97年度著作へ

1997年 9月2日

「インターネットという生き物」

『行政&ADP』「随想」 1997年9月号

公文俊平

先日、ゴア大統領の補佐官で次世代インターネット・イニシァティブの策定に携わっていたグレッグ・サイモン氏の話をうかがう機会があった。それで驚いたのは、ホワイトハウスでインターネットの問題に取り組んでいる人たちが、インターネットが一個の生命系だという「哲学的」認識を、しっかりともっていたことだった。

もしもインターネットが生命系だとしたら、それは自律的に存続し、進化していくことができるはずである。他方、もしもそれが機械系だとしたら、誰かが絶えずその動きを注視し、正常な動きをしなくなった時には直ちにしかるべき制御を加えてやる必要がある。事実、イーサーネットの発明者として有名なボブ・メトカーフは、そのような立場に立って、インターネットが生命系だなどというたわごとを言う連中を厳しく批判している。もっとも、インターネットが1996年中に破局的に崩壊するとした彼の「予言」は、あっさりはずれてしまった。そうなると、インターネット生命系論者の方に分があったと考えざるをえない。

 もっとも、インターネットが生命系だからといって、どんな環境の下でもそれが生きて行けるという保証はない。複雑系の理論の用語を使っていえば、生命は「カオスの縁」にのみ生き続けることができる。つまりその生存に好適な環境の下でのみ生き続けることができる。環境の「温度」が上がり過ぎると、カオスの混乱状態にはいって死んでしまう。逆に下がり過ぎると、結晶の沈滞状態にはいってこれまた死んでしまう。

 また、生命系が自律的に存続し進化した結果が、常に人間の目的にとって望ましいという保証もない。生命の中には人間にとっての病原体もあれば、有毒なものもいる。害虫や害獣もいる。

 そうだとすれば、インターネットを人間にとって基本的に有用とみなす政策当局としては、これをただ黙って放置しておくことはできない。第一に、インターネットが死んでしまわないように、その生育の「環境整備」をはかる必要がある。第二に、インターネットが人間の(実は政策当局の)目的にとって、有害なものにならないように、あるいはより有用なものになるように、「品種改良」をはかる必要がある。つまり、インターネットの「DNA」をとりかえてやる必要がある。

 クリントン=ゴア政権が試みているインターネットの支援(新しいユニバーサル・サービスへの組み入れ)や規制(下品な表現の処罰や、暗号化技術利用の制約など)あるいは改良(次世代インターネットの開発)の試みの背後にある「哲学」は、どうやらこのようなものであるらしい。

 だとすれば、少なくとも私は、その「哲学」そのものに異を唱える理由はないと思う。しかし、それに立脚したアメリカ政府の行動に、全く問題がないともいえない。少なくとも二つの問題がある。第一は、インターネットのどこがどのように有益ないし有害であるという判定やそれに対する対策を、下したり取ったりする権利ないし権限をだれに委ねるべきかという問題である。とりわけ、それに政府がどこまで関与すべきかという問題がある。第二は、下された判定や取られた対策の妥当性や有効性をめぐる問題である。米国の最高裁が六月に下した「通信品位法」の違憲判決に見られるように、権限をもつ者が行う行為が常に適切であるという保証はないのである。

 これらの問題は、米国だけが抱えている問題ではない。世界中が論議に参加して、少しでもより適切な答えの発見をめざして、合意の幅を拡げる努力をしていかなければならないと思う。