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1997年6月1日

「これからの情報化社会」 

けんせつほくりく June 1997 No.300

公文俊平

今、新しい産業革命が始まっている。第三次産業革命とも、情報産業革命ともいう。

 産業革命は、十八世紀の終り以来、ほぼ百年に一回の割合で起こっている。その前半の五十年は「突破」の段階で、技術や経営や産業のあり方がそれまでとは大きく変わる。後半の五十年は「成熟」の段階で、人々のライフスタイルまで大きく変化していく。

 突破段階の課題は二つある。その一つは、産業革命が普及する基盤となる社会的なインフラの建設と利用だ。とくに今度の場合は、これまでの電話や放送のためのものとは質的に違う、ディジタル技術による高度な情報通信のネットワークを、全国にはりめぐらせていかなければならない。もう一つの課題は、新しいインフラや産業技術を既存の産業や政府がまず活用し、生産性の大幅な向上 (と価格や費用の低下) を実現することである。今度の場合は、オフィスの生産性の向上がとくに重要な課題になる。

 この点を理解できないで、今度の「マルチメディア・ブーム」も十年前の「ニューメディア・ブーム」と同様、一時の空騒ぎに終わるだろうと多寡をくくっていると、変化に取り残されてしまうだろう。逆に、新しい製品やサービスがすぐさま多くの人々の日常生活の中に取り入れられてライフスタイルまで一気に変えると期待するのも、性急にすぎよう。かつての「ビデオ・オン・ディマンド」や最近の「情報家電」 (インターネット・テレビなど) への期待はその典型である。

 ところで、今起こっているのは新しい産業革命だけではない。近代化の第三局面への移行を告げるような、私が「狭い意味での情報化」あるいは「ハイパー近代化」と呼ぶような変化も、第三次産業革命と同時に進行している。

 これまでの近代化には、まず「軍事化」の過程があって、今日のわれわれになじみ深い近代的な国家と国民が生まれた。次に、「産業化」の過程があって、近代的な企業と市民が生まれた。さらに今、「情報化」の過程が始まって、国家 (政府) でも企業でもない「智業」 (普通はNGO とかNPO と呼ばれることが多い) と、これまでの国民や市民とは一味違う「智民」 (英語でいえばネティズン) が出現している。

国家が (少なくともかつては) 国威の増進と発揚をめざし、企業が富の獲得と誇示をめざすとすれば、智業は、智、つまり知的な影響力の入手と発揮をめざして活動する。多くの人々に受け入れられるような理念を掲げ、その実現に役立つような情報や知識を普及し、互いに力を合わせてその実現をはかる。智民たちは、これまでの国民と違って、政府や政治家に頼って理想 (たとえば平和) を実現しようとするよりは、自分たち自身の力でそれを実現しようとする。また、これまでの市民と違って、豊かな生活の実現のために、大量に生産され販売される標準的な物財や情報を買い入れて消費するだけの存在ではない。むしろ、自分もものや情報の作成過程に参加したいと思う。他人の持ち物とは違う自分自身だけの物を持ちたいと思う。それもたくさん蒐集するよりは、必要なだけ持っていればいいと思う。他人の作品を鑑賞するのもいいが、自分 (たち)が制作したり演奏したりできるともっといいと思う。

 その意味では、人々の価値観や行動様式は、すでにある程度変化しつつある。近年のゲームやカラオケの、ポケベルや携帯電話の普及ぶりにも、それが現れているように思う。プリクラのような自分の顔写真で作るシールの流行や、インターネットで自分がデザインしたセーターを注文したがる人々の増加にもそれは現れている。逆に、本や音楽CDの売れ行きが伸びなくなったのも、その裏返しの現象ではあるまいか。ただし、こうした変化はまだまだその初期にあり、本格的に社会に普及し定着するまでには、まだまだかなりの時間が必要とされるだろう。

 こうした傾向を近代を超えるような変化、「ポスト近代化」と結びつけて解釈する人もいるが、私はそれは行き過ぎではないかと思う。とくに、いっさいの既存の権威を否定したり、あらゆるものを疑ってかかったりする態度は、現状を変えるための一時の方便としてはともかく、永続的に採用できるものではない。「情報の価値は、もっぱらその内容自身によって判断されるべきであって、誰がそれを言ったかとは無関係だ」という態度は、一見民主的で公平なように見えるが、実は結果的に判断不能に陥ったり判断の誤りをおかすことになりやすい態度である。われわれは日々の生活の中で、さまざまな失敗や成功の経験を通じて、誰の言葉なら信ずるに足りるかを学習し、それを情報の価値判断の重要な基準にしている。既成の権威への無批判な従属は問題だとしても、いつでも全くの白紙状態から出発しているわけにはいかないのである。

 これまでの近代社会で広く受け入れられてきた二つの主要な価値理念は、「平和と豊かさ」だった。これからも、もちろん平和と豊かさの実現が大切な課題とされることは間違いない。しかし、これからの情報化社会では、「楽しさ」というもう一つの価値理念がつけ加わるのではないか。それも私的な快楽の追求というよりは、多くの人々が心と力を合わせて交流し協働する中から、共通の理念や目標の実現に努める中から生まれてくる、共々の楽しさが、求められるようになるのではないだろうか。

 しかも、これからの「グローバリゼーション」の進む時代には、共に交流し協働する人々の範囲も、文化や文明の境界を越えて拡大していくに違いない。その場合に大切なのは、人々がお互いに他人の文化を理解し尊重しようとする態度である。また、他人の、他の国々のもっている文明の長所を学びとり受容しようとする態度である。二一世紀の世界が、平和と繁栄の実現と維持に加えて、互いの文化の尊重と文明の受容を基盤とする共々の楽しさを実現できるようになった時、近代社会はその進化の頂点に達するのではないだろうか。

 最後に、とくに日本の近代社会にとっての理念の移り変わりを考えてみよう。明治の日本は、国家と企業の両方の発展を念頭におきながら、その発展目標を探し求め、実現につとめたと思われる。国内的には、それは「文明開化」であり、国際的には「世界列強」の一角に伍することだった。そのための手段として選ばれたのが「富国強兵」路線だった。それに対し、昭和の日本 (戦後の日本) が追求したのは、国家よりも企業、政治よりも経済に重点をおいた発展目標だった。国内的にはそれは「民主社会」の実現であり、国際的には「平和国家」としての生存だった。そのための手段としては「経済成長」が選ばれた。その目標は1980年代までに間違いなく達成され、われわれは今目標の喪失感に悩んでいるように思われる。次の新たな目標が見いだせないままに、閉塞感のとりこになっているという見方もある。だが実際には、平成の日本にとっての新しい発展目標は、しだいに明らかになりつつあるのではないか。それは、国内的には「地方(分権)化」であり、国際的には「地球化」だということができるだろう。そしてそのための手段としては、広い意味での「情報化」、つまり情報産業革命と、先にみたような狭い意味での情報化の両方の推進をめざして努力することが、地方化と地球化の目標を達成するためのもっとも有望な道ではないだろうか。