93年度著作へ

1993年5月01日

「人間と社会のモデル」

−村上の方法論へのコメント−

公文俊平

まえがき

グローコムでは、その自主研究プロジェクトの一つとして、故村上泰亮所長を中心に、新しい(反古典の)政治経済学の構築の試みが進められている。その成果の一端は、近く単行本の形で出版されることになっている。

私は、このプロジェクトのいわば周辺にいて、折にふれて共同研究会に参加し、議論に加わってきた。以下は、それに触発されて私が考えたこと、とりわけ村上の方法論に対して試みたコメントの一端である。私としては、これを出発点として、村上とさらに立ち入った議論を交わすことを楽しみにしていた。この原稿自体は、今年(1993年)の5月に書かれて、村上のもとに送られたもので、われわれはそれについて電話で多少の会話をかわした。「これを読むと、僕の原稿をもっといろいろ書き直したくなってきますね」というのが村上のとりあえずのレスポンスであったが、結局それ以上の討論はできないままで、村上は不帰の客となってしまった。まことに残念である。

そこで、私としては、この原稿をグローコムの「リサーチ・ペーパー」の形で印刷に付し、プロジェクトへの参加者諸氏の参考に供することにしたい。

(一) 共同研究の背景

この共同研究への参加者たち――以下、「われわれ」と呼ぶことにしたいが――は、少なくとも次の三つの問題意識を通有しているといってよいだろう。

その第一は、近代産業社会という言葉で一括される経済社会、あるいは政治経済社会には、さまざまなタイプのものがありはしないかという問題意識である。これまでの経済学のアプローチの主流は、すべての近代産業社会に普遍的に適用できる (と信じられている) 理論によって現実を分析したり、現実が理論により近づくように、現実を変えようとしたりしてきた。だが、このようなアプローチは、近代産業社会の異なるタイプを析出したり比較したりするには、明らかに不向きである。

もっとも、近代経済理論の内部にも、産業社会のタイプ論が存在しなかったわけではない。いわゆる "比較経済体制論" は、まさにそれを課題とするものであった。しかし、比較経済体制論のアプローチは、近代産業社会を、その形成・運営の仕方に人為がどこまで加わっているかによって、計画主導型 (社会主義経済) と市場主導型 (資本主義経済) とに大別し、それぞれの体制が基本的には存続可能なことを認めた上で、両者の特質を理論的に、また経験的に、比較評価しようとするものであった。(1)

ところが、1980年代の終わりになって、社会主義体制の失敗が現実の問題として否定しがたいものになってしまうと、これまでのような比較経済体制論の存在意義は、ほとんど失われてしまった。他方では、資本主義陣営内部の対立や競合が、深刻な政治・経済問題として浮かびあがってきた。そこで、 "資本主義対社会主義" の比較に代わって、これまではひとしく "資本主義体制" として一括されていた各国の政治経済の中に、相互の異質性を認めたり、異なったタイプのものを見出したりしようとする動きが、新しく出てくるようになった。(2) われわれの第一の問題意識も、その線上にあるものである。

ある見方からして "資本主義" あるいは "市場経済" として一括できる政治経済体制の中にも、より細かな制度面や経済主体の行動面に少なからぬ違いがあることに気づけば、それらを何らかの比較基準によってタイプ分けしてみたくなるのは当然である。さらに、そのような相違が、なぜ、いかにして、発生し持続しているかを説明したくなるのも当然だろう。そのような比較基準や説明原理が、既存の経済理論の道具箱には見当たらないとすれば、新しい経済学の構築が必要になってくる。

新しい経済学の説明原理の一つとして、生物学のいう "遺伝因子" に似た "文化因子" とでもいうべきものの存在を想定し、それが主体の意識や行動を、さらにはシステムの制度や構造を、背後から制約していると考えるアプローチを採用するならば、それは、広い意味での "文化論的アプローチ" ということができるだろう。一方では社会を構成する個別主体の間に、同一の文化因子群が広く通有されているが、他方では、社会が違えば文化も違うとすれば、文化因子は、資本主義間のタイプの違いを説明する有力な因子の一つになりうるかもしれない。すべての違いを文化に帰着させる狭い意味での "文化論的アプローチ" は極端にすぎるにしても、政治経済体制の構造や機能におよぼす文化の影響をいっさい無視するのは、経済学にとって賢明な戦略とはいえないだろう。

いま一つの説明原理としては、政治経済体制の形成や運営における "人為的要因" ―― "政策的要因" や "計画的要因" ――の役割を重視するものが考えられる。それは、広い意味での "政策論的アプローチ" 、 "計画論的アプローチ" 、あるいは "目的論的アプローチ" などと呼ぶことができるだろう。もちろん、人間はあらゆることを政策的・計画的に構想し実現できるし、現にそうしていると考えるのは、思い上がりもはなはだしい。しかし、人間が作りあげて運営する組織や制度の構造や機能が、なぜ、いかにして、出現し存続しているのかを説明するにあたって、人間の自由な意思というか目的意識をいっさい無視するのは、どんなものだろうか。ともあれ、このアプローチの可能性と意義は、われわれの第二の問題意識とも密接に関連している。

われわれが通有する第二の問題意識は、体制の構成要素としての個々の主体は、自分を取り巻く全体としての政治経済体制やその中での自分の地位や役割を、所与のもの、一定不変のものとみなす必要はないばかりか、新しい地位や役割の追求あるいはさらに新しい政治経済体制そのものの構築や運営にさいして、主体の人為的な政策や計画が少なくともある程度までは有効でありうるのではないか、というものである。あるいは、事実の問題として、これまでに人間が作り上げたさまざまな政治経済体制には、人為が積極的な意味で少なからず寄与していたのではないかという疑問である。それは、いいかえれば、いっさいを "見えざる手" の働きに委ねるのは、果たしてどこまで賢明なことだろうか、という疑問でもある。このような問題意識は、抽象的・一般的には、システムの意識的な自己再組織の可能性や戦略を問うものだといえようが、より具体的・特殊的には、社会の変化にさいしての国家 (政府) の積極的な役割の有無を問うものだともいえる。すなわち、ここでいう政策や計画は、当該政治経済体制の内部の当事者というか構成要素としての経済主体 (生産者や消費者) のそれではなく、政治経済体制を全体として構想・観測したり、構築・規制・運営したりしようとする、より上位の主体、 "見える手" としての、 "国家" のそれなのである。

今日、国家の――あるいはさらに上位の主体としての超国家的な機構の――果たしうる、あるいは果たすべき積極的な役割への期待は、二つの分野で盛り上がってきている。

その一つは、産業化の後発国―― "南" の諸国とか "第三世界" などと呼ばれる国々や地域――のいわば "追いつき型" 産業化の人為的な推進の分野であって、ここでの国家の積極的な役割をある範囲内で容認し期待する思想は、 "開発主義" と呼ばれている。開発主義は、かつて "社会主義体制" による最も極端な人為的産業化をめざして失敗した国々にも、あらためて適用可能なのかもしれない。また、一国の政策体系としてばかりでなく、超国家的なシステム――たとえばASEAN ――にも適用可能なのかもしれない。少なくとも、開発主義に立脚した国家間の協力協働体制(地域的経済協力体制)は、今日の新興独立国家にとって、かつての主権国家間の国威の増進・誇示競争の場としての "近代国際社会" に代わる、新しい国際システムの理念となる可能性がある。

いま一つは、産業化の先発国での、 "未踏の領域" に向けての産業化のいっそうの推進の分野である。1970年代の後半以来、 "情報革命" とか "第三次産業革命" とでも呼びたくなるような、恐らく百年に一度くらいしか起こらない技術革新の大波が、先進産業社会に押し寄せている。しかしその帰趨を明瞭に読み取ることは、容易なことではない。その中で、国家 (あるいは "世界" ) は事態の進展を単に放置しておいてよいのかという問いが、あらためてなげかられている。個別企業のような分権的な経済主体の自由な行動にまかせておくと、新しい可能性に気づいたり、それに合わせて意識改革や自己再組織を行ったりするのが遅くなりすぎるかもしれない。新しい可能性を生かそうとしても、技術革新の成果を具体化しうるだけの十分な貯蓄や投資が行われえないかもしれない。その結果、自国の経済競争力や、さらには経済的政治的な影響力や安全が、失われてしまうかもしれない。あるいは、プライバシーの侵害とか、各種のテクノストレスなどのような予想もしていなかったような技術革新のマイナスの影響が、人々を脅かすかもしれない。最低限、古い技術や古い産業構造を前提にして作られている現存の規制の体系や権利義務関係の法律的枠組みは、早急に手直しする必要がありはしないか、等々。そこから、産業化の新段階への円滑な移行を保障するための国家の介入や支援を是認する思想としての "産業政策" 論、あるいは産業化の先進国のための "新開発主義" とでも呼ぶべき思想的立場が生まれてくる。

"開発主義" や "新開発主義" は、真にどこまで有効だろうか。 "開発主義" の有効性はともかくとして、未踏の領域を切り開いていくさいには、国家のなしうることは極めて限られているので、 "新開発主義" は結局のところかつての "社会主義" の轍を踏む結果に終わる危険はないだろうか。あるいは、有効でありうる可能性はあるとすれば、それを現に有効なものとするためには、どのような具体的内容を与えるべきだろうか。これがわれわれの通有する第二の問題意識である。

このように考えるならば、かつて "社会主義体制" がわれわれに突きつけた問いそのものは、社会主義の崩壊の後も、依然として妥当性を失っていないことに気づかざるをえない。すなわち、

  1. 教科書的、標準的な "資本主義体制" あるいは "産業社会体制" 以外にも、十分な存続・発展力をもつ、その "変種" が現に存在しているのではないか、

  2. 政治経済体制の構築や運営にとって、 "自由主義体制" 以外の有力な選択肢、とりわけ、国家がより積極的な役割を果たす型の選択肢がありうるのではないか、

という問いがそれである。

われわれが通有する第三の問題意識は、以上の二つの問いに答えることのできる "新しい経済学" の構築にさいして、生物学の方法に学ぶことが有用ではないかというものである。(3) 多くの人が指摘するように、これまでの経済学は、 "万学の王" としての近代物理学の方法から、もっぱら学んできた。物理学の方法は、研究の対象とされるシステムの個々の構成要素の行動(behavior)を支配している法則が、システムの全域にわたって一様かつ不変である場合には、大きな有効性を発揮する。しかし、個々の構成要素の行動を律している法則 (ルール) が、要素ごとに異なっているばかりか、時間と共に変化する場合、さらにいえば個々の要素が自分の行動を律する法則 (ルール) をいわば自分勝手に選び取ったり作りだしたりする場合には、それらの要素の結びつきとして作られているシステム―― "複雑系" ――の行動は、原理的に予測しようがない。社会は、物理学の想定する物理系よりは、この意味での複雑系に、より近いと考えられる。複雑系の一つの典型は生物であり、生物学の中には、複雑系の分析に適したアプローチ――たとえば村上のいう "進化論的アプローチ" ――がすでに存在している。そうだとすれば、新しい経済学構築の手がかりは、さしあたり生物学に求めるのが有望であろう。

しかし、そのことは、社会科学あるいはとりわけ経済学を、生物学に "還元" することを意味してはならないはずである。人間や人間を要素とするシステムは、生物一般に妥当するアプローチだけでは捉えきれない独自性をもっていると考えられるからである。

以上が、われわれが通有していると思われる問題意識の、私なりの "反省" に基づいた整理である。(4) 以下、このペーパーでは、村上が「反古典的方法序説」で展開している議論を、このような問題意識を自覚しながら読み返してみる中で、私なりのコメントをいくつか加えてみたい。また、付論として、経済学の中心概念の一つである、 "財" および "サービス" のの概念規定と分類についての、一つの試論を示してみたい。私としては、そのような仕方で、われわれの共同研究に参加することによって、お互いの理解をより深く豊富なものにすることに、幾分でも貢献できることを願っている。

  1. さらに、社会主義体制の中に、たとえば "市場社会主義体制" のような、資本主義体制との一種の中間型を設定したり、あるいはその他のさまざまなタイプを区別しようとする "比較社会主義体制論"[岩田71,93] の試みもあったが、 "資本主義" の中でのタイプの区別や比較は――歴史的な変化の分析を別にすれば――本格的には行われてこなかった。

  2. いわゆる "日本異質論" は、この意味での資本主義の体制内比較論の一種だと解釈できよう。もっとも、そのなかには、ヴァン・ウォルフレンのように、日本を、主権国家でも自由市場体制でもない社会だと位置づけて、日本社会における自由と民主主義の欠如を糾弾する論者もいる [ヴァン・ウォルフレン 90]が、それはあまりにも極端な立場である。

  3. 生物の世界では、 "種" は一つではなく多数存在していて、その多くの間には、捕食関係等さまざまな相互作用が見られる。しかも、 "種" は、時間の経過とともに "進化" をとげる。また、ある種に属する生物の個体は、幼児から成体へと生長していく。病気の時もあれば健康な時もある。学習を通じて、さまざまな新しい行動の形式を身につけることもある。幼児期の個体をその親が保護したり保育したりすることも多い。また、ある個体が病気になったり怪我をした時には、他の個体との競争場裡から身を退いて回復を待つことも、しばしばある。似たような現象は、人間の個体や集団の生活史にも、ごく普通に見られるはずであって、社会科学の研究の対象となって当然しかるべきだろう。

  4. この他に、われわれが通有しているもう一つの問題意識として、環境・資源問題にかかわるものがあるが、ここでは取り上げない。

(二) 経済学の二つの基本問題と二つのアプローチ

村上はまず、経済学の取り組むべき二つの基本問題として、

  1. 産業化の全体的ダイナミックスといういわばマクロ問題、

  2. 経済主体間の調整のメカニズムといういわばミクロ問題、

をあげる。これは、一見したところ、先に述べたわれわれの基本的問題意識と直接の関係がないようにみえるが、実はそうではない。村上がここであげているのは、近代社会の経済理論が、常にその関心の中心にすえ続けていなければならない基本問題なのである。

村上によれば、この二つの基本問題を理論的に分析するためのアプローチとしては、ミル流の動学/静学、あるいは、長期分析/短期分析という二分法は適切ではない。なぜならば、二つの問題の違いは、経済システム全体の動きをみるか、それとも個々の主体の相互作用をみるかという分析視角の違いに尽きている。だから、分析のためのアプローチとしては、どちらの場合にもできるだけ "動学的" なものを採用すべきだからである。そこで村上は、前者に対しては "進化論的" な、後者に対しては "ネットワーク論的" なアプローチを、二分法的というよりは相互補完的なアプローチとして採用しようと提案している。進化論的アプローチの特色は、技術革新のような自己再組織過程をも含んだ、組織の自己維持・拡大過程の分析、つまり「変わらないものが変わっていくという」逆説的な過程 (進化過程) の分析、がなされる点にある。他方、ネットワーク論的アプローチの特色は、分析の対象とされる人間世界を、 "ネットワーク" 、つまり、それ以上は分割が不可能というか無意味となる、(1) 分析の最終単位としての複数の "individuum (個体)"が情報および物的な相互作用を通じて結びついた "全体" だとみることろにある。(2) 私が最初に掲げた三つの問題意識に応えてくれるのは、まさに、村上がその採用を提案しているこの二つのアプローチなのである。なぜならば、これらのアプローチは、なによりもまず、生物学の方法に学ぶ中で生まれてきたアプローチである。そして、 "ネットワーク・アプローチ" は、互いに異なる政治経済体制の出現の分析や説明を可能にする。また、産業社会の変化あるいは進化にさいして国家の果たす (べき) 役割については、 "進化論的アプローチ" こそが、その解明に資することが期待できるからである。

  1. それ以上の分割が不可能ないし無意味というのは、分析の対象とされている事物のもっている属性のためもさることながら、分析にさいしての枠組みとして利用されているシステム形式の属性のためである面が強い。たとえば、ここでいう "ネットワーク" のような形式のシステムにおいては、その最も基本的な構成単位がある特質をもった "individuum" であることが、あらかじめ前提されている。人間という事物を、さらにその構成要素に分けて行くことはもちろん可能だが、そうした場合には、それらの要素は、社会の一員としての意味を失ってしまう。あるいは、ネットワークというシステムの要素としては無意味なものになってしまうのである。

  2. 村上の二つのアプローチには、宇野理論での "段階論" と "原理論" の区分を思わせるものがある [宇野弘蔵、『経済学方法論』] 。宇野の "段階論" と "原理論" は、共に、長期的・動学的なアプローチであって、両者の違いは、後者が、近代資本主義経済体制を、あたかもそれが永遠に持続・反復されるような運動と循環の相において捉えようとするのに対し、前者は、システムをその段階的な進化・発展――価値中立的な――の相において捉えようとする点にある。したがって、村上の "進化論" 的なアプローチは、宇野の "段階論" に似ている。しかし、村上の "ネットワーク論" と宇野の "原理論" とは、かなり違うような感じがする。そこで思い出すのは、宇野の経済理論の体系には、 "段階論" と "原理論" に加えて "現状分析論" が含まれていることである。村上の "ネットワーク論" が、「組織と完全競争市場の中間の無数の諸形態」を分析の対象としているとすれば、それは宇野の "現状分析論" により近いと言えるかもしれない。あるいは、 "原理論" と "現状分析論" を共に含んでいると言えるかもしれない。

ネットワークと主体

村上が用いている基本的な術語の中には、私がこれまで社会システム分析にさいして用いてきたものと部分的に重なりながら、その意味が微妙に違っているものもある。そこで、これから用いる術語の意味について、あらかじめ多少の考察を加えておこう。

村上のいう "ネットワーク" とは、私の言葉でいえば、 "社会システム" に対応している。私のいう "社会システム" とは、

複数の主体が、

  1. 共通の文化を基盤として、
  2. 恒常的で定型的で規則的な相互行為を通じて互いに結びつくこと、

によって形成された一個の全体、である [公文 88:153]。

(1) ここで、 "主体" とは、村上のいう "individuum" にほぼ等しく、 "相互行為" 、あるいはとりわけ "恒常的で定型的で規則的な相互行為" とは、村上のことばでいえば、人間間の様々な "相互作用の束" としての "transaction"にあたるといってよいからである。("文化" については後にふれる。) なお、村上は、ネットワークの構成要素としての individuum である "人間の個体" は、生体としての "ホメオスタシス" の単位であることに加えて、 "反省活動の単位、あるいは思考の座" でもある点を強調している。私も、 "主体" は――生体としての特性をもっていることは自明の前提として――世界に対して物理的に働きかける能力をもつと同時に、認識・評価・決定といった思考活動能力をも有していること、つまり比喩的にいえば<肉体>とその<延長物>の他に<精神>をも備えた存在であることを、強調してきた [公文 78:41-2] 。村上自身も、 "主体" という言葉を時々使っている。そこで、以下、この章では、 "ネットワーク" という言葉は、村上の意味で用いる。他方、 "人間の個体" という言い方は長くなるので、以下では "主体" という言葉の方を使うことにしよう。

そのことを念頭においた上で、主体に関する村上の議論に、つぎの二点で補足を加えておきたい。

第一に、主体は、生体と似たような意味で、ホメオスタシスの単位としての "自他分節" を行っている。しかし、その自他分節の仕方自体は、生体の場合と同一ではない。生体の場合には、世界の中での自分と他者 (外界) との間の境界を定めているのは遺伝的な要因と環境的な要因の二つである。 (環境的な要因も加えてあるのは、例えば、他の生き物に食いちぎられた自分の足は、もはやホメオスタシスの単位としての "自己" の一部ではなくなるからである。) ところが、主体の場合、自他分節の物理的な境界も心理的な境界も、共に、主体自身の意思決定に依存して――遺伝的、環境的、文化的等々の要因に加えて――定められている面がある。たとえば、生体における肉体の延長物にあたる各種の手段のどれを<自己>の一部とみなし、どれを<他者>の一部とみなすかは、少なくともある程度まで、その主体自身の決断 (および関係する他の主体の合意) の結果として定まる。しかもそのさい、自分と他者に共に属する領域――共属領域――すら設定することが、場合によっては可能である。従って、主体の場合、自他分節の境界の設定には、かなりの主観的な自由度があり、しかもそれが現実的・客観的な意味をもちうるのである。

物理的自己

生体的自己

心理的自己

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       第二に、主体は、外界との間に――とりわけ他の主体やネットワークとの間に――情報による結びつきの他に、物理的な相互作用を通じた結びつきももっている。事物の間の相互作用の中には、たとえば引力のように、その作用自体の発揮を主体が制御できないものもある。制御できない作用の中には、不変のもの――たとえば引力――のものもあれば、時間と共に変化するもの――たとえば太陽黒点の作用――もある。しかし他方、作用の有無や発現の仕方あるいは程度を、主体自身が制御できるものがある。その中には、別の作用によって、当該の作用を間接的に無効にしたり――たとえば対抗音波を発生させて雑音を消す――あるいは逆に増幅したり――たとえばスピーカーを通じて声を拡大する――できるものもある。あるいはまた、ある事物のある特定の作用を、主体自身の意思決定と活動によって、自由に発現させたり停止させたりできるものもある。たとえば、掃除機のスイッチを入れて埃を吸い取らせたり、それを止めたりすることができる。主体が、なんらかの事物の作用の発現を直接制御することは、主体によるその事物の "使用" と呼ぶことができるだろう。主体は、ある事物を使用することによって、他の事物の作用を間接的に制御することも、可能な場合があるだろう。さらに、各種の作用のそのような直接間接の制御を通じて、つまり、各種の事物の使用を通じて、主体が認識し評価する世界 (の一部としての "客体" ) を、自分にとって望ましい状態 ( "目標状態" ) に置くことも、ある程度までは可能だろう。その場合には、ある目標の実現のために使用される事物のことは、 "手段" と呼ぶことができるだろう。(2)

こうした概念枠組みを前提すれば、主体の "行為" とは、主体がある目標の実現をめざして行う手段の使用だと定義することができる。あるいは、行為とは、意図的目標追求行動、ないしは"(主観的な) 合理的行動" だといってもよい。ただし、客体が取る状態は、使用される手段の作用以外に、他のさまざまな作用――たの事物からの "外乱" ――も合わさって決まってくる。このような関係は、機能的には、次のような図式で表現することができる。(3)

     
  1. 私自身は、 "ネットワーク" を、ここでいう "社会システム" の一つの下位のクラスとして定義している。すなわち「ネットワークとは、その中での主体間の相互制御関係が、主としては自分や知識の通有を通じての説得・誘導によって行われるような社会システム」をいうとしている [公文 88:163]。しかし、この違いについては、ここでは立ち入らない。

  2. 私は、ここで示したような "使用" と "作用" を区別するという視点の導入は、経済学の基本的な概念とされる "財" および "サービス" の定義や分類に、とりわけ "公共財" の概念を明確化する上で、有効性を発揮すると考えている。この章の終わりに添えた付論は、そのような観点からの試論の一例である。

  3. 上の主体の行為の図式については、次の二点への留意が必要である。第一に、ここには物理的な自他分節の境界は明示されていない。実際には、ここで示した@決定、A手段、B客体、C他事物のすべてについて、その一部に<自己>もしくは<他者>が含まれている可能性が、常にありうる。第二に、ここには情報的な結びつきも明示されていない。しかし、それが存在することは、当然の前提として省略されている。

進化・進歩・発展

さて、村上によれば、ネットワークとは "進化" するシステムである。ここでの "進化" は、 "進歩" つまり改善をもたらす変化の概念とは異なる、価値中立的な変化だとされている。いいかえれば、進化過程は、進歩の過程である (という評価が可能な) 場合もあれば、退歩の過程である (という評価が可能な) 場合もあるし、どちらとも言えないような変化の過程である場合もありうるのである。さらに、概念の内容自体に即していえば、村上の理解する進化とは、「不変性を貫こうとする力とその不変なるものを変える力が絡み合う二重の機制が、進化に他ならない」のである。そして、村上の考えでは、ネットワークの場合、その中での不変性を貫こうとする力、つまり複製を実行する力を担っているのは、生体の場合における "遺伝子" に加えて、 "文化子" である。ただし、遺伝子に比べると文化子の自己複製能力は「明らかに不完全」だが、その理由は、人間が反省機能、つまり「文化子の忠実な複製を或る意味で自ら選んで妨げ」る能力を、もっているからである。いいかえれば、人間は、自分個人の世界イメージを反省して作り変える活動を通じて、文化子自体を変異させる、と村上は考えている。それが、人間の個体やそれを要素とするネットワークが、環境への高い適応能力を――少なくとも短期的には――もっている理由だともいう。

なお、遺伝子に対してその "表現型" つまり生体の "身体" があるように、文化子にもその表現型としての "慣行や文化" がある。そして、人間は、遺伝子と文化子を、あるいはその表現としての自分や自分の子孫の身体と、自分の依存する慣行や文化を、「保存し複製し、拡散させるようとするかのように行為する」。これが、ネットワークの中での人間の挙動に関する村上の基本仮説である。つまり、村上は、ネットワークの進化の過程を、「特定の文化子が生き残り拡散していく軌跡」、あるいは特定の文化子が局所化していったり、遂には消滅したりする軌跡、として見、描きだそうとするのである。

私は、村上のこのような解釈と仮説に、大筋では賛成するが、細かい点では若干の不満を覚える。たとえば、村上は、後述するように、文化子をほとんど "情報" と同一視し、その具体例としては、組織や技術、あるいは消費の型などをあげているが、それは必ずしも適切とはいえないのではないか。また、文化子は、個人の反省によってたちまちその複製が不完全になったり、新たな変異が発生したりするともいうが、文化子はそれほど変わりやすいものなのだろうか。そうではなくて、遺伝子ほどではないにしても、文化子もまた、その多くは相当の長期間――少なくとも千年を単位とする期間――にわたって不変なままに受け継がれていくと考える方がよいのではないだろうか。たとえば、全体から始まって部分に及ぶ形の文章構成を取るといったような日本語の文法の基本構造は、少なくとも千年以上にわたって、大きな変化なしに受け継がれて来ているといってよいだろうが、そのことは、文法の基本構造に表現されている日本人のものの見方、考えかたの大枠は、有史以来ほとんど変わりがないことを意味しているだろう。あるいは、イタリアの日本学者マライーニ [Maraini 75] が指摘している、 "まこと" という言葉に客観的な真実性と主観的な誠実性を共に意味させるといったような、事実と価値とを融合の相において把握するという日本人の世界観の基本的な特質も、過去千年以上にわたって持続されてきているし、今後も当分変化する気配はないように思われる。私としては、そのような文章構成や意味構成に表現されている日本人の世界観や価値観のことを、 "文化子" の例にあげてみたいのである。しかし、その意味での文化子も決して永久不変ということはなく、やはり時の経過のなかで、なんらかの "変異" をとげていくだろう。しかし、そのような変異は、起こるとしても、人間の意識的な反省の結果というよりは、ほとんど説明しがたい無意識の過程として発生するものではないだろうか。あるいは、自覚的な反省の結果が、ついには文化子の変異を引き起こすことがないとはいえないにしても、その因果関係はより間接的であり、よりゆるやかなものではないだろうか。

というわけで、私は、文化子としては、人間がより無意識のうちに学び取り、身につけ、世代から世代に伝えていく、基本的なものの見方、考え方 (世界観や価値観) 、あるいは行為や組織形成の基本原理を考えてみたい。そして、そのような文化子の "表現型" として、人間がその "生活世界" の中で人為的に作り上げている物財や制度、あるいは理論や哲学、芸術やスポーツのようなもの――すなわち "人為物" 一般――を考え、それらを "文化" に対して "文明" と呼んでみたい。さらに、人間は、村上のいう "反省" を通じて、無意識に受け継いだ文化の内容を概念化して、自覚的な "理想" の域に高め、それを "文明" の要素である人為物として "実現" していこうとする、と考えてみたい。(1) この意味での "理想" は、 "目標" の一種ではあるが、行動の主体としての自己そのものの再組織を目標としているという意味で、通常の行為にとっての目標よりは、より高次の目標なのである。

私の立場をもう少し詳しく説明してみよう。まず、ネットワークの表層には、生活世界のレベルでの主体のさまざまな合理的行動 (行為) が、主体間の相互行為として織りなされている。それらの行為は、大きくいえば主体のおかれた環境への適応を目的として、具体的にはその時々に設定されるさまざまな目標の実現をめざして、文明の構成要素としての各種の人為物を手段として使用することによって実行されているが、その結果として、さまざまな人為物が "消費" されたり、あるいは "生産" されたりすることも多い。そして、そのような行動の結果が、既存の文化や文明の維持とさらには拡大に結びついている場合には、そこに "発展" が生じているということができるだろう。

しかし、そうした行為の中には、明確な目標追求行動というよりは、慣習化された行動、あるいは発作的行動ないし無目的の行動といわざるをえないような、手段・目標関係の自覚が欠如しているもの、あるいは不十分なものも少なくない。それらの行動は、もっぱら "遺伝的" あるいは "文化的" に "条件づけられた" 行動だということができるだろう。また、一応は行為の体裁を取ってはいても、手段の使用の仕方や目標の選択に関して、なぜある特定の行為の型が選ばれたのかと反省して見ると、遺伝的あるいは文化的な枠組みがなにがしかの程度その方向づけを規定していたと気づかざるをえないような行動も少なくないだろう。そして、その中でも、変異した文化に条件づけられて生じた行動の変化のことは、まさしく村上のいう意味での行動の "進化" にあたると考えてよいだろう。

他方では、その逆に、反省して自覚された遺伝的文化的な枠組みを意識的に強化したり、あるいは逆にそれから意識的に自由になって新しい枠組み (のように思われるもの) を作りだしてそれに従ったりする意図をもって、選択・実行される行動もあるだろう。その場合には、行動の成功は、少なくとも主観的には、それまでの行動の改善に結びつくはずである。私は、そのような行動を、 "理想に導かれた行動" あるいは "理想の実現をめざす行動" と呼んでみたい。そして、その結果として生ずる行動 (やさらにはシステムの構造) の改善のことを "進歩" と呼んでみたい。ここでは、変化は明らかに目的論的であり、価値志向的だからである。(2)

そうすると、ネットワークの中での主体の行動の中には、

  1. 結果として主体やネットワークの発展をしばしばもたらすような、純粋な合理的行動、

  2. 基本的には、現存するシステムの諸特性を維持する方向に働くが、文化自体の変異の結果として主体やネットワークの進化をもたらすことも時にはあるような、遺伝的・文化的に条件づけられたり枠づけられたりした行動、

  3. 結果として主体やネットワークの進歩をもたらすことがありうるような、理想に導かれた行動、

という三種類の理念型が存在するということができるだろう。いや、もっといえば、それらの特質は、行動自体のタイプの違いというよりは、行動がもっているいくつかの側面というかレベルにかかわるものであって、主体のすべての行動は、なにがしかの程度、それらの三つのレベルにそれぞれかかわっているという方がよさそうだ。意識のレベルとの関係でいえば、行動の三つのレベルは、それぞれ、1)生活意識のレベル、2)その下層にある無意識ないし下意識のレベル、3)もっとも自覚度の高い高次意識、反省意識のレベル、に対応するだろう。そして、私としては、行動のそれぞれ一つのレベルに特に焦点を合わせて分析しようとするアプローチのことを、1) "合理論的" アプローチ、2) "進化論" 的アプローチ、3) "進歩論的" 、ないしは "目的論的" アプローチ、とそれぞれ呼びわけてみたい。そして、全体を総合したアプローチのことを "発展論的" アプローチと総称してみたい。

そうだとすると、主体の行動のモデルは、上図(略)のように、三つのレベルに分けて考えてみることができるだろう。このモデルが採用している観点は、文明の "発展" は、直接には環境への意図的な適応行動と解釈できるが、そこには同時に、価値中立的な "進化" の側面と、価値依存的な "進歩" の側面とが含まれている、というものである。いいかえれば、私は、これまではもっぱら "合理論的" アプローチに立ってきた経済学あるいはより広くは社会科学が、生物学に学んで "進化論的" アプローチを採用することの意義を認めることには吝かではないが、同時に、生物学とは異なる社会科学に独自の観点として、 "進歩論的" あるいは "目的論的" アプローチをもこれに加えてはどうか、そして全体を総合した "発展論的" アプローチを積極的に展開してみてはどうか、と考える。そして、村上が人間の特性として重視している "反省" 機能は、 "文化" ――少なくとも即自的・下意識的な文化――のレベルで直接働くのではなく、 "理想" 、すなわち、対自化され意識化された文化、のレベルで働くと考えてみたいのである。

上のモデルを念頭においていうならば、近代文明の生みだした経済理論の均衡論的アプローチは、すぐれて合理論的であると同時に、行動の構造的制約因子としての文化については、システムの全体にわたって一様にして不変な、合理主義的で個人主義的な世界観と価値観の存在を想定していたということができるだろう。また、理想に導かれた自己革新、自己再組織が行われるという側面は、事実上視野に入れていなかったということができるだろう。他方、近代文明に先立つ古典古代文明の生みだした世界宗教あるいは哲学のアプローチは、究極の価値規範 (従って当然変化するはずのない規範) が、システムを一様におおっているとみなすものだったといえよう。そこには、下意識のレベルから人間の行動を制約するような因子の存在は、そもそも認められないか、あるいは愚昧・迷妄として排除されるべきものとみなされていた、といってよいだろう。

  1. <文化>という言葉は、一方では人間が世代から世代へほとんど無意識のうちに受け継いでいく行動原理 (認識・評価・決定・実行・自己組織等にかかわる活動の原理) を意味することもあれば、他方では、人間が反省によって自覚的に概念化して捉えたそれらの原理やその実現をめざした人為物を意味することもある。前者を文化プロパーとすれば、後者は文化の "反省型" とでも呼ぶべきものであろう。しかし、同じ文化という言葉のこの意味での多義的な使用は、反省によって捉えたものが、もともとは無意識のうちにあったものに他ならないとすれば、ほとんど不可避的に生ぜざるをえない、語義の二重化だろう。しかし、さらにまぎらわしいのは、文化人類学では、上の二つの意味での文化に加えて、私がここで "文化の表現型" としての "文明" と呼んだものまでも、すべて "文化" という言葉で一括して捉えようとする傾向があるという事実である。どのような用語を採用するかどうかはともかくとして、文化とその表現型と、さらにできればその反省型とは、なんらかの異なる言葉で呼びわけるのがよくはないだろうか。

  2. 私は、主体と生体との基本的な違いは、主体は、生体と同様に価値中立的な "進化" を事実としてとげるだけでなく、明確な理想に導かれた "進歩" をも追求しているという点にあると思う。もちろん、現実に常に進歩が実現するとは限らない。退歩が起こることもあれば、文明 (とそれにともなって文化も) の絶滅が起こることもあるだろう。また、ここでいう進歩が、常に "新しい" 理想を追求する未来志向型のものに限られると考える必要もない。過去の宗教文明に見られるように、文明によっては、理想の準拠点が未来ではなしに過去のある時代 (黄金時代) に取られ、そこへの回帰ないし復古が理想とされるものもありえよう。しかし、その場合でも、理想が、現在の自己の状態をある望ましい方向に変化させるための目標であることに、変わりはない。いずれにせよ、そうした限定をおいたところで、主体が進歩を追求しうるという事実まで否定し去られはしない。その意味で、 "目的論" は、主体とネットワークのレベルで初めてシステム内在的な意義をもつようになってくるのである。

(五) 情報的相互作用と文化子

行動の三層構造モデルを考えたところで、村上のいう "第一種の情報" と "第二種の情報" の区別を、それにどう適用すればよいかを考えてみよう。私自身は、 "情報" という概念を村上よりもさらに広く、多段階的に定義したいと考えている。(1) その場合でも、村上の定義している意味での情報、すなわち「他の主体の世界イメージに影響を与えるような、個々の主体の抱く世界イメージ」はその中に含まれているので、ここでは、 "情報" の基本的な定義については村上にしたがうことにしておこう。

その上で、村上の行っている二種の情報の分類だが、私も、これは確かに有用な分類であると思う。ただし、私としては、村上のいう "第一種の情報" 、すなわち、「手段的・部分的情報 科学的・専門的 超越論型 密画的傾向」などの特性をもった情報、あるいは "枝の情報" は、意識のレベルでいえば生活意識のレベルに、行動のレベルでいえば、行為、すなわち合理的行動のレベルに、対応していると考えたい。その意味では、村上が "反省" の種類を示すために使っている "超越論的" という特性は、私としては第一種の情報の特性の中からは除外しておきたい。また、村上のいう "第二種の情報" 、すなわち、「本質的・総括的情報 生活史的・歴史的 解釈学型 略画的」な特性をもった情報、あるいは "蔓の情報" は、下意識のレベルにも、反省意識のレベルにも、共に属しうると考えたい。つまり、文化的に枠づけれらた行動と、理想に導かれた行動のレベルのいずれにおいても伝達される情報だと考えたい。その意味では、ここでも "解釈学的" という特性は、第二種の情報の特性の中からは除外しておきたい。

どうしてこのようなことにこだわるかといえば、それが "文化子" という概念の解釈の違いにかかわってくるからである。(2) 村上によれば、文化子とは、まさに村上の定義する意味での情報そのものに他ならず、「ネットワークとは文化子の交流し合う場なのであり」、「文化子の中には、第一種の情報と第二種の情報とが混じりあっている」のである。だが、文化子をこのように情報そのものと同一視するのは、この概念をあまりにも広義に解釈しすぎることにならないだろうか。私にいわせれば、確かに文化子は情報に違いないが、その逆は成立しない。つまり、すべての情報が文化子であるとは限らないのである。私はむしろ、文化子を、第二種の情報に限定したい。(3) しかも、その中でも無意識のレベルで形成・保持・伝達される第二種の情報に限定したい。しかし、そのことは、第二種の情報が、 "文化" のレベルでしか形成・保持・伝達されないことを意味するものではない。逆である。第二種の情報、言い換えれば、蔓の情報は、高度に言語化された形で、反省意識のレベルでも形成・保持・伝達されるだろう。さらにいえば、 "理想" のレベルで伝達される情報は、 "文化" のレベルでのそれよりもより意識化され言語化されているとはいえ、情報の種類としては、基本的に "第二種の情報" 、つまり生活世界の事物とはたかだか "略画的" な結びつきしかもたない、ある意味で現実と遊離した理想の言葉にすぎないのである。たとえば、「世界に平和を」、「万人を幸福に」、「環境を守れ」などといった理想を表現する言葉の例を考えてみよう。これらの理想が、現実の世界との関係で具体的に解釈され、主体の物理的行動を導くようになるのは、それらが生活世界のレベル、つまり "文明" のレベルで、第一種の情報として "密画" 化された後のことである。理想はそこで初めて、 "実現" へのきっかけを得るのである。

ともあれ、情報は、主体の行動の三層構造のすべてのレベルに遍在し、行動のすべての側面にかかわっている。そのこと自体、生体や生態系とは異なる主体やネットワークの特質に違いはない。しかし、だからといって、これらの情報をすべて "文化子" と呼んでしまうのは、 "文化子" の概念をせっかくここに導入することの意義をかえって減じてしまうことにはならないだろうか。いいかえれば、主体を生体と同一視しすぎてしまう結果にならないだろうか。

村上の議論の中で、本稿での論点との関係でいって、最も興味深いのは、「文化子が市場を作る」という言明である。あるいは、 "技術の文化子" と "消費の文化子" が個別産業の形成の媒介者となるという言明である。村上によれば、 "市場" とは、「貨幣を媒介としつつ経済的交換が一つの束を形成したもの」であるが、 "市場" それ自体は、 "個別産業" と同様、私のいう "文明" のレベルに属する人為物、いうなれば "文明型" だといってよいだろう。これに対し、 "貨幣" は、それ自体はやはり一個の人為物というべきだろうが、やや観点を変えれば、共通の媒介物を通じての交換という経済的交換の原理が人為物としての表現を得たものだという意味で、 "貨幣的交換" とでも呼ぶことのできる、私のいう意味 (村上の場合よりもより限定された意味) での "文化子" の、端的な表現型 (文明型) だと解釈できるだろう。いいかえれば、 "貨幣を生みだすような文化子" のことを、略して "貨幣の文化子" という言い方をしても許されよう。 "貨幣の文化子" は、人類の歴史の中では極めて古くから存在しており、長い生命力をもっているように思われる。(4)

それでは、個別産業の場合はどうか。個別産業それ自体は、明らかに文明型に属する。しかし、その背後には、個々の産業の製品の供給を組織する原理や需要を組織する原理としての文化子が存在しているはずであり、それらを "技術の文化子" とか "消費の文化子" と名付けることは当を得ているだろう。しかし、それをさらに細分して、技術の文化子の場合でいえば、 "科学理論" 、 "基礎技術" 、 "応用技術" 、等々の文化子に分けていくのは、果たして妥当だろうか。むしろそれらは、さしあたっては文明型のレベルに属する諸要素であり、個別産業の形成過程は、生物でいえば表現型の発生過程に対応するような、文化的原理と環境条件の相互作用と、さらに人間の場合には、それに意図的な合理的行動 (と、さらに場合によっては理想に導かれた行動も) が加わった、相互に密接に関連した一群の文明型の形成過程として、理解されるべきものではないだろうか。(5)

その点との関連でいえば、村上の「文化子は複製され伝播していくものである」という言明は、私ならば「文明型は直接かつ意図的に複製され伝播していくものである」と言いなおしてみたい。もちろん、私のいう、より狭い意味での "文化子" も、やはり複製され伝播していくが、それは、すでに述べたように、ほとんど無意識の教育・学習過程を通じてである。その意味での文化子の複製・伝播は、事実として結果的に生じているにすぎない。それに対し、ある "生産技術" のような "文明型" の複製・伝播、あるいはむしろ "模倣" は、主体の意図的な合理的行動の結果なのである。もちろん、そのような模倣の過程自体が、文化的に条件づけられていたり、理想に導かれたり、環境条件の影響を受けたりするために、より容易になったり、より困難になったりすることはあるだろう。村上自身が第六節で試みているように、模倣過程の容易さや困難さの分析は極めて重要である。しかし、ここでまず強調すべきことは、人間社会の場合は、生物の表現型にあたる文明型の模倣が、他の生物とは違って、或いは他の生物の場合よりは遙かに容易かつ急速に、それ自体として直接に、そして主体の合理的な行動を通じて、可能だという事実ではないだろうか。いいかえれば、文明型は、少なくともある程度までは、それを直接かつ意識的に、学習し模倣することが可能なのである。そしてそのような学習・模倣過程には、まさに村上のいう "第一種の情報" の伝達が、直接関与しているのではないだろうか。

さて、村上は、「企業行動の一般的原則」として、「企業は、他のさまざまな (単一および複合) 主体と同じく、社会経済的空間におけるシェアを極大化するのが本質である」と述べている。より一般化していえば、村上は、ネットワークの構成要素としての主体の行動の本質を、 "シェアの極大化" に求めているのである。ところで、その場合の、シェアとは、何のシェアのことだろうか。文脈から判断するかぎり、村上は、ここでは "利己的遺伝子" の理論からの類推によって、主体は自らが保持している種類の文化子のシェアの極大化衝動を持つ、と考えているようだ。あるいは、すべての主体 (個人や集団) は、自らがもつ個別的な文化子 (群) のシェアの極大化行動を取らせるような行動原理という、高次の文化子を通有していると考えているようだ。これは、はなはだ重大な含意をもった魅力的な言明というか洞察であると私は思うが、この点についての賛否は、私としてはとりあえず留保しておきたい。なぜならば、私は、この言明を、これまでに示した私流の主体の行動の三層構造の枠組みに組み入れた場合に、それが、「すべての主体は、自らがもつ理想の実現をめざして努力する」といった言明とどのような関係に立つのかを、判断することができないからである。言い換えれば、私には、反省に裏付けられた理想の駆動力と、無意識の条件づけ、枠づけを行う文化の拘束力のいずれかが、人間の行動を究極的に支配しているのか、それとも両者は概して一致しているのか、あるいはしばしば矛盾・相剋しているのか、何とも断言できないからである。

  1. 私流の情報の定義としては、まだ不十分なものではあるがとりあえず、@形式、Aイメージ、B信号、C記号、D狭義の情報、という五段階の定義の試みの例をあげておく [公文 91]。ただし、それはいかにも不十分なので、現在、その改訂を試みているところである。

  2. 私のような解釈をとっても、村上のいう "経済的交換" 対 "第一種の情報" 、 "社会的交換" 対 "第二種の情報" という対応関係は、別に損なわれない。

  3. そうした上で、とくに村上が議論の後段で用いている "文化子" という言葉の多くは、 "知識" もしくは "文明型" などと読みかえてみたい。また、 "文化子の共有" という表現は、 "情報の通有" もしくは "文化と理想の通有" などと読みかえてみたい。

  4. しかし、近年の情報技術、とりわけ電子的取引技術の発展は、文化子としての貨幣はともかく、表現型としての貨幣の生命を終わらせようとしているかもしれない。 [山田 92]、[Kurtzman 93]

  5. このような理解からすれば、「市場の形成は "進化論的" に説明されなければならない」という村上の言明は、 "進化" を私のいう意味での "文化子" の変異と、それが引き起こす文明の変化に限定する限り、いささか厳しすぎるように思われる。もちろん、特定の商品に対する市場の形成が、このような狭い意味での "進化" 過程である場合もなくはないだろうが、より普通には、新産業や新市場の形成は、 "合理論的" あるいは "進歩論的" に、あるいは生物学とのアナロジーでいうならば、 "発生論的" に説明できるのではないだろうか。あるいは、それらすべての要因を視野に含めていえば、 "発展論的" に説明されなければならないのではないだろうか。

付論:財とサービス

"財" および "サービス" の概念は、経済学にとって、もっとも基本的な概念のはずである。(1) しかし、その厳密な定義はとなると、意外に満足すべきものがない。ここでは、 "事物" の "作用" (および "使用" ) という概念を用いた、財およびサービスの概念の定義づけを試みよう。

事物:まず、 "事物" とは、主体が、なんらかの作用の発生・受用の単位としてとりあえず識別する (あるいは切り分ける) 世界部分だと考えよう。(2) 主体は、そのような事物に個別の名称を与えたり、 "同種" の事物と考えられるいくつかの事物を一つの "類"(クラス) にまとめて、類としての共通の名称を与えたりする。前者は "命名" と、後者は "分類" ということができよう。ある名称に対応する事物が、その名称の "意味" である。しかし、そのような識別の仕方は、二つの意味で絶対的なものではない。第一に、事物の切りわけ方は、主体によって相違しうる。しかし同時に、 "文化" を通有する主体の間では、事物の間主観的な共通の切りわけ方が、共通の名称とその共通の意味とを伴って成立している場合が多いと考えられる。そのような切りわけ方は、文化が違えば違ったものになっている可能性がある。第二に、個々の事物は、それを構成している、より要素的な事物に、さらに切りわけられる場合がある。あるいは逆に、それを構成要素としている、より大きな全体にまとめられる場合もある。ある主体や、ある文化が、もうこれ以上切りわけようがないとみなす事物の最終的な単位があるとすれば、それが "個物" あるいは "物" である。あるいは、村上のいう "individuum" である。より大きな事物を構成するような個物と個物の間の結びつきのことは、 "事" と呼ぶことができよう。 "事物" という言葉は、 "物" が "事" を通じて結びついているという認識を前提した言葉である。

事物についてはさらに、その "状態" 、すなわち、 "存在状態" ――質や量――および "作用状態" が識別できる。作用状態とは、その事物がどのような作用を (どのような対象に対して) 及ぼしているかの識別であって、 "活動状態" とか "機能状態" という呼びかたもできよう。さきに与えた "使用" という概念を使っていえば、事物の中には、主体がそれを使用できるもの、つまりそれにある作用を加えることによって、それ自体をなんらかの作用状態に置きうるもの、が存在すると考えられる。

財とサービス:事物の識別は、とりあえずは事実の次元の問題であって、主体によるその評価とは別の次元に属する。そこで、事物のうち、とくにその状態 (の変化) に対して、主体が世界評価上の関心を抱くもののことを、 "財" と呼ぼう。たとえば、その存在量が増加することが主体にとって望ましいとされる事物や、それがある作用状態に入ることが、主体にとって望ましくないとされる事物は、ここでいう "財" にあたる。同様に、主体の評価の関心となる事物の作用のことは、 (最広義の) "サービス" と呼ぼう。

財の基本的分類:財は、さらに次の二つの基準によってより細かく分類できる。第一に、それ自体の存在状態を主体の行為によって変更しうるかどうか。それが可能な財、つまりその存在状態 (質や量) の変更が主体の行為の目標とされうる財のことを "目標財" と呼び、目標財の存在状態を変更することを、その "供給" もしくは "管理" と呼ぼう。第二に、それは主体の欲するようなある特定の作用状態におくことができるか。つまり、それを手段として "使用" しうるか。しうるならば、それを "手段財" と呼ぼう。

いうまでもなく、この二つの基準は、相互背反的ではない。そこで、ある主体にとって目標財でも手段財でもある財(すなわちその供給も使用も共に可能な財)のことは、その主体にとっての "経済財" と呼ぶことにしよう。また、目標財とも手段財ともなりえない財のことは、その主体にとっての "環境財" と呼ぶことにしよう(下図参照)。環境財も財である以上、主体にとって評価の対象となるような積極的あるいは消極的な作用を、主体が関心を抱くなんからの対象に対して、とりわけその主体自身に対して、及ぼしているはずである。 (すべての事物は主体になんらかの作用を及ぼしていればこそ、主体の認識や評価の対象になりえているという意味では、すべての財は主体になんらかの作用を及ぼしている。) 環境財が環境財であるのは、当該主体にとっては、その存在状態はもちろん、その作用状態すら変更のしようがないからである。

なお、目標財であっても手段財ではないものは、 "純目標財" と、また、手段財であっても目標財ではないものは、 "純手段財" と呼んでおこう。たとえば、 "美しい音楽に聞きほれている私" は、私がそのような状態にある自分自身を一個の事物 (および財) として識別しているのであれば、そして、そのような状態自体を他の何かの目標にとっての手段とはみなしていないのであれば、私にとっての純目標財である。また、高速道路は、私がその上を走るという形でそれを使用できるけれども、私の一存でそれを閉鎖したり、あるいは建設したりはできないとすれば、私にとっての純手段財である。

現実の世界に見いだされる環境財の典型的な例としては、個々の東京都民にとっての東京の大気をあげることができる。個々の都民は、大気の汚染状態がはげしければ自分の健康が損なわれるといった有害な作用を受けるので、大気の状態に関心をもつ。いいかえれは、東京の大気の状態の変化は、東京都民の世界評価の変化をもたらす。その意味で、東京の大気は、個々の都民にとっての財である。しかし、個々の都民は、自分自身では、その状態を管理することはできないし、大気を直接使用できるわけでもない。とすれば、東京の大気は、東京都民にとっての環境財だという言い方が成立することになる。もちろん、たとえば呼吸活動や暖房の酸素源として大気の一部を使用する、といった言い方をすることは不可能ではないが、ここではそのような見方はとらないことにする。

ただし、東京都(という主体(3) )にとっては、この同じ東京都の大気は、自らの行為によって、その状態、とりわけ汚染状態を(少なくともある程度までは)管理できるという意味では、目標財でありうる。同様に、一国の軍隊(およびそれが発揮する国家や国民のための安全保障作用)は、安全を願う国民にとってはその状態――存在状態や活動状態――に関心をもたざるをえないという意味では国民にとっての財であるのだが、個々の国民が自分でそれを供給したり使用したりするわけにはいかない。したがって、個々の国民にとっての軍隊は、環境財である。しかし、個々の国民の複合体としての国家にとっては、その軍隊は、その存在状態の管理(軍拡や軍縮)も、その使用 (軍事行動) も、共に可能だという意味では、経済財である。これに対し、気象は、事実上全ての主体(より精確には主体という概念の適用が可能な現実世界内の存在)にとって環境財であろう。このように、同一の事物であっても、それが財としてもつ意義は、主体によって大きく違いうることに注意しよう。もちろん、一群の主体の間に、さまざまな事物についての共通認識が成立して、ある特定の事物が、ほとんど全ての主体にとって経済財となりうることが了解されるにいたった場合には、その事物はあたかもそれ自身の性質として――つまり、特定の主体には依存することなしに――経済財性をもっているように見えてくるだろう。同じことは、環境財その他の財についてもいえるだろう。しかし、何がどのような意味で財であるかは、常に、なんらかの主体との関係でしかいえないということは、銘記しておくべきである。

ネットワークの中での各種の財:ネットワークの中では、それを構成する個々の主体は、頻繁かつ緊密な情報交流を繰り返す。その結果として、事物の認識をめぐって、とりわけ、何がどんな意味で財であるのかの認識をめぐって、間主観的な共通認識が、広い範囲で形成されていると考えてよいだろう。

また、ネットワークの構成要素である主体の中には、その要素もまた主体であるような "複合主体" も存在しうる。企業や政党はその例である。また、いくつかの複合主体が寄り集まってさらに上位の複合主体を作っている場合もある。個々の企業を会員として構成されている業界団体、あるいは業界団体が寄り集まって作っている経済団体連合会のような団体は、その例である。一般に、ネットワークの中では、主体は、上位・下位の何層もの階層関係を作りながら、相互に包摂し包摂されあっていると考えられる。上位の複合主体は、それを構成する下位の (複合) 主体との関係では、 "公的" な性格をもつ。下位の主体の方は "私的" な性格をもつ。以下では、上位主体や下位主体というかわりに、 "公的主体" 、 "私的主体" という言い方をすることにしよう。あるネットワーク (ないしネットワークとしての社会) の中での最上位の複合主体のことは、 "国家" と呼ぶことができよう。(4) ネットワークの中には、それ自体が国家となっているものが存在しうる。国家の中で、全体としての国家を代表し、国家の名において行為する部分のことは、その国家の "政府" と呼ぶことができよう。

以上のような概念の枠組みを前提にすると、ある公的主体 (とりわけある国家) の中での様々な財 (とりわけ経済財) を、その所有権がどのように設定・移転されるかを基準にして分類してみることが可能になる。すなわち、

といった分類がそれである。

同様に、公的主体と私的主体の間での、財の使用権の設定の仕方についても、さまざまなタイプのものが考えられ、それにもとづいた財の分類が可能となる。すなわち、

といった分類がそれである (下図参照) 。

経済財の分類:その2
使用主体
所有主体
公的主体私的主体
公的主体公用財共用財
私的主体統制財
(徴用財)
私用財

それでは、これまでの経済学でいう "公共財" は、ここでの用語法でいえば、どのような財の範疇に属することになるだろうか。まず、 "公共性" という言葉の意味だが、それには次の四つの側面が考えられる。その第一は、財の作用が、ネットワークを構成する主体の全てに及ぶという意味である。これを "作用の公共性" と呼ぼう。(8) その第二は、財の供給を "公的主体" が担当するという意味である。これを "供給の公共性" と呼ぼう。その第三は、財のなんらかの意味での "共同" 使用が、全ての主体に認められているという意味である。これを "使用の公共性" と呼ぼう。その第四は、ある財の使用を、公的主体のみがもっぱら排他的に行うという意味での "公共性" である。これについては、先に定義した "公用財" の概念を援用して、 "公用性" という呼び方をしておこう。

ここに定義した概念を用いていえば、これまでの経済学が "純公共財" と呼んで来た財 (たとえば軍隊や自由貿易体制) は、 "供給の公共性" と "作用の公共性" を共に備えている財だということができよう。また "準公共財" と呼んできた財 (たとえば、道路や公園) は、 "供給の公共性" と "使用の公共性" を共に備えている財だということができよう。また、 "純公共財" の中でも、 "軍隊" のような財は、 "公用性" をも備えているといってよいだろう。これに対し、 "自由貿易体制" のようなレジームは、誰かの使用の対象であるというよりは、万人に及ぼす一様な作用の源泉だと考える方がより適切だろう。別の言い方をすれば、人々は "自由貿易体制" を使用するというよりは、その中で生きる、つまり、その作用を等しく享受するのである。同じことは、 "平和" や "繁栄" のような、ネットワーク全体のマクロ的な "状態" をあらわす財に対してもあてはまると思われる。

ところで、上にあげた公共性の四つの側面は、どの程度まで強く相関しているのだろうか。私はむしろ、これらの四つの側面は、基本的に独立していると考える。とりわけ、作用の公共性や使用の公共性をもつ財が、同時に、公的主体によって供給されなければならない (供給の公共性) 必然性や、公的主体によって使用されなければならない (公用性) 必然性はどこにもないのではないだろうか。また、 "公共性" あるいは "公共財" という概念にとって本質的なことは、その供給や使用を "公的主体" が行うかどうかという点にあるのではなくて、その作用を万人つまり "公衆" が等しく受けるか、あるいはその使用が万人つまり "公衆" に等しく認められているかという点にあるのではないだろうか。

いいかえれば、 "純公共財" のもっている公共性の本質は、それが "公衆にとっての環境財" であるという点にある。同様に、 "準公共財" のもっている公共性の本質は、それが "公衆にとっての手段財" であるという点にある。私は、 "純公共財" および "準公共財" の概念は、この意味に定義しなおした上で、名称も、 "純公衆財" および "準公衆財" と変更することを提案したい。さらに言えば、 "準公衆財" ――発音が "純公衆財と同一なのが何とも紛らわしい――は、 "公衆手段財" と呼びかえることを提案したい。

その点を念頭に置いて、 "公衆にとっての環境財" 、つまり "純公衆財" を、その供給や使用の可能性の観点からあらためて分類しなおしてみるならば、次のような分類ができるだろう。すなわち、

  1. "公衆環境財" :誰もその状態を変更できない財、つまり供給も使用もできない財 (たとえば気象) 、

  2. "公衆目標財" :一部の主体 (とりわけ公的主体) にはその存在状態が変更できる財、つまり、その供給が可能な財 (たとえば平和や自由貿易体制) 、

  3. "公衆経済財" :一部の主体 (とりわけ公的主体) には、その作用状態も変更できる財、つまり、その使用も可能な財 (たとえば軍隊) 、

という三分類がそれである。

これらの公衆財のうち、とりわけ公衆経済財と公衆手段財については、すでに述べたように、誰かがその供給を担当することが望ましいにはせよ、その供給を公的主体が行わなければならないという必然性はない。一部の私的主体が行って悪いという理由はない。しかし、私的主体にはそうする誘因が往々にして乏しいということはあるだろう。その場合には、公的主体が直接それを供給するかわりに、私的主体に対して適当な誘因を与えるという選択肢も、当然考えられるのである。

サービスの分類:次に、先に見た最広義の "サービス" の概念を、事物の作用というよりは、主体間の関係として、もう少し限定的に定義しなおすと同時に、その分類を試みよう。以下、広義の "サービス" とは、なんであれ自分の行いたい行為――つまり、及ぼしたい作用の発揮――を、他の主体に全面的あるいは部分的に代行してもらうことだと定義しよう。つまり、サービスとは、 "他の主体による行為の代行" をさす。そして、行為を代行する主体は "サーバー" と、代行を受ける主体は "クライエント" と、それぞれ呼びわけよう。

サービスにさいして代行される行為自体は、

  1. 達成される目標状態のタームで指定(たとえば、保安サービス)されてもよいし、

  2. 発揮される作用の種類(たとえばや看護サービス)や、

  3. 手段の使用の仕方(運転代行サービス)、あるいは

  4. 使用される手段(バス・サービス)のターム

などのいずれで指定されてもよい。しかし、行為が常に何らかの手段の使用を伴う点に注目するならば、行為の代行としてのサービスの本質を、 "手段の使用の代行" あるいは "作用の発揮の代行" にもっぱら求める見地も、充分意味をもちそうである。その見地をさらに一歩進めるならば、代行の主体としての "サーバー" それ自身を、 "クライエント" である主体にとっての "手段" と同一視してしまうことさえ、可能になるだろう。つまり、 "サーバー" とは、 "クライエント" にとっての手段の役割をつとめてくれる主体にほかならないのである。

なお、ここでいう "広義のサービス" の一種とみなすことができるが、通常はサービスとは別のカテゴリーに属するとみなされている行為には、

  1. 財の "生産" を代行して、その "所有権" を提供するサービス ( "商品" の生産と販売) と、

  2. 財の "所有" を代行して、その "使用権" のみを提供するサービス( "機械" のレンタルやリース)、

の二つがある。後述する“産業社会”は、経済財の生産というサービスの代行が社会に広く普及しているために、その社会を構成する主体が、生産サービスのサーバーとしての“生産者”と、そのクライエントとしての“消費者”とに大きく二分されているような社会である。また、この産業社会には、その生産が代行される経済財の中でも、一回の使用によって消滅してしまう狭義の消費財にくらべて、繰りかえし使用することが可能ないわゆる“耐久消費財”や“耐久生産財”、あるいは後述する "機械" ――の生産の比重が増加していく傾向がある。そうなると、生産だけでなしに所有まで代行するタイプのサービスが普及するようになる。その場合には、耐久財の生産サービスのサーバーは“メーカー”と呼ばれ、それに対し、耐久財を購入もしくはリース・レンタルして使用するクライエントは“ユーザー”と呼ばれるようになる。そしてさらにその先には、手段の使用や目標状態の実現を代行する狭義のサーバーと、そのクライエントたちが出現するようになる。これがいわゆる“経済のサービス化”にほかならない。つまり、広義のサーバーは、産業化の進展と共に、生産者からメーカーおよびリース・レンタル業者へ、さらに狭義のサーバーヘと分化し特化していく傾向をしめすのである。つまり、ここでいう "狭義のサービス" とは、

"生産" や "所有" の代行とは区別される "使用" の代行、あるいは、最終的な目標 状態の実現を代行するサービス、

をさすということができよう。狭義のサービスを提供する主体は、それが使用する手段を自ら生産あるいは所有するとは限らない。例えば家事サービスのサーバーは、そのクライエントの所有する掃除機や洗濯機を使用してサービスを行うかもしれない。しかし、産業社会の大きな傾向としては、狭義のサービスのサーバーが、自分の使用する手段を所有するか、あるいは他のサーバーからリース・レンタルするようになる、つまりクライエントが手段を所有しなくなる、というものであるように思われる。

機械:なお、ここでいうサービスと類似したもう一つの活動として、主体自身の肉体とは異なるなんらかの物的な手段、とりわけ非生物的な手段――“機械”――による行為の代行 (作用の発揮の代行) 、それも単独の行為というよりは一連の行為の代行、を考えてみることができる。あるいは、機械とは、主体の行為を何らかの程度まで代行できる物的な手段財をいう、と定義してもよい。一般に、耐久性があって、長期反復使用が可能な物的手段財のことは、 "道具" とよばれているが、ここでいう "機械" は、いわば "自動道具" であって、簡単な使用の手続きをとることによって、多少とも複雑な一連の作用を自動的に発生させてくれる手段財である。汚れた衣類を投げこんでスイッチを入れると、衣類の材質や汚れの性質と程度などを自分で判断して、しかるべく洗濯・乾燥してくれる電気洗濯機は、ここでいう "機械" の典型的なものである。社会の中で、主体がその行為を機械に代行させる程度が増大していく過程のことは、 "機械化" と呼ぶことができる。

<以上に定義した言葉をつかっていえば、 "産業化" とは、社会の中で機械化とサービス化が広く進展し普及していく過程のことだ、と定義することができよう。

経済行為:以上で、主体のおこなうさまざまな行為のうち、最も基本的なものの一つに属する行為の類型を、定義する準備がととのった。すでに述べたように、手段(つまり手段財)の使用は、主体の行為の不可欠の一部をなしている。したがって、主体は、自らの設定する目標を効果的に実現するためには、有用な手段をなるべく多種多様使用できる状態にあることが望ましい。それに、既存の手段財は、さまざまな理由で、その存在状態を主体の目からみてより望ましくない方向に変化させる。たとえば、ある手段財をある仕方で使用する(パンを食べるとかナイフでものを切るなど)と、その作用が手段財それ自身の上にも及んで、それが消滅したり質的に劣化したりすることが起こりうる。パンは食べるとなくなるし、ナイフは使っているうちに切れなくなってしまうのである。もちろん、使用の結果、その手段財自身の状態が改善されることもありえなくはない(肉体や頭脳を使用すると、結果的にそれが鍛練されるとか、機械は新品よりはしばらく使用した後の方が性能が良くなるなど)が、おそらくそのようなケースは相対的に希であろう。また、とくに使用しなくても、ただ置いておくだけで、環境からの作用を受けて、手段財の状態が劣化する場合(食物の腐敗や、機械のさびつきなど)も考えられる。もちろんこの場合にも、置いておく間に、手段財の状態が改善されるケースなども考えられなくはないが、やはり、ほとんどの手段財は、その劣化をふせぎ、有効に使用しうる状態に維持しておこうとすれば、何らかの行為によってその状態の維持をはかる必要があるだろう。だからといって、自分の目的にとっては無用な、あるいはたいして役にたたない、手段の保有や維持に多くの手間をかけることは、望ましくない。そこで、主体の存続にとっては、手段の管理――つまりその入手や保持、あるいは処分――それ自体を主たる目標とする行為がうまく行われることが、その重要な条件になってくる。ところで、ある主体にとって、その入手や処分、あるいはその質の維持ないし変更が可能な手段財とは、さきに定義した意味での経済財にほかならない。したがって、経済財の適切な管理という目標の達成をめざして主体が行う行為のことを、 "経済行為" と総称することにしよう。

さて、主体は、その経済行為によって経済財の入手や処分を行う場合に、それをどこから入手し、どこに処分するのであろうか。そのような入手・処分先としては、三つの場所が区別できる。

その第一は、 "自然" である。私は、村上の定義とは多少異なるが、 "自然" を、いかなる主体の領域にも属していない事物の存在する時空間および、そこに含まれる事物だと定義してみたい。そして、主体が、自然との間で行う経済行為のことは、 "代謝" と総称しよう。代謝のうちで、自然からの経済財(だと特定の主体がみなす事物)の入手のことは、 "採取" と、自然にむかって行う経済財の処分のことは、 "廃棄" と、それぞれ呼んでおこう。

その第二は、 "社会" である。ここでいう "社会" とは、個々の主体の占める時空間領域とそこに含まれる事物の総和をさす。主体が社会との間で行う経済行為は、狭義には、経済財の "所有権" あるいは "使用権" の "移転" の形をとる。移転が一方向的にのみ行われる場合を "贈与" と、双方向的におこなわれる場合を "交換" と呼ぼう。交換には、同時に行われる場合と、時点を異にして行われる場合とがあり、後者の場合には、未来の時点において交換を完結させるための移転の生起を要求する権利としての債権が、交換の開始と同時に発生する。債権まで含めて考えれば、あらゆる交換は、同時性と双方向性とをもつということができる。広義の対社会的経済行為には、サービスの提供、すなわち行為の代行、も含まれる。

その第三は、ある "仮想的な (バーチャル)環境" である。この仮想的な環境との間に行われる経済行為のことを、 "変換" と呼んでおこう。たとえば、原料が消滅して製品が出現したり、部品が組合わされて完成品が作られたりする場合がそれである。いわゆる "生産" や "消費" とは、この意味での変換によって、ある経済財が出現したり消滅したりすることだと解釈できよう。

  1. この他に、マルクス主義経済学の中心概念とされている "商品" という概念がある。いわゆる "近代経済理論" にあっては、 "商品" という概念の取扱も、 "貨幣" や "資本" の概念と同様、いやそれ以上に、はなはだ不十分だといわざるをえない。私は、 "商品" は、排他的な所有・使用権の対象でありながら同時にある条件の下では、その譲渡があらかじめ予定されている財・サービスのことをいうと考えている。その点で、商品は、排他的な主権の対象でありながら、同時にある条件の下ではその割譲があらかじめ予定されている "領土" に似ている。しかし、この点については、ここで詳しく立ち入る余裕はない。

  2. アコフ、エメリー流の言い方を借りれば、これは "機能" の認識を前提とする世界の "構造" 的分割だということができよう。その場合、事物の名称は、その機能にもっぱら着目してつける――たとえば "ライター" ――こともできれば、構造にもっぱら着目してつける――たとえば "林" ――こともできる[Ackoff&Emery 72] 。

  3. 東京都のような存在は、後にいう "複合主体" にあたる。

  4. ここで定義した意味での国家が、ネットワークの中に複数個存在する場合はありうる。近代主権国家を構成要素とする "国際社会" は、その一例である。なお、国際社会型のシステムの中の複数の国家が、今日のECに見られるように、さらにより上位の主体を形成しようと試みながらも、依然として自分を "国家" と自称することをやめないで、新しい上位主体のことを "超国家的機構" などと呼んでいるケースも考えられる。この場合には、分析概念としての "国家" と、実際の社会の中の存在に与えられた名称としての "国家" の意味の間に乖離が生じたことになる。そのようなケースは、主体やネットワークの "進化" あるいは "発展" の過程で、しばしば見られることだといってよいだろう。

  5. この特殊ケースとして、所有権をまったく一方的に移転するのでなく、交換類似の形で私的主体の選択的入手に委ねるるが、その価格は、通常の交換の場合よりも低く設定してある財が考えられる。その種の財まで含めた広義の給付財のことは、 "福祉財" と呼ぶことができよう。

  6. この特殊ケースとして、私的主体がここでの公的主体の行為を代行している場合が考えられる。いわば "私的に提供される共用財" とでもいうべきものがそれにあたる。このケースは、次の "私用財" とまぎらわしくなるが、 "私用財" の場合には、とりあえず、他の主体に私用を許す場合でも、共同使用ではないか、共同使用であってもその範囲がごく狭いものを考えているとしておこう。

  7. なお、この他に、私的主体が所有している財の使用権を、公的主体が命令によって一方的に入手するケースが考えられる。その種の財は、 "徴用財" とでも呼ぶことができよう。

  8. もちろん、全ての主体に及ぶ財の作用は、同一の性質のものであることが前提されなければならないだろう。さらにいえば、作用の量的程度というか強度もまた一様であるならば、作用の公共性は、極めて大きいものになるといってよいだろう。だが、現実の問題としては、ある財がネットワークの中のさまざまな主体に及ぼす作用は、量的にはもちろん質的にも違っていることが普通ではないだろうか。

参考文献