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1991年9月19日

「ハイパーネットワーク社会の展望 」

静岡総研への寄稿

公文俊平

この小論では、次のことを主張してみたい。

  1. これまでの日本社会の在り方は、「ネットワーク社会」という言葉で特徴づけてみることができる。
  2. 近年の情報処理・通信技術の急速な発展(情報化革命)をうまくいかすことで、日本のネットワーク社会は、より高度なコミュニケーションと協働行動のための仕組みをもち、外に対してもっと開かれると同時に、その成員ひとりひとりの自由や個性の発揮をより多く許す方向へと進化していく。つまり、日本のネットワーク社会は、「ハイパーネットワーク社会」とでも呼ぶのがふさわしい方向へと進化していく。
  3. そこでは、「企業」による富の獲得をめざす活動とならんで、「智業」による知的影響力の増大をめざす活動が出現し、両者の協働関係が展開していく。
 

1.ネットワークとネットワーク社会  

「ネットワーク」という言葉は、現在では非常に広く使われるようになったが、その使われ方はさまざまである。  

一番広い意味(論理的な意味)では、「ネットワーク」とは、互いに「線」を通じて結びついている「点」の集まりであって、それらの「線」や「点」に対してはさまざまな「変数」が定義されているような、あらゆる存在をさしている。もう少し狭い意味では、この論理的なネットワーク概念の各構成要素に、特定の物理的な実体が対応させられているものがネットワーク(物理的な意味での)だといえる。たとえば、「ハイウエー網」や「鉄道網」、「通信回線網」などである。さらに、物理的なネットワークを使って特定の社会的な機能を実現している、交通網や輸送網、あるいは放送網や電話網なども、ネットワーク(機能的な意味での)だといえる。最後に、そうした各種の機能を自らの必要に応じて適当に使い分けながら営まれている社会生活のレベルでの「ネットワーク」、あるいは「社会システムとしてのネットワーク」が考えられる。  

しかし、ここでは、この「社会システムとしてのネットワーク」を、さらにもう少し狭く定義してみよう。つまり、どんな社会システムもネットワークだと考えるのではなくて、ある一定の特質をもったものだけを、ネットワークとよぶことにしよう。すなわち、  

1)その構成メンバーがシステムに参加する主な目的は、他人を支配したり、手段を入手したりすることよりはむしろ、さまざまな知識や情報をおたがいに通有(シェア)しあうことにあり、しかも、

2)メンバーの間の相互行為も、脅迫・強制や取引・搾取よりは、おもに説得・誘導によって行われるような社会システム、 がそれである。そして、この意味でのネットワークが広く普及している社会のことを、「ネットワーク社会」とよぶことにしよう。

この意味でのネットワークは、何もこれから初めて生まれる社会システムなのではない。それは、恐らく人類の歴史と共に古く、社会のあるところにはどこにでもあるような、社会システムのごく普通のタイプである。しかしとりわけ日本では、欧米の個人主義とは一味違う、「間柄主義」とでもよぶべき文化基盤の上に、古くから「党」とか「講」、「惣」とか「一揆」、あるいは「閥」とか「村」などとよばれてきたさまざまな「ネットワーク」が、社会の中に広く深く浸透していて、しかも今日の業界団体や審議会、あるいは業界のいわゆる「系列」などの例に見られるように、それらが公式あるいは半公式に制度化しているものが多い。その意味では、日本を「ネットワーク社会」と特徴づけることは充分可能だろう。

2.情報化革命と智業

近代の産業社会は、これまでほぼ100年ごとに、技術革新の大きな波にであってきた。そしてそのたびごとに、産業化の中核をなす「機械化」の過程が、社会生活のさまざまな側面に、ますます広く深く浸透し普及していった。  

まず、18世紀の終わりの(第一次)産業革命によって、鉄を素材とし、蒸気機関を動力とする機械によって、衣料や食料のような消費財を、大量廉価に生産・輸送・販売することが可能になった。19世紀の終わりの第二次産業革命は、内燃機関と電動機という新しい動力源と、合成有機物という新しい素材とをうみだした。その結果、機械は、家電製品や乗用車のような「耐久消費財」の形をとって、家計の消費生活の中に大量に入り込むようになった。「消費」活動の多くは、こうした消費者用機械を使った「サービス生産」の形をとるようになった。そして今日、第三次産業革命としての情報化革命によって、機械化は、情報処理・通信の領域にまで拡大しつつある。いまのところ、この意味での情報機械化はまだ産業(工場やオフィス)の内部でもっぱら進行しているにすぎないが、やがてそれは社会生活一般のなかに浸透していくことだろう。それによって、ひとびとのあいだのコミュニケーションや協働行動は、量的にも質的にも、一段と拡大していくだろう。なぜならば、コンピューターに代表される情報処理・通信機械の最も重要な社会的機能は、まさにコミュニケーションと協働行動の支援にあるからである。  

こうして、情報化の技術革新は、産業化そのものを超えるような社会変化をうみだす契機にもなっていく。  

過去数百年にわたる近代化の過程をふりかえってみると、最初に見られたのが軍事化・国家化の局面だった。ローマ帝国やローマ教会からは独立した「主権」をもつと主張する集団、つまり近代主権国家が、西欧を中心としていくつも誕生した。それらの主権国家は、一般的な脅迫・強制力としての「国威」を、脅迫・強制(戦争や植民地獲得)を通じて入手し発揚し増進しようとして競った。その次におこったのが、産業化・企業化の局面だった。それは、私有財産権を神聖視する理念に支えられた近代産業企業が、一般的な取引・搾取力としての「富」の入手・蓄積競争を、取引・搾取を通じて行う過程だった。企業は、商品としての生産要素を買い入れて商品を生産し、それを市場で販売することによって富に転化しようとした。  

そして、わたしの見るところでは、近代化の第三の局面にあたる情報化・智業化の過程が、いま始まろうとしている。それは、国家でも企業でもない、新たなタイプのネットワーク型組織(わたしはそれを「智業」となづけたい)による、一般的な説得・誘導力としての「智」の入手や誇示を、説得・誘導を通じて行う過程である。すなわち、「主権」や「財産権」とは異なる権利としての「情報権」に立脚する智業は、まずさまざまな個別の情報や知識の発見や生産に努めたあとで、その普及活動に従事し、自らの信奉者を得ようとして競争する。いったん熱心な信奉者がえられれば、智業は、かれらに対する一般的な説得・誘導力の保有者(つまり、智者)としてふるまうことが可能になる。  

結局、今日の情報化には、少なくとも二つの異なる側面がみられる。産業の情報化としての側面と、産業化を超える智業化としての側面とがそれである。  

3.智業とクラブ  

情報社会での智業の活動を、産業社会での企業の活動と対比しながら、もう少し立ち入って考えてみよう。  

まず、企業は、その生産した商品を、他の企業に、最終的には「家計」に、販売することで、富に転化する。企業は、富の獲得を目標として競争している「富のゲーム」のプレヤーとでもいうべき存在だが、家計はそうではない。経済学の用語でいえば、企業が利潤の最大化をめざすのに対し、家計は効用の最大化をめざしている。また、企業が販売する「商品」とは、企業にその所有権や使用権があるにもかかわらず、一定の条件が満足されれば(たとえば企業の要求する価格の支払いがなされるならば)その権利を買手に譲渡する、と企業が事前に約束しているような財やサービスのことである。  

同様に、情報社会にも、産業社会の家計や商品にあたる存在を考えてみることができる。産業社会の商品にあたるのは、智業がそれを最初に発見・生産した情報・知識であるにもかかわらず、一定の条件が満足されれば(たとえば、それを第三者に伝達するときには、その最初の発見・生産者が誰であるかを常に明らかにしてもらえるならば)それに対する情報権を受手に譲渡する、と智業が事前に約束しているような情報・知識だろう。そのような情報・知識のことは、「通識」とよんでおこう。また、産業社会の家計にあたるのは、智業の提供する情報・知識の受容者、信奉者となるが、自ら智者となるつもりはない存在だろう。わたしは、そのような存在の典型は個人というよりは、一種のコミュニティのような集団だと思う。そのような集団は、社会システムとしては智業と同じネットワーク型のシステムだろう。その意味での「コミュニティ型のネットワーク」のことは、「クラブ」と総称しておこう。産業社会では、企業が家計に商品を販売して富を獲得しようとしているのに対し、情報社会では、智業がクラブに通識を普及(伝道)して智を獲得しようとしているというわけである。いいかえれば、智業は自らの信奉者を獲得することで、智者としての権威や名声を得るのである。  

さて、産業社会で企業と家計の間の商品の取引が営まれる場は「市場」とよばれている。同様に、情報社会で智業とクラブとの間の通識の通有が営まれる場についても、何か固有の名称を与えておくほうが便利だろう。そのような場は、社会システムとしてはやはりネットワーク型のものだと考えられるが、智業やクラブのような組織としての一体性はなく、智業やクラブをその構成要素としてふくむ大きなシステムなので、「メタネットワーク」とよぶことにしよう。  

4.企業・智業協働  

しかし、情報社会になったからといって産業社会に見られた企業による富の獲得競争がすぐなくなってしまうと考えるのは早計である。むしろ、産業化の初期には、国家と企業との協働関係がさまざまな形で見られたように、情報化の初期には、企業と智業のあいだの協働関係がさまざまな形で展開されると考えるのが妥当だろう。  

たとえば、国家は企業の安全を保障して、企業が商品の生産や販売に専念できるようにした。他方、企業は国家にたいして租税を収めたり、優れた武器その他の商品を供給した。それと同じような意味で、企業は智業の活動を経済的に支援して、智業が通識の生産や普及に専念できるようにするだろう。他方、智業は、企業の研究開発やマーケティングを支援したり、さまざまなアイデア商品の製造権や販売権を提供したりするだろう。そればかりではない。企業や産業の組織自体がネットワーク型に近づいていったり、企業の部門の一部が智業的な活動を主とするものに転換していくといった変化の可能性も、大きいと思われる。さらに、国家の活動や国家間の関係が軍事的なものから経済的なものに比重を移していくのと似たような意味で、企業の商品生産や販売活動が市場を媒介とするものからネットワークあるいはメタネットワークを媒介とするものに、その比重を移していくこと (市場のネットワーク化) が考えられる。つまり、開かれた自由な市場での価格に着目しその時々の取引よりは、相互信頼を基盤とする長期安定的な情報通有関係の中に、商品取引が埋め込まれていくのである。それは日本ネットワーク社会の伝統的な用語でいえば、市場よりも「系列」に依存した商売、「一見の客」よりも「なじみ客」を相手にする商売だといえるだろう。もちろんそれは、今日の日本に見られる比較的狭く限定され固定された系列型の結びつきよりは、オープンで流動性の高いものとなるだろうし、関係の形も固定的なルールにもとづいた透明性の高いものになっていくと思われる。  

わたしは、このような意味での「ハイパーネットワーク社会」こそが、これからの日本が、世界に提案できる近代文明の新しい形であり、日本の伝統的な文化(価値観や世界観)に基礎をもってはいるが、新しい時代の要請と技術の進歩に適合するように再構築されたものであり、世界に通用する普遍性をもった文明のデザインだと主張したい。今日の日本は、多分、好むと好まざるとにかかわらず、そうしたグローバルな提案を行ったり、グローバルな影響力・指導力を発揮したりせざるをえなくなる、世界史的な位置に立ってしまったのではなかろうか。それはちょうど、これまでの近代文明・産業文明が、欧米の個人主義的で民主主義的な文化に根ざしていながら、それと同時に世界に通用する普遍性や影響力をもつと主張されてきたのと同じことだろう。21世紀は、その意味では、従来の欧米型の文明の反省と再編成の時代であると同時に、日本型の文明の「ハイパーネットワーク文明」としての再構築と普及の時代でもあり、両者の間には、相互のバッシングや対立・闘争ではなくて、緊密な交流と、良い意味での競争、そして相互学習と収束が起こっていく時代だと思う。