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1993年10月00日

「大平正芳の時代認識」

公文俊平

一九七八年一二月七日、第六八代内閣総理大臣に就任した大平正芳は、翌年の一月二五日、第八七回国会で行った最初の施政方針演説の冒頭で、「まず私の時代認識と政治姿勢について申し上げます」とのべて、 "文化の時代の到来" と "地球社会の時代" を、その "時代認識" の二本の柱とした。総理大臣の就任最初の施政方針演説で、 "時代認識" という言葉がもちいられたのは、この時をもって嚆矢とする。  

もともと、 "時代認識" という言葉は、それほど古くからあった言葉ではない。長年、宏池会のライターとして活躍してきた福島正光氏によれば、この言葉は、戦前広くもちいられていた "時局認識" という言葉の戦後版だという。戦後、それがいわば装いを新たにした形でジャーナリズムの一部でもちいられはじめていたものを、宏池会の政策文書などの中に次第にとりいれていったのだそうだ。しかし、この言葉は、いまだに広辞苑にも収録されていないし、私の調べたかぎりでの和英辞典にも見あたらない。その意味では、まだ日本語として完全に熟しているとはいえないのかもしれないが、次第に一般に普及するようになってきていることも事実である。

試みに一九八五年以来の新聞記事が収録されている三大紙のデータベースを検索してみると、 "時代認識" という言葉をふくむ記事は、毎日新聞が四二件、朝日新聞が三六件、読売新聞が二四件みつかった。これを朝日新聞について年代別にみてみると、一九八五年と八六年が各二件、八七年から八九年までが各一件、九〇年が四件、九一年が五件、九二年が六件、そして九三年が一一月までに一四件、といった具合に、近年になるほど頻度がふえてきている。

ついでに、同じ朝日新聞データベースから、いくつかの典型的な用例もひいておこう。まず、一九八五年一月一三日の記事では、社公両党書記長会談の "確認メモ" の内容の一部に、「八〇年代後半の時代認識と内外の情勢を踏まえての現実的取り組みの課題」という表現がみられる。同じく七月三日の記事では、結党三〇周年をむかえる自民党が新たな "特別宣言" と "政策綱領" の作成をおこなうことになったが、そのさいこれまでの「基本文書は結党時の時代認識を忠実に反映したものであり、そのまま残すべきだ」との意見が強くだされたことを紹介している。

一九八六年七月には、税金党が、「日本の国際的地位など新しい時代認識に立った税制改革」の要望書を中曾根首相に手渡している。一九八七年一一月には、自民党の新三役の一人にきまった渡辺政調会長が、「挙党態勢の確立のためには時代認識が一致することが大事だ」と語っている。一九八九年六月には、自民党幹部と懇談した日商、東商の幹部の中から、「自民党に、雑誌で少年ジャンプが一番売れていることを知っている議員が何人いるのか。時代認識を誤っているのではないか」という苦情がのべられている。一九九〇年の七月には、海部首相がヒューストン・サミットで「アジア地域では緊張緩和が進んでいない」との趣旨の発言をしたことに対し、社会党が「世界史的な時代認識を欠く」と批判している。他方、同年の一〇月には、自民党がまとめた安保問題に関する答申案に対し、公明党が、案そのものには反対だが "時代認識" では共通点がある、という言い方をしている。一二月には、平岩経団連新会長が、「新しい国際秩序を模索する時代であり、地球規模で協力する時代でもある」との時代認識をしめしている。一九九一年の二月には、公明党の石田委員長が、多国籍軍への九〇億ドル追加支援の財源問題で政府・自民党が予算修正に応じたことに関連して、「参院の与野党逆転などを考えると、政府・自民党が従来のような政治運営をするのは時代認識の誤りもはなはだしい」とのべている。一九九一年三月の朝日の社説は、食糧庁が米国産のコメの展示の撤去を要求して「三割の減反と自主流通米の増加で、事実上、形がい化している食管法を振りかざしたことも、時代認識からずれていると言わざるをえない」とコメントしている。

なお近年では、 "時代認識" という言葉は、必ずしも政治家のそれについてだけいわれるわけではなくなり、「七色の煙を繁栄の象徴とした時代認識を覆した公害告発の闘争」といった表現もあれば、戦国時代の武将の時代認識とか、画家のサインに見られる作者の時代認識といった使い方もされるようになっている。  

また、より最近の例としては、「日本の政治を代表してきた自民、社会両党にそうしたグローバルな時代認識があるだろうか」(九二年七月) 、「社会党が田辺氏の辞任を契機に、時代認識をもって政権政党に脱皮することを願っている」(九二年一二月) 、「このような時に、経団連会長は相も変わらず自民党に資金提供をすると言っている。時代認識の欠如もはなはだしい。」(九三年六月) 、「地球規模の "環境冷戦" が始まったという時代認識に立ち、共生への道を探る」(九三年七月) 、「おれはもう七十八歳だよ。この年の人間を引っ張り出そうなんて、時代認識が間違ってる」(九三年七月) 、「連立与党が将来、どのようになるのか、政党政治への時代認識を河野氏がただした」(九三年八月) 、「首相発言といえば、所信表明演説で "侵略行為" と強調した戦争への反省も、非常に好意的に受け取られていることが分かった。時代認識にも国民の共感がある」(九三年九月) 、など多くのものがあり、この言葉が次第に日常用語として定着しつつあることを伺わせる。施政方針演説については、「時代認識や国際情勢から始めて、次第に内政問題へ話を移していくという施政方針演説の常道」(九三年一月) といわれるまでになってきている。  

これらの用例からみると、この "時代認識" (あるいは "時局認識" ) という言葉は、日本人が通有している世界観を端的にあらわしている "文化語" とでもいうべき言葉であることがわかる。すなわち、日本的世界観の特質のひとつは、外の世界が、ある大きな流れ−− "世界の大勢" −−にのってうごいているという信念をもっているところにある。しかも、この流れ自体は、黒潮が流れをかえるように、時に変化することがあって、それが "新時代" をもたらすのだが、われわれ日本人には、この時代の流れそのものをかえることはなかなかできない。われわれにできるのは、むしろ、その流れの方向や性質、とりわけそれらの変化を、なるべく速やかかつ的確に認識した上で−−つまり、正しい "時代認識" をもった上で−−それにあわせて自分自身のあり方や行動を変革することなのである。したがって、われわれの常に心がけるべきことは "変化への対応" (第二臨調がかかげた行政改革の第一理念)である。これが、ルース・ベネディクトが『菊と刀』でしめした日本分析以来有名になった、日本人の、 "状況対応型倫理" 原則にほかならない。いいかえれば、この意味での "時代認識" の通有こそが、日本人を合意と行動にみちびく大前提なのである。そうだとすれば、日本の偉大な政治家の条件は、時代の変化に対する鋭敏な感覚をもち、他の人々にさきがけて、新しい時代認識とそれが含意する新しい対応行動を提示し、人々を説得できることだといってよかろう。他方、およそ日本の政治家たるものが最低限度もたなければならない資質は、すでに世間で広く通有されているものからかけはなれた、 "古い" 時代認識にいつまでもしがみついていないで、適当な時期に、新しい時代認識に乗りかえる機敏さと柔軟性をもっていることであろう。吉田茂は、戦後におけるこの意味での偉大な政治家の典型であった。そして、後に検討するように、大平正芳もまた、その時代認識の新しさと的確さの両面において、日本の偉大な政治家の一人に数えられる条件をみたしている。しかも大平は、その施政方針演説を、みずからの時代認識をまず明示してみせることろから始めることによって、そのスタイルを後々の施政方針演説の "常道" にする先例を作ったという意味でも、注目に値する政治家だといわなければならない。  

さて、この章では、さきに紹介した施政方針演説にもられた大平正芳の "時代認識" の内容自体を検討してみたい。  

そのさい、一方では、それが、一九七〇年代を通じて、どのように形作られていったかをみてみたい。そのような、大平独自の時代認識の形成過程に特に注目するのは、次のふたつの理由による。

そのひとつは、後にみる通り、日本にとっても、世界 (とりわけ近代文明世界) にとっても、重要な意味をもついくつかの大きな社会変化がいっせいに生じはじめたのが、一九七〇年代の半ばごろであったと思われるからである。筆者は、大平が、そうした変化に対して、どのような先見性をもっていたか、そしてどのように対処しようとしていたかという点に、強い関心をいだいている。  

いまひとつは、一九七〇年代の初めという時期が、佐藤内閣の改造で通産大臣を辞任して無役となった大平が、前尾繁三郎の後をついで宏池会の第三代会長に就任 (一九七一年四月一七日) し、自民党内の大派閥のリーダーとして、未来の総理総裁の座を眼中にしつつ、さまざまの重要な発言、とりわけ彼自身の時代認識に関する発言をおこないはじめた時期にあたっているからである。なお、そのすこし前に、大平は還暦をむかえていた (一九七〇年三月一二日) 。  

他方では、大平独自の時代認識が形成されはじめてから四半世紀をけみした現在からふりかえって、いわば歴史の後知恵を借りることによって、大平の時代認識の妥当性をあらためて検証してみたいと思う。今にして思えば、一九八〇年代の十年間は、その前半でアメリカに追いつき追いこす勢いをみせていた日本が、その後半では、追いつきに成功したことへの自己満足と国家的目標を見失ったことによる混迷とから脱却できないでいる間に、新技術の開発や産業組織の改革などいくつかの面で、再び大差をつけられてしまった十年間だったということができそうである。八〇年代のアメリカの "レーガノミックス" は、厖大な財政赤字や社会的な階層分化をもたらしたゆえに、大失敗だったと見るのが日本での通説であり、ほとんど嘲笑と憐愍の念をもって言及されることが多い。しかし、レーガン政権のおこなった巨大な財政支出は、SDIによってソ連の野望を完膚なきまでに打ち砕いたばかりか、ほころびの目立っていた国内のハイウェー網の再建をも可能にした。また、その減税、自由化政策は、 "産業化の二一世紀システム" を支える一連の新たな技術革新−−情報革命−−に道を開いた。そのためにアメリカが支払わなければならなかった社会的なコストには厖大なものがあったが、とにもかくにもその結果として、アメリカは、次の世紀での軍事的・経済的な覇権を再びその手中にしつつある。十八世紀末のイギリスが、産業革命という新たな力の源泉をみずからのものとすることによって、世界政治の檜舞台に主役として返り咲きをはたしたように、二〇世紀末のアメリカは、情報革命という新たな力の源泉をいち早く手にすることによって、 "パクス・アメリカーナ・マークU" への道をひらいたのかもしれない。恐らく、そのような観点からレーガノミックスが再評価される日も近いのではあるまいか。それにひきかえ、日本は、すでに一九六〇年代に、世界に先駆けて情報化時代の到来をみてとっていたにもかかわらず、それを現実化するために必要な技術革新をみずからの力で生みだすことには失敗してしまった。また、大平の後継者たちが一九八〇年代の国家的課題として設定した行政改革と財政再建のうち、財政再建にはある程度成功したものの、政治・行政・経済・社会の改革はごく中途半端なものに終わってしまった。その結果、一九九〇年代の前半にいたって、アメリカの復活が喧伝される一方で、日本経済の "沈没" あるいは、日本的 "システム" の崩壊が云々されるまでにいたっている。今にして思えば、当初指摘されたのとは違った意味で、冷戦の "敗者" は、ソ連だけではなかった。今や、 "叩き" ならぬ、嘲笑と憐愍の対象になりつつあるのは、日本の方なのである。そうだとすれば、一九八〇年代の日本は、その国家・社会の運営において、なにか重大な誤謬をおかしてしまったのではないかと考えざるをえない。  

いうまでもなく、一九八〇年代の日本の国家・社会の運営の誤りの責任を、大平正芳に負わせることはできない。その直接の責任は、誰よりも、大平の後継者たちにある。しかし、すくなくとも、八〇年代前半に日本の政治の中枢部で大平の後継者となった鈴木・中曾根、両政権が、基本的には大平の時代認識を継承し、大平のしいた政策路線−− "保守本流" 路線−−にしたがって政治をおこなおうとしてきたことも、また事実である。私自身も、そのような流れの中で、大平の心を心として、微力ながら、一連の改革の試みに参加してきた。そしてその結果が現在のような事態を招いているとすれば、その原因の一端は、私たちが指導理念としてきた大平の時代認識の中にも、まったくなかったとはいえないかもしれない。あるいは、大平の時代認識それ自体というよりは、それに対する私たちの解釈に、なんらかの不備あるいはおごりがあったのかもしれない。その意味で、私は以下、自分自身の反省、自戒の念もこめながら、大平の時代認識の内容を再検討してみたいと思う。

一.楕円の哲学  

時代認識は、当然のことながら、一定不変であり続けるわけにはいかない。時代の変化と共に、変化していってこそ、有用な時代認識だといえる。しかし、そのような時代と共に変化する時代認識そのものの基盤には、不変の、あるいはすくなくとも相対的により変化しにくい、世界認識の枠組みや哲学のようなものがなくてはならないだろう。そうでなければ、そもそもどのような時代認識も持ちようがないのである。大平正芳の場合、そうした哲学は明らかに存在した。それは、彼のキリスト教信仰などとともに、青年時代にすでに確固として形成され、一生を通じてかわることがなかった。中でも、その中核にあるといってよいと思われるのが、いわゆる "楕円の哲学" である。  

すでに一九三八年の正月、当時二八歳の大平は、新任の横浜税務署長としての訓辞の中で、次のようにのべていた。  

行政には楕円形のように二つの中心があって、その二つの中心が均衡を保ちつつ緊張した関係にある場合、その行政は立派な行政と言える。...支那事変の勃発と共にすべり出した統制経済も統制が一つの中心、他の中心は自由というもので、統制と自由が緊張した均衡関係に在る場合に、はじめて統制経済はうまく行くのであって、その何れに傾いてもいけない。税務の仕事もそうであって、一方の中心は課税高権であり、他の中心は納税者である。権力万能の課税も、納税者に妥協しがちな課税も共にいけないので、何れにも傾かない中正の立場を貫く事が情理にかなった課税のやり方である。(『素顔の代議士』、pp. 9-10)  

つまり、大平の考えでは、およそものごとには二つの中心があって、その両者が緊張した均衡関係にある場合にはじめて、ものごとは円滑に進行する。ものごとの動きを政策的に制御しようとするものは、常にこの点に注目していて、両者のバランスをとることを心がけるべきであり、いずれに傾きすぎてもいけないというのである。  

大平の、事物のこのような捉えかたは、いささか静態的ともいえなくはない。つまり、東洋的、陰陽二元論的な "相反する力の均衡と調和" を重んずる見方だと解釈できる。しかし、決してそれだけではない。大平の "楕円の哲学" にはほとんど "弁証法" 的といいたくなる一面もある。すくなくとも、禍福がその中で交代する "時間" というもののもつ "不思議な構造" に対して大平が常にいだいていたと思われる一種の畏敬の念は、この "楕円の哲学" が時間軸の上にも展開されているところからうまれてきていると解釈できそうだ。たとえば、大平は、一九六五年の初頭に選挙区向けの後援会会報「東京だより」に寄稿した、「禍生得意 福育隠微」と題する池田内閣の閉幕の舞台回しについての報告の中で、次のような感慨を吐露しているのである。  

時というものは不思議な構造をもっております。ちょうど川の流れのように、淀みなく静かに流れる時もあれば、激流や急湍となって荒れ狂う時もあります。しかしその時の流れに棹さす人間としては、常に敬虔な気持と周到な注意をもって、これに対処して誤りのないように心掛けることが大切であると存じます。何となれば禍というものは多くは得意の時に生じ福というものは殆ど例外なく隠微の中に育まれるものですから。 (『回想録』、資料編、p.173)

大平が、このような "楕円の哲学" を、いつごろ、どこから自分のものにしたのかはわからない。いずれにせよ、彼はその後も折にふれて、同様な信念を吐露しつづけた。たとえば、一九六〇年の暮れ、第一次池田内閣の官房長官をしていた大平は、新聞記者にむかって、  

池田内閣を安定させつつ事を運ぶには、河野と佐藤を二つの焦点として、楕円全体のバランスをとることが必要だ。 (『回想録』、伝記編、p.206)

とのべたといわれる。また、一九六四年の暮れには、池田後継指名をめぐる調整工作の過程で、河野派幹部に対して河野・藤山連携工作をいましめて、  

河野、佐藤の二つの勢力が一つの安定した組合せになった上に日本の政治はある。楕円形の二つの中心がちゃんとしていることが大事だ。 (『回想録』、伝記編、p.255)

と注意したという。大平の持論であった "小さな政府" 論、反計画経済論、民間活力主導型経済論も、政府と民間とを、国民経済という楕円の二つの中心とみる、大平一流の楕円の哲学からの系論だということができよう。  

さらに言えば、大平的民主主義観は、為政者と国民を民主政という楕円の二つの中心とみるものであったということもできそうである。大平は、政治家の仕事は自分に投票してくれた国民への奉仕であると考える一方で、国民の良識に信頼して、けっして国民に媚びようとはしない政治姿勢を堅持し続けた。彼は、すでに最初に選挙に打ってでた時から、次のようなことを肝に銘じていたという。  

目先の御利益を誇張的に宣伝して、有権者の歓心を買うようなことはいやしいことであると思った。国民の良識がいつの日にか厳正な審判を、かかる言動に下すに違いあるまいと思っていた。民主主義というものは、国民の良識を基調にもっているのだから、もし無責任な煽動が勝利を民衆の中に永遠に打立てるようなことがあるとしたら、私はむしろ私の方から民主主義との絶縁をも敢て辞さない積もりだ、という気負った気持ちをもって、自分自身に言い聞かせていた。
(『財政つれづれ草』、『回想録』、伝記編、p.155 より再引)  

あるいはまた、一九六八年一月の衆議院本会議の代表質問では、財政硬直化に関連してこうのべている。  

今日の日本財政はそれが供給しうる栄養分を超える機構と要員と機能を担っておるように思えてならない。... 真の解決の要諦は、いうまでもなく政府の勇断であり、これを理解し受容するであろう国民の英知でもある。もはや国民は甘い迎合的な政治の姿勢に顔をそむけつつあると私は考える。私は政府に対し、真実は真実としてこれを国民に伝え、困難は困難として、これを国民に訴える素直な態度を要求する。 (『回想録』、伝記編、p.269)  

さらに、一九七一年には、通産相としての大平は、国民の政府依存癖、受け身意識、被害者意識を批判して、国民意識の転換の必要を次のように説いている。  

民間主導の真の意図するところは、これからは民間企業が自らの力によって厳しい国際競争を乗り切るのだという、はっきりした自覚を持つべきことを促したいことにある。いうまでもなく、自由経済体制にあっては、経済発展の担い手は民間企業であり、民間の英知、活力、創造力こそが発展の原動力なのである。ところが、従来、日本の企業は、困難な事態となると、とにかく政府に頼りがちになるという風潮がみられる。こうした安易な態度を改めなければ、未来へのたくましい発展は、望めない。 ......

日本人にはどうも受身意識というか、一歩進んで被害者意識とでもいうべきものが、論議の軸にまとわりついておるように思われてならない。このようなことでは日本人はついに大国民にはなれないばかりか、健全な常識に支えられた、バランスのとれた国民生活を営むについての根本的な要件を外してしまうことになりはしないかと案じられる。 (『人と思想』、 pp.260-1)

だが、大平が総理大臣に就任した時に試みた消費税の導入にさいして、多くの国民から受けた激しい反発からみれば、あるいは、後年の中曾根内閣の下での "民活" 路線が、当初の期待に反して "バブル" 経済化の引金を引いた一方では真の民間主導とは程遠いものに終わった経緯をみれば、大平のこのような見方は、国民に対する過大評価だったとみなせなくもない。あるいは、いささか時期尚早な期待だったというべきかもしれない。しかし、より長期的・大局的にみれば、大平の期待した国民意識の転換や成熟は、遅々としてではあれ着実に進行していることは疑いがないだろう。たとえば、森俊範のいう "知求人誕生" 現象は、そうした国民意識の転換の進行の一側面を、まぎれもなく現している。あるいは、アルビン・トフラーのいう "パワー・シフト" は、同様な意識の転換が、情報技術の革新と普及によって、加速・強化されていることの結果だといってよいだろう。その意味では、国民意識に関する大平の期待や指摘は、むしろこれから、ますます適切なものになっていくということができそうだ。  

二、地球社会の時代  

"楕円の哲学" を大平の時代認識の基盤をなす哲学だと位置づけた上で、次に、彼の "時代認識" の内容そのものを、より詳しく見ていくことにしよう。大きな流れとしていえば、大平独自の新しい時代認識は、その基本部分が、一九六〇年代の終わりから一九七〇年代の初めにかけてまず形成された。それは、大平正芳が、日本を指導する政治家としての自覚をもって、みずからの新たな時代認識を他にさきがけて明確に打ちだしはじめた時期と一致している。それ以後、 "激動の七〇年代" を経験する過程で、それに肉付けと修正が加えられて、七九年の施政方針演説に示された形に、最終的に結晶していったのである。  

ここでは、大平の時代認識を構成する "文化の時代" および "地球社会の時代" という二本の柱のうち、まずその第二のものから見ていくことにする。  

"地球社会の時代" の到来という時代認識の根底にあるのは、われわれは全地球的な "相互依存の時代" に生きているという認識である。大平のこのような認識は、一九六〇年代の初めに早くも形成され、その後も一貫して変わっていない。  

すなわち、大平は、一九六三年の九月に池田内閣の外相として、第十八回国連総会でおこなった演説の中で、すでに次のようにのべている。

今日ほど、平和について語られ、平和について論ぜられることの多い時代はなかったと言っても過言ではありません。それは、人類の絶滅をもたらすべき核戦争の脅威が増大したことによって、われわれが、真剣に、平和の問題を考えざるをえなかったからであります。昨年末、キューバをめぐって起った危機が、全世界を恐怖で蔽ったことは、いまだわれわれの記憶に新しいところであります。地球の一角で起ったこの危機は、直ちに全世界、全人類の存亡に連なっていたのであります。誠に、われわれ人類は、今や運命をともにしているといえましょう。このようなことは、世界史上、いまだかつてなかったことであり、現代を特徴づける最も大きな要素の一つであります。

しかし、われわれが運命をともにしているのはこのような消極面においてのみではありません。今日の科学技術の発達が、人間生活のあらゆる分野における交流を促進したことは、誠に驚くべきものがあり、今や、一国民は、他の諸国民と、政治的にも経済的にも、文化的にも固くむすばれているのであります。個人が国家の中で孤立して生活しえないのと同様に、国家も、世界の中で、孤立しては存在しえません。このように、人類は今や、生においても、死においても、互いに深くかかわり合っているのであります。この意味において、われわれ人類は、真にその運命をともにするにいたったのであります。
(『回想録』、資料編、p.157)  

この演説の中では、後に現代国際政治学のキーワードの一つとなった "相互依存" という言葉自体は、まだもちいられていない。しかし、クーパーの『相互依存の経済学』が出版されたのが一九六八年、コヘインとナイの『権力と相互依存』の出版は一九七七年であったことを考えると、大平がこの演説で、早くも相互依存という事実に着目していたことは、いくら高く評価してもよいだろう。  

他方、この演説の中には、後の "激動の七十年代" を特徴づけた通貨危機や資源・環境問題、あるいは国際政治の多極化現象等に対する言及は、当然のことながらまだどこにもみられない。この時点での大平の関心は、軍縮と緊張緩和、植民地の独立と発展といった問題にもっぱら向けられていたにとどまる。  

大平が、国際政治の転換期ともいうべき新たな諸問題の発生に注目するようになったのは、一九七〇年代に入ってからのことであったように思われる。大平はまず、一九七二年の五月におこなった「平和国家の行動原則」と題する講演のなかで、一九七二年を世界政治にとっても日本の政治にとっても「きわめて重大な選択の年」となるという認識を示した。戦後、世界秩序のにない手として指導的な役割を果たしてきたアメリカにようやく疲れの色が見えはじめる一方で、次第にその経済力を強化させていった日本では「沖縄変換が実現し、長い占領に終止符が打たれることになった」からである。こうして「いわゆる対米依存の時代は終わり、日本は、これまでの外交と防衛の政策について改めて自主的な対応を迫られるようになった」。そこであらためて国際社会の現状を眺めてみるならば、そこに見出されるのは、「まとまりのわるい多極化の世界」であり、そこでの新しい秩序はこれまでのような "パワー・ポリティックス" の力だけではもはや生みだせなくなっている、という状況である。しかし、そのための新しい力として何が考えられるか、その答えはまだ明らかではないというのが、この時点での大平の認識であった。しかし、同時に彼は、次のような注目すべき発言をそれに追加している。  

ただ、かすかながら、その方向を示唆するかに見える若干の徴候を読みとることができる。核エネルギーの問題は、もはや国の主権をこえた人類全体の運命にかかわるものとなってきた。地球の汚染や資源の乱獲は、今やナショナルなレベルをこえたグローバルな問題になってきた。核兵器は地球を一挙に破滅させるだけの力を持ち、公害や資源の枯渇はじわじわと地球を死に追いやる状況をつくり出しつつある。そのいずれもが示唆するのは、科学文明が地球の息の根をとめようと脅かしているという鉛のように重たい事実である。  

いまや人類は、その生存のために、人種や国境、さらには体制をも越えた共通の切実な課題を持つにいたった。いわば共同して当たらねばならない共通の敵に直面することになった。この敵に立ち向かうには、われわれの発想を、量から質へ、ハードからソフトへと転換しなければならない。すなわち、パワー・ポリティックスの論理をこえた新しいビジョンとシステムを組み立て、この共通の敵を克服することができるかできないか、これが人類の運命を決める鍵になってきたのである。  

しかしながら、そういう新しい秩序を身につける過程において、旧秩序は動揺し、世界は大きい不安の中に追いこまれるにちがいない。また、世界観、国家観、価値観など各国の国民意識の上に起こりつつある大きな変化は、各国の内政と外交にさまざまな新しい問題を生むことになるであろう。(『回想録』資料編、p.214)

この講演が行われてから二十年あまりたった現時点で読み返してみると、大平のこの言葉はほとんど予言者の言葉としての響きをもって、読む者にせまってくる。ここで大平が予想している「パワー・ポリティックスの論理をこえた新しいビジョンとシステム」は、よもや資本主義的な市場競争の論理ではありえないだろう。あるいは、それを部分的には含みうるにせよ、それ以上の新しい構成要素をもった何物か、たとえば、暴力でも富の力でもない、情報・知識に基づく説得力のようなものではないだろうか。  

大平はまた、同じ講演の中で、今後の日本が「国際的インサイダー」として「名誉ある生存を確保する」必要があることを強調し、そのためには何が最も大切かと自問して、次のように答えている。

われわれは、スマートな国際人になることがむずかしいにしても、少なくとも信頼される国際人にはならなければならないし、またそれは可能であるはずである。それには、まず、「できること」と「できないこと」を明らかにし、口にしたことは、必ず実行するということが必要である。とくにわれわれは、長い歴史を通じて単一の言語と人種を持つ社会を構成し、外部世界と隔絶していただけに、個人や集団相互の関係にはきびしさよりも甘さがあった。この甘さは、外国からみれば、エゴイズムととられたり、背信とうつったりすることが意外に多いことに思いを致すべきである。

さらに、われわれの行動は、独善的なものではなく、国際的にみて理解されるような目的とルールに即ったものでなければならない。日本のために世界があるのではなく、世界のために日本があると考えるべきである。(『回想録』資料編、pp.216-217)

大平のこの発言から二十年たって、アメリカのジャーナリストのジョナサン・ラウチがThe Outnation: a search for the soul of Japan という本を出して、日本は依然として世界の他の国々にとってみれば "アウトサイダー" なのだという認識を示した。また、 "ザ・インターネット" のようなコンピューターのネットワークのネットワークを通じて、今ようやく世界が情報的に一つに結ばれる時代が現実のものになろうとしているのだが、ここに来て、日本は果たしてこのグローバルなネットワークに加入するつもりがあるのか、日本は "情報鎖国" の方向に向かおうとしているのではないかという疑問が、ネットワークの中で活躍している人々から、あらためて突きつけられている。あるいは、これまでの閉鎖的な日本の社会や経済のルールを、いまこそ変更すべき時ではないかといった問題が、ようやく真剣に提起され始めている。大平のこの発言は、今にして燦然と輝き始めたともいえるだろう。

だが、それほどの先見性に満ちていた大平にとってさえ、一九七〇年代前半に生じた国際環境の変化は、予想を越えるほど激しいものだった。いや、その大平であればこそ、当時の国際環境の変化の激しさをいち早く認識できたというべきかもしれない。それを証拠だてるものとして、大平の伝記の中から、大平外相の記者懇談での発言の描写を引用しておこう。この懇談は、田中内閣誕生一周年にあたる一九七三年の七月五日に行われたものである。  

大平は言った。「この一年は自分にとって長い長い一年だった。一年前に就任した時に予想もしなかったことが、いま持ち上がっている。それは世界が全く不安定になってしまったことだ。...たしかに世界は緊張緩和に向かっている。しかし、その半面、世界の通貨危機は深刻となり、日本はそのため、円の変動相場制を余儀なくされた。...通貨危機ばかりではない。資源問題が急に表面化し、日本はその影響をもろにかぶることになった。資源問題はとくにそれまでの日本、これからの日本を見直さなければならない深刻な問題をはらんでいる。まず第一に、これまで日本は世界第三の経済大国と言われてきたが、資源問題が表面化すると、化けの皮がはがれて、世界でもっとも貧しい国の一つになってしまった。しかし、これは何も日本が悪いせいではない。世界がそのように変わってしまったからである。...」  

そして大平外相は、外務省当局に異例の指示をした。七月九日から外務省で開かれる中近東大使会議に大平外相が出席する席上で、中東戦争と石油危機の二つが起こるかどうかというテーマで論議をしてほしい、というものである。大使会議での論議はさまざまの異なった意見が出され、明確な方向は示されずに終わったが、外務省当局は、のちにこの時点で中東戦争、そして石油危機を予測した大平外相の指示に強い感銘を受けることになった。(『回想録』伝記編、pp.348-9)

私は、ここでもまた、現実に中東戦争と石油危機が発生する三ヶ月も前に、その危険を感知していた大平の能力に敬服し脱帽せざるをえない。しかし同時に、世界第三の経済大国と言われた日本が、ひとたび資源問題が表面化すると「化けの皮がはがれて、世界でもっとも貧しい国の一つになってしまった」という悲観論はいささか強すぎたのではないか、資源問題に対処する日本経済の潜在力をいささか過小評価しすぎていたのではないか、という思いを禁じえない。後年、首相としての大平は、就任早々に第二次石油危機に直面することになるのだが、この第二次石油危機のさなかに開かれた東京サミットで、参加各国が日本に要求した石油輸入の削減目標を少しでも底上げさせるために、文字通り骨身を削らなければならなかった。しかし、この時大平が必死の思いで各国の同意を取り付けた日量 630〜690 万バーレルという日本の輸入目標量は、後になってみると過大にすぎたとしかいいようのないものであったことが明らかになった。このサミットでの目標年次であった1985年の日本の石油輸入量は、原油と石油製品の両方を合わせても、日量500 万バーレルにも達しなかったのである。 (私はたまたま、このサミットの直前に総理との面談の機会を与えられ、第一次石油危機以降の日本の石油輸入の減少傾向などのグラフを持参して、それほど心配する必要はないのではないかと申し上げたことがある。しかし、当時はそのような意見は全くの少数意見だったらしく、そういうわけにもいかないのだと言っておられた大平総理の悲痛な表情が、今でも瞼に残っている。)

ともあれ、一九七九年の施政方針演説での時代認識の中の "地球社会の時代" の項は、そうした一九七〇年代の経過をよく反映している。すなわち、そこでは世界の相互依存性をまず強調したあとで、世界に生じつつある地殻変動や緊張の高まりを指摘し、そのような "厳しい現実" の中での日本の役割と責任を説くという構成がとられているのである。曰く、  

今日我々が住む地球は、共同体としていよいよその相互依存の度を高め、ますます敏感に反応し合うようになってまいりました。この地球上に生起するどのような事件や問題も、またたく間に地球全体に鋭敏に影響し、地球全体を前提に考えなければ、その有効な対応が期待できなくなっております。対立と抗争を戒め、相互の理解と協力に俟たなければ、人類の生存は困難となってまいりました。  

しかしながら、世界の現状をみますと、国際政治は多元化の傾向を強め、その中で不安定要因も増しつつあります。  

他方、戦後四半世紀にわたって国際秩序を支えてきたGATT・IMF 体制は、今や大きい地殻的変動に見舞われており、世界はそのための新しい対応策を模索しております。資源問題やナショナリズムによる緊張も異常な高まりをみせ、南北間の格差も一層拡大しつつあります。  

地球をめぐる現実は、そのように極めて厳しいものがあります。世界に対する甘い認識や安易な対応は、もはや許されません。世界を一つの共同体としてとらえ、世界に対する我が国の役割と責任を踏まえて、内外にわたる施策を真剣に展開しなければなりません。(『回想録』資料編、p.285 )  

ここでも、大平の先見性は、注目に値する。少なからぬ日本人が、「世界を一つの共同体 としてとらえ、世界に対する我が国の役割と責任を踏まえて、内外にわたる施策を真剣に展開」することの必要を痛切に感じるにいたったのは、この演説の十年以上後、冷戦が終焉してからのことであったろう。そして、湾岸戦争の支援やカンボジアでのPKOをめぐる論議の混迷からも明らかなように、日本はいまだにその必要に正面から応えたというには程遠い状態にある。  

われわれとしてさらに反省しなければならないのは、その後の日本が、ここで大平の指摘している "厳しい現実" に対処するための方策、とりわけ、新しい力の源泉−−たとえば情報技術の革新や新社会資本の整備−−の開発にどこまで真剣に取り組んできたといえるのかという問題である。しかし、これは次節以降で取り上げる論点とも密接に関係している問題なので、後にあらためて検討することにしよう。  

三、転換期の到来と戦後の総決算  

次に、大平の時代認識の第一の柱である "文化の時代の到来" の部分に目をもどそう。その出発点にあたるのは、大平が、第二次佐藤内閣の通産相として、一九七〇年の一月に地方銀行の雑誌『五行評論』に発表した論文「新通商産業政策の課題」 (『回想録』、資料編所収 pp.194-201)である。  

大平はこの論文の冒頭で、一九七〇年代の日本は、「大きな転換期を迎え、いわば新たな歴史的段階に進み出ようとしていることが感じられる」とのべている。なぜか。それは、明治以来の日本の国家目標であった「欧米先進国へのキャッチ・アップ」が、いまようやく終わろうとしているからである。すなわち、「日本の国民総生産や工業生産高は自由世界第二位となり、耐久消費財の高い普及度は、豊かな国民生活を支える物質的基盤の充実を示している。また自動車、鉄鋼、石油化学等、製造工業の中核的分野における最新鋭工場は世界的にみても第一級で、良質、安価な製品を豊富に生み出しつつある」からである。  

大平によれば、明治以来の国家目標の達成は、日本にとって、新たな問題をなげかけることになる。

第一に、日本はもはや、「従来のような先進国の知識と技術を学びとることによる模倣的発展」を続けていくことはできない。いまや、「自らの力で新しい領域を切り開き、自力で独自の道を歩む創造的発展への転換のとき」がきたのである。  

第二に、にもかかわらず現在の日本には、そのような転換のための準備がまだできていない。なによりも、新しい国家目標として設定されるべき新しい価値が見出されていない。「永い間の模倣から脱して、日本国民の豊かな活力を引出すための、国民的指針となる新たな創造的価値を、為政者も国民もしっかりとつかみかね、また混迷状態を抜け出せずにいる」のである。一九七〇年代の初頭という時点で、経済的繁栄が依然持続しているにもかかわらず、「近年、少年犯罪の激増や大学紛争、物価高や住宅不足に対する庶民の不満など、...いろいろ深刻な問題が生じている」原因は、まさにこの目標不在の混迷状態にある。  

第三に、そうだとすれば、一九七〇年代の日本の「最大の課題」は、「このような新しい価値を創造し、その実現に向って国民を結集すること」でなければならず、そこに政治家の大きな使命があることになる。  

"追いつき型の近代化" の完了という意味での「明治以来の国家目標」がついに達成されたという大平の時代認識は、まことに的確であったといってよいだろう。そして、模倣の時代の後には創造的発展の時代がこなければならず、新しい発展を実現するためには新しい価値、つまり新しい国家目標の設定とその国民的な受容が必要だという認識は、そこからのほとんど論理的な帰結にほかならない。  

もっとも、この時点での大平には、明治以来の国家目標の達成が、同時にそれまでの日本の "高度経済成長" の終焉を意味するということまでの認識はなかったようである。あるいはまた、世界経済が全体として "コンドラティエフ長波の下降期" とよばれるような長期不況期にはいろうとしているのではないか、といった予感もなかったようである。この論文の中に、日本が一九六〇年代に達成した「高い経済成長率は今後も当分は維持しうると期待されており、現在検討中の新経済社会発展計画においても、今度五年間平均十%以上の成長が見込まれることになろう」という一節がふくまれているところからも、それは明らかである。むしろ、この時点での通産相としての大平の具体的関心は、高い経済成長率の持続を前提としながら、あるいはそれを円滑に持続していくための政策として、

  1. 社会資本の立ち遅れや公害への対処、
  2. 経済の自由化と国際経済協力の推進、
  3. 重化学工業に代わる新しい成長産業−−情報産業、海洋開発、原子力産業などがあげられている−−の芽の育成、
  4. 自前の技術の開発のための政府による思い切った研究開発投資や海外資源の開発、5)政府に依存しない民間主導型の経済運営の推進、             
    などをはからなければならない、といった点に向けられていた。持続的な経済成長の可能性を信ずるかぎり、これらの政策イシューは、経済政策の転換の方向としては、比較的順当なものだとみなされるだろう。問題は、長期的な経済停滞の時代にはいったといった認識が生じた場合である。実は、長期的な停滞が予想されても、さらにその先に新たな成長の可能性が見えている場合には、やはり同じような政策が妥当とされる−−あるいはより強く要請される−−はずである。しかし、この点については、後にあらためてとりあげることにしよう。

大平のこのような転換期の時代認識が、いわば大平自身の "楕円の哲学" に裏打ちされて、より独自の装いをとりはじめるのは、翌一九七一年の秋、政界の実力者の一人として自他共に許すにいたった大平が、みずからの指揮する派閥宏池会の議員研修会で、ポスト佐藤の政局を十分に意識しつつ行った演説、「日本の新世紀の開幕」 (後に、「潮の流れを変えよう」シリーズの第一冊として出版された。この演説の全文は、『回想録』資料編 pp.206-212に収録されている) においてであった。この演説は、次のような言葉ではじまっている。                        

わが国は、いまや戦後の総決算ともいうべき転機を迎えている。これまでひたすら豊かさを求めて努力してきたが、手にした豊かさの中には必ずしも真の幸福と生きがいは発見されていない。ためらうことなく経済の成長軌道を力走してきたが、まさにその成長の速さの故に、再び安定を指向せざるを得なくなってきた。なりふりかまわず経済の海外進出を試みたが、まさにその進出の激しさの故に外国の嫉視と抵抗を受けるようになってきた。対米協調を基調として国際政治への参加を避けてきたが、まさにドル体制の弱化の故に、けわしい自主外交に立ち向かわなければならなくなってきた。国をあげて自らの経済復興に専念してきたが、まさにわが国の経済の成長と躍進の故に、国際的インサイダーとして経済の国際化の担い手にならざるを得なくなってきた。

見られるとおり、ここには明らかに、後に "一国繁栄主義" (斎藤精一郎) などとよばれるようになった戦後日本の国家経営理念に対する、いかにも大平らしい反省がある。ここには、通産相当時の大平がみせていた高度経済成長の持続に対する楽観論は、まったくといっていいほど影をひそめ、大平本来の面目が、新しい時代認識の形を借りて、前面にでようとしている。すなわち、これまでの日本に顕著にみられた経済成長優先主義や対米依存・協調主義、あるいは自国中心主義は、大平の目からすれば、まさに楕円の二つの焦点の一方にすぎなかったのであって、戦後の日本が他方の焦点を見忘れて突進したあまり、遂にバランスを失してしまったことへの咎めがいまや問われているというのが、この演説の背後にある大平の心境であったと思われる。そうだとすれば、豊かさに対する「真の幸福と生きがい」、成長に対する安定、海外進出に対する内需の拡大、対米協調に対する自主外交、国際的アウトサイダーに対する国際的インサイダーといった立場を明瞭に自覚することによって、バランスの回復をはかることこそ、 "戦後の総決算" の内容でなければならない。そこで大平は、そのような認識と反省にもとづいて、この転換期の試練を乗り切るための具体的な方策として、

  1. 政治家がみずからの姿勢を正すと同時に、政治への直接的参加を認める国民の「政治意識の奔流に道をつける」ことを通じての「政治不信の解消」、
  2. 戦争と欠乏が必要としてきた階層的、強者優先的な人間関係がもたらした「断絶と相克」に対処すべく、「分別をもった連帯感の横溢した人間」の育成を通じての、またとりわけ若者たちが求めている「自己実現の機会」の獲得という「国民の思いに道をつける」ことを通じての、「人間的な連帯感の回復」、
  3. 対米関係の改善、中国との国交正常化、南の諸国との経済文化協力の推進を通じての、「自主平和外交の展開」、
  4. 公共投資を中心とする公害防止、社会資本整備、環境改善を通じての、また、「相互に相補う生産性の高い工業と農業が、また都市と農山村が高次に結合された「田園都市国家の建設」を通じての、「自然と調和したバランスのとれた人間社会」の創出、
の四つを打ち出していたのだった。私は、これらの方策の中で、国民の「政治意識の本流に道をつける」とか、自己実現の機会の獲得という「国民の思いに道をつける」といった表現がもちいられていることを、とくに重視したい。これらの表現は、大平の視野の中に、政治に参加したり自己を実現したりする欲求と能力をともに備えた、いわば新しいタイプの国民が出現しつつあることへの確固とした認識があったことを証拠だてているからである。また、ここで大平のみてとっていたような、新しいタイプの国民の出現は、いまようやく、誰の目にも明らかになろうとしているからである。

四、文化の時代の到来

しかし、先にものべたように、時代の激動の速度と振幅は、大平自身の予想さえはるかに上回るものだった。先の提言が発表されてからほんの二年しかたたない間に、大平の目にうつった日本では、「かつて人々の心を捉えていたバラ色の未来論は、色あせて、鉛色の終末論がこれに代わ」るようになった。同時に、「われわれのよって立つ基本的な社会規範、すなわち自由と民主主義に懐疑の目をむけるものすら現れる」ような状況が生じてしまった。大平は、一九七三年の八月に開かれた宏池会研修会での「新秩序への道標」と題する講演の冒頭で、その間の感慨をこう吐露している。  

二年前の提言において、われわれは事態がきわめて深刻であることを繰り返し強調した。だが、今日に到ってみると、それは、当時われわれが考えていたよりも、はるかに複雑かつ深刻であるように思われる。しかも、ひとりわが国ばかりではなく、先進諸国はいずれもわが国と同じ課題に直面し、同じ苦悶に喘いでいるようだ。  

このことは、戦後形成された世界秩序がこれまで経験したことのない地殻変動に見舞われていることを物語っているように思われる。この地殻変動は、人類史的規模のものであり、その中核は正に文明の基礎をゆさぶるもののようである。(『回想録』資料編、pp.226-227)

その上で大平は、自由と民主主義の本旨をあらためて問いなおし、「平和と自由と生きがいに満ちた社会」という理想を実現するための政策の三つの道標として、

  1. 人間関係を大切にすること、
  2. 物を大切にすること、
  3. 時間を大切にすること、
という、いってみれば人間の原点というか初心に戻るような理念を打ち出した。また、当面の政策課題としては、

われわれは、これまでひたすら歩んできた成長の延長線上にめざす果実があるものと信じ、一日も早くそれに到達しようと努めてきた。だが現在、わが国の経済は、さながらマッハの壁に突入した航空機のように、激しい衝撃や震動に見舞われ、これまでの操縦法では進むことが困難となった。いまは、新たな前進の方法を見出すべきときである。(『回想録』資料編、p.232)                           

という認識のもとに、物価、土地問題、公害問題の三つに対する新しい対策を講じていくべきだと提言した。  

こうして、一九七〇年代の現実は、「これまで快速を誇ってきた日本丸」を「スピードをおとし、警笛を鳴らしながら海難を避けることが精いっぱい」という危機的状況に追いやったのだが、その中でも大平は、「ただ道徳的に危機に対して責任を感ずるに止まらず、進んで歴史の法則に従って勇気をもって行動しなければ」(『回想録』資料編、p.265)ならないという気概を失わなかった。こうして、一九七八年一一月、自民党総裁選への立候補に当たって発表した政見の中で、大平は、自由民主党の同士たちに向かって、  

時代は、急速に変貌しています。  

そして長く苦しかった試練を経て、ようやく黎明が訪れてきました。あたりはまだ闇でも、頭をあげて前を見れば未来からの光がさしこんでいます。後を向いて立ちすくむより、進んでその光を迎え入れようでありませんか(『回想録』資料編、p.281)

と呼びかけるとともに、「一つの戦略、二つの計画、すなわち総合安全保障戦略、家庭基盤の充実計画および地方田園都市計画を基本政策として、これらを総合的に展開することにより所期の目的を達成する」(『回想録』資料編、p.282)と主張したのである。  

以上が、この章の冒頭でのべた第87国会での施政方針演説に盛り込まれた大平の「時代認識」が確立するまでの経緯である。ここで、あらためて、その時代認識の第一項「文化の時代の到来」の前半部分を読んでみよう。  

戦後三十余年、我が国は、経済的豊かさを求めて、脇目もふらず邁進し、顕著な成果を収めてまいりました。それは、欧米諸国を手本とする明治以降百余年にわたる近代化の精華でもありました。今日、我々が享受している自由や平等、進歩や繁栄は、その間における国民のたゆまざる努力の結晶にほかなりません。しかしながら、我々は、この過程で自然と人間との調和、自由と責任の均衡、深く精神の内面に根ざした生きがい等に必ずしも十分な配慮を加えてきたとは申せません。今や、国民の間にこれらに対する反省がとみに高まってまいりました。  

この事実は、もとより急速な経済の成長のもたらした都市化や近代合理主義に基づく物質文明自体が限界にきたことを示すものであると思います。いわば、近代化の時代から近代を超える時代に、経済中心の時代から文化重視の時代に至ったものとみるべきであります。(『回想録』資料編、p.284)    
                                  ちなみに、大平が施政方針演説の準備のために秘書官に手渡した自筆のメモは、1)今日の時代をどうみるか、2)今日の国際情勢をどうみるか、のふたつの部分からなっていたが、その前半には次のような文字が連ねられていた。(『回想録』伝記編、p.491)

一、今日の時代をどうみるか、その中にあって政治の役割をどう設定するか。その文脈の中で経済、文化、教育に関する政策を展開する。

  1. 脱経済。経済軽視ではない。
  2. 確信なき時代−−展望、創造が大切。
  3. 文化重視−−生きがい、生活の充実感。
  4. 脱イデオロギー−−既成観念から政治を解放する。
    

このふたつの資料をあわせて読むと、一九七〇年代の初頭に、大平がその到来にいちはやく気づいた "転換期" 、すなわち、欧米先進国への "キャッチ・アップ" を達成した日本が歩み入ろうとしていた "転換期" の内容は、「近代化の時代から近代を超える時代」への文明の転換期だったことを、大平が自覚するにいたったことがわかる。それは、同時に、「経済中心の時代から文化重視の時代」への転換だとも理解されたのである。  

大平のこのような時代認識がいかに先駆的なものであったか、あるいは逆に日本が、彼の時代認識とそこから引き出される課題に応えることにいかに立ち遅れてしまったかは、たとえば、次のような言葉からも明らかである。これは経済学者の正村公宏が、一九九四年の初頭に書いているものだが、その内容は、まさに大平が一九七〇年代に育んでいった時代認識そのものだといってよいだろう。          

日本は大きな転換の時代を迎えている。...開国と明治維新以来の「追い付き型」の「近代化」の全過程が終わろうとしている。日本は、今のところ非ヨーロッパ文化圏では唯一の「先進国」であり「二十世紀産業文明の最後の成功者」であるが、いまや二十世紀産業文明の克服こそが人類史の課題になりつつある。  

日本の政府と国民にとって、「経済」よりも「社会」を、そして「成長」よりも「成熟」と「安定」を、優先目標としなければならない時代が到来している。それは社会の存続の保証を優先するということであり、地球規模の資源および環境の保全と人類の生存の保証を優先するということでもある。(「社会の成熟・安定を優先に」、日本経済新聞、経済教室、1994年 1月 5日号)  

大平内閣において、総理大臣首席補佐官として、大平政策研究会九グループの報告書の取りまとめにあたった長富祐一郎は、後年出版した『近代を超えて−−故大平総理の遺されたもの−−』と題する大著のなかで、「文化の時代の到来」という大平の時代認識のこの部分を、後になってあらためて読み返して得た印象というか衝撃を、次のようにのべている。  

大平総理は演説原稿の作成に当たっては、必ず自分で筆を執られ、何度も手を入れておられたが、この演説 [施政方針演説] については特に推敲され、次のように始められた。....  

今、読み直してみると、なんと短い文章の中に、言わんとされることを、格調高く、しかも平明に述べておられることかと、驚嘆させられる。一語一語が大きな意味をもっていることを、今はなんとか解るようになった。...  

「文化の時代の到来」と喝破され、その新しい時代を築いていくために、人類が、日本人が、近代を超えていかなければならない、という決意を、総理は述べておられるのだ。いつまでも、近代化を達成するために、近代化の時代に形成された命題、原理、学理、道徳律(モラル)、発想方法、手法、技術にとらわれていてはいけない、と説いておられるのだ。  

迂闊だったと思う。演説原稿の作成をお手伝いしていた私は、その頃は一応の理解をしているつもりでいた。しかし、「近代化」それ自身を至上命題とした教育(学校教育に限らない。)を受けてきた私は、あまりにもどっぷりと、近代化の時代に要請されてきた発想方法、価値観、「タテマエ」にひたりすぎていたようだ。総理は、発想の原点の転換を求めておられたのだ。  

九つの研究グループの討議が実りを見せはじめていた昨年の秋口ごろから、その会議のほとんどすべてに出席していた私は、おや?と思いはじめていた。そして、各報告書が次第に形をなしてきていた今年の春ごろから、それを読んでいた私は、おぼろげながら気づきはじめていたようだった。  

しかし、私が、あっ、と息を呑む思いでそのことを悟ったのは、総理が亡くなられた後、完成されていく報告書を読み返していた時だった。そこには、各報告書を通じて、共通したひとつの文明史観というか、歴史の大きな潮流がとらえられており、それを踏まえて、これから二十一世紀へ向けて拓かれていく「近代を超える時代」の大きな方向、ものの考え方、対応の仕方が、鮮やかに描き出されていたのである。九つの研究グループが同じ認識、同じ方向を示していたことも、当然のことなのかも知れないが、私には鮮烈な驚異だった。それはまさに、「文化の時代の到来」と提唱された大平総理の歴史観と一致した認識に基づく発想であった。(同書、pp.3-4)

大平が、一個の文明史観に立脚した時代認識をもち、そのような観点から発想の転換を求めていたことの重要性は、長富の強調する通りである。長富を助けて、政策研究会グループの一つの報告書のとりまとめにあたった者の一人として、私も、「近代を超える」時代の到来という時代認識には、大きな共感を抱く。「経済軽視ではない」が、「文化重視の時代」がやってきたという見方も、きわめて重要な真理をふくんでいると思う。しかし、ここでも問題はバランスの取れた見方にある。恐らく、近代から近代後の時代への人類史的転換は、数十年、いや数百年をかけてゆっくりと進む社会進化過程であろう。その間、近代社会それ自体の発展、とりわけ産業化の発展は、依然として一面においては進行し続けるのではないだろうか。さまざまな側面に「成長の限界」が現れ始めたとしてもである。そうした反省に立って、とくに七九年の施政方針演説以後に大平が残した言葉を見ていくと、いくつかの示唆がえられるように思う。たとえば大平は、第二次大平内閣の発足後始めて第90国会で行った所信表明演説(一九七九年一一月)の結びでは、  

我々が迎えようとしている一九八〇年代は、七〇年代にも増して厳しい試練と新たな課題が待ち受けていることが予想されます。しかし、同時に、文化の時代、国際化の時代として新しい飛躍の可能性が秘められております。私はあらゆる立場、あらゆる階層を通じて広く国民の信頼と合意を形成し、七〇年代の教訓を活かしながら、新しい発想と対応をもって、これらの課題を克服し社会の進歩の可能性を導き出していく考えであります。(『回想録』資料編、p.313)

とのべている。さらに、大平の最後の施政方針演説となった第91国会での演説(一九八〇年一月)では、「中央と地方、政府と民間、労働者と使用者などの間を律してきた既存の制度や慣行の中には、もはや十分にその機能を果たすことができなくなり、その見直しが要請されているものも少なくありません」として、「我々が二十一世紀においても、活力のある生存を確保できるか否かは、正にこの八十年代の十年間における我々の英知と努力にかかっているように思うのであります」と指摘した後に、こう続けている。  

この重大な岐路とも言うべき八十年代を乗り切るため、我が国は、内外にわたり必要な改革と対応が求められております。  

我々は、まず第一に、重大な試練にさらされている基本的な国際秩序を維持するために、我が国の国際的地位にふさわしい役割と責任を積極的に果たさなければなりません。そのため、内外の諸施策を整合的に展開し、国際問題に対する受動的な対応から主体的なそれへと脱皮することが緊要な課題であると考えます。  

第二に、技術の革新に果敢に挑戦し、新たな環境に適応し得るよう産業構造の改革と生活様式の転換を大胆に進めなければなりません。これによって石油に依存した体質からの脱却を図ることが当面の急務であると考えます。  

第三に、これまでの近代化の精華を踏まえ、民族の伝統と文化を活かした日本型福祉社会を建設していかなければなりません。そのため、人工と自然の調和、潤いのある人間関係の想像に努めることが必要であると考えます。

第四に、これらの厳しい試練を克服する基礎的要件として、政治と行政が公正かつ清廉で、国民の信頼に応えるものでなければなりません。そのためには、政治の倫理を高め、行政の綱紀を正し、時代の変化と国民の要請に対し的確な展望を示す努力が不可欠であると考えます。

私は、この四つを一九八〇年代の道標として、内外の施策を展開する必要があると考えております。(『回想録』資料編、pp. 325-6)  

私には、これらの言葉の中には、大平が一九七〇年代の初頭に「新通商政策の課題」として示した諸政策と再び共鳴しあうような要素が含まれているように読みとれる。ともあれ、大平はこの後半年足らずで、あまりにも疾く天に召されてしまった。そして今、残されたわれわれは、一九七〇年代の激動を辛うじてくぐりぬけた日本に対して、大平があらためて一九八〇年代の課題として掲げた四つの道標が、またしてもそのまま、一九九〇年代の課題として残っていることに気づかざるをえない。  

もちろん、われわれが一九八〇年代に何の努力もしなかったわけではない。しかるべき努力はしたはずである。しかし、残念なことに、これらの課題に応えることには、まだ依然として成功していないといわざるをえないのではないだろうか。とりわけ重要なのは、第二項である。一九八〇年代の日本経済は、一方では石油危機や円高ショックを乗り越え、内需拡大型の発展を指向したとはいえ、バブル経済を生みだし、今その後遺症に苦しむ結果となっている。しかもその間、「二十一世紀においても、活力のある生存を確保」するための、重要な要件である技術革新、とりわけ情報革命の推進において、方向を誤ってしまったのである。私自身、「文化の時代の経済運営」研究グループの報告書の執筆に参加した者の一人として、その第一章に「八〇年代に入った現在、...新しい技術革新への展望は、まだ十分に開かれていない」という文章があったことを、あらためて反省してみなければならないと思う。確かに、研究グループの他のメンバーのなかには、当時始まっていた情報技術の革新を中心とする技術革新の波を「新たな産業革命」とみなす観点は存在していたのだが、その場合にも、「八〇年代の技術に日本がアメリカに劣らず強いのは、ようやく内外ともに認められてきている。問題は九〇年代以降に実用化、普及の始まる次世代技術であるが、この分野の日本の技術革新は極めて優れている」(長富、前掲書、下、p.214)といった評価が主流をしめていたのである。一九八〇年代のわれわれは、一九七〇年代の大平とは逆に、キャッチ・アップ型の近代化・産業化に成功し、さらに一九七〇年代の通貨危機や資源危機を乗り切ってくることのできた日本の社会と経済の実力を、過大評価して未来に投影しすぎていたのかもしれない。  

五、反省−−楕円の哲学再び  

つまり、ここでも必要なのは、緊張関係にあるふたつの中心のバランスをとってゆこうとする感覚だったのではないだろうか。そのような観点からすると、一九七九年の施政方針演説の基調に対して、一九八〇年の所信表明演説と施政方針演説とは、微妙な力点の修正を加えつつ、あるバランスの回復をはかっているように思われてならないのである。  

そのような解釈を、最後に、私自身の言葉でのべてこの章の結びとしよう。  

"キャッチアップ" 型の近代化・産業化を達成した日本が、大きな転換期に直面したことは事実である。しかも、その転換期が、世界の他の産業先進国の転換期とも同期した、 "近代を超える" 時代への転換期としての性格をもっているということも、またそのとおりであろう。しかし、それがすべてというわけではない。何よりも、近代文明から近代を超える文明への転換は、一朝一夕におこることではありえないだろう。おそらく、完全な転換には短くても数十年、いや数百年を必要とするだろう。そのような文明の大転換にさいしては、日本の文化や文明からの貢献もけっして少なくはないだろうが、むしろ近代文明全体としては、 "前近代" というか "非近代" の文明−−いわゆるギリシャ・ローマの古典古代文明や、イスラム、ヒンズー、儒教/道教などの "有史宗教文明" −−の原理からあらためて学ぶべきものが多いのではないだろうか。むしろ、日本の文化や文明の世界史的重要性は、近代文明それ自身の欧米とは異なるいまひとつの発展肢としてある点に、まず見出されるべきではないだろうか。つまり、欧米の近代文明と日本のそれとは、近代文明それ自身の枠組みの中でも、互いに学びあい切磋琢磨しあうべき要素ないしは側面をもっているのではないだろうか。  

そう考えた上でさらにいえば、ここしばらくの文明の進化にとっては、 "近代を超える" 動きは、あくまでも楕円のふたつの中心のひとつなのであって、同時に、近代文明そのものの、もう一段の進歩・発展といういまひとつの中心にも留意すべきだと思われる。近代文明がその "有終の美" をかざるためにも、そのことが必要なのではないか。ふりかえってみれば、伊東俊太郎たちも指摘しているように、過去の偉大な有史宗教文明のほとんどの個別の文明要素は、それに先行していた古代都市国家文明から受け継がれたものであった。たとえばユークリッド幾何学の定理のすべては、すでにエジプト人によって知られていたという。その意味では、有史宗教文明は、成長・発展を志向した "初期農耕・牧畜文明" としての古代都市国家文明に対して、安定・存続を志向する "後期農耕・牧畜文明" として特徴づけることができそうだ。同様に、近代文明は、成長・発展を志向する "初期軍事・産業・情報文明" として特徴づけることが可能なように思われる。いいかえれば、 "近代を超える" 文明−−私はそれを "智識文明" と名付けたいが−−とは、近代文明の個別の文明要素のほとんどを受け継ぎながら、基本的な価値観としては安定・存続を志向する "後期軍事・産業・情報文明" として構築されていくことになりそうだ。その意味では、現代あるいは近未来の文明という楕円は、近代文明と超近代文明というふたつの中心をもつことになる。  

また、近代文明それ自体は、これまでは軍事と産業というふたつの中心をもって発展してきた。だからこそ "平和と繁栄(peace and prosperity) " が近代文明にとっての理想状態とみなされてきたのである。あるいは、より現実主義的、パワー・ポリティックス的にいえば、軍事力に基づく国威の増進と発揚と、産業力に基づく富の蓄積と誇示とが、近代化の先進諸国の競って追求すべき目標とみなされてきたのである。  

しかし、二〇世紀も終わりに近づきつつある今日、領土や植民地の獲得を正義とする国威の増進・発揚競争の正統性は、決定的に失われてしまった−−もちろん、そのことは、軍事力や警察力そのものが不要になることを意味するものではまったくないが。他方、それに代わって、 "トランス産業化" (村上泰亮)とでもよぶことのできる、近代文明それ自体のの新しい発展の動きが生まれつつある。私の理解では、それは、情報・知識力にもとづく智(説得/誘導力)の獲得と利用をめざす競争の普及、すなわち近代的な国家でも企業でもない新しい社会的主体−− "智業" とでもよぶことが適切な主体−−をプレヤーとする "智のゲーム" の普及、の動きに他ならない。その意味では、近代文明は、いままさに、一五世紀以来の軍事化と一八世紀以来の産業化に続くその発展の第三の局面に、移行しようとしているのである。  

しかし、そのことは、産業化の流れそのものの終焉を意味するものではない。産業化は産業化で、 "産業化の二一世紀システム" あるいは、 "情報産業段階" とでも呼ぶことのできる第三の発展段階にいたる新たな技術革新の時代に入ろうとしているところである。村上泰亮の言葉でいえば、それは "スーパー産業化" の動きにほかならない。  

このようにみてくると、一九七〇年代の半ばあたりを転機として、すくなくとも三つの大きな社会変化が同時進行しはじめたといってよいように思われる。その第一が、 "近代を超える" 動き、つまり "智識文明化" の動きであり、その第二が、近代化の第三局面への移行の動き(狭義の "情報化" ないし "智業化" )であり、その第三が近代化の第二局面としての産業化局面の中での第三段階への移行の動き( "情報産業化" )である。見方によっては、広義の "情報化" という言葉は、それら三つの変化を包括的に示す言葉だと解釈することもできそうだ。あるいは、やや図式的に表現すれば、広義の "情報化" とは、産業化という観点からすれば、{トランス産業化、スーパー産業化}の二つの中心からなる社会変化であり、近代化という観点からすれば、{超近代化、現代化}の二つの中心からなる社会変化だ、と考えることができるのではないだろうか。(下図参照)                                                          私は、現代進行中の複雑な社会変化の姿を全面的に把握しようと思えば、このような複々眼的な視点とでもいうべき視点が必要だという気がしてならない。そのような視点から一九八〇年代の日本での試みをあらためてふりかえってみるならば、いくつかの問題点が指摘できそうである。  

第一に、われわれは、三つの社会変化のうち、 "近代を超える" 動きにばかりとらわれすぎた嫌いはなかったであろうか。現代を、 "近代を超える時代" だとした大平の時代認識は、非常な卓見であり、時代に先んじた認識であったことは疑いないが、われわれとしては、それに感銘するあまり、それと同時に、近代文明そのものの中での、よりいっそうの成長や発展がおこりつつあるという点の認識に、いささか欠けるところがあったのではないだろうか。  

第二に、 "近代を超える時代" が "文化重視" つまり "新しい価値の重視" の時代であるという大平の時代認識もまた、きわめてすぐれたものであった。しかし、われわれはそれに感銘したあまり、日本の文化や文明の非常に多くの部分が、近代を超える文明の中で普遍的な価値をもちうるという期待を、やや安易にもってしまったのではないだろうか。あるいは、近代を超える時代の科学技術の発展や経済社会の構成・運営においても、われわれの文化や文明の特質を対象化しさえすれば、その多くは、ただちに応用可能になると思いがちだったのではないだろうか。  

第三に、そこから、産業化の二一世紀システム(情報産業段階)や智業化といった近代化それ自体の内部での社会変化に対しても、日本の文化や文明は十分に対応できる、いやそこでこそより優位を発揮できるという思いこみが生じてはいなかっただろうか。しかし、実際に日本の文化や文明がそのすぐれた適応力を明瞭に発揮しえたのは、主として産業化の二〇世紀システム(重化学工業段階)に対してにすぎなかったのではないだろうか。たとえば、教育や医療の面では、日本は産業化の二〇世紀システム−− "日本的経営" あるいは "法人資本主義" −−の成功に匹敵する成功は、ついに生みだしえなかったのではないか。いずれにせよ、われわれが、情報産業化や智業化にも成功できるという保証は、どこにもないのではないだろうか。たしかに一九八〇年代の日本では、 "個性の重視" とか "創造力の開発・発揮" の必要が喧伝された。そして、情報産業化や智業化にとって、 "個性" や "創造力" がとりわけ大きな役割を発揮するだろうという予想それ自体は、誤りではなかったと思われる。しかし、われわれの文化や文明の中に、そうした個性や創造力−−とりわけ並はずれた個性や創造力−−の発揮を阻む要素が組みこまれている可能性もなしとはしない。  

第四に、一九八〇年代の後半から一九九〇年代の初頭にかけてのアメリカは、 "日本叩き" に熱中する一方で、日本型の近代文明、とりわけ日本型の産業化の二〇世紀システムがもつ優れた要素を徹底的に研究し、概念化し−− "リーン・プロダクション" や "コンカレント・エンジニアリング" などの例をみよ−−て自家薬籠中のものにしようとした。異なる文明、あるいは基本的には同種の文明でも、その異なる発展肢がもつ、みずからのそれとは異なる制度や慣行あるいは理念は、それを反省して概念化することによって、その対象化が可能になり、ひいてはそれを他者による学習や移植が可能なものとして普遍化していくことができる。それは、ほかならぬ日本自身が、その欧米への "キャッチアップ" の過程において、みずから試みてきたことだったはずである。しかし、 "キャッチアップ" が終わったと考えたわれわれは、もはや欧米から学ぶべきものはないといったおごりをもちがちではなかったのか。実際には、共にパイオニアとして発展の第一線に立っている仲間たちこそ、互いに学ぶべき多くのものを日々生みだしつつあるに違いないのである。その場合の学習は、相手がみずからの生みだしたものを反省して、概念化し理論化してくれることだけを待っているわけにはいかないだろう。むしろ、みずから相手の状態や行動を絶えず観察し、みずからの言葉でそれらを概念化していく努力も、必要不可欠であろう。  

幸いなことに、一九九〇年代も半ばになろうとする今、大平がつとに指摘していた "転換期" の到来をようやく自覚すると同時に、転換への立ち遅れを反省する機運が盛り上がってきつつある。われわれはここでもう一度、大平の "楕円の哲学" のいわば原点に立ちもどって、バランスの取れた時代認識の確立と、みずからの文化や文明の徹底的な再検討につとめると同時に、他国の経験から謙虚に学んでいかなければならないと思う。

付記:本章の最後の節で要約的にしめしたような考えかたを、私は、『情報文明論』(NTT出版、一九九四年)の中で、よりくわしく展開してみた。興味のある読者には参照していただければ幸いである。