1998年00月00日
公文 俊平
地球産業文化研究所が発足するきっかけとなった地球問題研究会の第一回は、1988年の2月17日に開かれている。私はその座長をおおせつかった。
手もとの日記を確かめたところでは、それから6月まで合計6回の研究会を開催している。第二回目が終わったところで、当時通産次官をしておられた福川さんを囲む会でその模様を報告したところ、会のメンバーの牛尾治朗さんや河野光雄さんから、とても良い試みだと激励していただいて、大いに元気が出たという記述が、日記にはある。
当時の日本は、国際社会の嫉視や指弾を受けつつあった。1970年代の日本は、資源危機と円高がもたらしたインフレ、不況、国際収支赤字の「トリレンマ」を見事に乗り切って世界の驚嘆と賞賛の的となっていた。しかし、1980年代にはいってからの日本は、その極端な輸入抑制と輸出増進政策の結果、短期間に膨大な貿易収支の黒字を累積したばかりか、アメリカに代わる世界最大の債権国として台頭する勢いを見せ、にわかに世界経済の最大の撹乱要因とみなされ始めた。さらに1980年代の後半には急激な円高とそれがもたらした資産インフレのバブルの中で、日本は一人あたりGNPのレベルでも、アメリカを大きく抜き去った。それやこれやで、日本の問題は単なる外見上の行動や政策のレベルにとどまらず、より深いレベルでの日本の文化や社会構造の特異性のゆえに生ずる、他国や国際秩序に対する撹乱効果にあるとさえ指摘されるようになった。これが、ウォルフレンらのいう「ジャパン・プロブレム」に他ならない。そこで、地球問題研究会では、地球問題を、1970年代のような単なる資源制約や人口・環境問題としてのみ見る視点を超えて、各国の産業のあり方やさらには文化のあり方の相違にもかかわる問題として捉えようと提唱した。それが「地球産業文化研究所」の設立につながったわけである。
ちなみにこの地球問題研究会では、定例の会合と並行して、電子会議を、4月の終わりから約一ヶ月にわたって開催した。電子会議の並行開催は、この種の研究会での試みとしては、もっとも早いケースに属するだろう。ところが残念なことに、私は電子会議の方には、終わりの数日を除いてほとんど参加できなかった。というのは、会議の始まる直前に、当時出始めたばかりのノート型パソコン(6キロほどの重さがあった)を持ち歩いていて躓いて転倒したはずみに、左手の小指を骨折したからである。とっさにパソコンをかばおうとして、左手が重いパソコンの下敷きになってしまった結果のことだった。それでも何とか電子会議には参加したいと思い、リハビリと称してキーボードをたたく練習を早々に始めたのだが、それがとんでもない逆効果で、せっかくくっつきかかっていた骨が再びはずれてしまい、激痛に悩まされるていたらくとなった。
それ以外にも、研究会が行われていた1988年の前半は、私の個人的な生活にとっても激動の時期だった。当時在職していた東大の教養学部で、村上泰亮、佐藤誠三郎さんらと共に進めていた大学改革の試みが、頓挫しつつあったのである。ある日、私達が同士の一人と信じていたH学部長から、そんなに改革がやりたいのなら別の場所に行ってやってくれといわれた時、私はここにはとどまるべきではないと悟った。そのすぐ後、私達が提案した人事案件が教授会で大差で否決されるという事件が起こり、直接の推進者であった西部さんがまず辞表を出した。続いて村上さんも駒場を去った。私も大学院生の論文指導に一区切りをつけてから辞表を提出する準備を進めていたところに、リクルート事件が起こり、私の身辺は混乱を極めた。(地球問題研究会の最終報告書の提出は、幸いその直前のことだった。)しかも、辞職後に予定されていた国内でのいくつかの新しい就職話はすべて、あっという間に雲散霧消してしまったので、私はこの年の秋に日本を離れるほかなくなったのである。そのため、地球産業文化研究所の設立を見届けることができなかったのは、残念な限りであった。