1998年10月01日
公文 俊平
文化と文明
生物、とりわけ生物の「種」は、相互に交配可能な程度に共通な遺伝子型(遺伝情報)と、遺伝子の「生存機械」としての表現型(形質や行動)をもつ個体の集まりだとみることができる(ドーキンス80)。つまり、
種 = {個体;遺伝子型、表現型}
である。これはもちろん思い切って単純化した見方で、現実の生命体は、細胞のレベルでも個体ないし種のレベルでも、さまざまな複雑な共生関係の中にあり、ひとつの種だけを取りだして論ずるわけにはなかなかいきそうもない。だがそれを見とめた上で、あえて同様な見方を人間の社会にあてはめてみるならば、それは、共通の文化と文明をもつ主体の集まりだとみることができる。つまり、
社会 = {主体;文化、文明}
とみることができる。ただし、ここで「文化」とは、人間が生後、ほとんど無意識のうちに親や仲間から教わって身につける暗黙知としての世界観や価値観をさす。この意味での文化は、文明の設計・運営原理としても働く。他方「文明」とは、人間が意識的に開発・学習して構築した文物の体系、つまり形式知としての思想や科学技術、制度や建造物、さまざまな機械や消費財・サービスなどの集まりをさす。この意味での文明は、文化の「生存機械」としても働くのである。
人間社会の文明は、二つの基準によって大きく分類してみることができる。ひとつの基準は、文明の基盤となっている文化の種類であり、もっとも単純には、(1)未来準拠で分化・発展志向型の文化(をもつ文明)と、(2)過去準拠で統合・存続指向型の文化(をもつ文明)とに分けられる。もうひとつの基準は文明を具体的に構築するための技術の種類というか段階であって、これまたもっとも単純には、(a)採集・狩猟技術(b)農耕・牧畜技術(c)軍事・産業・情報技術の各段階に分けられる。それぞれの段階の画期となるような技術変化の波は、「狩猟・採集革命」(あるいは「人類革命」)、「農耕・牧畜革命」、「軍事・産業・情報革命」とそれぞれよぶことができるだろう。
以上の二つの基準をあわせると、文明は下図のような2×3=6種類に大別できる。
ところで世間一般には、産業化(ないし工業化)を近代化と同一視したり、情報化は近代を超える社会変化であって、農業化と工業化の波に続く「第三の波」(トフラー80)だととらえる見方が普及している。しかし、私はあえて、情報化を近代化の一部にふくめて、軍事化と産業化に続く近代化の第三の、そして恐らくは最後の進化局面だとする立場をとりたい。それは、軍事化も、産業化も、情報化も、すべて人間の能力(パワー)の増進過程としての性格を通有しているからである。つまり、軍事化とは人間の武力の、産業化とは経済力の、そして情報化とは知力の、それぞれ急激な増進過程に他ならず、その意味では、今日の情報化は人間社会の進歩・発展を加速するものではあれ、抑制するものではないと考えられるからである(公文94)。
つまり、われわれは今、近代文明の新たな進化の局面としての、「近代情報文明」の急速な立ち上がりを目の当たりにしている。近代軍事文明と近代産業文明に続く、近代情報文明の到来にともなって、これまでの近代文明を支えてきた近代文化の三つの柱(思想として形式化されたときには自由主義、進歩主義、手段主義と呼ばれてきた価値観の体系)には、それぞれ反省が加えられて、より成熟した、しなやかな形のものになっていくだろう。しかし、近代が近代であるかぎり、それらの価値観が捨てさられることはないだろう。
だがいうまでもなく、近代文明の発展が無限に続くことはありえない。そう遠くない将来に、未来準拠で分化・発展志向型の近代文明は発展の限界に直面し、過去準拠で統合・存続志向型の新文明にとってかわられるだろう。そこでは、近代およびそれ以前の文明が生みだした知識の全体を、ある統一的な観点から統合し存続させていこうとする新たな思想・信条の体系が出現するだろう。この新文明は、これまでに出現した過去準拠型の「呪術文明」および「宗教文明」と対比して、「智識文明」と呼ぶのが適切だと思われる。この智識文明は、過去の同種の文明、つまり呪術文明や宗教文明を再評価する一方で、進歩や発展に高い価値をおく近代文明のような文明に対しては、批判的な立場にたつだろう。とりわけ、科学・技術の発展に対しては、抑制的な姿勢で臨むだろう。(しかし、想像をたくましくすれば、いずれはまた智識文明の周辺から、新しい発展志向型の文明が生まれてくるのではないか。人類が「脱人類革命」に成功し、恐らくはほとんど情報のみの存在となり、他のさまざまな生命体をも情報的に糾合して、宇宙に乗り出していくのは、その時のことだろう。いずれにせよ、それは、実現するとしてもかなり遠い未来のことに違いない。)
実は、現在でもすでに、来るべき智識文明の予兆ともいうべき新しい思想や行動のパターンが、さまざまな形で出現している。アメリカ文学者の志村正雄は、かつては蔑視語であった「汎神論」や「アニミズム」などの言葉が、近年の日本では肯定的に捉えられるようになったと指摘している(志村98)。これは、過去の呪術文明の再評価だといえよう。他方、宗教文明の再建の試みともいうべき「統一原理」や「オウム真理教」などの運動は、一定の影響力はもちながらも、恐らくは失敗に終わる運命にあるのではないだろうか。それに対し、後で紹介するゾーハーの量子論的世界観やマーギュリスの生命観、あるいは清水博の「場所の論理」(清水96)などは、未来の智識文明の根幹をなす統合的な智識の、礎石の一部となる可能性を秘めているように思われる。
近代文明と宗教文明
しかし、そのような智識文明がすでに本格的に出現しつつあるとみるのは、時期尚早だろう。近代情報文明さえ、いまようやく立ちあがり始めたところなのである。今後数十年間は、情報技術の爆発的といいたいほどの急激な革新が続き、それに伴って、私たちの意識やライフスタイルのあり方も一変していくだろう。「智業」や「智民」とよぶことがふさわしい組織や個人が台頭し、「智」すなわち知的な影響力の獲得と発揮をめざす競争が、広く普及するだろう。しかしそれは決して、軍事化とともに生まれた近代主権国家や、産業化とともに生まれた近代産業企業の終焉を意味するものではないだろう。それどころか、情報化の過程は同時に、これまでにその類をみないほどの急速でしかも長期にわたる経済成長と、自己再組織をとげた企業や国家の新たな発展の過程にもなるだろう。
だがその一方で、情報文明への移行を妨げるさまざまな摩擦や蹉跌も、グローバルに発生するだろう。人口・資源・環境問題の激化、大不況、国際政治面での深刻な紛争などの「転換期の諸問題」がそれである。
実際、総人口が60億に達しつつある今日の地球で、近代文明と呼ぶことが適切な文明の構築に成功している地域は、せいぜいでその三分の一程度にすぎない。その他の圧倒的に多くの部分は、先の分類でいう宗教文明地域に属している。(それ以前の文明に属する地域も、たとえばアフリカの一部などには残っているように思われる。)
宗教文明地域は、そこで支配的な宗教の種類に応じて、いくつかの分肢にわけてみることができる。そのような宗教文明の諸分肢と近代文明(の諸分肢、とりわけ日本と西欧)との関係については、日本の文明論者の間から、いくつかの興味深い解釈がだされている。その嚆矢とでもいうべきものが、1957年にその原型が発表された、梅棹忠夫の「文明の生態史観」である。梅棹自身によるその要約が下図に示されているように、梅棹は、ユーラシア大陸を東北から西南に貫く大乾燥地帯の周辺に宗教文明の四大分肢が位置し、日本と西欧の近代文明分肢はその東西の周辺に生まれて、それぞれ並行的に進化してきたという解釈を示し、敗戦の後遺症に萎縮していた日本人に大きな刺激と自信を与えた。
他方、近年になって提唱された川勝平太らの「文明の海洋史観」は、西欧と日本の近代(産業)文明の本格的な発展の契機を、ユーラシア大陸南方の海洋(環インド洋と環シナ海)に散らばる島嶼国家との接触・交易に求めた。そうした接触経験をへた後で、西欧も日本も、いったんこの海洋文明との接触を断って、それぞれ自国内での経済・社会発展に精をだした。それが西欧の「産業革命」と日本の「勤勉革命」だったというのである。下図は、「文明の海洋史観」の要点を、梅棹の図式と対比させうるように私が図式化してみたものである。今後、近代情報文明の立ち上がりが進んでいく中で、このような文明の自己認識や比較文明認識の試みがさらに展開されていくことを期待したい。
情報・生命・人間
それにしても、今まで何の説明もなく使ってきた「情報」とは何のことだろう。吉田民人は、「情報」を最広義から最狭義までの四種類に分けている。最広義の情報とは、「物質やエネルギーのとるパターン」であって、この意味での情報は全自然にあまねく存在する。広義の情報は、生命の登場以後の自然に出現した「意味をもつ記号の集合」(遺伝情報)であり、狭義の情報は、人間社会に独自の「意味現象」(文化情報)であり、最狭義の情報は、自然言語にみられる情報概念だという(吉田90)。
私は、個人あるいは集団としての人間を念頭においた「主体」のモデルとの関連で、 広義の情報を、事物の世界での物質やエネルギーのとる「外部形式」と、主体がそれを把握するためにもっている「内部形式」とに、まず分けてみるところから出発して、表象、信号、記号、言明、メッセージなどのレベルでの情報を考え、最後に主体にとってのもっとも狭義の情報も、やはり「外部情報」と「内部情報」からなると考えた(公文94)。
しかし、情報についての私たちの認識は、さらに深める必要がありそうだ。たとえば、哲学者のダナー・ゾーハーの洞察によれば、現存する事物は、「量子的真空」にエネルギーが加えられて生ずる「励起」として出現してきたもので、そのすべてが根元的な「粒子/波動二重性」をもっている。物質の存在性(「ある」もの)を表しているのが、その粒子性であり、関係性ないし生成性(「なる」もの)を表しているのが、その波動性である。物質のこの二重性は、シュレーディンガーの波動関数によって統一的に表現されるが、そこには、この物質がとりうるすべての可能性の形(事物)、つまりバーチャルな諸状態が、確率の波としてふくまれ、時空のあらゆる領域にわたって拡がっている。波動関数にしたがっている物質は、その観測者との間に、ある特定の間柄(context)が形づくられた時にのみ関数が収縮(collapse)して、現実的存在の特定の形が選択されて確定し、そこに、古典物理学の記述の対象となるような決定論的な粒子的現実(個体)と、それらの間の「外的関係」の世界が、具体性をもって出現するというのである。
しかし、そのような個体も、波動性(関係性)を完全に失うわけではなく、あるレベルの個体は、その波動性を通じて、他の個体との結びつきの中で、より高次のレベルの波動関数にしたがう二重性を示すようになり、その関数が再びある間柄の中で収縮すると、より高次のレベルの個体が出現する。原子から分子が生まれるのはその一例である。
さらに、物質の粒子性は、人間のレベルの言葉では、物質のもつ根元的な「肉体性」だといえる。同様に、物質の波動性は、それがもつ根元的な「精神性」ないし「意識」だといえる、とゾーハーは説く。
たとえば、粒子/波動二重性の例証に用いられる二つの隙間の実験では、光子は、開いている隙間の数に応じてそのふるまいを変えることができる。そればかりか、二つの隙間をすでに通過した後でさえ、その前方に置かれている装置の種類――粒子検知器もしくは干渉スクリーン――に応じて、その飛跡を変えることができる。それはまるで、光子が、開いている隙間の数をみて、この実験で自分に何が求められているかを知った上でそれに対処したり、前方にどんな装置が置かれているかをあらかじめ予想してしかるべきふるまいを選んだりしているかのようだ。つまり、光子ですら、すでにある種の「意識」ないし「意思」をもっているかのようにみえるのである。
他方、人間もまた、かなりの高次のレベルにあるとはいえ、物理的な個体の一つである。つまり、量子のレベルの言葉でいえば、人間の肉体はその粒子性を示し、人間の精神はその波動性を示している。だから、物質がより高次のレベルの存在へと生成・進化していくにつれて、意識もまた、より高次のものになっていくといえよう。物質も意識も、共に、量子的実在の中にその「母」をもっているのである。
そればかりか、人間の意識自体にも、量子に似た二重性がある。自由意志にしたがう人間の思考ないし直観は、漠然とではあれ、ありとあらゆる可能性を一気にみてとることができる。あるいは、ありとあらゆる可能性の間をたえまなくゆらいでいる。しかし、そこにある統一的な集中力というか覚醒力が働いた時、漠然としていた直観的イメージの総体から、ある特定の可能性が選択固定され、論理操作にしたがう個々の観念が生まれてくるのである(ゾーハー91)。
ゾーハーのこのような解釈――私にとってははなはだ難解だが驚くべき啓示に満ちているように思われる解釈――にしたがえば、素粒子をもふくめたすべての事物がもつ「意識」とは、外部情報と内部情報とを統合して自らのふるまいを決定するような事物の働き(情報処理機能)だといえそうだ。実際、ケネス・ボールディングも、個々の原子は、「原子価という形のノウハウ」、つまり他の原子の状態についての情報や、それらといかに結合するかという知識をもっているという意味のことをのべていた(ボールディング75)。
そうだとすれば、低エントロピーの物質やエネルギーを取りこみ、高エントロピーのそれを排泄するという「代謝」を行いつつ自分自身を維持していくという、より高次の秩序(オートポイエシス)をもつ「生命」が、そのすべてのレベルにおいて「(事物一般の意識よりもより高次の)意識」をもっていたとしても、何の不思議もないことになる。実際、ふだんは単細胞のアメーバのように分散して生活しているが、栄養や水が不足してくると寄り集まって多細胞の「木」をつくり、胞子をだして飛ばす粘菌の各「個体」は、外界の状況を把握したり、他の個体との間で情報を交流したり、たがいに役割を分担して協働するといった高度の情報処理能力を、すでに備えていると考えないわけにはいかない。すべての生命体は意識をもち、考え、行動できるのである(マーギュリス/セーガン98)。
私は、こういった問題をさらに深く突き詰めて考えていくのが、「情報学」かもしれないという予感がする。それはまだ学問と呼べるほどに明確な方法をもち形をとっているとはとうてい思えないが、その可能性に賭けてみる価値はあるのではないか。いささか無責任のそしりをまぬかれないとは思うが、それを私の誘いの言葉として本稿を結びたい。
参考文献: