1994年9月3日
公文俊平
最近の日本でのマルチメディアのフィーバーぶりは、十年前のニューメディアのそれにも勝るとも劣らないものがある。それこそ烏の鳴かない日はあっても、新聞にマルチメディア関連の記事が載らない日はない。書店にいっても、店頭の最も目立つ場所に平積みにされているのは、「岩波新書:マルチメディア」「マルチメディア入門」「2時間でわかる図解マルチメディア」「マルチメディアを知らんで明日を語ったらあかんよ!」などといった書物である。もちろん、このフィーバーは、日本だけのものではない。むしろ、ようやく日本にも伝染してきたというべきだろう。では、それはいったいどこから、どのようにしてやってきたのだろうか。
私どものグローバル・コミュニケーション・センター(グローコム)では、昨年以来、インターネットに完全接続する一方、マッキントッシュをベースにした(最近ではウィンドウズ・マシンも繋がるようになったが)“ファーストクラス”という電子メール・電子会議システムを、とくに所内連絡用に使っている。その中に、“グローコム・トーク”という談話室のような場所があるのだが、最近そこで、“マルチメディア”という言葉の起源をめぐって、話の花が咲いた。その一部を紹介してみよう。
もともとマルチメディアという言葉自体は、かなり以前からあるようだ。藤野幸嗣氏によれば、絵画の世界では、たとえばパウル・クレーのエッチングを説明するために、この言葉が使われるなど、今世紀初頭から用例が見られるそうだ。浜野保樹氏によれば、第二次大戦時に米軍が考え出した教育手法の一つが "マルチメディア" であった。つまり、黒板や教科書だけでなく、スライドやOHP などの視聴覚教育機器を併用する手法がそれだというのである。確かに、普通の辞書 (英々辞書や英和辞書) を引くと、その意味での解説が載っている。たとえば、1980年に発行された小学館の英和辞典には、「混合メディア(mixed media) :展示・教授面で映画・音楽・写真など数種の器具の組合せ」という説明が見られる。面白いことに、私の手元にある1989年版のCD-ROM版『現代用語の基礎知識』ですら、依然としてこれと事実上同じ説明、すなわち、「混合媒体。mixed media ともいう。芸術的展示や教育の場で、テープ、映画、レコード、写真、スライドなどの多数のメディアを組み合わせて用いること」という説明を与えている。ちなみに、浜野氏の記憶では、1960年代には、サイケデリックな映像を使ったイベントなどで、マルチメディアという言葉が多用されていたそうだ。
しかし、コンピューターの世界でマルチメディアという言葉が普及していったのは、それよりもはるかに新しく、事実上1990年代に入ってからのことだといってよかろう。(現に、たとえば、1987年に出版されたステュアート・ブランドによるMIT のメディアラボの有名な解説書の中にも、 "マルチメディア" という言葉はどこにもみられない。)しかし、その場合でも、この言葉は依然として、当初は、「アナログとディジタルのミックス」とか、「フロッピーとCD-ROMのミックス」といったような、さまざまな独立の "メディア" の併用、という意味で用いられていた。たとえば、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のマーティン・グリーンバーガー教授は、1990年以来毎年「マルチメディア円卓会議」を開催しているが、その第一回の会合で与えられたマルチメディアの定義について、グリーンバーガー教授は、このほど電通総研の『ヒューマン・スタディーズ』(1994年9月、第13号)誌上に発表された私との電子対談の中で、こう回想している。
「マルチメディアに関する第一回円卓会議」(1990)という本の用語解説に、私たちはマルチメディアを狭い意味で定義し、「コンピューターによる音声や画像の制御−−通常はデスクトップ・コンピューターで行うが、必ずしもそうであるとは限らない」と記しましたが、より一般的な定義をすれば「音声、画像、動画、文字、グラフィックスのコンピューターによる統合」ということになるでしょう。
ところで、これらの定義のなかに「ディジタル」や「通信」という言葉が含まれていないことに留意してください。その当時、多くのマルチメディア業務はレーザーディスク (アナログ・テクノロジー) によって行われていました。一部の人びとはレーザーディスクの消滅を予言していましたが、レーザーディスクの利点を強く擁護する人もいました。また、専門家にもディジタル統合について話す準備はできていなかったのです。メディアの合併や収束といった概念がはっきり現れたのは、それが1992年の第三回円卓会議のテーマになってからのことでした。」
そういうわけで、 "マルチメディア" の中心に "情報処理と通信のディジタル化" をすえ、コンピューターを媒介として情報処理と通信が融合する世界がはっきりと意識されるようになったのは、アメリカでは1992年の中頃からだった。たとえば、この年の 6月にロサンゼルスで開かれたシーボルド社主催の第三回 "ディジタル・ワールド" 会議では、そのような認識が明確に表明されている。そこで私は、この意味でのマルチメディアを、とりあえず "新マルチメディア" と呼んで、それ以前のマルチメディアとは区別しておきたい。
あらためて繰り返せば、マルチメディアの歴史の中で、アメリカでの1992年という年は決定的な意義をもっている。なぜならば、この年には、第一に、情報革命の進展をめぐって次の三つの大きな合意というか共通認識が形成されたからである。すなわち、
の三点について、幅広い合意が形成されたのである。その結果、1993年には、アメリカ政府の公式文書や政府高官の発言の中に、「情報革命」や「通信革命」という言葉がしばしば見られるようになっていく。さらに1994年の 6月には、『ビジネス・ウィーク』誌が、 "情報革命" 特集号を発刊して、アメリカを先頭とする新しい産業革命の時代が今度こそまぎれもなくやってきたことを確認したし、翌 7月には、アメリカの電気通信工業協会(TIA) と電子工業協会(EIA) が合同で発表したレポートの中で、情報処理と通信の二つの領域で同時に進行した "ディジタル化" こそが、情報処理と通信のコンピューターのネットワークによる "融合" をもたらしたのだが、それこそが "情報革命" の本質だという認識を示した。その中で、 "新マルチメディア産業" は、この融合の中核に位置する、新時代を切り開く突破産業として、あらためて位置づけられたのである。マルチメディア・フィーバーが、産業化の先進諸国でいっせいに盛り上がってきたのも宣なるかなというべきだろう。
1992年にはまた、一つの注目すべき発展も見られた。すなわち、すでに1989年の初めごろから、年々倍増する勢いで指数的成長を開始していた "コンピューターのネットワークのネットワーク" を代表するものとしての "ザ・インターネット" の利用分野が、それへの接続サービスの営利事業としての提供開始とともに、それまでの研究教育界から、産業界や市民の間に一気に拡大する様相を示し始めたのである。この年には、世界インターネット協会も発足し、その第一回大会が神戸で開かれた。インターネットの成長率は、1992年の終わり以来さらに加速して、毎月10% 前後、年率では200 % 以上という、文字通り爆発的なものになっているのだが、その端緒はこの1992年にあったということができよう。
結局、今日のアメリカを中心として嵐のような勢いで進展し始めた "情報革命" とは、なによりもまず、全国的さらには全地球的な "情報インフラ" を基盤として、 "新マルチメディア産業" が主導産業となって押し進められていく、 "第三次産業革命" なのである。この "新マルチメディア産業" とは、情報処理と通信のディジタル化による融合が生みだす、新たな情報処理・通信サービス自体や、やそれに関連するさまざまなハードウエア、ソフトウエアを供給する産業に他ならない。
この意味での "新マルチメディア産業" のさしあたっての応用分野というか需要は、どこに発生するのだろうか。1992〜93年のアメリカでは、その答えは必ずしも明らかではなく、「マルチメディアこそ答えだが、それは、問いの分からない答だ」といった言い方がなされることが多かった。侃々諤々の議論がなされる中で、有望な分野として浮かび上がってきたのは、
の三つだった。そして、当初、民間部門、とりわけケーブルテレビ業界や電話業界がこぞって期待したのは、 "双方向テレビ" や "ムービー・オン・ディマンド" などの言葉で代表される、大衆的な娯楽の分野だった。これに対し、政府は、 "情報革命" が生みだした新たなパワーを広く国民に均霑させるために、また情報革命を支えていくことのできる良質で高度な労働力の育成や維持にあてるために、教育・医療・福祉等の社会サービス部門への新マルチメディア産業の展開の支援に力を注ごうとしていた。しかし、 "双方向テレビ" のための技術開発や実用化−−テレビの上に載せるマルチメディア情報処理装置としての "セットトップ・ボックス" やそのためのOSなど−−には、予想以上の時間がかかるとか、そもそも一般大衆が、そのような新サービスに対してどれほど大きな需要をもっているかも疑わしいといったことが、広く理解されるにつれて、当初の盛り上がりは鎮静化する方向に向かっていった。社会サービスの分野での応用も、政府が期待するようにはす進まなかった。そのような状況の中で、次第に次のような理解が拡がっていった。
すなわち、もしも情報革命が新たな産業革命であるとするならば、それは、少なくともどこか一つあるいはいくつかの分野での生産性の革命的な上昇、あるいはコストの革命的な低下をもたらすものでなくてはならない。ところで、1970年代から80年代にかけての、コンピューターの導入、とりわけパソコンの普及がもたらした生産性の増大ないし雇用の削減効果は、当初期待された、あるいは恐れられたのにくらべてはるかに小さかったことが、1980年代後半のさまざまな実証研究を通じて明らかになっていた。しかし、1990年代に入って、パソコンやワークステーションをネットワークに連結する可能性が生まれてきたことによって、真の生産性向上効果が期待されるようになった。ジョージ・ギルダーが喝破したように、ネットワーク化されていないコンピューターは、ジャングルの中の自動車のようなものであって、その本来の能力は到底発揮できない。しかし、ネットワーク化されたN 台のコンピューターは、N2倍の能力を発揮することができる。こうして、コンピューターのネットワークが実現するにいたって、ようやく、長年待ち望まれた "情報革命" が、掛け声だけでなく、本当に到来しているという実感が湧き始めたのである。
コンピューターのネットワークは、これまでは生産性の向上が困難だといわれてきたオフィス労働やサービス労働、とりわけ各種の非定型業務の生産性の増大に貢献することが明らかになった。同時に、それに伴って、大量の中間管理職が不要になり、企業の階層的な管理構造のフラット化が起こり始めた。在宅勤務も本格的に可能になったばかりか、さらに、移動コンピューティングが普及するにつれて、会社組織自体の "バーチャル化" もまた現実の課題となりはじめた。しかも、コンピューターのユーザー・インターフェースの簡略化とグラフィックス化が進むにつれて、その操作はますます容易になり、中高年者でも、コンピューターが使いこなせるようになってきた。いいかえれば、ネットワーク化されたコンピューターの普及によって可能になる人減らしは、必ずしも、情報革命の時代には使い物にならなくなった生産性の低い余剰労働力の吐き出しを意味するものではなくて、むしろ、余剰になった労働力を生かして、新しい経済活動分野に再配置していき、それによって経済成長を持続させていくことも可能だという見通しがでてきたのである。このようなオフィス労働を中心とする生産性の新たな上昇の波が、労働力の再訓練・再配置と結びつくならば、この新たな経済成長は、20世紀の産業社会の成長とは異なって、 "インフレなき経済成長" をもたらすに違いない。現に、コンピューターのハードやソフトの分野では、価格/性能比が18カ月ごとに二倍になるという、 "ゴードン・ムーアの法則" の妥当性が広く認められている。これが、新マルチメディア産業の普及と共に、全産業分野からさらには行政にまで及ぶ可能性が、今や見えてきたのである。こうして、情報革命が生みだしつつある新しい経済成長構造のもとでは、財政赤字もまた減少し、国民はその社会保障負担率や租税負担率を高めることなしに、また同時に賃金の名目水準を高めることもなしに、その実質賃金や実質消費を持続的に拡大していけるという希望が生まれてきた。それもこれも、情報革命を主導する新マルチメディア産業の供給する財やサービスが、何よりもまずさまざまな企業や行政の日々の業務で利用されることによって、始めて可能になる。いいかえれば、企業や行政の内外でのコミュニケーションが電子メール等の利用によって一段と促進されたり、帳簿処理や書類・図面操作の電子化・マルチメディア化によって業務の処理効率が大幅に増大したりすることが、 "産業革命" としての情報革命の意義に他ならないのである。それに加えて、単に文書や画像の高速安価な伝送というだけでなく、それと同時に電子的な本人確認や、少額の送金等がごく安い費用で可能になるとすれば、業務の処理効率はさらに飛躍的に増大していくだろう。その暁には、ほとんどの業務や取引はコンピューターのネットワーク上で行われることになり、物流や対面コミュニケーションのための人の移動がそれを補完するという形になるだろう。
つまり、遠い将来はいざ知らず、当面の数年ないし十数年は、情報革命の主流は、ビジネスや行政の現場へのマルチメディアの応用ということになるだろう。また、そうだとすれば、そのための情報インフラとして今現在もっとも適切なのは、ケーブルテレビや電話の延長線上にある "ムービー・オン・ディマンド" 型のインフラではなくて、今日の "ザ・インターネット" を原型とするコンピューター・ネットワーク型のインフラだということになるだろう。そして、教育や医療への応用がそれを補完し、娯楽への応用はずっと遠い先の話しになるに違いない−−娯楽向けの技術開発や実証実験を今から始めることが全く無意味ではないにしても、である。
新マルチメディア産業が主導する情報革命の含意は、以上述べたことに尽きるものではない。ここでは、さらに深い含意を二点あげておこう。
その第一は、グローバルに見た新たな持続的経済成長構造の出現である。1970年代後半以来、東・東南アジアの産業化後発国が、日本に続く "雁行型" と呼ばれるような経済成長に向かって次々と離陸し始めたことはよく知られている。冷戦終了の後、この波はさらに中国の沿海地方にも及んできている。これらの地域の多くは、ハイテク産業、あるいは新マルチメディア産業の生みだす財やサービスの供給こそできないにしても、いわば中程度の技術を利用したかなりの品質の財やサービスの大量安価な供給を世界に対して、とりわけ産業化の先発国に対して、行う能力をますます発展させつつある。問題は、産業化の先発国が、それを長期間にわたって購入し続けられるだけの対価をどうやって入手するかである。いいかえれば、先発国が、後発国に対して、長期間に渡って輸出し続けることのできる財・サービスの供給基盤を、いかにして持ち続けるかである。もちろん、後発国が比較的早く、国内の賃金や物価の上昇にみまわれてしまった場合も、経済成長の持続は困難となる。
しかし、産業化の先発国での "情報革命" が、その後発国での "産業化への離陸" と相互補完的な関係を生みだすことに成功するならば、一種の良循環が発生する結果、上に見たようなインフレなき経済成長のグローバルな規模での持続が可能になるに違いない。私の解釈では、アメリカのゴア副大統領が、今年の三月にブエノスアイレスで開催されたITU の世界開発会議の席上で表明した "ゴア・ドクトリン" (これは私が勝手になづけただけのことだが) こそ、そうした認識と構想の表明に他ならないと思う。つまり、ゴアはそこで、産業化の後発国にとっては、「高度な情報通信システムを持つことが、経済発展の原因となる」というドクトリンを表明したのである。もしも後発国が、このドクトリンを受け入れるならば、先発国は、今後相当の期間にわたって、自らが供給する高度情報通信システムやそのサービスを、後発国に販売し続けることができると期待していいだろう。また、ゴアのドクトリンが正しければ、後発国は、それによって、自国の生産性を系統的に向上させ続けることができ、自国の生産する財・サービスの輸出競争力を維持しつつ、産業構造のゆるやかな高度化を実現していくことが可能になるだろう。
問題は日本である。 "経済大国" と自他共に認める日本は、もはや産業化の後発国だといっているわけにはいかない。しかし、その先発国といいうるための "情報革命" の推進において、日本は著しく立ち遅れている。情報インフラの構築においても、新マルチメディア産業の技術や商品の開発においてもそうである。とりわけ、コンピューター・ネットワークや、それを利用したアプリケーションの開発と利用において、日本の遅れはあまりにも著しい。他方では、日本は、在来型の工業製品の生産基地を一気に海外に移転してしまいつつある。これで日本は、ここでいう「インフレなき経済成長の良循環」の一環に入っていくことができるだろうか。高度な情報通信システムのグローバルな供給者たりうるだろうか。
その第二は、今日の情報革命には、単なる第三次産業革命という以上の、産業革命そのものに匹敵する新たな社会革命としての側面があるという事実である。すなわち、情報革命は、かつてのブルジョアジー (シティズン) に匹敵する新たな社会階級−−ネットワークの中に棲む "ネティズン" −−の台頭をもたらす社会革命でもあるということができる。ゴアは、先に言及した演説の中で、そのような認識を、「高度情報通信システムは、民主主義のメタファーによって理解しうると同時に、それ自体、民主主義の実現のための強力な手段となる」 というドクトリンによって表明した。私はそれを、ゴアの第二ドクトリンと呼んでおきたい。問題は、第一ドクトリンはともかくとして、第二ドクトリンが、どれだけの妥当性を産業化の−−ひいては近代化の−−後発国に対してもちうるかである。すでに、東・東南アジアの新興産業化諸国は、民主主義や人権問題をめぐって、基本原則の問題としてはともかく当面の政策問題のレベルでは、かなり激しく対立している。明らかに、アメリカが自らの政治理念を唯一絶対のものとして、他国に対して性急にその押しつけをはかろうとすると、さまざまな摩擦や対立を引き起こさざるをえないだろう。恐らく、平和の実現に資する望ましい世界政治秩序としては、アメリカ流の民主主義をその一つのサブセットとして含む、より柔軟で広義の政治秩序を構想する必要があるだろう。しかし、日本は、そのためにどのような知的貢献を行ったり、制度的なモデルを提示したりできるのだろうか。日本の現在の政治混乱を見ていると、そうした貢献は少なくとも当面、およそ不可能ではないかと思わざるをえない。
問題は、繁栄の実現に資する、望ましい経済秩序のあり方にもある。冷戦の終焉後しばらくの間は、日本型の "開発主義" 的経済態勢や "産業政策" の有用性について、アメリカにも、旧社会主義圏にも、開発途上国にも、理解の深まりが見られようとしていた。しかし、 "バブル" の崩壊の後、円高が進むにつれて、日米経済摩擦の高まりや、日本経済の "空洞化" もまた進み、それに伴って、日本の経済体制の抜本的な改革を要求する声が日本の内外に高まっている。或いは、製造業ばかりか、航空、金融・証券、通信業等にも、一種の "日本離れ" とでも呼びたくなるような傾向が目立ってきている。そうだとすれば、ここでも、日本は "蚊帳の外" におかれてしまう恐れがないとはいえないだろう。
私の考えでは、冷戦後の世界の秩序は、これまでの政治秩序と経済秩序に加えて、文化秩序ないしは情報秩序とでも呼ぶべき第三の柱を必要とする。それは、いってみれば、自由なコミュニケーション (交流) とコラボレーション (協働) を手段として、文化の相互理解と文明の相互受容 (コエミュレーション) とを達成するような秩序である。あるいは単に、「交流による理解の達成」の秩序だといってもいいだろう。また、前の二つの柱の内容は、冷戦時のアメリカが主張していた「民主主義と自由主義による平和と繁栄の達成」に比べて、 "民主主義" や "自由主義 (市場経済)"の範囲をより拡げてより緩やかに解釈したものとなることが望ましいと思う。このような解釈に立つ時、 "コンピューターのディジタルなネットワークのネットワーク" としての地球情報インフラ (GII)と、それに立脚する "新マルチメディア産業" 、および "ネティズンたちのグローバル・ネットワーク" こそが、新しい時代を切り開くものだということができるだろう。