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鈴木謙介 - November 21, 2007
「意図せざる結果」を描くために
November 21, 2007 [ 鈴木謙介 ]
――鈴木さんは非常に幅広い分野の研究をされており、取組まれている研究の全体像は簡単にはやや捉え難いところがありますね。鈴木さんの研究テーマについて全体的に俯瞰すると、どのように言うことができますか
私の研究には三つの柱があります。
一つ目が「近代化」という柱です。近代化とは社会を動かす原理が近代的なものになるということですが、近代化というと、日本では明治維新によっていきなり近代になったという「点」のようなイメージを持たれがちです。一方で、英語で近代化を指すmodernizationという言葉には「現代化」という訳し方もあり、過去から脈々と続いてきた「線」的な流れのことを指します。
この近代化という概念は、現代の日本社会の分析において有効な道具である上に、西洋由来の概念であることから、西洋と日本社会の関係について考える上でも極めて重要です。私は、この近代化理論、特に社会学者のアンソニー・ギデンズの近代化理論を参照しながら、理論社会学の面から現代の日本社会を分析しています。
二つ目が「情報化」という柱です。情報化は、近代化における最も重要な現象です。それは、単にインターネットが普及するということではありません。インターネットなどが普及した結果、社会における様々な前提が変容するということです。
たとえば、車社会とは、単に人々が車に乗るようになっているということではありません。車が走るようになった結果、横断歩道や信号が整備され、交通ルールや交通網が整備されます。交通ルールができたことで、交通ルールを教育するための教育システムや価値ができます。また交通網の整備によって物流システムが整備されると、日本全国で同時刻に同じ週刊誌や同じおにぎりを買うことができるようになります。すなわち車社会とは、車が使われることを前提にして、人々が生活を組替えた社会のことを指します。
情報化社会やウェブ社会もそれと同じです。人々がパソコンやインターネットを使用している社会のことではなく、人々がパソコンやインターネットを使用して検索をしたり、仕事をしたり、買い物をしたりできることを前提に、様々な仕組みが動く社会のことです。このようにして考えると、今起こっている情報化という現象は、単にパソコンやインターネットが普及したという狭い範囲のことではなく、社会の大きな仕組みや価値観の変容として捉えられます。情報化によって、社会がどこからどこへ変わっていくのか。これが私の二番目の柱です。この二番目の柱の中には、現在インターネットで起こっている現象や若者のサブカルチャー、あるいは雇用の変化などがサブ領域として入ってきます。
そして、三つ目の柱が、「グローバル化」です。グローバル化も、近代化という大きな変動の中の一つの要因です。グローバル化の定義は様々ですが、私がここでいうグローバル化は、世界レベルでの流通やコミュニケーションが加速することを指します。こういう側面でのグローバル化がもっとも進展したのは、1870年頃から1914年頃であると言われています。19世紀末から20世紀初頭にかけて、通信手段や運送手段がどんどんグローバル化していき、そこで様々なひずみが生じてきました。ここ10年くらいで言われているグローバル化社会という現象は、その当時のものに匹敵するような変化が起こっていると言っていいでしょう。実際、19世紀末から20世紀初頭にかけて生じていたような問題や批判に、そのまま当てはまるような現象が近年数多く起こっており、理論史的・学史的研究の中に含み込んで考えることができます。
他方で、以前には起きていなかったことも、現代では起きています。それまで物流やコミュニケーションがグローバル化していくというときには、ある程度のタイムラグや運送量の限界がありました。しかし、それが情報化されることによって、リアルタイムで精度の高いコミュニケーションが可能になる。あるいは情報そのものをやり取りすることで、瞬時にお金と財が取引されるということが世界レベルで生じるようになっています。それは、かつてのグローバル化のときには起こっていなかったことです。
グローバル化の研究には理論研究に加えて、サブ領域が二つあります。一つは世界レベルでの景気変動です。もう一つは、情報化による雇用の変動を受けた人々―特に30代半ばから下の世代―がどのような生活を送っているのか、さらにその人々がインターネット等を用いてどのようにコミュニケーションしているのかということを扱っています。
――鈴木さんは理論的な研究ではギデンズの近代化理論を、『カーニヴァル化する社会』では若者論や雇用の研究を、『ウェブ社会の思想』では情報化、『<反転>するグローバリゼーション』でネグリ・ハートなどのグローバル化理論などを扱っています。個別の研究としては理解していましたが、たしかにまとめると、その三つの柱が相互に関係した議論になっていますね。次に研究の方法論についておうかがいしたいと思います。社会学の分野の人にとっては、鈴木さんの対象はなじみやすいものだなという印象があります。
社会学は、社会科学の中で最後に生まれた学問で、基本的に超領域的です。超領域的で何でもやる学問である一方で、何をやっても同じ関心、同じ理論的な枠組み、同じアプローチで分析し、解決策を出すという性格も持っています。社会学者はときに「何でも屋」に見られることが多いですが、その中で重要になるのは一貫性です。
私が一貫して取組んでいるアプローチの一つは、「意図せざる結果」を描くことです。「意図せざる結果」とは、人々が個々の領域で良いと思ってやっていることが、全体として良い結果を導くとは限らない、ということを描き出すということです。これは社会学者が分析をするときに最も注意しなくてはならない点だと思います。言い換えれば、ある人が良いと思ってやっていることを、できる限り中立的に見るということです。良いと思ってやっていることについて、なぜ良いと思っているのかを問いかけたり、良いと思ってやっているのにそうならないのはなぜかということを調べ、あるいは警鐘を鳴らしたりしています。
私のアプローチの二つ目は実証的アプローチです。社会学は超領域的であると同時に実証を重んじるため、頭で様々なことをパッチワークして組立てるだけにとどまりません。
実証は、昨今では誤解されがちな概念なので、少し説明をします。たとえば、アンケート調査を行って55%の人が良いと言ったから「これは良いことなんだ」と言うことは、実証とはまったく意味が違います。社会が共有している規範や価値観が見えにくくなってくると、どうしてもアンケート調査をして多数決をとるというやり方が目立つようになってきますし、その方が正しそうな気がしてきます。しかし、そもそも調査をするということ自体、非常に価値の入り込むものなのですね。なぜかというと、それは言語で表現するものだからです。ある言語で表現をして、数字という別の言語でそれを表現しなおしています。実証的なアプローチでは、計画をする段階、解釈をする段階で様々な価値が入り込んでしまいます。
にも関わらず、実証ということをなぜやらなくてはならないのか。それは先ほど述べた、意図せざる結果が導かれたり、本人の意図とは関係なく、社会のメカニズムがこのように動いているということを明らかにするための手法として、実証的なアプローチが重要だからです。逆を言えば、実証はその程度の重要性しかもっていません。社会学者にとって重要なのは、実証なり理論的アプローチなりを一貫させる意思そのものです。
社会学者は何でも屋でかつ全てを俯瞰して議論しているように見られることが多く、最終解決を出しているように勘違いされがちですが、そんなことはありません。社会学者の数だけ答えがあり、最終解決を出しているつもりもありません。あくまで、あるアプローチからできる限り広く、できる限り中立的かつ客観的に見た結果こうなる、ということを言っているに過ぎません。こういう点がそもそも理解されていないことに、社会学の不幸はあると思いますが、いずれにしてもこのようなオーソドックスなアプローチに基づいて研究をしています。
――中立的という言葉が出てきましたが、この言葉は扱いの難しい言葉ですね。
その通りです。私のいう中立的とは、マックス・ウェーバーの「価値自由(Wertfreiheit)」に相当します。人は価値を持たずにコミットすることは出来ません。出来ないがゆえに、その価値に対して距離を置く、ということがここでいう中立です。したがって、みんなの価値の中間点を取るということではありません。自分の考えていることも一つの価値であると見定めた上で、そこからどれだけ距離をとって誠実になれるかということです。つまり、中立的というポジションを決めるということではなく、中立であろうとする姿勢が大事であるということです。
統計的なデータを出すことによって中立的で政治性がないという装いをする人もいますが、これはデータを詐称するよりも遥かに危険なことです。データを扱う人間の誠実さがなにより求められます。相手に対して「これが当たり前だ」という価値観が通用するか分からないという時代には、相手を説得するためのツールは数字になってしまうので、これは仕方ない部分もあります。ですがそれゆえに、目先の数字に踊らされないということが、「社会学ごとき」に踊らされないのと同じくらい重要になるのだと思います。
――現在の研究テーマを扱うようになった問題意識、またはきっかけについてお聞かせいただけますか。
問題意識をもった理由の一つは、私が情報化やグローバル化による社会や雇用の変化の影響を、ど真ん中で受けた世代だからです。私はもともと情報化やグローバル化の専門家ではありませんが、世代的な理由から、自分の体験してきたことを通して情報化やグローバル化という現象をそのまま説明できることができました。私の今までの研究は、自分が体験してきたことや自分の周囲で起こっている変化について明らかにするということから基本的に出発していますし、今後もそうなっていくと思います。周囲の出来事を説明する大きな枠組みとして、近代化・情報化・グローバル化が適していたことです。
現在の研究テーマを扱うに至ったきっかけと問われると困りますが、あらゆることがきっかけだったと思います。大学を卒業して就職しなかったこと、大学院のときにITベンチャーで働いたこと、ウェブで連載を始めたこともそうです。
ただ、9.11以降に考えを変えた部分があるということは、述べられると思います。私は2002年に『暴走するインターネット』という本を出したので、インターネット分野の研究者だと認識されることが多いですが、もともと大学院の修士時代には『<反転>するグローバリゼーション』で扱ったような政治理論の研究をしていた人間です。90年代までは、リベラルな国家の政策をいかにしてマネージするかについて研究していました。
しかし、2001年の9.11と前後して、私が研究していた政治理論や正義や法というものが吹き飛んでしまうような出来事が、国内外でいくつか起こりました。それはマクロな現象だと9.11のアメリカにおける同時多発テロ事件や、それに先行する日本の、オウム事件と少年犯罪報道に始まる一連の治安維持強化の流れで、ミクロな現象では2002年のワールドカップにおける若者のカーニヴァル化などです。「べき論」としての正義や法が、一発の暴力や盛り上がりで吹き飛ばされてしまう事件を目の当たりにして、それでもあえて正義を語ることにどのような意味があるのかについて、非常に悩みました。理屈を言っても仕方ないけれど、理屈を言わなくてもいいのかというと、そういうことでもない。現実と理論を語ることの関係をどのように示していくか、今後も誠実に突き詰めていきたいと思っています。
社会学者の基本的なアプローチとして、理解社会学という方法があります。客観的に見て非合理的に見える行動でも、行動をする個人にとっては非常に合理的である場合があり、彼らがそれを合理的だと思う理由を明らかにするというアプローチです。結果的にべき論を吹き飛ばしてしまう彼らの行動を、外部から「非合理である」と言うだけでは何の解決にもなりませんし、処方箋も出てきません。私は、理屈や正義や法が吹き飛んでしまうような出来事を、できる限り彼らの話を聞き、彼らなりの立場で理解して記述したい。そしてそれを、できる限り一般性を持った理論にしたいと考えています。こうした関心は、9.11以降になってから出てきたものです。
――問題関心としては自分の周囲で起こっていることからスタートして、方法論としては「意図せざる結果」を描くために、現場の人にインタビューをされているというわけですね。具体的には、どのような対象にフォーカスしていますか。
私が現在GLOCOMで取組んでいる研究は、情報化とグローバル化に伴って生じた雇用変動について、東アジアを中心に調査しています。調査の中で選んでいる対象は、近視眼的な言い方になりますが「世界中のスーツを着ない人々」です。今「スーツ」というと、「ギーク」の対極にいる、組織の原理で動く旧来型のビジネスパーソンという意味合いで使います。そのスーツを着ない人々が、どのようなライフコースをたどり、どのような価値観で現在を生き、どのような体験をしているのか。それついて、各国で主にインタビューによって調査しています。国内における調査でも、同じような人々を対象にしています。大学生なども含めた現在の多くの20代前半の若者は、これから自分が「スーツ」になっていくということについて、具体的なイメージが持てないというのが実情です。彼らの心情や価値観について、また彼らは何を気に食わないと思っているのか、何を楽しいと思っているのかについて調査しています。そういう意味では、今の私が取組んでいる研究は「反スーツ社会学」なのかもしれません。普段からスーツも着ませんし(笑)。
私が調査で扱っている対象は限定的であるため、私の述べることが若者全てに共通していることだとは思って欲しくはありません。若者の中には、反スーツのような中間層かつ正社員コースではないというタイプの、ある程度恵まれた人々以外にも、深刻な貧困状況にある人や、差別的待遇を受けている人もいます。こういう人たちの問題は、私はあまり扱ってきませんでしたし、私の方法論は彼らを研究するのに必ずしも適しているものばかりではありません。それは自分の体験や選んでいる理論枠組みやアプローチが、まさに反スーツ的なものを中心にできあがってきたからでしょう。
――最後に、鈴木さんにとってGLOCOMとはどういう組織でしょうか。
GLOCOMは、産業社会から情報社会への大きな転換によって社会のあらゆる原理が情報社会に合わせたものに変わっていくということを基本的な視座にしています。それは、前所長の公文俊平氏が長年主張してきたことですし、初代所長の村上泰亮氏も産業社会というものを大きな文明史の中に位置づけるというアプローチをとられていました。
近年の学者の世界においては、こうしたスケールの大きなアプローチは、あまり盛んに取組まれなくなっています。それは学問の側と学者の側の両方に問題があるのではないでしょうか。
学問の側の問題としては、スケールの大きなアプローチをしようとするための基礎的な教養を身につける場が失われており、また時代の状況が統一的な理論による把握を困難にしているということがあるでしょう。それゆえ、全体的な状況について語ろうとすると、「あれもこれも繋がっている」という、専門家以外にとっては散漫な記述にならざるを得なくなります。
学者側の問題としては、個別の領域に留まらない超領域的なアプローチで、現代社会の変化を捉える意志と能力がある人が減少しています。学者が個々の領域で研究すべきことが増えているということもあるとは思いますが、それよりも、学者としての就職が困難になった状況で、既にある領域の研究に寄与しなければ先がないという現実の方が大きいかもしれません。
総合的で超領域的なアプローチは、学者が個人としてやることは難しいかもしれませんが、そのようなアプローチができる体制やプロジェクトはあるべきだと思います。専門研究機関として、このようなアプローチの研究ができるところは、日本ではGLOCOMしかないのではないでしょうか。
聞き手:井上明人・伊藤智久
(収録:2007年11月21日)