1992年1月12日
公文俊平
山本七平という名前を私が初めて目にしたのは、ご多分に漏れず、『日本人とユダヤ人』を通じてだった。この本が出版されたころ、私はカナダの大学で教えていたのだが、評判を聞いて早速とり寄せて一読し、いっぺんにファンになってしまった。その翌年帰国してから、本多勝一氏との論争を興味深く読み、それをまとめた『日本教について』は、大学での演習のテキストにも使った。もっとも、私にはベンダサン氏が断然優勢だと思われたこの論争に、本多氏に軍配をあげる学生が少なくなかったのには驚いた記憶がある。
その後しだいに、ベンダサンとは山本さんその人に他ならないことに気づき、山本さんご自身の履歴書ともいうべき、1970年代半ばに発表された一連の陸軍体験記を、夢中になって読んだ。しかし、山本さんに直接お目にかかることができたのは、70年代の終りに発足した大平内閣の政策研究会を通じてだった。山本さんは、その中の「文化の時代」研究会の議長をお引受けになり、私もその研究会の一員に加えていただいたのである。そこで山本さんが座談の名手でもあることを知り、私はますます山本さんを敬愛するようになった。政策研究会に参加した面々は、後に研牛会という会を作って年一度集まることようになったが、山本さんはそのほとんどに出席され、二次会までつきあわれた。あの温顔をほころばせながら、どんな質問にも楽しそうに答えて下さり、談論風発つきることのないお姿は、いまでも瞼をはなれない。
山本さんからはずいぶんいろいろなことを教えていただいたが、中でも私にとってとりわけ有り難かったのは、故大平首相がかねがね提唱されていた「文化の時代」というコンセプトを基礎づけるためのヒントを頂戴したことである。それは、山本さんが雑誌『正論』に発表された「新鎖国の時代」で示された、近代日本の15年周期説とでもいうべき歴史解釈だった。私はそれを手掛かりにして、文化(反省)の時代、紛争(戦争・革命)の時代、政治(改革)の時代、経済(発展)の時代が、ほぼ15年おきに繰り返すという解釈を引き出すことができた。
もう一つは、日本の仲間集団は、自分たちの間での合意さえあれば、どんなことでも決めてよいと思いこんでいる、という山本さんの指摘である。これは、日本の政治文化の非常に重要な一面を突いていると思う。ただ残念なことに、私はそれが山本さんのどの本のどこにあったか、忘れてしまった。そこで、一度ご自身に直接おたずねしてみたのだが、「さあ、どこでしたかなあ」と頼りなげであった。あれだけ博覧強記の山本さんでも、ご自身のこととなると違うのかなあ、と思ったことである。
山本日本学の集大成とされる『日本人とは何か』は、刺激に満ち満ちた著作である。私は、山本さんがここに到る過程で、現代文化論(帝国陸軍論や『空気の研究」など)から出発して、70年代の終りには徳川時代に戻り(『勤勉の哲学』など)、そして80年代には鎌倉時代からさらにその以前へと、丹念でエネルギッシュな作業を重ねながら、さかのぼって行かれる姿を、瞠目する思いで見ていた。というのは、私は、村上泰亮さんや佐藤誠三郎さんといっしょに、70年代の半ばから後半にかけて試みた共同研究(『文明としてのイエ社会』)で、日本の歴史を、ウジ社会からイエ社会への交代の過程だと解釈して、ウジ社会の「律令化」をイエ社会の「近代化」に対置していたからである。だから、正三や梅岩の「勤勉の哲学」を検討し終わった山本さんが、続いて貞永式目の研究に踏みこんでいかれた時、「おっ、おやりになりましたね」と、とても頼もしい思いがしたことだった。また、『日本人とは何か』が、『大勢三転考』を日本史の基本モデルとして採用したを見て、あらためて膝を打ちたくなった。というのも実は、私たちがイエ社会論の立場をとるようになった一つのきっかけも、佐藤誠三郎さんがこの伊達千広の議論を紹介してくれたことにあったからである。
『日本人とは何か』は、明治維新の出発点をエピローグとして終わっている。山本さんが、せめてもう十年お元気で、さらに明治から未来にわたる近代日本の歴史の展開についても、書き継いで行かれたらどんなにかよかったのに、と残念でならない。