1993年2月13日
公文俊平
1990年代の初め、アメリカの経済、とりわけ情報・通信産業は深刻な不況に苦しんでいた。長らく "エクセレント・カンパニー" の座を不動のものとしていたあの巨人IBMですら、コンピューターの "ダウンサイジング" 化や "オープン・システム" 化の趨勢を読み誤り、1992年の決算では年間30億ドル、1993年には史上最大といわれる50億ドルの損失を記録し、エーカーズ会長兼CEO は今年の一月、その責任をとって、キーラー社長およびメッツ最高財務責任者(CFO) と共に、退任を余儀なくされた。世界のIBMグループの中で唯一好決算を記録していた日本IBMもまた減収減益に転じ、1993年の初め、椎名社長は会長に退くことを発表した。エーカーズ会長の後任候補としては、アップル社のジョン・スカリー、インテル社のアンドリュー・グローブ、モトローラ社のジョージ・フィッシャー、GE社のジャック・ウェルチなどの名前があがっている。ロス・ペローの名前をあげる人もいる(2月初旬現在)。
どうしてそのような事態になったのだろうか。ここでは、情報社会のウォッチャーとして自他共に許す、オーストラリアのグリフィス大学のトム・フォレスター(1) が、1991年の11月にスイスで開かれた情報社会に関する国際会議の冒頭で行った演説 [Forester91] の内容をてがかりに、その問題を考えてみよう。
フォレスターによれば、マイクロチップスの登場と共に始まった "マイクロエレクトロニクス革命" の帰趨をめぐって、1960年代から1970年代にかけて、アルヴィン・トフラーを先頭にさまざまなバラ色の未来予測の花が咲いた。そこでは、未来の波を示す" 未来ショック" "第三の波" "メガトレンズ" "脱産業社会" "余暇社会" などのキーワドの周辺に、 "無人化工場" "ペーパーレス・オフィス" "キャッシュレス社会" "エレクトロニック・コテージ" "テレデモクラシー" "人工知能" などの新しいコンセプトが絢爛とちりばめられると共に、その手段となる無数のホットな新製品やサービスが次から次へとめまぐるしく登場していたのである。曰く、ビデオディスク、テレビ電話、電子メール、テレビ会議、ビデオテックス、マルチメディア、DTP, ISDN, EDI, MIS, FMS, CIM, POS, RISC, CD-ROM, HDTV等々。
だが、それから20数年の月日がたった今になって反省してみると、当時の有識者たちが期待し意図した情報革命の帰結は、結局何ひとつ実現していなかったことに気づかざるをえない。そればかりか、当時は意図も期待もされていなかった深刻な帰結が、次から次へと生じてきたのである。ソフトウエアの信頼性の低さは、さまざまな事故や障害をもたらしている。各種のコンピューター犯罪や、ソフトウエアの違法なコピーがいたるところに起こっている。電子的なデータ処理のセキュリティをおびやかすさまざまな "ビールス" が蔓延する一方では、人々はコンピューターによって自分たちのプライバシーが侵害される危険に気づき始めている。そうかと思うと、コンピューターを利用した新しい情報処理・通信技術に一種の中毒症状を呈する人も少なからず現れている。携帯電話を手放せなくなった "コミュニカホリック" 、やたらとシミュレーションに熱中する "スプレッドシート・ジャンキー" 、毎日毎日大量の電子メールをばらまく "電子メール狂" 、何かといえばファックスに頼る "ファックス・ポテト" などがそれである。
このような期待と現実のみじめな乖離の様子をもう少し詳しくみてみよう。まず、オフィスや工場では何が起こったのだろうか。
第一に、急速に到来するはずだった "余暇社会" はいっこうに到来しなかったし、危惧された大量失業もほとんど発生しなかったし、コンピューターの導入も、予想されたほど急速でも円滑でもなかった。むしろ、資金、技術、経営上の問題のため、コンピューターの導入が逆に雇用の増大をもたらすケースさえあった。(2) 他方、米国の場合、職場での労働はむしろ強化された。すなわち、米国市民の平均余暇時間は、1973から89年までの間に37% 減少したし、労働時間は、通勤時間まで含めると、41時間から47時間に延びたのである。さらに、副業や家庭での労働も増えた。
第二に工場の無人化も実現しなかった。米国のロボット設置台数は、予測では1990年には25万台になるはずだったのに、実際は 3.7万にとどまっている。それも一線を退いたりスクラップ化されたものが多いといわれている。世界のロボット販売高は1987がピークだったが、その理由は、ロボットが人間よりも高くつきすぎたからだった。NC工作機械の普及も予想外に遅く、1988年の報告では11% にとどまっている。米国の工場の53% には、自動化機械は一台も入っていないのである。さらに、次代の生産システムと喧伝されたFMS やCIM の進展も遅れている。前者はブースに展示されるところまではいったが、実用にはならない金食い虫だし、後者となると、せいぜい今後の進むべき方向、ないし望ましい夢の段階にとどまっている。つまり自動化の "島々" が互いに情報的に連結されるのは、まだまだ遠い先の話なのだ。そのためには経営上の専門知識をコード化して意思決定デバイスに入れ、それによって無欠陥機械を無人で制御しなければならないが、そんなことは当分不可能だということが分かってきたのである。結局1980年代の工場の全面自動化の夢は無残に破れ、着実な "改善" の方向へと戦略転換がなされたという。(3)
第三に、一番ひどい予測の失敗の例ともいうべきものが、オフィスのペーパーレス化である。米国の現実では、過去三十年に、実質GNP が2.8 倍になる間に、紙の使用は3.2 倍になった。1986年に消費された紙は2.5 兆ページだったのに対し、1991年には4 兆ページの紙が消費された。その最大の理由は、FAX とコピー機械の普及にある。他方、電子メールや音声メールはそれほど伸びていないし、いわゆるオフィス自動化機械の市場も予想外に伸び悩んでいる。例外はレーザー・プリンターだが、これも紙食い虫以外の何物でもない。今後EDI(electronic document interchange)でも本格的に普及すれば話は別だが、それはまだまだ大分先の話だと思われる。当面、ジャンク・メールやジャンク・ファックスは増加の一途をたどっている。企業が扱う情報の95% は紙だというIBM の推計(1988)もある。銀行も、EFT やカードでの取引も可能にはなったとはいえ、依然として紙に頼っている。(4)
第四に、近年の情報化のもっとも深刻な帰結というべきものは、情報技術の生産性向上効果が、大してないどころか、ほとんどないという事実である。これは、製造業を対象とする多数の実証研究の一致した結論なのである。非製造業、すなわち、銀行、商業、教育、保健などの分野では、概していえば生産性はむしろ低下したと考えられている。その理由としてあげられているのは、
などである。
では、家庭の変化はどうだったか。何よりもまず、 "第三の波" は、人々を職場から、今や "エレクトロニック・コテジ" となった家庭に返す、というトフラーの有名な予測は、完全に外れたという他ない。現在のところ、フルタイムの在宅勤務者は、米国の労働力のせいぜい10% にとどまっている。電子ブリーフケースなどを使ったテレコミューティングの実験は、ほとんど失敗し中止された。その理由としては、家庭での空間的制約や家庭でやれる仕事の種類の少なさ、あるいは在宅勤務者の管理をどうするかといった問題があげられている。しかし、より深刻なのは、人間関係や個人の心理的な問題、つまり、家庭内での摩擦や近所の騒音のわずらわしさ、孤独の淋しさ、仕事と余暇の区分ができないことからおこるワーカホリズム、ストレスと燃え尽き、といった問題群であろう。結局、在宅勤務は鳴物入りで実験が始まったにもかかわらず、長続きしなかったのである。在宅勤務が増えれば、交通難が解消されるとか、大気汚染が緩和されるといった効果は、せいぜい副次的な効果か、希望的観測にすぎない。考えてみれば、あたりまえのことだが、人は、そのような副次的効果があるからといって動くものではないのである。(6)
人々の家庭での生活自体も、結局のところ大して変わらなかった。いわゆるホーム・オートメーション、つまり、家事ロボットや壁掛けテレビ、家庭内端末、自動点灯システム等々には、消費者は燃えなかった。なるほど、1970年代から80年代を通じて、いくつかの新しい種類の家電製品や情報機器が家庭にも普及していったことは確かだが――電子レンジ、ビデオ、大型テレビ、CD、留守番電話、FAX 、ワープロ、携帯電話等――その結果人々のライフスタイルが一変したというまでにはいたらなかったのである。
また、情報化の進展によって、人々は、家庭の中にいながらにしてショッピングやバンキング、あるいは各種の情報サービスの利用などが可能になるという期待ももたれたが、これらも大して普及していない。ホーム情報サービスでいえば、アメリカのビデオテックス・サービスの普及率は、1985年には 5 %に達すると予測されていたのに、実際には 1% 以下にとどまった。なにしろ、後から考えてみると、ビデオテックスは使いにくいし、遅いし、融通がきかない上に、何より高価である。ニュース、天気予報、株価、飛行機の出発時間などといったたぐいの情報の魅力は、大したものではない。この種の情報サービスに金を払う気のある消費者は、少ないのである。ホーム・バンキングは、アメリカだけでなく、ヨーロッパや日本でも試みられたが、いずれも、実験の段階を越えられなかった。(7) 要するに、利用者としては、大して有用性が見出せなかったのである。何よりも現金の出し入れができないのが決定的に不便であった。そのため、銀行にしてみれば、せっかくホーム・バンキングのための資本投下を行っても、それに見合うだけの利用がない結果に終わってしまった。(8) ホーム・ショッピングもみじめな失敗に終わった。フロリダでナイト・リッダー社が行ったビュートロンの実験は、一種の総合型サービスの試みだったが、5000人しか客がつかず、5 千万ドルの損失を出して中止の憂き目をみた。その他、カリフォルニアでのタイムズ・ミラー社のゲートウェー・サービスや、シカゴでのセンテル社のキーファックス・サービスなどの試みも、やはり失敗に終わっている。その技術的な理由としては、スクリーン操作が難しすぎるとか、商品の選択範囲が狭い、支払いの仕方や購入した商品の配達のタイミングなどに問題が残った点があげられているが、より深刻な問題として、ショッピングの心理的・社会的満足がえられないこと、つまり、ホーム・ショッピングだと、家を出て、友人に会い、コミュニティと交わる楽しみがないことを、あらためて反省せざるをえないように思われる。(9)
それでは、より広い社会的な領域で期待された変化は、どうなったのだろうか。ここでも変化は遅々としている。学校に来るといわれた "教室革命" は、どこにも来ていない。アメリカの学校にコンピューターが普及したとはいえ、たかだか30人に一台程度にとどまっており、それすら見直せという声があがっている。むしろ図書費や教師の人件費に振り替えるべきだというのだ。なにしろ、コンピューター用の教育ソフトにはろくなものがなく、 "コンピューター・リテラシー" も言葉だけで内容がないことが分かってきたのである。
パソコン通信のようなシステムが普及すれば、ボタン投票や電子町民大会などが可能になり、 "電子民主主義" の時代が到来するという予測もあった。事実、そのような運動を率先して展開する人々や、そうした方向をめざして市民の啓蒙活動を行う試みもなくはなかった。しかし、そうした試みも、全体としての人々の政治参加意欲の減退傾向を逆転させるものにはなりえなかった。人々は今日、メディアからの情報が多すぎて、かえって政治に無関心になっているのである。それを如実に示しているのが、選挙での投票率の趨勢的低下である。(10)
それでは、情報社会の予言者たちの予測は、どうしてかくも惨めに外れてしまったのだろうか。フォレスターは、過去の技術予測や市場予測の再検討の結果を紹介しながら、その理由を探っている。
まず、シュナールの研究によれば、60年代の未来学者の行った技術予測――プラスティックの家、個人用垂直離着陸航空機、大陸棚農業、月旅行、家事・農作業・戦争用ロボット等の出現が予測された――の成功率はせいぜい15% にすぎず、そのほとんどは外れてしまった。その理由として、シュナールは、彼らが技術の驚異に魅せられすぎていたこと、また、技術上の可能性や、消費者の利用意欲を過大評価していたことをあげている。また、アメリカの市場調査会社の予測の不正確さを指摘したブロディーによれば、ロボット、人工知能、CD-ROM、ビデオテッスク、超伝導、ジョセフソン素子、ガリウム砒素チップ等は、いずれもその需要予測が過大にすぎた――なかには百倍にみつもられたものさえある――という。その理由として、ブロディーがあげているのは、
という五点である。
それでは、次に、情報革命がもたらした一連のまったく予想外の新しい社会問題について考えてみよう。それは、新たな社会的脆弱性とでもいうべき問題であって、次のようないくつかの事情に由来していると考えられる。
その第一は、コンピューターの誤動作傾向に由来するものである。コンピューターは、在来の電気、テレビ、自動車などの技術とは違って、しばしば、信頼性や安全性や予測可能性に欠け、その管理はほとんど不能である。アナログ装置や機械的装置の場合は、部分的故障が多く、すべてがダウンしてしまうことは少ない。ところが、ディジタル電子装置であるコンピューター・システムは、全面的で破局的な事故を起こしがちである。つまり、ダウンするとなれば完全にダウンしてしまうのだ。そのようなケースは、電話の料金計算や交換ソフト、銀行通帳、現金出納機、電子的資金移転システム、自動車免許データベース、等ですでに経験されている。また、工業用ロボットは時に暴走することがあることも知られている。心臓のペースメーカーやガレージの自動ドア開閉装置は、POS 機械やパソコンあるいはビデオ・ゲーム機などからでる電磁波や "電子スモッグ" のために使えなくなることがある。というわけで、コンピューターのハードやソフトの誤動作は、この産業の専門家がいうよりはずっと頻繁に起こるのだから、過信は禁物である。
その第二は、人間の誤用に由来するものである。世間でコンピューターに帰せられている誤動作の多くは、実は、機械ではなくて人間の間違いによるものである。さらに、単純な誤用というよりは、意図的な悪用、乱用、破壊行為も少なくない。ソフトの違法コピー、ハッキング、ビールスの散布、コンピューターを利用した詐欺、プライバシー侵害等、その例は枚挙にいとまがない。今日のハッカーやデータ泥棒は、もっとも進んだ金融や軍事システムにも侵入できる。ビールス作成者が大学や政府の通信ネットワークを台無しにしたこともある。搭乗券予約のごまかしや携帯電話のチップの再プログラミングのような犯罪例もあれば、秘密にされているはずの医療、金融、犯罪記録がいつのまにか第三者に入手されていたといったケースもある。
その第三は、コンピューター・システムが複雑になりすぎた結果として生じているシステムの管理不能性である。これは、そのシステムを作った人にさえ、どうにもならない場合が多い。(11)そもそもシステムの導入の過程で、当初の予算計画に大幅な狂いが発生することもしばしばある。2000万ドルのシステムのつもりが、6000万ドルの追加支出でもまだ動かず、ついに放棄を余儀なくされたバンク・オブ・アメリカの例もあれば、8 百万ドルのつもりが一億ドルになり、完成までの期間も6 年遅れたオールステート保険会社の例もある。しかもその規模は近年さらに増大傾向にある。また、ようやくシステムが完成したところで、ありうべき事故のすべてを事前に予想することはそもそも不可能である。それなのに、今日では、コンピューター・システムは、航空管制から救命システム、原発運営から巨額の資金移動やミサイル制御等、ありとあらゆる重大な用途に用いられている。これらのシステムは、火事、洪水、地震、停電等にも弱いばかりか、ハッカーの侵入や内部のサボタージュといった人的な攻撃にも弱い。処遇に不満をもっていた従業員が、ブリタニカ百科事典の新版の内容を書き換えたという事件もあった。そうかと思うと、狐やさめが光ファイバーケーブルの被覆をたべてしまったこともある等々。
その第四は、コンピューターを利用した情報処理・通信システムの利用が引き起こした新しい心理的な病弊である。それらは、組織の生産性や健全な人間関係の展開にとっての妨げとなる危険がある。たとえば、有用な情報とそうでない情報との区別がつかなくなる "情報過多 infoglut " 現象はその一つである。今日、米国だけで、一万四千の出版社が年五万点の新刊書を出している。科学雑誌の種類は四万で、年間百万点の論文を出版しているが、それらの数は年々さらに増える一方である。ところが、現在の情報技術は、大量の情報の収集、貯蔵、移動は可能にするものの、その解釈はいっこうにしてくれない。今日必要なのは、それらを知的に処理する技術、つまり、information technologyではなく intelligence technologyなのである。だが、情報解釈の技術の立ち遅れのために、組織でも、入ってくる情報が多すぎて、分析や決定ができないという状態が起こっている。個人の場合でも、米国人のテレビ視聴時間は一日に 7時間と 7分、ビデオ視聴時間は週に 5時間と8 分にのぼっている(1987 年の統計) 。ラジオの平均保有数は一家あたり5.3 台である。これらから、毎日1600の広告が入ってくる。このように一方的に流れ込んでくる大量の情報があるために、30歳以下の世代には、知識と関心の低下が顕著に見られるにいたっている。つまり、積極的な情報入手努力 (読書等) が放棄されつつあるわけだ。
いま一つの深刻な問題は、 "ハイパーコネクテッドネスの病理" とでも呼ぶべき人間関係の歪みである。たとえば、携帯電話やFAX を手離せなくなったコミュニカホリックの管理者が出現しているし、(12)コンピューター上でシミュレーションばかりやっているるスプレッドシート・ジャンキーもいる。そうかと思うと、大した用もないのに大量の電子メールのやりとりをする電子メール中毒もでてきている。しかし、それで仕事がより良くでき、より賢明な決定ができているかは、疑問という他ない。実際、他人との接触がふえすぎると、仕事の上の関係はかえって壊れてしまいかねない。部下は、むしろほっておかれたいのである。 フォレスターは、最後に、1970年代から80年代にかけての情報化の問題点を、次のように要約している。すなわち、人間の必要や能力を軽視しすぎたのが、最大の問題であった。それが一方で予測の失敗をもたらすと同時に、他方で、人間的要因にかかわる予想外の問題の頻発を招いたのである。そうだとすれば、今必要なことは、 "われわれの視界に人間を取り戻す" ことでなければならない。いいかえれば、技術 (とりわけ情報通信技術) と人間の関わりの見直しが必要なのである。
実際、生産の現場でさえ、ロボット化は真の解決ではなかった。ロボットは人間以上の問題児だったのだ。実は、一番フレキシブルな製造システムとは、人間自身ではなかったのか。アクセスに値する唯一のデータベースは、生き字引きのような長期勤続従業員の頭の中のそれではないのか。もっとも高度なコミュニケーション技法とは、膝突き合わせた話し合いではないのか。どうやら、近年のコンピューター技術の進歩は、それを利用する人間の能力を追い越して進んでしまっていたのではないか。商取引から看護にいたる広汎な社会的活動のすべてにコンピューターをやみくもに導入しようと焦った結果、それらの社会活動の非人間化を――キーをポンと叩いて金を盗むという意味では、犯罪さえもの非人間化を――もたらしてしまったのではないだろうか。コンピューター科学者やその他の熱心なコンピューター利用者に見られる "ナード (おたく) 症候群" とは、人間からゆっくり反省し考える時間を奪ったコンピューターが引き起こした "テクノストレス" の発現に他ならなかったのではないか。そうだとすれば、今なすべきことは、人生の目的の再反省であって、われわれは、自分が何がしたいか、何がほしいかをあらためて熟慮した上で、それに役立つ方向へ技術を向けていかなければならないのである。(13)
フォレスターの以上のような反省の言葉のなかには、聴くべき多くのものが含まれていることは確かである。しかし、基本的には、彼の反省は、後述するコンドラティエフの長期波動の下降期に生じた深刻な不況が触発した反省の典型的なもののように思われる。別の言い方をすれば、現在の事態が、コンドラティエフ長波の下降期を特徴づけるものであることを看取し、さらにこの長波の上昇局面への転換が、さほど遠くない未来に控えていることを予想した場合には、反省のトーンもまたおのずと違ったものになってくるはずである。現に、近年のアメリカでの議論の中には、フォレスター流の反省を通過した地点から議論ともいうべきものが現れている。(14)
(1)彼には、Forester(ed.)80 や Forester(ed.)85など多くの著書や編著があるが、とくに有名なのは Forester 87である。
(2)フォレスターは、80年代末から90年代初めにかけてアメリカに生じた失業の増大 は、コンピューターの導入の効果というよりは、不況と競争力低下による雇用の減 少のためだとしている。コンピューターの影響は、むしろこれからの景気の回復過程で出てきそうだ。つまり、これから景気が回復しても、元のように雇用がふえることはなさそうだというのである。
(3)いわゆるMAP(manufacturing automation protocol)は機械同士の通信を可能にする技術的突破のはずだったが、うまく進展しないでいる間に、OSI のような、それに競合する互換性のない多数のプロトコルに先を越されてしまった、というのがフォレスターの指摘である。なお、性急にすぎたFMS やCIM 化への反省が起こっているのは、日本でも同様 [平野93] である。私自身も、昨年の秋、たまたま日産自動車の座間工場――今にして思えば、閉鎖の決定の出る直前のことだったのだが――を見学する機会をえたが、その組み立てラインでは、あちこちに、それこそ櫛の歯を引くように、これまで据えつけられていたロボットが撤去されて人間の手作業に置き換えられていたのに一驚した覚えがある。
(4)ビジネス・ウィーク誌によれば、世界の情報の1%しかコンピューター化されてないそうだ [BW910603] 。なお、ペンタゴンは、最近、対紙戦争を宣言したという。なにしろ、ハイテク機器のマニュアルが重すぎるらしいのだ。一、二の例をあげれば、米海軍の巡洋艦一隻に搭載されている武器マニュアルだけで、その重さが26dにものぼるという。あるいは、ジェット戦闘機の調達・保守運用のために作成される文書量は初期には一万ページ前後だったのが、1970年代初頭のF14 では30万ページに、70年代中期のF18 では50万ページ以上になってしまったという。これでは確かにたまったものではないだろう。というわけで、この対紙戦争の先頭に立っているのが、国防総省が中心となって推進しているCALS(Computer-aided Acquisition and Logistic Support)と呼ばれている、現在の紙主体の調達業務を、ディジタル・ファイル交換標準に基づいたデータベースの構築によってペーパーレス化しようという計画である [小泉92] 。
(5)フォレスターは、その理由として、昼食時の飲酒の習慣がすたれたことや、オフィス・ラブの減少をあげている。
(6)この種の摩擦は、ある所与の社会における各種の制度間摩擦とでもいうべきものであって、一見望ましく思われる社会的な革新が失敗する最大の理由は、この種の摩擦がもたらす障害にあるように思われる。私自身の体験した例をあげてみよう。私の勤務している国際大学では、自由な研究活動の推進を期待して、大学本体の外に学校法人の理事長直属の研究組織 (グローバル・コミュニケーション・センター) を設立した。ところが、いざ設立してみて明らかになったことは、それでは文部省の考える研究機関の枠からはみ出してしまい――もちろん、そのような研究組織を設立すること自体にはなんの法律的支障もないのだが――通常の研究機関に与えられる補助金が受けられないばかりか、そこに勤める研究者は、奨学金の返還猶予の恩典には浴せないとか、文部省所管の科学研究費の申請ができないといったさまざまな "不便" に耐えなければならないということだった。それでも、グローバル・コミュニケーション・センターは何とか頑張って存続しているが、後で聞いたところでは、過去になされたいくつかの同様な試みは、結局すべて挫折してしまったそうである。
(7)1980年代の初期にアメリカやヨーロッパで行われたものの失敗に終わったホーム・バンキングの実験例として、フォレスターは、サンフランシスコでバンク・オブ・アメリカが行ったもの(15000人対象) 、ニューヨークでケミカル・バンクが行ったプロント・システム(21000人対象、1988年に中止) 、ハンブルグでフェアブラウヒャー・バンクが行ったもの (50000 人対象) などをあげている。
(8)他方、ATM の利用は大いに伸びた。つまり、キャッシュへのニーズはなくならなかったのである。MIT のリチャード・ソロモン研究員は、レーザー・プリンターがさらに高性能化すれば、家庭のプリンターに銀行が "現金" の印刷指令を送ることによって、 "真の" ホーム・バンキングが実現する可能性を示唆している (グローバル・コミュニケーション・センターでのコロキウムの際の発言) 。たしかに、 "現金" の "コピー" をプリントすると同時に "オリジナル" は破棄することが安全確実にできるならば、その可能性はありそうである。
(9)もちろん、こうした心理的・文化的な難点があらかじめ知られていなかったわけではない。ホーム・ショッピングの可能性に賭けた側としては、それを上回る便利さがあるはずだと考えていたのだろう。しかし、これまで慣れ親しんできた環境やそれがもたらす心理的な満足を犠牲にしても新しい環境を選ぶという気持にさせるためには、新しいシステムの便利さや使い勝手のよさ、費用の安さといった特性はよほど大きなものでなくてはならないだろう。ビデオや電子レンジ等の家電製品に付与されている多種多様な機能のほとんどが利用されないままに終わっているという事実は、それらを利用するために必要とされる僅かな操作上の複雑性の閾が、意外に高いことを示している。これまで、多様な機能の付加された割高な製品を喜んで購入していた――しかも実際にはそれらの機能をいっこうに利用しなかった――人々は、恐らく、その気になれば利用できるはずの多様な機能が搭載されているという情報のもたらす心理的な満足に対して、代価を支払っていたにすぎないのであろう。したがって、実際にはそのような機能は利用していないし、将来もあえて利用する気にはなりそうもないことに気づいた時、シンプルな製品への回帰が起こったとしても当然だろう。だが、それにしても、だからといって、ホーム・バンキングやホーム・ショッピングが未来永劫消費者に受け入れられないと決めつけるのもまた誤っているように思われる。今日でも、たとえばビデオゲーム世代の共稼ぎ夫婦2忙しいシングルたちのための、操作が容易でしかも便利なサービスが利用可能になったとしたら、少なくとも大都市では広く受け入れられる素地があるのではないだろうか。つまり、コンセプトとしては、 "ホーム・コンビニエンス" のようなサービスが考えられるのではないだろうか。
(10)フォレスターは言及していないが、広い視野と豊富な情報をもった "電子市民" たちが作る "電子民主政" のかわりに、今日の先進産業社会に急速に台頭しつつあるのが、テレビを媒体とする "トークショー (似而非) 民主主義" である。トークショーに電話してくる市民たちの関心は、ごく狭い特定のイシューに集中しており、しかも理性的というよりは情緒的な反応が顕著に見られる。一つ間違えば、それは "衆愚政治" に堕しかねない危険を孕んでいるというべきだろう。そうしたトークショーの隆盛を見ていると、ジョージ・ギルダー流の "テレビ時代の終焉" [Gilder 92-1] は、まだまだ当分やってきそうにもないのではないかという疑念を容易には拭えなくなる。
(11)フォレスターによれば、英国コンピューター協会は、1989年に、ソフトが複雑になりすぎたので人間の安全は保証できないという趣旨のレポートを出したという。
(12)この点との関連で、フォレスターは、仕事のことで相手の自宅に電話したりすると、仕事と非仕事の境界が曖昧になるという、英国のLoughborough大学の研究に言及している。また、運転と思考を同時に行うことは、もともと無理な話なのだから、自動車電話は交渉と意思決定の技能に重大な損害を及ぼすとも指摘している。これらの論点は、仕事と非仕事の境界をもともと区別せず、仕事の電話を相手の自宅に平気でかける日本の習慣と比較してみると興味深い。また、日本の上級管理者は、運転手つきの車に乗っていることが普通で、外から遮蔽された空間の中からだとかえって落ち着いて電話をかけることができ、交渉や意思決定に有利に作用する――運転手に話を聞かれたり、電話が盗聴される危険を別にすれば――という事情も、一考に値するだろう。
(13)フォレスターの講演は、すでに学校ではそのような反省が始まっているとして、それを評価する次のような言葉で結ばれている。
It would be nice to think that our schools and colleges are helping make future generations more aware of the choices and the possibilities, rather than fatalistically joining in the uncritical, headlong rush toward an ill-defined and ill-thought-out high-tech future.
(14)ジョージ・ギルダー(George Gilder) の議論 [Gilder 89, 92-1, 92-2]などはその典型ともいうべきものである。