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96年6月10日

「現代のハイパー」

韓国講演会 記録

公文俊平

私は日本の Institute for Hypernetwork Society という研究所の所長を務めているので、「ハイパー」という言葉には強い関心をもっている。もともと、hypernetworkという言葉自体、1991年に私達の仲間の一人が作った言葉だ。私達は、日本における「ハイパーネットワーク社会」とは、伝統的に「ネットワーク社会」としての特徴をもつ日本社会が、今日の情報革命の成果を取り入れて自らを再組織していくところに出現する、グローバルな普遍妥当性をより強くもった社会を指す、と考えている。実際、21世紀の世界の諸社会は、「ハイパーネットワーク社会」としての特徴をさまざまな面で通有している社会になることだろう。

私のいう「ネットワーク社会」とは、社会の成員の間の相互制御行為 (つまり広義の政治行為) が、主として persuasion を通じて行われる社会である。Kenneth BouldingやKenneth Galbraith が指摘しているように、広義の政治行為には、国家が多用するthreatや、企業が多用する exchange などがあるが、これからの情報社会では、どこでも pesuasionが社会的相互行為の中に占める比重は高まっていくと思われる。

この意味でのネットワーク社会が存続・発展しうるためには、 pesuasionが有効に機能しなければならない。そのためには社会の成員の間に、あらかじめ大量の情報や知識、およびそれらを理解し評価するための枠組みが通有されると共に、それに基づく相互の理解と信頼の関係が成立していることが必要だろう。つまり、ネットワーク社会は、人類学者のエドワード・ホールのいう「high-context culture」をもっていなければならない。さらに、high-context cultureを作りだし、維持していくためには、社会の成員の間に、双方向の緊密なコミュニケーションが効果的に行われている必要がある。また、そうしたコミュニケーションに基づく、さまざまなコラボレーションが効果的に行われている必要がある。今日の情報革命は、まさに人々の間のコミュニケーションとコラボレーションを効果的に実現させるための、強力な社会的手段を提供しつつある。その結果として、文化の high-context 化とでも呼ぶことのできる傾向が、情報社会には拡がっていくだろう。あるいは、既存の low-context文化のストックを、緊密で効果的なコミュニケーションやコラボレーションのフローによって、とりあえず代替・補完していくことが可能になるだろう。

情報革命がもたらすハイパーネットワーク社会は、過去のネットワーク社会 (たとえば、これまでの日本社会) に比べると、外に対してより開かれた、透明性の高い社会、自らの内部だけでなく外部の社会との間にも緊密なコミュニケーションやコラボレーションの関係を展開していく社会、になることだろう。私達は、未来の日本社会が--その点でいえば、日本だけでなくすべての社会が--まさにこの意味でのハイパーネットワーク社会になることを期待している。

しかし、いま生まれつつある情報社会の特質は、以上に述べたような「ハイパーネットワーク社会」としてのそれにとどまらない。情報社会は、基本的にはこれまでの近代社会と連続した社会なのだが、同時にいくつもの意味で「ハイパー」な近代社会なのである。ここでは、「今日の "ハイパー" 」を、次の六つの点について定義してみることにしよう。

  1. ハイパー産業社会。今日急速に進行中の情報技術の革新には、明らかに、過去の技術革新とは不連続な側面がある。技術の "パラダイム・チェンジ" に伴って、経営や産業や雇用にも新しいパラダイムが生まれつつある。20世紀の大企業体制に代わって、「オープン型経営」とか「バーチャル・コーポレーション」などと呼ばれる新しい経営体制が構想されている。 "マルチメディア" と総称される21世紀の新しい主導メガ産業が出現してくる過程で、未来の産業組織は、「プラットフォーム型」に転換していくだろうという予想もされている。フレックス・タイムやテレコミューティングが普及したばかりか、派遣社員やフリーターのような雇用形態も拡がっている。人々は、何時、どこで、誰のために働くかについての、自分自身の選択の機会や余地を、大きく拡げ始めたのである。こうした一連の変化は、まさに産業革命と呼ぶことがふさわしい。20世紀末の今日、18世紀末の第一次産業革命 (軽工業革命) 、19世紀末の第二次産業革命 (重化学工業革命) に続く、第三次産業革命 (情報産業革命) が始まっている。

    新たな産業革命の勃発によって区切られるそれぞれの百年は、前半五十年の「突破局面」と後半五十年の「成熟局面」に大別してみることができる。現在は、1970年代半ばから始まった第三次産業革命の突破局面が、漸くその加速化の時期を迎えようとしているところであり、産業革命の到来という事実が誰の目にも明らかになりつつある時期だといってよいだろう。つまり、第三次産業革命がその成熟局面に入るのは、いいかえれば本格的な「ハイパー産業社会」の構築が完成するのは、まだまだ何十年か先のことだと思われる。さらにいえば、われわれの前には、過去の産業社会が未だ経験したことのない質と規模での、持続的な高度経済成長の時代が待っているのである。

  2. ハイパー近代社会とハイパー進歩主義。そればかりではない。今日の情報革命あるいは情報化には、過去の産業化それ自体に匹敵する大きな社会革命としての側面がある。進歩や発展が可能だという信念の普及によって特徴づけられる近代社会は、その進化の過程で、軍事革命を通じて近代主権国家(modern sovereign states) を生み出した。国家主権の観念に立脚する近代主権国家は、国際社会を舞台として、国威の増進をめざして互いに競争した。近代社会はまた、産業革命を通じて近代産業企業(modern industrial enterprises) を生み出した。私有財産権の観念に立脚する近代産業企業は、世界市場を舞台として、富の蓄積をめざして互いに競争した。そして今、近代社会は、情報革命を通じて近代情報智業(modern information intelprises)とでも呼ぶべき、近代第三のタイプの社会的主体群を生み出しつつある。近代情報智業は、国家主権や私有財産権とは性格の異なる「情報権」の観念に立脚し、地球智場(global intelplace) とでも呼ぶべき情報や知識の普及の場を舞台として、智(wisdom)、すなわち知的影響力の獲得をめざして互いに競争し始めている。この意味での地球智場の今日における具体的な形が、インターネットに他ならない。世間ではNGO あるいはNPO などと呼ばれているこれらの近代情報智業は、同時に、旧来の智業、すなわち大学や学会、芸術団体やスポーツ組織とも、競争あるいは対立関係に立とうとしている。

    このように見るならば、情報化は、産業化を超える社会変化ではあっても、近代化を超えるものでは必ずしもない。むしろ、情報化は、近代化をその第三の段階に進めるものであり、その結果は「ポスト近代社会」ならぬ「ハイパー近代社会」の出現であろう。あるいは、近代を特徴づけている「進歩主義」は、まだまだしばらくは完全に否定されることはなかろう。否定されるのは、理想的な秩序とそれに至る経路が一義的に確定可能と考える旧型の進歩主義であって、これからの「ハイパー進歩主義」は、理想的な秩序もそれに至る経路も決して一義的に確定することはできず、人間は不確定な未来に向かって、現状の絶えざる改善をめざして多面的な努力を続ける存在だという考え方にたつものになるだろう。

  3. ハイパー市民としてのネティズンとハイパー・コミュニケーション。産業社会を支えたのが都市に住んで商工業に従事する市民たちであったように、情報社会は、ネットワークに住んで智業、すなわち知識や情報の普及活動に従事するネットワーク・市民、すなわちネティズンによって支えられることになるだろう。もちろん、産業社会の到来以前にも、旧社会の三つの身分 (聖職者、軍人、市民) の一つとしての市民身分があったように、情報社会の到来以前にも、いわば旧式の智業に従事する在来型のネティズン、つまり "知識人" は存在していた。しかし、今日の新型のネティズンたちは、コンピューターとそのネットワーク、とりわけインターネットを積極的に利用して智業に従事する。あるいは、コミュニケーションやコラボレーションを行う。それと共に、20世紀に支配的であった、マス・コミュニケーションとパーソナル・コミュニケーションに代表される個人指向型のコミュニケーションのパラダイムは、コミュニティ指向型の新しいコミュニケーションのパラダイムによって置き換えられていくだろう。こうして出現する「ハイパー・コミュニケーション」の形態は、「パブリック・コミュニケーション」と「グループ・コミュニケーション」にひとまず分けてみることができる。前者は、人々が、自分の公開したいと思う情報を、いわば控えめな形で自分のサーバーの上において、公衆の自由なアクセスやダウンロードを許すものである。WWW のホームページがその典型的なものである。マス・コミュニケーションとの違いは、一方では発信者の数の多さと発信の仕方の控えめさに、他方では受信者の積極的な情報探索・入手行動に見いだすことができる。また後者は、グループの中での緊密なコラボレーションの支援を目的とする双方向型のコミュニケーションであって、電子メールや電子会議、あるいは各種のグループウエアの利用によって特徴づけられている。恐らくそう遠くない将来に、これらのハイパー・コミュニケーションのほとんどは、インターネットの上での統合されたアプリケーションを通じて、行われるようになっていくだろう。それに伴って、これまでの広告・宣伝業や編集・出版業は、ハイパー・コミュニケーションの支援産業にその姿を変えていくだろう。

    第二次産業革命の成熟局面では、乗用車と家電、とりわけテレビが、広く大衆に普及した。人々は、物理的な移動については、自らがドライバーとして積極的に行動する一方、情報生活の面では受動的なカウチポテトにとどまるライフスタイルを選択した。しかし、21世紀のネティズンたちの選ぶライフスタイルは、おそらくその逆の形のものになりそうだ。つまり、物理的な移動についてはより控えめとなり、実際に移動する場合でも公衆輸送機関に依存する度合いを強める一方、情報通信機器の使用にあたっては、より積極的なオペレーターとして行動するというライフスタイルを選ぶだろう。そうだとすれば、未来の「情報家電」は、ネティズンのこうしたライフスタイルの変化に則した機能をもつものにならなくてはならない。

  4. 智場がプラットフォームとなるハイパー市場。これまでの産業社会では、市場での取引活動がそれ以外の社会活動にとってのプラットフォームとなる傾向があった。その結果、良くも悪くも、教育や医療は営利事業となり、政治は金権政治となっていった。産業化の特に初期にあっては、近代国家と産業企業の間に協働関係が成立して、国家は企業の安全を保障して、企業が営利活動に専念できるようにした。企業は国家のために税金を支払うと同時に、国家が必要とする優秀な武器を含む各種の財やサービスを供給した。

    同様に、これからの情報社会では、智場での説得活動がそれ以外の社会活動、とりわけ国家や企業の活動にとってのプラットフォームとなる傾向が強くなっていくだろう。国家の統治行為は、官民の相互信頼を前提とした国民との緊密な双方向のコミュニケーションなしには、ますます困難になっていくだろう。企業の営業活動も、顧客やベンダーの説得に、あるいは双方向のコミュニケーションに依存する度合いが、ますます強まっていくだろう。つまり、統治やビジネスは、智業との協働に支えられて展開していくことになるだろう。とりわけ、既成の国家の財政難がますます深刻になる情報化の初期にあっては、企業・智業協働関係が、極めて重要になってくる。すなわち、個々の企業は、自らの判断と責任において、さまざまな智業を経済的に支援して、智業が情報や知識の産出と普及に専念できるようにしなければならない。智業は智業で、企業が必要とする情報や知識の提供を惜しんではならない。ただし、そうした協働関係が、特定の企業と特定の智業の "癒着" に陥らないような、協働環境の整備、とりわけ公正なルールの制定と執行とが必要とされよう。

    智場が市場のプラットフォームとなり、その上で企業と智業の協働関係が展開されていく傾向については、やや違った角度から議論してみることもできる。すでにコンピューターのソフトウエアの世界では、少なからぬソフトウエアが、まずフリーウエアないしシェアウエアとして一般に提供されている。その中にはやがて商品として市販されるものもでてくる。その過程で、ソフトウエアの開発者はユーザーとの間のコミュニケーションを行って、ユーザーの反応を知ったり、バグの所在を指摘されたり、追加すべき機能についての要望を聞いたりする。その結果が開発期間の短縮や開発・販売費用の削減につながるばかりか、ユーザーとの間に相互信頼関係が打ち立てられることが、後の商品化をめざす開発者にとっての貴重な資産となるのである。もちろんソフトウエアの中には、最後まで、フリーウエアあるいはシェアウエアのままで残るものも多い。それらは、商品として流通する比較的少数のソフトウエア群の基盤を形作っているとみなすこともできる。同じことは、インターネット上で提供されるさまざまな情報・知識についてもいえる。人々の協働作業によって構築され一般の使用に供される分散型データベースや、著作権フリーのディジタル・コンテンツが大量に存在してこそ、その基盤の上に、商品として流通する多様な情報財やサービス群もまた生まれ育っていくことができる。逆にありとあらゆる情報や知識に対して、著作権や知的所有権を主張して囲い込んでしまおうとする企業の行動は、情報や知識の市場の健全な発展にとっては、むしろ障害になるのではないだろうか。

  5. ハイパー生活領域。コンピューターが人類のために果たしている非常に有用な機能の一つは、人間を取り巻く生活環境の「シミュレーター」としての機能である。しかし、それにも増して重要な機能は、人間の観念に対してバーチャルなリアリティを付与する機能、すなわち観念の「バーチャライザー」としての機能である。それによって、コンピューターは、「サイバースペース」と呼ばれる新空間次元を、人類の生活領域に追加し、人類の生活をより豊かで多彩なものにしてくれている。振り返ってみれば、近代化とは、まさに人類の生活領域の拡大の過程に他ならなかった。軍事革命は、新大陸の発見を含むいわゆる「地理上の発見」と密接に関係していた。その結果、近代人は、無機的自然と有機的自然の両方を含む、この地球上の全地表空間を、自らの生活領域として獲得した。また、産業革命は、人類の生活領域に、「人工物空間」ないし「工学的空間」とでも呼ぶことができる新しい空間次元を付け加えた。都市に代表されるこの新たな生活領域では、人類の活動は人工の時間のリズムに従って、必要ならば人工の照明やエア・コンディショニングの下で、建築物から機械、工業製品から合成物質にいたる多種多様な人工物に囲まれて、昼夜や四季の区別を無視して、空中から海中・地中に至る三次元の物理的空間の中で展開されるようになった。しかし、工学的空間の中では、人間は物理法則を利用はできても無視することはできなかった。ところが今、情報革命によって、物理法則から自由な、物理的空間とは異なる次元の空間へと、人類の生活領域は拡大しようとしている。それがサイバースペースに他ならない。

    このサイバースペースは、人類自身が発見し構築していく新空間であると同時に、人類に開かれた新たなフロンティアでもある。サイバースペースは、現在のところほとんど無法地帯に等しく、その性質もほとんど明らかにされていない。この新空間を探検し、植民し、秩序を構築していくことが、今後数十年、いや数百年にわたる人類の課題となるだろう。その意味では、サイバースペースの発見の意義は、新大陸の発見や工業技術の発見に勝るとも劣らぬものがある。

    サイバースペースとのインターフェースは、今のところ人間の肉体というか感覚器官そのものなのだが、ウィリアム・ギブソンが予想したように、いずれは脳神経とサイバースペースを直結させることが可能になるだろう。しかし、よしんばそうなったところで、われわれは自分の肉体や物理的空間の制約から、完全に自由になることはできない。それは丁度、工学的空間といえども自然環境の制約から完全に自由にはなりえなかったのと同様である。今日の人類が環境問題の悪化という形で、自然空間から復讐されているように、サイバースペースにのめり込み過ぎた人間が、自らの肉体の制約によって復讐される日が来ないとも限らない。ハイパー生活領域の開拓にあたっては、自然空間や工学的空間とサイバースペースとの間の適切なバランスを保っていく配慮が、必要不可欠だろう。

  6. ハイパー世界秩序。サイバースペースをもその不可欠の一部として含む、未来の人類の拡大された生活領域を律する世界秩序は、どのような秩序軸から構成されることになるだろうか。近代世界はこれまで、もっぱら二つの秩序軸の上での理想的状態の達成をめざしていた。すなわち、国家にとっての平和と企業にとっての繁栄とがそれであった。20世紀のパクス・アメリカーナの下でのイデオロギーによれば、前者は民主主義的な政治秩序によって、後者は自由主義的な経済秩序によって達成されるものと考えられていた。未来の情報社会においても、平和と繁栄という理想は依然として理想でありつづけるだろう。しかし、その達成の手段が、民主主義と自由主義にのみ限られるかどうかについては、とりわけアジア地域に関していえば、論議の余地がありそうだ。だが、ここではその点の議論はおいて、むしろ、情報社会では、これまでの平和と繁栄を理想とする二つの秩序軸に加えて、楽しさ(pleasure)あるいは Ivan Illichのいう conviviality を理想とする第三の秩序軸が加わるべきことを強調したい。理想状態としての平和や繁栄には、他の理想の実現のための手段としての側面が含まれている。しかし、それに比べると、楽しさは、それ自体が目標とされる度合いがはるかに強い。今日急速にその数と影響力を増しているNGO やNPO-- 私の言葉で言えば智業--は、自らが正しい、善い、あるいは美しいと考える目標を実現しようとして行動しているといっていいだろう。それを別の言葉でいえば、そうすること自体が楽しいからであり、楽しく自分の好きなことができる状態を理想としている、といってよいのではないか。そして、楽しさを達成する手段となるのが、私の考えでは、開かれた情報秩序ないしコミュニケーション秩序に他ならない。つまり、私は、未来の「ハイパー世界秩序」として、平和を目指す政治、繁栄を目指す経済に加えて、楽しさを目指すコミュニケーションが、第三の秩序軸として追加されることを提案したいのである。もちろん、現実の世界には戦争もあれば不況もあるように、退屈で単調な状態はいくらでもある。しかし、楽しさの享受こそ生の積極的な意味に他ならないとすれば、少なくとも情報社会にとっての理想としては、平和と繁栄に並んで楽しさを掲げる意味はあるだろう。いや楽しさこそ、第一の理想として掲げられるべきだろう。そして、今の子供たちには、その最初の学習・教育過程の中で、平和な状態や豊かな状態だけでなく、楽しい状態の素晴らしさをこそまず十分に体験させ享受させ、その価値を心に銘記させておくようにしなければならないと思う。

以上が、私の考える「‘hyper' of today 」の諸相である。