1997年5月30日
公文俊平
いま、情報通信革命と呼ばれる大きな変化が、急激に進行している。それは、技術や産業の革命的変化であるだけではない。人々の行動様式や社会制度、さらには価値観や世界観のかなり深い部分にまでおよぶ変化が、明らかに起こっているのだ。
この情報通信革命のさまざまな側面については、おいおいに分析していくとして、ここで最初に注目しておきたいのは、それが20世紀の「科学革命」 (トーマス・クーン) と密接に関連しているという事実である。新しい情報通信技術の根幹をなすマイクロチップスや光通信は、それ自体科学革命の産物である。だが、それだけではない。実は、科学革命がもたらした新たな認識の枠組みというかものの見方をそれに適用することによって、今日の情報通信革命のもつ多様な側面の意味自体、初めて十分に理解することができるようになるのである。
認識の枠組みに生じた革命的変化という意味での科学革命の中核をなしているのは、ラッセル・アコフの言葉を借りれば、「システム科学」あるいは「システム哲学」の発展である。アコフは、ほとんど四半世紀近く前に出版された『未来の再設計』(1974 年) の中で、「機械の時代」から「システムの時代」への移行が始まったと述べていた。アコフの考えでは、機械の時代の哲学は、
の三つの柱から構成されている。還元主義とは、任意の事物あるいは問題は、それを構成するより小さな部分からなりたっている、という考え方である。分析的思考とは、認識したい対象や解決したい問題に直面すると、まずはそれらをその構成部分に分割してみようとする態度のことをいう。そして、機械論とは、還元主義的因果論のことである。つまり、現実世界の中で生ずるすべてのできごとは、単純で決定論的ないくつかの「因果関係」の連鎖として説明できるとする。このような観点からすれば、生命も、社会も、そして全宇宙も、非常に複雑ではあれ、結局のところある決まった法則にしたがって動き続ける機械にすぎないのである。そのような法則は、いわば「環境」のない世界のなかで、いいかえれば「閉じたシステム」のなかで、例外のない形で作用する。しかし、そのようなシステムの外にいる存在は、機械論的なシステムに対しては外から何らかの適当な力を加えてやることによって、さまざまな「機械」の動きを--ある程度まで--「制御」できる。そして、もちろんここでいう「機械」には、人間や社会も含まれているのである。
では、システムの時代の哲学の特徴はどんなものだろうか。アコフの考えでは、われわれはまだシステムの時代のほんの入り口に立っているにすぎないので、その特徴を十分に明らかにすることはできない。しかし、機械の時代の哲学と対比させてみることで、ある程度までその特徴を想像してみることはできるだろう。すなわち、
といったところがシステムの時代の哲学の主要な柱になると想像される。拡張主義は、任意の事物や問題は、それを含むより大きな全体の一部であって、他のさまざまな部分や全体との間になんらかの関係を結んでいると考える。だから、拡張主義の見地からする存在の基本形式は、アトムとしての「物質=エネルギー」のそれではなくて、部分を全体の一部にしている性質、全体をして全体たらしめている性質、つまり「パターン」とか、「組織性」、あるいは「システムネス」と呼ばれるものになる。構成主義的思考とは、認識したい対象や解決したい問題を、より大きな全体の一部として位置づけ、他の部分とのつながりに注目しようとする態度をいう。目的論は、世界を単純な因果関係の連鎖として見るのではなく、チャーチマンのいう「産出関係」のネットワークとしてみる。産出関係という考え方に立てば、あらゆる産物は、多数の「共同産者」の共同作用を通じて生まれる。また、あらゆる産者は、同時に多数の産物の産出にかかわっている。だから、ある時、ある場所で生じた事象が、時間的にも空間的にも遠くへだたっている他の事象の共同産者の一つとなっているといった事態は、ごく普通に見られることなのである。しかも、この世界のなかには、そうした産出関係のネットワークを認識したいと思う存在、自分もなんらかの産出関係の共同産者となりたいと思う存在が、たくさんいる。人間とは、まさにそうした存在なのである。このような存在を「主体」と呼ぶならば、そうした主体がもっている認識能力はごく不十分なものでしかないので、限られた時間や費用の制約の下では、産出関係の十全な姿を認識しきることは不可能である。つまり、主体が認識し得たかぎりでの事物の産出関係は、つねに不完全なままにとどまらざるをえない。認識しきれなかった共同産者が他にもあるかもしれない。意識されない副産物も生まれているかもしれない。その意味では、主体が世界の認識や制御のために構想する「システム」は、つねに主体の認識の外にある「環境」をもち、環境と相互作用していると考えざるをえないのである。この意味での主体の認識や行為は、ある根元的な意味で「自由」である。つまり、自分の認識や行為をどこまで完璧に近いものにするか、それとも不完全なままでとどめるかは、主体が自由に選べるのである。とはいえ主体は、自由ななかでの選択を行わざるをえない。つまり、主体はみずからその自由を制約して、認識の深化の試みをあるレベルでとどめて、特定の行為の選択に踏み切らざるをえない。そして自らが選んで実行した行為がもたらす帰結に対して責任をもち、それを甘受する以外にない。でないと、認識も行為もそもそも成立しないからである。主体のそのような選択の基準となるものが「目的」だとすれば、つまり主体はその「目的」に応じてさまざまな選択を絶えず行っているものとすれば、他の事物はともかく、そのような主体は目的論的存在といわざるをえないだろう。
私は以前、アコフのこの見方を『社会システム論』(1978 年) のなかで紹介したことがある。私はまた、この本のなかで、「システム」を「主体が対象を認識するための形式」あるいは比喩的にいえば「世界を見るためのレンズ」だと定義した。つまり、認識のための形式やレンズとしてのシステムを、認識された対象ないし認識の内容とははっきり区別して理解すべきことを主張した。 (もちろん、特定のシステムを通じて行った認識が、主体の目的にとって有用であればあるほど、認識のための形式と認識の結果としての内容がしばしば一体視されがちになることは否定しないが。) そして、その意味でのシステムの主要な種類としては、
の四つを示した。また、「社会システム」とは、主体を要素とする複合的なシステムであると定義した。しかし同時に「主体システムや社会システムの形式も、生体システムの形式と同様、完備しているというには程遠い状態にある」ことも、認めざるをえなかった。
その後の約四半世紀の間、システム理論の発展は、必ずしも急速だったとはいえない。とりわけ社会システム理論の発展は遅れていた。しかし、近年になって、社会科学に対して、生物学的なアプローチや、進化論的なアプローチをとりいれようとする試みが顕著になってきた。つまり、人間や社会を、単なる「機械」以上のものとして認識しようとする試みが盛んになってきた。また、認識のための形式として「複雑系」と総称されるようなシステム形式を構築しようとする試み--まだ十分成功しているとはいい難いが――も、世の注目を集めるようになってきた。カオスの理論などとの関連でいえば、「複雑系」の形式は、とりあえず私のいう「物理システム」の形式の一種に含めてみることができそうだ。しかし、たとえば、ジョン・ホランドの次のような指摘は、複雑系 (とりわけ彼のいう「複雑適応系」) を、(人工生命をも含めた)「生体システム」の形式から、さらには私のいう「社会システム」の形式そのものだとして解釈する可能性をも示唆しているように思われる。ホランドによれば、複雑適応系の特性は、
私の『社会システム論』(1978 年) あるいは『情報文明論』 (1994年) の読者なら、ホランドのいう「エージェント」こそまさに私のいう「主体」にほかならず、それらを要素として組織された上位のレベルのエージェントとは「複合主体」 (主体を要素とする主体) にほかならないことに、ただちに気づかれるだろう。だとすれば、彼のいう「複雑適応系」は、私のいう「社会システム」に、ほとんどそのまま対応していることになる。
複雑系や人工生命の理論の発展がもたらしている一つの興味深い副産物は、この新しいパラダイムを、新種の情報通信システムとしての「インターネット」の理解や制御に応用しようとする試みである。現在の米国のクリントン=ゴア政権は、インターネットを一つの新たな(人工)生命体として理解しようとしている。インターネットのDNAはどのようなものか、誕生時の「初期条件」は何であったか、インターネットがカオス状態にもならず、過剰な規制で逼塞してしまうこともなく、立派に生き延びてさらに進化していくためには、つまりインターネットをカオスの縁に置いておくためには、どのような政策が必要か、といった議論が真剣になされているのである。私は、日本の情報通信政策論議にも、このような観点が取り込まれなければならないと思う。
社会システム論のレベルで見られるもう一つの発展は、社会システム論が文化・文明論と結びつく可能性が見えてきたことである。社会システムの進化の過程を、文明の進化の過程とかかわらせて議論する可能性が見えてきたといってもよい。私は以前、『情報文明論』のなかで、文化と文明を次のように定義してみた。
文化:社会の成員の間でほとんどそれと意識されないままに学習・適用・伝達されていく、人間の行為のさまざまな側面の採用原理の、ひいては文明の設計原理の、複合体。
文明:文化を設計原理としながら、環境要因やその他のさまざまな要因の影響もうけつつ意識的に形づくられる、精神・物質の両面にわたる人間の社会生活パターンの複合体。
これを社会システムの言葉で言いなおしてみると、文化の中核をなしているものは、認識をも含んだ主体の行為一般の選択の前提となる共通の枠組みだということができよう。 (もっと平たくいえば、ここでいう文化は、主体のもっている世界観や価値観にあたる。) 他方、文明の中核を形作っているものは、社会システムを構成している主体群が意識的に構築している、行為のさいに使用される手段 (物的および制度的な) の体系だということができよう。文化はいってみれば、各主体の心の中にある。あるいは心にとっての基盤をなしている。それに対し、文明は、いってみれば、各主体の外にある。あるいは、主体の身体の延長物である。その意味では、文化と文明は、主体そのものではないにしても、主体とわかちがたく結びついているような、主体とならぶ社会システムの重要な構成要素であることは確かである。また、社会システムの要素としての個々の主体 (や複合主体) は、行為の主体であると同時に、他の主体の行為の対象でもあるという二重性をもっている。主体はさらに、行為の主体としての自分自身や、自分をその一部として含むシステム全体をも対象化して反省したり、自己再組織化の対象としたりするという、より高次の二重性をももっている。その意味では、社会、とりわけかなりの規模と持続性をもつ社会は、
社会システム={行為の主体/対象、文化、文明、反省の主体/対象}
のような一般的な形式のシステムによって把握することが適切だろう。 (あるいはそのようなシステムとして「見る」ことが適切だろう。)
さて、『情報文明論』のなかで、私は、これまでの人類の文明 (とその進化の過程) を、二つの基準 (軸) 、すなわち
によって分類してみた。そのさいに、
その結果えられた分類は、下図のようなものであった (文明の名称は『情報文明論』でのものから多少変化している)。
[図の挿入]
すなわち、分化・発展志向型の文明には、
の三つがあり、包括・存続志向型の文明には、
の三つがあるとした。そして、現代社会に見られる主要な文明は、宗教文明と近代文明であって、近代文明は今、その進化の最終局面にあたる情報化局面の本格的開始期を迎えているが、同時に産業化局面もまだ終わらず、むしろ第三次の産業革命も今始まったところだとした。つまり、今日の「情報革命」の特徴は、
とが、同時進行している点にあるとした。逆に、一部にいわれているような、「ポスト近代化」はまだその兆候が見えるだけで、とうてい本格的に始まっているとはいえない、つまり、近代文明はまだその「成長の限界」には達しておらず、むしろ近代化そのもののいっそうの進展 (後の私の用語でいえば「ハイパー近代化」) が、今生じているとした。なお、村上泰亮の用語を使っていえば、1にいう「情報化」は「トランス産業化」にあたり、2にいう「第三次産業革命」は、「スーパー産業化」にあたることになる。
というわけで、私のいう「情報文明」は、ポスト近代文明ではなく、近代文明そのものの進化の最終局面、つまり、軍事化と産業化に続く第三の局面としての情報化局面、をさしているのである。
この立場からすれば、今日の情報革命をめぐる誤解の二大類型は、
だといってよいだろう。(なお、私にいわせればもう一つの大きな誤解として、現在、過去の「農業革命」と「産業革命」に匹敵する人類の生存技術の進化の「第三の波」にあたる「情報革命」の時代が始まっている、というアルビン・トフラー流の見方がある。これだと、新しい文明は、私のいう「智識文明」のような包括・存続型のものではなく、むしろ「近代文明」に似た分化・発展型のものだということになる。あるいは、トフラーは、私のいう「宗教文明」や「智識文明」のような包括・存続型の文明を、文明の二大類型の一つとして認めるという立場は、そもそもとっていないといってもよい。いずれにせよ、ここではトフラー流の「誤解」は無視して議論を進めることにする。)
そこで、以下では、上に見た今日の情報革命の二つの主要な特徴をより詳細に解明しつつ、あわせてこれら二つの誤解を解くことを試みたい。