1993年7月03日
公文俊平
いったいどうしてそんなことが起こったのか。前号の編集者コメントでも書いたように、春の永田町には、「1955年体制のゾンビーの徘徊」といいたくなるような、自社の暗黙の協調態勢−−政治改革つぶしの態勢−−が取られていたのが、最後の最後になって宮沢首相が改革に突然コミットする形で "暴走" して自滅し、それが社会党による内閣不信任案の上程と自民党の分裂を引き起こし、不信任案が可決されてしまったのである。
今回の自民党抜き連立内閣の誕生は、何が何でも自民党を政権の座から追い落とそうという "世論" と、自分たちも政権に参加する可能性が出てきたと知って昂奮した政治家たちの野心が一致した結果だと見ることができよう。
実際、選挙結果に関する限り、自民党は解散前の現有議席を少数ながら増やしたのだから、決して "敗北" とはいえない。自民党の勢力が過半数を大きく割り込んだのは、その前に生じた分裂・脱党さわぎの結果だった。その意味では、宮沢自民党総裁は、必ずしも選挙結果の責任をとって辞任する必要はなかった。彼がそれでも辞任を余儀なくされたのは、もはや宮沢総裁の下ではやっていけない、という声が党内の大勢を占めたためであった。宮沢はその声に屈したのである。しかし、その場合でも、自民党には、下野する理由はなかった。自民党は、過半数は失ったとはいえ、依然として第二党である社会党の三倍を大きく越える議席を得て、文句なしの第一党の座を確保していた。その意味では、もっとも自然な政権構想は、自民党を中心とする連立政権のそれだったはずである。
だが、そうはならなかった。共産党を除く "非自民" の七党・一会派は、十日そこそこで、第五党である日本新党の細川党首を首班とする連立政権作りに合意したのである。どうしてそんなことが可能になったのだろうか。その理由は、いくつか考えられる。キャスティング・ボートを握った日本新党と新党さきがけが、場合によっては自民党と連立する可能性をちらつかせたことが、非自民勢力が、それこそ "理も非もなく" 連立路線に結集する上での強い刺激になったことは疑いない。同時に、この路線をいちはやく構想してその実現に走った新生党の "キングメーカー" 小沢一郎による影のリーダーシップと、小沢を一貫して支援してきた公明党の協力も、大いに有効だったと思われる。また、さらにその背景には、1955年体制の成立以来40年近くたって漸く訪れた自民党抜きの政権を実現する可能性に対する、世論の昂揚状態とでもいうべきものがあった。「今回は、とにもかくにも自民党にはいったん下野してもらおう」という空気がそれである。そうした事態を回避すべく、自民党も慌てて、日本新党と新党さきがけが提唱した政治改革プログラムを無条件で受け入れる姿勢を示しはしたものの、時すでに遅かった。
それにしても、今回の連立政権の性格は、曖昧極まるものとしか言いようがない。なにしろ、一方の極には、旧自民党の中でも最も権力中枢に近かった田中・竹下派から分立した、しかも政策的にはもっとも "右" 寄りの路線をとる新生党がいる。反対の極には、いまなお "社会主義" を完全には清算できていない社会党がいる。 "非自民" という消極的な規定以外にこの連立政権を特徴づける言葉がないのも、けだし当然である。
これに対し、細川首班連立内閣の構想が確定した翌日に総裁選挙を行った自民党では、派閥の領袖である渡辺前副総理を大差で破った河野官房長官が、第十六代総裁の座に着くことになった。河野氏は、1976年に新自由クラブを結成して自民党を脱党した人物であって、その後自民党に復帰してからも、党内ではもっとも "左" 寄りの路線に立つことで知られている。その意味では、細川氏との政治的な距離は、小沢氏よりも河野氏の方がはるかに近いことは確実だろう。(1) それでもあえて強弁すれば、小沢氏の狙っている日本の "戦後民主主義" 政治の総決算は、一見逆説的ではあるが、中道の自民党よりも "左" に位置する政治勢力を味方に引き入れることによって、あるいは政治的に中立化することによって、初めて成功する可能性をもっているとはいえるのかもしれない。
それはともかく、1955年体制の終焉は、1970年代の後半あたりからの "脱保革化" −−つまりそれまでの保革の政治的対立軸の空洞化−−傾向の必然的な帰結だった。自民党が、それ自身では過半数を維持できなくなる傾向は、1983年の総選挙ですでに明確になり、時の中曾根内閣は、新自由クラブと連立することで、何とか議会に多数を占めることができた。さらに、198 〇年の参議院選挙以来、自民党は参議院では過半数割れを甘受せざるをえない状態が今日まで続いていた。他方では、とりわけ冷戦の終焉以来、従来の社会党型の "革新" 路線は、もはやどうにも維持できないほど時代錯誤的なものになったことは、誰の目にも明らかであった。今日の日本の政治にとっての中心課題は、これまでの言葉でいえば "保守" に属する政治理念や政策路線の間に、新しい争点あるいは対立軸を定立した上で、それぞれを支持する政治勢力の再編成、再結集をはかる−−それも望ましくは二大政党が並立する形での−−ことである。評論家の堺屋太一は、そのような対立軸として、 "国際的小国 (小政府) 主義" 対 "民族的大国 (大政府) 主義" という軸を考えているが、傾聴に値すると思う。(2)
細川新政権は、果たしてそのような政治システムの実質的再編成の突破口を開くことができるだろうか。多くの人々が期待している新政権が果たすべき最低限の任務は、細川氏が公約した "政治改革" −−現在の中選挙区制から小選挙区比例代表並立制への転換と、政治資金規制の強化−−の実行である。それは当然として、それ以外にも、中央政府と地方政府の関係、あるいは更に広く経済や社会制度の改革に関しても、せめて新鮮な問題提起だけでもしてもらいたいものである。