手による「遊び」の要素が強く影響して来たという。ゲームの成立過程においても同様に「遊び」の要素が強く影響したことを水越は指摘する。
<p>パーソナル・コンピュータからインターネットなるメディアの文化的基盤を作るのに貢献したのは遊びながらプログラムをいじるハッカーたちだった。そしてコンピュータ・ゲームをつくっている人々と、パソコン／インターネットを製作してきた人々は実はほぼ同じコミュニティに属している。先日逝去したW3C<a href="#5" >*5</a>副会長アラン・コウトクは、世界で最初のシューティング・ゲームの共同開発者だったし、世界で最初のアドベンチャーゲームを書いたウィル・クラウザーは実はARPANET<a href="#6" >*6</a>の技術者だ。彼らにとっては、マイクロエレクトロニクス技術の成熟がまずあって、その中からテレビゲームが出てきたという感覚にはならない。ここでは、ゲームを発展させていくこととコンピュータを発展させていくことがリニアーに繋がっている。
<p>現在は、ゲームの常識が形成される以前の世界と、どこか似てきているのかもしれない。ゲームは趣味として遊ばれ、その中から新しい可能性が育まれようとしている。メディアとしてのゲームの新展開は、多くのユーザーが遊ぶことの中から産声を上げようとしている。
<p>もちろん、はじめに書いたように5年ごとに繰り返されるデファクトスタンダード競争もまだ完全に崩れているわけではない。PS3,Wii,Xbox 360の競争が大量の資本を投下しながら現在進行形で行われているという点では、デファクトスタンダードを握る戦いがゲーム市場の大きなトピックであることは事実だ。PS3,Wii,Xbox 360をめぐる競争をゲーム市場のメインイシューとして描くことは「半分は」正しい。
<p>だが、このデファクトスタンダード競争の先に、未来があると考えている人は少ない。先述したように、今回の競争は、競争を成立させるはずの「一人勝ち構造」という前提条件が崩れつつあり、各社は今回のハード競争においては旧来とは別の戦略で望もうとしているところが多い。その意味で、今回の競争をいままでの延長線上としてのみ語るのでは、ゲーム市場の現状を半分しか捉えられない。
<p>Web2.0ではないが、ゲームもまた旧来の枠組みとは違う認識によってこれを捉えるべき時期がきている。それは、デファクトスタンダード競争とは違った、いままでよりももっと強烈に情報社会にインパクトをもたらすメディアとして展開してゆくのではないか、と考えている<a href="#7" >*7</a>。

<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >
<p><a  name="1">*1</a> 株式会社メディア・クリエイト調べ
<p><a  name="2">*2</a> 社団法人コンピュータエンターテインメント協会[2006]『2006CESAゲーム白書』
<p><a  name="3">*3</a> 「プラットホームホルダー」と「エンターテインメントゲーム」の求心力の低下については、拙稿[2006]『智場108号』国際大学GLOCOMのP10を参照
<p><a  name="4">*4</a> 水越伸[2002]『新版 デジタル・メディア社会』岩波書店
<p><a  name="5">*5</a> W3C：ワールドワイドウェブコンソーシアム,WWWで利用される技術の標準化をすすめる団体。
<p><a  name="6">*6</a> ARPANET：今日のインターネットの原型として知られている、研究、調査用コンピュータネットワークである。
<p><a  name="7">*7</a> たとえば、その可能性の一つとして、鈴木健、東浩紀、桜坂洋などが展開する2045年の未来を予測するプロジェクト「ギートステイト」におけるゲームの位置づけなどが挙げたい。
</font>
<br>
<br>

<h5 class="profile">プロフィール</h5>
<img alt="akit_inoue_face.jpg" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/akit_inoue_face.jpg" width="110" height="136"alt="nkjm" align="left"  />

<p>＜いのうえ・あきと＞<br>
1980年生まれ。国際大学GLOCOM研究員。慶応義塾SFC研究所上席研究員(訪問) 2003年慶應義塾大学総合政策学部卒。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2006年2月より現職。大学在学時の2002年より、個人でのゲーム研究/評論サイト "Critique of Games"を運営し、好評を博す。コンピュータ・ゲームをめぐる言説史を専門的に取り扱っている。2006年より、RGN（Research on Game design and Narrative＝コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会）を主催し、代表をつとめる。
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</content>
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<title>第24回:　政策NPOは有権者の「ただ乗り」を乗り越えられるか？～情報化時代の政策マーケット</title>
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<modified>2008-03-19T06:31:04Z</modified>
<issued>2007-04-16T05:19:45Z</issued>
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<summary type="text/plain">　加藤創太　（国際大学GLOCOM　主幹研究員） 甘やかされてきた政策NPO N...</summary>
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<name>tomohisa</name>

<email>tomopisa@gmail.com</email>
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<![CDATA[<p class="author">　加藤創太　（国際大学GLOCOM　主幹研究員）</p>

<h4>甘やかされてきた政策NPO</h4>
<p>NPO、NGOなどという概念や言葉にマスメディアは弱い。その冠に「政策」などと付けようものなら、目尻はさらに垂れ下がる。理由はいくつか考えられるだろう。日本の場合、政策マーケットが事実上官僚機構の独占体制となっていることから、マスメディアなどの検証機構だけではなく、新たな第三極がこれからは必要だ、という健全なバランス感覚がそこには働いているのかもしれない。あるいは古典的な「市民」観が、メディア関係者の間ではいまだに根強く生き残っているのかもしれない。海外、特に欧米の動向を日本に強引に当てはめようとするいつもの世界観もちらほら見え隠れする。</p>
<p>しかし、現実の政策NPOは文字通り玉石混合である。たとえば米国では、各種優遇措置を受けるために政策NPOを名乗りながら、実質は業界エゴむき出しの利益団体も無数に存在する。科学的検証がなされていないデータと、学術的には完全にクレディビリティ（信頼性）を失った理論を教義のように掲げ、それでも自らの政治イデオロギーを通すため猪突猛進する狂信者集団まがいのものまである。米国などでは、NPOの説明責任（アカウンタビリティ）を問う声は多い。</p>
<p>たとえば営利目的の企業ならば、マスメディアがそれをどう評価しようと、マーケットにおける競争を経て、存在意義のない企業・ビジネスが淘汰される試行錯誤的なプロセスが存在する。むろんこの費用節約的で便利な評価・淘汰システムには限界があり、特に非営利目的のNPOにストレートに当てはめることはそれ自体、定義矛盾をきたす。しかし、公共的、非営利的であるからといって、すべての組織に存在意義があるわけではない。マーケット的な評価・淘汰システムが十全に働かないのであればなおさら、理論的にその存在意義を緻密に分析する意味があると同時に、マスメディアを含めた第三者による評価機能、評判機能などを社会全体で育成し熟成させていく必要がある。</p>
<p>ここでは前者、政策NPOの理論的な存在意義を概観し、その存在意義から導き出される政策NPOと政策マーケットの発展の可能性について触れていきたい。むろん、この作業はそのまま後者、第三者による評価機能、評判機能を探る一端ともなる。</p>

<h4>理論的に見た政策NPOの存在意義</h4>
<p>民主主義とは、枢要な部分のみ単純に定義すれば、有権者による政府のガヴァナンスである。この定義を是とするならば、新古典派経済学が想定するような完全情報、完全合理性の世界において、利益団体的な機能とは別に、政策NPOの存在意義、ビジネスモデルを見出すのは難しい。有権者があらゆる関連情報を瞬時に無料で手に入れることができ、本人も政治について職業政治家や政治学者・経済学者並の情報解析能力を持っていると想定される世界で、いったいどこの誰が、政治判断をする際に、政策NPOなど第三者に助けを求めようか？</p>
<p>しかし、よりリアリティのある世界、つまり情報や個々人の情報解析能力などが社会に偏在する世界では話は異なってくる。</p>
<p>経済学においては、当事者間の「情報の非対称性」によって発生するさまざまなコストと、それらをベースにした制度分析、制度設計などが、ここ20年以上もの間、最も脚光を浴びる分野の一つとして確立してきた。その分析のためのゲーム理論などのツールも並行的に発展し、1960年代、70年代に経済学界を席巻した新古典派経済学の理想化されたヴァーチャルワールドは、魑魅魍魎が跋扈する醜怪なリアルワールドに急速に近づき始めている。</p>
<p政治学においても、一部の分野では早くから「情報の非対称性」を取り入れた分析が行われてきたが、投票行動や世論といった分野では心理学的アプローチが隆盛を極めてきたため、政府と有権者との間の情報の非対称性とその影響の分析は遅れている。しかし、あらゆる国のあらゆる実証研究で、有権者が持つ政治的情報の驚くほどの少なさが明らかになっていることに鑑みれば（Converse [1962]; Delli Carpini and Keeter [1996]）、政府と有権者との間の情報の非対称性の度合いは一般的な市場のそれよりもはるかに深刻であり、それは「有権者による政府のガヴァナンス」という意味での民主主義に大きな制約をもたらすものでもある。</p>
<p>アカデミズムで「情報」と「情報の偏在」とその分析の重要性が強調されるのと軌を一にするように、この時代、情報技術（IT）が飛躍的に発展した。特に90年代以降のインターネットの世界的な普及は、多国間国際交渉における環境・人権NPOの影響力を劇的に高めるなど現実の政治経済に多大な影響を与え、同時に、生産性論争などの学術論争も引き起こした。こうした学術的な深化と情報技術の発展の延長上に初めて、新古典派的なヴァーチャルワールドでは見えなかった政策NPOの存在意義が浮かび上がるのである。</p>
<p>無数の「情報の非対称性」が点在するリアルワールドにおいては、情報の偏在や限定合理性（bounded rationality）などから生じる各種の取引費用（transaction cost）の節約のために、多くの制度や規範や組織が必要とされるようになる。たとえば、どのイタリアンレストランが美味しいかという情報を持たない者は、アペリテフ一杯分の代金を泣く泣く払ってでもザガットなどの情報本を買うだろう。また資本市場においては、社債などのリスクを吟味し適正な値付けを可能にするため、そういった情報を専門的に収集・吟味し媒介する格付け機関が存在意義を持つようになる。投資ファンドの存在意義の一つも、投資家の情報収集コストとスキル錬成コストの節約である（Allen and Gale [2000]）。</p>
<p>どの店のプッタネスカが美味いか？　A社の社債をどう評価すべきか？</p>
<p>これと似た問いは政治の場、民主主義の場でも日常的になされている。たとえば、どの候補者に投票すべきか、どの政党を支持すべきか、先週政府が発表した政策をどう評価すべきか、等々。そして、政府と有権者との間には、イタリアンレストランと客との間以上の、起債会社と投資家との間以上の、情報の深い溝が横たわるのである。特に政治の場合、美味しいイタリアンを見つけることにデートの成否がかかっている客、社債への投資に自分の財布やクビがかかっている投資家と違って、「良い政治」の実現のための情報を収集しようという有権者のインセンティヴは非常に弱いから、事はなおさら厄介である（Downs [1957]）。「良い政治」が準公共財的性格を持つため、情報収集の「ただ乗り（free ride）」が起きてしまうからである。</p>
<p>こうした政府と有権者との間の情報の深い溝を埋め、さらに情報収集の「ただ乗り」の問題を乗り越えるためには、各種の制度、組織、規範とその組み合わせが必要になってくる。たとえば情報公開法のような法制度は政府－有権者間の情報の非対称性を解消するために必要な制度ではあるが、それだけでは「ただ乗り」の問題は解消されない。</p>
<p>こうした政府と有権者との間の情報の深い溝を埋め、さらに情報収集の「ただ乗り」の問題を乗り越えるためには、各種の制度、組織、規範とその組み合わせが必要になってくる。たとえば情報公開法のような法制度は政府－有権者間の情報の非対称性を解消するために必要な制度ではあるが、それだけでは「ただ乗り」の問題は解消されない。</p>

<h4>なぜ今、政策NPOか？</h4>
<p>政治学者が「情報の非対称性」や「ただ乗り」の問題に気づき、それを分析に取り入れる前から、現実の政治は、そういった問題を乗り越え、規律するようなさまざまな制度や組織を発展させてきた。古くはフランスの政治思想家アレキシス・ドゥ・トクヴィルが、民主主義が健全に機能するためには、法律などによって上から規定された民主主義制度だけではなく、社会に「中間集団」が育っていることが重要だと指摘した。トクヴィル的な「中間組織」が民主主義に果たす役割の重要性は、その後の代表的な政治学研究によっても検証されている（Almond and Verba [1963]; Putnam [1993]）。民主主義にとって「中間組織」がなぜそれほど重要な意味を持つのか、という問いに対しても、「情報の非対称性」と「ただ乗り」という理論的な視点は明快かつ体系的な視点を与えてくれる（加藤［2001］）。</p>
<p>他に、情報の媒介、解釈・解析、さらに最近では政策オプションの提供という意味で歴史的に重要な役割を担ってきたのはマスメディアである。また、政党の存在意義として情報の媒介、ただ乗りの規律を挙げる政治学者もいる（Aldrich [1995]）。日本においては、村落共同体や労働組合など、地縁的・職縁的な共同体が、政治的情報の媒介とただ乗りの規律に重要な役割を果たしてきた。</p>
<p>このように現実社会はいつものようにアカデミズムを先取りして発展してきたわけだが、こと政策NPOとなると、その発展・普及は決して早くない。もちろん、欧米（特に米国）では、たとえば教会が現在の政策NPO的な役割を果たしてきたという見方もあるだろうし、戦間期の米国における政策NPO的な団体の発展を詳細に分析した研究書も最近出版された。日本でも明治期から、政策NPO的な団体はいくつも存在してきた。しかし今日の政策NPOの隆盛ぶり、あるいは、他に似た役割を担うマスメディアや政党などとの相対的なプレゼンスを比較すれば、その差は歴然としている。なぜだろうか？</p>
<p>すでに述べたように、レストランの評価本（e.g., ザガット）、資本市場の格付け機関（e.g., S＆P）などに比べ、有権者が的確な政治判断のために情報収集費用を支払うインセンティヴは非常に低い。したがって、ザガットや格付け機関のように市場から自生的に、多額の資金を要する政治情報の媒介・評価機関が現れることは考えがたい。これは別に、レストラン情報や資本市場情報に比べて政治情報の重要性が低いからではない。極端な話、愚かな政治リーダーによって戦争が勃発すれば、せっかくのイタリアンレストランでのデートもキャンセルしなければいけなくなるし、資本市場は暴落する。繰り返しになるが、有権者が十分に情報を集めたうえで「（有権者全体、あるいはその一部の集団にとって）良い政治」を実現することが準公共財的性格を持つため、個々人に「ただ乗り」のインセンティヴが生じてしまい、誰もが積極的に情報収集・分析コストを支払おうとしないのである。</p>
<p>つまり、政治情報を得るためにカネを払うというインセンティヴが、レストラン情報や資本市場情報に比べて格段に低いため、従来の政策NPOなど政治情報の媒介機関は、ザガットなど紙媒体の出版費用、S&Pのような情報収集・分析・出版費用を賄えなかったのである。しかし、90年代以降のインターネットの発展は、情報の発信コスト、有権者側から見た情報収集コストをドラスティックに低減することを可能にし、政府やマスメディアによる情報発信機能の寡占状態の打破に成功した。NPOの政治的影響力増大が常にインターネットの普及とともに語られるのも、政策NPOが政府－有権者間の情報非対称性緩和に重要な役割を果たすことの傍証である。</p>
<p>一方、日本においては、90年代に自民党一党優位体制が崩れ、度重なる官僚スキャンダルの露見とともに、国民の間に行政不信が広がった。そこに政治不信、政党不信、メディア不信などが加わり、有権者は、情報発信機能の多元化に加え、与党官僚機構による政策形成・実施機能の独占状態の打破と、複数の新しい政策オプションを求めるようになった。他方、この時期、政府とメディアへの不信、政党不信からの無党派層の拡大、会社・市町村など伝統的な地縁的・職縁的共同体の解体などによって、政治的な情報流通のルートが絶たれ、政府と有権者間の情報非対称性が深刻化した（加藤［2001］）。</p>
<p>このように、政策NPOを含めた政治的活動を行うNPOの存在意義が成立する領域は急速に広がっており、情報技術の発展と相まって、その影響力は拡張しつつある。日本のNPOは政府や富裕層による支援が不足気味なこともあって、欧米各国に比べやや出遅れ気味だったが、すでに述べたように日本特有のニーズも数多く存在し、それに応えるように、いくつかの政策NPOが積極的に活動を行うようになっている。</p>
　
<h4>政策NPOの発展と連携の可能性</h4>
<p>さて、上記では政策NPOの理論的な存在意義について見てきた。しかし、存在意義があることは持続的な存在、発展のための必要条件であって十分条件ではない。存在意義があるからといって、政府がNPO支援を垂れ流したり、マスメディアがむやみに目尻を下げる必然性もない。</p>
<p>そこで求められるのが、「NPOの説明責任（アカウンタビリティ）」と第三者機関による評価システムの整備である。なぜなら、政策NPOの透明性確保メカニズム、評価メカニズムなどが確保されることで初めて、政策NPOと他の政策形成機関とで効率的な競争や連携が可能となるからである。そしてそれは、政策NPOの発展、さらには政策マーケットの活性化につながる。</p>
<p>最後に政策NPOの連携について述べておこう。NPOが初めて現実の政治に多大な影響力を持つようになったといわれたのは、90年代後半にOECD（経済協力開発機構）を舞台に行われた多国間投資協定（MAI）交渉だといわれる。その後の国際交渉でもそうだが、NPOがMAI妥結を阻止する際に特に有効だったのは、国境を越えたNPOの連携である。たとえばMAI交渉の関連文書は非公開が原則だったが、NPOの影響力が特に強い欧州諸国ではOECD文書をNPOが取得することが可能であったため、その文書はホームページに掲示され、それはインターネットを通じて瞬時に世界中に広まった。もちろん、日本のNPOもOECD文書をインターネットを通じて取得した。その結果、OECDや交渉参加国は、文書や会議を公開することを余儀なくされた。</p>
<p>政策NPOの発展、政策マーケットの活性化のためには競争が不可欠である。ヴァラエティに富んだ政策NPOが生まれ、それらがお互いに別の角度から知恵を競い合い、また、政党や官僚組織のような伝統的な政策形成機関とも競争することが望ましい。しかし、競争と連携とは必ずしも両立不能なものではない。たとえば日本の銀行は、戦後期の経済的困難のなか、融資先のモニタリングコストを節約するため、メインバンクを中心とした協調融資（シンジケートローン）を積極的に活用した（寺西［1993］）。より最近ではシリコンヴァレーでも、ITヴェンチャーへの投資を行うヴェンチャーキャピタルの間で似たような慣行が自生的に生まれているという（Gompers and Lerner [1999]）。もちろん、シリコンヴァレーのヴェンチャーキャピタルは、一方でそういった連携をしつつも、他方ではお互いに熾烈な競争を繰り広げている。</p>
<p>すでに述べたように、政策のマーケットでは有権者に「ただ乗り」の誘因が生じるため、彼らが情報収集・情報分析コストを支払うインセンティヴは非常に弱い。それはつまり、政策NPOには必然的に、財政的な制約が重くのしかかることを意味する。その制約下で効率的な活動を行うためには、情報収集コストなど共有可能なコストはなるべく共有し、また、最先端の情報技術の活用により、コストを一層節約することが重要となる。</p>
<p>日本では二大政党制の時代が始まったといわれ、ヴァラエティに富んだ各種の政策NPOも活動を開始しており、政策マーケットは萌芽期を迎えつつあると言って良い。政策NPOの活動を支える情報技術の進歩も目覚しい。今後のさらなる発展のためには、政府、マスメディア、そして政策NPOなど各種機関の競争と連携が要求される。</p>

<p><font face="ＭＳ ゴシック" size="-1" >参考文献
<p> Aldrich, John [1995] Why Parties? The Origin and Transformation of Party Politics in America. Chicago: University of Chicago Press. 
<p> Allen, Franklin and Douglas Gale [2000] Comparing Financial Systems. Cambridge: MIT Press. 
<p> Almond, Gabriel and Sidney Verba [1963] The Civic Culture. Boston: Little, Brown. 
<p> Converse, Philip E. [1962] "The Nature of Belief Systems in Mass Publics." In Ideology and Discontent. David E. Apter. Eds. New York: Free Press.
<p> Delli Carpini, Michael X. and Scott Keeter [1996] What Americans Know About Politics and Why It Matters. New Haven: Yale University Press.
<p> Downs, Anthony [1957] An Economic Theory of Democracy. New York: Harper and Row.
<p> Gompers, Paul and Joshua Lerner [1999] Venture Capital Cycle. Cambridge: MIT Press.
<p> 加藤創太［2001］「日本政治の罠は消えるのか」『論座』８月号、朝日新聞社
<p> Putnam, Robert [1993] Making Democracy Work: Civic Traditions in Modern Italy. Princeton: Princeton University Press.
<p> 寺西重郎［1993］「メインバンク・システム」岡崎哲二・奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』、日本経済新聞社
</font>
<br>
<br>

<h5 class="profile"> プロフィール</h5>
<img alt="kato.JPG" src="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/kato.JPG" width="120" height="160" align="left">
<p>＜かとう・そうた＞<br>
東京大学法学部卒業。ミシガン大学政治学部博士課程（Ph.D）、ハーバード大学ビジネススクール修士課程（MBA、優等号受賞）修了。ミシガン大学政治学部講師などを経て、昨年よりグローコムへ。現在に至る。
</p>]]>

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