1991年8月00日
公文俊平
仮説3:16世紀以来の近代社会の進化過程には、これまでのところ、軍事・航海革命をへて主権国家による威のゲームの普及がみられた第一局面(軍事化、国家化の局面)と、産業革命をへて企業による富のゲームの普及がみられた第二局面(産業化、企業化の局面)とがあった。今日では、威のゲームの社会的正統性はうしなわれつつあるが、それとともに、情報革命をへて智業による智のゲームの普及がみられる第三局面(情報化、智業化の局面)への移行が、あらたに生じつつある。
近代化の歴史においては、第二局面の前期が第一局面の後期とかさなっていたといってよいだろう。そこでは、国旗と資本は、手をたずさえて世界に雄飛したのである。国家は企業に安全と秩序を提供して、企業が富のゲームに専念することを可能にした。他方、企業は国家の財政基盤をささえたり、国家の活動(とりわけ威のゲームへの参加)をたすける有力な手段(とりわけすぐれた武器)を供給したりした。しかし、富のゲームはやがてますます多国籍化しボーダーレス化していった。その結果、今日の世界企業のおおくは、個々の国家の支配や介入を制約と感ずるようになっている。また、威のゲームとりわけ侵略戦争の正統性それ自体も、第一次世界大戦を契機に疑問視され否定されはじめたが、さらに第二次世界大戦と核兵器の登場によって、限定戦争型、勢力均衡指向型の威のゲームをつうじて世界の平和が結果的に維持されるという期待は、幻影に帰した。第二次大戦後の世界では、平和の維持は、在来の個々の主権国家をこえる超国家的な安全保障機構の活動に期待するしかないという合意が、ほぼ形成されたといってよいだろう。同じことは、世界経済の運営や環境保全についてもいえる。近年、冷戦体制の崩壊後の世界で、さまざまな理由からナショナリズムへの回帰とでもいうべき現象が随所にみられはするものの、それは部分的な現象にとどまり、歴史の大きな流れを変えるまでにはいたらないだろう。
むしろ、より重要な社会変化は、仮説3でいう、近代化の第三局面への移行であろう。もちろん、そのことは、産業化や富のゲームの社会的正統性までが、一挙にうしなわれてしまうことを意味するものではない。なるほど、ひところのローマクラブの提言、ヨーロッパにおける「緑の党」の勢力拡大、あるいは第三世界にみられた多国籍企業の行動批判などの動きにみられたように、産業化や富のゲームの正統性への疑問が、とりわけ1960年代の後半から1970年代の前半にかけて、さまざまな角度から提起されたことは事実である。しかし、1970年代の後半から急速に進展しはじめた情報革命は、第三次産業革命としての一面をもっており、産業化のレベルそのものを一段と高い段階にひきあげる作用もはたすだろう。産業化の21世紀システム段階、あるいは産業の情報化や情報の産業化とよばれる段階が、それである。したがって、近代化の第三局面の前期は、富のゲームのプレヤーとしての企業と、智のゲームのプレヤーとしての智業とが、第二局面の前期にみられた国家と企業の連携をもこえる、より緊密な協働関係(新産学協働ないし智・企業協働)を発展させる時代になるだろう。
本稿でとりあげるあたらしい型の組織とは、なによりもまず、ここでいう「智業」型の組織、あるいはその上位概念としての「ネットワーク組織 network organizations」を意味している。次節では、まず「ネットワーク組織」一般の定義をあたえ、その特性を検討してみよう。
(1) わたしはこれまで、より適切な名称が思いうかばぬままに、ここでの「智業」のことを、単にSGN= small-group networks とよび、後出する「コネクティブ」のことを、CTN= community-type networksとよんでいた。拙著、『ネットワーク社会』、中央公論社、1988年参照。
3)ネットワーク組織と社会型ネットワーク
以下、「ネットワーク組織」とは、その対外的な政治行為においても、内部でのメンバー間の政治行為においても、説得・誘導型の行為が支配的なウエートをしめている組織をいう。また、「社会型ネットワーク societal networks」とは、さまざまなネットワーク組織がその主たる構成要素となって、たがいに説得・誘導をおこなっているような社会型システムをいう。
社会型ネットワークとネットワーク組織とのあいだの関係は、社会型システムの一種としての市場と、市場に参加してたがいに取引・搾取をおこなう企業や家計のような複合主体とのあいだの関係になぞらえてかんがえてみることができる。
個人 (や下位のネットワーク組織) がネットワーク組織 (や上位のネットワーク組織) に参加する動機、ネットワーク組織(や個人)が社会型ネットワークに参加する動機は、なによりもまず、みずからにとって有用な情報や知識の通有にあるとかんがえられる。あるいは、世界をよりよく理解することにある、といいなおしてもよい。それでは、情報権の確立と、情報や知識のネットワーク (つまり、ネットワーク組織や社会型ネットワーク) 内での通有との関係は、どのようにかんがえればよいだろうか。
ここでも、市場からの類推が役にたつ。すなわち、社会システムとしての市場の確立は、取引の対象となる財やサービスの「商品化」を前提としている。つまり、商品とは、その所有・使用権を一定の条件下で他の主体に譲渡する用意があることを、その所有・使用権の保有者が事前に約束している財・サービスにほかならないのである。もちろん、そのような約束は、所有・使用権の観念自体が確立していなければ、社会的な意味をなさない。なぜならば、その場合には、取引をこころみる主体は、取引ではなく脅迫によって、自分のほっする財・サービスを入手する可能性をも、つねに比較考量しなければならなくなるからである。同様に、さまざまな主体が、みずからに帰属する情報や知識の通有を一定の条件下で承認しあうといった約束が社会的に意味をなすのは、その前提として、情報権の観念自体が確立している場合にかぎられよう。そうでなければ、情報や知識の入手を脅迫・強制や取引・搾取によっておこなおうとする誘因の方が、よりつよくなってしまいかねないからである。そこで、このような事前の約束のもとにある情報・知識のことは、「通識 sharables」とよんでみたい。ネットワーク−−組織であれ、社会型のシステムであれ−−とは、この意味での個々の通識が、そこで通有されたりうみだされたりする社会的な場なのである。
いまわたしは、ネットワークの中で、単に個々の既成の通識が通有されるだけでなく、あたらしい通識がうみだされることもあるとのべた。おそらくこの点が、コミュニケーション (それもとりわけ説得・誘導型の政治行為としてのコミュニケーション) が、取引や脅迫と決定的にことなる点である。つまり、説得・誘導が相互的にこころみられる場合には、その過程で、あたらしい情報や知識が、あるいは情報や知識のあたらしい意味が、つまりあたらしい理解が、創出され通有される可能性があるのである。その場合には、一方的な説得や誘導のこころみは、たがいが通有するあらたな理解や合意の形成にすすむ可能性があり、さらにはそれに立脚した協働行為の実行、そしてさらには、理解・合意形成や協働行為に参加する個々の主体を要素とするより上位の複合主体 (組織) 、あるいは個々の主体を融解統合したあらたな主体がかたちづくられていく可能性さえある。(1) その意味では、ネットワーク、とりわけネットワーク組織では、他の型の社会システムにくらべて、よりひんぱんでより徹底した自己再組織がおこなわれやすく、その境界や内部の構造などもより変化しやすいとかんがえてよいだろう。
ここで、ネットワークのなかでもとくに組織型のネットワーク、つまりネットワーク組織に注目するならば、そのような組織は、その内部での成員間の政治行為が、指令 (つまり正統化されている脅迫・強制) や取引よりは相互の説得・誘導を中心としている、あるいはさらにすすんで、あらたな理解・合意や統合の形成をめざしておこなわれる(2) という意味では、あまり大規模な組織にはなりにくいし、その内部構造も、指令・報告関係の連鎖としての上下の階層構造や、タテ割りの専門分化・分業構造を発展させにくいということができよう。むしろ、ネットワーク組織の特徴は、比較的少数のたがいに平等な成員のあいだの自由なコミュニケーションと協働のシステムとしてあるところに、もとめられよう。もちろん、成員の数やその空間的な分布のひろがりの程度や、共通の理解や合意の形成される程度、あるいは協働のおこなわれる範囲や頻度や程度などは、利用可能なコミュニケーションや協働の技術の内容にも依存する。したがって、近年のテレコム技術の発展や、グループウエアとかCSCWなどとよばれる技術の発展は、ネットワーク組織および社会型のネットワークのひろがりや普及に、大きな影響をおよぼすとおもわれる。(3)
4)智業とコネクティブ:情報化局面に出現する二種類のネットワーク組織
すでに述べたように、わたしは、ネットワーク組織と社会型のネットワーク (以下では後者を「メタネットワーク」とよぶことにする) が広く出現するようになると−−それは当然、コミュニケーションと協働のための技術の進歩と普及を前提としているであろうが−−そこに「智のゲーム」とでもよぶのが適切な競争ゲームが派生、普及するようになるという仮説をもっている。そして、説得・誘導力 (さらに広くは、合意形成や統合達成力をもふくむ) の獲得を直接の行為目標としている、このゲームのプレヤーのことは、「智業」とよんではどうかとかんがえている。この智業は、いうまでもなくネットワーク組織の一種である。しかし、ネットワーク組織は智業だけにつきるものではない。「富のゲーム」においては、そのプレヤーとしての「企業」は、市場での取引、それも究極的には「家計」とよばれる組織−−それは、企業とは違って、富ではなしに「効用 utility」あるいは「福祉 welfare」の追求を目標としていると想定されているが−−との取引に従事するなかで、取引・搾取力としての富の獲得につとめているのと同様に、「智のゲーム」の場合にも、智業が究極的にはそれに対する説得・誘導力としての智の獲得を説得・誘導によってめざす(1) ような、智業のはたらきかけの対象となる、もうひとつの種類のネットワーク組織が存在する。この後者の組織のことを、ここではそのメンバーがコミュニケーションや協働の過程をつうじてたがいにむすびついているという意味で、「コネクティブ connectives」とよんでみよう。この意味でのコネクティブの組織としての統合度は、おそらく、他の組織にくらべると相対的に弱いとかんがえられる。あるいは、その成員の自立・自律性は、他の組織にくらべると相対的に強いとかんがえられる。 (だから、わたしは、たとえば「コレクティブ collective 」というようなよびかたは、したくないのである。)
市場に参加する組織としての家計の行為目標が、企業の提供する財やサービスの「消費 consumption」をつうじての、その効用ないし福祉の増大にあるとすれば、メタネットワークに参加する組織としてのコネクティブの行為目標は、智業が提供する情報や知識の「通有 sharing」をつうじての、その「世界理解 understanding of the world 」の増進にあるといえるのではないだろうか。つまり、ここには、つぎのような対応関係が成立するとかんがえられる。
それでは、より具体的には、近代化の情報化局面で出現する智業やコネクティブとは、どのような組織だとかんがえればよいだろうか。
わたしのイメージでは、産業化の初期に出現した個人資本家にあたる、情報化の初期に出現する智業型の組織の例としては、あえて個人名をあげることを許していただくならば、さしずめ、大前研一氏とその協働者たち、堺屋太一氏とその協働者たちのようなグループがそれにあたる。あるいは、さらにより典型的には、米国のコンピューター・ハッカーたちのグループの一部、たとえば Richard M. Stallmanが主導している the Free Software Foundation をあげることができよう。(2) 純形式的には、大前氏や堺屋氏のような個人「智本家」は産業化の初期の個人資本家に、彼等の協働者たちは、資本家に雇用されている賃労働者たちに、それぞれ対応するとかんがえられる。しかし、情報化の時代における智のゲームのプレヤーとしての智本家とその協働者たちの関係は、過去の資本家とその賃労働者たちの関係よりも (そしていうまでもなく、過去の将軍とその兵士たちの関係よりも) 、はるかに対等で協働的であろう。これに対し、在来型の教団や学派、あるいは芸道の家元などの組織は、15〜16世紀のイタリアのメディチ家やドイツのフッガー家のような「前期資本家」に対応するとかんがえてよかろう。(3)
それでは、コネクティブの例としては、どのような組織がかんがえられるだろうか。機能的にいえば、それは、家族や地域共同体、あるいは職場共同体のような組織に代わる、あるいはそれを補完する組織であり、メタネットワークのうえで展開される、科学・技術、宗教・イデオロギー、芸術、スポーツなどのさまざまな領域に属する各種の智業による智の普及活動の対象となり、その信奉者あるいは協働者となるはずの組織である。現時点でのそのモデルとしては、わたしは、アメリカのWELLやECONET、日本のCOARA などのようなパソコン通信あるいはネットワーク通信(3) の加入者からなる組織、あるいはその一部としてのさまざまなCUG =closed user groupsをかんがえてみてはどうかとおもう。ネットワーク通信の広汎な普及を前提すれば、これらのコネクティブのメンバーが、特定の地域にのみかぎられていなければならない必然性はない。しかし、理解の増進や協働の推進過程では、face-to-faceの接触の重要性が依然として大きいとすれば、実際問題としては、個々のコネクティブのメンバーのおおくは地理的に近接した地域の居住者である可能性が、たかそうだ。(5)
5)近代化の第三局面 (情報化局面) の前期に出現する組織間の協働
第二節のおわりで、わたしは、「近代化の第三局面の前期は、富のゲームのプレヤーとしての企業と、智のゲームのプレヤーとしての智業とが、第二局面の前期にみられた国家と企業の連携をもこえる、より緊密な協働関係(新産学協働ないし智・企業協働)を発展させる時代になるだろう」とのべた。これから展開することが予想される「智・企業協働」においては、企業が智業の活動を経済的に保障する一方で、智業は、企業が新商品の開発やマーケティングの展開、あるいはその経営組織の改革やアイデンティテイの確認等のために必要とするあたらしいアイデアや知識を、企業に提供するだろう。あるいは、協働して創造していくだろう。
このような協働関係の展開にさいしては、協働にたずさわる企業と智業は、かならずしも画然と区別された別々の組織体である必要もないかもしれない。既存の企業のそとに、あたらしい組織としての智業がうまれ、企業との協働関係を展開していくケースは、もちろんすくなくないだろうが、同時に、既存の企業が自己再組織をおこなって、自分自身の内部に智業的な活動に携わる部門をうみだしていくことも、おおいにありえよう。
しかし、智業の本来の活動、つまりネットワークという場でのみずからの智の普及をつうじてその信奉者や協働者をふやし、それによってみずからがもつ説得・誘導力 (ひいては合意・統合力) を増大させようとする活動、の対象になるのは、なにも企業だけとはかぎらない。むしろ、そのもっとも直接の対象として想定されるのは、わたしの用語でいえば、情報化局面で出現してくるもうひとつの新種の組織である「コネクティブ」なのである。個々の智業は、さまざまなコネクティブとのあいだに、長期安定的なコミュニケーション・協働関係を展開しようとこころみるだろう。そのような関係は、富のゲームとの対比でいえば、自由で開放的な市場をつうじた取引 (つまり、「一見の客」との取引) というよりも、どちらかといえば閉鎖的、固定的なな一面をもつ相対取引 (つまり、「なじみ客」との取引) という性質が強いだろう。
そして、コネクティブを対象とする「智のゲーム」が広く普及してくるようになれば、それまでは市場を媒介としておこなわれていた「富のゲーム」までが、「智のゲーム」の社会的な枠組みのなかにとりこまれてくるようになる可能性、つまり「ネットワークが市場を包摂する」ようになる可能性もかんがえられる。(1) いいかえれば、商品の取引関係が、市場をとおすよりは、ネットワークのなかに形成されている長期安定的なコミュニケーション・協働関係のなかにくみいれられていく可能性がある。別のいいかたをすれば、個々の企業は、智業を媒介として、智業の推薦をつうじて、その顧客であるさまざまなコネクティブと、特約関係をむすんでいくのである。わたしがそのような予想をたてたくなるのは、主としてつぎの二つの理由による。
(1) いうまでもないが、わたしはここで、資本主義社会では、市場における商品取引関係のなかに、その他のおおくの社会関係−−結婚、教育、生産等々−−が包摂される、とのべたカール・ポラーニやカール・マルクスの所論を、念頭においている。
6)情報化社会をささえるあたらしい技術パラダイム
以上にのべてきたような意味での「情報化」が円滑に進展するためには、それを支援するさまざまなあたらしい技術が利用可能になっていなければならない。また、そうしたあたらしい技術の開発と利用を体系的に推進していくためには、その観念的な基盤となる新技術パラダイムへの転換がおこらなければならない。
そのような角度から、近年の技術進歩、とりわけコンピューター関連の技術の進歩過程をふりかえってみると、1975年から1990年にいたる15年ほどのあいだに、パラダイムの転換とよぶにふさわしい変化が生じたことはあきらかである。
そのような変化のいくつかを列挙してみよう。まず、コンピューターのアーキテクチャーが、大型機とその端末による「星型」のものから、ひとつひとつが過去の大型機に匹敵する高度な情報処理能力をもつ小型のPCあるいはWSが分散しつつたがいに結合したネットワークをかたちづくる方向にかわってきた。いわゆるダウンサイジングである。また、コンピューター間の通信も、「データベース」の検索あるいは指令と報告のコミュニケーションをめざすものから、ユーザー相互のコミュニケーション、さらにはコラボレーション (協働) をめざすものが主流となりつつある。そのためのメディアも、各種の「ニューメディア」の分立から、さまざまなメディアを統合した、マルチメディアないしハイパーメディアへとすすむ方向が明確になってきた。同時に、コンピューターの役割についての理解も、外界の現実をシミュレートしたり、あらたな人為的な現実(artifacts) を設計・製造したりするための手段としてのそれから、人間自身がうみだすさまざまな観念を具体化する、それも人間の感覚器官にとっては通常の現実の事物と区別できないような「事実上の実在性 virtual reality 」をもって具体化するための手段、つまり観念の万能具体化機械としてのそれへと、転換してきている。それにともなって、コンピューターそのもののイメージも、人間にとっての「奴隷」として奉仕する「人工知能」体−−それも、ことによると、いずれは自分自身の意思をもって人間に叛乱し人間を支配するようになる危険をともなった機械−−から、人間を支援し、人間と協働するたのもしい仲間というイメージに、かわりつつあるようだ。
わたしは、1970年代の後半からはじまったこのような一連の変化を、近代人の社会観、自然観における「制御・征服から協働・共生」へのパラダイム転換だとして要約してみたい。つまり、近代人にとって他人は制御 (政治) の対象として、自然は征服の対象としてもっぱらあったものが、いまや他人は協働の対象として、自然は共生の対象として、理解されはじめたのである。そして、あたらしい理念としての「協働・共生」を実現するための場を、ジョンソン=レンズ夫妻の提唱している「ハイパースペース」という言葉でいいあらわすならば、このハイパースペースには、社会的なコミュニケーション・協働の場としての「ハイパーネットワーク」の次元と、自然との共生の場としての「ハイパーリアリティ」の次元をもつとかんがえてみたい。ただし、ここで「ハイパーリアリティ」の次元というのは、通常の現実的な事物が存在する物理的な空間と、コンピューターが人間の観念を具体化してうみだした事物−−それらはかならずしも通常の物理法則にしたがう必要はない−−が存在する空間とが複合し合体しているものをさしている。人間は、この意味でのハイパーリアリティの空間を創造して、そこに自己の生活世界を拡大することによって、稀少で貴重な「真の現実」を保全し、これと共生していくことが、はじめて可能になるのではないだろうか。