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1997年11月10日

「企業とインターネットのガバナンス」

日本電子計算機 掲載

公文俊平

先週末、わたしども主催する「第四回グローコム・フォーラム」が大礒のプリンスホテルで開かれた。今回は「情報化と企業・市場・政府のガバナンス」というテーマで、産官学の50数人の参加者が文字どおり侃侃諤諤の議論を繰り広げた。まことに知的刺激に満ちた二日間だった。

今回は、その議論に触発されて考えるようになった私なりのガバナンス論をお目にかけよう。

まず、もっとも広義のガバナンスとは、任意の社会システムのパフォーマンス(つまり、その挙動や状態)を、誰かが何らかの基準に照らして運営ないし制御することだと定義できる。運営や制御の主体を「ガバナー」、対象を「ガバーンド」と呼ぶことにしよう。ガバナーとガバーンドは、たとえば、独立の主権国家のように、同一の主体である場合もある。その場合に、ガバナンスを任務とする特定の部局がその主体の中に設けられている場合には、それを「ガバメント」と呼ぶことが出来るだろう。ただし、ガバーンドは、それ自体の中に多種多様な下位の主体を含む「複合主体」であることが多い。国家はそのような複合主体の典型的なものである。その場合には、その主体全体のガバメントの仕事の中には、その下位主体のガバナンス(の一部)も含まれることになり、下位主体の目からすると、ガバメントは自分とは別のガバナーのように見えてくる。また、民主主義国家のように、国家の下位主体としての国民(あるいは国民を要素とする各種の複合主体)が、国家のガバメントが行うガバナンスにあれこれと口を出し、影響を及ぼそうとすることが正当なことだとみなされている場合には、「ガバメントのガバナンス」という一見逆説的な事態も生じうることになる。

これまでの政治学の関心の中心は、ガバメントをもつ社会システム(とくに国家)のガバナンスの分析にあった。それに対し、伝統的な経済学の関心の中心は、ガバメントをもたない社会システム(市場)のパフォーマンスの分析にあったといえよ。市場という社会システムの参加者を律しているルールの中には、あるメカニズム(市場メカニズム)が内蔵されているために、個々の市場参加者の行為は、あたかも「見えざる手」の働きによって制御されているかのように、全体としてある望ましいパフォーマンスをもたらすというのである。しかし、20世紀に生まれた「大企業体制」のもとでは、個々の大企業はそれぞれがある程度の市場支配力をもち、みずからが市場のガバナーとしてその力を発揮しているばかりか、はなはだしい場合には、市場への独占的な支配力を入手し行使する場合もありうることが明らかになった。あるいは、「公共財」のように、市場の自由な働きに委ねておくとその供給が不足する場合もありうることが明らかになった。そこで、20世紀の産業社会では、こうした「市場の失敗」を補完するために、国家のガバメントが、市場や企業をその下位のシステもしくは主体とみなして、そのガバナンスを(少なくとも部分的に)試みることが普通になった。いわゆる「規制主義国家」の誕生である。(それとは別に、産業化の後発国では、経済発展の促進のために、国家のガバメントが個々の企業や全体としての市場ないし経済の運営に積極的に、また直接に参加しようとする試みも広く見られた。いわゆる「開発主義国家」の誕生である。)

しかし、20世紀の産業社会において、企業のガバナンスをめぐって生じた新たな事態は、国家による企業のガバナンスへの参加にとどまるものではなかった。実際、一個の企業をとってみると、その直接のガバナー、つまり運営の責任者は、いわゆる経営者と呼ばれる人々だといってよいだろうが、それ以外にも、企業の株主や従業員(の組合)、あるいは債権者や顧客、さらには企業が立地するコミュニティないしは国家(のガバメント)のような多種多様な主体が、企業のパフォーマンスに関心をもち、その運営に口を出そうとするばかりか、そうすることが正当なことだという認識が広く社会の中に分け持たれるようになることもありうるだろう。その場合には、それらの主体はそれぞれ何らかの程度、企業のガバナーとしての地位を認められていることになる。つまり企業は複数のガバナーをもつことになる。(あるいは、企業の直接のガバナーである経営者は、自分自身をも含む多様なガバナーの要求にたいして、適当な優先順位を設定したりバランスを取ったりしながら、応えていかなければならなくなる。)20世紀の産業社会に生じたのは、まさにそのような事態だった。大企業の発展する過程で、それまで企業の本来のガバナーと考えられていた出資者(株主)とは別の存在であり、しばしば自分自身の利害ないし評価基準を持つ経営者と呼ばれる主体が、企業の新たな(そして直接の)ガバナーとしてまず台頭してきた。いわゆる「経営者革命」あるいは「所有と経営の分離」である。しかし、20世紀の産業化がさらに進展し、「豊かな社会」が成立してくる過程で、新興経営者層は、国家のガバメントだけでなく、上述したような各種の他の主体による企業のガバナンスへの参加の試みにも対処していかなくてはならなくなっていった。さらに今日の情報化は、政府による企業のガバナンスの試みを相対的に無力化する一方で、それ以外の各種の主体による企業のガバナンスへの参加の意欲や能力を加速しているように思われる。

さて、ガバナンスの問題自体に話を戻せば、ガバナンスにはさまざまなレベルのものが考えられる。少なくとも、次の四つのレベルを区別することが大切だろう。

その第一は、たとえば日本の政府の行政指導のように、ガバナーがガバーンドの行為にいちいち口出しして制御しようとするレベルのものである。これは、裁量型ガバナンスと呼ぶことが出来るだろう。

その第二は、ガバナーがあらかじめ一定の規則の枠組(レジーム)をガバーンドに対して定め、その枠を外れない限りでの自由な行為をガバーンドに許すものである。これは、規則準拠型(ルールベースド)ガバナンスと呼ぶことが出来よう。(これには、禁止条項を主として定めるタイプのものと、許容条項を主として定めるタイプのものとが、ありうる。日本の規則は、後者のタイプのものが多いといわれている。)

その第三は、規則に従うことを強制する、あるいは規則違反者を見つけ出して罰する(場合によっては、規則のとくにすぐれた遵守者を見つけ出して報奨を与える)ものである。ガバーンドが所与の規則を常に遵守する保証がない限り、このレベルのガバナンスは、第二のレベルのガバナンスの補完として、常に必要となる。

その第四は、望ましいレジームの設計・選択や既存のレジームの変更にかかわるレベルのものである。それには、ガバナーやガバメントのあり方の選択も含まれる。

ここで、上記の区別の応用の一例として、消費者がある企業のガバナンスに関心をもった場合にとりうる選択肢を考えてみよう。まず、その企業に手紙を書いたり、直接乗り込んでいって要求をつたえることが考えられる。これは上の第一のレベルのガバナンスである。また、その企業の製品を買わないという選択をすることも出来る。これは、第二のレベルのガバナンスにあたる。さらに、その企業が違法行為を行っているとして訴えることもできる。これは、第三のレベルにあたる。法や制度の改正の提案を出すのは、第四のレベルにあたる。消費者によるこれらの行為がどれだけの正当性を認められたり、実効性をもったりするかという問題はさしあたり別にして、これらはすべて消費者による企業のガバナンスの試みだということができるだろう。

最後に、このところ急速に多くの人の関心を集めている「インターネットのガバナンス」の問題を考えてみよう。分散的な情報処理・通信システムとしてのインターネットは、私のいわゆる智場であって、市場のような社会システムと同様、それ自体としては意思決定や実行の能力をもたない。しかし、これまた市場の場合と同様、誰か他の主体、とりわけ既存の国家(のガバメント)が、そのガバナンスを試みることは当然考えられる。しかし、市場以上にグローバルな(つまり個別国家の正当な統治の領域を超える)性格の強いインターネットを、個々の国家が実効的にガバーンできるとは考えにくい。他方、インターネットには、市場の場合に多少とも自然発生的に形成された「市場メカニズム」に相当する事実上のガバナンスのメカニズムは、まだ存在していないように思われるが、その可能性を真剣に考えてみなければならないことは確かだ。(今回のシンポジウムでは、奥野正寛氏が、「評判ないし格付けのメカニズム」がインターネット上に形成されつつあるのではないかという、興味深い指摘を行った。)

それ以外に、いってみれば部分的なガバナンスの試みが、さまざまな形で行われている。たとえば、新しいトップ・ドメイン・ネームの創出を提言した、一部の人々の間でのIAHC(国際アドホック・コミティー)の組織とその活動の試みは、不完全で原始的な試みであるにせよ、インターネットの主体化と、そこでのガバメントの形成の試みだといっていいだろう。しかし、そうした試みの正当性については、さまざまな異論もある。他方、これまた一部の人々によるコンテントの選別のためのプラットフォーム(PICS)の導入の試みは、インターネットの部分的なガバナンスの試みといってよいだろう。しかしそれに対しても賛否両論が渦を巻いている。米国のクリントン政権は、インターネットを自律的な生存と進化の能力をもった一種の人工生命系とみなして、その生存と進化を助けるための環境整備や品種改良を政府の任務とすることを提唱している。これも、インターネットの部分的なガバナンスの試みだといえよう。

インターネットを誰(と誰)が、どんな基準によって、どんな裁量やルールによってガバーンしようとしていくのか。またしていくべきなのか。これは今日のもっとも興味深い社会問題の一つだと思われる。