1992年4月00日
公文俊平
人工現実 (アーティフィシャル・リアリティーAR)ということばが、仮想現実(ヴァーチュアル・リアリティVR)と並んで、現代の重要なキーワードになりつつある。しかし、そのことばが意味するものは、使う人によってさまざまである。 (中略) それにもかかわらず、それらが現代人にとって黙殺できないのは、いままでのように、受身で文明の流れに浸っていられる時代は去ろうとしている。すべての人がこのアーティフィシャル・リアリティ的未来に対して、リスポンス(応答)すべき役割を期待されているのである。坂根巌夫 (クルーガー91: V)
近年、コンピューター技術の世界で台風の目のような魔力をもって人々の関心をひきつけているものに、 "バーチャル・リアリティ" がある。私が最初にそれに出会ったのは、1990年の春、大分で開かれたネットワーカー達の会議の席上であった。基調講演者としてアメリカからやってきたハワード・ラインゴールドが、バーチャル・リアリティを主題とした話をして、聴衆を熱狂させたのである。しかし、ハワードの説明をきいても、 "バーチャル・リアリティ" とはなんであり、どのような社会的インパクトをもつものなのか、もう一つよく理解できなかった。強い興味をかきたてられながら、しかし首をひねりひねり、私は当時滞在していたシアトルのワシントン大学にもどった。たまたまハワードから、このワシントン大学に、「ヒューマン・インターフェース・テクノロジー・ラボラトリー」が設立され、そこでの研究開発プロジェクトの目玉の一つとして、このバーチャル・リアリティの技術が取りあげられようとしていることをきいていたので、私はさっそくこのラボをたずね、ボブ・ジェイコブスンやウィリアム・ブリッケンらの話をきき、いろいろと討論した。そうこうしているうちに、この技術がもっている極めて大きな可能性が、ぼんやりと見えてくるような気がしはじめた。
その翌年、服部桂が、『人工現実感の世界。What's Virtual Reality ?』 (服部91) を出版してこの新しい技術の現状を日本の読者に紹介した。同じころ、ラインゴールドは、『バーチャル・リアリティ』という題の本 (Rheingold91)を出版した。『アーティフィシャル・リアリティ』という表題のマイロン・クルーガーの本−−初版は1983年に出ていたそうだが、私は寡聞にして知らなかった−−も、改訂第二版 (Krueger91,クルーガー91) が出版された。本稿では、主にそれらの書物から触発された私のリスポンスをのべてみたい。
T. バーチャル・リアリティの諸側面
バーチャル・リアリティにかかわる技術はいくつかの顔をもっていて、そのどれに注目するかによって、見えてくるものも違ってくる。
バーチャル・リアリティの一つの顔−−マイロン・クルーガーが自分の本の主題とみなした顔−−は、人間と人間のつくり出した人工物である機械 (コンピューター) との相互作用にかかわる高度な技術としてのそれである。コンピューターは、人間の行動を認識して、それに対する応答を人間が直接知覚できるさまざまな感覚刺激 (画像や音など) の生成という形でおこなう。人間はそれに応答して、さまざまな肉体的な動き (手や頭や目などの動き) をすることでコンピューターに働きかける。そうすると、コンピューターがまたそれに応じて新たな感覚刺激を発生させる。この意味でのバーチャル・リアリティは、人間とコンピューターのこのような相互作用を可能にする技術、およびそれが生みだした人間とコンピューターの間のインターフェースそのものなのである。
バーチャル・リアリティのもう一つの顔は、人間の観念のもっとも高度な表現の技術としての、あるいはその技術によって生みだされた表現それ自体としてのそれである。人間はこれまで、観念や表象を、身振りや表情や音声言語によって表現してきた。それから絵や文字を使うようになり、次にそれらを印刷するすべを知った。さらに、写真や動画の形で表現し、それらを電気的に伝送するすべを知った。さらに近年では、 "マルチメディア" や "視覚化" の技術がこれに加わりつつある。前者は、空間基盤のメディア (文書や絵) と時間基盤のメディア (音声や動画) を一体化する技術であり、後者はインターアクティブなグラフィックスあるいはイメージングの手法を用いて、複雑な構造をもつデータの集合から意味のある情報を抽出する技術である (ラッタ92) 。この意味でのバーチャル・リアリティは、人間 (とりわけ、コンピューターのプログラマーとしての人間) の観念に対して、人間の感覚器官にとって現実の事物と区別がつかないような "リアル" な表現の形をあたえる技術、つまり「想像の化身incarnation of imagination」(Krueger91:xvii)をつくる技術、およびその産物としての高度な表現そのものなのである。
バーチャル・リアリティの第三の顔は、人間にとって、現実の生活世界に匹敵するような、いやことによるとそれ以上の、現実感や刺激をうけながら、それと "直接" に相互作用することが可能な対象に満ちた世界を、創造する技術としてのそれである。にもかかわらず、そこに存在し活動しているかのごとくに感じられる対象は、物理的な意味での実在物ではまったくない。(1) いわゆる "三次元体感ゲーム" の世界は、現在の技術水準をもとにしてつくられたこの種の世界の一例である。この意味でのバーチャル・リアリティは、現実の生活世界での体験に匹敵するような、あるいはそれ以上に魅力的な体験を人間にさせてくれる新しい世界を創造する技術であり、それによって生みだされる新しい世界そのものだといえよう。
以下私は、上にみたバーチャル・リアリティの三つの意味ないし側面の、
U. 具身界と現実界
「具身としてのバーチャル・リアリティ」という言葉は、個別の具身をさす意味でつかうこともできれば、さまざまな具身からなる世界の全体をさす意味でもつかえるだろう。ここでは、単に「具身」という時は前者を意味すると約束し、後者の意味では「具身界」という言葉をつかうと約束しよう。そして、自然のあるいは人工の事物−−すなわち「実在」あるいは「実体」−−の存在する世界のことは、「現実界」とよぶことにしよう。
その場合には、ここでいう現実界と具身界との間の関係として、いくつかの異なった種類のものをかんがえてみることができる。
その第一は、具身界あるいはその中の具身が、現実界あるいはその中の実在の "モデル" 、とりわけ "シミュレーション・モデル" あるいは "シミュレーター" になっているという関係である。いわゆるフライト・シミュレーターと、実際の飛行機操縦との関係は、その典型である。あるいは、具身としての分子のモデルを作り、人間がその中にはいっていって、個々の "原子" をいじったり動かしたりしながら、分子の構造を研究したり、新しい分子の合成のヒントをえたりしようとするのも、それにあたるだろう。
その第二は、実在とそのモデルあるいは代理物としての具身が、情報的に連結しているケースであって、 "テレプレゼンス"(とか日本では "テレイグジステンス" ) とよばれているケースがそれにあたる (服部91:73, Krueger91:230, Rheingold91:154)。たとえば具身としての潜水艇に、現実の潜水艇からの情報が送られてきていて、その操縦者は実際は海中にはいないのに、あたかも自分が現実の潜水艇に乗っているのと同様に、周囲の情景を目にすることができる。また、具身としての潜水艇に何らかの操作をくわえれば、その情報が現実の潜水艇にもおくられて、後者も同じ動きをするのである。ここに、潜水艇ではなくて人間をおくことができるとすれば、 "テレセックス" すら可能になる "テレディルドニクス" の世界が出現する (Rheingold91:19,345) 。
その第三は、実在と具身とが情報的に連結しているばかりか、相互に重なりあっているケースであって、 "オーバーレイド・バーチャル・リアリティ" とよばれている (William Bricken の言葉) 。たとえば、工場の機械が故障すると、それに重なっている具身としての機械に表示される故障箇所を示す矢印だとか、機械内部の情景などが、現実の機械にダブってみえるのである。あるいは、現実の森の現実の木の上に、具身としての鳥がとまって歌をうたっている、といった状態もそれにあたる。
以上三つのケースは、いずれも、具身としてのバーチャル・リアリティが、人間が現実界の実在と相互作用するのを支援するための "メディア" として、もちいられているということができるだろう。これに対して、第四のケースとして、具身界がそれ自体として独立に "存在" していて、人間は−−個人的に、あるいは集団的に−−そのなかでもっぱら具身とのみ相互作用するという場合がかんがえられる。しかも、そのような相互作用は、人間が自分の肉体 (や感覚器官) をうごかすだけで発生する (ように感じられる) 。つまり、少なくとも人間の感覚あるいは生活意識にとっては、人間はいまや、なんら特別な "メディア" あるいは道具を媒介させないで、いわば "直接に" 具身界のなかのさまざまな対象と相互作用することができるのである。(2) いってみれば、具身界がそのものとして自己完結し、人間はその中で、いってみれば "生の現実" ならぬ "生の具身" と、 "裸で" 接することになるわけである。
もちろん、そうした自己完結性には、原理的に新しいものがあるわけではない。少なからぬ人々は、昔から、空想あるいは白昼夢の世界にあそんで我をわすれてきた。あるいは観念の表現である、書物やレコードやビデオの世界に没入して、現実界と没交渉になりがちであった。ただし、それはあくまでも極端なケースであり、それに比べると、人間の生活の中で現実界での生活の占める比重は、あまりにも大きかった。それに対し、現在−−今すぐにではないにしても、今後の実際的な可能性として−−生じつつあるのは、第一に、そのような空想的世界のもつ "現実感" の圧倒的な増大である。第二に、恐らくはその帰結としての、人間の生活の中で具身界での生活の占める比重の格段の増大であり、場合によっては現実界での生活の比重との逆転である。そうした可能性を開いたのが、バーチャル・リアリティの技術、とりわけ具身としてのバーチャル・リアリティの技術に他ならない。
それでは、この新しい可能性は、今後の人間の生活にとってどんな含意をもっているだろうか。それをかんがえていく手掛かりとして、人間の本性とでもいうべきものについて、あらためて反省してみよう。
V.人間・メディア・環境
科学史家の伊東俊太郎は、「人類がまさしく人類となった転回点」に生じた "人類革命" の内容として、1)手の使用から生じた道具の製作と使用と、2)集団行動のなかで生じた言語の使用、の二つをあげている (伊東88:66)。
この指摘をヒントとして、次のことがいえそうだ。
第一。人間は、自分自身がその一部である現実界のなかで、その環境 (現実環境) との間に相互作用をいとなんでいるのだが、そのさいに、 "道具" に代表されるなんらかの "メディア" (媒介物) をつかっている。そのようなメディアは、何もいわゆる道具だけにかぎられない。人間は裸でなく、衣服を着てくらしている。屋敷地に建物をたてて、その中にさまざまな家具と共にすんでいる。農地を開墾して、植物を栽培している。生物をたべるのではなく、調理されたものをたべている。そうした、衣服や家屋、家具、農地、栽培植物、調理された食品などはすべて、人間と環境との相互作用のメディアだということができる。それらを、「人工物」と総称しよう。そして、人間が人工物をもちいて環境と相互作用している場というか "インターフェース" のことは、「人工界」とよんでみよう。さらに、人工界とは概念的に区別しうる現実環境のことを「自然界」とよぶことにしよう。また、それ自身が現実界の一部であって、人工物の使用にたずさわっている人間の一面のことは、「肉体としての人間」、あるいは単に「肉体」とよんでみることができよう。そうすると、「肉体」は、「人工界」で、「人工物」をつかって、「自然界」との相互作用をいとなんでいる、という言い方が可能になる (下図参照) 。
現実界の三層構造 自然界 人工界 肉 体
現実界の中での人間のこのような在りかたに関しては、次の二つの問題が注目に値するだろう。
まず、自然界と人工界との間の、あるいは人工界と肉体との間の、境界をどこまで明確にひけるかという問題がある。少し反省してみればわかるように、これらの境界区分は、理論的には明確であっても、実際的には曖昧なものを多くのこしている。たとえば、人工の道と "けもの道" との区別はしばしば曖昧であろう。石器と石の破片も区別に苦しむ場合があるし、放棄された農地や都市を人工界に入れるべきか自然界に入れるべきかと問われても、容易には答えられないだろう。他方、義歯や義手はまだしも、心臓に埋めこまれたペースメーカーとか各種の人工臓器を肉体と区別することは、 "サイボーグ" 技術が発達するにつれて、次第に困難になっていくのではないだろうか。移植された "他人の" 臓器とか、ホルモン剤や血圧降下剤などを常用している "自分の" 肉体なども、その所属に曖昧なところがのこる。とはいえ、少なくとも "遠景" としてみるかぎり、自然界と人工界と肉体の区別は明瞭である。そして、他の生物とは異なる人間の特質の一つとして、自然界との間のインターフェースやメディアに依存する度合いの大きさをあげることには、強い異論はでないだろう。
また、より実際的な問題としては、人間がその肉体と外部の自然界との間に人工界を介在させることの "コスト" の問題がある。なるほど、人間は、多種多様な人工物にかこまれることによって、その生活をより快適で安全で確実で安定したものにすることが、すくなくともある程度までは、可能である。つまり、メディアとしての人工物は、人間の生活にとって環境の厳しさを和らげるための一種の緩衝装置として作用してくれる有り難くも便利な存在である。しかし、それにはそれなりのコストがかかる。人工界を維持したり拡大したりするためには、自然界から "負のエントロピー" をとりこむことが不可欠である。つまり、自然から有用な物質やエネルギーを取りいれ、無用な物質やエネルギーを廃棄しなければならない。それがが度をこしてしまえば、自然界の秩序が破壊されてしまうだろう。そのような自然破壊は過去にも見られた−−森林の破壊など−−が、今日ではその脅威は格段に大きくなっている。まことに逆説的なことではあるが、肥大しすぎた人工界は、人間の生活の質の改善に貢献するどころか、自然の破壊を通じて、人間生活そのものの破壊をももたらしかねないのである。また、人工界の構築が、肉体におよぼす負の影響もかんがえられる。飽食や運動不足は、肥満や成人病のもとだが、それ以外にも、柔らかい食物ばかりたべて歯の発育が不全になるとか、エアコンのある暮らしになれて、温度の変化への調節力が弱まり、風邪をひきやすくなるとか、さまざまの問題が指摘されている。あまりにも快適で恒常的な環境を人工的に作りだせば、それに慣れた肉体は、環境変化への適応力を失ってしまうのである。われわれは、このような自然破壊の危険や肉体の脆弱化の危険に、どう対処すればよいのだろうか。
第二。次に、伊東の指摘している "人類革命" のもう一つの側面、すなわち言語の使用という側面をかんがえてみよう。人間は、肉体的な存在としての側面に加えて、 "精神的" な存在ともいうべき側面をもっている。精神的な存在としての人間は、その環境(情報環境)との間に、情報の授受という意味での情報的相互作用をいとなんでいる。いわゆる "言語" とは、人間がその精神の中にもっている観念あるいは表象を、対自的に反省して、あるいは対他的に外部化して「表現」したものにほかならない。もっとも、その意味での「表現」は、狭い意味での音声言語にかぎらず、すでにのべたように、みぶりや表情や音声から、文字や絵、さらに印刷物や放送など、広い範囲にわたっている。だから、ここでは、 "言語" よりもより広義の、「表現」という用語を使うことにしよう。そうすると、精神的な存在としての人間、つまり「精神」は、その「情報環境」(つまり、情報の源泉や受け手として機能する現実界内の事物のあつまり)との間に、さまざまな「表現を」メディアとして、情報的に相互作用しあっているという言い方が可能になるだろう。そして、精神と情報環境との間の情報的相互作用を媒介する表現の存在する場のことは、「表現界」とよび、以上三者を合わせて「情報界」と総称しておこう(下図参照)。
情報界の三層構造 情報 環境 表現界 精 神
ここでいう情報界についても、さきに現実界について指摘したのと同様な、理論的および実際的な問題が存在するようにおもわれる。
まず、境界問題について考えてみよう。ある個人(個別の精神)にとっての情報環境には、他の人間が生みだした表現がすでにふくまれている可能性がある。また、もともとは自分自身の生みだした表現であっても、それが自分の手をはなれて情報環境に受けいれられ、そこで定着・流通しているという場合も、いくらでもありえよう。他方、自分自身の観念の対自化された表現や、もともとは他人のものであった表現の借用されたものなどをもちいて情報処理活動をおこなうことに慣れた精神にとっては、まだ表現されていない観念とすでに表現されている観念との区別は、しばしば曖昧になってしまいそうだ。その意味では、情報界の三つの構成部分の間の境界の区分は、理論的にはともかく実際的には容易ではないだろう。しかしここでもまた、個人というよりは集団、それも比較的大きな集団を単位としてかんがえるならば、そこでの境界区分は、少なくとも大づかみにみる限り、かなりはっきりしているといえるのではないだろうか。
それでは、精神が情報環境との情報的相互作用を、表現をメディアとしていとなむことの "コスト" はなんだろうか。表現をメディアとしているということの意味は、精神がその環境と相互作用する場合に、かならず何らかの既成の表現、すなわち、解釈・概念・理論・評価といったものに、たよらざるをえないということである。実際、人間は、世界を直接にではなく、物語や詩をとおして、宗教やイデオロギーの教えをとおして、社会科学の理論をとおして、間接的に見聞し経験しているのである。もちろん、そのおかげで、世界やその中での生活に、意味や価値を付与することができる。しかし、そのための手段として人間が作りだし維持している表現の世界は、現実の事物の世界に対して、あるいは事物の世界の中でいとなまれる人間の生活に対して、本当のところどこまで良く適合しているのだろうか。ことによると、そうした解釈は多分常に何ほどかの "無理" ないし "ずれ" を、解釈の対象との間にもたざるをえないのではないだろうか。いや、それどころか、人間の精神生活は“迷信”だらけであり、より高度なはずの宗教や科学も、その実体は“より壮大な虚構”にすぎないのではなかろうか。そこまでシニカルな見方はとらないとしても、実在の世界とは、どうしてもある程度乖離した、その意味で“歪んだ”もの、“不適合な”ものにならざるをえない表現をメディアとしていとなまれている人間の精神生活は、人間の精神を荒廃させ狂わせてしまうという副作用を、ある程度もたざるをえないのではないだろうか。そして、それをカバーしようとすれば、精神は絶えず新たな "心的エネルギー" とでもいうべきものを既成の表現に追加することで、表現の質の改善をはかっていかなければならないだろう。あるいは、有用でないとわかった表現を引きとって "分解" してやらなければならないだろう。比喩的にいえば、精神は、表現界にとっての一種の "負の心的エントロピー" とでもいうべきものの源泉であり続けなければならないだろう。ということは、これまた比喩的にいえば、表現活動が度を越せば、精神の秩序は回復不能な打撃をうけて破壊される危険があることになる。あるいは、別の面から比喩的にいえば、ある既成の解釈に満足しすぎた精神は、安逸に堕して、環境変化への適応力を失ってしまう恐れがある。つまり、堕落した精神は、既成の理論では説明できないような大きな環境変化が生じた時に、どうそれを説明してよいかわからなくなって機能を停止してしまう恐れがある。
第三。次に、精神と肉体の、あるいは現実界と情報界との相互関係についてかんがえてみよう。ここでは、唯物論か観念論か、あるいは精神と肉体のどちらがより根源的かといった、古来からの形而上学的論争には立ちいらないで、よりプラグマティックな観点から、両者の相互関係をかんがえてみる。
そうすると、すぐみてとれることは、情報界は現実界によって "担われて" いる、あるいはより特殊的にいえば、表現界は人工界によってささえられているという事実である。みぶりという表現にとっては、肉体の運動が不可欠である。音声は声帯を振動させなければ出てこない。文字や絵をかくには紙や筆が必要だし、さらにより高度な表現のためには、印刷機や放送施設、受像機やコンピューターなどといった人工物が不可欠となる。
しかし、他方では、現実界は情報界によって "形づくられて" いる、あるいはより特殊的にいえば、人工界は表現界によって設計されているという事実も否定できない。人工物、なかでも人間が製造する各種の財は、人間の観念の表現としての "設計図" にしたがって製造され、人間が観念的に設定した目標にしたがってうごかされているのである。
そうだとすれば、上の二つの関係をあわせて、下図にしめすような立体的な三層構造を、自然・情報環境に囲まれた人間とその二種類のメディア、つまり表現と人工物、との間に想定してみることができるだろう。
人間 ・ 表現 ・ 人工物
自 然・情 報 環 境
W.ニューメディアとしての具身
これまでは、人間にとっての生活世界を、一方では「現実界」と「情報界」とに分けてきた。「現実界」は、英語でいえば“real world" とか“real space”とよぶことができるだろう。これに対して、「情報界」には、“information world"とか“information space ”といった言葉をあてることができそうだ。(3) また他方では、人間は、現実界での「人工物」と情報界での「表現」をメディアとして、その環境との関わりをむすんでいるとかんがえてきた。その場合の「人工物」は、英語でいえば“artifacts"あるいは"artificialities" にあたるし、「表現」は、"expressions" でよいだろう。
ところが、近年、ある根源的な意味で“ニューメディア”とよぶにふさわしい、新しい種類の対象が、人間にとっての生活世界に付けくわわりつつあるとみなさざるをえない状況が出現してきた。それが、上述のバーチャル・リアリティに他ならない。あるいは、バーチャル・リアリティがもつさまざまな性質の中のある側面が、それに他ならない。より具体的にいえば、先にみた、「具身としてのバーチャル・リアリティ」の四つの種類のうち、最初の三つ (シミュレーター、テレプレゼンス、オーバーレイド・バーチャル・リアリティ) がそれである。これらはいずれも、人間とその環境との間に介在して、人間による環境の理解や操作を支援してくれる新しいメディアなのである。そこで、それらを「ニューメディアとしてのバーチャル・リアリティ」と総称しておこう。
それでは、それらは、メディアとしては「人工物」に属するのだろうか。それとも「表現」に属するのだろうか。なかなかどちらとも言いにくいところがある。
まず、「ニューメディアとしてのバーチャル・リアリティ」は、コンピューターと人間との間のインターフェース、それも人工的に作られたインターフェースという意味では、コンピューターその他のハードウエアのメーカーやオペレーターにとっては、人工物、それも極めて高度の人工物だといってよさそうである。しかし、そのインターフェースにおいてそこに表れてきて、そのユーザーにとってのメディアとして作用しているものは、音や映像の組みあわさった表現、それも極めて高度の表現であって、それ自体は、その形を支えている人工物とは異なっている。そのことは、少なくともそれをデザインしたソフトウエアのプログラマーにとっては、自明のことである。その意味では、人工物としてのコンピューターやソフトウエアは、他の表現の場合と同様、表現の一種としてのバーチャル・リアリティを支える人工物にすぎない。
しかしながら、「ニューメディアとしてのバーチャル・リアリティ」は、そのユーザー (の感覚器官) にとっては、他の人工物と同様な、いや場合によってはそれ以上の、実在感をあたえる何物かである。しかし、だからといってそれが実在そのものではないことは、ハードウエアのメーカーやオペレーター、あるいはソフトウエアのプログラマーにとっては、自明のことである。もっとも、充分な実在感をあたえるものは、すなわち実在であって、その意味では、この高度な表現は、同時に人工物としての実在性をも獲得したのだという言い方も、まったくできなくはないだろう。
これらの論点を合わせてかんがえるならば、「ニューメディアとしてのバーチャル・リアリティ」が「表現」なのか「人工物」なのかという二者択一的問いを立てること自体が、大して意味のないことだといわざるをえない。むしろ、それは文字通りの "ニューメディア" としてあつかって、第三の範疇にいれてやる方がよいのではあるまいか。
それでは、この第三の範疇は、何と命名するのが適切だろうか。これまでのところ、この "ニューメディア" に対しては、“アーティフィシャル・リアリティ(artificial reality, 人工現実) ”あるいは“バーチャル・リアリティ(virtual reality, 仮想現実) ”などといった名称が提案されている。前者は、マイロン・クルーガーが1970年代の半ばにいち早くあたえた名称(Krueger91:xiii)であり、後者はVPL 社のジャロン・レーニエが1989年に提唱した言葉である (Krueger91:xiii, Rheingold91:16) 。日本語では、この他、 "人工現実感" という言い方ももちいられている (服部91) 。
しかし、これらの名称にはそれぞれ難点がある。まず、この新しい種類の対象の出現にいちはやく注目して、それらを "アーティフィシャル・リアリティ" という新しい範疇にいれようとしたマイロン・クルーガーの先見性は大きな賞賛に値する。とはいえ、この "アーティフィシャル" という形容詞は、英語でいえば“アーティフアクト artifact ”あるいは“アーティフィシャリティ artificiality”となるはずの、本来の意味での「人工物」と混同されてしまいかねない。「アーティフィシャル (人工的) 」な事物は、その意味では自然の事物と同じ程度に "リアル" な実在なのである。(4)
それでは、もう一つの "バーチャル・リアリティ" という言葉はどうであろうか。辞書によれば、“バーチャル”という形容詞の本来の意味は、「形あるいは名目は違っていても、機能あるいは実質においては同じ」ということである。だから、形としては、あるいは構造的には、コンピューターの外にあるハードディスクの一部であっても、機能としてはコンピューターの中のメモリー(RAM) と同じ効果を発揮する外部記憶装置が、 "バーチャル・メモリー" とよばれているのである。しかし、今ここで問題にしているたぐいの新しい種類の対象は、人間の感覚器官にとってのみ、あたかも通常の事物と同じように知覚されるものにすぎない。したがって、仮に見たところでは普通の食物と同様にみえるそれを "たべて" みたところで、現実に自分の体内に栄養が吸収されていきはしない。一見実物と同じようにみえる敵機を一見本物のミサイルのごとくにみえる武器をつかって打ちおとしたとおもっても、本当に敵機が打ちおとされているわけではない。つまり、ここでは、 "形" と "実質" との関係は、通常の "バーチャル" な機能をもつ事物の場合とは、まさに逆転しているのである。その意味では、この種の対象を "バーチャル・リアリティ" とよぶことは、はなはだ不適切だし、場合によっては危険きわまる、と私はかんがえざるをえない。(5) ただし、 "virtual"という単語には、もう一つの、光学の術語としての "虚像" という意味もある。鏡にうつっている像はこの "虚像" の一種であって、鏡の働きをしらない人鏡にうつっている自分の顔をみたら、自分とよく似た他人が−−いやことによると驚くべきことに自分自身が−−向こうから自分を見つめている、という印象を受けるだろう。つまり、鏡の中の像は、形の上では実物そっくりだが、実体や機能としては実物に代わりえない−−たとえばその像が結ばれている位置にフィルムをおいても感光しない−−のである。私は、 "バーチャル・リアリティ" という場合の "バーチャル" は、むしろこの第二の意味にあたるといいたくなるが、この言葉の提唱者であるレーニエ自身が、第一の意味にとっている (服部91:76)ので、何ともしかたがない。
そこで、“アーティフィシャル・リアリティ (人工現実) ”や“バーチャル・リアリティ (仮想現実) ”という言葉をつかわないことにするとすれば、この新しい種類の対象に対しては、どんな名称が適切だろうか。先に紹介した「人工現実感」という呼び名は、苦心の存するところをみとめるには吝かでないが、これではあくまでも "感覚" だけの問題になってしまって、そのような "現実感をあたえる対象" の呼び名にするにはやはり無理がのこる。もちろん、存在するのはあくまでも人間の感覚でしかないという立場は、とれなくはないだろう。しかし、私としてはやはり、ここに、これまではなかったような、ある新しい対象のクラスが出現しつつあるという立場をとってみたい。
そこで、もう一度議論の最初に立ちかえってみよう。最初に取り上げた "バーチャル・リアリティ" の三つの顔のうち、どれがもっとも本質的であろうか。私は、第二の顔、つまり、「表現としてのバーチャル・リアリティ」に注目したい。そして、 "バーチャル・リアリティ" を、人間の観念の表現形態の進化の頂点にたつものとしてとらえてみたい。すなわち、人間の精神の内に育まれた観念は、まず表象として対自化され、さらに記号 (音声や文字や画像) として表現され、最後に立体感や自律的な動きや触感や匂いまで付与されることによって、人間の感覚器官 (や感覚を処理する脳) にとっては、自然のあるいは人工の実在と識別しがたいような効果をおよぼすようになった (あるいは将来なろうとしている) というのが、ここで問題にしている新しい対象のクラスが共通にもつ属性なのである。そこで私としては、このような属性は、人間の観念の表現方式のある特定の方向にむかう進化の過程の中に発現してくるような属性だと解釈してみたい。そして、そのような進化過程のことを観念の「具象化過程」とよんでみたい。そして、この観念の具象化過程の頂点に出現してくる高度な表現のことを、とくに「具身」とよんでみたい。さきに、 "バーチャル・リアリティ" の第三の顔を「具身としてのバーチャル・リアリティ」と名づけておいたのは、こうした考慮を先取りしてのことであった。そうだとすれば、私の今の立場からすれば、わざわざ「具身としてのバーチャル・リアリティ」といわなくても、単に「具身」とよぶだけでたりることになる。(6)
以上の議論は、次のようにまとめてみることができそうだ。すなわち、「具身」は、「表現」および「人工物」にならぶ、人間のその環境への働きかけを媒介する第三のメディア (その意味での“ニューメディア”) である。さらにいえば、具身は、現実界の中の実在 (人工物と自然物とをともにふくむ) と、情報界の中の表現との中間に位置して、その両方の性質をある程度まで分有している、新しい種類の対象でもある。そのような新しい種類の対象の存在する世界部分に対しては、とりあえず「具身界」という名前をあたえておこう (下図参照) 。
三種のメディア 三つの世界部分 人工物 表 現 具 身 具身界 現実界 情報界
そのような観点にたって、あらためて過去をふりかえってみるならば、いわゆる“コンピューター”とその周辺機器の出現と発達の過程は、「観念の汎用具象化装置」の出現と発達の過程に他ならなかった、という解釈ができそうだ。いうまでもないが、これまでの正統的な解釈では、コンピューターは、情報界ではなくて現実界に存在する自然物や人工物のモデリングやシミュレーションを、あるいは人工物の設計(CAD)や製造(CAM,CIM)や使用を、支援するための装置だ、ともっぱらみなされてきたのである。あるいは、たかだかそれに加えて、人間の教育や学習を支援(CAI,CAL)したり、コミュニケーションを支援したり(CMC)協働行動を支援したり(CSCW)するための装置だともみなされてきたにすぎない。だが、コンピューターの主たる機能を、観念の、あるいは同じことだが人間が観念的に構想した“システム”の、汎用具象化装置そしてのそれにもとめることは、これまでの正統的なコンピューター観の一段の拡張を意味するだろう。いや、それどころか、従来のコンピューター観の大転換になるかもしれない。
X.新しい生活世界としての具身界
人間の表現技術がコンピューターに支援されて一段と発展したところに生まれてきた「具身界」が、人間とその環境とを媒介する "ニューメディア" となる可能性をもっていることは、以上の議論でほぼ明らかにできたとおもう。しかし、具身界が人間にとってもつ意味には、さらに深いものがありそうだ。
私は先に、これまでの人間が、人工物や表現のようなメディアを利用して、物質的に“豊か”になり、観念的に“賢く”なっていく過程で、その副作用として、自然を破壊し精神を荒廃させてきたのではないかとのべた。 "偉大な近代文明" の成長と発展の帰結は、未曾有の繁栄と背中あわせの、自然環境や社会環境の危機なのではないかという危惧の念を表明しておいた。
そうだとすれば、人間は、種の絶滅と環境の破壊を避けるためには、いったいどうすればよいのだろうか。“豊か”になり“賢く”なったのがいけなかったとすれば、“貧しく”て“愚か”な状態に戻るべきなのか。しかし、それは可能なのだろうか。よしんば不可能ではないにしても、真に望ましいことなのだろうか。
私の解釈では、人間にとっての第三のメディアとしての「具身」の出現は、人間生活にとっての“もう一つの未来”の可能性をひらいてくれた。いや、それどころか、人間が想像することのできるありとあらゆる異なった法則にしたがう、ありうべき "ありとあらゆる世界" 、 "ありとあらゆる社会" を「具身化」することによって、それを "実地に" 体験する可能性をひらいてくれた−−しかも、そのさいに自然の破壊や精神の荒廃を必ずしもともなわずにである。人間は、そのような体験を通じて、自分が "実在" しているこの現実界がいかに稀少で貴重なものであるかをあらためて生き生きと認識し、現実界との調和ある共生の道をさぐっていくことができるようになりはしないか。また、それによって、人間は、 "近代文明" を超える包括力と存続力とをもつ、 "情報文明" とでもよぶべき新たな文明を構築していくことが可能になるのではないだろうか。
どうしてそのような見通しがもてるのだろうか。なによりも、具身は実在としての人工物ではない。したがって、それをいくら製作、維持、使用しても、自然を破壊することはない。いや、ないとまで言いきるのは、言いすぎであろう。具身といえども表現の一種だという意味では、表現のための物的な手段やエネルギーを必要とする−−それも、文字や画像のような低次元の表現にくらべると格段に多くの物質やエネルギーを必要とする。しかし、それにしても、その場合に必要とされる物質やエネルギーの量は、通常の人工物の製作、維持、使用に必要とする量にくらべれば格段に少なくてすむだろう。
さらに、具身は、表現の一種ではあるにしても、他の多くの表現 (とりわけ記号) とは違って、それが対応する現実界の中の実在、つまりその "実在的意味" 、をもたない (あるいは、もたなくてすむ)。つまり、具身は、人間の観念の表現ではあるにせよ、それ自体としては、何か他の事物を指示するものである必要はない。いってみれば、それは、いわば自分自身をその "実在的意味" としているような対象たりうるのである。先に私が、具身界は一種の自己完結性をもっているといったのは、その意味でであった。したがって、人間は、たとえば具身界内の事物がしたがっている“法則”が、現実界のそれとは異なっているのではないかといったよけいな心配をしなくてもよい。具身界の中の“事物”つまり具身は、その設計・製作者が考えた法則に完全に忠実にしたがってうごく。具身の設計・製作者にとっては、自分がその不完全な“モデル”をつくるしかない“真の”対象なるものは、そもそも存在しないのである。彼は、その意味では、具身界の "創造者=神" であり、具身界に入っていく他の人々は、 "神" といつでも交流でき、究極の“真理”の啓示をうけることができる−−つまり具身の間の相互関係や、人間が具身に働きかける仕方やその場合の具身の応答の仕方についての“ルール”を正確におしえてもらうことができる−−のである。その意味で、具身界には“虚構”はない。したがって、虚構と現実との不適合が引きおこす精神の荒廃を恐れる必要もない。いいかえれば、具身界にすむひとびとは、自分の“信仰”の“正しさ”について、自分の“神”の“存在”について、深刻な疑念をいだかずともすむのである。
ここまでくると、具身はすでに "メディア" を超越した存在になっている。あるいは、具身界を自己完結的なものとみなしてそこに生活する人間は、その彼方にあるかもしれない現実界のことは、何もかんがえる必要がない。しかも、具申と相互作用する人間は、少なくとも主観的には、そのさいに自分の肉体以外の何か特別な“メディア”を介在させているという意識をもたなくてすむ。つまり、視線をうごかしたり、手をうごかしたりするだけで、相手はそれに反応してくれる。※その意味での具身は、人間と直接に、つまりメディアの介在なしに、相互作用できる、一種の "究極の実在" とでもいうべきものになりおおせているわけである。
※もちろん、現在の技術水準のもとでは、具身と相互作用するためには、人間は特殊なゴーグルをかけたり、データグラブとよばれる手袋をつけたりしていなくてはならない。それから、いうまでもなく、コンピューターやその周辺装置のような道具は、具身との相互作用の支援装置として常に必要とされる。その意味では、コンピューターと具身との関係は、最初にみた“バーチャル・リアリティ”の第一の顔とコンピューターの関係と丁度逆転してしまうことになる。つまり、今や具身ではなしにコンピューターが、インターフェースの役割をつとめることになるのである。しかし、その場合のコンピューターやその周辺装置は、人間の視界や意識から“隠れた”存在となり、しかもそういうものとして人間の生活世界のいたるところに“遍在”しているようになっていくだろう。
そういうわけで、人間は、具身界で生活している限り、自然の破壊や精神の荒廃を、あまり心配しなくてすむ。しかし、いうまでもないが、この世界も完全ではありえない。具身界は、先にみたような意味では自己完結的であるにしても、それはけっして自立的な世界ではないからである。つまり、具身界は、現実界の中のさまざまな事物、とりわけ人工物 (コンピュータ、電力、通信装置等々) と、情報界の中のさまざま表現 (具身を動かすソフトウエア、具身を設計・製作するための理論等々) によって支えられて、はじめて存立しているのである。いいかえれば、具身界の単なる "享受者" (つまりその中で生活しようとする人々)はともかくとして、そうした享受者のために具身界を構築し運営する人々自身は、現実界や情報界と無縁でいることはできない。
それでは、具身界の純粋享受者、つまり、一生を具身界のなかだけで送る人間の存在はかんがえられるだろうか。それはやはり無理だろう。人間は、生命体の一種でもある以上、生命体として生きていくためには、現実界との物質・エネルギーの代謝が必要不可欠である。要するに、人間は、生きるためには、現実界にもはいっていって、そこで衣食住の必要をみたさなくてはならない。そして、具身は、定義上、衣食住の手段としてそれを現実界の中で使用することはできない。つまり、現実界の中で、それを身にまとったり、食料として食べたり、その中で眠ったりすることはできない。さらに、人間は、現実界の中で孤立して生活することは事実上不可能なので、集団生活、社会生活をもいとなまざるをえず、そのためには、表現を用いたコミュニケーションも必要不可欠となる。結局、具身界ができたところで、人間は現実界と相互作用するためのなんらかのメディアの使用から自由になるわけにはいかない。それどころかむしろ、具身を、そのためのすぐれたメディアとして利用するようになるだろう。
そうだとすれば、具身界の中での生活が主観的にいかに魅力的であり、客観的に、いかに自然破壊や精神荒廃の危険の少ないものであったとしても、それが、事物界および観念界での人間の生活のモードから、あまりにもかけはなれたものとなってしまってはならないだろう。少なくとも、具身界とそれ以外の世界とのあいだを行き来するさいに、生活のモードの転換に困難を感じたり、転換をわすれてしまったりするようでは困る。
実は、そのような危険は、先にも示唆したように、より原始的な表現の使用にさいしても生じていた。“論語読みの論語知らず”とか“世間知らずの学者”に対する嘲笑や批判は、はるか昔からあった。多くの親は、子供たちが小説やテレビに、あるいは劇画に夢中になって、実生活とのつながりをわすれてしまうことへの恐怖や危機感を、表明しつづけてきた。同様な危惧の念は、あまりにも快適で安全な人工物の世界に、人間が安住しすぎることにたいしても表明されてきた。(7)
確かに、具身界での生活に没入しすぎて、実生活への適応不全をおこしてしまう危険は、決して少なくないだろう。とりわけ、具身界での生活のモードやそれを律しているルールが、実生活のそれと著しく異なる場合は、その危険はさらに大きい。たとえば、“フライト・シミュレーター (操縦訓練装置) ”での飛行機の応答が、現実のものとは非常に異なっていて、乱暴な操縦をしても一向に墜落しないように作られていたとしよう。そのようなフライト・シミュレーターが現実の操縦士の訓練プログラムの中にまぎれこんでいたとしたら、危険きわまりない。しかし、かんがえてみれば、現在のコンピューター・ゲームの少なからぬものは、現実の社会生活とは大きく乖離した仕組みをその中に組みこんでいる。たとえば、あるゲームの中で“殺人”をおこなっても、そのゲームの中で逮捕されることはない。一度自分が“殺され”ても、何度かは“復活”できる。あるいは、それでもだめなら、最初にもどってやりなおすことができる等々。もしも、この種のゲームのプレヤーたちが、具身界での物事の仕組みが現実界での実生活にもそのまま妥当すると思いこんでしまえば、あるいは、実生活に戻ったときに、モードを切りかえることをわすれてしまったとしたら、これまた危険きわまりないことになるだろう。
しかし、だからといって、具身界での物事の仕組みが、常に、実生活のそれの厳密な模倣でなければならないと主張するのも、馬鹿馬鹿しすぎる。また、具身界にはいることは、常に実生活での不適応を増幅するときめてかかるのも、悲観的にすぎるだろう。具身界どのように設計するか、また具身界と現実界との関係をどう設定するかは、人間の自由であると同時に責任であり、その良識ある選択にゆだねられているはずのものだからである。
そのような "良識" のなかには、具身界での生活にさまざまなルールや罰則をもうけること、とりわけ、具身界への参入にあたっての詳細な資格規定や免許制度などをもうけることが、当然ふくまれてしかるべきだろう。たとえば、具身界の中のさまざまな領域を階層化して、それに対応した段級位制をもうけ、あるレベル以上の具身との相互作用は“有段者”にしか許さないといった決まりをつくるのである。あるいは、悪質なルール違反にたいしては、免許を剥奪したり停止したりしてもいい。さらに、具身界での行為と実生活での行為との間にある種の制限関係を設定したり、具身界でのある種の反則行為を実生活での違法行為と同様なものとみなして、実生活の中でそれを処罰するような法規を導入したりすることさえかんがえられるかもしれない。(8) また、それと並行して、実生活にもさまざまな制限を課することも、十分な考慮に値しよう。たとえば、かつてアメリカの生物学者ガレット・ハーディンが「荒野の経済学」という論文(9) で提唱したように、荒野の探検は特別な訓練を受け試験に合格した人だけに許すことにし、探検にさいしては、どのような危険に遭遇しようといっさいの救助活動はおこなわないようにするなどである。そのような工夫によって、いやもっと強くいえば、そのような工夫が充分かさねられた暁にはじめて、具身界の出現は、さきに私が若干の希望的観測を交えて予想したように、人間の生活世界を革命的に拡大し、人間が自然界やみずからの精神と調和をたもって共生していくことを可能にするものだという、積極的な評価をくだすことができるようになるだろう。そして具身界は、人間が未来の情報文明に踏みいるための表玄関の役割をはたすことになるだろう。逆に、もしそれができなければ、具身界の出現は、近代文明の混乱と崩壊に拍車をかけることになった出来事として、後悔と嫌悪の念をもって後世の歴史に記録されることになるだろう。
<注>
(1) だからこそ、バーチャル・リアリティは、実在する事物を制約しているとかんがえられる "物理法則" に、かならずしもしたがう必要はない。バーチャル・リアリティ相互間の、あるいはそれらと人間との相互作用が、どのような“法則”にしたがっておこなわれるかは、それがどうデザインされているかによる。いいかえれば、バーチャル・リアリティ (およびそれと相互作用しているかにみえる人間) は、現実界の物理法則と同じ法則にしたがうように作られることもできれば、まったく違った“法則”の支配下にあるかのように作られることもできるのである。その意味では、バーチャル・リアリティは、実在の単なるモデルとかシミュレーションという以上の、いわばそれ自身としての固有の存在の権利をもつとでもいいたくなるような対象である。
(2) そうはいっても、現在の技術水準のもとでは、人間は、文字通り裸で具身界に入っていくわけにはいかない。頭にゴーグルをかぶることではじめて具身が目にみえるようになり、手にデータグローブをつけることで、手の動きをコンピューターに感知させたり、具身の触感を感じたりすることがはじめて可能になる。しかし、それにもかかわらず、その場合に人間がいだく "裸" の実感は、たとえば潜水服に身を固めた人間が、不自由な手を操作して水中銃を発射する時の "隔靴掻痒" 感とは、天地の差があるものであろう。
(3) "information space"という言葉は、ラッタがつかっている(Latta92) 。また「情報界」というよりは「観念界 (imaginal space) 」という言葉をつかうこともかんがえられる。この“イマジナルimaginal”という耳新しい言葉は、この世界が単なる想像上(imaginary) のものという以上の、ある種の実在性をもっているという意味をこめて、リング(Ring89)が最初に使いだしたという。(Johnson- Lenz90, p.6 に、その指摘とリングからの引用がある。)
(4) もっとも "artificial" という英語には、「人工」という意味にくわえて、「まがいものの」とか「不自然な」という意味もある。 "バーチャル・リアリティ" という言葉を提唱したレーニエは、その語感をとらえて、「電話による会話は、電話というテクノロジーを使った "リアル" な会話であって "アーティフィシャル" な会話ではない」といってクルーガーを批判しているという (服部91:76-77) 。 ちなみにいえば、近年、 "バーチャル・リアリティ" とならんでもう一つの流行ともいいたいような注目をあつめているものに、 "アーティフィシャル・ライフ(人工生命)" があるが、この場合の "アーティフィシャル" は、どちらかというと「まがいもの」的な意味が強いようだ。あるいは、そういう意味の混入が許容されているようだ。たとえば、1987年の 9月には、米国ニューメキシコ州のロスアラモスで、“生命系のシミュレーションと合成”に関心をいだく研究者たちによる、世界最初の“人工生命ワークショップ”が開かれた。その記録を編集して出版したラングドンによれば、このワークショップの中で湧きあがってきたもっとも根本的なアイデアは、 「生きもののようなふるまい(lifelike behaviors)をする人工的なシステムは、それ自体研究に値する−−それが模倣している過程が、われわれのしっている生命の発達や機構になんらかの役割を演じているとおもわれようが、そうでなかろうが。そのようなシステムは、ありうべき生命に対するわれわれの理解の増大に役立ちうる。この地球上で進化した生命を、可能な生命というより大きな枠組みの中で見なおすことによって、われわれは真に一般的な生物学理論を導きだしはじめ、それにもとづいて、およそ生命あるもの−−それがどこにあろうと何でできていようと−−に関する普遍的な言明をおこなうことが可能になるかもしれないのだ」 (Langdon89:xvi) というものであったという。
(5) ただし、このような警告は、 "バーチャル・コミュニティ" という言葉に対しては必要がない。なぜならば、この言葉は、空間的には互いに遠くへだたっている複数の人間が、場合によっては時間的にもへだたっていながら、新しいコミュニケーションのメディアを利用することによって、濃密なコミュニケーションをおこなったり、協働行為をいとなんだりできるようになったために、事実上これまでの“コミュニティ”と同じ機能をはたせるようになっている状態をさしているからである。つまり、この場合には、形としては通常のコミュニティと大きく違っているのに、働きとしては通常のコミュニティと変わらないのだから、まさに "バーチャル" という形容詞の使用がぴったりくるのである。ちなみに、この“バーチャル・コミュニティ”という言葉は、“バーチャル・リアリティ”よりも一年ほど前に、ハワード・ラインゴールドによって、論文の表題としてもちいられている(Rheingold88) 。
(6) もちろん、「具象化」という漢語のこのような用法は、その本来の意味からははずれてしまうというか、本来の意味を局限しすぎた用法だということは私もみとめる。もともと「具象化」も「具体化」も、意味としては大差ないのである。しかし私としては、 「具体化」=観念に「人工物」としての "形と実体" とがあたえられること 「具象化」=観念に「表現」としての "形" があたえられること をそれぞれ意味する、というような使いわけをしてみたくてならない。つまり、「具体化」の「体」には、「人工物」の素材あるいは質料が、たとえば素粒子→原子→物質→物体→生命体→意識体といった進化経路の上をあゆむ "具体的進化" の系列の上のどこかのレベルのものだという意味をこめることができる、と解釈したい。(もちろん、この進化経路は、「自然界」にみられるものだけにかぎらない。人工物が実在の一部であるというゆえんは、人間には、この "具体的進化" の経路にいわばさまざまな "分岐" を付けくわえる能力があるためである。いいかえれば、人間は、自然に存在するのと同じ事物や自然には存在しない事物までも−−将来は生命体や意識体までも?−−「人工的に」作りだすことができるのである。) 同様に「具象化」の「象」には、「表現」や「具身」にあたえられる形は、観念表象→記号→具身という経路の上をあゆむ "具象的進化" の系列に属するものだという意味をこめることができる、と解釈したい。その上で、本文でものべたように、「具身化」は、この意味での「具象化」の最高の段階を意味する、と解釈したいのである。 ついでに、もしも英語でも"virtual" という言葉の使用を避ける (というか、 "virtual community"のようなケースにのみその使用を限定する) とすれば、これらの言葉をどう英訳すればよいかについても一言しておこう。一つの案として、 "感覚の" という意味の "sensory"や "感覚器官" という意味の "sensories"という単語をもとにして、 "sensorize"という言葉をつくり、これを「具象化」の意味にあてることにしてはどうだろう。その場合には、「具身」は、 "sensority"とでも訳せばよいことになりそうだ。そして、 "artificialize"は「具体化」の訳語としての意味に限定してしまうというのはどうだろうか。
(7) もっとも、だからといって、「自然にかえれ」とか、「社会に直接飛びこめ」などという教えが、常に有用だという保証はない。どんな“保守主義者”でも、まさか子供の自然教育を、採集や狩猟段階での人間生活を追体験させるところから始めよとまでは主張しないだろう。子供たちが兎狩りに熟達したり、石斧や弓を巧みに使いこなすようにしむけることは、もっぱら最新のコンピューターを使いこなすことばかり教えようとするのと、同じ程度に愚かなことではないだろうか。
(8) Howard Rheingoldの話では、現にアメリカの航空会社の中には、フライト・シミュレーターの使用後、ある一定時間は実機の操縦を禁止しているところがあるという。日本の場合は、全日空に問い合わせたところ、そのような規定はとくにないという返事であった。ただし、そうした配慮に意味があるのは、すでに操縦資格をもっているパイロットが再訓練のためにシミュレーターを使用する場合であろうが、その場合、シミュレーターを使用した直後に実機の操縦をおこなう可能性は、事実上ないそうである。
(9) Hardin69.