情報通信革命と21世紀情報文明の成立 第二章:1990年代の情報革命 

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1997年5月30日

第二章:1990年代の情報革命

公文俊平

2.1 アメリカの情報革命

 米国の情報革命は、1970年代のマイクロチップスの発明がひきおこしたコンピューターの小型化、パーソナル化、高機能化によって始まった。コンピューティング・パワーの増大は、いわゆる「ゴードン・ムーアの法則」にしたがって、ほぼ18カ月毎に倍増するマイクロチップスの集積度の増大の自乗に比例して、つまり三年間で42 =16倍という速度で、進行した。これが、ギルダーのいう「マイクロコズムの革命」である。

さらに、1980年代の後半以来、パーソナル化したコンピューター群は、いっせいにネットワーク化され始めた。このネットワーク化は、1990年代を通じて、ネットワークに接続されるコンピューターの数が年々倍増するほどの勢いで進行していくと見られる。コンピューター・ネットワークが発揮するパワーは、ネットワークに接続されているコンピューターの数のこれまた自乗に比例して増大する。つまり、三年間で82 =64倍になる。これが、ジョージ・ギルダーのいう「テレコズムの革命」にほかならない。

今日の情報革命は、この二つの革命の効果の相乗によって、それこそ爆発的といいたいほどの速度で進展している。すなわち、ネットワークー化されたコンピューターのパワーの総体は、三年間で16×64=1024、つまり約千倍にもなっている。いいかえれば、年々十倍になっている。ということは、1990年代の初頭の世界のコンピューター・ネットワークのパワーを1とすれば、90年代の半ばには、それは10万になったのである。今やこのパワーが、誰の目にも見えるようになってきたのも当然のことといえよう。さらに今世紀の終わりまでには、このパワーは、90年代の初頭に比べると、実にその100億倍に達することになる。後世の歴史家が、1990年代を「ネットワーク革命の十年」として記録することは疑いないだろう。実際、ほとんど爆発的といいたいほどの速度で進展する情報革命、なかでもその中核の位置を占めるインターネットの普及ぶりを眼前にして、「インターネットの一年は犬の世界の一年 (ドッグイアー) 、つまり人間世界の七年分にあたる」という見方も急速に人口に膾炙してきた。

しかし、この「ネットワーク革命」は、必ずしも直線的に進行しているわけではない。それどころか、ダイナミックな活力に満ちた企業家たちの行動は、 "恐怖と貪欲" (アンドリュー・グローブ)と近視眼に支配された迷走とさえ言いたい側面を強くもっている。その意味では、90年代、とくにその前半の状況を「新ゴールドラッシュ」と呼ぶのは、なかなか当を得ている。だからといって、一部の人達が予言するような破局的な崩壊が不可避となるわけでもなかろう。むしろ、AT&Tのボブ・アレン会長のいうとおり、

  しばらくは混乱が起こるだろうが、アメリカは混乱に強い。今後の十年はアメリカにとってすばらしい時代になる可能性がある。失敗する人も成功する人も現れようが、結果としてこの国には、情報技術を利用するための、より大きくてより良い選択肢を提供する、巨大なスーパーハイウェーが出現するに違いあるまい。

 というわけで、この第二章ではまず、1990年代のアメリカの情報革命の進展の跡を、年を追ってたどってみることにしよう。一口で言うと、1991−92年は、政府が主導的な役割を演じようとする中で、「ネットワーク革命」の開始が自覚された時期、1993−94年は、第一次新ゴールドラッシュとでも呼ぶべき、ビデオ・オン・ディマンド指向の双方向テレビの開発をめざした驀進の時期、1995−96年は、第二次新ゴールドラッシュとでも呼ぶべきワールドワイド・ウェブとその商業的利用への関心を中心としたインターネット・ブームが爆発した時期であった。そして1997−98年は、新ゴールドラッシュ的な狂奔がようやく治まって、インターネット用の高度な情報通信インフラの構築とその本格的なビジネス利用が進む時期になりそうだ。その結果、今世紀の終わりまでには、まだまだ原型的なものにすぎないとはいえ、情報社会のための新しいNII−GII(全国・世界情報通信基盤)が、コネクションレス型通信のための新幹線網(具体的には、NTTのOCNなどの発展したもの)と市内網(具体的には、後述するCAN)とからなるODN(オープン・デジタル・ネットワーク)として、それを活用する電子化されたビジネスや政府、およびネティズンたちのグループと共に、ようやくその全容を明らかにしてくることになるだろう。

ア、1991〜92年:政府主導による情報化の推進と新しい合意の形成期

 1991年から92年にかけて、アメリカの政府の中では、アルバート・ゴアJr. 上院議員らのリーダーシップの下に、情報化推進のための法律制定やコンピューター・ネットワーク (情報スーパーハイウエー) の構築をめざす一連の試みが、次第にとられ始めるようになった。ゴアが1987年から提出し続けていた法案も、1991年の秋になって、「高性能コンピューティング法(HPCA)」としてようやく成立した。この法律は、

  1. 一国の安全と発展にとって、コンピューター科学技術の発達は死活の重要性をもつ
  2. 米国は今日この分野では世界をリードしているが、外国からの深刻な挑戦に直面している
  3. しかし、外国の挑戦を排してリードを維持することが絶対に必要だ

という認識に立ち、そのための手段として、全国的な研究教育用コンピューター・ネットワーク(NREN) を1996年までに建設する一方、コンピューター関連の高度な研究開発を促進することにした。具体的な行動プログラムとしては、高度コンピューティング・コミュニケーション計画(HPCC)を発足させて、ここに各省庁の情報化計画を一本化することとした。ゴアはさらに、それに続いて、1992年には「情報インフラ・技術法案(IITA)」−−いわゆる「ゴアU」−−を提出し、HPCCの成果の研究室から市場(製造現場、病院、学校をふくむ)への移転促進を通じて、アメリカ経済の競争力の増進と市民の生活の質の向上をはかろうとした(成立は93年)。しかし、この当時の米国政府の政策には、自動車のハイウェーのモデルにならって政府の投資による情報スーパーハイウエーの建設を志向していた点や、コンピューター・ネットワークといってもスーパー・コンピューター同士の接続にこだわっていた点、さらには当時ようやく政府支援から商用化への転換が始まろうとしていたインターネットへの目配りが欠けていた点や、日本やドイツの挑戦を過大評価していた点などの問題があった。ゴア自身の構想の中には、ゴアUのような形で広く全国のワークステーションやパソコンをネットワークしようとする視点は含まれていたのだが、そのような観点からする情報化の推進政策は、容易には議会の賛同を得られなかった。

 しかし、1992年を通じて、アメリカの情報通信業界や政府および政界には、情報革命の通信革命化というか、ネットワーク革命化とでもいうべき事態の進展について、いくつかの大まかな合意がようやく形成されてきた。その内容は、           

  1. 情報技術すなわちデジタル・コンピューター技術の発展を中心に進んできた情報革命が、コンピューターのネットワーク化に伴って、これまではアナログ技術が支配的だった通信の世界にも及び始めた(通信分野でのデジタル革命の開始)、
  2. したがって、既存の通信インフラは、この新しいデジタル技術に立脚した「全国情報基盤(NII)」ないし「情報スーパーハイウエー」として再構築されなければならない、
  3. テレビ、電話、印刷、コンピューティング等の諸メディアの融合を可能にする新情報通信基盤の構築に成功すれば、その上に、これまでは別々のものとしてあった家電、コンピューター、通信、マスメディア、出版・娯楽等の諸産業もまた一つに合体した、「マルチメディア産業」とでも呼ぶことが適切なメガ産業が、未来の新たな主導産業として出現してくるだろう、

というものだった。しかし、この時点では、上の三点の合意は、なお三つの未決の問題を残していた。すなわち、

  1. NIIの構築は、誰(政府、民間)が主導するのか。民間だとすれば、どの業界(電話、ケーブルテレビ、コンテント、コンピューター)が先頭に立つのか、
  2. NIIの具体的な形はどのようなものか、
  3. マルチメディアの当面の有望な応用分野はどこか

という問題がそれである。1993年以降の「新ゴールドラッシュ」と呼ばれた米国の既存の情報通信業界−−とりわけケーブルテレビ業界と地域電話業界−−大競争ないし迷走は、この三つの問題をめぐって生じた。

イ、1993〜94年:第一次新ゴールドラッシュとその蹉跌

 この時期の特徴は、上の未決問題との関連でいえば、次の三点に要約できる。

 第一に、NII構築の主導権が、民間(とりわけ電話とケーブル会社)の手に移った。そのきっかけになったのは、92年の12月にクリントンが召集した全国経済サミットだった。その席上で、ボブ・アレンAT&T会長がゴアの「情報スーパーハイウエー」構想などに見られる政府主導型のNIIの構築の試みを正面から批判し、それは民間にまかせて欲しいと要求したのである。そして93年に入るや、既存の情報通信産業、とくに地域電話会社とケーブル会社による「情報スーパーハイウエー」構築の試みが、先陣争いや合併・提携などの形をとりながら、いっせいに始まった。

 その中で、新政権のスタンスは次第に民間よりに動き、NIIの構築原則も93年9月の9原則から94年1月の5原則へと整理され、競争体制の下にある民間部門の投資に主として依存すべきことを確認する内容のものとなった。(しかし、テレコムに競争を全面的に導入するための連邦通信法の改正は、関係業界、とりわけ地域電話と長距離電話業界の利害調整が難航したためもあって意外に手間取り、96年の2月までかかった。)

 第二に、NIIの具体的な形としては、視聴者からの送信も可能な「双方向テレビ」が最も有望だとされた。とりわけケーブル会社は、幹線の光化や双方向通信能力の付加、テレビに付加されるマルチメディア端末としての「セットトップボックス」開発に、いっせいに乗り出した。電話会社も負けじと幹線の光化を推進すると同時に、既存の銅線を使ったままでの広帯域のビデオ伝送を可能にするVDT(ビデオ・ダイヤルトーン)の技術−−具体的にはADSLと呼ばれる非対称の高速伝送技術が有望視された−−の開発に乗り出した。あるいは、資金力や政治力には欠けるが、すでに同軸ケーブルという広帯域のアクセス網を有している、ケーブル会社との合併を策した。

 第三に、マルチメディア産業の当面の応用分野としては、教育や医療のような社会的利用、あるいは企業の情報通信システムのようなビジネス利用よりは、大衆消費者向けあるいは娯楽指向の「ビデオ・オン・ディマンド」が期待を集めた。(さらに、それに電話やホーム・ショッピング、ホーム・バンキングなどのサービスを加えた、消費者のための「フル・サービス・ネットワーク」のビジョンも提示され、その実現をめざす実験の計画がいっせいに発表された。)

 だが、第一次新ゴールドラッシュは、94年が明けるころから、さまざまな蹉跌や齟齬に直面し始めた。連邦通信委員会(FCC)によるケーブルテレビ料金の引下げ命令は、ケーブル会社の資産価値をも引き下げる効果をもち、電話会社とケーブル会社の合併話に冷水を浴びせる結果となった。双方向テレビにかかわる技術の開発や実用化は、当初の予想よりもはるかに困難なことが、ほどなく明らかになった。ビデオ・オン・ディマンドへの大衆的な需要も、ほとんど期待できないことがわかってきた。こうして、マルチメディアの「新サービスが市場に出て巨額の収入をあげるのはずっと先のことで、現実には余りにも多くのことを余りにも早く約束しすぎた」ことや、「双方向サービスは進化型の事業であって、革命型の事業ではない」ことが理解されてくると同時に、一時の熱気はたちまち雲散霧消していったのである。

しかし他方では、双方向テレビ・ブームの沈滞を尻目に、これまでの電話や放送とは異なる、「パケット交換による分散協調型の多方向情報通信システム」としてのインターネットへの公衆の関心と参加は、この時期全体を通じて急激な高まりを示し続けていた。インターネット接続サービスの商用化はすでに92年から始まっていたが、94年には、「キラー・アプリケーション」としてのワールド・ワイド・ウェブ(WWW)、とくにそのマルチメディア型のブラウザーとしてのモザイク(後のネットスケープ)の普及を梃子として、インターネット上での「ホームページ」の開設がブームとなり始めた。連邦政府の関係者も、公式の席でしばしばインターネットに言及するようになった。

94年に見られたもう一つの注目すべき動きとして、NII−GIIの構築に果たす無線通信技術の役割への関心の高まりがあげられる。そのきっかけは、ゴア副大統領が3月のITUブエノスアイレス会議で行った演説だった。彼はそこで、数十・数百の低軌道(LEO)衛星群が地球上のどの地点にも供給する電話あるいはデータ・サービスこそ、テレコムのユニバーサル・サービスを実際的で手頃な価格で入手できるものにしてくれる、というビジョンを示したのである。その直後に、先発の "イリディウム" に加えて、 "テレデシック・システム" や "グローバルスター" などの、グローバルな電話・データ通信システムの認可申請がFCCに対して行われた。さらにメトリコム社は、僅か一億ドルの費用で、全国的な無線通信システムの建設が可能だと言明した。確かに、地球全体を安い料金でカバーする広帯域ディジタル無線通信技術がいったん実用化の段階に入れば、それが既存の通信技術や産業におよぼす影響は、想像を絶するものがあるだろう。そこで、このようなほとんど予想外の事態に対応すべく、米国政府は、FCCにこれらの申請を積極的に認可させる一方、技術評価局(OTA)に、この種の新技術の可能性やそれが及ぼす影響を評価するための研究プロジェクトをも発足させることにしたのである。

ウ、1995〜96年:第二次新ゴールドラッシュとその蹉跌

 いったん鎮静した新ゴールドラッシュは、1995年に入ると再び新たな盛り上がりをみせた。第二次新ゴールドラッシュの特徴は、次の三点にまとめることができる。

 第一に、そのきっかけとなったのは、「米国のビジネス界によるインターネットの発見」(ビント・サーフ)だった。コンピューター・ソフト業界最大手のマイクロソフトは、同社の未来をインターネットに賭けると宣言した。ケーブル会社のTCIも同様な決意を表明した。長距離電話会社のAT&Tも、ようやくインターネット接続サービスの提供に本腰を入れはじめた。こうして、この時期には、インターネットこそNIIの主流であることが、広く承認されるようになった。

 第二に、しかしながら、そのインターネットの特に一般ユーザーレベルでの利用の仕方は、既存の電話回線とモデムを使った「ダイヤル・アップ接続」によるものがほとんどだった。電話会社やケーブル会社は、インターネット用の本格的新回線網の構築よりはむしろ、既存の回線網を利用したインターネット接続用回線の提供や、接続サービスそのものの提供に、もっぱら力を集中したのである。そのため、ある調査によれば、現在、家庭からの利用者の94% と、業務での利用者の74% が、電話からのダイヤルアップ接続でインターネットを利用している。これでは、高速双方向のインターネット常時接続サービスを、全国どこからでも誰もが低廉な料金で受けることは、困難だといわざるをえない。

 第三に、インターネットの利用の仕方も、本格的なビジネス利用というには程遠いものがあった。企業の中には、WWWのホームページを使った情報提供を、安価で手軽な広告媒体としか考えないものや、ホームページをすぐさま商品の販売に利用しようとするものがめだった。ユーザーの側にも、もっぱら新奇さを追いかけたり、ポルノなどの手軽な入手場所として利用したりしようとする傾向が強かった。インターネットを企業内、企業間、企業とその顧客間、の双方向のコミュニケーション手段として利用したり、共通の統一的な標準に基づく業務処理や商取引の手段としたりする必要性や可能性の指摘は多くなされたとはいえ、その線上での地道な取り組みはまだまだ不十分なままにとどまった。

 その結果、1996年に入るころから、過熱するインターネット・ブームへの批判や反省の声が、さまざまな形で聞かれるようになってきた。

 インターネット、とりわけWWWの利用が普及するにつれて、回線の混雑や、画像や音声を含むデータの入手速度の遅さに対する、一般ユーザーの不満が一気に高まった。WWWとは「ワールド・ワイド・ウェブ」ではなくて「ワールド・ワイド・ウェート」のことだったのかという皮肉な声も上がった。地域電話会社は、電話料やインターネット接続料の定額制をよいことに、電話(とくに増設した二台目の電話)をつなぎっぱなしにするユーザーの激増に(半ば嬉しい)悲鳴をあげ、電話の増設のための資金が必要という理由で市内電話料金の引き上げをもくろむ動きも生じた。(米国の電話の新規加入は、1996年には1000万台に達したが、その多くはインターネット接続のための二台目の需要だったと推定されている。)また、今や電話会社と競合し始めたインターネット・サービス・プロバイダーによるダイヤル・アップ接続サービスの提供に対しては、彼らがローカル・アクセス・チャージの支払いを免除されているという理由で、強く反発し、アクセス・チャージの支払いを求める動きを起こした。

 他方、インターネットの電子商取引利用も、時期尚早であることがたちまち明らかになった。いったんは競ってホームページの構築に走った企業も、顧客の興味を引きつけ続けられるだけの魅力のあるホームページの運営には、予想以上のコストがかかることを思い知らされた。速度の遅さに加えて、セキュリティーやプライバシーへの不安、安価で確実な電子貨幣による決裁の技術や制度の未発達などが、ネックとなった。未知の商取引の仕組みに対する一般ユーザーの関心も、物珍しさ以上の域をでなかった。

 イーサーネットの開発者として有名なボブ・メトカーフは、以前からインターネットのこのようなあり方に対しては批判的だったが、いち早く1995年12月に、インターネットは96年に「破局的に崩壊する」という予言を行った。さらにその後、分散協調的なシステムとしてのインターネットの全体が崩壊するという予言は非現実的ではないかという反論に応えて、96年7月のアトランタ・オリンピックにさいして大量のトラフィックが集中する結果、システムの部分的な崩壊が起こるという第二の予言を行った。だが、この第二の予言は明らかに当たらなかった。ただし、その理由は、インターネットが大量のトラフィックの集中に対処する能力を発揮しえたからではなくて、そもそもそれほど大量のトラフィックの集中自体が発生しなかったことにあった。したがって、この時点ではメトカーフ予言の正否にはまだ最終的な決着はつけられなかった。しかし、結局96年が終わってもインターネットの「崩壊」自体は起こらず、メトカーフは約束通り、崩壊を予想した自分の記事を粉々にして飲み込むというパフォーマンスを演ずることで、その責めをはたした。

 メトカーフの予言の外れは、「ネティズン」ともよばれるインターネットの現在の市民ユーザーたちの多くが、巷間言われるほどには一般の市民と異質な存在ではなかったことを意味しているようだ。バンダービルト大学のダナ・ホフマンらの調査によれば、アメリカのネティズンたちは、学歴、所得、政党支持などほとんどすべての面で、一般の市民と同じプロフィールの持ち主であり、唯一の違いは(若年層の比率の高さを別にすれば)どの年齢層でも投票率が優位に高い点にある。実際、オンライン雑誌の『ホットワイアード』の記事などを見ても、今日のネティズンたちは、政治的に無関心な「オタク」族であるどころか、かつての市民革命に匹敵する政治革命としての「ネティズン革命」の主導勢力となるポテンシャルをすでに備え始めているように見える。彼らはまた、企業との関係においても新しい役割を発揮しつつある。すなわち、かつての「大企業体制」の下での受動的な消費者としての役割に甘んじるのではなく、企業との積極的なコミュニケーションやコラボレーションを行うことで、「ユーザー・ドリブン」型の情報革命の展開の牽引力になりつつある。

 しかし、インターネットの主流化は、とりわけその波に乗り遅れた人々の間で、この新しい情報通信システムがもつ影の側面−−とりわけポルノや犯罪の横行、悪質な政治的・イデオロギー的宣伝の場としての利用など−−への関心を呼び起こし、未知のものへの恐怖の念をかきたてている。自分が「情報弱者」となって脱落することへの恐怖もある。そうした懸念の高まりを背景として、政府によるインターネットの規制の試みも行われ始めている。米国の場合、規制の最初の試みは、すでに95年に始まっていた。95年7月、『タイム』が、インターネット上の情報の大半はポルノだという趣旨の、カーネギー・メロン大学の学部学生による「研究レポート」を大々的に報道したことが引き金となって、米国の政界が「ポルノ・パニック」におそわれたのである。侃々諤々の論議の結果が、96年2月に成立した改正電気通信法の一部に盛り込まれた、「下品」な情報の配付を処罰しようとする「通信品位法(CDA)」となった。アメリカの市民団体はこの法律を違憲として提訴し、6月、連邦地裁は違憲である旨の第一次判決を下したが、最終的決着はまだついていない。その一方で、96年の夏には、ワシントンを中心に、インターネットの「ハッカー・パニック」とでもいうべき現象が見られた。インターネットは、ハッカーの侵入を許しやすいというセキュリティー上の弱点をもっているばかりか、暗号化技術を利用した犯罪者やテロリストの秘密のコミュニケーションの場となっているから規制が必要だというのである。

 インターネットを使ってスパイ活動を働いていたドイツ人グループを追跡捕捉した体験記『かっこうはコンピューターに卵を産む』(199 年)を書いて一躍ベストセラー作家となった若い天文学者のクリフォード・ストールは、1995年には第二作『インターネットはからっぽの洞窟』を書いて、インターネットのエバンジェリストたちの軽薄なインターネット万能論を、さまざまな角度から批判した。

 もちろん、インターネット万能論と同様、にわかに巨大化したインターネットをめぐるこの種の批判や規制要求にも、言い過ぎあるいは杞憂の面があることも確かだろう。しかし、どうすればインターネットのセキュリティーを高められるか、人々のプライバシーが守れるか、インターネット上での表現の自由や秘匿の自由をどこまで認め、どこまで、またいかに規制すべきかという問題が、今後解決すべき重要な問題として残されていることもまた、否定しがたいところだろう。

 主流化したインターネットに対する、政府の対応のもう一つは、インターネットへの課税である。インターネットを利用した州際的あるいは国際的な取引が増えてくると、地方税や国税としての消費税の徴収は困難になる。また、取引の内容が暗号化されていると、所得税や法人税も取れなくなる恐れが生ずる。財政難に苦しむ政府としては、このような事態は到底容認しがたい。そこで、インターネットの利用それ自体や、その上での取引に対して、課税しようとする試みがでてくる。しかし、そうした試みはユーザーたちの強い反発を招くだろう。この問題も、将来に残された重要な未解決問題の一つである。

 この時期の情報化をめぐる出来事でもう一つ見過ごすことができないのは、六十年ぶりといわれた米国通信法の改正である。もともと、通信法改正は、1995年の初めにほとんど実現しかけていたのだが、ぎりぎりのところで「地域電話会社の反乱」のために廃案になってしまった。また、この過程で、当初のゴアたちのもくろみもつぶれてしまった。当初のもくろみというのは、ディジタル革命の潮流を正面から見据えて、従来の電話や放送といった産業区分を超える新たな広帯域通信産業というカテゴリーを通信法の中に新たに一篇(第七篇)を設けて設定し、その規制のための枠組みを定めようというものであった。しかしこの試みは、インターネットに代表される新興の産業に性急な規制の枠を設けるべきではないという一見もっともな大義名分の前に、あえなく雲散霧消してしまったのである。こうして、地域電話会社の主張をあらためて大幅に取り入れ、一年遅れて1996年の2月にようやく成立した改正電気通信法は、結局のところ電話(地域および長距離)、ケーブルテレビ、放送というこれまでの産業区分をそのまま前提した上で、相互の垣根を超えて他の産業の領域に進出して競争する可能性を開くにとどまるという形のものに終わった。こうして、新電気通信法においては、「インターネット」という言葉は、第五篇のいわゆる「通信品位法」の中に登場するだけに終わった。

 それにしても、全面的な競争体制への移行を告げたはずの新電気通信法が成立して以来すでに一年あまりになるが、その間、「重要なこと、革命的なことは何一つ起こっていない」(ハント連邦通信委員会委員長)。それはなぜだろうか。

 少なくとも三つの要因が考えられる。その第一は、ゴールドラッシュの夢から覚めたアメリカのテレコム業界の保守化である。クリントン政権の発足当時、広帯域通信を可能にする同軸ケーブルを保有している利点を生かして、いち早く情報スーパーハイウエー構築競争の先陣を切ったはずのケーブルテレビ会社は、双方向テレビやフル・サービス・ネットワークから電話へ、さらにインターネット接続へと当面の目標を引き下げてきたが、今や直接衛星放送の脅威に対処すべく、放送のディジタル化によるいっそうの多チャネル化をはかるのに汲々としているという。他分野に進出するどころか、従来の市場でのシェアを守るのに精一杯なのである。他方、地域電話会社は、ケーブルテレビ会社からの脅威が去る一方で、インターネットの最近の急速な普及がもたらした二本目の電話需要の爆発的拡大に、すっかり安心したらしく、長距離への進出や回線の光ファイバー化を先送りして、従来型の加入者線の増設に努める一方、そのための資金源として、インターネット接続業者からアクセス料をとろうとしている。また、相互の合併で、地域での独占的地位をさらに強化しようとしている。競争相手からの相互接続の要求やFCCが規定した接続料金の新たな算定方式に対しては、訴訟作戦で対抗しようとしている。

 これに対し、長距離電話会社、とりわけその最大手のAT&Tは、一見積極的な競争政策を展開しているようにみえる。同社は、1996年初めインターネットへの一部無料の接続サービスを長距離電話サービスとバンドルして提供すると発表して、一挙に全米第二位のインターネット接続業者となった。またつい最近、全米の90% の地域をカバーする広帯域通信の可能性をもった固定体無線のシステムの展開を発表して、市内電話事業にも参入しようとしている。しかし、AT&Tがインターネット型の情報通信システム事業への全面的な転換をどこまで本気で考えているか、またそのための技術的、設備的、および資金的な基盤をどこまで十分にもっているかは、必ずしも明らかでない。(インターネット型の新しい通信網の構築に本格的に取り組んでいるのは、長距離二番手のMCIや、CLEC(競争的市内網キャリアー)と呼ばれるWorldCom−MFS−UUNet連合などである。)

 ヨーロッパ諸国も含めた国際通信の分野では、グローバルな連携の試みからさらに進んで、BTとMCIの合併に見られるような、いっそうの巨大化への動きが始まっている。これは、一つには多国籍企業のような顧客に、多様なサービスをバンドルしてワンストップで、しかも送信者から受信者までの全通信路をエンドツーエンドで提供することで、顧客の囲い込みをはかるためだという。もう一つの狙いは、途上国の独占的通信企業に対して多額の補助金を事実上提供する結果となっていたこれまでの電話料金の国際清算制度を、先発国の通信企業がバイパスするところにあるという。他の産業では、情報革命に伴って、アウトソーシングから分社化やネットワーク化、さらには「バーチャル・コーポレーション」化の動きが急激に進んでいるのに、国際通信の世界ではまるでそれに逆行した動きが見られるのは、奇妙と言えば奇妙な話である。

 その第二は、連邦通信委員会(FCC)の不徹底な態度である。情報ハイウェイの現状に関するハント委員長のイメージでは、「米国の情報ハイウェイは、放送、衛星、ケーブルテレビ、移動体、有線という五つの車線で構成されており」、しかも現在すでに、それらの「五車線全てが国中の人につながっている」というものである。したがって、連邦通信委員会としては、これら五つのすべてが、適切な料金体系の下で、ユニバーサル・サービスを確保しつつ競争し続けていくことを期待している。そこに(おそらくは意図的に)欠落しているのは、ジョージ・ギルダーのいう「ディジタル化されたあらゆる情報を伝送する単一のネットワーク」の不可避的な出現というビジョンである。あるいは、インターネットのための固有の「情報ハイウェー」を構築する必要があるという認識である。どうやら連邦通信委員会としては、それを認めることがそのまま、既存の地域電話会社による市内通信市場独占の持続を認めることにつながると思って警戒しているらしい。

 しかし、連邦通信委員会のこのような姿勢は、少なくとも三重に疑問である。第一に、単一のディジタル・ネットワークはまだ現実には構築されていないのだから、それを地域電話会社、あるいはどれか特定の一つの業界が所有しているはずもない。第二に、未来の単一のネットワークは、一個の企業によってその全体が所有されるようなものではなく、むしろ、多数の企業あるいは団体によって所有されるその諸部分が、互いに相互接続・運用されることによって、一個の全体として機能するはずのものである。第三に、そのような未来のネットワークの構築において、かりにどれかの産業あるいは企業がリーダーシップを発揮したり先陣を切って走ることがあるとしても、地域電話会社が必ずそのような役割を果たすという保証は、どこにもない。ともあれ、連邦通信委員会が、このようなある意味でどっちつかずの態度をとり、競争の分野を既存のサービス相互間に想定している限り、新しい広帯域ディジタル通信網そのものの構築をめぐる本格的な競争は容易には起こってこないだろう。それは同時に、逆説的ながら、地域電話会社による市内電話網の独占もまた容易には破れないことを意味するに違いない。

 電気通信法の改正による「競争体制」の導入にもかかわらず、競争がなかなか始まらない第三の理由は、「競争」そのもののあり方の変化である。通信業界に限らず、これからの競争は、既存の市場での同業者間の在来型の競争、ないしは既存の市場に外から参入を試みる異分野からの相手との競争とは、質的に異なる形をとりそうに思われる。第三次産業革命の開始に加えて、産業化を超えるような情報化に向かう動きが起こっていることが、そのようないってみれば競争パラダイムそのものの転換を要求していると思われる。しかし、これについては章を改めて検討しよう。

 それにしても、このような新たな状況の下では、現在いわば一時的に見られるような放送・通信業界の保守化や大型合併の傾向自体、それほど長続きするとは到底考えられないということだけは、ここで強調しておいてよいだろう。たとえば、インターネット接続サービスの分野では、現在すでに、既存の銅の電話線、あるいは光ファイバーや無線を利用した各種の高速通信技術が、次々に開発され、その一部は実用化され始めている。(とくに北欧の一部では、ストックホルム市などの自治体による光ファイバーの敷設と低廉な価格での貸し出しの試みがきっかけとなって、「ダークファイバー」を利用したLAN間接続の試みが一気に拡大する勢いにあるという。)そういった点に注目するならば、まさにこれから、既存の電話や放送網とは別の新たなディジタル通信市内網の構築をめぐる本格的な協働と競争の時代が、ようやく始まろうとしているのではないだろうか。

 国際通信でも事情は同じである。インターネットには、本来国内とか国際の区別はない。通信の全経路を一社で抑えるという考え方もない。個々のLANを単位とする異なるネットワーク同士が互いにつながりあったもの、というのがインターネットの基本型である。サービスのバンドル化やワンストップ・ショッピング化にしてもそうである。とりわけこれからの智業や智民は、その種の便利さを歓迎するよりは、一つの巨大企業に囲い込まれて選択の自由を失うことの方を、より恐れるのではないだろうか。資産管理であれ、情報通信であれ、単一の企業に全てを依存するかわりに、自力で、あるいは中立的なコンサルタントの助けを借りて、さまざまな事業者のさまざまなサービスを組み合わせて、自分にもっとも好都合な形で利用したいと思うのではないだろうか。そうだとすれば、国際通信、いやグローバル通信のビジネス・モデルも、早晩、そうしたニーズに正面から応えるものになっていかざるをえないだろう。

エ、1997−98年:真のNII−GII構築とその業務利用の開始

 そういうわけで、1995年から96年にかけてのインターネットをめぐる「第二次ゴールドラッシュ」騒ぎと、既存の放送・通信分野での市場シェアの防衛努力の強化の中で、次の三つの事実が次第に明らかになりつつある。

 その第一は、米国には、光ファイバーによるインターネット用の回線網を本格的・競争的に構築することが、いつでも可能になっているという事実である。全国的幹線網については、光ファイバーの敷設はすでに十分以上に進んでいて、電話用にはその1/4しか利用されていないといわれる。しかも幹線上の情報伝送の高速化も、年と共に進んでいる。気がついてみると、幹線網に関する限り、電話はまったくの傍流の地位に追いやられていたという日の到来は、意外に近いのかもしれない。現に、WorldCom−MFS陣営の傘下に入ったUUnet社が打ち出した最近の戦略は、大手のインターネット接続サービス業者が、NSFの資金で構築された相互接続点(NAP)の利用を止める一方、これまでのような無償相互接続(peering)は、同等な規模をもった同業者に限定し、小規模業者との接続は拒否するかもしくは別途接続料を要求する、というものである。これは、完全に民間主導型の商用インターネット幹線網の再構築が着々と進んでいることを如実に示す動きだといえよう。

 市内網についても、大企業のほとんどのオフィスには、光ファイバー専用線がすでに引かれている。大都市のダウンタウンでは、MFSやテレポートなどの新興企業が、光ファイバー網の敷設競争を進める態勢を整え終わっている。さらに、既設の光ファイバーを「ダークファイバー」として借用して、インターネットへの接続のために利用しようという考え方も、次第に支持をえつつある。

 その第二は、既存のケーブル、電話、セルラー網が、主流としてのインターネット幹線網への補助的な(しかしそれなりに高速化された)アクセス網としての新たな役割を、当分の間果たしていくための新しい技術が、いよいよ実用の段階に入りはじめたという事実である。ケーブル回線を利用した高速インターネット接続を実現するケーブルモデムと、XDSLと総称される既存の電話線を高速でインターネットに常時接続させる技術とが、97年から次々に実用化し始める。ディジタル衛星放送の空きチャネルを利用して、インターネットのコンテントを高速配信する試みも、すでに商用化が始まっている。他方、それよりは遅れるにしても、移動体だけでなく固定体をも対象とした各種の広帯域の双方向型あるいは放送型のデジタル無線通信技術も、実用化への歩みを進めつつある。

 そればかりではない。実は、これらの技術は、インターネット幹線網へのアクセスのための補助的技術というよりは、より積極的に、LANを構築したり、LAN間を相互接続したり、LANへのアクセスに利用したりするための技術としても、有望である。未来の広帯域コンピューター通信のネットワークを、既存の電話やケーブルテレビのネットワークの延長線上に構想すること自体が、基本的に誤っている可能性がある。その意味では、光ファイバーが未来のネットワークの中核となる伝送路となることは間違いないにしても、それが既存のメタルの電話網の構造はそのままにして、それを光で置き換えたもの、最終的には光が電話局から家庭やオフィスまで届くといういわゆるFTTH型のものになるかどうかは、疑問だといわなければならない。未来のネットワークでは、電話局や交換機そのものが、無用のものになる可能性が高いのである。現在のアメリカでは、高速アクセス技術の登場に伴って、FTTHの見直しが急速に進んでいるが、その意味が単に「最後の一マイル」の光化の見直しにあると考えると、見通しを誤ってしまうのではないだろうか。

 その第三は、「インターネット」というコンセプト自体が、未来のディジタル通信網を指す言葉として、世界的に定着しつつあるという事実である。米国政府は、すでに1996年以来、

  1. 今後の情報化の主要課題は、全米のコミュニティ (とりわけ学校や図書館) をインターネットに今世紀中に接続させること、
  2. 行政改革 (米国流にいえば「政府の再発明」) 努力の中心にインターネット利用を置くこと、
  3. 未来のグローバルなビジネスの枠組みをインターネットのインフラや技術を基盤とする電子商取引(EC)あるいはインターネット・コマース(IC)に置くこととし、米国がこの分野での世界的なリーダーシップを発揮すること、
  4. 次世代インターネットの開発を政府が中心となって推進すること、

などの政策イニシアティブの推進に踏み切っている。1997年の大統領の年頭教書にはインターネットという言葉が六回も登場した(他方、日本への言及は一度もなかった)ことは、それを象徴している。政府のレベルでは、新しい (人工) 生命系ないし新種の生命体として自ら進化を続けるインターネット型の情報通信システムを中心とする情報社会の未来ビジョンはすでに確立したといってよいだろう。クリントン=ゴア政権の中枢部は、近年の人工生命理論や複雑系の理論の発展に見られる新しい科学パラダイムの台頭を当然のこととして受け入れ、それをもとにした政策の立案や展開を大まじめで試みている。進化するインターネットの初期条件としての「DNA」はどのようなものか、生命系としてのインターネットを「カオスの縁」に起き続ける政策−−つまり極端な規制によって逼塞させてしまったり、逆に何も規制しないで無政府状態のカオスに陥れてしまったりしないための政策−−としてはどのようなものがあるか、インターネットが単に進化し存続するだけでなく、人類にとって望ましい機能をもっぱら提供してくれるシステムとして進化する方向にそれを誘導するために、政府としてなすべきことは何か、といった問題意識をはっきりと抱いている。

 しかも同時に、企業でのインターネット(ないしイントラネット)とマルチメディアの本格的なビジネス利用のための技術の開発と利用も、急速に進んでいる。コンピューターと電話を統合して利用するためのCTI技術や、パソコン用ビデオ会議システム、ネットワーク上で利用できるロータス・ノーツのような各種のグループウエア、さらに三次元のグラフィックスやバーチャル・リアリティのビジネス利用のための技術などが、続々と利用可能になりつつある。

 このように見てくると、1995年来のいささか浮ついたといわざるをえないインターネット・ブームを中心とした第二次新ゴールドラッシュは、すでに終わりを告げようとはしているものの、それがインターネットの崩壊やインターネットへの関心そのものの消滅を意味しないことは明らかである。むしろ、企業も政府も市民たちも含めた、インターネットの着実な業務利用の試みが、これから本格的に展開するといってよいだろう。

2.2 日本の情報革命

 次に日本での情報革命の進展のあとを簡単に振り返ってみよう。

 最初に個人的な体験を述べてみたい。私が、インターネットの意義に気づかされたのは1992年のことだった。この年の6月にインターネット協会の世界大会の第一回が神戸で開催されることを聞き、それに参加したのが私、およびグローコムのインターネットとの遭遇であった。

 当時、設立されたばかりのグローコムには、自分たちのコンピューター・ネットワークを国際的なゲートウェーとして、日本に関する情報を提供したり、海外からの情報を入手して国内に提供するといった形で、グローバルなコミュニケーションの推進をはかりたいという思いが強くあった。具体的な試みとしては、パソコン通信による二カ国語電子会議を開催していた。これは、日米両国から数十人の参加者を募り、日本語と英語の電子会議室で、当面の政治・経済問題についての自由な討論を行い、それぞれの間はコンピューターによる自動翻訳でつなごうというものであった。しかし、実際にスタートしてみると、自動翻訳の質がきわめて劣悪で、とうてい使い物にならないことがわかった。そこで今度は人間による翻訳に切り換えたが、それだと翻訳に時間がかかりすぎた。(しかも、驚いたことに質の面でもたいした改善にはならなかった。翻訳の質が悪いことをいくら指摘しても、翻訳を担当している人々自身がどうしてもそのことを理解してくれないために、どうにもならなかったのである。)結局、この最初の試みは、ずいぶんご無理をお願いして中曾根康弘氏をはじめとするそうそうたる方々にご出馬をいただいたにもかかわらず、惨憺たる失敗に終わった。

 情報交流のゲートウェーとしてパソコン通信ネットワークを利用するというアイデアにも限界があることがすぐわかった。海外の情報を入手しようと思えば、われわれがいくつものネットワークに個別に加入する必要がある。あるいは海外の人々にわれわれのネットワークに加入してもらう必要がある。いずれにしても、多額の国際通信料金の支出が必要となる。一々接続する手間も相当なものである。各ネットワークのメールや電子会議を相互接続したり、データベースを共有することは、事実上不可能である。

 そんな時にたまたま出会ったインターネットは、まさにそうした壁を取り払ってくれる可能性があるもののように思われ、私たちはすっかり興奮したのである。神戸大会の熱気も、その興奮に輪をかけた。私は、グローコムの所内ネットワークもインターネットに接続すべきだと確信し、吉村伸氏の助言と指導の下に、早速その準備にとりかかった。当時、グローコムの所内でインターネットに関する知識と経験をもっていたのは、出口弘氏(現京大助教授)であったが、吉村氏が当面192Kの専用線を引くことから出発しようと提案したのに対し、出口氏はそんな太い線は不必要だと反論して、口角泡を飛ばす議論になった。結局その議論は、吉村氏が192Kくらいの帯域は自分一人でも使い切って見せると断言したことで決着した。(後の展開は、吉村氏に先見の明があったことを示した。グローコムはその後年々回線の高速化を行い、現在は1.5メガの専用線でのインターネット・アクセスを行っているが、さすがにこの速度になると、普段はがらがらといった状態になっている。)

 1993年、私と会津泉氏は、カナダのサイモン・フレーザー大学のリンダ・ハラシム教授が企画した、インターネットでの電子メールを使った共著の出版の試みに参加した。二十人ほどの参加者が、自分の担当する章の原稿を電子メールで他の参加者に送ってコメントを求め、それをもとにして書き直した原稿を、やはり電子メールでハラシム教授のもとに送るという仕組みである。この時の電子メールは、TWICS(いち早くインターネットへの接続を実現していた東京を拠点とする国際的なパソコン通信のネットワーク)経由で、UUCP方式でやりとりされているものを私たちがTWICSに接続して受け取るという、今から思えばずいぶんのんびりした方式のものだったが、それでも、「これは使える」という実感をもった。その共同作業の中で、TWICSのシスオペから、バークレーの大学院学生に転じたジェフ・シャパード氏と会津氏の間で熱っぽい論争が繰り広げられたことも記憶に新しい。シャパード氏が、「日本のパソコン通信ネットワークはそれぞれが閉じた島のようなもので、相互の交流に乏しい。だから、一日も早くインターネットに接続し、インターネットを通じての交流をはかるべきだ」と強い口調で批判したのに対し、会津氏がパソコン通信擁護の論陣を張って対抗したのである。しかし、この論争はどう考えてもシャパード氏の方に分があると思わざるをえなかった。

 私はまた、1992年から93年にかけて、NTTデータ通信株式会社のシステム科学研究所の所長を兼任していた。週一度所内セミナーを開いて、最初の年はシステム論、次の年は情報文明論の講義を試み、議論をしてもらった。その間、インターネットの重要性を繰り返し指摘し、「データ通信」を社名に関する会社としては、インターネットのためのシステム構築や接続サービス提供に社をあげて取り組むべきではないかと意見具申したのだが、いっこうに取り合ってもらえなかった。何でもインターネットについては、社内外の専門家を集めてサービス提供の可否を検討した結果、ビジネスとしては成立しないという結論にすでに達しているということだった。社名に「通信」という言葉が入っているのは歴史的な理由によるもので、現在の同社の主流はクライエントの社内情報システムの構築やそれを支えるアプリケーション・ソフトウエアの開発にあるという説明も受けた。ダウンサイジングの時代でもクライエント各社には自社の情報システムの優越性へのこだわりが強く、市販されているパッケージ・ソフトウエアを使ってはどうかと提案しようものなら、「当社のシステムは、そんなことですむほどやわなものではない」といってにべもなく却下されるのだという話も教わった。

 同じころ、総務庁の依頼で、行政の情報化推進に関する勉強会の座長を引き受けた。会のメンバーには、日本を代表する情報通信関係企業の方々が加わっていた。半年かけて熱心に議論し、今こそ本格的に行政の情報化に取り組むべき時がきているので、そのためにも、霞が関全域をカバーする行政情報ネットワーク(霞が関WAN)をまず構築せよとか、各省庁にCIO(Chief Information Officer)を置くべきだ、行政情報化五カ年計画を策定すべきだ、などといった内容の報告書を提出した。その時点で私が受けた印象は、企業からの参加者の方々は自信たっぷりで、「われわれは情報化を着実に推進している、情報化の面での日本の問題点はもっぱら行政の相対的な立ち遅れにあるので、行政は企業の経験に学ぶべきだ」という立場に立っているなというものだった。しかし、議論の間に「インターネット」という言葉を聞くことはまずなかった。

 このような状況が一変したのは、1993年の11月だった。この月の上旬に、『ニューヨーク・タイムズ』や『ウォール・ストリート・ジャーナル』、あるいは『タイム』など、アメリカの主要なジャーナリズムが、日米比較のデータをあげつつ、日本の情報化の立ち遅れをいっせいに書き立てた。ディジタル革命の時代には、アナログのハイビジョンなど物の数ではないとされ、あれほど声高だった「ジャパン・バッシング」の声は、あれよあれよという間に、「ジャパン・パッシング」から「ジャパン・ナッシング」への流れのなかにかき消えていった。その結果、次図に見られるように、日本でも遅ればせながら、「マルチメディア」や「情報革命」への関心が一気に高まっていった。1994年の前半には、通産省と郵政省がそれぞれ、日本の情報化の立ち遅れを指摘しつつ、その克服のための処方箋や将来ビジョンを示した。8月には内閣に「高度情報通信社会推進対策本部」や有識者会議が設置されることになり、翌年2月には「高度情報通信社会推進の基本方針」が発表された。それにもとづいて、情報化の進展を妨げているような制度や規制を洗い出してそれらを改定・廃止するための見直し作業も行われた。また、1994年の暮れには、行政情報化五カ年計画の基本計画が閣議決定され、翌95年にはその実施計画と省庁別の個別計画とが、それぞれ策定されていった。96年には霞が関の中央各省庁のほとんどすべてにLANが引かれた。そして97年からはそれらのLANが、まず電子メールの相互交換から始めてWANに連結され始めている。いずれは、電子メールだけでなくさまざまな文書の交換やデータベースの統合利用なども行われるようになっていくだろう。97年にはまた、中央省庁本体だけでなく、関連機関や出先機関とのネットワーク化も進み出すことが期待されている。情報化関連支出が年々二桁の伸びを示す中で、国の予算全体の中で情報化関連予算項目の占める比重も、次第に上昇している。財政支出の削減努力のさなかではあるが、情報化のための支出は別だとか、情報化支出をテコとして他の支出項目の削減を実現しようといった考え方が、ようやく普及し始めたのである。

 他方、1994年を通じて、日本でもインターネットへの関心はある程度の高まりを見せてはきたものの、その範囲はまだごく限られていた。この年の12月に日本経済新聞社が主催したあるシンポジウムで、私はインターネットの重要性を口をきわめて強調したが、その模様の報道とコメントの中で日経の中島洋編集委員(当時)は、その私の様子にいささかの驚きを表明していた。

 しかし、1995年になると事態は大きく動いた。ワールド・ワイド・ウェブのアメリカでの流行ぶりや、アメリカのビジネス界がこぞってインターネットの市場としての可能性に注目し始めたことなどが日本にも紹介される中で、日本でもインターネット・ブームが巻き起こった。この年の初めに朝日新聞の一読者は「インターネット」などというわけのわからない言葉が社会の公器としての新聞の紙面に登場することに対する抗議の投書を送ったが、同じ年の暮れには「インターネット」という言葉はその年の流行語大賞に輝いたのである。新聞記事への出現頻度で見ても、「インターネット」はこの年「マルチメディア」を大きく追い越してしまった。(次図参照。)同じころ、アメリカでようやく使われ始めた「イントラネット」という言葉も、ただちに日本に紹介され、1996年には大企業によるイントラネットの導入の試みが競って行われるようになった。インターネット接続サービスを提供する業者(ISP)の数も一気に増え、1996年中に1000社を越えるにいたった。インターネットに接続しているホスト・コンピューターの数も、1995年以来年々倍増以上の速度で増加しはじめ、1997年の初頭には絶対数ではドイツを抜いて世界第2位の地位を占めるにいたった。(もっとも、一人当たりでいうと、まだ世界第18位あたりにとどまっている。これは、GNPでいうと総額で自由世界第2位を達成したが一人当たりでは世界第17位に甘んじていた1960年代末の状況によく似ている。)

    〔※図表挿入〕

 ということは、今にして思えば、1993年前半の時点での日本の企業の自己認識−−情報化において自分たちは決して遅れをとっていない、遅れているのは行政の方だという自己認識−−は、決して正確ではなかったということだ。日本の情報化の立ち遅れは、コンピューター利用の面でもネットワーク化の面でも、何よりもビジネスの分野で著しかったのである。しかし、そういった状況も、ここにきてようやく一変しつつある。企業の投資総額の中では、情報化投資の占める比重が第一位となっている。電子商取引(EC)は、今ではビジネスの未来の方向を指し示す合言葉となっている。電子決裁や電子貨幣、あるいは電子金融への移行も当然視されるようになった。企業の情報通信システムプロパーについてみても、もちろんファイアーウォールなどのセキュリティ確保手段はさまざまに講じられるにしても、あらゆる企業に共通の標準やアプリケーションが広く採用されることの意義は、実に大きいものがある。これによって、企業の情報ネットワークのオープン性が確保され、今井・国領氏らの提唱している "プラットフォーム型産業組織" や "オープン型経営" に向かっての産業や経営のパラダイム転換を推進する基盤が作られていくだろう。また、企業が自社専用のネットワークの構築へのこだわりを捨てて、公衆網への依存度を強め、その上でのVPNの展開と活用に踏み切るならば、ネットワークのコストが大幅に節減されるだけでなく、関連企業や顧客との緊密な双方向のコミュニケーションやコラボレーションの推進も、はるかに容易になるだろ。

 他方、再燃したNTT分割論議の中で、いちはやく1994年の一月に、電話会社から「マルチメディア会社」への転換を公式に表明していたNTTは、1995年6月、コネクションレスのデータ通信サービスとしてのOCNの構築と、それを通じたインターネットへの接続サービスの提供にも、1996年の秋から逐次踏み切るという方針を決定した。さらに1995年の9月には、自社の保有する回線の他社の回線との相互接続の許容と、サービスのアンバンドル化を全面的に行う決意を表明した。それに刺激されて、NCCの各社やKDDも、インターネット接続サービスの提供やインターネット回線の敷設計画を次々に発表し始めた。

 もっとも、NTTのOCNサービスは、いまのところ、結果的には当初期待されたような本格的なインターネット用の超高速全国幹線網の構築の方向からはそれていってしまっているように見える。というのも、幹線部分のサービスはフレームリレー(CIR=0)で間に合わせる一方、接続サービスとしては電話のダイヤルアップによるものや、個別に提供される低速(128K)の回線を途中で何本(8〜24本)もたばねて一本化することで料金の低下を実現しようとした「OCNエコノミー・サービス」が重視されたりするようになったからである。

 当初期待されたようなインターネット幹線網や相互接続点の構築計画は、むしろNTT以外の事業者によって進められている。1997年の5月に発表されたCIX(商用インターネット相互接続)計画はその一例である。もっともNTTの方も、専用線サービス部による64〜128Kの専用線の廉価提供や、ATM交換機による高速伝送回線を共同利用する「メガリンク」サービスの提供などといった、新たな試みを別途始めている。OCN事業部も、ようやく「OCNエンタープライズ」のような、本格的ビジネス利用のためのインターネット接続サービスの提供に踏み切り始めている。

 このように見てくると、日本の情報化も、1990年代の後半にいたって、ようやくその活気を再び取り戻したようにみえる。少なくとも、行政の情報化は中央政府のレベルで見る限り、今後急速に進むだろう。また大都市の大企業は、これまでのメーンフレーム・コンピューターとカスタマイズド・ソフトウエアそして社内専門家集団としての情報システム部門にもっぱら依存してきた社内情報通信システムのあり方を抜本的に見直して、インターネットの技術やアプリケーションを、自社内のあるいはさらに関連企業をも加えた情報システムの中に、イントラネットやエクストラネットの形で導入・利用していく試みを、真剣に始めている。もちろん依然として、「セキュリティー」のなさや「顔を突き合わせないコミュニケーション」のおぞましさに対する懸念を言い立てて、インターネットの導入に抵抗しようとする傾向も、決してなくなったわけではない。(そう言いながら、クラッカーの侵入やビィールスの感染に対する防御措置は、はなはだ不十分にしか講じられていないという皮肉な現実があるようだが。)それにしても、もはや大きな流れは決まったといってよいだろう。

 つまり、情報化は今度こそ業務の生産性の向上とコストの引き下げに、本当にきき始めたのである。これは日本の例ではないのだが、米国の調査会社IDCの調べによれば、最近の情報化投資の内部収益率は、実に1000〜1200% に達するケースが少なくないという。あるいは4〜6週間もあれば、情報化投資は回収されるともいう。たとえば、それまでは一カ月以上かかっていた新規採用セールスマンの研修期間を三日に短縮し、あとはセールス先で携帯端末から会社の情報システムにアクセスして必要なデータや指示を得させるといったようなケースが報告されている。あるいは、それまでは6カ月以上かかっていた開発企画の作成が2週間でできるようになったという例もある。車のディーラーがインターネットを使った販売システムを導入することによって、顧客の範囲を全国的に拡げることが可能となった一方、顧客の方も、さまざまな地域のディーラーの販売条件を比較検討して選択できるようになったと喜んでいるという話もある。在宅勤務も今では拡がる一方である。日本でも、辞令や稟議書や伝票類をすべて電子化することで、オフィスのペーパーレス化に向かって今度こそ本格的な一歩を踏み出そうとしている事例が見られる。そういうわけで、1990年代も後半に入ると、先に見たフォレスターの悲痛な反省の少なくとも一部は、ようやく過去のものとなりつつあるといっていいだろう。

2.3 当面の課題:CANの構築

 しかし、そうした展開にもかかわらず、日本の情報化には依然として大きな問題が残っている。

その第一は、政府も企業 (とくに既存の通信・放送産業) も、インターネットこそがこれからの情報化の主流だとする米国政府のような考え方は、まだ本当には受け入れていないことである。インターネットは何となくいかがわしい、外国産の技術でそれを正面から受け入れるのは業腹だ、機能的にも問題がある、犯罪にも利用されやすい、そのうちなくなってしまうだろう、あまり急激な普及はむしろ抑えた方がいい、といった見方はまだまだいたるところにある。また、インターネットを重視する場合でも、もっぱら狭い技術的な観点からそれを見るだけで、自分たちはここを改良して、日本独自の物にしていこう、わが社の売り物にしていこう、とする傾向も少なくない。要するに、インターネットの勃興の意味を哲学的な観点から捉えたり、あたらしい生命系の誕生として理解したりする見地が、はなはだ足りないのである。

 その一つの典型とも言うべき見方が、郵政省の「Vision21」にみられる。このビジョンでは「第二次情報通信改革の推進」を、

  1. 電気通信市場の改革
  2. デジタル化による放送革命
  3. 通信・放送の融合

という順序でまず考え、続いて「トータルデジタルネットワークの構築」を、

  1. 固定系ネットワークの高度化、と
  2. 移動系ネットワークの高度化

の合成として考えている。そこでは、「インターネットの高度化」は、固定系ネットワークの高度化の一つの要素とされているにすぎない。つまり、移動系ネットワークの高度化の一つの要素として考えられている「周波数資源の開発」と対称的な位置におかれているだけなのである。

 しかし、既存の電話や放送は、それぞれ一世紀から半世紀にわたる長い進化の歴史をもち、それなりに成熟した技術・サービス・産業となっている。電話や放送がこれ以上の進化の活力をまったく失ったとみなすことはできないにしても、それほど大きな進化のポテンシャルはもう残っていないと考えるべきではないだろうか。比喩的にいえば、電話や放送は霊長類の別々の種として進化していったゴリラやオランウータンのようなものである。それらを「融合」 (交配?)させることは、不可能である。他方、インターネットは、発生期のホモ・サピエンスのような新しい「種」であって、今後いくらでも進化していく可能性をもっているが、現時点ではその能力は限られている。インターネットが電話や放送の機能をもつことは、現在でもある程度可能だし、将来はさらに容易になっていくだろう。しかし、これらの機能プロパーでインターネットが電話や放送に競争を挑めば、すくなとも当分の間は、まず勝ち目はないだろう。それにしても、電話や放送のような個別的機能が、その上で真に融合しているような情報通信システムがあるとしたら、それはまさに、今日のインターネットの進化の経路上に出現するシステムに違いあるまい。今日のインターネットが、旧人としての「ネアンデルタール」のようなものなのか、それともすでに新人たりえているのかは、それこそ「技術的」なイシューにすぎない。問題は「サルはヒトにはなれない」以上、サルの進化を促進しようとするだけの試みは徒労に終わる運命にあること、の的確な認識にある。つまり、情報通信政策の主眼は、ヒトの原型にあたる新しいシステムに焦点を合わせ、その進化を推進すること (同時に、旧いシステムについては、それが「天命を全うする」のを助けること) におかなければならないのである。このような観点からすれば、現在の電話のシステム構造をそのままにして、それを全面的に光ファイバーで置き換えていくといういわゆるFTTH推進路線には、基本的な問題があるといわざるをえない。同様に、既存の電話を、料金やサービスの面で、インターネットのような新しいシステムと直接に競争させることは、どちらにとっても好ましいことではないと考えざるをえない。

 しかし、もちろんそのことは、現在の電話や放送のシステムにこれ以上の進化の余地がまったく残っていない事を意味しない。それどころか、電話や放送の進化は、われわれの眼前で依然として起こり続けている。テレビはケーブルテレビから衛星放送テレビとなり、さらに地上波のディジタル化も始まろうとしている。電話は、FAX機能を取り込み、さらに移動体電話として発展している。そう遠くない将来に、固定体無線の市内網や、低軌道衛星で世界をカバーする長距離網も出現してくるだろう。だが、これからの情報通信システムの主流が「ヒト」にあたるインターネットの進化型だとした場合、「サル」にあたるテレビや電話のいっそうの進化の行き着く先はどこなのだろうか。

 一つのありうべき帰結は、電話や放送の「機能」自体が新しいインターネットのシステムに取り込まれていって、既存のシステムとしての電話や放送は死滅してしまうというものである。だが、それは容易には起こらないし、起こるとしてもずっと遠い将来−−30年とか50年といった将来−−の話であるように思われる。むしろより可能性の高いシナリオは、たとえばテレビがインターネット型のシステムの隙間に「ニッチ」を与えられて、相対的に細々と生き残るといったものではないだろうか。あるいは、電話が無線電話となり、さらにインターネットの中核部分へのグローバルおよびローカルな無線アクセス系となって、インターネットの「サブシステム」として存続するというシナリオも考えられるだろう。

第二の問題は、中央の行政や大都市の企業のレベルでの情報化の進展に比べると、地域のレベルでの情報化が、相対的に立ち遅れていることである。とりわけ問題なのは、全国のすべての地域をカバーする「新市内網」としてのディジタル情報通信網の構築が、政府にとっても、既存の通信企業にとっても、主要な政策課題とはされていないことである。郵政省や通産省、あるいはその他の省庁にしても、地域でのインターネットの構築と利用にかける意気込みや、そのための既設の光ファイバー(および同軸ケーブルやメタルの電話回線)の活用に対する姿勢は、それほど積極的とはいえない。他方、すでに見たように、いち早く電話会社からマルチメディア事業者への転換の決意を表明したはずのNTTが始めたOCNサービスは、いろいろな問題を残している。とくに、インターネット幹線網への高速で廉価なアクセスや、地域のLAN相互間の高速接続を可能にする、銅線を利用したXDSL技術の開発や利用、ケーブルテレビ・ネットワークの利用、あるいは光ファイバー心線の提供となると、明らかにアメリカの地域電話会社にくらべてさえ、一歩遅れを取っている。(アメリカの地域電話会社は、遅まきながらではあったが、今年の後半から来年にかけて、XDSLサービスの提供にいっせいに踏み切ろうとし始めている。ケーブルモデム技術の商用化も、当初の予想よりはかなり遅れているが、次第に実現の方向に向かっている。光ファイバー心線の利用についても、アメリカの方がより姿勢が柔軟である。)

そうだとすれば、情報通信システムのユーザーであるわれわれの当面の課題は、本格的なディジタル情報通信網の日本における展開と活用を、われわれみずから推進することでなければならない。その中心的方策は、OCN型の幹線網およびそれに立脚したインターネット中核サービスの整備と並行して、全国のあらゆる地域に、既存の電話網やケーブルテレビ網とは別の(もちろん、それらを補足的手段としては利用する形の)、インターネット本来の理念に則したLAN間相互接続型の地域ディジタル情報通信網を、一日も早く構築し活用するところにあるだろう。いってみれば、未来の高度情報通信基盤は、全国各地域 (およびユーザー) の「外」からの新幹線網構築路線と、「内」からの新市内網構築路線とが相互補完ないし協働する形で進められて行く必要がある。現在の問題は、「外」からの路線の不徹底さもさることながら、「内」からの路線の推進が決定的に立ち遅れているところにある。これではせっかく幹線網が整備されても、それへの需要はごく不十分にしかでて来ないという結果になる恐れがある。

 そのような新市内網のイメージとしては、次のようなものが考えられる。すなわち、十分高速で大容量の光ファイバー中心の "情報ループ" が、それぞれの地域コミュニティにとっての幹線網としてはりめぐらされ、それらが相互接続すると同時に、あちこちで全国幹線網に接続している。そしてこの "情報ループ" にはいたるところに "情報コンセント" がついていて、個別のLANもしくは情報機器からの回線ないしプラグをそれに差し込むだけで、高度の情報通信が誰にでも可能になる。もちろん、 "情報コンセント" には有線用(ケーブルモデムあるいはXDSL技術の利用を前提とした)のものもあれば、無線用(PDAとの接続用のものや、固定体無線回線用のもの、あるいは場合によっては赤外線接続ポートも含まれるかもしれない)のものもありえよう。私はコミュニティ全域にわたる多数のLANの複合体ともいうべきこの市内網と、それにつながっている各種の情報機器およびその上で動いている各種のソフトウエアを合わせたもののことを、LANとの語呂合わせでCAN(コミュニティ・エリア・ネットワーク)と呼んでみたい。

 ちなみに、アメリカの場合、政府は地域のすべてのコミュニティが「情報スーパーハイウエー」にできるだけ早く接続されるようになることを、明確な政策理念としてかかげている。ただし、当面は学校や図書館のインターネット・アクセスから始めるという手法をとっている。すなわち、新電気通信法の成立したのと同じ1996年の2月に、米国のNII諮問委員会は、「キックスタート・イニシァティブ」と題する二本の報告書を提出してその任期を終えた。二年間の調査研究を通じ、全国のあらゆる分野の人々から意見を聞いた結果、この委員会が到達した結論は、「情報スーパーハイウエーをコミュニティが利用できるようにすることが、米国にとって最善の策である」ということだった。しかも、委員会の考えでは、今世紀末の今後数年間こそが、それを実現するための「歴史的な機会」である。そこで、この報告書は、全米のコミュニティのリーダーたちに対して、「2000年まであと数年となった今こそ、米国は行動を起こし、あらゆるコミュニティに属するすべての人々を情報スーパーハイウエーに接続しなければならない」と呼びかけた。そして、過去の成功事例の検討からえられる決定的な教訓は、「一人の力でも状況を大きく変えることが可能だということだ」と述べた。また、「すべてのコミュニティに適した単一の手法など存在しない」ので、「各コミュニティは独自の手法を開発する必要がある」とも指摘した。この報告書を受けて、クリントン政権は、すでに1996年の春から、全米の学校や図書館を父兄やボランティアの協力を得てインターネットに接続する「ネットデー」運動の全面的な支援に踏み切った上で、昨年の秋には、全米のコミュニティのインターネット・アクセスの推進を第二期クリントン政権の主要政策の一つとして正式に発表した。

 とはいえ、クリントン政権の地域ネットワーク推進政策には、若干の問題がないわけではない。それは、既存の電話やケーブルテレビとは別の、インターネット用の固有のアーキテクチャーをもった各地域での通信網構築の必要が、必ずしも充分には自覚さていないようにみえることである。上記のNII諮問委員会の文書でも、新しいネットワークのメタファーになっているのは、かつてのゴア構想と同様、自動車のハイウェーである。だから、新ネットワークも依然として「情報スーパーハイウエー」と呼ばれ続け、各コミュニティは、「コミュニティ・アクセス・ネットワーク」〔これも略称はCANである〕を通じてそれにアクセスするものと考えられているのである。しかも、現実にはそのような「情報スーパーハイウエー」の構築自体、地域のレベルではまだそれほど進んではいないのである。

もちろん、アメリカにも、コミュニティのレベルでの情報通信ネットワーク(コミュニティ・アクション・ネットワーク−−これも略称は「CAN」ということになる)の構築と活用への期待がないわけではない。また、そのインターネットへの接続の推進を重要な課題として認識しているグループがないわけではない。たとえば、ビル・ライトが率いる国際テレコンピューティング・コンソーシアム(International Telecomputing Consortium) は、全米科学財団(NSF)の支援を受けて、農村部の学校やコミュニティにとってのインターネット・アクセスへの障害が何かを調査した。その結果によれば、アクセスにさいして長距離料金を払う必要はかなり減ってきている。しかし、専用線にしようと思うと、都市部よりもはるかに料金が高い。また、ユーザーの研修や専門職の養成も急務である。インターネットにつながったというだけでは効果的には使えない。その活用やメンテナンスのできる人材が、少なからず必要になってくるからである。

そこで、同コンソーシアムは、次の八項目の提言を行っている。

  1. コミュニティ・ネットワークの推進を。学校を基盤とするのも有効だし、公的部門と私的部門の協働も大切だ。(ミズーリ州のThe Missouri Expressプロジェクトは80のコミュニティのために、600万ドルの支出を決定している。)
  2. 「市内」料金の適用範囲の拡大を。そうすると ISPたちが参入してきて、競争するようになる。
  3. 各地の政策決定者は、技術的支援、研修、職業養成を。(ネブラスカ州のGlobal Community Initiative や州の14の郡にわたるノース・カロライナ州のMAIN(Mountain Area Information Network) などは、すぐれた研修プログラムをもっている。)
  4. 一括加入の推進を。複数のユーザーがまとめて加入すると安上がりになるし、ISP もやってきやすくなる。(ノース・カロライナ州の StanNet (Stanly County Network) では、学校、図書館、病院、大學などが共同して、高速アクセスを実現している。)
  5. 公的機関によるアクセス提供を。民間のISP がいないときの最後の砦の役割を果たすように。(アラスカ州のSLED (State Library Electronic Doorway) は、その例だ。)
  6. 「アンカー・テナント」モデルの推進政策を。州やその他の地方政府機関は、ISP にとっての「アンカー・テナント」になれる。つまり、他に顧客がいなくてもやっていけるだけの需要の源泉(アンカー)になれる。(ノースカロライナのある郡役所は、ISP に一年間だけ補助金を出すことで、自分の費用も節約したし、地域からのインターネット・アクセスを可能にした結果、地域振興にも貢献できた。Vermont Business Roundtable も同様な考え方を推進している。)
  7. 需要喚起政策を。州の機関は農村部のコミュニティにたいして、高度なテレコム利用の便益を教えるといい。(ネブラスカ州のGlobal Community Initiative は、すでにそれを行っている:教育、講師派遣、計画支援等。)
  8. 意味あるコンテントの開発を促進する政策を。双方向の議論やオンライン・コミュニティの育成に資することも含めて。政府やその他の機関はこぞって自分の情報資源をオンラインで提供して地域にサービスすべきだ。

これと似たような政策は、すでに日本でも大分のコアラによって、さまざまな形で推進されているし、他にも同様な試みをしている地域はあるものの、ここまで系統的に考えているものは少ないのではないだろうか。とはいえ、この提言は、電話でのダイヤルアップ(や場合によっては従来型の専用線の利用)しか実際上の可能性はないという前提に立っているようだ。たしかに、大都市部ならいざ知らず、農村部の場合、それ以外の現実的な選択肢は、これまでは事実上なかったといわざるをえないだろう。しかし、少なくともXDSLやケーブルモデム、あるいは広帯域固定体無線などのLAN間高速接続技術 (およびLANへの高速アクセス技術) 、さらには赤外線LANの技術などが、現に利用可能になろうとしている現在では、上述したような、地域内の光ファイバー・ループ幹線網あるいは全国幹線網への接続手段として利用する新型のディジタル市内網としてのCANの構築の可能性は、真剣な検討に値すると思われる。

 いうまでもないが、ここでいうCAN、すなわちコミュニティ・エリア・ネットワークは、電話の市内網とは別のネットワークとして、これから新たに構築されていくものである以上(もちろん、当面の間、既存の電話網やケーブルテレビ網を、その補完・代替手段として利用することは可能だし、望ましいことでさえあるが)、ここには電話の場合のような既存の独占は存在しない。電話事業者以外の(地方自治体や市民・智民団体を含む)多種多様な事業者が、あるいは個別に、あるいは連合して、その構築に参入できるはずである。また、構築の初期局面では、財政資金の思い切った投入も考慮してしかるべきだろう。新通信システムのための光ファイバーの設置は、道路や鉄道の建設に比べるとおそらく一桁も二桁も少ない費用で、はるかに短期間に可能なはずである。(岡山県のケースでいえば、岡山・倉敷間の20キロの光ファイバー敷設に要した費用は6千万円、期間は2年間だったという。それに対し、現在計画されている中国地方横断道路の追加部分は、延長36キロの建設費が1000億円と試算されている。建設期間は25年かかる。)したがって、財政資金の必要投入額もはるかにすくなくてすむ。また、システムの構築や維持の費用は急速な技術革新によって年々大幅に低下していくとすれば、必要資金量は年々減少していくことも十分ありえよう。しかし、なんといっても新しい市内網の構築の主役は、やはり既存の通信事業者だと考えることが自然だろう。とくにNTTが長距離会社と地域会社に分割されることがすでに決定された以上、分割によって生まれる地域会社が進むべき道は、CANの構築以外にありえないと思われる。いや、より積極的にいえば、NTTの長距離と地域への分割が既成事実となった今こそ、地域会社にとっては、CANの構築に邁進する事が、地域会社を真の「マルチメディア企業」、いや「インターネット企業」として発展させていくための中心戦略とされてしかるべきだろう。今はまさしくそのための「歴史的機会」なのである。

 そうはいっても、今度はこの事業をNTTが独占的に行うということではもちろんない。多種多様なプレヤーたちが、さまざまな協働や競争の枠組みの中で、それに参加してこなければならない。その時初めて、市内通信網の真の競争体制が出現するだろう。しかし、その中で、明確なビジョンに基づいたリーダーシップを発揮し、各地域での協働の中核となって活動する存在は、当然出現しうるし、また出現する事が期待されるだろう。多くの地域において、新NTTがその役割を果たせない理由はどこにもない。

 この意味でのCANの構築原則としては、次のようなものが考えられる。

基本原則:これからの情報社会にあっては、インターネット型(LANの相互接続された広域ネットワーク)の情報通信基盤が、万人にとっての最も重要な社会生活基盤となる。情報通信基盤を各コミュニティ単位で考えたものがCANに他ならない。もちろん、おのおののCANは、相互につながりあっている(WANを作っている)。しかし、サイバースペースでの活動が日常化する情報社会にあっても、最も多くの情報はそれぞれの地域コミュニティの内部で生み出され、流通する。だとすれば、回線速度も身近なところほど高速であって当然だろう。あるいは身近なところほど低速にしてよいという理由はないというべきだろう。

(全体としての社会は、地理的には、家族、近隣コミュニティ、広域コミュニティ、国家、地球社会などのいくつものレベルの集団にわけてみることができる。そして、直観的にいえば、人々のコミュニケーションの密度は、それぞれのレベルの集団の内部で完結するものがほぼ80% 、外部とやりとりされるものがほぼ20% といった割合に分かれそうである。)

派生原則:

  1. 各コミュニティの全員をカバーする本格的で高度なCANの構築を、各地域の情報通信政策上の最優先課題とする。
  2. それは、個別のLANを中核として、それらを常時相互接続するための高速通信回線と、各LAN自体に外部からアクセスするための移動体/固定体回線およびそのための端末からなる。
  3. LAN自体の高度化や、接続回線の高速化のためには、さまざまな有線・無線の技術の組み合わせを試みる価値があり、その選択肢は多様である。各地域の、またその時点時点での条件や目的に応じて、望ましい組み合わせは異なりうる。たとえば、県や市町村の敷設した光ファイバーや同軸もしくはメタル回線を基幹としながら、多様な拠点 (県庁、学校、病院、企業) にLANを構築しそれらを、上記の回線によって相互接続するという形が考えられる。しかし、それが唯一というわけではない。いずれにせよ、各LANは、その事業体の従業員や関係者だけでなく、その周辺の利用者 (とくにSOHO、および各家庭) に開放することが望ましい。また、住宅地などで何戸かが連合してLANを作ることも有効だろう。
  4. CAN構築のための協働の推進母体として、関与するあらゆる主体(地元企業、団体、情報・通信企業、自治体、市民 (智民) 等)を構成メンバーとする「地域情報化委員会」型の組織を設立し、その下でのさまざまな分業体制を工夫するのがいいだろう。もちろん、そのような委員会の中で主導性を発揮する主体や、分業体制の中での各主体の役割は、地域によって違っていて当然だろう。
  5. CANの構築と運用には、国や自治体の補助金や企業の寄付金を一部あてることも考えられるが、基本的には、各ユーザーが収める一種の基金制と会費制をとるのがよくはないだろうか。会費は、地元のプロバイダーがまず全額を受け取り、その一部を上層のネットワークのプロバイダーに順次渡して行くという配分の仕組みが考えられる。それによって、全国的および国際的な幹線の運用費用をまかなうのである。 (ただし、CANやインターネット総体の費用を分担するための「ビジネス・モデル」の形は、これまた一つとは限らない。ここで示した会費型ないしユーザー直接負担型のものの他に、税金をあてる公費利用型、広告料金でまかなう民放型、あるいはそれらの組み合わせ型など、さまざまな形のものがありえよう。)
  6. ネットワークの中で発信され流通する情報コンテンツは、本来自分たち自身で作り合うべきもの、あるいは、いたるところからでてくるものである (人からだけでなく、モノや場所からも情報は発信される)。知的財産権や著作権の対象となる「情報財」型のコンテンツは、共有地 (コモンズ) としての智場で普及され「情報権」の対象となる膨大な量の「通識」をいわばプラットフォームとして、相対的に限られた規模で生産され流通することになるだろう。
  7. CAN(やWAN)をプラットフォームとするビジネスの出現・普及は大いに歓迎さるべきだが、そこでのビジネスの仕方自体は、これまでの競争市場を前提とした方式とは変わってきて当然である。CAN(やWAN)は、なによりもまず「智場」として機能する。したがって、その上でのビジネスも、まず人々が互いに知り合い、信頼し合うところから始まる。つまり、「固有名詞での付き合い」(今井賢一)を前提とするビジネスとなる。マーケティングも「リレーションシップ・マーケティング」や「ワンツーワン・マーケティング」が主流を占めるようになる。とはいえ、それ自体をあまりわずらわしいものにはしない工夫、とりわけお互いのプライバシーを侵したり、プライバシーにかかわる情報を悪用・乱用したりしないための工夫が肝要である。そのためには、プライバシーにかかわる情報を扱ったり、それをもとにして行ったりするサービスについては、できるかぎりエージェントを利用して自動化するといったことも考えられるだろう。
  8. CANの上での情報は、その「意味」(つまりサイバースペースをも含めた現実世界の事象との対応関係)が明らかな情報でなければならないことは当然として、それに加えて、基本的にその発信者の実名つきの情報でなければならない。情報や知識の評価を既存の「権威」、発信者の「信用」のみに頼って行わせようとする試みは、しばしば権威の乱用や権威による支配と結びつく危険もあるが、だからといっていっさいの権威や信用を否定して、情報はその「内容」のみによって評価さるべきだとする主張は、一見公正で民主的に見えるが、現実には実行不可能な主張である。言葉通りにそれを実行しようとすれば、情報の評価は無限の時間と手間のかかる仕事となり、とうてい実生活の役にはたたない。人々が、個々の情報(というフロー)をその発信者の権威や信用(というストック)によって評価するのは、そのような手間を節約するための、多年の経験からえられた智恵に基づいてのことなのである。
  9. CAN(やWAN)の上でのビジネスの展開、それによる地域の振興の試みにさいしては、「ビジネス・エコシステム」(James F. Moore)の発想に学ぶことが大切だと思われる。つまり、一つの企業、一つの産業の振興を個別に考えるのではなく、地域の全体をカバーする新しい企業・智業群や新しいライフスタイルの、ひいては新しい「生活・産業システム」の、創出と普及に向けた、協働を基盤とする競争が、それぞれの地域間で展開されることが望ましい。
  10. これからのテレワーキングやポートフォリオ・ワーキングの時代には、真に地域に来てほしいのは、智業や企業それ自体よりはむしろ、有能な人材である。彼らは、地域の内外の智業や企業のために仕事をすることもできれば、自分たちで(他の人々と共に)新しい智業や企業をその地域におこすこともできる。地域がまず考えるべきことは、そうした人達が安心して楽しく仕事をし、生活できるような環境(物的、制度的、自然的)をつくることである。マレーシア政府が推進しているMSC(マルチメディア・スーパー・コリドー)構想は、この点の明確な自覚に基づいているが、同じような考え方を日本のすべての地域が採用していけない理由はない。

 OCN型の新幹線網と並行して、ここでいうCAN型の新市内網(の原型となるもの)を、今世紀末までに日本全国に構築すること、これを日本の情報化が当面最優先すべき政策目標にしたいものである。

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