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1996年12月5日

「ハイパー近代化を担うマルチメディア 」            
Multimedia As The Bearer of Hyper-modernization

Info Com Review Vol.9

公文俊平

要  約 

今日の情報革命は、新しい産業革命の開始と同時に、近代化過程そのものの新たな局面の開始として理解できる。それは同時に過去の市民革命に匹敵する政治革命をも伴う可能性がある。アメリカでいち早く始まった情報革命は、当初その歴史的な意味がよく理解されないまま、近視眼的な迷走の様相を示していたが、ここにきてようやく正確な展望とビジョンとが生まれ始めているように見える。            

1.はじめに

「近代」は、まだ決して終わってはいない。それどころか、近代化過程は今、情報革命を通じてより高次の局面に入ろうとしている。私はそれを、軍事化と産業化に続く近代化の第三局面としての「情報化」局面と呼んできたのだが、(1) 今振り返ってみると、この第三局面の評価がやや消極的に過ぎたように思う。多分私は、1970年代初めのローマクラブによる「成長の限界」論や、その後の米国の覇権の凋落、さらには70年代から80年代にかけての世界の長期不況などの影響を強く受けすぎていたのだろう。そのため、この局面で生ずる経済成長はそれほど大きなものではなく、近代文明の世界的な普及・拡大傾向もこの局面では逆転し、人口・資源・環境問題の制約がますます厳しくなっていくに違いないと考えがちだった。

しかし、それはどうやら早計にすぎたようだ。1990年代に入っての米国経済の成長ぶりや情報通信技術の発展ぶり、インターネットの爆発的とも言える普及、それに伴って起こっている英語(米語)の地球語としての地位の強化などを虚心に受け止めるならば、近代文明はその発展の限界に達したどころか、かつてなかったような新しい発展の時代を迎えようとしていると言わざるをえない。

もちろん、「情報化」はなによりもまず、これまでの「産業化」を超えるような人間の新しい活動形式−−私のいう「近代情報智業」−−の出現と普及を意味しており、その限りでは、これまでのような資本主義的な富の蓄積と誇示を目的とする近代産業企業間の競争の勢いは相対的に弱まるだろう。ましてや、近代主権国家の間で多年行われてきた国威の増進・発揚競争は国際社会での正統性を失い、ある論者が「新しい中世」と名付けたような、これまでとは異なる形の世界政治システムへの転換が生じつつあることも事実であろう。(2)

それにもかかわらず、近代主権国家の役割がすべて否定されるようなことは当分起こりそうにない。それどころか、これからの世界は、国民国家にとっての "黄金時代" に入りつつあるかもしれないと予想する論者さえいるほどである。(3) 同様に、グローバリゼーションの進行する世界では、近代産業企業もまたそれ自身の "黄金時代" を迎える可能性がある。物的な成長よりもサイバースペースの中での情報的な成長に主眼をおいた経済成長が、かつてなかったほどの速度で進展する可能性がある。さらに言えば、近代主権国家と近代産業企業が、近代情報智業との間に効果的な協働関係を構築することに成功して、近代文明が全体としてより一層着実に発展していくようになるのが、近代化の第三局面の特徴なのかもしれない。つまり、近代化過程は、この第三局面にいたって、近代文明本来の性格を最も良く現すことになるのではないだろうか。その結果、軍事化や産業化の受容に対しては抵抗を示したり困難を覚えたりした非近代文明圏の間にも、情報通信技術に代表される近代文明の諸要素のより広汎な普及が、今度こそ見られるようになるのかもしれない。近年のインターネットのグローバルな普及は、その一つの前兆だと言えそうだ。

私は、このような過程のことを、「ハイパー近代化」過程と呼んでみたい。「ハイパー」という形容詞を冠したのは、事物がその本性を基本的には維持したままで、その機能や性能を一段と向上させるという意味を示したいからである。つまり、今生じている大きな社会変化は、依然として

  1. 進歩の可能性を信じ、(4)
  2. 事実としての人間の思想や行動の自由を承認すると共に、
  3. そうした自由の発揮が進歩をもたらすと信じるような、

「近代的価値観(近代文化)」が、消滅するどころかより成熟した形をとり、より広い範囲に普及していくような近代化過程そのものの一部であって、「ポスト近代化」や「超近代化」のような近代化とは質的に異なる過程ではないのだと言いたいからである。

私はまた、この意味でのハイパー近代化を担うものこそ「マルチメディア」だと主張してみたい。ただし、ここで「マルチメディア」というのは、高度情報通信基盤が生み出す新たな生活空間としてのサイバースペースの中で展開される、人々の多彩なコミュニケーション活動の手段や内容の総体をさしている。

2.米国でのマルチメディアの動向

米国で、マルチメディアという言葉がある新しい意味内容を付与されて広く用いられるようになったのは、1991年から1992年にかけてのことだったといってよいだろう。(5) すなわち、

  1. 新しいデジタル情報通信技術によって構築される
  2. 全国情報通信基盤(NII)あるいは情報スーパーハイウエーと呼ばれる広帯域の情報通信ネットワークをプラットフォームとして展開される
  3. 21世紀の情報社会における主導産業としての地位を占める

新「メガ産業」のことが、「マルチメディア」と総称され始めたのである。

1993年初頭の民主党クリントン=ゴア政権の登場と共に、米国の民間情報通信産業は、情報スーパーハイウエーの構築とその上でのマルチメディア産業の展開の主導権を握るべく、「新ゴールドラッシュ」と呼ばれたほどの激しい競争を展開した。この新ゴールドラッシュは、1993年から1996年まで、少なくとも4年にわたって続いていると見られるが、この4年間は、前半の第1次と後半の第2次のゴールドラッシュに分けてみることができる。

2−1.第1次新ゴールドラッシュ(1993−94年)

第1次の新ゴールドラッシュの特徴は、次の三点にあった。

しかし、そうした試みは、技術的には未熟であり、消費者の需要も期待したほどには出てきそうもないことがやがて明らかになった。こうして、第1次新ゴールドラッシュは、1994年中に急速に終息に向かった。                                         2−2.第

2次新ゴールドラッシュ(1995−96年)

しかし、それで新ゴールドラッシュそのものが終わったのではない。1995年以来、新ゴールドラッシュは、再び新たな局面を迎えたということができる。この第2次新ゴールドラッシュの特徴は、次の三点にまとめることができる。

メトカーフはその後、分散協調的なシステムとしての特徴を顕著に持つインターネットの全体が崩壊するという予言は余りにも非現実的ではないかという批判に応えて、96年7月のアトランタ・オリンピックにさいして大量のトラフィックが集中する結果部分的な崩壊が起こる可能性があるという第二の予言を行ったが、この予言は明らかに当たらなかった。しかし、予言の当たらなかった理由は、インターネットが大量のトラフィックの集中に対処する能力を発揮しえたからではなくて、そもそもそれほど大量のトラフィックの集中が発生しなかったことにあった。メトカーフは、インターネットの能力の評価を誤ったのではなくて、インターネットのユーザーたちの行動様式の予測を誤ったのである。

2−3.インターネット利用の新局面への移行(1997−98)

メトカーフの予言の外れは、「ネティズン」と呼ばれるインターネットの現在のユーザーたちの多くが、巷間言われるほど軽薄な「ネット・サーファー」ではなかったことを意味しているのかもしれない。ダナ・ホフマンの調査によれば、ネティズンたちは、学歴、所得、政党支持などほとんどすべての面で、一般の市民と同じプロフィールの持ち主であり、唯一の違いは、どの年齢層でも投票率が優位に高い点にある。(8) つまり、今日のネティズンたちは、政治的に無関心な「オタク」族であるどころか、かつての市民革命に匹敵する「ネティズン革命」の主導勢力となるポテンシャルをすでに備え始めているように思われる。 (9)

同様に、企業もまた、インターネットへの一過性の流行に踊らされてばかりいるわけでもないようだ。現に、1995年の秋ごろから、インターネットのプロトコルやアプリケーションを企業内の情報システムに適用して、その再構築をはかろうとする「イントラネット」の普及が顕著に見られるようになっている。それは同時に、企業内のコミュニケーションのあり方や、企業の取引のフォーマット、さらには企業組織のあり方自体の真剣な反省や「ビジネス・プロセス・リエンジニアリング」の試みとリンクしている。ということは、「新ゴールドラッシュ」とか「インターネット・ブーム」などと呼ばれる喧騒と混乱の時期はほどなく終わりを告げて、恐らくは来年あたりから、企業も政府も市民(あるいはネティズン)たちも含めた、インターネットの着実な業務利用の試みが本格的に始まるということではないだろうか。

現に、アメリカの情報通信業界の内情をレポートし続けているあるオブザーバーは、1996年半ばの状況を次のように整理している。(10)すなわち、アメリカの高度情報通信インフラは、ある意味で現在すでに構築されてしまっている。なぜならば、電話回線の幹線部分は光ファイバーの供給過剰状態 (利用率は25% 程度) にあり、インターネットへの転用の余地は多分に残っている。さらに、企業の中央オフィスの80% 以上はすでに光ファイバーに接続済みだし、大都市ダウンタウンには、複数の光ファイバープロバイダー(MFSやテレポートなど)が存在して競争しているという状況からすれば、専用線による市内網も、大都市部分ではいつでも構築できる。さらに、専用線によるネットワーク網に、既存の通信回線から高速で接続するための技術も、地域電話会社はいよいよ実用化させ始めた。たとえば、HDSLは双方向384Kの回線速度を実現するが、そのチップは20ドル、端末は200 ドルの価格で、1997年には提供可能になる。回線自体もISDNより安く提供できる(USWest の場合) まず大都市では月60ドルで提供し、いずれ35ドルにまで下げていく予定だという。98年にはこれに電話サービスも含めるという。また、ADSLは下り6メガ、上り128Kの高速通信を可能にするが、ADSLフォーラムのマックスウエル委員長によれば、これは、端末さえ供給できれば実装可能なので、新たな回線敷設の問題は発生しない。したがって、急激な需要の爆発にも、端末の大量生産さえできれば十分対応でき、電話会社はすでに対応の構えをとっているという。これに加えて、インターネットの混雑と遅れ(latency) の問題も、幹線の高速化(MCI/BTの Concertが155 メガへの高速化を準備中) とIETFのRSVPプロトコルの発表によって、解決に向かっている。もちろんRSVPの実用化のためには、ルーターの高度化が必要だが、シスコ社がそれを提供することになり、MCI 社はこの九月からルーターの取り替えを開始するという。
同様な見通しは、ペンシルバニア大学のデービッド・ファーバーも示している。(11)彼の意見でも、現在の最大の課題は、インターネットの中核部分の高速化もさることながら、むしろ既存の電話やケーブルが担うアクセス網部分の高度化にある。その鍵を握っているのがXDSL、ケーブル・モデム、および移動体電話の広帯域化・高速化を実現するCDMAの技術である。

インターネットのビジネス利用、とりわけロータス・ノーツのようなグループウエアをインターネット上で利用する動きも、急速に拡がっている。今まではグループウエアに慣れたユーザーが少なかったが、今では、ロータス・ノーツ等を利用できるユーザーの数は、過去18カ月間に四倍になり、千万のオーダーになりつつあるという。さらに、インテル他12のコンピューター会社の協力でパソコン用のビデオ会議ソフトが年末から発売される (一台分が200 ドル) が、これが普及すれば、真のマルチメディアを企業と市民が電話線と同軸ケーブルで利用可能になるだろう。また、インテル社のMMXグラフィックス・ソフトウエア・命令セットをCPUに組み込み、これにクロマティックス社のチップによる三次元グラフィックス・アクセラレーター・カードとVRML2.0やJAVAのようなオーサリング・プラットフォームを加えるならば、企業の業務のマルチメディア化はさらに進むだろう。 (もちろん、ほとんどのオフィスや個人が光ファイバーに直結して、本格的なマルチメディア化が可能になるには、まだまだ8年や10年はかかるだろう。)(12)

3.今後の展望

しかもこうした動きは、いまや米国だけのものではなくなっている。たとえば、マレーシア政府は、この8月1日に、「MSC(Multimedia Super Corridor)」構想を発表した。(13)それは、「諸企業と諸国を共に豊かにする」という理念の下に、東南アジアの地理的中心に位置すると共に多文化環境をもつマレーシアに、最先端の技術を利用した最高の活動の場を提供しようとするものである。首都クアラルンプールの南の750 平方キロの地域に、大型空港、高速鉄道、ハイウェー、高度情報通信基盤などの施設を整備する一方、規制・許認可の手続きを思い切って簡素化し電子化した政府を置き、「マルチメディア保証章典 (Multimedia Bill of Guarantees)」を基盤とする新たな「サイバー法」体系をこの地域に限って制定することで、世界中から多様な才能の持ち主を糾合しようとする。それは昔の幼稚産業保護型の閉鎖的な産業政策とは逆に、まず自国を開放して海外からの参入者を優遇することで開発を実現しようとする自由化先行型の新開発主義的産業政策の発露だといえよう。

マルチメディア保証章典は、MSC に進出してくる企業や個人に、次のような事項を保証している。すなわち、

というのである。また、MSCの中で提供が予定されている、七つのアプリケーションは、いずれもビジネス利用を中心においたもので、

がそれである。まさにマルチメディア新時代の到来を如実に示す内容ではないか。

こうした構想が成立しうる背景には、情報化による「ハイパー正和ゲーム」の可能性の出現という状況があるように思われる。近代主権国家による領土や植民地の獲得競争は、いうまでもなく零和ゲームであった。それに対し、近代産業企業による利潤の追求競争は、当事者の自由な取引を前提としている限り、両当事者の利益の増大が保証される正和ゲームである。とはいえ、交換される財やサービスの総量は、交換を通じては変化しない。ところが、情報や知識はその普及によって総量自体が増加する。なぜならば、第一に情報や知識は、与えても無くならないので、与えた分だけ増加する。しかも、情報や知識を分け与える試み自体が、新たな情報の創出の刺激となるのは、教える仕事に携わっている者が日々経験するとろである。

そういうわけで、時代は今、単なる「競争」原理から、人々の相互行為のより大きな枠組みとしての「協働」原理を重視する方向へと転換しているように思われる。さらに言えば、じつは、経済学者のいう意味での「競争」は、「協働」の一つの下位形態にすぎなかったと言ってよいのではないだろうか。私流の表現を許していただくならば、(14)これまでの企業が行ってきた市場での競争は、情報・知識の普及に携わる「智業」が「智場」において行う協働(的競争)の一部として取り込まれていくのではないだろうか。つまり、これからの企業の取引は、その多くが智場を「プラットフォーム」として行われるようになっていくのではないか。そして、ここでいう智場を具体化するものが、インターネット、あるいはインターネットが形作るサイバースペースにほかならないのではないだろうか。そうだとすれば、企業がインターネットを市場として利用しようとするのは話が逆であって、むしろこれからの企業は、智場という新たな社会的相互行為の場、それも説得を通じた情報・知識の普及の場にうまく乗っていけるように、そのビジネスの仕方を再編成していかなければならないだろう。

だがそのためには、「智場」そのものが、さらに良く整備されなければならない。より具体的にいえば、インターネットのようなコンピューター・ネットワークによるコミュニケーションがより安価に、しかもより高度に−−それこそよりマルチメディア的に−−行われうるように、情報通信インフラを構築しなおしていく必要がある。つまり、インターネットが「主流」となった今日、これまでのケーブルテレビや電話網とは異なる、インターネット専用の幹線網や市内網をあらためて構築していく必要がある。 (もちろん、インターネット専用といっても、たとえばインターネット電話やインターネット上でのマルチキャスティングの技術を使えば、これまでの電話や放送の機能も、この新たなインフラの上で−−これまでとは比較にならないほどの安い費用で−−実現可能になるだろう。最近では、これまでコンピューターによる情報処理のコストが年々何十パーセントも低下し、何千分の一、何万分の一となっていったのと同様に、これからは通信のコストが急速に低下していくという見通しが述べられることが多くなっている。(15)だが、そうした「革命的」とも言いたくなるほどのコストの低下は、通信技術のパラダイムそのものの変化なしには実現しないだろう。)

日本のNTTは、昨年いちはやく「OCN(Open Computer Network)」というコンセプトを打ち出したが、これはインターネット用の情報通信インフラの幹線部分に対応するネットワークだと見ることができる。アメリカに比べて、幹線部分の光ファイバー回線が相対的に不足している日本の現状からすれば、このような試みはNTT一社だけでなく、他の通信会社によっても行われることが望ましい。また、個々のLANをつなぐ光ファイバー網の敷設が決定的に不十分なことを考えれば、このような幹線並んで必要になるのが、新しい市内網というか現場でのコンピューター用あるいはLAN間相互接続用のローカルな光ファイバーのネットワークである。私たちはそれをCAN(Community Area Network)と名付けている。(16)このCANには、一つの県の全体をカバーするものから、町内あるいは団地内のいくつかのLANを相互接続するものまで、いくつもの階層が考えられるが、恐らくその中核になるのは、市町村のレベルで張りめぐらされた光ファイバーの「情報ループ」である。この情報ループにはまた、LANだけでなく、単体としてのコンピューターや携帯情報端末を接続するための「情報コンセント」がいたるところについているだろう。そして、いったん情報コンセントに入れば、そこから先は、最低でも6メガ、できれば45メガから100メガ以上の回線速度が実現されていることが望ましい。CANのための光ファイバーは、鉄道会社や道路公団、下水道事業団、電力会社等さまざまな事業主体(いわゆる「ゼロ種事業」主体)が敷設したものが、競争的な料金で提供され、これを自治体自身をも含む各種の事業主体が借り入れて運用することが考えられる。

問題は、情報ループまでのアクセスをいかに高速にするかである。その部分に既存の電話やケーブルテレビあるいはセルラー電話網を利用すると想定するならば、電話網にはADSLのような技術を利用した高速化が図られていることが望ましい。ケーブル網には、もちろん、「ケーブルモデム」が利用可能になっていなければならない。そして、セルラー電話も、少なくとも何メガ級の回線速度を実現していてほしい。これが近未来の「コミュニティ・ネットワーク」のあるべき姿である。そこでは、インターネット用専用回線が中核となって、既存の電話網、ケーブル網、あるいはセルラー網が−−しかるべき技術革新を前提としながら−−補助的なアクセス網として機能していることだろう。ただし、日本の場合は、ADSL技術の利用には現在の電話回線の性格がなじまないという難点があるようだし、ケーブル網の普及度はごく低いという現実からすれば、補助的アクセス網の役割を果たすことが期待されるのはデジタル・セルラー電話網だけなのかもしれない。いずれにせよ、現在の電話のアーキテクチャーは、それぞれの時点で見れば比較的少数の加入者が比較的短時間しか電話を利用しないという想定にたっている。だから、なにか事件が起こって多数の通話申し込みが殺到すると、構造的にたちまち対応出来なくなってしまう。ということは、現在のアーキテクチャーをそのままにしている限り、いかに回線の高速化をはかろうと、大多数のユーザーが24時間つなぎっぱなしの形で利用するといった利用形態には、およそ対応できないことは自明である。やはり、インターネットの時代には、それにふさわしいアーキテクチャーをもった幹線網と市内網を、新たに構築していくことが不可欠である。でないと、通信コストの革命的な低下の可能性は、可能性のままにとどまって現実化できない結果になりかねない。新しい酒は新しい革袋に盛るしかないのである。

この点との関連でいえば、さきに言及したペンシルバニア大学のデービッド・ファーバーのビジョンには、次のような指摘もある。(17)

各大学は、電話、コンピューター、動画を単一の安全で強固なシステムに統合すると共に、無線PDAを含む多様な仕組みでシステムへのアクセスを可能にし、それによって新インフラの諸能力のより十全な利用を実現するような「キャンパス・ソリューション」をめざすべきである。たとえば、大学の授業内容は、近隣にはXDSLとケーブルを使って、遠隔地には通信衛星を使って、他の大学、短大、企業、家庭を含む「拡大キャンパス」に送れるようにしなければならない。

ファーバーによる未来のアカデミック・ネットのこのようなビジョンは、上述のCANのビジョンと非常に良く似ているように思われる。実際、「コミュニティ」のレベルでの高度情報通信インフラとしてのCANの構築にさいしては、そのコミュニティに存在する大学(や病院や各種の行政機関や企業の店舗など)を中心とする拡大LANシステムが、先導的モデルとしての役割を果たすべきことは、あらためて言うまでもないだろう。いいかえれば、ある地域コミュニティ内に存在するこれらの組織は、みずからのLANを周辺に拡大することによって、その地域のCANの主要な構成要素となるよう、努めてしかるべきである。


4.ありうべき政治革命としての「ネティズン革命」

私はつい最近、一冊の編著を出版し、(18)その中で、産業化の進行が専制的あるいは寡占的な国家への異議申し立てとしての「市民革命」を引き起こしたように、情報化の進行もまた、間接民主主義政治体制や、大企業中心の経済体制に対する異議申し立てとしての新しい政治革命である「ネティズン革命」を引き起こす可能性がありはしないかと論じてみた。実際、先進産業社会の政治システムは、いたるところで機能不全に陥っていることは明らかである。しかし、次代を担う新しい政治勢力の台頭は、まだ明確な形を取っているとは言えそうもない。だがその中では、米国の民主党のゴア副大統領がリーダーシップを取っている「政府の再発明」と称する行政改革の試みや、共和党のギングリッチ下院議長やその系列の進歩自由協会(PFF)の「第三の波政治」の提唱などは、注目に値する新しい動きだと思われた。とりわけ、PFFの最近の活動ぶりには、なかなか目ざましいものがある。たとえば、PFFのヴレイホスは、次のような分析をしている。(19)

まず、現在のアメリカには、すでに差し迫っている政治・社会革命−−彼は「革命」という言葉の使用を避けて、それを「大変革」と呼ぶことを提唱しているが−−の前兆ともいうべき現象がいくつも見られる。すなわち、

  1. アメリカ人は、来るべき大変革に備えたインフラ (ネットワーク) 整備に着手している。これは、情報通信ネットワークをまず構築し、その基盤の上に新たな人的ネットワークを築こうとするものだ。

  2. アメリカ人はみずからのアイデンティティーの大変化を受け入れ始めているネットワークが創り出した新たな経済の中で、経営管理、評価、取引、労働のあり方などが再構築されている。人々はすでにそれに順応し、それぞれの生活様式や社会的地位に応じて、変化を実感している。

  3. 古い秩序に対して信頼を失い始めている。とりわけ、経済面での古いライフスタイル−−製造業におけるホワイトカラーとブルーカラーの階級社会−−に立脚した産業経済は、すでに行き詰まっている。同様に、政治面での古いライフスタイル−−テレビ主導の大衆民主主義社会−−もまた行き詰まり、従来型の福祉国家は破産してしまった。

  4. 他方、随所で新しい観念が権威を持ちはじめ、古い観念は権威を失いつつある。経営学、物理学、心理学、宗教等々でそれが起こっている。社会全体が、人間同士の基本的関わり方や社会的組織について再考する段階に来ているのである。

この大変革のもたらすものは、自己認識、人間関係、社会構造の変化なのだが、とりわけ、工業化を支えてきた旧体制 (官僚制) の崩壊は注目に値する。彼らは情報をコントロールすることで、人民をコントロールしてきた。しかし、それが今や無意味となりつつある。同様に、企業の階層的な管理組織もフラット化し始めている。

この大変革は、結局のところ政治革命の形を取らざるを得なくなるが、それは、変革を押し止めようとする勢力と、押し進めようとする勢力の対立の結果である。過去に見られる同種の例としては、19世紀では、アメリカの南北戦争と日本の明治維新があげられる。共に1850年代から70年代にわたって起こったが、その結果、アメリカでは南部の貴族階級が、日本では幕府が倒れた。これは、共に予想外の変革だった。

これに対し、20世紀末の現在の特徴は、次の大変革の前夜に来ているところに求められる。アメリカでも日本でも、崩壊寸前の旧体制の下で選挙が行われようとしているのである。大きな変化の直前には、根底で進んでいる変化に何とか抵抗しようという旧体制の強い動きが見られるものだ。従って、1996年のアメリカの大統領選挙は、旧体制特有の特徴を備えた選挙で、その選挙で争う政党は両方とも旧体制によって運営されている政党同士となるだろう。

来るべき大変革は、19世紀の産業革命と同じくらいに強力なものになるが、かつての産業革命よりはより急速に発生すると思われる。それは、まずアメリカで始まり、日本が続き、すぐに世界中に拡がっていくに違いない。したがって、もし日本がアメリカで起きる大変革から直接的な影響を受けるとすれば、この大変革がもたらす新たな経済状況と新たな生活様式に対して、日本としてはどのように対応すべきか、より一層認識を深める必要がありはしないか。日米の共同研究が望まれはしないか。

以上がヴレイホスの分析であり、日本に対する問題の提起でもあるが、私にはそれはなかなか当を得ているもののように思われる。だが、残念なことに、「閉塞感」のとりことなっている今日の日本は、こうした問題提起を正面から受けて立つだけの力がなさそうだ。どうしてそんなことになってしまったのだろうか。

ここでこの疑問を解明する余裕はないが、私としては次のような仮説を提示しておきたい。(20)

 1970年代の後半以降の日本が、新しい情報通信インフラの整備に遅れをとったり、「マルチメディア」の展開や利用の面でほとんど見るべき成果をあげることができないでいるのは、近年の日本がこのような歴史的に未経験の状況に直面していることと決して無関係ではないのではあるまいか。残念ながら今の私にはそうした疑問に答えることはできないが、答えられるようになるための努力は早急に試みてみたいと思っている。

参考文献