1991年3月15日
公文俊平
ある社会システムの持つ構造や機能上の特徴の中には、相対的に不変なものもあれば、時間の経過の中で、また環境条件の変化に応じて、変動していくものもある。また、それらの特徴の中には、特定の評価の基準に照らして、また特定の環境条件との関わりでみて、メリットだとみなすべきものもあれば、デメリットだといわざるをえないものもある。しかも、そうしたメリットやデメリットには、しばしば一枚の楯の両面のように、ペアをなして存在している場合が多いばかりか、環境条件の如何によっては、メリットとデメリットの間の相互転換さえ起こりかねない。さらに、そうした特徴の中には、自らの努力によって強めたり弱めたりできるものや、他の社会にも移植可能なもの、移植することが望ましいと考えられるものもある。
間人主義社会〜イエ社会〜ネットワーク社会としての日本の社会システムの特徴も、決してその例外ではない。これまでの議論から明らかなように、日本の社会システムが示すさまざまな特徴の中には、他の社会にも普及させることが望ましいものもあれば、日本が地球の一員として他の社会と交流し世界に貢献していくためにはさらに強化した方が良いものや、是非とも無くした方がと思われるものもある。もちろん、そうしたことを考える場合には、これからの世界がどのような環境条件の中でどのように変化していこうとしているかについての、明確な認識が不可欠である。もちろん、メリットを残しながらデメリットを無くしていくこと、あるいはメリットだけを他の社会にも普及させていくことは、それほど容易なことではない。しかし、そうした試みがまったく不可能あるいは無意味というわけではないだろう。われわれは、日本の社会が持つ特徴の中には、これからの世界に広く普及させることが望ましいものが少なくないと同時に、日本もまた他の社会から学んで取り入れるべきものを依然として多くもっていると信じている。
そこで最後に、この報告書のまとめに代えて、これまでの近代化、産業化の努力の中で、日本の社会が示してきたメリットおよびデメリットのペアと思われる特質の主要なものをあげてみよう。
その第一は、日本のとりわけさまざまなネットワーク型の社会システムが、相互制御(政治)の方式として、取引・搾取と並んで、あるいはそれ以上に誘導・説得を過度に重視し、その分、強制・脅迫を、相対的に軽視する傾向である。もちろん、主権国家間の侵略戦争や私的な暴力の正統性はすでに世界的に否定されている。そのかぎりでは、とくに戦後の日本が「国際紛争の武力による解決」という選択股を憲法によって放棄し、経済発展や技術開発に専念したのは妥当な選択であった。今後も、世界社会の中で経済力や技術力の持つ役割は、いっそう大きくなっていくだろう。その意味では、現代の日本が開発しつつある未来指向型の生産・流通あるいは技術開発の「パラダイム」−−「ジャスト・イン・タイムのパラダイム」などと呼ばれることもある−−は、広く世界に普及させることが望ましいと思われる。日本はそのために真剣な協力を惜しむべきではない。
しかし、侵略戦争の正統性が否定されたからといって、世界のなかに、強制・脅迫力にたよってみずからの目標を実現しようとする勢力や試みがすべてなくなり、世界の平和がただちにおとずれるという保証はどこにもない。それは今回の湾岸戦争の経過が如実に示した通りである。だとすれば、そうした危険に対処するためには、少なくとも、国連軍のような超国家的機関による武力の保有と行使の必要は、将来共に残るだろう。それは、近代主権国家がその国内の統治において警察力を依然として必要としているのと同様である。日本が、「軍国主義復活」という非難を恐れるあまり、この意味での国際的な安全保障努力への貢献を軽視するならば、利己的、無責任といった非難をまぬがれないだろう。
第二は、誘導・説得にさいして、理性よりも感性に、事実よりも評価に、訴える傾向の強さである。もちろん、人々のコミュニケーションにおいて感情の交流の要素を完全に排除することは、可能でも望ましくもないだろう。感情移入による、他者の意識の直接的な了解あるいは取込みは、人々の相互理解の可能性を一段と高める。また、感情による結びつきは、集団の凝集をさらに強いものにする。恐らく、異質な文化、異なる言語が相互に入り交じるグローバルなコミュニケーションにおいては、冷たい分析的理性よりも暖かい統合的感性の果たす役割の方が、より根源的となる可能性がある。その意味では、人々の間の「甘え=受動的同一化」や「世話=能動的同一化」への欲求の是認に代表される、感情優位のコミュニケーション文化の存在は、日本がグローバルな統合に貢献する上での一つのメリットだと言えよう。また、その種のコミュニケーションにとって、日本語という言語のもつ有用性も、決して無視できない。その意味では、日本語を国際語の一つとする努力は、もっと真剣に払われてしかるべきである。日本語は、少なくとも発音や会話に関する限りは、その習得はそれほど困難ではないといわれる。また、ファクシミリや日本語ワープロの普及に見られるように、近年の情報処理・通信技術の発達は、漢字を含んだ日本語の取扱いを一段と容易にしつつある。日本語が国際語の一つとなる条件は、次第に整いつつあるということができよう。
しかし、コミュニケーションにさいして感情的要素が大きくなりすぎることには、問題がある。好悪の念だけで行為を決定して、外界への適切な対応ができなくなる恐れがあるばかりか、異なる価値観をもつ人々とのあいだのコミュニケーション自体を拒絶することになりかねないからである。
日本の場合、イエ社会の伝統のなかには、感情の発露の抑制を美しいとする価値観があったようだが、戦後は、むしろそれを非人間的として否定する傾向が強くなった。それどころか、マスコミュニケーションの世界では、大衆の低劣ともいうべき感情に迎合し、それを煽り立てる形の誘導・説得を試みる傾向が、近年ますます顕著にみられる。これは明らかに行き過ぎであって、訂正されなければならない。また、誘導・説得の手段として、日本人の日常のコミュニケーションの中に、「ダイアローグ」や「ディベート」の要素を加える努力も、真剣に試みられなくてはならない。そのためには、教育過程での「ダイアローグ」や「ディベート」の訓練が重要になってくるし、適切な反論を行うために必要なデータベースの構築やその利用法の習得も忘れてはならない。
第三に挙げるべきは、日本社会の「閉鎖性」およびそれと密接に関連している「同質性」である。これには、いくつかの側面が区別できる。
まず考えられるのは、コミュニケーションを通じての誘導・説得を重視する社会システムがその反面にもつ閉鎖性である。それは情報の交流の遮断による相互制御の試みだといってもよい。ネットワークは、その内部では成員相互間の情報の通有を前提している社会システムだとはいえ、あらゆる情報の通有が前提されているわけではない。それは、市場においても、あらゆる財・サービスが「商品」になっているわけではないのと同様である。そして、恐らく日本のネットワークでは、一部の種類の情報をのぞいては、情報の通有化の程度はそれほど高くない。逆にいえば、ネットワークのなかでも自由には通有させられない情報が、多種多様に存在しているのである。
いまひとつ、ネットワークそのものの閉鎖性とでもいうべきものがある。ネットワークにおける情報の通有や相互誘導・説得は、そのメンバーのあいだの長期安定的な相互信頼関係を前提にして、はじめて有効に機能しうる。逆に、ネットワークが有効に機能すれば、そのメンバーのあいだの相互信頼関係はますます深まっていく。したがって。ネットワークは、それが成功すればするほど自足的、自閉的、自己満足的になりがちであり、そのメンバーは外の世界への関心をうしないがちになるだろう。もちろん、自分たちにとって必要な情報や財・サービスが外の世界に存在すると思われる限りでは、外の世界への関心が総て失われてしまうことはあるまい。しかし、外の世界それ自体に強い好奇心を抱いたり、共感を寄せたりする傾向は、失われがちにならざるをえないのではないだろうか。
最後に、日本のネットワークの閉鎖性を形作る最も強力な因子として、ある種の情報、とりわけ評価や感情にかかわる情報、の通有があまりにも深く行われる結果、ネットワーク加入者の文化はもちろん、具体的な世界イメージや行為目標の内容、さらには行為の様式まで、極端に同質化してしまう傾向をあげておきたい。この傾向も、ある程度までは、とりわけ共通の目標−−たとえば追いつき型の近代化−−のもとにネットワークの成員が結集している時には、システム全体の効率的なパフォーマンスを保証してくれるメリットだとみなすことができる。しかし、このような傾向の極まるところ、同質的であること自体が一つの積極的な価値とみなされ、異質者 (革新の唱道者を含む) の存在を許容しなくなったり、異質者のネットワークへの加入の承認をためらわせたりするような病理現象が発生しかねない。そしてそのようなネットワークの中でのメンバー間の競争は, 極端な同質性のなかのごくわずかな差異の追求−−たとえば、ほとんど同質の商品を、同じ市場に、同時により多く売りこむことをめざす競争−−といった形をとりがちになるだろう。そうなったネットワークが、その外部の主体、とりわけ文化を異にする主体にとって、いかに異質かつ閉鎖的に見えるかは、いうまでもあるまい。
第四の特質として、集団のレベルでの意思決定および行為にかかわる特質をあげておこう。多くの人が指摘してきたように、日本の集団、とりわけ全体社会レベルでの集団−−上述した「ニッポン」や「ニホン」−−では、共通の認識と意思決定に到達するまでには長い時間がかかるが、いったん合意が成立した後の行為は極めて迅速である。また、その場合の行為の内容は、外界の対象の制御や変革をめざすよりは、自分自身の向上や改革、つまり「変化への対応」をめざすものになりがちである。もちろん、環境や自分自身の状態が誰にでも理解しやすいような明白なものであれば、合意の形成も速やかに行われるし、その内容も、大胆な自己改革を含んだものとなりうる。その典型は、敗戦や石油危機のような大災害である。しかし、直面している環境変化の性質や交渉すべき相手の性格がはっきりしなかったり、自分の過去の成果に強い自信があったりするような場合には、これまでの自分の在り方を否定するような方向をめざした合意の形成は、ほとんど不可能になってしまう。こうして、かつては謙虚で柔軟で、自己革新の意欲に満ち満ちていると思われた同じ集団が、まさにその過去の成功の故に、傲慢で硬直的となり、もっぱら他者への不満や要求ばかり言うようになってしまうことも、決してありえないことではない。すでに述べたように、それらは楯の両面にすぎないのである。
そうだとすれば、自らのメリットを最も良く生かす道は、第一にどのような条件の下で自己のメリットがデメリットに転化しがちかについて、第二に現在はどのような条件の下に置かれているかについて、明確な認識をもち、必要な対策を講ずることである。そのような対策の中には、デメリットを小さくする方向での自己改革の試みが含まれなければならないことはいうまでもないが、同時に、ある種の自己主張の試みもまた含まれていてしかるべきであろう。すなわち、われわれは、上に見たようなメリットやデメリットを併せもった日本の文化・文明複合体は、他の社会のそれと同質な面と異質な面とを共に含みながら、それなりの存続・発展能力をもち、固有の進化経路を辿ってきたという事実に着目しなければならない。日本は、そのような存在として人類の文化・文明をいっそう多様で豊かなものにしていく上で、少なからぬ貢献をしてきたのである。未来のより統合的な地球文明は、さまざまな地域に存在する多様な文化・文明の基盤の上に始めてその花を開くはずのものだとすれば、われわれは、第一にそのような多様性をそのものとして是認し評価する相対主義的な視点−−もちろん、それは、いかなる比較・評価をも否定するようなものであってはならないが−−を持たねばならない。第二に、そのような多様性を否定する狭量な絶対主義的視点に対しては、積極的な反論を行わなければならない。われわれが、この報告書を発表しようと考えた主な理由の一つは、まさにこの点にあったのである。