93年度著作へ

1993年8月15日

「グループ・メディアの出現」

読売新聞「This is 読売」掲載

公文俊平

万国のコンピューターよ連結せよ

世界経済が長期不況に低迷する中で、一九八八年以来、年々倍増する勢いで "爆発的" に成長している部門がある。 "インターネット" 型のコンピューター通信部門がそれである。 "インターネット" とは、最も広義には、コンピューターの "ネットワークのネットワーク" つまり、局所的に相互に連結されたコンピューター群(LAN)が、さらに広域的にも連結されたもの(WAN)をさす。  

このインターネットは、一九六九年、アメリカの国防総省が、全国にちらばる大型コンピューターを高速の通信回線で結んで(ARPANET)、稀少な計算機資源の有効利用をはかろうとした時に誕生した。しかし、実際に使われ始めてみると、計算機資源の利用もさることながら、当初は副次的なサービスとみなされていた研究者相互間のコミュニケーションのためのメディアとしての有用性が極めて高いことが、ただちに明らかになった。やがて、インターネットは、全米のコンピューター科学研究者のためのネットワーク(CSNET)として発展し、さらに全米科学財団の支援をえて、多様な専門分野にわたる研究・教育機関に拡大(NSFNET)していった。当初は、その使用は研究目的に限定されていたが、次第にその制限が緩和され、さらに企業や一般市民に商業的にインターネット・サービスを提供する企業も出現して、これらの商業ネットとの相互接続、あるいは商業ネット間の相互接続も行われるようになった。とりわけ、昨年の夏以来、インターネットは、研究・教育機関以外の広汎な企業や団体、あるいは個人も利用するメディアとして、拡大・進化しつつある。  

インターネットの運営の世話役的な役割を果たしているのは、昨年設立された国際団体としての "インターネット協会" である。いわゆる "ザ・インターネット" すなわち狭義のインターネットは、この協会の指導下にあって、共通のアドレス体系をもち、相互に交信可能な通信プロトコルによって結ばれている、コンピューターのネットワークのネットワークをさしている。ザ・インターネットの規模は、今年の半ばで、ネットワーク数にして一万数千、コンピューター数にして百数十万、ユーザー数にして約一千万、電子メールの到達可能な国の数は百二十数ケ国、といったところだろうと見積もられている。日本でのインターネットの普及度は、絶対数でいえば必ずしも少なくはないが、一人当たりGNPに対する割合としては、他の先進産業諸国の十分の一といった "異常" に低い水準にとどまっている。  

昨年の六月、インターネットの急速な発展にいち早く注目したロンドンの『ザ・エコノミスト』誌は、今や、インターネット型の通信システムが世界の電話システムを追い越す日がきたのではないかと述べ、「いずれは世界中のコンピューターが一つに結びつく日がくるかもしれない」という、はなはだ示唆的な言葉でその記事をしめくくっていた。つまり、このビジョンによれば、「万国のプロレタリアートが団結」する時代に代わって、「万国のコンピューターが連結」する時代がやってこようとしているのである。  

この記事を読んだ時、私はとっさに、『共産党宣言』の冒頭の一節をもじって、

「情報産業界に幽霊が出る−−インターネットという幽霊である。ふるい情報通信産業界のすべての主要産業 (電話、放送、ケーブルテレビ、映画、新聞、出版業) は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる。」
という言い方ができそうだなと思った。しかし、その段階はすでに過ぎたようだ。  

すくなくともアメリカに関するかぎり、ブッシュ政権が推進したスーパーコンピューターの開発とネットワーク化を推進するための "高性能コンピューティング・コミュニケーション計画(HPCC)" は、クリントン=ゴア新政権の下で、高度な研究教育機関だけでなく、学校や図書館、病院や企業、政府機関から一般市民の手にあるすべてのパソコンやワークステーションを相互に連結する "全国情報インフラストラクチャー(NII)" の整備計画に変貌しつつある。その意味では、インターネットの幽霊は、今や全国情報インフラの錦旗になりかわったといってよいだろう。それにともなって、各種の情報通信産業は、まずこの錦旗を自分の陣営−− "ビデオ・ダイヤルトーン" 、 "インターアクティブ・テレビ" 、 "パーソナル・コミュニケーション・サービシズ" 等々−−に引き寄せるべく鎬をけずり、次にはさまざまな合従連衡によって、インターネット自体の未開の沃野に競って進出すべく血道を上げはじめたようにみえる。  

もちろん、そのような動きを警戒し批判する声もある。大学や研究所の一部の人々からは、インターネットの "商業化=有料化" によって、コンピューター・ネットワークの "自由な" 利用ができなくなるのではないかという懸念が表明された。他方、市民の一部からは、コンピューター・ネットワークのような高度な通信機能は一部の研究教育エリートや大企業のためのものであって、一般市民には在来の電話があれば足りる。したがって、情報インフラの建設費用負担を、電話料金や税金の引上げという形で一般市民に押しつけることには反対だという意見も出されている。しかし、世論の大勢は、 "情報インフラ" は二一世紀のアメリカ経済の国際競争力の回復にとっての必須の手段となる、という大義名分を支持する方向に動いている。  

しかし、インターネットは、単なる技術や産業以上のものである。それは、同時に社会思想として、社会運動としての側面をもっている。ことによるとそれは、かつての "共産主義" イデオロギーに代わって、二一世紀の "近代情報文明" の構築を主導する強力な社会思想・社会運動として発展していくのかもしれない。私はときどき、ヴィントン・サーフ会長の率いる "インターネット協会" こそ、二一世紀の "インターナショナル" なのではないか、そして、いずれは「今やアメリカでは、皆インターネット派なのだ」といわれるようになる日がくるのではないか、と思うことがある。  

どうしてそんなことを思うのか。その理由を説明するためには、まず、インターネットがみたしているコミュニケーションのニーズの性格と、コミュニケーション・メディアとしてのインターネットの特質とを、説明するところから始めるのがよいだろう。  

"グループ・メディア" の出現  

インターネットは、一種のコミュニケーション・メディアだとみることができる。しかし、それは、これまでの電話のような、一対一の "パーソナル・コミュニケーション" に特化したメディアでもなければ、ラジオやテレビのような、一人が不特定多数の相手に対して発信する "マス・コミュニケーション" に特化したメディアでもない。それは、いってみれば、だれでも、いつでも、だれとでも、コミュニケーションを行うことを可能にするメディアである。あるいは、ある特定の範囲の "グループ" に含まれる人々−−もちろん、そのグループの範囲は、時と場合によって違っていてもかまわないが−−が、お互いに交信するためのメディア、つまり "グループ・コミュニケーション" のためのメディアだといってもいい。つまり、インターネットは、これまでの "パーソナル・メディア" や "マス・メディア" とは一味違う、いってみれば "グループ・メディア" とでもよぶのが適切なメディアなのである。  

インターネットの一員となっているコンピューターもしくはLANは、原則として二四時間つねにネットワークに接続している。私が、自分の手元にあるコンピューター−−卓上型でも携帯型でも何でもよいが−−から発信する情報には、 "ヘッダー" とよばれる部分がついていて、そこに情報の受け取り相手が指定されている。受け取り相手としては、特定の個人を指定することもできれば、あらかじめ範囲が定められたなんらかのグループを指定することもできる。いくつもの "パケット" に分割されて発信された情報は、 "ルーター" とよばれる一種の交換装置を次々と経由して、ネットワークの中を流れて行き、受け取り相手に届いたところで、もとの形に組み立て直されるのである。  

現在みられるような爆発的成長が今後も続くとすれば、このインターネットは、もう十年か十五年もすれば、地球上を覆いつくしてしまうだろう。ある予測によれば、来世紀の初めですでに、インターネットを利用している人の数は十億人前後に、インターネットにつながっているコンピューターの数は数十億台に、なっているだろうという。  

私が勤務している国際大学のグローバル・コミュニケーション・センターでは、今年の初めから、このインターネットに所内のLANが接続したが、使いだしてみると、たしかにこれほど便利といえば便利なものはない。電子メールを送りあうこともできれば、地球の裏側のコンピューターにはいっていって、その中の文書を読みだしたり、そこに書きこんだりすることもできる。また、あちこちのデータベースを自動的に検索して、自分の欲しい情報や文献を探してくることもできる。何よりありがたいのは、世界に対して何かを発信したい、たとえば自分の書いた作品をみてもらいたいといった時に、いちいちそれを多くの人に送りつけなくても、自分のコンピューターの中の公開ファイルにいれておけばたりることである。あるいは、これこれのコンピューターのどこそこの場所に、かくかくしかじかのファイルを置いてありますよ、という情報さえ発信しておけば、みたい人は自分で取りにきてくれることが期待できるのである。

もう十年以上昔のことになるが、ワープロを覚えて使うようになったら、ワープロなしでどうやって仕事ができていたのかと不思議に思うようになったことがある。それと同じように、私たちは、今では、インターネットなしの "グローバル・コミュニケーション" なんて考えられないなあ、と言いあうようになってしまった。

グループ・メディアのパラダイム  

電気通信の世界で最初に普及したグループ・メディアは、いわゆる "パソコン通信" 型のメディアだった。インターネット型のメディアが出現した時期はパソコン通信とほぼ同じだったが、その普及にはやや手間取った。しかしこれからは、従来のパソコン通信型のメディアのほとんどは、インターネットに接続することによって、それと同化していくことになるだろう。そこで、以下ではインターネットをグループ・メディアのモデルとみなして、それがもつコミュニケーション・メディアとしての特徴を、パーソナル・メディアやマス・メディアと対比しながら整理してみよう。  

グループ・メディアの第一の特徴は、広く市民一般が利用できるメディアだという点にある。これまでの放送型のマス・メディアの場合、それを発信者として利用できるのは、例外的な少数者にかぎられていた。近年では、技術的には、比較的安い費用で放送局を開設することが可能になったといわれるが、電波の使用に関しては制度的にきびしい規制が課せられているので、誰でも自由に放送するわけにはいかない。したがって、一般大衆(マス)にとっては、ごく最近まで、発信者として利用できるメディアは、事実上パーソナル・メディアに限られていたといえよう。他方、電話のようなパーソナル・メディアは、それ自体誰でも使えるとはいえ、それをマス・メディア (ないしグループ・メディア) として利用することは事実上不可能だった。

ところで人間は、本来集団生活をいとなんでいる。その意味では、集団、すなわち "グループ" (の諸成員) を対象とするコミュニケーションへのニーズは、ほとんど人類の歴史と共に古かったと思われる。グループの範囲が小さくて固定的である間は、そのためのメディアとしては、広場で大声で叫ぶとか、掲示文を紙に書いて張りだすといった、比較的単純なもので足りただろう。しかし、近代文明のように、人々の交流の範囲や規模が大きくなり、グループへの所属あるいは関与もますます多様になってくるようになると、その種のコミュニケーションへのニーズはさらに大きくなり、それをみたすためのメディアも、より高度で効率的なものが要求されるにいたったはずである。しかし、残念なことに、近代産業技術は、これまでのところ、そうしたニーズをみたしてくれるような便利なメディアを生みだしてこなかった。  

そういうわけで、機械化の進んだ近代産業社会に生きているとはいいながら、その中のほとんどのひとびとにとっては、これまでは、不特定多数どころか、百人とか千人といった比較的限られた数の相手に対してさえ、情報を発信するのは容易なわざではなかった。年賀状や転居通知の印刷のように、あるいは、サークルのニュース・レターやビラ配りのように、印刷所に印刷を依頼したり、自分でガリ版を切ったりして、印刷された文書を郵送するか個別に配付してまわるかするのが、せきのやまだった。コピー機械の登場は、個人による情報発信の地平を大きくひろげるものではあったけれども、まだまだその費用は高く、使える範囲も限られていた。普通の人が、自分の意見や作品を不特定多数の人々に広く知らせることは、まず不可能であった。論文や著書を出版するわけにもいかず、新聞や雑誌に投書してみたところで採用される確率はごく低く、ラジオやテレビにスター、タレントとして出演することなど、夢というほかなかった。ようやくごく近年になって、コンピューターのパーソナル化とネットワーク化が進展するに伴って、 "インターネット" のような、グループを対象とするコミュニケーションのための便利なメディアが、生まれてきたのである。  

インターネットを通じて送受信できるものは、今のところ通常の文書かあるいはコンピューターのプログラムのような "バイナリー・ファイル" が中心だが、しだいに音声や画像、さらには動画も送れるようになりつつある。いわゆる "マルチメディア" の通信が可能になろうとしているのである。しかも、通信の速度や容量は年々増加の一途を辿っている。逆にその費用の方は、減少する一方である。また、いわゆる情報の処理と通信は、ますます一体化しつつある。たとえば、私が何か文章を書こうとして、そのための資料を私のコンピューターのハードディスクから取りだすのも、海の向こうの図書館のデータベースから取りだすのも、手間としてはほとんど変わらなくなっていく。同様に、書きアげた文章を、私の机上のコンピューターにしまうのも、何千キロも離れた同僚(たち)のコンピューター(複数の)に送るのも、ほとんど同じ手順でできるようになるのである。  

もっとも、現在のインターネットは、まだまだ市民なら誰でも使えるやさしいメディアだとは言いがたい。とくに、ワークステーションを直接駆使して通信や情報処理を行おうとすれば、相当の予備知識や熟練を必要とする。私のような "文科系" −−文科系にも例外は多々あろうが−−の人間にとっては、今のワークステーションを使うことは、ほとんど思案の外である。しかし、パソコンをインターネットの端末として利用するための、ユーザーにやさしいソフトウエアが、今どんどん開発されつつある。恐らくそう遠くない将来に、文字通り誰でも使えるハードとソフトの組み合わせが入手可能になるだろう。  

インターネット型のグループ・メディアを現在のところ市民一般の利用から遠ざけているもう一つの原因は、値段である。とりわけ日本の場合、端末のハードやソフトの値段の高さもさることながら、専用線の設置や利用の費用、あるいは公衆電話回線から接続する場合の通信費用の高さである。インターネットの場合、先にものべたように、二四時間いつでもつながっているところに、基本的な利点がある。また、自宅やオフィスにいなくても、必要とあればどこからでも接続できる(たとえばどこかのコンピューターを呼びだせる)ところが値打ちなのである。  

もう一つの問題は、これも日本の場合がとりわけ深刻なのだが、インターネットの利用が "研究" 目的に限られがちなことである。学術研究の支援になるといった名目がつけられる企業の場合はともかく、一般市民の場合には、このような用途の限定は、理由が何であれ、グループ・メディアの利用にとっての大きな障害とならざるをえない。  

こうしたさまざまな問題が解決されて、どこでも、誰でも、いつでも、インターネットが容易に、また安価に、利用できる日が一日でも早くきてほしいものである。  

グループ・メディアの第二の特徴は、原則として万人に開かれたメディアだという点にある。 "グループ" の範囲自体、その時々に変化しても一向にさしつかえない。たとえば、ある個人あるいはグループが、それぞれ違った人々−−一部に重複があることは、もちろん差支えないが−−をそのメンバーとしてふくむ、複数の "メーリング・リスト" をもっていて、どれかのリストを対象として、ある特定のメッセージを同報発信するといったケースがそれである。そればかりか、私は、自分のメッセージの内容を、不特定多数のあらゆる相手に公開することもできる。すなわち、放送のような形でそれを発信することもできれば、それをファイルにして私のコンピューターの中のある特定の場所においておいて、誰でもそれを取りにきてもよいようにしておくこともできる。  

このような "公開性" を原則とした上で、このメディアは、そうしたければ、受信者の範囲を自由に限定していくことができる。すなわち、受信の資格を、ある特定のグループから特定の個人にまで、好きなように限定することもできる。さらに、メッセージを暗号化して、特定の相手にしか読めないようにすることもできる。その場合、暗号文を特定の相手にだけ直接送りつけてもよければ、暗号文自体は万人に発信しておいて、特定の鍵を持っている人だけがそれを解読できるようにすることもできる。米国では、そのような暗号化の技術の利用や輸出をどこまで認めるべきか、とりわけ政府が暗号を解読できるようにどこまでしておくべきか、といった問題が大きな争点となっているが、暗号化の技術の普及は、いずれにせよおこることはまちがいないだろう。(ちなみに、この後者の方式が普及すれば、誰が何時誰に対して何を発信したかを特定することは、事実上不可能になり、コミュニケーションのプライバシーはほぼ完璧に保たれることになるだろう。そして、それが電子取引にも応用されることになれば、市場の "闇市" 化が進むことになり、政府は、市民の所得はもちろん消費すら、捕捉が困難になるだろう。そうなった場合の税制がどのような形になるか、どのようにすることが望ましいかは甚だ興味深い問題だが、ここでは立ちいることができない。)

ちなみに、ここでいうグループ・メディアの性格がこのようなものであるとすれば、 "グループ" の両方の極端には、 "マス" と "パーソン" がいるというイメージがもてよう。そして、 "グループ" が万人を包摂している場合には、グループ・コミュニケーションは事実上マス・コミュニケーションになり、他方 "グループ" にある特定の一人しかふくまれない場合には、グループ・コミュニケーションは事実上パーソナル・コミュニケーションになってしまうだろう。そして、十分柔軟な "グループ・メディア" であれば、それは同時に、 "マス・メディア" としても "パーソナル・メディア" としても十分利用に耐えるような、一種の "万能メディア" として機能することになるだろう。いいかえれば、強力でしかも安価なグループ・メディアの発達によって、既存のパーソナル・メディアやマス・メディアが、代替・吸収されていってしまう可能性が考えられる。それが、今日一部でいわれている「電話やテレビの終わり」ということの、また「通信と放送の融合」ということの、実質的な意味なのではあるまいか。つまり、そうした展開は、既存のメディアの発展の延長線上に生ずることではなく、ここでのべたような意味でのコミュニケーション・メディアの "パラダイム・チェンジ" の結果として、新しいタイプのメディア (グループ・メディア) が生まれ、それが他のタイプのメディア (電話や放送) を呑みこんでしまう形で生ずるのでないだろうか。

ただし、いうまでもないが、そのことは、パーソナル・コミュニケーションやマス・コミュニケーションのニーズそのものがなくなることを意味するものでは、まったくない。それらのニーズをみたすために、特化したメディアを利用する必要がなくなるということにすぎない。また、そのことは、経営体としての既存の電話会社や放送会社が死滅する運命にあることを意味するものでもない。既存の "メディア" が駆逐されることは、ただちに既存の経営体が駆逐されることを意味しない。既存の経営体にとっては、自分自身を進化させ再生させていく道は、常に開かれているからである。現在のアメリカで、ケーブル・テレビ会社や電話会社が、インターネット型のサービスを提供しようとしはじめたのは、そのような自己再組織の努力の現れだとみることができる。

グループ・メディアの第三の特徴は、それが "自立分散" 型のメディアだという点にある。すなわち、このメディアは、それぞれが高度の自立的な情報処理能力( "インテリジェンス")をもつ各人あるいは各グループが、自分たちの情報や情報処理資源を互いにもちよってつなぎあわせてネットワークをつくることで生まれるメディアであって、一個の "センター" による集中的な管理・統制は、不要あるいはそもそも不可能である。とくに、インターネット型のグループ・メディアの場合、現時点で誰−−どのコンピューターと、それを使うどのユーザー−−がネットワークに加入しているかは、ネットワークが大きくなってくると、誰にもわからなくなる。もちろん、丹念に調べてまわることはできるにしても、調査の進んでいる間に、加入者の数や構成はどんどん変化していると考えられるからである。したがって、インターネット型のメディアにとっては、 "インテリジェンス" は "ネットワーク" にではなくて "端末" に宿り、情報はシステム全体に分散している、という作りにすることが最もふさわしい。もちろん、実際問題としては、巨大なネットワークの構築・運営にさいしては、なんらかの "階層構造" を導入することは、ほとんど不可避だろう。多少とも大きなシステムにあっては、その各部分の間の完全な平等は、望むべくもないのである。  

しかし、グループ・メディアに見られる、高度の自立性をもったその個々の部分が、互いに自分の資源をもちよることによってシステムを作りあげているばかりか、自由にシステムから出入りできるという特徴の重要性は、いくら強調してもよいだろう。インターネットへの新たな参加を拒む理由として、新たな参加者の加入はシステムの共用資源に負担をかけるという点があげられることがあるが、ジョージ・ギルダーも指摘しているように、それは、一面的な議論にすぎないというべきである。新たな参加者は、自分の資源をネットワークに提供することによって、ネットワーク全体の資源の豊富化に貢献しているのであり、コミュニケーション・メディアとしてのネットワークの本来の利点は、全体としての参加者が多くなればなるほど、個々の参加者にとってのネットワークの便益が増大する点にある。加入者の増大によって通信幹線が混雑するという問題には、費用負担の適正配分という問題を含めて、別途対処していけばよいのである。光ファイバー技術の発達が、グループ・メディアにとっての事実上無制限の通信容量の増大を、比較的安価な費用で実現する可能性をもたらしてくれていることを思えば、加入者の増大を心配する議論は、本末転倒だといわなければならない。  

インターネットの未来  

今日の産業社会は、自動車・家電産業を中核とする "二十世紀システム" から、情報サービス産業(その初期はマルチメディア産業)を中核とする "二一世紀システム" への移行の過程にある。インターネット型のグループ・メディアが、その "情報インフラ" として、決定的に重要な役割を果たすことには疑問の余地はない。  

しかし、二一世紀には、産業社会の新段階への移行だけでなく、近代文明自体の局面の転換もまた起こると想像される。私はそれを、 "近代産業企業による世界市場を舞台とする富のゲーム" が支配する "産業化" の局面から、 "情報智業による地球智場を舞台とする智のゲーム" が支配する "情報化" の局面への転換だととらえている。しかし、この転換自体はかなりの長期間を要し、当分は、二つのゲームが並行してプレーされる時代、すなわち "智業・企業協働" の時代が続くだろう。それは、産業化の初期に、 "威のゲーム" のプレヤーとしての "近代主権国家" が、企業との間に "企業・国家協働" 関係を展開したのと似ている。それはともかく、グループ・メディアは、世界市場だけでなく地球智場にとっても、不可欠な情報インフラとして機能するだろう。

恐らく現時点で決定的に重要なのは、高度な通信技術やネットワークの研究開発もさることながら、現在利用できる技術をもとにして、企業や智業だけでなく、広く一般市民が容易に利用できるインターネット型のグループ・メディアを全国に展開し、その利用を普及させることだろう。そのためには、国家レベルよりもむしろ地方自治体レベルでの、官民協働した "コミュニティ・ネットワーク" 構築の工夫と努力が、特に望まれる。  

かつてARPANETに対してCSNETを構築することにリーダーシップを発揮したペンシルバニア大学のファーバー教授は、今、地元フィラデルフィア市で、一般の企業や市民が利用できるコミュニティ・ネットワークとしての "リバティー・ネット" の構築に精をだしている。そのファーバー教授が先般来日した折、日本のコミュニティ・ネットワークのインターネットへの接続が容易には認められないことを知って、リンカーンの演説を借りた次のような励ましの言葉を残して去った。曰く、      

「人民による人民のためのネットワークが、この国から消え去ることのなからんことを。」