93年度著作へ

1993年8月10日

「ニューメディアの進化」

公文俊平

これまで "コミュニケーション" といえば、一対一の "パーソナル・コミュニケーション" と、一対不特定多数の "マス・コミュニケーション" の二つがあるとされていた。電気通信の世界でいえば、前者のニーズを満たすのが、電話のような "パーソナル・メディア" であり、後者のニーズを満たすのが、ラジオやテレビのような "マス・メディア" であるということになっていた。

ところが、考えてみると、コミュニケーションへのニーズとしては、ある範囲のグループの人々相互の間のコミュニケーションというものもありうる。つまり "グループ・コミュニケーション" である。多数の人々が集まって話し合う会議はその典型的な形だが、それ以外にも、遠くに離れている仲間同士の間で、同じ文面の手紙をやりとりしたり、何人もの人が同時に電話で話をしたいというような欲求も、当然存在する。しかし、これまでのコミュニケーション・メディア、とりわけ電気通信型のメディアには、 "グループ・コミュニケーション" のニーズを満たすための適切なメディア、つまり "グループ・メディア" とよぶに値するものが、なかなかみあたらなかった。  

しかし、十年ほど前から普及しだした "パソコン通信" が、そのための便利なメディアになりうるのではないかという認識を、次第に多くの人がもち始めるようになった。だがそうはいっても、 "パソコン通信" が本来どのような性格のメディアであり、そこにはどのような長所と短所があるか、さらにどういった方向に進化していく可能性があるか、ということはそう簡単には理解されなかったように思う。  

私自身そうだった。私が最初にパソコン通信について知ったのは、高田正純さんの『データベースを使いこなす』 (講談社現代新書、1985年) を通じてだった。会社から帰った高田さんが、風呂あがりにビールを一杯やりながら、自宅のパソコンからアメリカのコンピューターにアクセスして、 "世界情報" を英語で自由にとっている姿は、とても恰好よくみえたものである。  

しかし、実際にその真似をしてみると、電話代はかかるし、自分が本当に欲しいデータはめったに手に入らないし、英語は面倒だし、なかなか大変なものだなあというのが、いつわらざる実感であった。  

そんな時に、パソコン通信の真骨頂は、コミュニケーション・メディアとしての利用にあることを、ネットワーキング・デザイン研究所 (当時) の会津さんや、コアラの尾野さんから教えられた。そんなものかなと思って、電子掲示板や電子会議の世界に足を踏み入れてみると、今では草創期の伝説あるいは神話といいたくなるような、いくつかの忘れられない素晴らしい事例に遭遇して、すっかり感動してしまった。  

たとえば、アスキー社の運営する電子会議では、パソコン通信に漢字を使うべきか否かといったテーマで議論がされていた。今ではそんな時代があったことさえ信じがたいほどだが、ローマ字しか使えないパソコンも多かった時代のことなので、それが大まじめに議論されていたのである。その会議の議長さんの議論のさばきぶりは、何とも見事なもので、二週間たらずの間に、いろいろな意見をださせ、論議を交わさせ、見事に全員の合意をとりつけて、「さあそれでは、来週からは漢字を使うボードの上で新しい議論を始めることにしましょう」といった趣旨の言葉で議論を締めくくった時には、本当にうっとりさせられてしまった。  

コアラの歴史の中ですっかり有名になっている、地元の企業の経営者の人達と、そこになぜか闖入してきた一人の高校生との間に、心を開いたコミュニケーションができるようになるまでのいきさつの話も凄かった。パソコン通信は、ついに世代を越える真摯なコミュニケーションを実現したのかと、身体がふるえる思いをしたものである。また、これはアメリカのあるネットの例だが、メンバーの一人の弟さんが、肝臓移植の手術を受けることになった時、そのメンバーは状況を仲間に逐一報告したり、家族の感想をアップしたりし続けた。それに応えてグループの仲間たちは、心のこもったはげましやなぐさめの言葉をかけ続けた。手術は結局失敗して、弟さんは二度目の手術の後しばらくしてなくなったのだが、その間の交信の記録は涙なしには読めないものがあり、ここにもグループ・コミュニケーションの一つの新しい地平が開けたのかという感慨にふけったものだった。  

そんな経験をへながら、私はしだいにパソコン通信の世界にのめりこんでいったのだが、そうなると今度は、実にさまざまな不快な経験や挫折にも遭遇することになった。  

何よりも、電子会議によって、遠く離れた人々が効率的に情報を交換・通有しながら速やかに意見をまとめることができるというのは、ほとんど "神話" にすぎないことに気づかされた。むしろ、意見がいっこうにまとまらなかったり、せっかくまとまったようにみえても、また誰かが同じ論点を蒸し返すことで堂々めぐりしてしまうことの方がむしろ普通であった。率直で心のこもったコミュニケーションができるどころか、ちょっとした行き違いから誤解が誤解を呼び、不信と敵意が増幅して、グループが四分五裂するケースも少なくなかった。興味深い議論の経過を外の人にも紹介したいと思ったら、あらゆる発言に "著作権" を主張し、電子会議での議論その他パソコン通信のグループの世界でおこったことは、関係者全員の許可なしにはいっさい外に出してはならないと言い張る人も現れた。一人でもそういう人がグループの中にいれば、 "民主的" な運営に重きをおく限り、議論の成果や得られた経験を広く公開することはできなくなるのである。  

そんな経験をかさねていると、しだいに反省や疑問もわいてくる。 "パソコン通信" というニューメディアについていわれていることは、いったい、何が "真実" なのだろうか。それは、そもそも何のためのメディアであり、その真の長所や短所はどこにあるのだろうか。  

そこで私は、生物の進化の過程に思いをはせてみる。生物の進化の過程で出現してくる "新しい種" は、そもそも何者なのだろうか。その種には何ができ、何ができないのか。  

多分、その答えは、最初から決まっているわけではない。そもそも、生命の出現自体、ほとんど希有の偶然の結果だったかもしれない。また、ある一つの種が出現し、存続していけるようになる傍らでは、他の無数の種が出現や存続に失敗して亡びていったはずである。生き残った種にしても、それ自身、数々の失敗をくりかえしながら、自分自身をたえず新たに組織しなおす試みを続けてきているのに違いない。  

同じことは、パソコン通信のようなニューメディアについてもいえる。そもそも、1980年代の "ニューメディア・ブーム" にさいして登場したさまざまなニューメディアの中で、比較的広く普及することに成功したのは、電気通信メディアとしてはファックスを別にすれば、後はパソコン通信くらいのものではないだろうか。そのパソコン通信にしても、何とか生き残り普及してきのは、無数の失敗の事例を繰り返しながらのことだった。その意味では、大切なことは、たとえごく少数ではあっても、成功した事例に注目し、それに学び、それを模倣し、それを普及させ、さらに改善していくことではないだろうか。失敗は、いわばあって当然なのである。失敗に学ぶことが無意味とはいわないが、成功に学ぶことがもっと大切なのではないだろうか。  

ところで、ここへ来て、これまでのパソコン通信に代わる、あるいはそれをより大きく包み込むようなグループ・メディアが急速に普及する勢いをみせている。コンピューターの "ネットワークのネットワーク" とよばれる "インターネット" がそれである。インターネットは、パソコン通信ばかりか、これまでのパーソナル・メディア (電話) やマス・メディア (放送) さえその中に吸収してしまうだけの潜在的成長力をもったメディアであるように思われる。あるいは、既存の電話業や放送業にとっては、インターネット型のグループ・メディアの領域に進出することによって、自分自身を大きく再生させ飛躍させる可能性が、いま生まれつつあるように思われる。この型のニューメディアの成功例に注目することをお勧めするゆえんである。