93年度著作へ

1993年11月28日

モース氏に問う

産経新聞「正論」

公文俊平  

『中央公論』十一月号の、モース、田久保、岡崎、三氏の座談会「日本の国益をアメリカに定義させるな」を興味深く読んだが、そこでのモース氏の所論に、気になる点がいくつかあった。モース氏は私の敬愛する知人であり、この正論欄の寄稿者の一人でもいらっしゃるので、この場を借りて二三の質問をさせていただきたい。  

その第一は、日米の経済力の相対評価である。モース氏によれば、「アメリカの経済状況は、予想をはるかに超えて悪化してしまって」おり、「アメリカは日本を、経済力、技術力に優り、軍事力でアメリカを凌ぎうる力を持った脅威としてとらえて」いるという。しかし、本当にそうだろうか。たとえば、今年の九月にクリントン政権が発表したアメリカの "全国情報インフラ" 構築のための行動計画によれば、アメリカは今 "情報革命" のまっただ中にあり、情報革命において世界をリードしているとされている。私もそれが事実だと思う。日本は、一九八〇年代の後半以後、情報技術の革新や情報インフラの構築では、アメリカに一歩も二歩も引き離されてきている。そのような認識は、日本の通産省だけでなく、アメリカのジョージ・ギルダー (『未来の覇者』等) や、マキナニー、ホワイト (『日本の弱点』) などにも通有されている。ドラッカーもいうように、日本の巨大な貿易黒字のほとんどは、自動車産業の輸出と、日本が輸入する原料・資源価格の低さによる。だが、未来のハイテク産業での日本の世界市場のシェアには見るべきものはなく、原料・資源価格が将来高騰しないという保証はないのである。  

その第二は、「一夜にして日本人は変貌し得る」というモース氏の日本認識である。もちろん、同じような認識は、少なからぬ日本研究者によっても通有されており、その理由として、日本が「原理原則がなく状況に応じて行動する国家」だということがあげられることも多い。日本人の行動が "機会主義的" つまり状況に依存する度合いが高いことをいち早く主張したのは、『菊と刀』の著者ルース・ベネディクトであった。  

しかし、それでは、アメリカ人は、一夜にして変貌することはないのか?座談会の参加者の一人である岡崎氏は、アメリカは "世論国家" ではないか、そして "世論" は「容易に変わり得る」ものではないかといってモース氏に反論している。その通りである。だが、そればかりではない。一九七一年に、当時のニクソン米大統領は、中国訪問を決意し、日本の頭ごしにその決意を表明した。当時の日本人には、アメリカはまさに「一夜にして変貌」したと見えた。だが、アメリカのこの時の行動の転換は、必ずしも当時の世論に動かされたものではなかった。  

いずれにせよ、個人であれ、集団であれ、およそ人間は、事実としては容易に「一夜にして変貌し得る」存在なのである。その原因としては、依拠している原理原則 (主義) の大転換がある場合もなくはないだろうが、多くの場合は、外部の状況の変化があげられるだろう。だから、真珠湾攻撃の後のアメリカ人の日本に対する認識や態度や行動は急転換したのだし、同様な転換は、ソ連の共産主義体制の崩壊以後のアメリカ人の旧ソ連圏に対する認識や態度や行動にも見られたのである。その場合に、本当に自分自身が "変貌" したかどうかは−−他人の認識を別にすれば−−当人のもっている価値観あるいは文化の問題に帰着するところが多いのではないだろうか。たとえば、自分の認識や態度や行動は、状況よりも主義によって律せられるべきであり、しかも自分が依拠する主義は軽々しく変更されるべきものでないという価値観の持主は、自分の認識や態度や行動が変化したからといって自分自身が変貌したとはあまり言いたがらないのではないだろうか。他方、他人の変化については、 それを "主義の変更" だとみなしたがるのではないだろうか。  

第三に、モース氏は、「原理原則がなく状況に応じて行動する」存在は、「行動を予測できないから、危険」な存在だというのだが、それは本当だろうか。必ずしもそうとはいえないと思う。現に、日本の行動の動機が機会主義的だと判断したベネディクト自身、第二次大戦の直後という早い時点で、戦後の日本が平和国家として経済的にも発展していく可能性が高いことを的確に予測していたではないか。他方、たとえば湾岸戦争のさいに見られたように、ほとんどの日本人は、「主義・原則の上に建てられた国」アメリカが、イラクに対する実力行使に踏み切ることを、開戦のその日まで正しく予測できなかったのである。  

最後に一言。「陰でこそこそするな」とか、「日本独自の国益を明確に定義づけよ」といったモース氏の言い方は、私からすればなんとなく、拳銃を抜かせてから撃とうというアメリカ的な "フェア・プレー" 意識の現れのように聞こえてしまうのだが、これは私の僻目なのだろうか。