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1995年 9月16 日

「新しい産業革命」

高知新聞

公文俊平

二十世紀末の世界は今、新しい産業革命の時代を迎えている。これは、十八世紀末の最初の産業革命と十九世紀末の第二次産業革命に続く、三度目の産業革命である。

 最初の産業革命を主導したのは、蒸気機関とそれで動く鉄製の機械、そして綿工業に代表される軽工業だった。二度目の産業革命は、石油と電力という新エネルギー源を利用した各種の機械と、化学合成物質などの新素材とを生み出した、重化学工業が主導した。今日の第三次産業革命を主導しているのは、情報通信産業、すなわち、情報処理機械としてのコンピューターと、その中に貯蔵・加工され、その間を移動する、ディジタル化された多種多様な情報である。

 過去二十年の間に、コンピューターの世界には、二つの大きな変化が生じた。コンピューターの分散化と協調化がそれだ。

コンピューターはまず小さくなり、安くなると同時に、高機能化した。コンピューティングの力は、パソコンの形をとって、いたるところに分散した。今のパソコンは、一昔前の大型機を越える能力をもつ。近い将来、一台のパソコンは今のスーパーコンピューターの何台分もの働きをするようになるだろう。

そのパソコンはさらに、ネットワークを作って互いに結びつき、通信や協働作業を行うようになった。個々の局地的なネットワーク同士がまたお互いに結びついて、広域的なネットワークが作られるようになった。「インターネット」、つまりコンピューターのネットワークのネットワークが、ここに出現したのである。いったん分散したコンピューターは、再度連結されることによって、その能力を飛躍的に拡大させた。

インターネットは、過去数年、年々倍増する勢いで成長を続けている。この勢いは、まだ当分は減速することなく持続し、今世紀の終わりまでには、インターネットは世界の主要地域をすべてカバーし、そのユーザーの数も数億人にのぼると予想されている。

インターネットには何ができるのか。そこでは、文字、音声、画像などの情報が、すべてディジタル情報の形で一元的に、高速でしかも正確に、そして容易でしかも安価に処理される。これは、人々の相互交流 (コミュニケーション) 能力を一段と高める。相互交流が効果的に行えるようになると、協働 (コラボレーション) もまたしやすくなる。インターネットは、世界中の人々が、情報や知識を互いに分け合い、お互いの感性や価値観を知り合い、共通の目的のために協働する場として機能するようになった。私は、そのような場のことを、商取引の場としての「市場」に対比して、「智場」と呼んでいるが、この言葉を使えば、インターネットまさに今、グローバルな電子智場として爆発的に成長し始めたのである。

 近年、政府機関でも営利企業でもない新しいタイプの組織活動が、世界的に広がりを見せている。活動の分野も、環境保全や平和運動、人権擁護や差別撤廃など、多岐にわたっている。ますます多くの人々が、職業としてあるいは賃金を得るためにというよりは、ボランティアーとして、そうした組織に加わって活動するようになっている。

 これらの新しい組織は、それを表す適当な言葉がないために、NGO(非政府組織)とか、NPO(非営利組織)などと呼ばれている。しかし、これらの組織やそれに参加している人々は、自分たちが正しい、善い、美しいと思うことを、世の中に拡げるために活動している。自分たちとは違った考えをもつ人々と交流して説得し、人々の行動を変えさせようとしている。それを通じて、自分たちの組織やその活動のもつ影響力を、知・情・意のすべての面で拡大しようとしている。私は、そのような組織のことを、営利を目的とする「企業」に対比して、「智業」と呼んでいる。先にみた智場は、第一義的には、この智業の活動の場だというべきだろう。

しかし、智場の役割はそれにとどまらない。丁度、これまでの資本主義社会では、商取引の場としての市場の中に、それ以外のさまざまな社会的な関係や資源が「金で買える」ものとして取り込まれていったように、「智本主義社会」とでも呼ぶべきこれからの社会では、相互説得の場、ないしは交流と協働の場としての智場の中に、それ以外のさまざまな社会的な関係や資源が「説得によって入手できる」ものとして取り込まれていくに違いない。その最たるものが、これまでの商取引であり、マスメディアだろう。

昨年の秋ごろから、ひところのマルチメディア・ブームにかわって、インターネット・ブームが起こりはじめた。そして今、世間の話題は「電子商取引」、それもインターネットを利用したビジネス、に向かっているようだ。これは、今日のいわゆる情報革命が情報産業革命としての側面をもっていることに、人々があらためて気づいたからではないか。

つまり、情報産業革命に対処しようとすれば、既存の産業や企業は、新しい情報通信技術を自らのものにしていかなければならない。また、ここでいう電子智場を、電子市場としても利用するための仕組みやノウハウを開発しなければならない。そのことは実は、企業の価値観や行動様式から組織原理にまで、まさに革命的といいたくなるほどの大きな変化が要求されていることを意味する。

たとえば、グローバルな電子智場の中に新たな活躍と発展の場を求めようとする企業は、文書や帳票の処理から、企業の内外での通信の手順や方式について、新しいグローバルな標準を確立するか、それに準拠していかなくてはならない。これまで、EDIとかCALSといった言葉で呼ばれ、進められてきた標準化の試みに対して、インターネットの普及という新たな状況を前提とした上で、もう一度強い関心がよせられ始めたのは、そのためである。加えて、これまでの伝統的な交流と協働の場としての企業組織や産業組織−−日本でいえば、「日本的経営」や「系列」−−のあり方自体も、あらためて見直してみる必要がある。近年のアメリカで唱導されてきた、企業の「リエンジニアリング」とか「企業統合(EI)」の理念は、そのための指導理念にほかならない。こうして、これまでの階層的な大企業組織や垂直統合型のコングロマリットは、続々と解体・再編成されている。それにかわって、経営の階層を減らし、従業員の所属や勤務場所についても柔軟性をもたせるようにしたネットワーク型の企業組織や、企業間、とりわけ異業種の企業間の交流と協働のシステムが生まれている。それが行き着くところにあるのが、アメリカ人たちのいう「サイバースペース」(私の言葉でいえば電子智場)の中での、新しい企業の形としての「バーチャル企業(VC)」や、新しいビジネスの形としての「電子商取引(EC)」なのだ。

これまでのマスメディアも、こうした大きな変化の流れから無関係でいるわけにはいかない。すでに新聞の編集やテレビの番組の制作に、情報技術やネットワーク技術は広く利用されるようになっている。ほとんどの新聞記者は、鉛筆で記事をなぐり書きしていた新聞「記者」から、ワープロを打鍵する新聞「打者」に変わってしまったといわれる。組版や印刷の業務も、情報技術の導入によってその様相は一変した。各国の主要な新聞社や雑誌社は、インターネットの上で自社の情報や記事を提供するための「ホームページ」を、続々と開設している。さすがに、新聞「紙」そのものの発行を止めてしまって、すべてをオンラインで提供することに踏み切った新聞社はまだごく少ないが、新聞紙の大量消費が引き起こす環境問題の深刻さを考えると、いずれはほとんどの新聞は、電子ネットワークの上で提供されるようになるのが、時代の趨勢というものだろう。今の紙以上に見やすいディスプレー・パネルの技術が開発されれば、その傾向はさらに加速されるだろう。(今でも、視力の衰えた私などは、文字の大きさや書体を自分で変えることができるオンラインの記事や文書に頼る度合いが、日増しに大きくなっている。)

つまり、出版や新聞や放送のようにそれぞれ特化した「マスメディア」が今日受け持っている「マス・コミュニケーション」機能は、いずれはそのほとんどすべてが、統合メディアとしてのコンピューターのネットワークによって担われることになっていくだろう。また、それと共に、「マス・コミュニケーション」という機能のありかた自体が、質的に変わっていくだろう。今日のマス・コミュニケーションは、社会の中のごく少数の人々が、発信される情報の内容や発信の方式を統制している。その最も極端な姿が、一個の組織(さらには一人の個人)が、マス・コミュニケーションのすべてを支配し統括する全体主義社会のそれである。20世紀の社会が発展させてきた「マスメディア」は、実は、マス・コミュニケーションの全体主義的な統制にも、よくなじむ形のメディアだった。

それに対し、今急速に拡がっているインターネット型のメディアは、分散協調型のメディアとしての性格が著しい。いいかえればそれは、だれでもが不特定多数の人々を対象とした情報の公開や発信を行えるようにする、すぐれて民主主義的なメディアなのだ。

しかも今日のマスメディアの場合、情報の受け手にとっての選択可能な範囲は、ごく限られている。たかだか講読する新聞をかえたり、テレビのチャネルを切りかえたりできるにすぎない。人々は、基本的に情報の受動的な受け手にとどまっている。ところが、インターネット型のメディアでは、双方向のコミュニケーションが対等な形で可能なので、情報の受け手は、出し手に対して批評や要求を自由にすることができる。あるいは、自分で積極的にさまざまなネットワークの中を渡り歩いて、自分に興味のある情報、必要とする情報を捜しだして取ってくることができる。さらに今後は、そうした情報探索や入手を、「エージェント」と呼ばれるソフトウエアに代行させたり、提供される情報の内容や形を、相手のサーバーに要求して自分の望むように「ダイナミック」に編集して提供させたりすることもできるようになるだろう。

このように見てくると、今日の「メディア革命」には、いくつもの側面が含まれていることに気づく。私はその中でも、情報の自由な公開と入手をその特徴とするコミュニケーション方式の普及のことを、「パブリック・コミュニケーション革命」と呼んでいる。未来の情報社会では、これまでのマス・コミュニケーションの少なからぬ部分、とりわけその周辺部分は、パブリック・コミュニケーションによって置き換えられていくだろう。インターネットは、本来的には、この意味でのパブリック・コミュニケーションのためのメディアなのである。

それでは、今後は新聞は姿を消していくのだろうか。いや、それはありえないと思う。なるほど、「新聞紙」はなくなるかもしれないが、新聞がこれまで担ってきたマス・コミュニケーション機能の中核にあたる部分は、依然として残り続けるだろう。私は、次の二つがその中核部分にあたると思う。

その第一は、個々の主体、とりわけ政府や企業が自分では公開する気がないが、公衆にとっては知る価値があると考えられる情報を、新聞が自らの責任と力で取材し、報道することである。

その第二は、できれば知りたい、あるいは公開したいと思っても、自分の力では容易に入手したり適時適切に公開できなかったりする情報を、新聞が自ら入手して、広く提供すること、あるいは提供を代行することである。その中には、すでに公開されている情報の所在や評価に関する情報も含まれる。

もちろん、そうした情報を提供するのは、新聞だけの仕事とは限らない。それは放送や出版業の仕事の一部でもある。実際、各種のコミュニケーション・メディアが統合されて行くこれからの時代には、新聞と放送、あるいは新聞とその他の出版を形の上で区別することは、次第に無意味になっていくかもしれない。しかし、右にあげた意味でのマス・コミュニケーションの中核機能への社会的なニーズがなくなることは決してなく、それに応えるためのプロフェッショナルの集団の果たすべき役割もまた、社会的に重要な役割として残り続けるだろう。逆に、新聞がそうしたニーズに応えることを自らの本分として努力して行かない限り、新聞の存続理由はなくなってしまうだろう。