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1993年2月13日

「トム・フォレスターの情報化反省論」

IECP掲載

公文俊平

1990年代の初め、アメリカの経済、とりわけ情報・通信産業は深刻な不況に苦しんでいた。長らく "エクセレント・カンパニー" の座を不動のものとしていたあの巨人IBMですら、コンピューターの "ダウンサイジング" 化や "オープン・システム" 化の趨勢を読み誤り、1992年の決算では年間30億ドル、1993年には史上最大といわれる50億ドルの損失を記録し、エーカーズ会長兼CEO は今年の一月、その責任をとって、キーラー社長およびメッツ最高財務責任者(CFO) と共に、退任を余儀なくされた。世界のIBMグループの中で唯一好決算を記録していた日本IBMもまた減収減益に転じ、1993年の初め、椎名社長は会長に退くことを発表した。エーカーズ会長の後任候補としては、アップル社のジョン・スカリー、インテル社のアンドリュー・グローブ、モトローラ社のジョージ・フィッシャー、GE社のジャック・ウェルチなどの名前があがっている。ロス・ペローの名前をあげる人もいる(2月初旬現在)。

どうしてそのような事態になったのだろうか。ここでは、情報社会のウォッチャーとして自他共に許す、オーストラリアのグリフィス大学のトム・フォレスター(1) が、1991年の11月にスイスで開かれた情報社会に関する国際会議の冒頭で行った演説 [Forester91] の内容をてがかりに、その問題を考えてみよう。

フォレスターによれば、マイクロチップスの登場と共に始まった "マイクロエレクトロニクス革命" の帰趨をめぐって、1960年代から1970年代にかけて、アルヴィン・トフラーを先頭にさまざまなバラ色の未来予測の花が咲いた。そこでは、未来の波を示す" 未来ショック" "第三の波" "メガトレンズ" "脱産業社会" "余暇社会" などのキーワドの周辺に、 "無人化工場" "ペーパーレス・オフィス" "キャッシュレス社会" "エレクトロニック・コテージ" "テレデモクラシー" "人工知能" などの新しいコンセプトが絢爛とちりばめられると共に、その手段となる無数のホットな新製品やサービスが次から次へとめまぐるしく登場していたのである。曰く、ビデオディスク、テレビ電話、電子メール、テレビ会議、ビデオテックス、マルチメディア、DTP, ISDN, EDI, MIS, FMS, CIM, POS, RISC, CD-ROM, HDTV等々。

だが、それから20数年の月日がたった今になって反省してみると、当時の有識者たちが期待し意図した情報革命の帰結は、結局何ひとつ実現していなかったことに気づかざるをえない。そればかりか、当時は意図も期待もされていなかった深刻な帰結が、次から次へと生じてきたのである。ソフトウエアの信頼性の低さは、さまざまな事故や障害をもたらしている。各種のコンピューター犯罪や、ソフトウエアの違法なコピーがいたるところに起こっている。電子的なデータ処理のセキュリティをおびやかすさまざまな "ビールス" が蔓延する一方では、人々はコンピューターによって自分たちのプライバシーが侵害される危険に気づき始めている。そうかと思うと、コンピューターを利用した新しい情報処理・通信技術に一種の中毒症状を呈する人も少なからず現れている。携帯電話を手放せなくなった "コミュニカホリック" 、やたらとシミュレーションに熱中する "スプレッドシート・ジャンキー" 、毎日毎日大量の電子メールをばらまく "電子メール狂" 、何かといえばファックスに頼る "ファックス・ポテト" などがそれである。

このような期待と現実のみじめな乖離の様子をもう少し詳しくみてみよう。まず、オフィスや工場では何が起こったのだろうか。

第一に、急速に到来するはずだった "余暇社会" はいっこうに到来しなかったし、危惧された大量失業もほとんど発生しなかったし、コンピューターの導入も、予想されたほど急速でも円滑でもなかった。むしろ、資金、技術、経営上の問題のため、コンピューターの導入が逆に雇用の増大をもたらすケースさえあった。(2) 他方、米国の場合、職場での労働はむしろ強化された。すなわち、米国市民の平均余暇時間は、1973から89年までの間に37% 減少したし、労働時間は、通勤時間まで含めると、41時間から47時間に延びたのである。さらに、副業や家庭での労働も増えた。

第二に工場の無人化も実現しなかった。米国のロボット設置台数は、予測では1990年には25万台になるはずだったのに、実際は 3.7万にとどまっている。それも一線を退いたりスクラップ化されたものが多いといわれている。世界のロボット販売高は1987がピークだったが、その理由は、ロボットが人間よりも高くつきすぎたからだった。NC工作機械の普及も予想外に遅く、1988年の報告では11% にとどまっている。米国の工場の53% には、自動化機械は一台も入っていないのである。さらに、次代の生産システムと喧伝されたFMS やCIM の進展も遅れている。前者はブースに展示されるところまではいったが、実用にはならない金食い虫だし、後者となると、せいぜい今後の進むべき方向、ないし望ましい夢の段階にとどまっている。つまり自動化の "島々" が互いに情報的に連結されるのは、まだまだ遠い先の話なのだ。そのためには経営上の専門知識をコード化して意思決定デバイスに入れ、それによって無欠陥機械を無人で制御しなければならないが、そんなことは当分不可能だということが分かってきたのである。結局1980年代の工場の全面自動化の夢は無残に破れ、着実な "改善" の方向へと戦略転換がなされたという。(3)

第三に、一番ひどい予測の失敗の例ともいうべきものが、オフィスのペーパーレス化である。米国の現実では、過去三十年に、実質GNP が2.8 倍になる間に、紙の使用は3.2 倍になった。1986年に消費された紙は2.5 兆ページだったのに対し、1991年には4 兆ページの紙が消費された。その最大の理由は、FAX とコピー機械の普及にある。他方、電子メールや音声メールはそれほど伸びていないし、いわゆるオフィス自動化機械の市場も予想外に伸び悩んでいる。例外はレーザー・プリンターだが、これも紙食い虫以外の何物でもない。今後EDI(electronic document interchange)でも本格的に普及すれば話は別だが、それはまだまだ大分先の話だと思われる。当面、ジャンク・メールやジャンク・ファックスは増加の一途をたどっている。企業が扱う情報の95% は紙だというIBM の推計(1988)もある。銀行も、EFT やカードでの取引も可能にはなったとはいえ、依然として紙に頼っている。(4)

第四に、近年の情報化のもっとも深刻な帰結というべきものは、情報技術の生産性向上効果が、大してないどころか、ほとんどないという事実である。これは、製造業を対象とする多数の実証研究の一致した結論なのである。非製造業、すなわち、銀行、商業、教育、保健などの分野では、概していえば生産性はむしろ低下したと考えられている。その理由としてあげられているのは、

  1. 生産性向上効果を無にしてしまうコンピューターの突然の故障(glitches)の頻発、
  2. 文書の過度の改訂――なにしろ訂正が簡単にできるようになったのだ――
  3. 無限に続く再教育――ソフトやハードの新製品や改訂版が導入されるたびに必要になる――
  4. コンピューターでゲームをする傾向――それも勤務時間中にである――(5)

などである。

では、家庭の変化はどうだったか。何よりもまず、 "第三の波" は、人々を職場から、今や "エレクトロニック・コテジ" となった家庭に返す、というトフラーの有名な予測は、完全に外れたという他ない。現在のところ、フルタイムの在宅勤務者は、米国の労働力のせいぜい10% にとどまっている。電子ブリーフケースなどを使ったテレコミューティングの実験は、ほとんど失敗し中止された。その理由としては、家庭での空間的制約や家庭でやれる仕事の種類の少なさ、あるいは在宅勤務者の管理をどうするかといった問題があげられている。しかし、より深刻なのは、人間関係や個人の心理的な問題、つまり、家庭内での摩擦や近所の騒音のわずらわしさ、孤独の淋しさ、仕事と余暇の区分ができないことからおこるワーカホリズム、ストレスと燃え尽き、といった問題群であろう。結局、在宅勤務は鳴物入りで実験が始まったにもかかわらず、長続きしなかったのである。在宅勤務が増えれば、交通難が解消されるとか、大気汚染が緩和されるといった効果は、せいぜい副次的な効果か、希望的観測にすぎない。考えてみれば、あたりまえのことだが、人は、そのような副次的効果があるからといって動くものではないのである。(6)

人々の家庭での生活自体も、結局のところ大して変わらなかった。いわゆるホーム・オートメーション、つまり、家事ロボットや壁掛けテレビ、家庭内端末、自動点灯システム等々には、消費者は燃えなかった。なるほど、1970年代から80年代を通じて、いくつかの新しい種類の家電製品や情報機器が家庭にも普及していったことは確かだが――電子レンジ、ビデオ、大型テレビ、CD、留守番電話、FAX 、ワープロ、携帯電話等――その結果人々のライフスタイルが一変したというまでにはいたらなかったのである。

また、情報化の進展によって、人々は、家庭の中にいながらにしてショッピングやバンキング、あるいは各種の情報サービスの利用などが可能になるという期待ももたれたが、これらも大して普及していない。ホーム情報サービスでいえば、アメリカのビデオテックス・サービスの普及率は、1985年には 5 %に達すると予測されていたのに、実際には 1% 以下にとどまった。なにしろ、後から考えてみると、ビデオテックスは使いにくいし、遅いし、融通がきかない上に、何より高価である。ニュース、天気予報、株価、飛行機の出発時間などといったたぐいの情報の魅力は、大したものではない。この種の情報サービスに金を払う気のある消費者は、少ないのである。ホーム・バンキングは、アメリカだけでなく、ヨーロッパや日本でも試みられたが、いずれも、実験の段階を越えられなかった。(7) 要するに、利用者としては、大して有用性が見出せなかったのである。何よりも現金の出し入れができないのが決定的に不便であった。そのため、銀行にしてみれば、せっかくホーム・バンキングのための資本投下を行っても、それに見合うだけの利用がない結果に終わってしまった。(8) ホーム・ショッピングもみじめな失敗に終わった。フロリダでナイト・リッダー社が行ったビュートロンの実験は、一種の総合型サービスの試みだったが、5000人しか客がつかず、5 千万ドルの損失を出して中止の憂き目をみた。その他、カリフォルニアでのタイムズ・ミラー社のゲートウェー・サービスや、シカゴでのセンテル社のキーファックス・サービスなどの試みも、やはり失敗に終わっている。その技術的な理由としては、スクリーン操作が難しすぎるとか、商品の選択範囲が狭い、支払いの仕方や購入した商品の配達のタイミングなどに問題が残った点があげられているが、より深刻な問題として、ショッピングの心理的・社会的満足がえられないこと、つまり、ホーム・ショッピングだと、家を出て、友人に会い、コミュニティと交わる楽しみがないことを、あらためて反省せざるをえないように思われる。(9)

それでは、より広い社会的な領域で期待された変化は、どうなったのだろうか。ここでも変化は遅々としている。学校に来るといわれた "教室革命" は、どこにも来ていない。アメリカの学校にコンピューターが普及したとはいえ、たかだか30人に一台程度にとどまっており、それすら見直せという声があがっている。むしろ図書費や教師の人件費に振り替えるべきだというのだ。なにしろ、コンピューター用の教育ソフトにはろくなものがなく、 "コンピューター・リテラシー" も言葉だけで内容がないことが分かってきたのである。

パソコン通信のようなシステムが普及すれば、ボタン投票や電子町民大会などが可能になり、 "電子民主主義" の時代が到来するという予測もあった。事実、そのような運動を率先して展開する人々や、そうした方向をめざして市民の啓蒙活動を行う試みもなくはなかった。しかし、そうした試みも、全体としての人々の政治参加意欲の減退傾向を逆転させるものにはなりえなかった。人々は今日、メディアからの情報が多すぎて、かえって政治に無関心になっているのである。それを如実に示しているのが、選挙での投票率の趨勢的低下である。(10)

それでは、情報社会の予言者たちの予測は、どうしてかくも惨めに外れてしまったのだろうか。フォレスターは、過去の技術予測や市場予測の再検討の結果を紹介しながら、その理由を探っている。

まず、シュナールの研究によれば、60年代の未来学者の行った技術予測――プラスティックの家、個人用垂直離着陸航空機、大陸棚農業、月旅行、家事・農作業・戦争用ロボット等の出現が予測された――の成功率はせいぜい15% にすぎず、そのほとんどは外れてしまった。その理由として、シュナールは、彼らが技術の驚異に魅せられすぎていたこと、また、技術上の可能性や、消費者の利用意欲を過大評価していたことをあげている。また、アメリカの市場調査会社の予測の不正確さを指摘したブロディーによれば、ロボット、人工知能、CD-ROM、ビデオテッスク、超伝導、ジョセフソン素子、ガリウム砒素チップ等は、いずれもその需要予測が過大にすぎた――なかには百倍にみつもられたものさえある――という。その理由として、ブロディーがあげているのは、

  1. 発明者や発売者のような既成の利害関係者から得た情報に頼って予測したこと、
  2. 既存の技術の寿命の長さを計算に入れなかったこと、 (よっぽど大きな改善でなければ、消費者は新技術には触手を動かさない)
  3. 過去の傾向を未来に向かって単純に外挿したこと、
  4. 関連分野での発展を考慮にいれていなかったこと、
  5. 技術の動向と市場予測を混同したこと、 (革新技術の普及には長い時間がかかるのに)

という五点である。

それでは、次に、情報革命がもたらした一連のまったく予想外の新しい社会問題について考えてみよう。それは、新たな社会的脆弱性とでもいうべき問題であって、次のようないくつかの事情に由来していると考えられる。

その第一は、コンピューターの誤動作傾向に由来するものである。コンピューターは、在来の電気、テレビ、自動車などの技術とは違って、しばしば、信頼性や安全性や予測可能性に欠け、その管理はほとんど不能である。アナログ装置や機械的装置の場合は、部分的故障が多く、すべてがダウンしてしまうことは少ない。ところが、ディジタル電子装置であるコンピューター・システムは、全面的で破局的な事故を起こしがちである。つまり、ダウンするとなれば完全にダウンしてしまうのだ。そのようなケースは、電話の料金計算や交換ソフト、銀行通帳、現金出納機、電子的資金移転システム、自動車免許データベース、等ですでに経験されている。また、工業用ロボットは時に暴走することがあることも知られている。心臓のペースメーカーやガレージの自動ドア開閉装置は、POS 機械やパソコンあるいはビデオ・ゲーム機などからでる電磁波や "電子スモッグ" のために使えなくなることがある。というわけで、コンピューターのハードやソフトの誤動作は、この産業の専門家がいうよりはずっと頻繁に起こるのだから、過信は禁物である。

その第二は、人間の誤用に由来するものである。世間でコンピューターに帰せられている誤動作の多くは、実は、機械ではなくて人間の間違いによるものである。さらに、単純な誤用というよりは、意図的な悪用、乱用、破壊行為も少なくない。ソフトの違法コピー、ハッキング、ビールスの散布、コンピューターを利用した詐欺、プライバシー侵害等、その例は枚挙にいとまがない。今日のハッカーやデータ泥棒は、もっとも進んだ金融や軍事システムにも侵入できる。ビールス作成者が大学や政府の通信ネットワークを台無しにしたこともある。搭乗券予約のごまかしや携帯電話のチップの再プログラミングのような犯罪例もあれば、秘密にされているはずの医療、金融、犯罪記録がいつのまにか第三者に入手されていたといったケースもある。

その第三は、コンピューター・システムが複雑になりすぎた結果として生じているシステムの管理不能性である。これは、そのシステムを作った人にさえ、どうにもならない場合が多い。(11)そもそもシステムの導入の過程で、当初の予算計画に大幅な狂いが発生することもしばしばある。2000万ドルのシステムのつもりが、6000万ドルの追加支出でもまだ動かず、ついに放棄を余儀なくされたバンク・オブ・アメリカの例もあれば、8 百万ドルのつもりが一億ドルになり、完成までの期間も6 年遅れたオールステート保険会社の例もある。しかもその規模は近年さらに増大傾向にある。また、ようやくシステムが完成したところで、ありうべき事故のすべてを事前に予想することはそもそも不可能である。それなのに、今日では、コンピューター・システムは、航空管制から救命システム、原発運営から巨額の資金移動やミサイル制御等、ありとあらゆる重大な用途に用いられている。これらのシステムは、火事、洪水、地震、停電等にも弱いばかりか、ハッカーの侵入や内部のサボタージュといった人的な攻撃にも弱い。処遇に不満をもっていた従業員が、ブリタニカ百科事典の新版の内容を書き換えたという事件もあった。そうかと思うと、狐やさめが光ファイバーケーブルの被覆をたべてしまったこともある等々。

その第四は、コンピューターを利用した情報処理・通信システムの利用が引き起こした新しい心理的な病弊である。それらは、組織の生産性や健全な人間関係の展開にとっての妨げとなる危険がある。たとえば、有用な情報とそうでない情報との区別がつかなくなる "情報過多 infoglut " 現象はその一つである。今日、米国だけで、一万四千の出版社が年五万点の新刊書を出している。科学雑誌の種類は四万で、年間百万点の論文を出版しているが、それらの数は年々さらに増える一方である。ところが、現在の情報技術は、大量の情報の収集、貯蔵、移動は可能にするものの、その解釈はいっこうにしてくれない。今日必要なのは、それらを知的に処理する技術、つまり、information technologyではなく intelligence technologyなのである。だが、情報解釈の技術の立ち遅れのために、組織でも、入ってくる情報が多すぎて、分析や決定ができないという状態が起こっている。個人の場合でも、米国人のテレビ視聴時間は一日に 7時間と 7分、ビデオ視聴時間は週に 5時間と8 分にのぼっている(1987 年の統計) 。ラジオの平均保有数は一家あたり5.3 台である。これらから、毎日1600の広告が入ってくる。このように一方的に流れ込んでくる大量の情報があるために、30歳以下の世代には、知識と関心の低下が顕著に見られるにいたっている。つまり、積極的な情報入手努力 (読書等) が放棄されつつあるわけだ。

いま一つの深刻な問題は、 "ハイパーコネクテッドネスの病理" とでも呼ぶべき人間関係の歪みである。たとえば、携帯電話やFAX を手離せなくなったコミュニカホリックの管理者が出現しているし、(12)コンピューター上でシミュレーションばかりやっているるスプレッドシート・ジャンキーもいる。そうかと思うと、大した用もないのに大量の電子メールのやりとりをする電子メール中毒もでてきている。しかし、それで仕事がより良くでき、より賢明な決定ができているかは、疑問という他ない。実際、他人との接触がふえすぎると、仕事の上の関係はかえって壊れてしまいかねない。部下は、むしろほっておかれたいのである。                                  フォレスターは、最後に、1970年代から80年代にかけての情報化の問題点を、次のように要約している。すなわち、人間の必要や能力を軽視しすぎたのが、最大の問題であった。それが一方で予測の失敗をもたらすと同時に、他方で、人間的要因にかかわる予想外の問題の頻発を招いたのである。そうだとすれば、今必要なことは、 "われわれの視界に人間を取り戻す" ことでなければならない。いいかえれば、技術 (とりわけ情報通信技術) と人間の関わりの見直しが必要なのである。

実際、生産の現場でさえ、ロボット化は真の解決ではなかった。ロボットは人間以上の問題児だったのだ。実は、一番フレキシブルな製造システムとは、人間自身ではなかったのか。アクセスに値する唯一のデータベースは、生き字引きのような長期勤続従業員の頭の中のそれではないのか。もっとも高度なコミュニケーション技法とは、膝突き合わせた話し合いではないのか。どうやら、近年のコンピューター技術の進歩は、それを利用する人間の能力を追い越して進んでしまっていたのではないか。商取引から看護にいたる広汎な社会的活動のすべてにコンピューターをやみくもに導入しようと焦った結果、それらの社会活動の非人間化を――キーをポンと叩いて金を盗むという意味では、犯罪さえもの非人間化を――もたらしてしまったのではないだろうか。コンピューター科学者やその他の熱心なコンピューター利用者に見られる "ナード (おたく) 症候群" とは、人間からゆっくり反省し考える時間を奪ったコンピューターが引き起こした "テクノストレス" の発現に他ならなかったのではないか。そうだとすれば、今なすべきことは、人生の目的の再反省であって、われわれは、自分が何がしたいか、何がほしいかをあらためて熟慮した上で、それに役立つ方向へ技術を向けていかなければならないのである。(13)

フォレスターの以上のような反省の言葉のなかには、聴くべき多くのものが含まれていることは確かである。しかし、基本的には、彼の反省は、後述するコンドラティエフの長期波動の下降期に生じた深刻な不況が触発した反省の典型的なもののように思われる。別の言い方をすれば、現在の事態が、コンドラティエフ長波の下降期を特徴づけるものであることを看取し、さらにこの長波の上昇局面への転換が、さほど遠くない未来に控えていることを予想した場合には、反省のトーンもまたおのずと違ったものになってくるはずである。現に、近年のアメリカでの議論の中には、フォレスター流の反省を通過した地点から議論ともいうべきものが現れている。(14)