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1995年8月14日

「世界の中の日本型経済システム」

公文俊平

第一節:日本近代化の三つの段階

狭い意味での日本の"近代化"−−西欧化と産業化−−は、一九世紀後半の"開国"から始まった。それ以降の百数十年間は、ほぼ六十年ごとの三つの段階にわけられる。

第一段階は、幕末から第一次世界大戦ごろまでの期間にわたり、西欧先進諸国の文物の一方的な受容に重点がおかれた"西欧化"の段階である。革命や内戦の激動を経験したその初期には、攘夷論や復古論も強く、国論は国粋主義と全面的な欧化論との間で揺れた。西欧化のモデルとされた国も、当初の英仏から後のドイツ(プロシャ)へと変わった。しかし、一八八〇年代の終わりごろまでには、"和魂洋才"の折衷による妥協がなされ、国家的発展目標をめぐる広い国民的合意が成立した。

すなわち、国内の政治経済体制については、"文明開化"の名の下に、その全面的な西欧化がめざされることになった。国際社会にあっては、近代主権国家としての体裁を整えたた日本が、世界列強の一角に互してその国威を増進・発揚することが期待された。これらの基本的目標を具体化するための社会構造の一連の改革が、一八八九年に発布された明治憲法や、その前後に行われた各種の西欧的法制度の導入や整備、あるいは幕末に締結された不平等条約の改正であった。また、それらの目標の達成戦略としては、"富国強兵"、すなわち急速な産業化(殖産興業)と軍事化とを同時に追求する政策路線、が採用された。したがって、この段階で形作られた日本の産業や経営の組織は、もっぱら西欧のそれ(産業化の"十九世紀システム")の直輸入の形をとっていた。「日本と西欧の産業組織は、一九一〇年の方が、一九七〇年よりも互いにより似ていた」(ロドニー・クラーク)のである。

第一段階の近代化は、軍事化の面でも産業化の面でも、かなりの成功をおさめ、第一次世界大戦のおわったころには、アジアでの軍事的脅威は一掃され、日本は“世界の列強”の一つにかぞえられるまでになった。また、"日本資本主義"も、十九世紀型の軽工業に関するかぎりはすでに確立されていた。

第二段階は、一九一〇年代の後半から一九七〇年代の半ばごろまでの期間にわたり、近代日本の社会システムが、一方において産業化の新たな段階に自らを適応させていくと同時に、自国の文化伝統とも習合した日本型のシステムへの進化をなしとげた“日本化”段階として特徴づけることができる。

第一次大戦後の日本を取り巻く社会環境は、すでに一九世紀中葉のそれとは大きく変化していた。産業社会は、一九世紀末から始まっていた"第二次産業革命"と"組織革命"をへて、電力と石油エネルギーに支えられた重化学工業を主導産業として、大量生産のパラダイムをもつ寡占的大企業体制が支配する"産業化の二十世紀システム"への突破を、急速に進めつつあった。国際社会では、新たな世界大国アメリカがイギリスの覇権にとってかわる一方で、世界各地に民族主義の機運が澎湃として台頭しつつあった。"機会の均等"と"主権の尊重"が国際社会を律する新たな理念になろうとしていたのである。

ところが、第一段階の後半での西欧先進国への"追いつき"には見事に成功した日本は、このような社会環境の大変化には容易に適応できなかった。国内での重化学工業の発展は遅々として進まぬ中にも、工業と農業、都市と農村の格差が拡大し始めた。帝国主義勢力の進出に抗して日露戦争を戦ったはずの日本が、勝利の後では自らも帝国主義国の一つとして振る舞い始めた。その結果が、無謀な戦争とその敗北−−アメリカの政治外交理念と経済力に対する敗北−−となり、結局、新しい国家的発展目標をめぐる広い合意が形成されるまでには、一世代に近い期間を必要とした。

新しい国家的発展目標とされたのは、国内体制の面では"民主主義"であり、国際社会の中での日本のあり方としては"平和国家"であった。それを具体化するための社会構造の改革が、一九四六年に公布された昭和憲法と、その前後に行われた一連の"戦後改革"であった。また、それらの目標を達成するための戦略としては、安全保障についてはもっぱら米国に依存して、たかだかその補完的な役割をはたすことに限定しつつ、"経済成長"、すなわち産業化の二十世紀システムへの追いつき、をあらためてめざす政策路線−−"一国平和・繁栄主義"−−が採用された。その過程で、先進産業国の強い影響の下に採用・導入されながらも、日本社会の現実の中で次第に固有の特質をも付け加えていった産業や経営の組織や経済運営の制度が、"日本型市場経済体制"に他ならない。

この第二段階においても、日本の努力はめざましい成功−−第一段階よりもさらにめざましい成功−−をおさめた。もちろん、日本に導入された"民主主義"の中身は、"本場"のそれとは多少異なったものとなった。すなわち、日本では、国民によって選出された為政者が民意を尊重しつつ、官僚に委任して民間の世話をなにくれとなく焼かせる政治・行政体制こそが、望ましい民主主義だと理解された。また多くの国民やメディアにとっての平和主義とは、自国が戦争に"巻き込まれない"ことを第一義として、他国、とりわけ東の諸国、を無用に刺激しないよう"全方位外交"に努めることを意味し、国際社会での平和維持のための積極的な貢献は軽視された。経済成長とは、なによりもまず"生産者"・"輸出者"としての国民の育成・保護−−高生産性部門の育成と低生産性部門の保護−−をはかることだと解釈された。こうして、戦後の日本は、暗黙の自社二党協力体制のもとに、自民党の長期安定支配を許しつつ、米国の核の傘の下でのたぐい稀な長期の平和と急速な経済発展とを享受しながら、"経済大国"化をなしとげることができたのである。産業化の二十世紀システムへの追いつきという面では、戦後の日本経済は、まず一九五〇年代の後半から一九六〇年代にかけての"高度成長"期に、二〇世紀システム前半の"突破段階"にあたる重化学工業化を達成し、続いて一九七〇年代には、後半の"成熟段階"にあたる耐久消費財(自動車、家電)の大量生産・輸出態勢を確立したのである。

しかし、一九七〇年代にはいるころから、日本を取りまく環境条件は、またしても大きく変化し始めていた。第一に、近代化の自然的限界ともいうべき環境・資源・人口問題が、地球社会の未来に暗い影を落とすようになった。第二に、一九八〇年代末の社会主義体制の崩壊とそれ以降の市場経済体制への移行のテンポの遅速や、途上国の一部にみられる南北格差のいっそうの拡大に示されるように、近代産業文明には、その普及の社会的限界があることが意識され始めた。その結果、一方では、非近代文明世界の中に、近代化をトータルに否定する"原理主義"運動がさかんになって、"文明間対立"の時代の到来が懸念され始めた。他方では、大きくは近代文明に属するとみなされる文明群の間での、相互の異質性に起因すると思われる摩擦や紛争、すなわち"文明内対立"の発生や激化も、憂慮され始めている。

しかしながら、それと並んで第三に、産業化自体は、一連の技術革新を介して、さらにその発展の新たな段階(情報産業化段階、産業化の二一世紀システム)に歩みいろうとしている。多くの人が指摘するように、この新たな経済発展の中核をなす地域は、アジア太平洋地域であろう。ここには、北アメリカを中心とする"情報革命"の進展と、東アジアを中心とする産業化への離陸とが同時にみられ、それが、この地域の経済の持続的で相互補完的な成長構造を形作ろうとしているのである。

第四に、近代文明の大きな枠組みの中で、これまでの主権国家による国威(一般的な脅迫・強制力)の増進・発揚競争や私企業による富(一般的な取引・搾取力)の蓄積・誇示競争とは性格を異にする、"智業"とでも呼ぶことがふさわしい新しいタイプの社会的主体による“智”(つまり一般的な説得・誘導力)の獲得と発揮をめざす競争が始まろうとしている。これが、軍事化(国家化)と産業化(企業化)に続く、近代化の第三局面としての情報化(智業化)の開始に他ならない。現代とは、産業化の第三段階(情報産業化段階)への移行と、近代化の第三局面(情報社会化局面)の開始が、同時並行的に進行している時代なのである。

しかし、そのことはその他の競争形態の終焉を意味するものではない。侵略戦争を手段とする国威の増進・発揚競争の社会的正統性は、二度の世界大戦をへて決定的に否定されるにいたったものの、私企業による富の蓄積・誇示競争の正統性は依然として失われていない。むしろそれは、かつての企業と国家の間の協働・補完関係によく似た、智業と企業の間の協働・補完関係を生みだすことによって、さらに発展していくに違いない。

このような見方からすれば、日本の近代化の第三段階は、第二段階の最終局面と部分的に重複しつつ、一九七〇年代の半ば頃から始まったといってよいだろう。東アジアの産業化への離陸と、北アメリカでの第三次産業革命(情報革命)の進展と同時期にあたっているこの第三段階は、恐らく二一世紀の前半にわたって続くと予想される。日本ではその間、第三次産業革命を通じて出現する産業化の"二一世紀システム"への適応と、グローバルな普遍妥当性をもつ政治経済体制への移行とが、紆余曲折をともないながらも、逐次進んでいくことになろう。

今日の日本が直面している問題の本質は、産業化の二十世紀システムから二一世紀システムへの過渡期と、産業社会から情報社会への過渡期にさいして、いかに良く自己を再組織して円滑な適応をはかっていくかというところにある。とはいえ、新しい国家的発展目標として、具体的には何を選ぶべきか、またその実現に適した新しい政治経済体制はどのようなものであるべきかを、現時点で確定することは容易ではない。以下、この小論ではもっぱら、第二段階に形成された"日本型市場経済体制"の特質の検討にとどめる。

第二節:日本型市場経済体制

日本の近代化過程の第二段階にとっての政治経済体制の分野での歴史的な課題は、産業化の二十世紀システムへの追いつきにあった。すなわち、大量生産のパラダイムに立脚する大規模な重化学工業の確立と、それを基盤とした耐久消費財産業の発展が、必須とされたのである。それと共に、多人数で協働して大量生産の実をあげることのできるグループ志向的な労働力の育成や、生産された製品の大量販売のための統一的な規格や全国的な市場あるいは流通システムの構築も、重要な課題とみなされた。後発国日本にとっては、ここでもまた、官民が一体となった開発主義型のシステムによってそれらの目標の達成をはかることが、当然のなりゆきであった。こうして、一九三〇年代から次第にその姿を現し始め、第二次大戦後の高度経済成長期に確立した"日本型市場経済体制"は、明治憲法以来の官僚による統治の体制(官治体制)をその大枠としてもちながら、各所轄官庁がみずからの“ビジョン”にもとづいて、その管轄下の産業の育成・保護をはかることをその主要使命とする、"産業国事主義"的な経済運営体制をその中核においていた。しかし、個々の経済活動それ自体の実行は、その多くが、経営体としてのそれ自身の存続・発展を第一義とする"会社主義"的な企業(日本的経営)の分権的な行為に委ねられていた。

日本型市場経済体制の大きな特色の一つは、官僚の集権的で"計画合理的"な指導ないし"イニシァティブ"と、民間のとくに高生産性部門の経営体に保証された分権的・自主的な活動とが、産業国事主義の制度と政策を媒介として結びつけられることによって、経済発展のエンジンとしてそれなりに有効に機能しえたところにあった。以下、この体制を構成する三つの主要な要素の各々について、手短かに述べてみよう。

1)官治体制。

第二次大戦後の日本の国家組織は、米ソ冷戦構造の中での西側陣営の一員として、講和条約が結ばれた後も、安全保障と外交の基本については、これを米国に依拠・追随しつつ、みずからは経済発展に専念する“一国平和・繁栄主義”路線を採用してきた。

そのための国家統治の体制は、広く合意された国家的な発展目標を大前提として、その達成については、議会から官僚機構に対して広汎な委任がなされるという形のものだった。その限りでは、日本の国家統治体制は、天皇が官僚に国家の統治を委任していた明治憲法体制を基本的に継続しつつ、いくつかの点でそれにより民主主義的な衣装をかぶせたものであったといえよう。

戦前から戦後にかけての官治体制の継続性を最も直截に示しているのは、昭和憲法には明記されていなかった内閣の法律提案権が、いちはやく1947年に内閣法に規定されたという事実である。その結果、立法権は立法府の専権ではなくなってしまった。他方国会には、議員立法を支援するための特別な仕組みは作られないままにおかれた。しかも、国会法では、予算を伴う法案の発議は衆議院の場合議員50人以上によってなされなければならないことになったのだが、これは明治憲法の場合の30人よりも、より厳しい規定である。明治憲法にはあって昭和憲法では落とされた政府委員の議院出席権も、国会法にあらためて挿入されたし、国会法の第五次改正(1955年)では、国会の常任委員会が各省庁別に系列化された。明治憲法の採用していた“憲法−勅令”型のシステムも、“独立政令”の形で復活された。さらに、諸規制の“有権解釈”による許認可と、法文にはない“行政指導”のシステムとが構築されていった。

地方についても、“地方交付税”という形での国税の地方への再配分の仕組みを作ると共に、地方議会の立法権を国会のそれに従属させたり、大量の“機関委任事務”を地方に課することで、地方自治体の活動を制約した。明治憲法の下での“内務省”による統一的な国内統治の仕組みこそ解体されて元には戻らなかったが、そのかわりに相互に独立性の強い縦割り型諸省庁が互いに競いあいながら、自らの出先機関を地方に作ったり、地方自治体の活動をそれぞれの省庁が交付する補助金で誘導する仕組みを作ったのである。

日本の官治体制あるいはその下での官民関係のあり方は、他の産業国、とりわけアメリカのそれとは大きく異なっている。第一に、日本の場合は、官と民との境界はそれほど截然と区別されていない。他の産業国にくらべてその規模がはるかに小さいが政治的任命からは無縁な(しかし民間からの出向者である“部員”を含む)"官"と、官からの“天下り”を含む“民間”との中間に、官主導で、しかし民も加わって作られて行政の補完的な役割をはたすさまざまな半官半民の機関、各種の業界団体や協会、センターのたぐいが広汎に存在している。第二に官民の間の機能的関係は、形式化された規則による規制よりは、相互の信頼と親睦から生まれるパートナーシップを前提とした非公式の相談関係という性格が強い。現に、日本の官庁の仕事の8割は法律によらない行政指導だといわれている。規制の決定や実施にさいしては、関係者や専門家との細かい事前の相談が行われる。法定の審議会や、それを補完する各省庁の担当官をとりまく無数の"私的"な研究会がその場となっているが、それ以外にさまざまなインフォーマルな相談も日常的に行われており、そうすることが望ましいとされている。もちろん、官民関係は対等の関係というよりは官による民の指導という性格が強いが、その場合にも形式的な規則は相談の邪魔になり、法の強制的な執行は相互の信頼関係を損なうとみなされがちである。行政指導は、官の大幅な裁量の自由を前提として、説得・誘導と脅迫を取り混ぜつつ行われるのである。

2)産業国事主義体制

ここで"産業国事主義"というのは、二〇世紀型の近代産業の発展とその成果の平等な分配を、単に民間の自発的な活動に任せておくだけでは足りない、国をあげてその達成に邁進すべき国家的な目標とみなし、その達成に資すると考えられる制度や政策の採用に最も高い国家的な優先順位を与えるような、国家運営の理念及び国家組織の体制をいう。したがって、それは、広義の"開発主義"体制の一種である。もちろん、“開発主義”的理念に基づいて構築される体制が、産業の国有化や国営化を常に行うとは限らない。現に、"日本型市場経済体制"は、すぐれて分権的な体制としての一面をももっていた。

この産業国事主義体制の原型は、ドイツの統制経済やソ連の計画経済体制の影響を受けながら、“総力戦”の性格を強めつつあった戦時経済の運営体制として、一九四〇年前後にまず形成された。すなわち、この時期の日本は、国家総動員法で株主の利益を制限する一方で、臨時資金調整法や金融統制団体令などによって、それまでの直接金融のシステムを、間接金融のシステムに再編成した。一九四二年に改正された日本銀行法には、「国家総力の適切な配分をはかるため」という文言があるが、それは今日にいたるまでそのまま残されている。国民は、国民職業能力申告令によって、その職業や能力の申告が義務づけられる一方、その生活は国民体力法や生活必要物資統制令等の統制下におかれた。企業活動に対しては、会社経理統制令や賃金統制令、貿易統制令や物資統制令等の統制が課された。業界に対する行政指導は、「計画経済的な総力戦」に備えるために一九四一年に施行された重要産業団体令にその源がある。一九四二年には、産業統制法も施行された。大量生産のために必要な財・サービスや施設あるいは教育の規格化は、日本工業品規格や国民学校令等の制定を通じて行われた。給与所得からの所得税の源泉徴収制度は、一九四〇年に世界で初めて導入されて、その税収は農業のような低生産性部門の支援や所得の地域的な再分配のための原資とされた。また、社会的弱者の救済を狙った立法措置としては、小作料統制令や借地借家法の改正、あるいは食糧管理法の制定などがあった。

この体制の眼目は、競争を制限した上で内部者間の協調−−狭くは産業内部の、広くは国家全体としての−−によって全体の発展を実現すると同時に落伍者の出現を防止することにあった。そのために、国民経済は、いくつかの部門に分割され、官僚機構の中にそのそれぞれを所管する部局がおかれた。

個々の経済部門は、大別すると輸出指向型の製造業大企業を中心とする高生産性部門とその他の部門に分けられる。前者の中核は、繊維、船舶、鉄鋼から始まり、電機機械、一般機械、自動車などに次々と移行していった。後者はさらに、次のような三つのグループに分けてみることができる。

  1. 事実上の国営産業・企業とみなすべきもの。ここには、郵政や国有林野等の"現業"、かつての国鉄や電電のような"公社"、あるいは各種の特殊法人等が含まれる。教育産業の多くの部分もここに含まれている。
  2. それぞれの"業法"と"原局"によって強い規制と指導の下に運営されている、金融、輸送、エネルギーなどの産業。
  3. 放置すれば大企業あるいは外国との競争に敗れることが必至とみなされたために、政府指導の"カルテル"にいれられて、きめ細かな保護と規制を受けている農業、建設、製薬、商業などに属する多数の中小・零細企業や自営業。

これらの両部門に対する政策ははっきりしたコントラストをなしていた。

まず、高生産性部門では、費用逓減状況に対処するための競争制限策がとられた。すなわち、それぞれの部門に対して投資の自主規制が要求される一方では、不況時のカルテル形成が容認された。しかし、この部門に属する企業に対しては、政府とは相対的に独立した分権的な行為の自由が大幅に認められ、政府の指導は相互了承(“行政指導”)の形をとって進められることが普通であった。

他方、その他の部門、とりわけ中小零細企業の多い低生産性部門に対しては、政府の保護・指導・育成は遙に強かった。そこでの政策の目標は、相対的に弱小な企業群を国内の大企業や外国企業の競争圧力から守り育てることにおかれ、そのために厳格な参入規制や価格規制(価格の引上げの容認)あるいは輸入規制などの措置がとられた。加えて、政府は多種多様な補助金、政策金融措置、税制優遇措置等を、この部門のために準備した。これらの措置を通じて、高生産性部門から低生産性部門への所得移転が実現した。さらに、高生産性部門が達成した高い生産性とそれに見合う高い賃金水準は、労働市場を通じて経済全体の賃金を引きあげる作用も及ぼした。

しかし、それは同時に低生産性部門を結果的に温存する効果をももった。アメリカ経済で典型的に見られたように、産業化の二〇世紀システムの発展の大前提となったのは、その突破段階において確立した重化学工業部門の産物(産業用機械や化学製品)を中間財として利用して実現された農業や流通業での生産性の着実な向上であった。それによって解放された労働力が、成熟段階での耐久消費財の生産を中心とする加工組み立て産業や流通業の成長を支えたのである。しかし、日本の場合、農業や流通業での生産性の向上は、不十分にしか進展しなかった。むしろ、これらの産業は低生産性部門の産業として国の保護の対象となり、労働力の放出も十分には進まなかった。他方、日本の戦後の製造業は、すでに高度に発達した外国の産業から資本集約的な技術を導入できたために、労働力の需要もそれほど大きくはならなかった。

なお、経済の部門間所得格差の縮小政策と同様な政策は、大都市と地方の間の格差をなくして、全国一律の生活水準の向上をはかるためにも採用された。そこでとりわけ重要な役割をはたしたのが、財政の所得再配分機能である。すなわち、国は、大都市圏の企業には法人税を、都市勤労者には累進所得税を、一般国民には酒税を課して、その一定割合を地方交付税やさまざまな補助金の形で地方に配分した。さらに、各種の公共事業の推進も、地域間格差の是正に貢献した。

産業国事主義体制のもとで採用されたこのような政策は、"生産者優先政策"だとみることもできる。その結果、日本の国内消費者物価は、卸売物価、とりわけ輸出品価格にくらべて、相対的に割高になっていったからである。戦後長らく維持された一ドル三百六十円の固定為替レートは、当初は輸出向け工業製品価格との関連では円の過大評価だといわれた。しかし、その後工業製品の生産性が上昇するにつれて、円の対ドル交換レートはそれを反映して次第に上昇していった。逆に、国内消費者物価との関連では、当初の固定レートは、円の著しい過小評価だといわれたが、その後の円高過程でその評価は逆転し、今日では、購買力平価でみるかぎり、円は30パーセント前後過大に評価されているとみられるようになっている。これは、日本の経済政策が、物価については公共料金の原価主義や低生産性部門の所得保障政策(米価等)、あるいは"需給調整"を大義名分とする価格支持政策等を採用して、経済の部門間の調整コストの多くを結果的に高い物価を通じて"消費者"に負担させてきたためである。ただし、経済の高度成長が続いていた間は、若干のタイムラグを伴いながらも、実質賃金もまた上昇していったために、この種の負担の大きさが自覚されることはそれほどなかった。

3)会社主義。

日本型市場経済体制の最前線に位置する個々の経営体の構造・機能上の特質は、恐らく"会社主義"という言葉で概括するのが最も妥当だと思われる。なぜならば、日本の企業(そのほとんどは法人企業、すなわち会社の形態をとっている)にとっての最も重要な目標は、会社それ自体の存続、とりわけ発展ないしその社会的地位の向上だからである。会社の地位は、その会社が属している業界自体の社会的地位と、業界の中でのその会社の序列によって示される。業界内の序列を決める最も重要な要素は、市場シェアである。(当該業界への参入の古さもしばしば重要な要素とされるが、これは、人為的な競争努力によっては変更できない。)

会社がこの基本目標を達成していく上での最も中核的な資源は、"人"、それも、"社員"と呼ばれた従業員たちであった。近代化の第二段階での日本の会社にとって、"人"の中でも"資本家"は、第二義的な重要性しかもたなかった。"資本"自体は、株式のような直接金融よりも銀行からの借入れのような間接金融にたよる方が、戦後の日本ではより容易だったのである。もちろん、"株式会社制度"を外国から移植してきた以上、株主の存在は不可避だが、ここでも、"個人資本家"の役割は、"日本型市場経済体制"の形成過程の中で、一貫して低下してきた。株式のほとんどは他の会社によって、それも同一企業集団に属する他の会社による相互持合の形で保有されるようになったためである。しかし、自社株の所有や持株会社の設立は禁止されていた。したがって、戦後の日本の会社は、いわば互いに同輩としての関係に立つ会社同士で、互いに持合い、支えあってきたわけである。また、最終的な消費者という意味での"顧客"の役割も、日本の多くの会社、とりわけ大企業にとっては、それほど大きなものではない。日本の大企業のほとんどにとって、日々身近に接している"顧客"は、他の会社−−下請けやディーラー、あるいは銀行や商社−−なのである。

というわけで、会社の発展にとって何よりも大切なことは、すぐれた従業員を保有し、育成していくことである。そして、会社が発展すれば、その成果は、従業員の報酬の増大や地位(社内の地位はもちろん、社会的な地位も)という形で、従業員に還元される。したがって、会社はすぐれた従業員の雇用に努め、従業員は会社を自分と一体視しがちである。こうして、日本の会社では、従業員こそが会社の最も正統的な構成員、すなわち"社員"とよばれるのである。

会社の従業員は、とくに大企業の場合は、毎年同じ時期に、高校と大学(中学だけの卒業生は高度成長過程で事実上いなくなった)の卒業生がいっせいに採用されるという形で"入社"し、長期安定的な雇用関係と年功序列的な処遇を享受することが期待できた。労働組合は、企業別に組織された"企業内組合"としての特質を顕著にもち、概して会社の発展を第一義とする"労使協調路線"にたっていた。最も、会社が業界団体に組織されたように、組合もまた業界別の組織(全繊、全金属等)やさらにその上部団体としての全国組織(総評や総同盟等)を作ってはいたが、その基本的構成単位は、あくまでも縦割りの企業内組合であった。旋盤工や配管工が、職業別の組合を組織するという伝統は、日本にはついに確立しなかったのである。

入社して"社員"となった従業員は、基本的には職場でのOJTを通じて教育・訓練され、さまざまな職場や職種に配置替えされつつ昇進していくことが通常であった。会社が新たに必要とする人材は、短期的・個別的には"内部労働市場"を通じて社内から調達された。長期的・全体的には、新卒者の採用の数や構成を操作することで対処された。従業員の人事は、社長と人事部の機能的階層制によって、集権的に決定し実施された。

しかし、人事を別にすれば、経営上の主要な意思決定は、事業部別あるいは機能別の権限の縦割りと情報の分権的な処理・保有体制を前提とする分権的合議制によって行われることが通常であった。そうした意思決定にさいしては、日本の組織における権力の伝統的な行使のパタン、すなわちある部局が自らの欲することを他の部局に強制するというよりは、自らの欲しないことを他の部局によって強制されるのを拒否するという形、がみられることが多かった。

このような日本の会社を特徴づける言葉として、"従業員主権"とか、"人本主義"などといった言葉がもちいられる場合もあるが、それは多分言いすぎだろう。日本の企業が従業員の意向や福利厚生を重視したり、そのなるべく平等な処遇に努めたりすることは事実である。しかし、だからといって日本の企業が従業員によって"所有"あるいは"支配"されているとか、従業員の福利厚生が最優先されているとまではいえない。あくまでも、"会社あっての従業員"なのであって、その逆ではないのである。会社は従業員の解雇をなるべく避けようとはするが、会社の存亡にかかわるような逆境ともなれば、話は違ってこざるをえない。一九七〇年代の"資源危機"にさいして"減量経営"が叫ばれ、今また"終身雇用制の終焉"が叫ばれているのも、そのためである。

日本の会社の発展にとって、従業員についで大切な資源だとみなされているのは、他の会社である。それが日本だけの特徴というわけではないにしても、"日本型市場経済体制"の構成要素としての日本の会社は、相互に独立性の高い個別大企業を中核としながらも、戦前に発達していた財閥型の階層的な企業間関係とは性格を異にする、より横並び型の−−"同調と競合いのネットワーク"とでも呼ぶことが適切なような−−さまざまな会社間関係を発展させてきた。これらの会社間関係は、長期安定(固定)的な関係を志向していたという点では、戦前の財閥型の関係や戦後の雇用関係と似たところがある。

海外では“ケイレツ”と総称されている日本型市場経済体制の下での会社間関係には、次のようなさまざまな種類のものがある。

その一つは、いわゆる"企業集団"であって、これは銀行や商社のような対企業サービス機能をはたす企業を中核としつつ、相互の株式持合によって支えられた、二〇世紀システムでの主導産業に属する大企業群の、間接金融・間接販売のためのネットワークである。いま一つは、いわゆる"企業系列"であって、これは組織の肥大化の防止や企業間格差(賃金等)の利用を目的として形成された"日本型アウトソーシング"のネットワークである。企業系列の多くは、メーカーが中心となって部品を生産する下請けや子会社を組織した“生産系列”か、流通を担当する卸・小売業者を組織した“流通系列”であった。もっとも、これらの企業系列の中心に位置していたメーカー自身は、その顧客との関係では、少数の製品の生産に特化するというよりは、その産業のすべての製品をもれなく供給するという"フルライン"主義に向かいがちであり、その帰結として経営体としての大規模化や、管理階層の重層化が進んだ。また、個別企業のレベルを超えた経済全体についてみても、自国で産出されない天然資源や農産物の輸入は別として、工業製品に関するかぎりは、国内での自給をめざす"フルセット型産業構造"の形成も、"日本型市場経済体制"の顕著な特質の一つであった。

さらに、個々の企業は、それぞれの属する(と監督官庁が認定した)産業において、通常は監督官庁の指導・示唆の下に、各種の工業会のような"業界団体"や、その連合体(経団連、日本商工会議所、全国農協等)を形成していった。また、監督官庁は、業界団体を主要な構成メンバーとして、それに労働団体や消費者団体、あるいは学者、ジャーナリスト、官庁OBなど各種の"有識者"をも加えた"審議会"を組織することによって、業界をとりまく環境の状況や業界の未来の発展のビジョンについての共通認識や、業界を支援・指導するための政策などの、形成のための仕組みを構築していた。しかし、それと同時に、とくに有力企業の場合は、東京に本社をおいて、中央政府や海外の企業や政府機関との個別の結びつきを強めようとする傾向も、年と共に強くなっていた。

第三節:日本型市場経済体制の評価

上にその構造的特徴を略述した日本型市場経済体制は、どのような機能上の特質、すなわち実績を示しただろうか。ここでは、とりあえず、日本の近代化の第二段階の終わりにあたる一九七〇年代半ばの状況との関連で、その評価を試みるにとどめよう。

まず、この体制に期待されていた二つの大きな成果−−急速な経済発展を通じた先進産業国への追いつきと、その果実のなるべく平等な配分−−には、めざましいものがあったといってよいだろう。戦後日本の"高度経済成長"は、復興の完了した一九五〇年代の半ばごろからすでに開始され、一九七〇年代の前半まで、約二〇年にわたって持続した。この間、日本経済の発展の中核となった大企業群は、低いコストで品質の良い製品を内外の市場に大量に供給することを可能にした。そのことは、少なくとも卸売物価に関するかぎり、物価の長期的な安定をもたらした。会社主義の成功は、従業員の会社との一体感や社会的な統合を高めることに役だった。主として賃金やサービス価格の上昇に起因する年間数%の消費者物価の上昇は、高度成長の果実を低生産性部門にも平等に配分するための、強力なテコとして作用した。

こうして、日本経済は、明治百年にあたる一九六八年には、GNPで西独(当時)を抜いて自由世界第二位の座を占めた。一人あたり国民所得でも、近代化の第二段階の終わりにあたる一九七五年までに、西独やフランスにはなお遠く及ばなかったにしても、イタリアやイギリスはすでに抜きさっていた。各種耐久消費財の普及はやや遅れたものの、一九八〇年代には他の先進国と比肩しうる水準に達した。他方、住宅や下水道等生活関連社会資本の整備は、依然として遅れがめだっている。明らかに経済成長の果実が国民生活に還元されていく速度は、分野において遅速があった。しかし、所得や資産の分配の平等度という点でみると、賃金格差の小ささと高度に累進的な所得・相続税とがあいまって、日本の実績は他を圧していた。さらに、"クロヨン"とか"トーゴサン"などとよばれる職業別の所得捕捉率にみられたギャップは、結果的に、大都市サラリーマンと自営業者、そして農村居住者との間の所得格差の解消や社会的地位の平等化に貢献した。また、日本の大都市が、清潔さや安全、あるいは公共交通機関の整備等の面では、世界に冠たる住みやすさを実現したのに対し、農村部は、広くて快適な住居や自動車の普及などでは、大都市を凌駕した。四十年近くもつづいた自民党の一党支配は、政治の停滞と腐敗をも生みはしたものの、政治的安定という貴重な成果をもたらした。冷戦構造の下での日米同盟関係の堅持も、平和の確保のこの上ない保障となった。概していえば、戦後の日本は、安定した国際・国内政治の枠組みの中で、豊かで平等で安全な社会を建設することに成功したのである。残る格差も、国民の競争意欲をかきたてたり、ある種の階層的な社会秩序の維持に役だったりしたという意味では、積極的な意味をもっていたとさえ評価できるだろう。

しかし、急速な経済発展には光だけでなく影もともなっていた。最初に明らかになった影は、高度成長が自然や人間に及ぼしたマイナスの影響、すなわち公害問題の発生であった。一九七〇年代の初めまでには、公害問題の深刻さは広く認識されるところとなり、"公害先進国"と揶揄されるようになった日本は、"くたばれGNP"といった罵声のとどろく中で、急遽環境庁を設置(1971年)するなど、官民をあげた公害対策に乗りだした。その成果はかなりよく実って、今日の日本は、"公害対策先進国"という評価を世界的に得ているといってよいだろう。

もう一つの影は、文化や社会の伝統の喪失・破壊である。今では失われてしまった古い風習や文化財、あるいは伝統的な農村共同体秩序などを、野蛮で遅れたものというよりは、古き良きものとみなして惜しむ声は、日本の内外にけっして小さくはない。とはいえ、他方では新しい行動形態や財・サービスあるいは社会秩序もまた生まれてきたことを併せて考えるならば、その利害得失を総合的に、ましていわんや"客観的"に評価することは、ほとんど不可能だろう。ここでは、若い世代の間に、すでに失われたものや今なお存続しているものをも含めて、さまざまな伝統を再評価し再発見しようとする動きも少なからずみられるという事実だけを指摘しておきたい。

それ以外にも、経済成長のマイナスの副産物とみなすべきものは少なくない。たとえば、平等化のゆきすぎがもたらしている"悪平等"や"逆差別"といった現象もある。あるいは、平等化の配慮が充分に及ばないで、むしろしわ寄せの被害者となっている"政治的弱者"のグループもある。たとえば、生産者に対する消費者、若者に対する中高年、大企業に対する中小の下請け、国内企業に対する外国企業などの中に、その種の犠牲者とされているケースが間々見られる。とりわけ"消費者"に対する経済成長の量質両面での成果−−高い所得、低い物価、職業や財・サービスの広汎な選択の自由等−−の配分の遅れは、"日本型市場経済体制"の基本的特色が"生産者"の優先にあるだけに、重大な問題である。ともあれ、日本がこうしたマイナスの副産物への対処に失敗すれば、やがては国の内外でさまざまな不満が高まり、摩擦や紛争の発生をみることになるだろう。現に、対外経済摩擦は、それがすでにあらわれている顕著な例である。

あるいはまた、かつては成功の原因として長所とみなされていたのが、今では成功の結果短所に転化したといわなければならない要因もあるだろう。たとえば、日本の教育制度は、二〇世紀の産業社会、とりわけそれへの"追いつき"過程に適した、平均して均質かつ良質な労働力の養成には、きわめてすぐれていた。だが逆に、平均値から大きく離れた優秀な人材の発掘や育成には、不向きな制度であった。(もちろん、それは日本の教育制度だけの責任ではない。それを取りまく日本の社会システム全体が、同様な特質を通有しているというべきだろう。)このような制度や社会システムは、追いつきの時代には適合していても、前人未踏の新しい突破がさまざまな分野で必要とされている時代には、はなはだ不向きである。

さらにいえば、ある時点までは長所たりえた特質でも、状況の変化を無視してそれに固執したり、あるいは過度に追求したりすると、欠陥に転化してしまうものもあるだろう。たとえば、従業員・会社・業界・自国中心主義などとよばれるような行動や制度上の特質は、ある範囲内であれば、人間重視の慣行だとか、協力精神をはぐくむ制度だとして賞賛の対象になりうるだろうが、行きすぎると閉鎖的なエゴイズムの責めをまぬがれない。意思決定にさいして"一致"を重視する慣行には利点もあろうが、機動的な意思決定を困難にする硬直性があることも否定できない。

しかし、そうした問題が、現実に深刻味を帯びてくるのは、成功したシステムを取り巻く環境条件が大きく変化してしまって、もはやそれまでの手法が有効ではなくなってしまう時である。"日本型市場経済体制"は、一九七〇年代の後半以来、まさにそのような状況に直面し始めている。最初に述べたように、世界の産業は、今や第三次産業革命の渦中にあり、"産業化の二一世紀システム"への突破を試みようとしている。そればかりか、富よりは"智(知的影響力)"の獲得を主たる動機として活動する集団(智業)が急速に勃興しつつあるという意味では、産業化そのものを超える"情報化"(あるいは"智業化")への突破の試みも、広く見られる。しかし、過去の経験に照らせば、日本は、"追いつき"には得意であっても未踏の領域をめざす"突破"は不得手なように思われる。近年、産業化の二十世紀システムに適合した"日本型経済体制"の抜本的改革の必要が叫ばれながらも、現実の改革は遅々として進んでいないのは、そのためかもしれない。突破のための新体制の構築は、いつごろ、いかにして可能となるのであろうか。

主要参考文献

付記:

本稿は、筆者が主査として参加した社団法人日本経済調査協議会の報告書「日本型市場経済体制の針路」のためのたたき台として執筆した原稿の一部を、手直ししたものである。なお、今回は紙幅の制約のため明示的な議論はできなかったが、本稿で記述したような日本型市場経済体制の文化的基盤には、浜口恵俊らのいう日本の"間人・間柄主義"文化があることはいうまでもない。そのことは、日本近代化の第三段階に構築されると思われる新たな経済体制についても同様であろう。経済体制は、"文化"というよりは"文明"のレベルに属する。"文化"が、ほとんど無意識のうちに習得・伝達される世界観・価値観のシステムだとすれば、"文明"は、人々が文化の制約を受けつつ環境への適応や主体的意思の発揮をめざして意識的に構築・維持しようとする制度や文物のシステム(社会システム)なのである。その意味では、基盤としての日本文化の特質を無視した新体制を構想しても、その実現は困難であろう。(1995年8月)

要約:

一九三〇年代に始まり一九六〇年代に一応の完成をみた"日本型市場経済体制"は、産業化の後発国が多く採用してきた"開発主義体制"の一種であって、行政官僚による中央集権的・省庁分立的な統治の枠組み("官治主義")の中での"産業国事主義"的な経済運営の政策・制度の体系と、その下での分権的な"会社主義"の企業体制とからなりたっている。この体制は、当初は総力戦に備えるべく構築されたが、敗戦後は、冷戦構造に適応した"一国平和・繁栄主義"を事実上の理念として、重化学工業を基盤としつつ耐久消費財の加工組み立て型の大量生産を行う"産業化の二十世紀システム"に追いつくための編成がえがなされた。その過程で、日本の経済体制は、意図的には欧米の制度や技術の受容に努めながらも、結果的には自己の文化伝統にも適合したものとなった。

この"日本型市場経済体制"は、その目標であった"産業化の二十世紀システム"への追いつきを、一九七〇年ごろまでに達成した。しかし、その後にはじまった"情報革命"とよばれる新たな技術革新や産業・社会組織の大きな変化に、あるいは"地球問題"と総称されるグローバルな環境・資源・人口問題や政治・経済・社会問題には、有効に対応できないでいる。現実にも、さまざまな局所的で自生的な変化は、すでに一九七〇年代の後半から広くみられるようになってはいるが、充分な対応のためには、より全面的で自覚的な改革が必要とされよう。

しかし、そのことは、既存のシステムの特質のすべてを捨てたり変えたりすることを意味しない。改革を迫られているのは、日本の経済体制だけではない。既存のあらゆる経済体制がそうである。その意味では、日本人は、新しい構造や行動を模索したり、他国のそれから学んだりすることに努めると同時に、普遍妥当性をもつと思われる日本的な特質については、それを自覚的に維持すると同時に、その世界的な普及をもはかるべきであろう。いま必要とされているのは、異なる社会の間のグローバルな交流と協働に基づく、相互の文化の理解と文明の受容の努力に他ならないからである。