1995年7月8日
公文俊平
天谷さんに初めてお目にかかったのは、天谷さんが通産省の企画室長をしておられた頃だった。とてもさわやかなお役人だなあと思って、いっぺんに天谷さんの魅力のとりこになった。
それからしばらくして、貿易の自主規制の研究を博士論文のテーマに、私のところに留学していたカナダ人の学生が通産省のしかるべき方にインタビューしたいといいだしたので、躊躇なく天谷さんを紹介した。それも、いきなりご本人に電話をして、かくかくしかじかなのでよろしく、とお願いしたのである。生意気ざかりの大学助教授のやりかたを地でいったわけである。しかし天谷さんは、ごく当然のことのように「結構ですよ」と受けてくださったので、その学生にさっそくアポイントメントを取らせ、彼は長時間にわたって天谷さんのお話をうかがうことができた。私はといえば、後日どこかでお目にかかる折りがあったとき、「先日はどうも」「やあやあ」というやりとりをしただけである。天谷さんは、私のずうずうしさを後輩の甘えと見て許して下さったのかもしれない。
後年、その時の顛末を思い出すたびに、恥ずかしさがつのった。なんぼなんでも、もう少し礼を尽くしてお願いし、お礼もきちんと申し上げるべきだった。あんな調子でどんどん学生を送りつけられたら、相手をする方はたまったものではないだろう。というわけで、いつかあらためてきちんとお詫びとご挨拶をしたいと思っていたのだが、いざお目にかかる機会があると、その種の「些事」には超然としておられるような天谷さんの態度に圧倒されて、今更そんな話などできないなという気になり、結局そのままになってしまった。
天谷さんと比較的長くごいっしょできたのは、天谷さんが通産省を退官されてから国際交流財団の理事長をしばらく勤めておられたころ、その財団の仕事でアメリカに出張した時だった。行くさきざきで、団長の天谷さんは挨拶やテーブル・スピーチを英語でされる。別に事前に準備している様子もなく、当意即妙のスピーチばかりなのだが、そのどれをとっても、単なる決まり文句を連ねるのではない中身のある話が、それぞれの場にふさわしい内容をもって、しかもよどみなく語られるのには、強い感銘を受けた。構えたところはいささかもないが、自らの確固とした信念にしたがって諄々と思うところを説いていかれる天谷さんの語り口は、私など及びも付かないものだと感動した。天谷さんは、日本における良い意味での「強い個人」の代表的な存在だったのではないだろうか。
日常の議論でもそうだが、天谷さんの議論の仕方は、徹頭徹尾理性的なものだった。マージャンやゴルフを例にひく比喩的な話のうまさは定評のあるところだが、そんな場合でも、聴き手の情念に訴えるような話し方は、いっさいされなかったと思う。天谷さんは、相手の情念や激情に直接働きかけるのは許しがたいルール違反だと考えておられたに違いない。しかし、そのことは、天谷さん自身が冷たい理性一辺倒の人だったということを意味するものではない。逆である。天谷さんの冷静な議論や高度に論理的な思考の底には、情念に動かされやすい人間に対する覚めた目、時にはほとんど皮肉な目があったと同時に、相手への温かい思いやりの心があり、また国を憂う国士の心情がふつふつと煮えたぎっていたのである。
私は、数年前から、天谷さんが晩年に所長をしておられた電通総研の、客員研究員をつとめている。そのご縁で、天谷さんとは電通総研の雑誌で対談させていただくという有り難い機会を頂戴したことがある。しかし、私が客員研究員になってほどなく、天谷さんは闘病生活に入られたために、親しくお話をうかがうことはほとんどないままに終わってしまったのが、残念でならない。とくに、近年の情報化の分析やその社会的インパクトの評価について、議論させていただく機会を得られなかったのは、なんとしてもくやしい思いがする。せめて、天谷さんに「しようのない後輩だな」と嗤われないように、自分なりに納得のいく仕事をしていきたいと思う。