1992年7月02日
公文俊平
T.近代の歴史的役割はまだ終わっていない
このところ、世界についてのニュースは暗いものが多いなという印象を禁じえません。地球の総人口は、現在54億人にもなりましたが、依然として年2.5 % の率で増加を続けていて、増加率はむしろ加速気味だとさえいわれています。加速しないにしても、年2.5 % の増加率というのは、それがこのまま 850年続くと、人類全体の目方が地球よりも重くなってしまうような恐るべき率なのだそうです。(1) 人類は他方で、産業や生活の廃棄物によって地球環境を大々的に汚染しています。また地球の緑は、家畜の飼料や人間の燃料その他の原料として、消費され、破壊されています。近代化や産業化を急速に推進するための強力な手段とみなされていた社会主義体制は、ソ連革命後70年と少しで、あっけなく崩壊してしまいました。しかし、冷戦の勝利者となったはずの西側の諸国も、経済の停滞や社会的混乱など、さまざまな病理現象に苦しんでいます。冷戦の終焉は全面的な平和の到来を意味するかと思われたのもつかのま、ボスニアやソマリア、その他世界の各地で、民族や部族の間の流血の対立が息を吹き返しつつあります。今日の世界は、まさに "救命艇状況" (2) に直面してしまったのかもしれません。南の諸国の間には、近代文明に絶望して、より旧い文明の原理に立ち戻ることで、この厳しい状況に対処しようとする "原理主義" 的な運動も台頭しています。世紀末の世界が、ジェームズ・デビッドソンやウィリアム・リース=モッグが予想しているような、(3) はてしない混乱と停滞と紛争の続く、悲惨極まりない世界になる恐れは、決して小さくありません。
ところが、それとは異質の社会変化ももまた、今日の世界に進行しています。昨年の 6月に、私は神戸で開かれたインターネット協会の第一回国際大会、INET'92 、に参加したのですが、そこでは世界の70カ国から集まった600 人あまりの人々が、コンピューター・ネットワークの "指数的成長" とその社会的な含意について、情熱をこめて議論していました。1987年以来、年々倍増する勢いで伸びてきたこのインターネットは、昨年の夏ごろ、それまでは一部の研究者の利用に限られていたものが、より広範囲な教育関係者やビジネス関係者にもその利用範囲が拡がる方向へと質的な転換をとげました。(4) そして、今年の初めには、インターネットの普及度は、国にして約50ヶ国、接続されているネットワーク(LAN) の数にして約 1万、ホスト・コンピューターの数にして約 150万台、利用者の数にして 500万、というレベルに達したと推定されています。また、その基幹部分であるNSFNetの成長率はさらに加速して、一ヶ月あたり15% のトラフィック増という驚くべき伸びを示しているそうです。(5) この勢いが続いていくと、今世紀末までに、インターネットに接続しているホスト・コンピューターの数は一億のオーダーになり、ユーザーの数は十億のオーダーになるかもしれません。(6) イギリスの『エコノミスト』誌は、このような状況をサーベーした記事の中で、「いずれ万国のコンピューターが連結される日が来るだろう」と結論しています。(7)
一方におけるほとんど絶望的ともいいたくなるような社会の停滞状況と、他方における息をのみたくなるほど急速な社会の発展状況との間のこのようなコントラストには、まことに瞠目すべきものがあります。それは一体何を意味しているのでしょうか。
旧チェコスロバキアのバツラフ・ハベル(Vaclav Havel)元大統領は、昨年の二月にスイスのダボスで開かれた世界経済フォーラムの席上で、「共産主義の終焉は、全体としての近代の終焉をももたらしました」と述べました。(8) 近代文明は、専門に分化した客観的な科学技術知識を活用すれば、未来に向かっての無限の発展と繁栄が可能だという信念に立脚しています。近代文明は、いわゆる古典古代文明−−すなわち、究極的で統合的な真理は過去の黄金時代にすでに偉大な救世主や聖賢によって啓示あるいは発見されていて、時の経過は人類の衰退と堕落を意味するものでしかないという信念に立脚する文明−−とは、対極的な価値観にたっています。ハベル氏、この意味での近代文明の「極端な邪道」であった共産主義の体制が、外部の軍事力によってではなく、その中で生活してきた人々自身の反乱によって打倒されたことに、近代の終焉を見ているのです。彼は、もはや科学技術の進歩に問題の解決を期待することはできなくなったといい、次のように続けています。
何かもっと違ったもの、もっと大きなものが必要です。世界に対する人間の態度を、根本的に変えなければなりません。私たちが抱いている傲慢な信念、すなわち、世界とは解決されるべき問題にすぎないとか、やがて発見されるはずの取扱説明書つきの機械にすぎない、あるいは、それをコンピューターに入力すれば遅かれ早かれ普遍的な解決が吐き出されてくるような情報の塊にすぎない、といった信念は、捨て去られなければなりません。 ... 事物に対して、自らをあるがままに提示する機会、その個体性において認知される機会を、与えてやらなければなりません。私たちは、世界の多元性を見なければなりません。世界の公分母を探したり、万事を一本の共通な方程式に還元しようとしたりして、世界を縛ってはならないのです。説明することよりは理解することに力を注ぐべきです。前進は、普遍的なシステム解を構築してそれを現実に対して外から当てはめようとするところにだけ、あるのではありません。個人的な経験を通じて、現実の核心に迫ろうとするところにも、前進はあるのです。... (9)
告白しますと、私は、ハベル氏がこの演説で代弁している近代文明、なかんずく近代科学技術の批判の心情に、そしてまた、人類の知のパラダイムや生活のパラダイムの転換の要請に、少なからぬ共感を覚えます。しかし、それと同時に、少なからぬ不満をも覚えざるをえません。何よりも、共産主義は、本当に近代文明の一部だったのでしょうか。私にはむしろ、ソ連圏や中国で現実に採用された共産主義体制なるものは、古典古代文明に属している地域が、 "近代化" をうたい文句にしながら、その実体としては、権威主義的な古代文明帝国の復興をはかった試み、その意味で失敗することが運命づけられていた試み、だと思えてなりません。その限りでは、共産主義の崩壊は、フランシス・フクヤマ (Francis Fukuyama) なども指摘しているように、近代文明の終焉どころか、その勝利を意味するものでさえあるかもしれないのです。(10)
もちろん、だからといって近代文明に何の問題もないということにはなりません。むしろ、近代文明は、全地球的な規模でのその普及の可能性という面でも、その先進地域における成長の持続の可能性という面でも、ともにその発展の限界にさしかかっていることは、今や否定しようもありません。その意味では、私たちは、共産主義の崩壊を祝っているどころではないのです。私がハベル氏の近代文明批判に共感を覚えるのも、そのためなのです。発展志向型の近代文明は、遅かれ早かれ、存続志向型の別の文明に席をゆずらざるをえなくなるに違いありません。そうなった暁には、かつての古典古代文明に見られたように、科学技術をふくめた人類の知識の発展には、意図的・政策的な制限が課せられるようになるのではないでしょうか。
しかし、それまでにはまだかなりの時間があるように思います。先に指摘した通り、少なくともある一面においては、私たちは、近代文明の中になお残っている発展の余力が、旧に倍する勢いで激しく噴出しているその波に、あるいは乗り、あるいは翻弄されてもいるのです。私は、今日、次のような仮説を皆様に提示して、ご批判をいただきたいと思います。それは、二つの基本命題からなっています。
つまり、私にいわせれば、近代はまだまだ終わっていません。それどころか、ポスト・モダン文明への円滑な移行を首尾よく達成するためにも、近代文明を反省し乗り越えようとする努力と同時に、それをもう一段と発展させる努力が必要不可欠なのです。とりわけ近代文明の生みだした科学技術とそのさまざまな成果は、反省すべき方法論上の問題を残しているにせよ、ポスト・モダン文明にとっても欠かすことのできない要素として残るのではないでしょうか。私がハベル氏の演説に不満を覚えた最大の理由は、氏にはその点の認識が欠けていることでした。
U.近代化には三つの局面があって、今その第三局面が始まろうとしている
さて、紙幅の制約もありますので、この後の私の話は、上の第一命題の説明だけに限りたいと思います。すなわち、近代化の第三局面とはどのような局面であって、そこでの社会パラダイムの転換の内容どのようなものかという点について、私の考えをごくかいつまんでお話してみるにとどめたいと思います。
近代文明を支える価値観の一つに、 "手段的能動主義" (11)があります。近代社会を構成する個々の主体は、自分が望ましいとかんがえる目標を実現するために、さまざまな手段を使用して世界に働きかけます。そのような手段の中で、とりわけ有力なのは、他の主体です。いいかえれば、他の主体が行う行為や取る状態をいかに効果的に制御して、自分の目標の実現に役立たせるかが、それぞれの主体にとっての副次的な行為目標になるのです。他の主体の行為や状態の制御を目標とする行為、それが、もっとも広い意味での政治行為にほかなりません。
この意味での政治行為には、他主体の取るべき行為や状態を要求の形で明示し、要求の実現をめざして交渉を行いその結果として相手が当方の要求に従うことに合意させるという、いわば間接制御をめざすもの(交渉)と、とくに要求のようなことはしないで、より直接的に他主体の行為や状態を制御しようとするもの(操縦)との、二つの基本型があります。
前者、つまり交渉は、さらに、
近代化の最初の二つの局面では、そこで支配的となる政治行為の型の正統性を正当化するための権利観念の確立と、確立された権利の一定の範囲での制限の試みとがみられました。また、それぞれの政治行為のための手段の入手、蓄積、誇示を目標とする競争ゲームが出現しました。そして、ゲームの主要なプレヤーとなる主体や、ゲームの場となる社会システムが、ゲームのルールと共に形成されました。16世紀ごろに始まった近代化の第一局面でいえば、 "国家主権" を神聖視する "近代主権国家" が形成されて、一般的・抽象的な脅迫・強制力としての "国威" の増進と発揚をめざして、 "国際社会" という場で競争する "侵略戦争と外交" のゲーム、すなわち "威(プレスティッジ) のゲーム" が普及しました。国際法は、それぞれの国家の主権の確立と同時に、それを限定したり割譲したりするための、このゲームにとってのルールの体系でもありました。同様に、18世紀の終りに始まった近代化の第二の局面では、 "私有財産権" を神聖視する "近代産業企業" が形成されて、一般的・抽象的な取引・搾取力としての "富" の蓄積と誇示をめざして、 "世界市場" という場で競争する "生産と販売" のゲーム、すなわち "富(ウェルス)のゲーム" が普及しました。商法や民法は、それぞれの産業企業の財産権の確立と同時に、それを限定したり譲渡したりするための、このゲームにとってのルールの体系でもありました。
二十世紀も終りに近づいた今日では、紛争や戦争がなくなったわけではないにせよ、少なくとも侵略戦争を不正の戦争とみなすという見方は、国際社会では確立されています。つまり、 "威のゲーム" の社会的正統性はもはや決定的に失われてしまったといえるでしょう。 (しかし、だからこそ、現実の出来事としての、国家・民族・部族間の紛争は、ルールのない残酷なもの、始めも終わりもけじめのつかないもの、になる可能性が、かえって強くなっています。) 他方、 "富のゲーム" における競争的な利潤追求行動に対しても、さまざまな批判が加えられてはいますが、まだその社会的な正統性が完全に否定されるまでにはなっていません。 "富のゲーム" は、多少の変質をしながらも、21世紀になってもプレーされ続けることでしょう。また、かりに "富のゲーム" がプレーされなくなったからといって、財やサービスの生産・消費や取引といった、経済行為自体がなくなってしまうことはありえません。
V.近代の第三局面で智のゲームが普及するためには、三つの前提条件がある
さて、私のみるところでは、近代化はいま、その第三の局面を迎えようとしています。すなわち、国家主権でも私有財産権でもない、第三の権利としての "情報権" を神聖視する新しいタイプの社会的主体である "近代情報智業" が形成されて、一般的・抽象的な説得・誘導力としての "智" の獲得と発揮をめざして、 "地球智場" という場で競争する "研究と教育" のゲーム、すなわち "智(ウィズダム) のゲーム" が普及しようとしているのです。すなわち、いまや近代社会の歴史における二度目の社会パラダイムの転換が生じようとしているのです。もっともいまのところ、情報智業を初めとする情報社会のさまざまな構成員の情報権を確立させると同時に、それを限定したり通有したりするためのルールの体系 (情報権と情報法の体系) はまだ整備されていませんが、いずれはその制度化が進んでいくことでしょう。
ドイツの偉大な作家、ヘルマン・ヘッセは、1946年に発表されたノーベル文学賞受賞作、『ガラス玉ゲーム』の中で、24世紀ごろのヨーロッパから過去を振り返る形で、彼が "ガラス玉ゲーム" と呼んだ一種の "智のゲーム" が、20世紀の後半のヨーロッパに生まれて世界中に拡がり、やがて衰退していく姿を、豊かな想像力をもって描きだしています。私はより抽象的かつ理論的に、 "智のゲーム" の普及過程を "富のゲーム" との対比において考察してみたいとおもいます。
他の社会ゲームの場合と同様、智のゲームが本格的な社会ゲームとして成立し普及し始めるためには、三つの前提条件−−精神的覚醒と技術的突破とゲームのルールの制度化−−が満たされなければなりません。
まず、第一の前提である精神的覚醒としては、富のゲームの成立の前提となった、これまでの "近代的" な "自我" つまり、他者からは切断された "自律・自立した個人" の自覚にかわる、 "関係の中にありつつしかも関係から相対的に自立している自己" つまり、 "間柄につつまれた間人としての自己" の在りかたの自覚が、必要となるでしょう。(13)それは、アーサー・ケストラー(Arthur Koestler) 流にいえば "ホロン" としての自己の自覚(14)にあたり、ジョージ・ロッジ(George Lodge)の用語でいえば "コミュニタリアニズム" (15)の理念にあたるでしょう。あるいは、自分がさまざまな関係の集まりとしての "ネットワーク" のメンバーなのだという意識、自分と環境とは実は一体であり共生しているのだという意識、さらに広くは "地球意識" とか "宇宙意識" などとよばれるような意識の在りかたへの目覚め、などもそれにあたるといっていいでしょう。そのような新しい意識の出現は、アメリカの場合でいえば、1960年代半ば以降におこった "対抗文化(カウンターカルチャー)" 運動や "ネットワーキング" 運動の中に、明らかに見いだすことができます。(16)
いうまでもありませんが、このような自覚をもった個人や集団は、社会システムとしてのネットワークの構成メンバーとなるのには、たいそうふさわしいといえましょう。またとりわけ、智のゲームのプレヤーとしての智業の一員あるいは智業そのものとなるのに、たいそうふさわしいといえましょう。ただしここで、私が "社会システムとしてのネットワーク" と呼んでいるのは、メンバー相互間の情報や知識の通有と財やサービスの相互贈与、つまり "互酬" を主たる目的として形成され、その中での政治行為としては説得・誘導型のものが支配的な社会システムをさしています。説得は情報や知識の通有を基盤にして行われ、誘導は財やサービスの贈与を基盤にして行われるのです。社会システムとしてのネットワークには、それ自体が一個の組織、つまり "複合主体" として機能する "ネットワーク組織" と、そうではない "社会型ネットワーク" とでもいうべきものを区別できますが、ここでいう智業は、社会システムとしてはネットワーク組織にあたると考えてよいでしょう。
次に、第二の前提である智のゲームのための技術的突破としては、コンピューターに支援された情報処理・通信技術の発達と、それを具現した "情報インフラストラクチャー" (17)ともいうべきグローバルな情報処理・通信のための、コンピューターのネットワークのネットワーク、すなわち "インターネット" の構築をあげることができます。いわゆる "情報技術(IT)" の革命的発達(18)は、1970年代の後半以来進行している "第三次産業革命" の中核をなす、 "産業の情報化" および "情報の産業化" の推進のための技術的突破とみなされることが普通です。現に、たとえば昨年の暮に制定された米国の "1991年高性能コンピューティング法 (The High-Performance Computing Act of 1991)"は、米国の情報処理・通信技術を国の主導によって発展させることによって米国産業の国際競争力の強化をターゲットとする "産業政策" 立法、あるいは "新開発主義" 立法の体裁を、疑いもなくとっています。(19)
もちろんそれは間違ってはいないでしょう。しかし、私は、現在進行中の情報技術の突破には、それとならんで、近代化の第三局面にあたる智のゲームの前提をなす技術的突破としての意味をも、もっていることを強調したいのです。実際、さきの米国の法律との関連でいえば、今後のインターネットの中核となる役割をあたえられているのは、 "NREN (National Research and Education Network)" とよばれるコンピューター・ネットワークなのです。しかも、この法律の中には、NRENの構築には民間のコンピューター関連企業や通信関連企業が参加すべきことや、その利用者は学校や研究機関に限定されずひろく民間企業にも開放されることがうたわれています。そうしますと、立法者の主観的な意図は別として、客観的な解釈の可能性としていえば、このようなコンピューター・ネットワークが実際に果たす機能は、グローバルな智のゲームのための場、すなわち "智場" となったり、そのプレヤーとしての智業の作業場、すなわち "オフィス" となったりすることにある、あるいはより精確には、智場やオフィスのための "情報インフラストラクチャー" となることにある、といえるのではないでしょうか。現に、NRENの構築をめぐって、米国の民間団体であるEFF(Electronic Frontier Foundation, 電子フロンティアー協会) の創立者のミッチ・ケーパー(Mitchell Kapor)は、このネットワークは、中小企業や一般市民にも広く開放されるべきであり、その範囲も "ナショナル" からさらに "インターナショナル" なものになるべきだという主張を展開して、 "NPN (National Public Network)"あるいは "IPN (International Public Network"の理念をこれに対置しています。(20)
最後に、智のゲームの普及のための制度的前提条件は、新しい社会的な権利としての "情報権" を、主権や財産権に並ぶ、近代社会における社会的権利の第三の主要な範疇として確立すると同時に、それを部分的に制限するための法律的・制度的な仕組みが、グローバルに作られることです。実際、富のゲームの場合で考えてもおわかりのように、私有財産権が確立されないかぎり、商業や産業の発展は望めませんが、それがあまりにも絶対的に主張されすぎると、商業や産業の発達は、かえって阻害されてしまいます。たとえば "先祖伝来の土地" は我が家の神聖な財産だから、売ることはもちろん貸すこともいっさいしないという態度を取られた日には、土地の商業利用は事実上不可能になってしまうでしょう。企業家が、自分の生産する財やサービスを "商品" として "市場" に提供するということは、彼が、自分がそれに対してもっている財産権を、一定の条件のもとで−−たとえばその対価を支払ってもらうという条件のもとで−−いつでも譲渡する用意があるという意思を表明していることなのです。それと同じような意味で、智業家は、自分の創造する情報や知識を、 "通識" として、先にみた社会型の一種である "智場" に提供しようとします。つまり、彼は、自分がそれに対してもっている情報権を、一定の条件のもとで−−たとえばそのプライオリティを尊重してもらうという条件のもとで−−いつでも譲渡する用意があるという意思を表明するでしょう。
W. 智のゲームの基盤となる情報権は、財産権の一種ではない
財産権とは異なる種類の権利としての情報権は、次の三つの柱からなっていると考えられます。その第一は、各主体が情報処理を自律的に行う権利、すなわち情報自律権であり、またそこから派生する情報セキュリティ権、すなわち私の情報処理過程に他人が侵入・介入することを禁止する権利です。その第二は、各主体の情報処理過程で発見・創造された新たな情報や知識は当該主体に帰属すると主張する権利、すなわち情報帰属権であり、またそこから派生する情報プライオリティ権、すなわち私から情報の通有を許された他人がそれを私の許可なしに第三者に通有させるのを禁止する権利です。その第三は、各主体に関する情報や知識については、当該主体にその基本的な管理権があると主張する情報管理権であり、またそこから派生する情報プライバシー権、すなわち私に関する情報を私の許可なしに他人が処理することを禁止する権利です。
現在のところ、情報にかかわる権利・義務関係を律する社会的な仕組みは、 "プライバシー権" や "知る権利" などといったコンセプトを中心にして、次第に形作られつつあります。 (ただし、日本では立ち遅れが目立っています。) それと同時に、情報権の一部、とりわけ私が情報帰属/プライオリティー権とよんだものについては、それを富のゲームのもとでの権利観念である "財産権" の範疇に含まれる権利−− "知的財産権" −−として取りあつかおうとする動きも、アメリカを中心に目立っています。
しかし、情報帰属/優先権は、財産権の一形態として処理するには、いかにもなじみません。すでに多くの人が指摘しているとおり、情報や知識は譲渡することによっては必ずしもなくなりませんし、なくなりかねないたぐいの情報−−たとえば文書に記録されているだけで、だれもその内容を完全には記憶していないような情報−−であっても、その複製をとったり、複製を他人に伝達したりすることは、情報革命の技術的突破によって、極めて容易になっているからです。しかも、情報は一定の物理的形態をもったり、一定の空間を占有したりしている必要はないのですから、それが移動したり、その複製がとられたりしても、容易にはその事実を確認できません。つまり、情報は、その "財産権" が設定されたところで、その侵害を防止したり確認したりすることは、著しく困難なのです。
しかも、新しい情報の帰属権が誰に属するかを一義的に決定するのは、しばしば困難なことがあります。なぜならば、第一に、多少とも似たものの見方、考え方をもち、しかも互いに良く似通った環境の下におかれている別々の人が、同一の情報を、互いに独立に、しかもほぼ同時に、発見したり発明したりすることは、十分ありえるからです。第二に、私たちがグループの中で緊密なコミュニケーションや協働行為を行っている場合には、そこに生み出されたある一個の情報をグループの中の誰かある特定の個人に帰着させようとしても、ほとんど無意味だといわなければならないからです。私たちにできることは、たかだか、新しく獲得された一連の情報の帰属権者として、そのグループ自体を特定することに尽きるでしょう。
さらに決定的な難点は、情報の経済価値は、それを通有している主体の範囲に依存しがちだという事実です。私がある情報をあなたにシェアさせるさいに要求するその価格は、私やあなたがそれを第三者にシェアさせるかさせないかによって違ってきうるのです。ということは、第三者にはシェアさせないという約束でいったん情報の価格設定がなされ売買が行われたとしても、その後で私やあなたが約束違反をすれば、情報の価格が変わってしまうということを意味します。しかし、商品としていったん販売された情報について、それが販売された後でもとの販売価格を変更することは、事実上困難です。
そういった点を考慮に入れるならば、情報や知識の流通のシステムは、それを市場で売買するよりは、ネットワークでの互酬関係を通じてやりとりする方が、はるかに勝っています。互酬の関係の中では、相互の "貸し借り" の大きさは、それぞれが評価しあいそれが誘導の効果の尺度となるのですが、市場での取引の場合とは違って、評価の大きさが貸し手と借り手の間で相違していたり、また事情の変化に応じて時間的に変動したりしても、いっこうに差支えないのです。ですから、他人にはシェアさせないという約束で私が貴方に提供した情報を、貴方が約束を破って第三者にシェアさせたことがわかったら、それがわかった時点で、私の心の中に記憶されている貴方への貸しの大きさをふやせばいいのです。同様に、貴方もまた私に対する借りの大きさを増やさざるをえない心理的、社会的圧力を感じることでしょう。ネットワークでの互酬がもつこのような柔軟性が、市場よりもネットワークを、情報や知識の流通により適した社会システムにしているのです。
X. 富のゲームとの比較でみた、智のゲームの特徴
さて、以上の三つの前提条件が満足されたところでは、智のゲームの本格的な普及が始まるでしょう。富のゲームとの比較でいえば、智のゲームは、次のような特徴をもっています。富のゲームの場合、企業家は、個別的・具体的な財を工場で生産し、それを商品として市場で販売します。販売に成功すれば、彼の生産した個別的な財は、社会的な有用性をもっていたことが明らかになり、企業家は、その報酬としての "富" 、つまり抽象的・一般的な取引力が獲得できるのです。市場は、その意味では、企業家の活動の社会的有用性の評価の場でもあるのです。同様に、智のゲームのプレヤーとしての智業家は、個別的・具体的な情報や知識をオフィスで創造し、それを通識として智場で人々にシェアさせようとします。それに成功すれば、彼の提供した個別的な情報や知識は、社会的な価値、すなわち "真・善・美" としての価値、をもっていたことが明らかになり、智業家は、その報酬としての "智" 、つまり抽象的・一般的な説得力あるいは知的影響力が獲得できるのです。いいかえれば、いったん "智者" としての社会的信用をえた智業家の発言には、多くの人が喜んで耳を傾け、その言うところに従うようになるでしょう。
富のゲームの場合は、企業家の提供する商品を市場で購入するのは、他の企業家を別にすれば、 "家計" とよばれる主体です。企業家が商品の販売を通じての富の蓄積を目標にしているのに対し、家計は商品を購入し消費することによって、その "効用" の最大化をめざして行動します。少なくともそれが、標準的な経済学の想定する企業家や家計の行動です。これに対して、智のゲームの場合は、智業家の提供する通識を智場でシェアするのは、一種のネットワーク組織、とりわけネットワーク型のコミュニティになると予想されます。私は、そのような主としては情報的に連結された人々のコミュニティ、あるいはバーチャル・コミュニティのことを、 "コネクティブ" とよんではどうかと思っています。コネクティブあるいはそのメンバーたちが智場で情報や知識を入手する目的は、智業家のように智、つまり知的影響力を拡大することではなく、それらの情報や知識を活用して、みずからの生活をより意味のあるものにしていくことです。コネクティブのメンバーは、智業や企業が提供する情報や商品の吟味や評価を、協力して行ったり、お互の間に通有したりすることでしょう。近代化の第三局面では、伝統的なコミュニティや家族にかわって、このコネクティブが、最も基本的な社会集団として機能するようになるのではないか、と私は想像しています。
ところで、ここで注意していただきたいのは、智のゲームにあっては、智場に提供されて人々の社会的評価に委ねられる個別的・具体的な情報や知識は、財産権の対象としての "商品" である必要がないのはもちろんのこと、互酬の対象である必要さえないということです。智業家としては、智場に提供される通識がなるべく多くの人に通有され、社会的な価値をもつものとして受容されるこが望ましいのですから、そのためには、通識は原則として実費あるいは無償で、いやできることなら奨励金のようなものをつけてでも、提供したいのです。ですから、 "通識" の通有過程を律するルールを、 "商品" の販売過程を律するルールと同様なものと考えるのは大きな誤りです。
その意味では、近代化の第三局面にいたってもなお "知的財産権" にこだわりすぎることには、二重の危険がひそんでいます。第一に、情報や知識は、そもそも財産権の対象物としての商品の流通形式にはなじみません。したがって、かりに産業社会のパラダイムを前提として考えていく場合でも、情報や知識の扱いには、他の商品の場合とは違った特別な工夫が必要とされるでしょう。第二に、 "知的財産権" は、さまざまな点で "情報権" と対立し矛盾をひきおこします。したがって、智のゲームの普及のためには、情報社会のパラダイムに立脚した、知的財産権とは別の権利としての情報権そのものの制度的な確立と限定の試みが必要不可欠となります。
ちなみに、通識の通有活動を富の蓄積のための手段の一環とみなして、知的財産権の獲得やそのなるべく高い価格での販売をめざす態度は、商品の販売活動である交易を、国威の増進のための手段の一環とみなして、それを国家の統制下におこうとした重商主義の思想や政策を思いおこさせます。とすれば、知的財産権を不釣り合いなまでに重視しようとする思想や政策は、 "知の重商主義" とでも名づけることができそうです。
最後に、智のゲームの場としての "地球智場" は、富のゲームでいえば "世界市場" にあたる、通識の普及と評価のグローバルな場です。いうまでもありませんが、今日ではまだこの意味での地球智場は制度化されていないことはもちろん、実態的にも出現しているとは到底いえません。しかし、先にも指摘したとおり、未来の地球智場を支える情報インフラストラクチャーとしての "インターネット" は、現在すでに爆発的な成長をみせています。他方、歴史をふりかえってみますと、少なくとも、富のゲームにおける "局地的市場" にあたるような "局地的智場" とでもよぶべき社会システムは、きわめて古くから存在してきたといってよいでしょう。たとえば、個々の "学会" は、そこでさまざまな "学派" が自説を発表し評価を受ける場でした。同じことは、 "劇場" や "競技場" や "展覧会場" 、あるいは "新聞" や "雑誌" についてもいえます。それらはすべて、さまざまな劇団や俳優、スポーツのチーム、個々の芸術家あるいはその流派、作家や評論家などのパフォーマンスや作品がそこに提示されて人々の評価を受けるための局地的智場だったのです。今後、インターネットがさらに普及すると同時に、回線の超高速大容量化が進み、マルチメディアやグループウエアの技術、あるいはバーチャル・リアリティやアーティフィシャル・ライフの技術などを応用した各種の高度なアプリケーションがその上に提供されるようになれば、インターネットは、まさに "地球智場" としての姿を、ますますはっきりと現してくるようになるでしょう。現に、今でも、USENETの上のニューズグループなどは、智場の初期形態としての性格をもっていると言えそうです。
Y. 智のゲームの普及は "異常に熱い心" の持主が推進する
智のゲームの出現と普及をめぐる、以上に述べたような私の予想に対しては、知識や情報は、私のいう通識として普及される前に、まず商品として販売されるようになるに違いないという反論がだされるかもしれません。もちろん私は、知識や情報の商品化をいっさい否定しようとする者ではありません。通識の通有はすべて無償で−− "フリーウエアー" として−−行われるべきだと主張するつもりもありません。21世紀にも富のゲームが存続しているとすれば、情報の商品化は、なにがしかの程度不可避でしょう。智業家が霞を食べて生きるわけにもいかないとすれば、智業家もまたなんらかの形での経済行為−−みずからの生活や活動にとって必要とされるさまざまな手段の入手−−にたずさわらないわけにはいきません。智のゲームに従事していれば、その副産物として経済的な必要もそれなりに満たされていくという仕組みができるのは、このゲームの普及にとっても、プレヤー達の生存にとっても、のぞましいことです。
まして、智のゲームの普及の少なくとも初期の段階では、 "企業・智業協働" がほとんど不可避的に進展するものとすれば、情報や知識の商品化、さらには "智" そのものの商品化は、その面からも推進されざるをえないでしょう。かつての産業化にさいしては、威のゲームのプレヤーとしての国家が企業にさまざまな支援をあたえることで、企業が富のゲームに専念できるようにしたものでした。それと同じような意味で、これからの情報化にさいしては、富のゲームのプレヤーとしての企業が智業を経済的に支援することで、智業が智のゲームに専念できるようにするものと期待できます。しかし、その場合には、企業はそれに対する見返りを、智業から当然期待してよいでしょう。それはあたかも、国家が、企業の安全を保障する見返りとして、税金の納付や性能のよい兵器の大量で安定的な供給を企業に期待できたのと同様です。すなわち、智業は、企業にたいする見返りの一部として、企業がそれを直接あるいは間接に商品化して販売できるような情報・知識を提供する可能性があるのです。そして、そのような形での "企業・智業協働" が進展していけば、これまでのように、学術・芸術・スポーツのパトロンといえばまず国家を思いうかべ、国の直営や保護助成にもっぱら期待するという風潮は、次第に少なくなっていくし、またそうなるべきだと思われます。
もっとも、そのことは、智のゲームの普及の前提条件を準備したり、その円滑な進行を助ける上で、脅迫/強制力の行使の正統性をみとめられている国家のような主体には、もはやはたすべき役割がないことを意味するものではまったくありません。国家あるいは超国家的な権力機構は、富のゲームの普及の初期と同様、智のゲームの普及にさいしても、やはりある積極的な役割を演ずることができるでしょう。すなわち、一方ではゲームの普及を阻害する時代遅れの規制の撤廃や緩和が、他方では情報権の確立と限定や情報や知識の通有と普及にかかわるルールの制定や執行と、それに関する有益な情報の適時的確な提供とが、脅迫/強制力をもつ権力機構にとっての新しい役割になることでしょう。それらの役割の中には、企業が国家にかわって果たすことのできるものも少なくないかもしれませんが、だからといって、こうした権力機構の役割がまったくなくなるということは考えられません。智のゲームの関係者には "悪い人はいない" ので、ルールに違反すれば "満座の中でお笑い下さい" とか、 "仲間はずれにされても仕方がない" といった形の当事者間の約束だけで、秩序が形成され維持されていくと期待するのは、明らかに楽観的にすぎます。今日までのコンピューター・ネットワークの上での経験が示しているように、悪質なビールスをまき散らすハッカーもいれば、いわれのない非難や中傷、あるいはデマを、意図的に流そうとする人もいるのです。ネットワーク上での "セクハラ" その他さまざまなハラスメントの例も、決して少なくありません。智のゲームが何のルールもルール強制機構もなしに、公平かつ公正にプレーされていくと想定してよい根拠はどこにもないのです。それに、よしんば当事者たちは "善意" の人の集まりであったとしても、その外部から、智のゲームの進行を攪乱しようとしたり、他の目的のためにゲームを利用したりしようとする試みがなされないという保証はありません。そうだとすれば、かりにゲームのルールの形成自体は、関係者の相談と合意によったとしても、その有権的な制定、およびそこから生まれる秩序の維持に対して責任をもつ強制力をもった存在の必要は、やはりなくならないでしょう。
しかし、近代化の第三局面においては、社会ゲームの秩序の−−智のゲームはもちろん富のゲームのそれももふくめた秩序の−−維持にあたる権力機構は、おそらく従来のような個々の主権・国民国家ではなくなるでしょう。むしろ、そのような役割のますます多くは、既存の主権国家のレベルをこえた、より上位の複合主体が受けもつようになっていくと思われます。智のゲームは、富のゲーム以上にグローバルな性格を強くもつに違いないからです。そうだとすれば、これからの先進大国は、主権国家の限界を積極的に乗りこえて、全地球的な安全保障や環境管理はもちろん、新しい社会ゲームのルールの制定と執行の役割をになう超国家的な主体の形成を促進すると共に、個々の既存の国家にはその下位主体としてみずからの主権のさまざまな制約や譲渡をみとめる覚悟をかためさせる方向に、その大国としてのリーダーシップを発揮していくことが必要でしょう。
ところで、上のような前提条件がある程度みたされたとしても、新しい意識の持主や、彼等がプレヤーとなって行う新しい社会ゲームは、そう容易には社会的に広く受けいれられないかもしれません。富のゲームの普及の初期もそうでした。産業革命の技術的突破や富のゲームの制度化に貢献したのは、「学問もなければ、賢くもえらくもなかった」かわりに、「 "異常に熱い" 心の持主」たちでした。彼等こそが、「大きな運動を引き起こし、一時代の気分の全体を変えることができ」たのです。(21)このような事情は、智のゲームの初期のプレヤーとしてのコンピュータ・ハッカーたちや、ニュー・サイエンスのリーダーたち、あるいは新しい社会的パラダイムを構想し提唱する批評家たちにも、通ずるものがありそうです。現在、情報化の最先端にあって活躍しているこれらの人々は、既成のパラダイムや社会秩序の中では、必ずしも適切な処遇は受けていないかもしれません。しかし、今回もまた、彼等の "異常に熱い" 心が、大きな運動の引金となり、社会の "パラダイム・チェンジ" を引き起こしてくれることを、私としては強く願いながら、この話を結びたいと思います。
注記:この原稿は、昨年の夏と秋に、国際経営情報学会とCSCW学会で行った講演 (英語) の草稿に加筆訂正したものです。