1991年11月1日
公文俊平
本誌の編集部からいただいた機会を利用して、私自身が多年たずさわってきた「社会システム論」と自称している知的ないとなみの「学問性」について、反省してみたい。
まず、「学問性」とは、なんらかの対象に関する多少とも体系的な知識がもちうる、ある種の性質だとかんがえられる。その性質というのは、とりあえず、他人によってその意味内容の理解が可能かとか、なんらかの手続きにしたがってその妥当性の検証が可能かといった性質のことだとしておこう。より多くの人が、その意味内容を明確に理解できたとおもい、しかもそれが問題とされている対象との関係ではたしかに妥当性をもつと賛成してくれるならば、そのような知識は、高い学問性をもつということができるだろう。(ただし、ここでは、「アインシュタインの理論はとても難しいので、それが本当に理解できる人はごくわずかだ」などという言明にみられる「難しさ」と「学問性」との関係は問題にしないことにする。)
私のかんがえる「社会システム論」は、人間や社会についての体系的な知識の構築をめざすものであるから、当然、この意味での高い学問性をもっていてほしいとおもう。しかし、人間や社会についての体系的な知識が、この意味での学問性をどこまでもちうるかについては、かなり深刻な疑問がありうることも、また認めざるをえない。
社会システム論は、それが人間に関する人間の知識であるというかぎりでは、自己言及的な知識である。自分(たち)自身に関する知識を入手するひとつの途が、反省であることはいうまでもないが、反省によってえられた知識が、自分(たち)にとって理解可能であり、自分(たち)に関して妥当だとおもわれたとしても、他人がそれを理解できたり、妥当だと納得したりしてくれる保証はない。「わたしの気持ちは誰も理解してくれない」とか「外国人には日本の文化は理解してもらえない」といったたぐいの嘆きは、よく耳にする嘆きである。他方、他人にとっては、誰かが「これが私自身に関する真実だ」といったとしても、それがほんとうの「真実」なのか、意図的な「嘘」なのか、それとも当人は真実だと信じこんではいても、別の見方からすれば「誤り」なのかをうたがってみたくなる。もっとも、うたがってみたからといって、それがそのいずれなのかをみわけることは、けっして容易ではない。
これが、社会、つまり個々の人間を要素として含むより大きな全体、についての知識となると、問題はさらに複雑になる。われわれは、自分自身を要素として含むより大きな全体を、その「外」から観察することは不可能である。とりあえず当該社会の要素の一つとしての「自分」は括弧にいれたとしても、地球に住む人間のひとりが地球をはなれ、宇宙ロケットから地球をながめるような意味で、社会の全体を外からながめるわけにはいかないだろう。そうだとすると、何か適当な手続きをさだめて社会を部分的に観察して情報を入手し収集して、それを分析したり総合したりすることを試みなければならなくなる。
ところが、幸か不幸か、社会のなかにはその要素である個々の人間やその集団が発信する大量の情報が飛びかっている。社会に関するわれわれの知識のほとんどは、そのような情報を収集加工することでえられている。とくに、社会の過去の状態に関する知識は、誰かが記録し発信した情報にたよる以外にない。しかし、そうした情報、とりわけその大半を占める言語・文字情報は、発信者自身のもつ世界観や価値観(意味付けや価値づけの枠組み)を前提として、なんらかの意図のもとにくみたてられ、発信されたものである。したがって、そうした情報には、さまざまな「歪み」が不可避的に付随しているとかんがえざるをえない。たとえば、「雪」にかんして貧弱な語彙しかもたない言語をあやつる人は、雪の多様な状態を識別し表現することは不得意である。あるいは、社会部の新聞記者は、彼自身のあるいは彼の属する集団の価値基準からみて「善」であったり「悪」であったりする程度の強い事象には強く反応して、その報道に力をいれがちだが、そうでない事象は「ニュースバリュー」がないと判断して無視しがちだろう。また、特定の目標の実現に役だつように、発信する情報の内容を意図的に選択・変更することも、悪名高い某国の通信社だけでなく、程度の差こそあれ、誰でもごく普通にしていることだろう。
しかし、より深刻な問題は、そうした情報を取捨選択したり歪みをとりのぞいたりして、「客観的な」あるいは「正しい」知識の体系を構築しようとしている研究者自身が、特定の世界観や価値観から、あるいは特定の意図から、自由ではありえないことである。ここには、主観を完全にはなれた「客観性」はそもそもありえないし、「正しさ」とは結局のところ「誰かにとっての正しさ」でしかありえないのである。社会システム論にとって可能なことは、こうした制約が、研究者とその研究対象の両方にかかっていることを自覚し、その内容(研究者や対象のもっている世界観や価値観、あるいは意図など)をできるかぎり具体的にあきらかにしていくことであろう。
といってみることは容易だが、これを実際に実行しようとすると、これがまことに難しいのである。たとえば、近年、西欧の近代科学のパラダイムをささえてきたといわれるデカルト的な世界観とそれに立脚した科学方法論への反省がおこっている。主観と客観、あるいは主体と客体を峻別するものの見方、あるいはそもそも「あれかこれか」の二値論理的あるいは二項対立的なものの見方が、根本的に「誤って」いて、それが今日の地球環境の危機をまねいたのだともいわれる。あるいはそうかもしれないと私もおもう。しかし、それならば、「主観と客観」を区別しないものの見方とは、どんなものの見方なのか。「二値論理」がいけないなら、「三値論理」ならいいのか、あるいは、そもそも相互に区別しうる値をかんがえること自体がいけないのか、となると話ははっきりしなくなる。つまり、デカルト主義の批判者たちは、現在のところデカルト主義のものの見方を明らかにする点でも、それに対立する自分たちのものの見方を明らかにする点でも、充分に成功しているとはいいがたいようにおもわれる。
それにつけてもおもいだされるのは、昔、経済学で、「静学」にたいする「動学」の構築の必要が声高に主張され、これこそが真の「動学」だというアイデアがいろいろと提出されたのだが、なかなか決定的な答えはえられなかったころの話である。当時、この論議を学説史的にフォローしたマークルップは、結局、もっとも多数の人が賛成する「動学」の定義とは、「私の理論こそが動学で、あなたの理論は静学だ」というものでしかない、と結論したことがあるが、今日のデカルト主義批判にも、いささかそれに似たものを感ずるのは私だけだろうか。(そもそもデカルト主義と反デカルト主義を二項対立させるというかんがえかた自体、デカルト主義的なのではないだろうか。)
ということで、少なくとも私は、社会システムの基本的な構成要素として「主体」をおく、という立場をいまだにとりつづけている。その場合の主体とは、人間(とりわけ近代人)のモデルであって、「情報処理=認識、評価、決定」機能と「物理的作用」機能の複合体であって、自分自身をも含む世界の状態を認識し評価したうえで、世界の一部としての客体に関して、なんらかの目標状態を設定し、適切な手段を適切に使用することによって客体に働きかけ、目標の実現をはかるような存在である(次図参照)。
ただし、「主体」という概念を人間のモデルとして採用するとしても、それを現実に適用した場合に、ある主体の境界をどこに設定すべきかは、議論の余地が残る。各人の精神や肉体は当該主体の内部に属するというかんがえかたは、一見当然のようにみえるが、それは生体としての人間の話であって、主体としての人間にも妥当するといいきれるのだろうか。他方、主体が使用する自分の肉体以外の手段は、主体の外部に属するものなのだろうか。場合によっては切断も可能な手足、移植された他人の臓器、義手や義足、自分の一部のように愛用しているテニスのラケットやゴルフのクラブ、毎日乗り回す「愛車」等々の手段の拡がりをかんがえると、主体とその外部との間の境界線は、かならずしも自明にはひけない。さらに、主体概念の妥当する対象を、個人から集団にまで拡張した場合には、むしろ法律的な権利義務関係などを根拠にして、当該主体の境界をかんがえる方が、より適切だとおもわれてくる。あるいは、生体がその自他分節を生物学的な意味でみずからおこなっているように、主体はその自他分節を社会システム論的な意味でみずからおこなっているというべきかもしれない。
つぎに、社会システムのレベルに目をうつしてみよう。生物学では、生物の種(個体群)や個体の形質や行動の特性(いわゆる「表現型」)の発生や存続を、その「遺伝子型」と「環境因子」とによって説明しようとする。「遺伝子型」については、それを担う遺伝子の存在が確認され、それに担われている「遺伝情報」の解読に多大の努力が払われている。「環境因子」についても、さまざまな形でそれを構成する個々の因子の同定(たとえば、年間平均気温だとか、降雨量のような)が試みられ、着実な成果があがっている。生物学の関心の対象が、個体から個体群へ、さらには群集からエコシステムへと拡大していっていることを別にすれば、そこには方法論上の困難はとくになさそうである。
これに対し、社会システム論の課題は、生物の表現型にあたる社会システムの「機能や構造」の特性を同定し説明することである。説明の因子としては、第一に、生物における「遺伝子型」にあたる、「文化子型」がかんがえられる。文化子型というのは、なかば (ほとんど?)無意識の学習を通じて世代から世代へと伝えられていく、基本的なものの見方、かんがえ方の原理 (つまり世界観や価値観) 、行動原理、社会組織原理などである。たとえば、個人主義的な原理から特定の行動や制度が選択されるといった説明の枠組みがかんがえられる。第二の説明因子は、「環境因子」 (自然環境と社会環境の両方を含む) である。そして、環境の変化に対する適応とか所与の環境状態への合理的な対処といった説明の枠組みがかんがえられる。第三に、生物でいえば「事後的な自然選択」に対応する、主体としての「事前の自由意思による選択」という因子もかんがえられる (次図参照) 。
このように、社会システム論の説明の枠組みを、生物学の場合とほぼ同型のものとかんがえることは、それなりの理解可能性と妥当性をもつことのようにおもわれるものの、同時にそこには、おそらく生物学の場合とは違った、ほとんど方法論的ともいうべきいくつかの困難があることを認めざるをえない。
その第一は、自由意思によるいわば事前の選択とでもいうべき側面と、環境や文化の制約に対応して少なくとも結果的にはそれに事後的に規定されているように見える形でなされる選択との、区別の困難である。すくなくとも人間は、主観的には、みずからの行動を (たんなる習慣とか無意識による場合は別として) 自らの主体的な選択の結果として説明しようとするだろう。そこに嘘や誤解が含まれている可能性があるという問題はさておくとしても、どの部分が本当に「自由な」選択の結果であり、どの部分が環境や文化の制約に規定されてなされたいわば「やむをえない」選択の結果であるかを識別することは、どうすれば可能なのであろうか。
その第二は、文化的な要因 (文化子型) の同定の問題である。生物の遺伝子にあたる「文化子 meme 」が存在するとしたら、それはどこにどのような形で、いくつ、存在しているのだろうか。どうすれば、それが発見できるのだろうか。また、それはどのようにして人間やその集団の個体から個体に伝達されていくのだろうか。 (同定の困難は、程度の差こそあれ、環境、とりわけ社会環境要因についても存在する。)
その第三は、文化、環境、自由意思などのさまざまな要因が、どのように作用することによって、社会システムの具体的な構造や機能が生み出されているのかという、因果関係ないし産出関係の特定である。
これらの困難に対処することは、容易ではない。社会システム論の学問性を高めようとすれば、まずはこうした困難の存在を率直に認めて、それに正面から対処するための努力をはらう必要があるだろう。