1997年7月28日
公文俊平
先日、テレビの取材を突然受けた。なんでも、日曜日の朝日新聞の一面に、政府もいよいよインターネットを使った行政サービスを始めるようにしたという趣旨の記事がでたので、それについてのコメントがほしいというのである。やってきたテレビ会社は、ひごろから朝日新聞の報道に対しては批判的な新聞社の系列に属する会社だった。それは別にかまわないし、私自身、どちらかというとその姿勢に共感することが多いのだが、今回はいささか調子が狂った。
インターネットに対する批判的なコメントがほしいというのである。どうやら、インターネットは混雑していて遅いとか、内容に問題があるとかいった趣旨のことをしゃべらせたいらしい。そこで、「残念ながらあなたは取材の相手を間違えた。私は、インターネットは非常に重要なものだと思っているし、政府の取り組みもまだまだ不十分だし遅過ぎると言いたいくらいだ」と申し上げると、それならそれでかまわないので大いにその趣旨をしゃべってほしいといわれる。ただし、放送される分は、どのみちせいぜいで40秒程度だという。
それでは、とても詳しい議論はできない。それこそ賛成か反対かという態度の表明だけのことになってしまう。でもまあ、せっかく来られたのでということで、私の意見はかなり時間をかけて聞いていただいた。 (最終的にどんな形で放送されたか、私は見ていない。) 以下は、その時の私の話の要旨である。
今の時点で、インターネットは不便だとか危険だとかいった理由で、それに反対の姿勢を取るのは、非常に問題だと思う。それは、明治維新のころの政府の文明開化・富国強兵路線に対して、「西欧の文化に染まり過ぎる恐れがある」とか「他国を侵略する結果になる危険がある」といって、のっけから反対の態度を取るようなものだ。あるいは、戦後の経済発展路線に対して、行き過ぎた物質主義の弊害や自然破壊の危険を指摘して、反対の態度をとるようなものだ。さらにいえば、自動車が発明され、やっと普及し始めたころに、資源浪費の恐れや交通事故の危険を説いて、車無用論を展開しようとするようなものだ。
とりわけ問題なのは、未知のものにたいする恐怖から、あるいは既得権益を失う恐れから、新しいものの導入や開発に反対することだ。 (インターネットを批判するテレビの下心はそれかと言ってみたくもあったが、それはあまりに失礼な下司の勘繰りというものだろうと遠慮した。) 新しい発展がもたらす巨大な便益や、わくわくするような面白さの事は無視して、マイナス面だけを一方的に述べたてる姿勢は、われわれがとるべき姿勢とはいえない。まずは、その歴史的な意味の理解に努めるべきだ。危険や問題点をあげつらうのは、それからでいい。今必要なのは、基本的に新たな発展を受け入れて推進するという立場に立った上で、そこにひそむ危険や問題点から目をそらすことなく、正面からそれに対処して行こうという積極的な姿勢である。斜めに構えていてはいけないのである。
危険や問題点ということでいえば、より緊急の問題はそれこそ山のようにある。交通事故だけで、年々万の単位の人々が生命を落としている。それなのに、自動車の使用をやめるべきだという世論が盛り上がったという話はきかない。原子力発電の危険をいう一方で、電力の使用を大幅に減らそう、とりわけ火力発電を根本から見直そうという意見は、まず聞かれない。干潟で死ぬムツゴロウがかわいそうだから干拓はやめるべきだというなら、それ以上に、車にひかれる子供たち、交通事故で親を失う子供たちがかわいそうだから、車はやめるべきだという議論があってもおかしくない。あるいは、車が犯罪に利用されるケースは非常に多いので、車の利用を規制しろといった意見があってもおかしくない。 (しかし、もはや車なしの生活は考えられないし、政府や業界もそれなりの対策はとっている。それに、他人は知らず、自分や自分の家族が交通事故にあう危険は、事実上ゼロに近い、少なくとも注意すればかなり防げる、と多くの人は経験上思っているに違いない。だから、車の危険や問題点は、新聞やテレビがあらためて取り上げる種類の話にはならないのである。)
インターネットも、それが十分に普及した暁には、現在とは比べ物にならない規模での事故や濫用が発生するだろう。あるいはそれを利用した犯罪が、日常的に起こるだろう。しかし、人々はいずれはそれに慣れっこになっていく。繰り返され、予測可能な悪に対しては、人はもはや未知のものへの恐怖と同じ種類の恐怖は抱かない。日常的にそれに対処するすべを学び、実行するだけである。それは認めた上で、なおかつそうした悪の規模や程度を可能な限り限定する努力を、真剣にまた粘り強くはらっていくしかない。
そのような地道な努力こそ、今から始めるべきなのである。もちろん、インターネットなんか嫌だといえば、そんなものはいらないといえば、すぐ消えてなくなってしまうようなものなら、そんな努力は不必要である。だがそのためにも、インターネットはわれわれの生活にとってはかりしれぬほど有用な手段となりうること、未来の世界では必要不可欠な手段となるに違いないこと、をはっきりと理解しておく必要がある。メディアも政府も、まずはそうした基本的な理解を普及させるために主力を注ぐべきではないだろうか。
かつて、ほとんどの人が文盲であった時代に、字を読めない人間がいるから政府は文字を使うべきではない、と考えた政治家や官僚はいただろうか。電話が一般の家庭には普及していない時代に、役所に電話はいれるべきではないとか、電話での問い合わせに応ずる形の対住民サービスはすべきではないとかしなくてもいい、といった考え方は支配的だったろうか。それなのに、ことがコンピューターやそのネットワークとなると、たちまちこの種の議論がまかり通ってしまうのが、少なくともこれまでの日本の常態であった。政府を批判するというのなら、まずそこから始めてほしいものである。