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1995年3月3日

「望ましい情報社会の姿 」

アステイオン95年春号

公文俊平

私が本誌の編集部から与えられた課題は、「どういう社会が "新しい社会" として望ましいのか」を論ずることである。しかし、まったくの白地に絵を描くような形でこの問題に答えることは、ほとんど無意味だろう。われわれは、かなりの程度方向づけられた社会進化の大きな波から自由になることはまずできないと思う。そうだとすれば、議論の前提として、現在の社会進化の波の特質を認識する努力が必要だろう。

私の解釈では、現在は、近代文明の中での第三の波が本格的に立ち上がり始めたところである(S字型の曲線の中程にさしかかるあたりを想像していただきたい)。

ただしここでは、 "近代" という言葉の意味を思い切って広く取り、近代文明を、 "古典古代文明" (私はそれを“宗教文明”と呼んでいるが) の周辺に出現して進化してきた、文明だと考えている。つまり、私の解釈では、歴史家のいう“中世”や“近世”は、私のいう“近代”の一部に含まれることになる。

その意味での近代の第一の波は、世界帝国や世界宗教の支配からの独立を指向した六世紀以降の "封建化" に始まり、 "軍事化" すなわち一連の軍事・航海技術の革命を通じて本格的な立ち上がりを示す。その結果が "近代主権国家”(およびその文明の恵沢に浴すべきものとされた "植民地" )と、それらを要素とする“世界システム”としての "近代国際社会" との成立であった。その成熟した姿は、国家の臣民としての "国民" に一定の "人権" を保障すると同時に、国家の運営自体に国民の参加権(国民主権)を認める "民主主義国家" と、それらの "国際連合" の形成だった。

しかし、この第一の波は、結局のところ世界のすべてをおおいつくすことはできないままに、今退潮しつつある。われわれは、人権をどこまで保障すべきか、真に望ましい民主主義国家のあり方はどのようなものか、民主主義国家を要素とする国際システムをどのように構築すればよいか−−とりわけ、国家主権の委譲や国家間の地域的統合の問題をどう解決するか−−といった問題に、最終的な解答を与えることはできなかった。そればかりか、植民地の解放は当然としても近代主権国家自体の内部における一地域や一集団(たとえば少数民族)の独立権をどこまで認めるべきかという問題や、民族が自立したり植民地が "解放" されたりした後に出現する、何百何千という数にのぼりかねない "国家" の望ましいあり方や、それらの間の相互関係をどのように構築していけばよいかといった問題になると、ほとんどお手上げという状態にある。いいかえれば、われわれは、今後の世界秩序の第一の主要な柱を構成する "世界政治秩序" の望ましいあり方について、自信をもって答えることができなくなった。少なくとも、20世紀にはきまり文句のように叫ばれていた "民主主義(と人権擁護)を通じての世界の平和(Peace) の実現" という理念は、とうていそのままでは通用しそうもなくなっているのである。

他方、近代化の第二の波は、十二世紀以降の "商業化" に始まり、 "産業化" すなわち一連の生産・輸送技術の革命を通じて本格的な立ち上がりを示す。その結果が "近代産業企業”(およびそれらが生産・販売する財・サービスの "消費者" )と、それらを要素とする“世界システム”としての "近代世界市場" との成立であった。その成熟した理想的な姿は、消費者に一定の "消費者主権" を保障すると同時に、企業の経営自体に多様な利害関係者(ステークホルダー)の参加権を認める "開かれた企業" と、それらの "自由な競争市場" の形成だった。

この第二の波は、今日、 "第三次産業革命(情報産業革命)" をへて、その頂点にいたろうとしている。しかし、結局のところ、この第二の波も、世界のすべてをおおいつくすことはできないままに、いずれは退潮していくことになるだろう。われわれは、消費者主権をどこまで保障すべきか、真に望ましい開かれた企業のあり方はどのようなものか、それらを要素とする自由な競争市場をどのように構築すればよいか−−とりわけ企業の買収や独占体の形成の問題をどう解決するか−−といった問題に、最終的な解答を与えることは、ついにできないままに終わるのではないだろうか。さらに深刻なのは、いわゆる "環境問題" への対処である。自然環境や社会環境の行き過ぎた破壊が人間自身にとってさえ望ましくないことは当然だとしても、産業化の進展と環境保全との調和点を結局のところどこに求めたらよいかといった問題になると、ほとんどお手上げではないだろうか。実際、産業化の先進国だけでなく、新たに産業化を進めつつある途上国や、産業化への離陸すらできないまま生存のための絶望的な努力をかさねている "最貧国" に発生している環境問題の深刻さは、ほとんど絶望的というほかはない。いいかえれば、われわれは今後の世界秩序の第二の主要な柱を構成する "世界経済秩序" の望ましいあり方について、自信をもって答えることができなくなった。少なくとも、20世紀にはきまり文句のように叫ばれていた "自由な市場(と消費者保護)を通じての世界の繁栄(Prosperity)の実現" という理念は、なによりもこの環境問題との関連で、とうていそのままでは通用しそうもなくなっているのである。

ところで、近代化にはさらに第三の波がある、と私は思う。それは、ルネサンスや宗教改革、印刷革命や科学革命などに代表される十三世紀以降の "智業化" に始まった。かつての "商業化" が、都市に棲んで商工業に従事する "市民(シティズン)" たちを生みだしたとすれば、智業化は、手紙や印刷物などのコミュニケーションの手段を通じて結ばれた知識と情報のバーチャル・コミュニティともいうべき人的ネットワークの中に棲んで、知識や情報の創造と普及を生業(これを、かりに "智業" と呼んでおく)とする "ネティズン" (より伝統的な用語でいえば、文人、芸術家、科学者等)たちを生みだした。そして、かつての市民たちが、産業化の主たる担い手兼利用者として成長していったように、今日のネティズンたちは、 "情報化" すなわち一連の情報処理・通信技術の革命の、主たる担い手兼利用者として成長しつつある。そしてその結果が、 "近代情報智業”(およびそれらが創造・普及する知識・情報の "享受者" ないし“学習者”)と、それらを要素とする広域的な社会システムとしての "近代地球智場" の成立となるものと思われる。また、その成熟した理想的な姿は、享受者に一定の "享受者主権" を保障すると同時に、智業の運営自体に関心保有者(インタレストホルダー)の参加権を認める "開かれた智業" と、それらの "自発的な協働智場" の形成になるだろう。

つまり、智業化によって出現したネティズンたちは、情報化を通じて、この意味での近代情報智業の担い手としての智業家に成長していく。また、かつての市民たちが、既存の主権国家のありかたに対して異議申立てを行い、財産権の確立とともに国家の民主化と人権の尊重を要求する“市民革命”の推進者ともなったように、今日のネティズンたちは、既存の国家や企業の、さらには国際社会や世界市場の、ありかたに対して異議申立を行い、後述する情報権の確立とともに“政府の再発明”や“企業のバーチャル化”などを要求する“ネティズン革命”の推進者となっていくだろう。その典型は、今日のアメリカでいえば、民主党のアル・ゴア副大統領や共和党のニュート・ギングリッチ下院議長、あるいは、ミッチ・ケーパーやジョン・バーローらを擁する民主党系の EFF (電子フロンティア協会) や、トフラー夫妻やジョージ・ギルダーを擁する共和党系のPFF(進歩と自由のフロンティア協会) などに見いだすことができる。ギングリッチは、自らの率いる政治グループの台頭現象を、民主党が共和党にかわって主導権を取った1930年代のアメリカではなく、独立革命に成功した1760年代のアメリカに対比している。ゴア副大統領も、今日のアメリカの情報革命を、アメリカの独立革命の伝統の中で理解しようとしている。これらの事実は、彼等が“ネティズン革命”という言葉こそ使っていないものの、新しいタイプの市民たちが主導する今日の政治革命を過去の市民革命になぞらえていることを、明瞭に示している。(1)

そればかりではない、近代情報智業と地球智場の成立は、今後の世界秩序に、これまでの政治秩序と経済秩序に加えて、“情報秩序”とでも呼ぶべき第三の軸を与えることになると思われる。後の議論を先取りしていえば、世界情報秩序の理念は、“賢明なバーチャリゼーション (と享受者保護) を通じての楽しさ(Pleasure)に満ちた新世界の実現”といったものになりそうだ。もちろん、過去の二つの波と同様、今回の場合も、こうした理想的な姿がそのまま実現し永続すると考えてよい保証はない。また世界情報秩序のこのような定式化が、後述する“観念対現実”の対立問題を真に解決しうるものであるかについても、疑問の余地がある。しかし、私としては、とりあえずこのような理念に沿った秩序の実現をめざして努力することを提唱したい。私の考えでは、20世紀流の "世界政治秩序" と "世界経済秩序" の改訂版を構想する努力も大切だが、それと同時に、いやそれ以上に重要なのは、この二つの秩序軸を補完する役割をもつ第三の秩序軸、すなわち "世界情報秩序軸" を構築する努力なのである。そこで、以下では、この世界情報秩序の理念について、もう少し立ち入って考えてみよう。

何次かにわたる近代化の波の到来は、新しい世界秩序軸とそれに対応する秩序理念を生み出し、それをある程度まで実現してきた。しかし同時に、新しい問題をも引きおこしてきた。

封建化と軍事化の波は、主権国家という組織体と国際社会という広域的なシステムを生みだしたが、それは同時に、国家と国民の間の(広く言えば組織と個人の間の)対立という問題や、国家とその植民地の間の対立という問題をも引きおこした。その一応の解決が国家の民主化と人権の尊重であり、また反植民地主義ないし民族自決主義の理念の普及であった。

同様に、商業化と産業化の波は、産業企業という組織体と、世界市場という広域的なシステムを生みだした。それは、人間(国家組織)による人間(個人や下位の組織)の支配に頼らなくても、人間(企業組織)による自然の支配があれば、人間は、みずからの生存や発展にとって必要とされる手段を入手できるという事実の認識にもとづく、社会システムの進化過程でもあった。

この過程は、一方では、第一の波の場合に似た、企業とその従業員との対立という問題や、企業と消費者との間の対立という問題をも引きおこした。(その一応の解決が、企業内民主主義や経営参加の理念の尊重であり、また消費者主権の理念の普及であった。)だがより根本的には、近代化の第二の波は、第一の波が引きおこした問題とは異なる性質のものとして、人間と自然との間の対立という深刻な問題を引きおこした。

このことは、次のように言い換えてみることもできる。すなわち、近代化とは、それ以前の伝統的な社会の中に互いに密接不可分な形で埋め込まれていた諸要素のいくつかを、相互の通約や交易が可能な "対象" として外化・分離してしまう傾向を顕著に示すような、社会進化過程である。近代化の第一の波は、人間の棲む土地を、その上に棲む人間と共に、略取や割譲や交換の可能な "領土(および領民)" として対象化し分離した。近代主権国家が神聖視した "国家主権" とは、この意味での "領土(および領民)" に対する排他的な−−しかし割譲や交換が可能だという意味では相対的なものにすぎない−−支配権に他ならなかった。国民主権や人権、あるいは少数民族ないし地方の独立権などは、この意味での領土ないし領民に対する国家の支配権に対抗して主張された権利の表明だったと解釈できる。いいかえればそれは、伝統的な "共同体" から人為的に括りだされた土地や人間の、共同体への回帰(再一体化)要求だったとも解釈できる。

同様に、近代化の第二の波は、人間が "自然" に働きかけて作りだした人為物としての財やサービスを、価値物としての通約や交換が可能な "商品" として対象化し分離した。近代産業企業が神聖視した "私有財産権" とは、この意味での "商品" に対する排他的な−−しかしその交換(販売)が前提されているという意味では相対的なものにすぎない−−所有・処分権に他ならなかった。 "環境" あるいは "自然" の保全という思想は、この意味での私人による商品の所有権に対抗して主張された権利の代弁だったと解釈できる。いいかえればそれは、伝統的な "風土" から人為的に括りだされた財やサービスの、風土への回帰(再一体化)要求だったとも解釈できる。

それでは、智業化=情報化の過程として出現した近代化の第三の波が、新たに対象化し分離したものは何だったのか。ジョージ・ギルダーがその著書『マイクロコズム』(2) で明確に指摘しているように、それは、人間の精神の産物としての観念であった。近代の第三の波は、 "観念" による "現実" の征服・支配を可能にする。いいかえれば、人間はここに、他の人間や自然の支配による以外の、別の方法による自己の生存や発展のための手段の獲得が、可能になったのである。

ところで、通約や交易の対象とされる土地や人間が "領土" や "領民" と呼ばれ、財やサービスが "商品" と呼ばれるのと同様な意味で、通約や交易の対象とされることが前提されている観念には、何か特別な名称を与えた方がよいだろう。私は、観念のストックとしての "知識" やフローとしての "情報" が、とりもなおさずそれにあたるのだといってみたい気もするが、それでは話が紛らわしくなる恐れがあるので、ここではとりあえず、通約や交易の対象とされる観念に対して、 "通識(sharable)"という新語をあてておくことにしよう。また、通識におよぼされる支配権のことは“情報権”(3) と呼んでおくことにしよう。

これらの言葉を使っていえば、主権を神聖視する近代主権国家が領土や領民の獲得を通じて国威 (一般的脅迫・強制力) の増進・発揚をはかり、財産権を神聖視する近代産業企業が商品の販売を通じて富 (一般的取引・搾取力) の蓄積・誇示をはかるように、情報権を神聖視する近代情報智業は、通識の普及を通じて智 (一般的説得・誘導力) の増大・発揮をはかる存在なのである。

さて、上述した近代化の第三の波における技術革命としての“情報革命”の中核をなしているのは、これまたギルダーの言葉を借りていえば、“マイクロコズムの技術革新”すなわちマイクロチップスの上に集積された“コンピューティング・パワー”と、“テレコズムの技術革新”すなわち光ファイバーや無線を利用したコンピューター間の“コミュニケーティング・パワー”の革命的な発展である。(4) 高度に発達したコンピューターとそのネットワークが生み出す新しい空間は、“サイバースペース”と呼ばれることが多い。恐らく21世紀のいつかには、ウィリアム・ギブソンがその有名なSF『ニューロマンサー』で予想してみせたように、人間の脳神経がこのサイバースペースに直結されることになるだろう。

それでは、サイバースペースは、人間にとってどのような意味をもってくるのだろうか。そう問うことは、「人間にとって観念とは何か」「人間にとってコンピューターとは何か」という問いを、あらためて問い直すことに等しい。これまでの近代社会では、概して、“観念”とは人間が“現実”に接するための“メディア(媒介者)”だと理解されていたといってよいだろう。われわれは、観念をもとにして、現実を認識するための“理論”あるいは“モデル”を作りあげるのである。同様に、コンピューターとは、そうした理論の“解”を発見するための手段、あるいはモデルを動かして現実を“シミュレート”するための手段だと考えられてきた。しかし、今日の情報革命は、そのような理解を逆転させつつあると私は思う。すなわち、今や、コンピューターは、人間の創り出した“観念”を、それがあたかも“現実”であるかのように思わせるような形での、観念の具体的表現というか具象化(バーチャリゼーション)のための手段となっているのである。つまり、コンピューターを通じて、われわれは“観念”に形や色や音を、さらには匂いや手触りをも、付与することができるようになりつつある。そこに生まれるのが、人間の感覚器官にとっては、現実とほとんどえらぶところのない“バーチャル・リアリティ”(5) に他ならない。だが、コンピューターや通信技術の発達は、さらにそのレベルを越えて進み、人間の観念の産物を人間の感覚器官にとって、これまでの現実以上に現実的な存在 (ハイパーリアリティ) として知覚させるところにまで進んで行くものと思われる。そうなった暁の“サイバースペース”は、それこそ無限の可能性を秘めた新たなフロンティアーとして、人間の前に立ち現れるだろう。そして人間は、他の人間による反抗や反乱、あるいは資源・エネルギーの不足や環境の汚染などを懸念することなしに、そればかりかさまざまな“自然法則”の制約からさえも自由になって、これまでの“現実世界”よりもはるかに魅惑的なこの“新世界”の探検や開発に乗り出すことになるだろう。そうだとすると、21世紀の“世界情報秩序”の理念としては、先にあらかじめ示しておいたように、“賢明なバーチャリゼーション (と享受者保護) を通じての楽しさに満ちた新世界の実現”といったものが唱道されることになりそうである。

もちろん、人間による自然の“征服・支配”が最終的には失敗して“環境の危機”が到来したように、観念による現実の“征服・支配”もやはり最終的には失敗して、“現実の危機”が到来する可能性は十分にある。人間が、結局のところ観念だけで生きることのできない“肉体をもった存在”であり続ける以上、軍事社会の“人権問題”や産業社会の“環境問題”に匹敵する“現実問題”とでもいうべき問題が、未来の情報社会に早晩発生することは不可避だろう。(6) 情報社会といえども、近代文明の一局面に属している以上、近代文明そのものの限界を超えることはできない。そして、上の三つの問題は、まさに近代文明そのものの限界を露呈させている問題なのである。

しかしそれはそれとして、今日の近代文明には、まだまだその限界の中での進歩・発展の余地が多分に残っている。現に、産業化もまだその第三段階に入り始めたところだし、情報化にいたっては、これからその本格的な到来が予想されるからである。そうだとすれば、これからの情報化にとっての当面の中心課題は、何よりも情報社会そのものの、いいかえれば“サイバースペース”の、構築と開発になければならない。また副次的な課題は、“ネティズン革命”の実現と、情報化の成果の活用とによるこれまでの軍事社会と産業社会の再構築、つまり、人権問題や環境問題の緩和になければならない。そうした課題に答えていく社会が、私の考える望ましい社会に他ならない。

付記:21世紀を展望した未来社会の望ましい秩序軸としては、実は、“世界社会秩序軸”とでも呼ぶべき、さらにもう一つのものが考えられる。というのは、21世紀の近代文明は、すでにその発展の“社会的限界”に直面することが明らかで、そこには、全面的な近代化を受け入れようとしない、あるいはそれに積極的に対抗しようとする近代文明とは異質な文明(とりわけ宗教文明)の再興・復古をめざす“原理主義”的な動きが強くなると思われるからである。このような文明間の異質性は、“新南北問題”とでも呼ぶべき社会問題を引きおこし、世界はそれに対処する必要に迫られるに違いない。また、近代文明自体の内部にも、互いにその文化的な基盤を異にするそのいくつかの分肢(西太平洋分肢、新大陸分肢、東大西洋分肢など)やさらにその亜肢などの間に、いわば同一文明内の異質性に起因する、“新東西問題”とでも呼ぶべき社会問題が発生し、それへの対処も必要になってくると思われる。このような“文明間対立”と“文明内対立”とに対処するための理念としては、“自由な交流(コミュニケーション)と自発的な協働(コラボレーション)による文化の相互理解と文明の相互受容”が考えられる。これが、私のいう“世界社会秩序”の理念である。