1997年10月1日
公文俊平
20世紀の「新しい産業国家」体制は、寡占的大企業の活動に政府がさまざまな角度から規制を加えるという体制だった。そこでは大量生産の「規模の経済」と、多品種少量生産の「範囲の経済」が支配していた。しかし、今日の情報革命は、たがいに対等な比較的小規模の組織体が相互にネットワークを形作って、緊密なコミュニケーション(交流)とコラボレーション(協働)を行うことを可能にした。それによって、「ネットワークの経済」に立脚した急激な技術革新が持続的に実現されるようになり、量的成長よりは質的発展に重点を置く、過去に例を見なかったような超高度経済成長が始まろうとしている。
さらに近年では、これまでの国家(ないし政府)や企業とは性格を異にする、NGOとかNPOと呼ばれる新型の組織が多数出現して、これまた互いにネットワーク上での交流や協働を行いはじめた。私は、これらの新しい組織体のことを「智業」と呼んでいるが、智業の特徴は、人々が価値を認める知識や情報の普及に努める中で、社会的に望ましいと考えられる目標(環境の保全とか人権の擁護など)を力を合わせて実現しようとするところにある。21世紀のネットワーク社会では、この智業が、これまでの政府や企業と対抗するというよりは協働しながら、さまざまな社会的役割を果たすようになるだろう。その分、政府と市場に対する人々の依存度は低くなっていくと思われる。
ネットワーク社会での新しい交流や協働のための基盤となるのが、コンピューターのネットワークのネットワーク(インターネット)に他ならない。インターネットは、これまでの電話や放送とは種類が違う情報通信システムである。いまはまだインターネット用の通信回線の多くの部分は既存の電話線や同軸ケーブルに依存しているが、やがて光ファイバーと無線がそれにとってかわるだろう。人々は、このインターネットを経由して、身近な人々だけでなく、世界中の人々と交流し協働しあうようになるわけだ。その場の事は、「サイバースペース(智的空間)」などと呼ばれている。
しかし、パソコンを一台持ってサイバースペースに飛び込んでいけば、それで誰でもネットワーク社会の一員として活躍できるわけではない。それはちょうど、戦国時代に機関銃を一丁持って戦いの場に臨めば、たちまち勝てると思い込むのと同じくらいに素朴な考えにすぎない。機関銃を活用しようと思えば、弾丸を生産したり、銃を修理したりするシステムが不可欠だ。それらを輸送するシステムもなしにはすませない。それと同じように、ネットワーク社会に入っていくためには、なによりも高品質のインターネットそのものが、自分の身の回りになくてはならない。さらに、インターネットでやりとりするための各種の知識や情報、財やサービスを生産し、普及・販売するための仕組みも必要だ。また、インターネットを使いこなすための知識や技術も不可欠だ。それがないとすれば、それを供給してくれる教育や研修の施設も作っておかなければならない。
つまり「サイバースペース」での活動を有効に推進しようと思えば、そのいわば基地としての役割を果たす場所や施設が、人々の身の回りに、つまり「リアルスペース」に、まずなくてはならない。何でもサイバースペースの中で調達するというわけにはいかない。私はそれが、未来のネットワーク社会における新しい地域コミュニティの受け持つべき役割だと思う。言い換えれば、未来のネットワーク社会は、なによりもまず、多様な地域コミュニティのリアルなネットワークとして形作られていくと思う。そして、いってみればそれとシームレスな形で、サイバースペースとその中でのさまざまな「バーチャル・コミュニティ」がそれを補完しているというのが、私の描くネットワーク社会のイメージである。私は、この意味でのネットワーク社会の基本単位となる新しい地域コミュニティのことを、CAN(コミュニティ・エリア・ネットワーク)と総称している。
CANは、その地域の全員がそれにアクセスできる(そこからサイバースペースに入って行くことのできる)インターネット型のネットワーク・インフラを備えていなくてはならない。同時に、政治的、経済的、文化的な多様な活動体の集積をもっている必要がある。そして、その中で、活発な交流と協働がまずはフェース・トゥー・フェースで営まれているが、同時にその少なからぬ部分はサイバースペースの中でも営まれ、さらに全国的あるいはグローバルな広がりをももつことになるだろう。
ネットワーク社会のもっとも基本的な活動は、知識や情報の通有、つまりコミュニケーションなのだが、そこでのコミュニケーションは、20世紀の産業社会を特徴づけていたコントは性格を異にするものになっていると思われる。これまでのコミュニケーションは、一部の専門家が一般大衆に知識や情報を一方的に提供する「マス・コミュニケーション」(その典型がテレビ)と、私的な「パーソナル・コミュニケーション」(その典型が電話)という二本の柱からなっていた。しかし、ネットワーク社会でのコミュニケーションの中核は、さまざまなグループ(とりわけネットワーク型のグループ)の中で行われる協働行動の基盤となる「グループ・コミュニケーション」と、各個人(あるいはグループ)がそれぞれ不特定多数の相手に対して発信する「パブリック・コミュニケーション」の二つになっていくと思われる。もちろん、これまでのような「マス・コミュニケーション」や「パーソナル・コミュニケーション」がなくなってしまうことはあるまいが、圧倒的なウェートは、「グループ・コミュニケーション」と「パブリック・コミュニケーション」が占めることになるだろう。私は、後の二つを「コミュニティ・コミュニケーション」と総称することを提案したい。
これからのネットワーク社会では、マス・コミュニケーションの役割がますます大きくなり、そこでの「コンテンツ」を制するものが未来の産業を制するといった議論がよく聞かれるが、私はそれは根本的に誤っていると思う。ネットワーク社会でやりとりされるコンテンツの圧倒的な部分は、ここでいう「コミュニティ・コミュニケーション」のためのものであって、それは一部の専門家ではなしにすべての人々(個人やグループ)が作成し発信するものになる。だから、ネットワーク社会の良きメンバーとなるために私たちが必要とするもっとも基本的な能力は、自分でコンテンツをつくり出し発信する能力である。もちろん、他人の発信する有用なコンテンツを探し出したり理解する能力も、それと並んで重要なものになる。