1996年12月8日
公文俊平
今、これまでの産業革命に匹敵するような大きな社会変化が始まっています。それが情報革命です。産業革命の担い手となったのは市民 (シティズン) たちでしたが、今度の情報革命の担い手のことは、ハイパー市民、あるいは智民 (ネティズン) と呼ぶのがいいと思います。
産業社会の典型的な市民たちは、都市に住んで商工業に従事しています。それと似たような意味で、これからの情報社会の典型的な智民たちは、ネットワークに棲んで智業に従事することになるでしょう。ここで「智業」というのは、「企業」との違いを示すために私が作った言葉です。企業は、世の中に求められる有用な商品 (販売を前提として生産される財やサービス) を生産します。そしてそれを市場で販売することを通じて、利益を上げようとします。これに対して、智業は、世の中に求められる価値ある通識 (普及を前提として創造される知識や情報) を創造します。そしてそれを智場で普及することを通じて「智」、つまり知的な影響力を獲得しようとするのです。
智業は、人々に、この世の中で、何が「真実」であるのか、また何が「正しく、善く、美しく、楽しい」ことであるのか、そしてそうした「正しく、善く、美しく、楽しい」ことは、どうすれば実現できるのか、どのように力を合わせていけばいいのか、を教えてくれます。あるいは、人々が自分の頭で考えて、そういった事柄についての自分なりの結論や確信にいたるためのヒントや議論の機会を与えてくれます。市民は、智業と交わることによって、ハイパー市民となり、さらに自分が智業の活動に積極的に参加していく中で、ネティズン (智民) として成長していくといってもいいでしょう。
ところで、「市民」と呼ばれる人々は、実は産業革命のはるか以前から存在していました。ヨーロッパの場合でいえば、都市に住み商工業に従事する市民は、いわゆる中世社会の三つの基本的な身分 (聖職者、軍人貴族、市民) の一つとしての地位を占めていました。「ギルド」とか「ツンフト」などと呼ばれた自分たちの集団も作っていました。
同じような意味で、「智民」と呼ぶにふさわしい人々、知識や情報の創造と普及を自分の職業とする人々もまた、今日の情報革命のはるか以前から存在していたという言い方もできそうです。中世ヨーロッパのさまざまな都市に作られた「大学」のメンバーたちは、智民のはしりのような存在だったといっていいでしょう。実は、「大学 (ウニベルシタス) 」という言葉自体、「ギルド」と同じ意味の言葉でした。教授は職人の親方と、学生は徒弟と、似た地位にあったのです。十四世紀以来のルネサンスは、芸術家と呼ばれる職業の人々 (そのほとんどは、やはりギルドのメンバーでした) の群れを生み出しました。十五世紀の印刷革命は、文人とか著作家と呼ばれる職業人を生み出しました。そして十七世紀の科学革命は、それまでの学者ないし哲学者に加えて、物理学や化学のような個別の学問 (つまり「科」に分かれた学問) に専門にたずさわる科学者を生み出しました。さらに二十世紀には、プロのスポーツマンと呼ばれる職業も生まれました。今日の私達の身の回りに制度化されている学会やペンクラブ、著作権協会やサッカー協会などのような、学者や作家や芸術家やスポーツマンの団体などは皆、情報革命以前の段階での智民や智業家の組織であって、産業革命以前の職人や商人のギルドのようなものだということができるでしょう。また、現在ある大学や出版社、新聞社や放送会社なども、産業革命以前の商人や産業家の組織に対応しているということができるでしょう。
いいかえれば、旧市民たちは産業革命を通じて、近代的な産業企業を生み出しました。同時に彼らは自分自身を、その経営者や従業員、あるいは消費者として再組織していくことを通じて、近代市民として生まれ変わっていきました。もちろん、中にはそのような再組織に失敗して没落していった人達もいました。逆に、それまでは市民とは考えられていなかった人々、たとえば農民たちの中にも、産業革命を通じて新たに発展した都市の市民になっていく人々が多数生まれました。多分それと似たような意味で、これまでの産業社会の旧智民たちの多くも、情報革命を通じて、近代的 (というか現代的) な情報智業の形成に参加し、その過程で、自分もまた現代の智民として生まれ変わっていくのではないでしょうか。しかしもちろん、すべての旧智民たちが現代智民としての自己再組織に成功するという保証はありません。逆に、これまでは必ずしも智民とは考えられていなかった市民たちの間から、現代智民として活躍する人々も多数登場してくるでしょう。私は、コアラのメンバーの方々の活発な活動を目の当たりにすると、ここに新しい智民が誕生しようとしているなという実感を、ひしひしと覚えます。
しかし、もちろんコアラの活動だけがその唯一の例というわけではありません。20年ほど前から、NGO(非政府組織) とかNPO(非営利組織) と呼ばれる組織が、それこそ無数といいたいくらいに、世界中のいたるところで生まれたり活動したりするようになっています。わがコアラもまた、そうしたNPO の一つに数えることができるでしょう。
そうした組織は、近代社会の代表的な組織とみなされている国家 (の政府) でも企業でもないということで、NGO とかNPO と呼ばれているのですが、これこそ私のいう現代智業に他ならないのです。なぜならば彼らは、この世の中で、何が「真実」であるのか、また何が「正しく、善く、美しく、楽しい」ことであるのか、そしてそうした「正しく、善く、美しく、楽しい」ことはどうすれば実現できるのかを、他の人々に教えようとしているのです。あるいは提案しているのです。そして、自分たちと協働して、その実現のために努力しましょうと呼びかけているのです。今や、国連も各国の政府も、そして企業も、このようなNGO やNPO 、つまり私のいう智業やそのメンバーとしての智民たちの、影響力を無視できなくなってきました。この意味での智業や智民の活動は、これからもますます発展していくことでしょう。それに伴って、智業や智民の活動を律したり、国家や企業との間の関係を調整したりするための法律や制度も、次第に整備されていくことでしょう。現に日本でも、いわゆるNPO 法が、漸く制定される運びになろうとしています。
国家の存立は、主権 (国家主権) の観念に立脚しています。企業の存立は、財産権 (私有財産権) の観念に立脚しています。それと同様に、智業の存立は、近代社会の新しい権利としての情報権 (グループ情報権) の観念に立脚することになるでしょう。情報権にはいろいろな側面がありますが、その中心になるのは情報処理・通信にかかわるセキュリティ (安全権) とプライオリティ (優先権) とプライバシー (守秘権) の三つでしょう。情報社会の今後の円滑な発展の鍵は、これらの基本的情報権の確立と、三つの情報権相互の調整、および情報権と主権や財産権の間の相互調整をどこまで速やかに制度化していけるかにあるでしょう。個人や企業に暗号化技術の自由な利用や販売 (とくに輸出) をどこまで認めるべきかという問題は、国家の主権と私人の情報権との間の調整をめぐる問題です。著作物のコピーの制限と容認をめぐる対立は、財産権と情報権との間の対立だといってよいでしょう。
ここで忘れてならないのは、無制限の権利や自由は、私達の社会生活にあっては本来ありえないということです。たとえばポルノであれ爆弾の製法であれ、あらゆる表現の自由が容認さるべきだという議論は、智民の自由の勇ましい擁護論のように聞こえるかもしれません。しかし、それでは、産業社会の企業が、自分の財産はどのように使ってもいいのだから、公害や環境破壊を理由として企業活動を制限すべきではないと主張したとしたらどうでしょうか。企業の活動は制限すべきだが、智業の活動は制限すべきでないという議論は、正しい議論と言えるでしょうか。私は、正しくないと思います。智業や智民の活動も、当然ある社会的な制約に従わなければならないのです。
それでは、智業と企業、あるいは智業と国家は、基本的に対立・競合関係にあるものなのでしょうか。最終的には、智業が国家や企業を駆逐してしまうのでしょうか。私は、そんなことはないと思います。智業と国家および企業の関係は、基本的に協働的であるべきだし、またそうする方が、お互いにとっても社会全体にとっても有益です。当面とりわけ大切なのは、智業と企業、智民と市民が、お互いを敵視するのでなく、協働しあうことです。これからの社会の情報化を主導していくのは、智業=企業協働であり、智民=市民協働であるという理念を、声高く唱えたいと思います。