1997年12月4日
公文俊平
本稿では、一九九〇年代の日本の情報革命の進展のあとを、私自身の狭い体験を通じて手短に振り返ってみるとともに、今後の展望を語ってみたい。
私が、インターネットの意義に気づかされたのは1992年のことだった。この年の6月にインターネット協会の世界大会の第一回が神戸で開催されることを聞いてき、それに参加したのが、私および私の勤務する国際大学グローコムの、インターネットとの遭遇であった。
当時、設立されたばかりのグローコムには、自分たちのコンピューター・ネットワークを国際的なゲートウェーとして、日本に関する情報を提供したり、海外からの情報を入手して国内に提供するといった形で、グローバルなコミュニケーションの推進をはかりたいという思いが強くあった。具体的な試みとしては、パソコン通信による二カ国語電子会議を開催していた。これは、日米両国から数十人の参加者を募り、日本語と英語の電子会議室で、当面の政治・経済問題についての自由な討論を行い、それぞれの間はコンピューターによる自動翻訳でつなごうというものであった。しかし、実際にスタートしてみると、自動翻訳の質が劣悪で、残念ながらとうてい使い物にならないことがわかった。そこで今度は人間による翻訳に切り換えたが、それだと翻訳に時間がかかりすぎた。(しかも、驚いたことに質の面でもたいした改善にはならなかった。)結局、この最初の試みは、惨憺たる失敗に終わった。
情報交流のゲートウェーとしてパソコン通信ネットワークを利用するというアイデアにも、限界があることがすぐわかった。海外の情報を入手しようと思えば、われわれがいくつものネットワークに個別に加入する必要がある。あるいは海外の人々にわれわれのネットワークに加入してもらう必要がある。いずれにしても、多額の国際通信料金の支出が必要となる。一々接続する手間も相当なものである。各ネットワークのメールや電子会議を相互接続したり、データベースを共有することは、事実上不可能である。
そんな時に出会ったインターネットは、まさにそうした壁を取り払ってくれる可能性があるもののように思われ、私たちはすっかり興奮したのである。神戸大会の熱気も、その興奮に輪をかけた。私は、グローコムの所内ネットワークもインターネットに接続すべきだと確信し、吉村伸氏の助言と指導の下に、早速その準備にとりかかった。最初、どの程度の速度の専用線を引くかで若干の議論があった。吉村氏の提唱した192Kという速度の線は太過ぎてとても使い切れないと思う研究員もいたのである。だがその議論は、吉村氏が、192Kくらいの帯域は自分一人でも使い切って見せると断言したことで決着した。(後の展開は、吉村氏に先見の明があったことを示した。グローコムはその後年々回線の高速化を行い、現在はOCNエンタープライズの6メガ専用線を導入したところである。)こうしてグローコムは、日本の社会科学系の研究所としては、おそらく最初にインターネットに接続した研究所になった。
その翌年、私と会津泉氏は、カナダのサイモン・フレーザー大学のリンダ・ハラシム教授が企画した、インターネットでの電子メールを使った共著の出版の試みに参加した。二十人ほどの参加者が、自分の担当する章の原稿を電子メールで他の参加者に送ってコメントを求め、それをもとにして書き直した原稿を、やはり電子メールでハラシム教授のもとに送るという仕組みである。この時の電子メールは、TWICS(いち早くインターネットへの接続を実現していた東京を拠点とする国際的なパソコン通信のネットワーク)経由で、UUCP方式でやりとりされているものを私たちがTWICSに接続して受け取るという、今から思えばずいぶんのんびりした方式のものだったが、それでも、「これは使える」という実感をもった。その共同作業の中で、TWICSのシスオペから、バークレーの大学院学生に転じたジェフ・シャパード氏と会津氏の間で熱っぽい論争が繰り広げられたことも記憶に新しい。シャパード氏が、「日本のパソコン通信ネットワークはそれぞれが閉じた島のようなもので、相互の交流に乏しい。だから、一日も早くインターネットに接続し、インターネットを通じての交流をはかるべきだ」と強い口調で批判したのに対し、会津氏がパソコン通信擁護の論陣を張って対抗したのである。しかし、この論争はどう考えてもシャパード氏の方に分があると思わざるをえなかった。
私はそのころ、ある情報通信企業の研究所の所長を兼務していた。そこでも早速、グローコムで使い始めたばかりのインターネットの有用性を指摘し、インターネットの構築や接続サービスの提供に社をあげて取り組むべきではないかと意見具申したのだが、はかばかしい反応はなかった。何でもインターネットについては、社内外の専門家を集めてサービス提供の可否を検討した結果、ビジネスとしては成立しないという結論にすでに達しているということだった。
同じころ、総務庁の依頼で、行政の情報化推進に関する勉強会の座長を引き受けた。会のメンバーには、日本を代表する情報通信関係企業の方々が加わっていた。半年かけて熱心に議論し、今こそ本格的に行政の情報化に取り組むべき時がきているので、そのためにも、霞が関全域をカバーする行政情報ネットワーク(霞が関WAN)をまず構築せよとか、各省庁にCIO(Chief Information Officer)を置くべきだ、行政情報化五カ年計画を策定すべきだ、などといった内容の報告書を提出した。その時点で私が受けた印象は、企業からの参加者の方々は自信たっぷりで、「われわれは情報化を着実に推進している、情報化の面での日本の問題点はもっぱら行政の相対的な立ち遅れにあるので、行政は企業の経験に学ぶべきだ」という立場に立っているなというものだった。しかし、議論の間に「インターネット」という言葉を聞くことはまずなかった。
このような状況が一変したのは、1993年の11月だった。この月の上旬に、『ニューヨーク・タイムズ』や『ウォール・ストリート・ジャーナル』、あるいは『タイム』など、アメリカの主要なジャーナリズムが、日米比較のデータをあげつつ、日本の情報化の立ち遅れをいっせいに書き立てたのである。ディジタル革命の時代には、日本が開発したアナログのハイビジョンの脅威など物の数ではないとされ、あれほど声高だった「ジャパン・バッシング」の声は、あれよあれよという間に、「ジャパン・パッシング」から「ジャパン・ナッシング」への流れのなかにかき消えていった。その結果、次図に見られるように、日本でも遅ればせながら、「マルチメディア」や「情報革命」への関心が一気に高まっていった。
1994年の前半には、通産省と郵政省がそれぞれ、日本の情報化の立ち遅れを指摘しつつ、その克服のための処方箋や将来ビジョンを示した。8月には内閣に「高度情報通信社会推進対策本部」や有識者会議が設置されることになり、翌95年2月には「高度情報通信社会推進の基本方針」が発表された。それにもとづいて、情報化の進展を妨げているような制度や規制を洗い出してそれらを改定・廃止するための見直し作業も行われた。また、1994年の暮れには、行政情報化五カ年計画の基本計画が閣議決定され、翌年にはその実施計画と省庁別の個別計画とが、それぞれ策定されていった。96年には霞が関の中央各省庁のほとんどすべてにLANが引かれた。そして97年からはそれらのLANが、まず電子メールの相互交換から始めてWANに連結され始めている(運用を担当しているのは、通信事業者として再編成された行政情報システム研究所である)。いずれは、電子メールだけでなくさまざまな文書の交換やデータベースの統合利用なども行われるようになっていくだろう。97年にはまた、中央省庁本体だけでなく、関連機関や出先機関とのネットワーク化も進み出すことが期待されている。情報化関連支出が年々二桁の伸びを示す中で、国の予算全体の中で情報化関連予算項目の占める比重も、次第に上昇している。財政支出の削減努力のさなかではあるが、情報化のための支出は別だとか、情報化支出をテコとして他の支出項目の削減を実現しようといった考え方が、ようやく普及し始めたのである。
他方、1994年を通じて、日本でもインターネットへの関心はある程度の高まりを見せてはきたものの、その範囲はまだごく限られていた。この年の12月に日本経済新聞社が主催したシンポジウムで、私はインターネットの重要性を口をきわめて強調したが、その模様の報道とコメントを見ると、私のそのような態度はかなり奇異に感じられたもののようだった。
しかし、1995年になると事態は大きく動いた。ワールド・ワイド・ウェブのアメリカでの流行ぶりや、アメリカのビジネス界がインターネットの市場としての可能性にこぞって注目し始めたことなどが日本にも紹介される中で、日本でもインターネット・ブームが爆発した。この年の初めに朝日新聞の一読者は「インターネット」などというわけのわからない言葉が社会の公器としての新聞の紙面に登場することに対する抗議の投書を送ったそうだが、同じ年の暮れには、「インターネット」という言葉はその年の流行語大賞に輝いた。新聞記事への出現頻度で見ても、「インターネット」はこの年「マルチメディア」を大きく追い越してしまった。(前図参照。)同じころ、アメリカでようやく広く使われ始めた「イントラネット」という言葉も、ただちに日本に紹介され、1996年には大企業によるイントラネットの導入の試みが競って行われるようになった。インターネット接続サービスを提供する業者(ISP)の数も一気に増え、1996年中に1000社を越え、現在では、2000社を超えているという(次図参照)。インターネットに接続しているホスト・コンピューターの数も、1995年以来年々倍増以上の速度で増加しはじめ、1997年の初頭には絶対数ではドイツを抜いて世界第2位の地位を占めるにいたった。(もっとも、一人当たりでいうと、まだ世界第18位あたりにとどまっているらしいが、これは、GNPでいうと総額で自由世界第2位を達成したが一人当たりでは世界第17位に甘んじていた1960年代末の状況によく似ている。ちなみに、日本が一人当たりGNPでアメリカを抜いたのは、その10年ほど後の1978年のことだった。)
ということは、今にして思えば、1993年前半の時点での日本の企業の自己認識−−情報化において自分たちは決して遅れをとっていない、遅れているのは行政の方だという自己認識−−は、必ずしも正確ではなかったということだ。日本の情報化の立ち遅れは、コンピューター利用の面でもネットワーク化の面でも、何よりもビジネスの分野で著しかったのである。
しかし、そういった状況も、ここにきてようやく一変しつつある。企業の投資総額の中では、情報化投資の占める比重が第一位となっている。電子商取引(EC)は、今ではビジネスの未来の方向を指し示す合言葉となっている。電子決裁や電子貨幣、あるいは電子金融への移行も当然視されるようになった。企業の情報通信システムプロパーについてみても、もちろんファイアーウォールなどのセキュリティ確保手段はさまざまに講じられるにしても、あらゆる企業に共通の標準やアプリケーションが広く採用されることの意義は、実に大きいものがある。これによって、企業の情報ネットワークのオープン性が確保され、今井賢一・国領二郎氏らの提唱している "プラットフォーム型産業組織" や "オープン型経営" に向かっての産業や経営のパラダイム転換を推進する基盤が作られていくだろう。また、企業が自社専用のネットワークの構築へのこだわりを捨てて、公衆網への依存度を強め、その上でのVPNの展開と活用に踏み切るならば、ネットワークのコストが大幅に節減されるだけでなく、関連企業や顧客との緊密な双方向のコミュニケーションやコラボレーションの推進も、はるかに容易になるだろう。
他方、再燃したNTT分割論議の中で、いちはやく1994年の一月に、電話会社から「マルチメディア会社」への転換を公式に表明していたNTTは、1995年6月、コネクションレスのデータ通信サービスとしてのOCNの構築と、それを通じたインターネットへの接続サービスの提供にも、1996年の秋から逐次踏み切るという方針を決定した。さらに1995年の9月には、自社の保有する回線の他社の回線との相互接続の許容と、サービスのアンバンドル化を全面的に行う決意を表明した。それに刺激されて、NCCの各社やKDDも、インターネット接続サービスの提供やインターネット回線の敷設計画を次々に発表し始めた。
もっとも、NTTのOCNサービスは、いまのところ、結果的には、当初私が期待していたような本格的なインターネット用の超高速全国幹線網の構築の方向からは、いささかそれていっているように見える。というのも、幹線部分のサービスはフレームリレーで間に合わせる一方、接続サービスとしては電話のダイヤルアップによるものや、個別に提供される低速(128K)の回線を途中で何本(8〜24本)もたばねて一本化することで料金の低下を実現しようとした「OCNエコノミー・サービス」が重視されるようになったからである。
当初期待されたようなインターネット幹線網や相互接続点の構築計画は、いまのところ、むしろNTT以外の事業者によって進められている。1997年の5月に発表されたCIX(商用インターネット相互接続)計画はその一例である。もっともNTTの方も、専用線サービス部による64〜128Kの専用線の廉価提供や、ATM交換機による高速伝送回線を共同利用する「メガリンク」サービスの提供などといった、新たな試みを別途始めている。OCN事業部も、ようやく「OCNエンタープライズ」のような、本格的ビジネス利用のためのインターネット接続サービスの提供に踏み切った(本稿の最初に紹介したように、グローコムは、このサービスの最初の利用者の一人となっている。)
このように見てくると、日本の情報化も、1990年代の後半にいたって、ようやくその活気を再び取り戻したようにみえる。少なくとも、行政の情報化は中央政府のレベルで見る限り、今後急速に進むだろう。また大都市の大企業は、これまでのメーンフレーム・コンピューターとカスタマイズド・ソフトウエアそして社内専門家集団としての情報システム部門にもっぱら依存してきた社内情報通信システムのあり方を抜本的に見直して、インターネットの技術やアプリケーションを、自社内のあるいはさらに関連企業をも加えた情報システムの中に、イントラネットやエクストラネットの形で導入・利用していく試みを、真剣に始めている。もちろん依然として、「セキュリティー」のなさや「顔を突き合わせないコミュニケーション」のおぞましさに対する懸念を言い立てて、インターネットの導入に抵抗しようとする傾向も、決してなくなったわけではない。(そう言いながら、クラッカーの侵入やビィールスの感染に対する防御措置は、はなはだ不十分にしか講じられていないという皮肉な現実があるようだが。)それにしても、もはや大きな流れは決まったといってよいだろう。
つまり、情報化は今度こそ業務の生産性の向上とコストの引き下げに、本当に効き始めたのである。これは日本の例ではないのだが、米国の調査会社IDCの調べによれば、最近の情報化投資の内部収益率は、実に1000〜1200% に達するケースが少なくないという。あるいは4〜6週間もあれば、情報化投資は回収されるともいう。たとえば、それまでは一カ月以上かかっていた新規採用セールスマンの研修期間を三日に短縮し、あとはセールス先で携帯端末から会社の情報システムにアクセスして必要なデータや指示を得させるといったようなケースが報告されている。あるいは、それまでは6カ月以上かかっていた開発企画の作成が2週間でできるようになったという例もある。車のディーラーがインターネットを使った販売システムを導入することによって、顧客の範囲を全国的に拡げることが可能となった一方、顧客の方も、さまざまな地域のディーラーの販売条件を比較検討して選択できるようになったと喜んでいるという話もある。在宅勤務も今では拡がる一方である。日本でも、辞令や稟議書や伝票類をすべて電子化することで、オフィスのペーパーレス化に向かって今度こそ本格的な一歩を踏み出そうとしている事例が見られる。そういうわけで、1990年代も後半に入ると、それまでしばしばみられたような、「コンピューターの導入が生産性の向上に寄与したという経験的な証拠は何一つない」といった指摘は、ようやく過去のもののになりつつあるといってよさそうだ。
しかし、そうした展開にもかかわらず、日本の情報化には依然として大きな問題が残っている。
その第一は、政府も企業 (とくに既存の通信・放送産業) も、インターネットこそがこれからの情報化の主流だとする米国政府のような考え方は、まだ本当には受け入れていないことである。インターネットは何となくいかがわしい、外国産の技術でそれを正面から受け入れるのは業腹だ、機能的にも問題がある、犯罪にも利用されやすい、そのうちなくなってしまうだろう、あまり急激な普及はむしろ抑えた方がいい、といった見方はまだまだいたるところにある。また、インターネットを重視する場合でも、もっぱら狭い技術的な観点からそれを見るだけで、自分たちはここを改良して、日本独自の物にしていこう、わが社の売り物にしていこう、とする傾向も少なくない。要するに、インターネットの勃興の意味を哲学的な観点から捉えたり、あたらしい「生命系」の誕生として理解したりする見地が欠けている。その具体的な中身はともかくとして、いまや「インターネット」という言葉自体が一種の国際標準になってしまっていることへの認識も不十分である。
その一つの典型とも言うべき見方が、郵政省の「Vision21」にみられる。このビジョンでは「第二次情報通信改革の推進」を、
という順序でまず考え、続いて「トータルデジタルネットワークの構築」を、
の合成として考えている。そこでは、「インターネットの高度化」は、固定系ネットワークの高度化の一つの要素とされているにすぎない。つまり、移動系ネットワークの高度化の一つの要素として考えられている「周波数資源の開発」と対称的な位置におかれているだけなのである。
しかし、既存の電話や放送は、それぞれ一世紀から半世紀にわたる長い進化の歴史をもち、それなりに成熟した技術・サービス・産業となっている。後述するように、電話や放送がこれ以上の進化の活力をもはやまったく失ったというなすことはできないにしても、それほど大きな進化のポテンシャルはもう残っていないと考えるべきではないだろうか。比喩的にいえば、電話や放送は霊長類の別々の種として進化していったゴリラやオランウータンのようなものである。それらを「融合」 (交配?)させることは、不可能である。他方、インターネットは、発生期のホモ・サピエンスのような新しい「種」であって、今後いくらでも進化していく可能性をもっているが、現時点ではその能力は限られている。インターネットが電話や放送の機能をもつことは、現在でもある程度可能だし、将来はさらに容易になっていくだろう。しかし、これらの機能プロパーでインターネットが電話や放送に競争を挑めば、すくなとも当分の間は、まず勝ち目はないだろう。それにしても、電話や放送のような個別的機能が、その上で真に融合しているような情報通信システムがあるとしたら、それはまさに、今日のインターネットの進化の経路上に出現するシステムに違いあるまい。今日のインターネットが、「旧人」としてのネアンデルタールのようなものなのか、それともすでに「新人」たりえているのかは、それこそ「技術的」なイシューにすぎない。問題は「サルはヒトにはなれない」以上、サルの進化を促進しようとするだけの試みは徒労に終わる運命にあること、の的確な認識にある。つまり、情報通信政策の主眼は、ヒトの原型にあたる新しいシステムに焦点を合わせ、その進化を推進すること (同時に、旧いシステムについては、それが「天命を全うする」のを助けること) におかなければならないのである。このような観点からすれば、現在の電話のシステム構造をそのままにして、それを全面的に光ファイバーで置き換えていくといういわゆるFTTH推進路線には、基本的な問題があるといわざるをえない。
しかし、もちろんそのことは、現在の電話や放送のシステムにこれ以上の進化の余地がまったく残っていない事を意味しない。それどころか、電話や放送の進化は、われわれの眼前で依然として起こり続けている。テレビはケーブルテレビから衛星放送テレビとなり、さらに地上波のディジタル化も始まろうとしている。電話は、FAX機能を取り込み、さらに移動体電話として発展している。そう遠くない将来に、固定体無線の市内網や、低軌道衛星で世界をカバーする長距離網も出現してくるだろう。だが、これからの情報通信システムの主流が「ヒト」にあたるインターネットの進化型だとした場合、「サル」にあたるテレビや電話のいっそうの進化の行き着く先はどこなのだろうか。
一つのありうべき帰結は、電話や放送の「機能」自体が新しいインターネットのシステムに取り込まれていって、既存のシステムとしての電話や放送は死滅してしまうというものである。だが、それは容易には起こらないし、起こるとしてもずっと遠い将来−−30年とか50年といった将来−−の話であるように思われる。むしろより可能性の高いシナリオは、たとえばテレビがインターネット型のシステムの隙間に「ニッチ」を与えられて、相対的に細々と生き残るといったものではないだろうか。あるいは、電話が無線電話となり、さらにインターネットの中核部分へのグローバルおよびローカルな無線アクセス系となって、インターネットの「サブシステム」として存続するというシナリオも考えられるだろう。
第二の問題は、中央の行政や大都市の企業のレベルでの情報化の進展に比べると、地域のレベルでの情報化が、相対的に立ち遅れていることである。とりわけ問題なのは、全国のすべての地域をカバーする「新市内網」としてのインターネット型のディジタル情報通信網の構築が、政府にとっても、既存の通信企業にとっても、主要な政策課題とはされていないことである。郵政省や通産省、あるいはその他の省庁にしても、地域でのインターネットの構築と利用にかける意気込みや、そのための既設の光ファイバー(および同軸ケーブルやメタルの電話回線)の活用に対する姿勢は、まだそれほど積極的とはいえない。他方、すでに見たように、いち早く電話会社からマルチメディア事業者への転換の決意を表明したはずのNTTが始めたOCNサービスは、いろいろな問題を残している。とくに、インターネット幹線網への高速で廉価なアクセスや、地域のLAN相互間の高速接続を可能にする、銅線を利用したXDSL技術の開発や利用、ケーブルテレビ・ネットワークの利用、あるいは光ファイバー心線の提供となると、明らかにアメリカの地域電話会社にくらべてさえ、一歩遅れを取っている。(アメリカの地域電話会社は、遅まきながらではあったが、今年の後半から来年にかけて、XDSLサービスの提供にいっせいに踏み切ろうとし始めている。ケーブルモデム技術の商用化も、当初の予想よりはかなり遅れているが、次第に実現の方向に向かっている。光ファイバー心線の利用についても、アメリカの方がより姿勢が柔軟である。)
そうだとすれば、情報通信システムのユーザーであるわれわれの当面の課題は、本格的なディジタル情報通信網の日本における展開と活用を、われわれみずから推進することでなければならない。その中心的方策は、OCN型の幹線網およびそれに立脚したインターネット中核サービス、および高速専用線によるそれへの直接アクセス・サービス(そのほとんどはグローバルな企業向けのサービスになるだろう)の整備と並行して、全国のあらゆる地域に、既存の電話網やケーブルテレビ網とは別の(もちろん、それらを補足的手段としては利用する形の)、インターネット本来の理念に則したLAN間相互接続型のSOHO向け情報通信網を、一日も早く構築し活用するところにあるだろう。いってみれば、未来の高度情報通信基盤は、全国各地域 (およびユーザー) の「外」からの新幹線網構築路線と「内」からの新市内網構築路線とが、相互補完ないし協働する形で進められて行く必要がある。現在の問題は、「外」からの路線の不徹底さもさることながら、「内」からの路線の推進が決定的に立ち遅れているところにある。これではせっかく幹線網が整備されても、それへの需要はごく不十分にしかでて来ないという結果になる恐れがある。
そのような新市内網のイメージとしては、次のようなものが考えられる。すなわち、十分高速で大容量の光ファイバー中心の "情報ループ" が、それぞれの地域コミュニティにとっての市内幹線網としてはりめぐらされ、それらが相互接続すると同時に、あちこちで全国幹線網に接続している。そしてこの "情報ループ" にはいたるところに "情報コンセント" がついていて、個別のLANもしくは情報機器からの回線ないしプラグをそれに差し込むだけで、高度の情報通信が誰にでも可能になる。もちろん、 "情報コンセント" には有線用のもの(光ファイバーだけでなく、ケーブルモデムあるいはXDSL技術の利用を前提とした)もあれば、無線用のもの(PDAとの接続用のものや、固定体無線回線用のもの、あるいは場合によっては赤外線接続ポートも含まれるかもしれない)もありえよう。私は、コミュニティ全域にわたる多数のLANの複合体ともいうべきこの市内網と、それにつながっている各種の情報機器およびその上で動いている各種のソフトウエアを合わせたもののことを、LANとの語呂合わせでCAN(コミュニティ・エリア・ネットワーク)と呼んでみたい。
ちなみに、アメリカの場合、政府は地域のすべてのコミュニティが「情報スーパーハイウエー」にできるだけ早く接続されるようになることを、明確な政策理念としてかかげている。ただし、当面は学校や図書館のインターネット・アクセスから始めるという手法をとっている。すなわち、新電気通信法の成立したのと同じ1996年の2月に、米国のNII諮問委員会は、「キックスタート・イニシァティブ」と題する二本の報告書を提出してその任期を終えた。二年間の調査研究を通じ、全国のあらゆる分野の人々から意見を聞いた結果、この委員会が到達した結論は、「情報スーパーハイウエーをコミュニティが利用できるようにすることが、米国にとって最善の策である」ということだった。しかも、委員会の考えでは、今世紀末の今後数年間こそが、それを実現するための「歴史的な機会」である。そこで、この報告書は、全米のコミュニティのリーダーたちに対して、「2000年まであと数年となった今こそ、米国は行動を起こし、あらゆるコミュニティに属するすべての人々を情報スーパーハイウエーに接続しなければならない」と呼びかけた。そして、過去の成功事例の検討からえられる決定的な教訓は、「一人の力でも状況を大きく変えることが可能だということだ」と述べた。また、「すべてのコミュニティに適した単一の手法など存在しない」ので、「各コミュニティは独自の手法を開発する必要がある」とも指摘した。この報告書を受けて、クリントン政権は、すでに1996年の春から、全米の学校や図書館を父兄やボランティアの協力を得てインターネットに接続する「ネットデー」運動の全面的な支援に踏み切った上で、昨年の秋には、全米のコミュニティのインターネット・アクセスの推進を第二期クリントン政権の主要政策の一つとして正式に発表した。
とはいえ、クリントン政権の地域ネットワーク推進政策には、若干の問題がないわけではない。それは、既存の電話やケーブルテレビとは別の、インターネット用の固有のアーキテクチャーをもった各地域での通信網構築の必要が、必ずしもその時点ではまだ充分には自覚されていなかったようにみえることである。上記のNII諮問委員会の文書でも、新しいネットワークのメタファーになっているのは、かつてのゴア構想と同様、自動車のハイウェーである。だから、新ネットワークも依然として「情報スーパーハイウエー」と呼ばれ続け、各コミュニティは、「コミュニティ・アクセス・ネットワーク」〔これも略称はCANである〕を通じてそれにアクセスするものと考えられているのである。しかも、現実にはそのような「情報スーパーハイウエー」の構築自体、地域のレベルではまだそれほど進んではいないのである。
これに対し、私のいうCAN、すなわちコミュニティ・エリア・ネットワークは、電話の市内網とは別のネットワークとして、これから新たに構築されていくものである。そうである以上(もちろん、当面の間、既存の電話網やケーブルテレビ網を、その補完・代替手段として利用することは可能だし、望ましいことでさえあるが)、ここには電話の場合のような既存の独占は存在しない。電話事業者以外の(地方自治体や市民・ネティズンの団体を含む)多種多様な事業者が、あるいは個別に、あるいは連合して、その構築に参入できるはずである。また、構築の初期局面では、財政資金の思い切った投入も考慮してしかるべきだろう。新通信システムのための光ファイバーの設置は、道路や鉄道の建設に比べるとおそらく一桁も二桁も少ない費用で、はるかに短期間に可能なはずである。(岡山県のケースでいえば、岡山・倉敷間の20キロの光ファイバー敷設に要した費用は6千万円、期間は2年間だったという。それに対し、現在計画されている中国地方横断道路の追加部分は、延長36キロの建設費が1000億円と試算されている。建設期間は25年かかる。)したがって、財政資金の必要投入額もはるかにすくなくてすむ。また、システムの構築や維持の費用は急速な技術革新によって年々大幅に低下していくとすれば、必要資金量は年々減少していくことも十分ありえよう。
しかし、なんといっても新しい市内網の構築の主役は、やはり既存の通信事業者だと考えることが自然だろう。とくにNTTが長距離会社と地域会社に分割されることがすでに決定された以上、分割によって生まれる地域会社が進むべき道は、CANの構築以外にありえないと思われる。いや、より積極的にいえば、NTTの長距離と地域への分割が既成事実となった今こそ、地域会社にとっては、CANの構築に邁進する事が、地域会社を真の「マルチメディア企業」、いや「インターネット企業」として発展させていくための中心戦略とされてしかるべきだろう。今はまさしくそのための「歴史的機会」なのである。
そうはいっても、今度はこの事業をNTTが独占的に行うということではもちろんない。多種多様なプレヤーたちが、さまざまな協働や競争の枠組みの中で、それに参加してこなければならない。その時初めて、市内通信網の真の競争体制が出現するだろう。しかし、その中で、明確なビジョンに基づいたリーダーシップを発揮し、各地域での協働の中核となって活動する存在は、当然出現しうるし、また出現する事が期待されるだろう。多くの地域において、新NTTがその役割を果たせない理由はどこにもない。
この意味でのCANの構築原則としては、次のようなものが考えられる。
基本原則:
これからの情報社会にあっては、インターネット型(LANの相互接続された広域ネットワーク)の情報通信基盤が、万人にとっての最も重要な社会生活基盤となる。情報通信基盤を各コミュニティ単位で考えたものがCANに他ならない。もちろん、おのおののCANは、相互につながりあっている(WANを作っている)。しかし、サイバースペースでの活動が日常化する情報社会にあっても、最も多くの情報はそれぞれの地域コミュニティの内部で生み出され、流通する。だとすれば、回線速度も身近なところほど高速であって当然だろう。あるいは身近なところほど低速にしてよいという理由はないというべきだろう。
(全体としての社会は、地理的には、家族、近隣コミュニティ、広域コミュニティ、国家、地球社会などのいくつものレベルの集団にわけてみることができる。そして、直観的にいえば、人々のコミュニケーションの密度は、それぞれのレベルの集団の内部で完結するものがほぼ80% 、外部とやりとりされるものがほぼ20% といった割合に分かれそうである。)
派生原則:
OCN型の新幹線網と並行して、ここでいうCAN型の新市内網(の原型となるもの)を、今世紀末までに日本全国に構築すること、これを日本の情報化が当面最優先すべき政策目標にしたいものである。