93年度著作へ

1993年2月12日

「情報技術の発達と知的財産権」

公文俊平

私は時々、近年の情報技術の発達が企業の財産権に及ぼす影響は、核兵器の発達が国家の主権におよぼした影響に匹敵しはしないかと思うことがある。

全面的な核戦争は、国家の主権の拡大はもちろん保全をも不可能にする。それに対処するには、国家の主権の少なくとも一部を委譲した超国家的な統治機構、紛争処理機構を構築するしかないだろう。

同様に、今日の情報技術の無制限の利用は、企業の財産権、とりわけ知的財産権の拡大や保全を危うくしてしまう。どのような安全措置を講じたコンピューターにも侵入して、データを盗み出したり、破壊したりするハッカーを想像してみるといい。 (それに対抗するには、自らもより高度のハッキング技術を開発保有するしかないという論者もいるが、これは核抑止のようなものであろう。) そこまで行かなくても、ソフトや文書の "違法" コピーは日常茶飯事となっており、そのすべてを摘発したり防止したりするすべはない。或いは、技術開発の成果を具体化した資本設備が、新しい技術開発の結果、一挙に無価値なものになってしまう例も多い。マイクロチップスの技術の進展によって、メーンフレーム・コンピューターの牙城が、ワークステーションやパソコンの軍門に下ろうとしているのも、その一例である。

それでは、そのような状況にはどう対処すればいいだろうか。技術の開発自体を押し止めることはできないとすれば、知的財産への保護をより手厚くし、その侵害への罰則をより強化するような制度的措置を講ずべきだろうか。現にアメリカ (の一部の人びと) は、それをめざしつつあるようにみえる。しかし、そのような試みのマイナスの副作用は決して小さくない。

違法行為の摘発や訴訟に、多大の資源が向けられるというマイナスがある。情報や知識の広汎な通有、とりわけ第三世界への普及が妨げられるのも深刻な問題である。さらに、私どものように、研究を自らの業として、その成果の交流や普及にかけている者にとっては、活動の自由が著しく制約されるばかりか、甚だしい場合には、自分の学者としてのアイデンティティさえ危機にさらされかねない。

たとえば、最近英語圏で出版される本には、その複製を極めて厳しく制限するものが増えてきた。書物の扉に、「書面による出版社の事前の許可なしには、本書のいかなる部分といえども、複写や記録、あるいはその他のあらゆる情報貯蔵・検索システムを含む電子的的あるいは機械的ないかなる手段および形態によっても、複製・伝達されてはならない」などといった文言が明記されているのである。この調子でいくと、やがては、本を買った人がノートを取ったり他人に貸したりするのはおろか、読むこと自体まで――脳への生理的な複写だとして――禁止されてしまいかねない。しかも、それが出版社の権利だというのである。

あるいは、最近のUNIXのように、類似のプログラムの作者がそのソースコードを見ていないことを証明するよう要求するケースさえ現れている。これは、著作でいえば、自分の独自の理論や発見を主張したいと思えば、他人の類似の仕事を見ていないことを証明する必要があるのと同じである。これでは、他人の研究の成果など、危なくて読めたものではなく、学者間の共同研究や相互交流など、不可能になってしまう。

そうかと思うと、学術論文の出版の条件として、その論文のいかなる部分も、以前に別の場所や別の形で発表していないことを誓約させる出版社だとか、抜刷を作ってくれないばかりか、著者が取ってよい自分の論文のコピー数さえ規制しようとする出版社も現れている。これまた学者はたまったものではない。

他方では、今日の学者は、デスクトップ・パブリッシングやネットワーク・パブリッシングによって、出版社に頼らないでも、自分の作品は自分で公刊できるようになりつつある。そのうちに、ソフトのフリーウエアと同様、著作権を主張する出版社からは自分の作品は出版しないとか、自作の著作権は放棄して、原著者名の明記だけを条件に、読者に複製の作成や配付の自由を与えるといった動きが起こってくるのではないか。実際、学者の主たる関心が、物質的な利益の獲得よりは、知的な影響力あるいは名誉の獲得にあるとすれば、そうなっても不思議はないのである。

では、営利追求体としての企業は、今後知的財産権の問題にいかに対処していくべきか。たとえば、国家がその主権の一部を超国家的主体に委譲しつつあるように、知的財産権の一部を、より上位の主体に委譲する仕組みは考えられるだろうか。これは未来の情報社会の在り方を規定する極めて重大な問題であろう。