1991年4月21日
公文俊平
3)機械化、サービス化、情報化
ここでしばらく、やや抽象的な議論になって恐縮ですが、近代の産業社会で人々が行う「仕事」の性格の変化についてふり返っておきたいと思います。
個人でも集団でもいいのですが、ヒトの日々の「仕事」とは、「手段を使用して目標を達成 (欲求を満足)しようとすること」だということができます。目標の達成、つまり欲求の満足とは、欲求が満たされるような世界状態を生み出すことにほかなりません。空腹が満たされたとか、狙っていたポストを手に入れたといったような状態がそれでしょう。このような状態は、なんらかの手段の「作用」を通じて生み出されます。手段の「作用」自体は、それを「使用」することによって発現します。たとえば、料理という手段を「食べる」という形で使用すると、それが胃袋に作用して、満腹効果が生み出されます。電話という手段を「掛ける」という形で使用すると、上司への陳情という作用の発揮が可能になり、さらに、昇進決定という効果が生み出される可能性があります。
この意味での手段は、「モノ」と「ヒト」と「情報」に大別できます。ここで「モノ」というのは、広義には、なんらかの意味で使用が可能な対象の総称です。「ヒト」とは、自分の目標と手段を持って仕事ができる物理的な存在の総称ですが、その意味での「ヒト」は、他の「ヒト」にとっての手段とされることも可能です。そこで狭義の「モノ」という時には、広義の「モノ」から「ヒト」を除外しておくことにします。「情報」の定義は厄介ですが、ここではとりあえず、「ヒト」に対して、世界の状態や、選びうる目標や、使用しうる手段(の入手や管理や使用の仕方)などをしらせてくれる観念的な存在だとしておきましょう。
さて、モノのうちで、耐久性があって長期反復使用が可能なものを、「道具」と呼んでおきましょう。道具の中でも、たとえばスイッチを入れるだけで汚れた衣類の洗濯や乾燥をしてくれる洗濯機のように、簡単な使用の手続きによって多少とも複雑な一連の作用を発生させるもののことは「機械」と呼ぶことにしましょう。そうすると、ヒトは、適当な機械があれば、自分の仕事の一部を機械に「代行」させることができる、という言い方が可能になります。社会の中で、仕事にさいして機械の使用が増えていくようになる過程が、「機械化」です。
同様に、他のヒトの仕事を自分が代行してやることを、一番広い意味での「サービス」ということにしましょう。その意味では、モノの生産を他人に代行して貰うことも、この広い意味でのサービスに含まれます。それでは広すぎるというならば、モノの所有や使用の代行だけをサービスと呼ぶことにしましょう。車をレンタルする場合には、レンタカーの会社にその車の所有を(それに伴う点検、修理、納税や保険料支払いなどを含めて)代行してもらっていることになります。タクシーやハイヤーに乗る場合には、車の使用 (運転)まで代行してもらっていることになります。そうすると、一番狭い意味のサービスは、モノの使用まで (あるいは場合によっては使用だけを)代行してもらうことだといってよいでしょう。社会の中で、自分の仕事の一部を他人に代行して貰うことが増えていく過程が、「サービス化」です。
最後に「情報化」とは、もっとも直接的には、社会の中で、仕事にさいして、手段としての情報が相対的にますます重要な役割を演ずるようになっていく過程をいいます。これには、情報そのものや情報を体化したモノ(本やレコード等)が商品として売られるようになったり、情報の処理や伝達のサービスがビジネスとして行われるようになったりする過程を、当然含んでいます。「情報化」という言葉がもちうるより豊かな意味については、後述します。
言葉の使い方の約束にいささか手間取りましたが、右のような約束を前提していえば、近代産業社会の歴史には、「機械化」、「サービス化」および「情報化」について、いくつかのはっきりした傾向が見られます。私は、近代産業社会の歴史を、百年ごとの三つの段階に区切って考えることにしています。すなわち、
第一に、19世紀以来、機械化は一貫して進展しています。19世紀システムでは、生産・運輸過程で普及するにとどまっていた機械化は、20世紀システムでは、家電や乗用車などの「消費者耐久財」の形で、消費生活のなかにまで入りこんできました。つまり、過去の消費者は、今や機械の使用者となり、さまざまな作用を自動的・恒常的に生み出す力を獲得しました。このことは、かつての「消費者」が、今や潜在的には他人のためのサービス生産者(たとえば白タク)となったことを意味します。そして、21世紀システムでは、機械化はさらに情報処理・通信過程にまで入っていこうとしています。企業でいえば、機械化は、工場からさらにオフィスにまで拡がっていったのです。一歩遅れてではありますが、情報処理・通信の機械化は、消費生活の中にも着実に浸透を開始しています。「消費者」がサービス生産者となる可能性は、さらに強くなりました。同時に、企業のオフィスと家庭の書斎との区別が、次第に曖昧になりつつあります。
しかも、この機械化の流れは、21世紀システムにいたって、パラダイム・シフトを遂げようとしています。東大の吉川弘之さんによれば、それは、生産過程でいえば、画一的な製品を大量生産するのではなくて、それこそユーザーのニーズや趣味に合わせて、一つ一つ異なった製品を万能ロボットで製造していく方向への変化だそうです。これは、私がこの報告の初めでふれた、ディジタル情報処理技術による情報の統合処理と良く似ています。共通のフォーマットで蓄積されているディジタル情報は、ユーザーの必要に応じてさまざまな形に加工したり、さまざまな表現形式に乗せて提供されることになるわけですから。(本当にどんな仕事でもできる万能ロボットが開発されたとしたら、ユーザーとしては、そのロボットそのものを購入するなり借りるなりすればいいのではないかとも思われますが、それは起こるとしても相当未来の話でしょう。)
もう一つ、情報社会での機械化は、ロボットで物理的なモノを製造するだけでなくて、「バーチャル・リアリティ」と今日呼ばれている、まったく新しい種類の「実体」を、コンピューターを使って創出する方向に向かおうとしているようです。コンピューターがつくり出すこの新しい「実体」は、物理的な存在ではないのに、ヒトの感覚器官にとっては物理的な実体と(現在ではともかく将来は)区別がつかなくなるのだそうです。すなわち、それらは三次元の拡がりをもつかに見え、手で触ることもできるようになるといいます。うまくいけば、この技術は、人間の自然への依存や自然破壊の程度を減らすことによって、人間が稀少で貴重な地球環境と平和に共存することを可能にしてくれるかもしれません。
第二に、産業社会でのサービス化は、19世紀システムの下で、まず生産の代行(商品生産の普及)という形で起こりました。伝統的に自家生産されていた食糧や衣類が、工場で生産されるようになったのです。同時に、サービス化は、生産過程の内部でも発生しました。つまり自営業に代わって賃労働が、生産の主流となったのです。20世紀システムでは、主に企業を対象としてですが、機械のレンタル、リースサービスが普及しました。つまり、所有の代行が起こりました。他方、消費者の間では、持家指向が強まったり、消費者用機械の購入や使用が進んだりしたために、消費過程のサービス化の傾向には、むしろ歯止めがかかりました。外食やホテルなどに代表される消費生活のサービス化は、21世紀システムの特徴になりそうです。21世紀システムでは、情報機器がオフィスや家庭に大々的に普及するために、一面ではサービス化の傾向が逆転します。先日、スタンフォード大学の友人から来た手紙には、「スタンフォード大学にもついに情報化の波が押し寄せたために、秘書がいなくなってしまった。僕はこの手紙を自分のパソコンで書いて、自分でFAXしているよ」といったことが書いてありました。しかし、21世紀システムの下でより顕著に現れるのは、情報機器の「使用の代行」、つまり「情報処理・通信サービス」の普及でしょう。アップル社は、未来の個人用情報処理機械のビジョンとして「ナレッジ・ナビゲーター」というコンセプトを打ち出しています。携帯可能な小型の端末のなかに人工知能秘書のような存在が隠れていて、ユーザーは彼(?)と相談しながら、世界の誰とも、どこのデータベースとも接続して、情報を入手し、必要な処理を加えていくのですが、それが可能になる背後には、高度に発達した通信サービスや情報の蓄積・処理サービスが必要とされることはいうまでもありません。
第三に、これはもう詳しくいうまでもありませんが、情報化は、21世紀システムの下で本格的に開花するに違いありません。それは同時に、いっそうの機械化とサービス化を伴って進行します。よく、情報化やサービス化に伴う「モノ離れ」傾向が話題にされますが、この議論は、産業社会では、サービス化や情報化の背後に、機械化という一貫して変わらない傾向があることを、見失わせる危険があります。より大量で高度のサービスを提供しようと思えば、機械による武装が不可欠です。より大量で高度のサービスを購入しようと思えば、自分もさまざまな機械を使いこなして、他人に頼らなくてもできる仕事は自分でするし、他人に頼らざるをえない場合でも、仕事の前処理や後処理はなるべく自分でできるようにしておく必要があるでしょう。でなければ、会社も個人も破産してしまいます。
ちなみに、このレポートが全体として強調している点を、私のことばで要約しておきましょう。