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1999年00月00日

共同研究:現代日本の長期波動−−要約−−

第一章 公文編集分

公文俊平

はじめに:長波という視点の提唱

1990年代の日本はどうもおかしい。かなり重症の病気にかかっているのではないか。日本の社会は、政治も経済も自己統治能力を失ってしまったのだろうか。

現に日本は、バブル崩壊後の長期不況からいっこうに立ち直れないどころか、不況はますます深刻化している。斎藤精一郎は、現在の日本は1991年の景気後退から始まって十年続く資産デフレの最終局面にさしかかりつつあるという(『十年デフレ』日本経済新聞社、1998年)。竹内靖雄は、戦後の日本の繁栄は、「霞ヶ関封建制」と「会社社会主義」が合わさった「日本型社会主義」体制によって支えられてきたという。それが今では老朽化して沈みゆこうとしているのだともいう(『「日本」の終り』日本経済新聞社、1998年)。日下公人の予言によれば、その過程で、日本のGDP(国内総生産)は半分になり、日本の基幹産業(自動車や電機)、銀行、ゼネコン・土建業、農協・農家は消滅し、日本人のすべてが下層民化する(『悪魔の予言』講談社、1997年)。米国政府の高官たちは、今の日本に必要なのは生ぬるい「改革」ではなくて、「革命」だと主張している(『文芸春秋』、1998年六月号)。二、三年前なら、この種の言辞は奇矯極まるものとして一笑に付されたかもしれない。しかし、今では多くの人が、十分ありうる話だと思い始めているのではないだろうか。

あらためて過去を振り返ってみれば、日本の具合がおかしくなり始めたのは、実はもっとずっと以前の、1970年代の石油危機のころからだったのではないか。当時、高度経済成長の終焉に直面したように思われた日本は、狂乱物価の中で、減量経営だ、省資源だと死に物狂いでがんばって二度の石油危機を乗り越えた。そのおかげで、衰退の一途をたどるアメリカを尻目に、日本は世界に冠たる経済大国の地位を確立したかに見えた。しかし、今になって考えると、あのときの日本は、危機を乗り越えるための努力の方向でボタンをかけちがえていたようだ。もっぱら日本の得意な工業製品の生産性を引き上げ、エネルギー原単位を引き下げることに努力を集中する一方で、社会不安の到来を恐れるあまり、低生産性部門が高生産性部門にもたれかかる経済の「高コスト構造」自体は温存したのである。

ともあれ、石油危機が過去の物となった1980年代に到来したニューメディア・ブームや超円高の金あまりバブル経済の中で、日本は未曾有の繁栄を謳歌していた。だが、当時の投資のほとんどは不動産に向けられていた。ニューメディア・ブームは80年代前半の一過性のものに終わり、金融業などを先頭にしてようやく本格的に進展し始めていた情報革命の先頭に立つための投資や経営改革では、大きく立ち遅れた。もちろんバブルも長続きするはずはなく、1990年代にはいるとバブルは一気に崩壊したが、その清算は容易に進まず、不況の長期化を招く結果となった。一足先にバブルを清算し、情報化投資を着実に進めて、経済の回復と新たな長期的発展の軌道に乗ることに成功したアメリカとは、明暗を分けてしまったのである。

 こうした流れを見るにつけても、日本社会はどうやら、1970年代の半ばあたりから、進むべき目標を見失って、一種の長期的な混迷局面に入っているのではないかという思いを禁じ得ない。いってみればそれは、日本を取り巻く運気というか、日本社会のバイオリズムの周期が、1970年代の半ばあたりで上昇から下降に転じたということではないだろうか。しかも、その運気なりリズムが下降から上昇へと再び転換する兆候はまだどこにもみられず、むしろ状況はさらに深刻化の度合いを増す可能性の方が高い。

 しかし、過去の日本が常にこのような混迷ないし下降局面にばかりあったわけではもちろんない。1945年の敗戦の後、改革と復興から経済大国化、一億総中流化の達成にいたる三十年ほどの「追いつき型高度経済成長」過程は、明らかに一種の長期的な驀進ないし上昇局面にあたっていたということができよう。同様に、王政復古の大号令によって復活させられていた律令国家時代の太政官制度に代わる、近代的な内閣制度や議会制度が作られた明治の後半(1880年代半ば)から第一次世界大戦ごろまでの三十年は、明治維新をなしとげた日本が、富国強兵路線のもとで、世界列強の一角に伍するべく驀進した時代だった。当時の日本人は、故司馬遼太郎氏のいう「坂の上の雲」(『坂の上の雲』文芸春秋、1969年)を見つめて、西欧化・近代化の途を駆け上ろうとしていた。そして日本は見事にそれに成功し、非西欧圏で唯一の近代化先進国としての地歩を固めた。まさに日本の運気は栄え、日本は長期的な驀進・上昇過程をたどっていたのである。

それに対し、第一次世界大戦(ととりわけそれに乗じた対華21カ条要求やシベリア出兵) から第二次世界大戦の終わるまでの三十年間は、故天谷直弘氏(元通産審議官)の「坂の下の沼」(『「坂の上の雲」と「坂の下の沼」』、通商産業調査会、1985年)という比喩がぴったり来るような、ボタンのかけちがいを繰り返した長期的な混迷・下降過程だったといえそうだ。日英同盟が解消され、アジアに進出してくる新覇権国米国との「衝突路線」に入った日本は、中国の抵抗に手を焼きながら大陸での戦線をいたずらに拡大していったばかりか、さらには成算のない「大東亜戦争」に突入して、アジアの諸国までを戦火に巻き込み、その挙げ句完膚なきまでに打ちのめされてしまったのである。この時代の日本はまた、産業化の新段階である重化学工業革命の成果をみずからのものにする点でも、はなはだ不徹底であった。新しい産業技術の利用は、もっぱら軍事分野に向けられ(それでさえ、軍艦や戦闘機では世界に誇る水準の兵器を製造したとはいえ、戦車や自動銃などの面でははなはだ不満足な製品しか開発できなかったことは、大陸における対ソ戦での壊滅的な敗北が明白に示している)、耐久消費財の大量生産を中心とする国内市場の発展にはついに向かわなかった。

同様に、幕末の黒船来航から明治の半ばにかけての三十年間もまた、日本社会の進化リズムの中での一種の長期的な混迷・下降局面だったと言えるのではなかろうか。もっぱらオランダと清国との間にのみ限定的な国交を結んで満足していたこの時期の日本は、新興欧米列強の国力を象徴する黒船の来航に驚愕し、開国と攘夷のはざまを揺れ動きつつ、ついに徳川幕府は崩壊し、その後を受けた維新政権も朝三暮四の機構改革や内部での権力闘争、さらには西南戦争を頂点とする士族の反乱から自由民権運動への対処などに明け暮れていた。今日の私たちは歴史の後知恵で、維新政権が確固たる自信と明確な発展目標とを持って新時代に船出したと思いがちだが、実態はそれどころではなかったのである。

つまり、幕末以来の日本社会は、それぞれ約三十年におよぶ長期的な混迷・下降局面と驀進・上昇局面との交替を経験してきたと見てよいのではないか。ということは、それぞれが下降の三十年と上昇の三十年とからなる(あるいは、上昇の三十年と下降の三十年とからなる)六十年を周期とする長波の循環の中にあったと言えるのではないか。そのような長波が、日本を取り巻く運気というか一種の環境要因にあたるのか、それとも日本社会それ自体の進化のリズムとでもいうべき一種の内生的な要因にあたるのかは、ここでは問わない(後述するように、私たちは、その両方の要因が混じり合っていると考えている)。

ともあれ、以下私たちは、社会変化の流れの枠組となっている六十年周期の長波があるという視点を、もっとも基本的な視点に据えることにしよう。私たちはそれを、「現代日本の長波」という名前で呼び、その直截簡明なイメージを描くために、この長波を三角関数の正弦波のような曲線(第一図)でまず表現してみることにしよう。

第一図:現代日本の長波:基本型

もちろん社会的な変化の過程が、正確に六十年ごとに循環振動する波のパターンを描くはずはない。社会は太陽系や原子のような、あるいは人間が作った時計仕掛けのような、物理システムではない。固有の日周期や年周期等をもつ生物システムでもない。それは、自律性をもつ多数の主体が自らの意思を持って行動し相互作用する複雑系であり、その意味では、独自の「社会システム」なのである。だから、かりに何らかの周期的な動きが全体としての社会システムのマクロ的な挙動のなかに見出されるにしても、それほど正確なものではあろうはずがない。また、あらゆる種類のマクロ的な社会変化がすべて周期的な循環を示すはずもない。たとえば日本の人口は、幕末以来ほぼ一貫して増加しつづけている。もちろん年々の人口増加率には変動が見られ、趨勢的には減少が著しく、そう遠くない将来、日本の人口は減少に転ずることが予想されているが、人口あるいは人口増加率の変動を、周期的な変動、とりわけ六十年周期の変動と見ることは無理である。

しかし、ここでは、一種の理念型のようなものとして、少なくともいくつかの種類の基本的な社会変化――全体としての先に述べた「運気」のようなものから、後に述べる政治システムや経済システムの形の変化にいたる――の大枠を与える、約六十年の周期をもって下降と上昇を繰り返す長波の存在を想定してみるところから出発してみたい。そして、それを手がかりとして、時代の性格を読み解いたり、未来を予測したり、現在や未来に対処するための方策を考えたりしてみることにしよう。

もう少し詳しくいうと、私たちは、幕末(1855年)以来の日本社会の変化過程――それは、欧米先進国に同化するための日本の近代化過程、あるいは後述するような理由でむしろ「現代化」過程と呼びたいような過程――を、それぞれ二つの下降と上昇の三十年局面からなる六十年期の連鎖として見る視点を採用することにする。すなわち、

第一期(1855−1915年):英国の覇権下での「国際化」の時代

  1. 第一下降局面(1855-1885 年) :幕末・維新の動乱期
  2. 第一上昇局面(1885-1915 年) :明治後半の軍事的・経済的発展期

第二期(1915−1975年):米国の覇権下での「世界化」の時代

  1. 第二下降局面(1915-1945 年):大正から昭和前半の混乱期
  2. 第二上昇局面(1945-1975 年):戦後の高度経済成長の時代

第三期(1975−2035年?):米国の主導下での「地球化」の時代

  1. 第三下降局面(1975-2005? 年):昭和後半から平成の混乱期
  2. 第三上昇局面(2005-2035? 年):情報化が本格的に進展する時代?

という枠組を当てはめてみることにしたい。つまり、現在の日本は、幕末以来の社会変化でいえば、その第三期の前半の下降局面にいる、と私たちは見ている。そして、残念ながらこの下降局面はまだしばらく続くと想定される。しかし、下降が無限に続くわけではなく、いずれは ――おそらく2005年あたりを転換点として――新たな驀進・上昇局面に入るに違いないとも期待しているのである。

なお、ここで一二の注釈を加えておこう。

見られるとおり、私たちのモデルでは、長波が下降から始まるものとしている。とはいえ、反復循環を繰り返す長波を下降から始まると見るか、上昇から始まると見るか、また波の頂点から始まると見るか、中間の点から始まると見るかは、長波の生ずる原因として何を想定しているかにもよるが、多分に便宜的なものである。あるいは、どのような変化に着目するかによって、長波の始点を違えるということもありうるだろう。後に見るように、私たちは経済システムあるいは法体系のような制度の長波を考える際には、むしろそれが新たに構築されるところから始まる上昇局面(つまり,長波の底)から始めて、それが確立した後に、その「耐用年数」が終りに近づくと共に、さまざまな補修の試みにもかかわらず全体としては衰退し崩壊していく下降局面が続くと見る方が、より適切だと考える。政治システムの場合は、これまた後述するように、波の中間点を出発点に取る方がよさそうだ。しかし、全体としての社会変化を見て行く場合には、内外の環境条件の激変がシステムを新しい循環に駆り立てるという観点に立って、長波の頂上から始めるのが一番適切だと思われる。しかし、これまた後に述べるように、長波を、六〇年周期の一つの波と見るのではなくて、それぞれが約九〇年の長さを持ついくつかの波の、重複を伴う反復継起とみる視点も、十分成立可能なように思われる。

また、私たちの当面の関心は、長波の個々のサイクルや、その内部での事態の展開についてより詳しく検討していくことだが、その際、日本以外の国や地域について見られるかもしれない各種の長波やそれらの間の相互関係、とりわけ日本の長波に及ぶ影響の可能性についても考えてみることができれば、さらに話は面白くなるだろう。

すなわち、第一に、日本以外の国、とりわけこれまでの近代化をリードしてきた国やこれから重要な役割を演じそうな国について、日本の場合と同様な社会変化の長波がどこまで観測できるだろうか。たとえば、アメリカについては、歴史家のアーサー・シュレジンジャー父子による、政治の三十年サイクルという見方がある。それをさらに突き詰めてみると何が言えるだろうか。また、イギリスやオランダ、ロシアや中国についても類似の長波は認められないだろうか。

 第二に、個々の国というよりも、全体としての「世界」について、長波の存在はどこまで言えるものだろうか。すでに世界経済の領域には有名なコンドラティエフらの長波説がある。その周期は、約五十年である。村上泰亮は、コンドラティエフ波を二つ併せた、産業技術の革新の百年周期(突破の五十年と成熟の五十年からなる) という見方をとっていた。今回の共同研究の参加者の一人である公文が提唱した産業化の百年周期説(初出は、『転換期の世界』、講談社学術文庫、1978年)も、そのような見方と密接に関係している。ダボスの世界経済フォーラムは、1990年頃から世界経済は長期の上昇過程(コンドラティエフ波の上昇局面) に入ったという見方をとっている。政治の領域にも、モデルスキーの世界大国の百年周期での交替の長波論ほか、大戦争の五十年周期説とか、さまざまの長波論がある。

第三に、かりに世界の政治や経済が約五十年および百年の周期のサイクルに従って動いているという見方が多少とも取りうるものならば、それと日本(とことによるとその他の国々) の国内の六十年周期とは、どのように関係してくるだろうか。たとえば、幕末以後の日本は、これまでのところ、世界の経済や政治の百年単位の変化を、六十年単位で走り抜け、追いついて来たという見方がとれるかもしれない。それにしても、六十年周期と百年ないし五十年周期とでは、サイクルの位相にずれが発生する場合が起こりうる。たとえば、第一期の六十年での日本のサイクルは、世界のサイクルとほぼ同期していたように思われる。あるいは一周遅れでほぼ同じ位相にあったといえるかもしれない。それに対し、第二期のサイクルでは、日本の側に十年から十五年の遅れがあった。そのため、先進国をモデルとする「追いつき型成長」にはきわめて好適な状況があった。だが、日本がいよいよ世界の最先端に立つところまで来た第三期では、日本のサイクルと世界のそれとの位相はさらにずれて、ほとんどもろに交叉してしまっている。つまり、世界が上昇局面にある時に、日本は下降局面にある。逆に、ようやく日本が新しい上昇を開始した時には、世界はすでに下降局面に入っている。これらはいずれも近代日本がかつて経験したことのない事態である。ことによると、今日の深刻な「閉塞感」の原因の一半も、ここにあるのかもしれない。また、次の上昇局面の性格は、これまでの二度の上昇局面のそれとは、かなり違ったものになるかもしれない。

第二図:日本の長波の流れ

第一節:時代を見る視点:六十年長波のいくつかの側面

まず、第一図に示した現代日本の長波の基本的な特徴を考えてみるところから議論を始めよう。先にも述べたように、私たちの考えでは、一つの六十年長波は、前半三十年の下降局面(下降の三十年)と後半三十年の上昇局面(上昇の三十年)とからなる。それでは、上昇から下降へあるいは下降から上昇への局面の転換はどのようにしておこるのだろうか。もちろん社会的な局面が、ある一つの時点、あるいは一カ月ないし一年といったごく短い期間の前後で突然変化してしまうと考えるのは乱暴にすぎる。転換は、いってみれば上昇の頂点あるいは下降の底にあたる年の前後五年、あわせて十年ほどの期間に徐々に起こると考える方がよいだろう。そこで、以下では上昇から下降への転換が起こる十年を「上昇の山」と、下降から上昇への転換が起こる十年を「下降の谷」とそれぞれ呼ぶことにしよう。そうすると、過去の上昇の山としては、1850年代、1910年代、1970年代の三つがあったことになる。また下降の谷としては、1880年代と1940年代の二つがあったことになる。三度目の下降の谷は、恐らく2000年代ということになるだろう。

こうして私たちは、それぞれの六十年期に見られる下降および上昇の局面を、それに先立つ「上昇の山」や「下降の谷」と関係づけて見るという視点をえたことになる。

私たちの仮説によれば、上昇の山にあたる時期に発生する環境条件の激変が以後の長波の出発点となる。環境条件の変化の意味やそれに対する対応の必要を理解するまでには、かなりの時間が必要とされる。ましてや望ましい対応策の形が明らかになり、改革の遂行についての合意が形成され異論が押え込まれるまでには、さらにそれ以上の時間と、おそらくは大失敗の悲惨な経験と苦い教訓とを必要とする。したがって、上昇の山で生じた環境条件の変化から、下降の谷でようやく生ずるそれに対応する新方策や新制度の全面的採用までには、ほとんど一世代、三十年前後の時間がかかると考えられるのである。

第三図:長波の基本構造仮説

それに加えて、上昇の頂点を中心とする前後十五年からなるいってみれば「波の上半分の三十年」あるいは「水面上の三十年」ともいうべき時期と、下降の底を中心とする前後十五年からなる「波の下半分の三十年」あるいは「水面下の三十年」ともいうべき時期を区別してみることもできよう。波の上半分の三十年は、社会の相対的な力強さや豊かさによって特徴づけられる時代である。逆に下半分の三十年は、相対的な弱さや貧しさによって特徴づけられる。上昇局面と下降局面との違いが、どちらかといえば主観的な性格の強い「社会変化の勢い」の違いであるとすれば、波の上半分と下半分の違いは、より客観的な性格の強い「達成した成果のレベル」の違いや、それに根差している現体制への人々の信頼度の強さに帰着させることができるかもしれない。水面上の三十年では、発展が永遠に続くかのような過信が生じたり、実際にはすでに下降局面に入っているのに、まだまだ現体制は揺るがないといった希望的観測が生まれやすい。逆に、水面下の三十年では、現在の沈滞や閉塞状況からは脱するすべがないのではないかといった絶望や、すでに発展が現実に始まっているのに、その持続性や強度についてなかなか自信がもてない。(たとえば、1950年代の後半、すでに戦後の復興過程とは異質の新しい経済発展過程が開始されていたにもかかわらず、ほとんどのエコノミストは、日本経済の現状を「薄氷上の乱舞」といった言葉で評しがちだった。1990年代の今日、ほとんどの日本人は「日本的経営」に対する自信をなくし、急速に進行中の情報通信革命に対しても、斜に構える姿勢がもっぱらである。)

さらに、いわゆるバイオリズムの場合には、上半分から下半分への転換、つまり水面上から水面下への沈下や、その逆の水面下から水面上への浮上の時期に注目が向けられることが多い。それと似たような意味で、社会変化のリズムの場合にも、同様な転換期のもつ含意に注目する価値があるかもしれない。そこで、私たちは、正弦波の水準線の前後十年を、下降局面の場合には「沈む十年」と、上昇局面の場合には「浮ぶ十年」と呼ぶことにしよう。

これらの十年期は、主観的な「時代の雰囲気」についてであれ、構築された制度の在り方についてであれ、上昇や下降の時代の趨勢をもっとも典型的に示す十年期だということができるだろう。たとえば、第一下降局面の沈む十年(1865‐75)には、国内政治経済の大混乱と徳川幕府の倒壊とが発生した。第二下降局面の沈む十年(1925‐35)と第三下降局面の沈む十年(1985‐95)には、大不況が起こった。第一上昇局面の浮ぶ十年(1895−1905)は、国運を賭した日清・日露の二つの戦争に勝利した明治の軍事的発展および産業化の離陸の十年だった。第二上昇局面の浮ぶ十年(1955‐65)は、戦後の高度経済成長の華の時代に当たる十年だった。また、これらの沈む十年と浮ぶ十年には、後の政治システムの変動の節で見るように、薩長連合の成立(1866)やいわゆる一九五五年体制(1955)の成立のような、政治システムの枠組の大きな変化が発生している点にも、読者の注意を喚起しておこう。

なお、類似の十年区分は、制度の形成と崩壊の歴史についても同様に妥当する。谷の十年は新制度の形成の十年である。浮ぶ十年には、新制度の全面的な強化改善が進行する。それが山の十年で動揺し、沈む十年にはさまざまな弥縫的改革措置が試みられるがもはや狂らんを既倒に廻らすことはできず、谷の十年にいたって崩壊の憂き目を見る結果となる。

最後に、これらのさまざまな視点を組合せてみるならば、一つの六十年期を構成する単位になっている時代としては、それぞれが十五年の長さをもつ四つの時代をとってみるのがもっとも適切なように思われる。六十年期の展開を、四つの十五年期の継起として分析する試みは、後にあらためて行うことにするが、ここではとりあえず、それぞれの十五年期にしかるべき名前をつけておこう。つまり、下降の三十年を形作る二つの十五年期のことは、それぞれ、

  1. 模索の時代(あるいは文化の時代)、および
  2. 混乱の時代(あるいは紛争の時代)、

    と呼び、上昇の三十年を形作る二つの十五年期のことは、それぞれ、

  3. 改革の時代(あるいは政治の時代)、および
  4. 発展の時代(あるいは経済ないし軍事の時代)、

と呼ぶことにしよう。これは、先の第三図に示したような、六十年を周期とする長波の基本構造についての私たちの仮説に即して、それぞれの十五年期の性格を特徴づけるために考案した名称である。

私たちは以下、日本の現代史上のさまざまな時点や時期の歴史的な意味合いを考えるに際して、上に見たようなさまざまな観点(およびそれを示す言葉)を適用してみることにしたい。それを通じて、その時点や時期が、どの六十年期の中のどこに位置しているのか、上昇局面なのか下降局面なのか、上昇の山あるいは下降の谷に当たるのか、水面上にいる時代なのか水面下にいる時代なのか、それとも沈下や浮上の転換点に当たる時代なのか、あるいは四つの時代でいえばどの時代に当たるのかなどといった観点から、それぞれの時代の性格を特徴づけたり、それに続く時代の性格を予想したりしてみたいのである。

しかもそのさいに、六十年周期の長波を、それぞれその性格を異にする十五年刻みの四つの要素的時代(模索、混乱、改革、発展の各十五年期)の反復連鎖と見る視点と、長波のそれぞれの局面の特性をある意味で集約的に表出しているといえるいくつかの十年期(山の、沈む、谷の、浮ぶ、各十年期)の継起的出現と見る視点は、相互に補完性をもって、長波のサイクルの中にあるそれぞれの時期の性格をいわば複眼的に捉えることを可能にしている。その意味では、昭和という時代は、西暦の紀年と元号での年号とがちょうど五年ずれていたために、両者を適当に使い分けることで、時代の性格を表現しやすかった。たとえば、第二期の谷の十年は1940年代だったし、浮ぶ十年は、昭和三十年代だった。1960年代は発展の十五年期の最初の十年にあたったし、1970年代は山の十年にあたっている。昭和が平成にかわってこの便利な補完関係がなくなってしまったことは、残念といえば残念である。

もちろん、それぞれの六十年期はそれ自身の個性というか歴史的独自性をもっている。同じことは、各六十年期に含まれる個々の(三十年、十五年、十年等の)時代についてもいえる。歴史は一面では似たような事柄の繰り返しという共通性ないし普遍性を持っていると同時に、他面では、一回限りの出来事という差異性ないし独自性をもっているのである。したがって、私たちは後に、それぞれの六十年期のもつ独自性についても考えてみることにしたい。

なお、ここであらかじめお断りしておきたいが、私たちはこの種の長波が世界のどこでも、いつでも、常に同じ周期で、規則的に繰り返されるとは毛頭考えていない。たとえば、他国との交流がとくに激しい国の場合には、そもそもその「国」固有の長波を考える意味がないかもしれない。また、環境変化が規則的に発生するという保証もない。なんらかの上昇と下降のリズムはあるにせよ、環境変化の頻度や強度によって、長波の周期が変ったり、新しい長波で置き換えられてしまったりすることがあるかもしれない。他方、大きな環境変化がなければ、それ自体は内生的に生ずる長波のサイクルも、そのうちに減衰してしまうかもしれない。あるいは、環境変化が余りにも深刻だと、下降に向かうくらいのことではすまなくて、体制全体が崩壊し沈没してしまうかもしれない。逆にあまりにも力みすぎて対応をはかった結果、せっかく作り上げた新体制が爆発的に解体してしまうかもしれない。

つまり、過去においてある周期を持った長波のリズムが見られたという「事実」は、将来においても同様なリズムが反復することの保証にはならないのである。過去の長波の軌跡が指し示しているのは、たかだか、近い将来におけるもっとも蓋然性の高い変化の傾向にすぎないであろう。過去の長波のリズムを認識した人々が、一致した考え方にたって協力すれば、たとえば、下降の途中からはやばやと上昇に転ずるといったように、リズム自体を変えてしまうことができるかもしれない。(しかし長波の存在は、一部の人々の自覚や行動が社会全体の雰囲気や挙動を変えることは、それほど容易ではないことを示唆している。)逆に、長波のリズムからいえば、そろそろ上昇に転じてもおかしくない時期に来ていたところで、社会的な合意の形成や協働の組織化に失敗した結果、そのままずるずると沈滞の渕に沈みっぱなしになってしまわないとも限らないのである。(しかし長波の存在は、成功が永遠に続く保証がないのと少なくとも同程度に、社会はたいていの場合、混乱や沈滞の底から立ち上がる生命力を持っていると期待してよいことを示唆している。)

第二節:長波のダイナミクス

 まず、それぞれの六十年期が共通に示している長波のダイナミクスとでもいうべき動きをみていこう。どの六十年期もその最初の局面は下降局面から始まるという見方に立つならば、その出発点をなすのは、直前の六十年期の上昇局面の終わりと、現六十年期の下降局面の初めの部分とを共に含む、「山の十年」になる。そこで、どの「山の十年」にも共通に見られる事態の性格に注目してみよう。端的にいってそれは、日本を取り巻く内外の環境、とりわけ国際環境のあり方の(客観的に見てそういえるような)急変と、そのような変化がどうやら起こっているらしいという漠然とした主観的な認知の社会的な形成であった。

1850年代に生じたのは、「黒船」の来航に象徴されるような、欧米列強の軍事力と産業力のアジア、とりわけ日本周辺への波及だった。それによって日本人は「泰平の眠り」を一気に覚まされたのである。しかし、そのような環境変化が本当のところ何を意味しているのか、それは日本の社会にどのようなインパクトを及ぼすのか、それに対処するためには何をなすべきか、といった点をめぐる的確な理解の達成は容易なことではなかった。まして、国家的・国民的な共通の理解や対処の方策をめぐる合意の形成となると、一朝一夕にはおこり得ようもなかった。こうして、幕末から明治の初年にかけての日本は、混迷と動乱の渦に巻き込まれていったのである。つまり、1850年代に生じた日本をめぐる国際環境の急変は、その直接の帰結として、日本社会の長波の下降局面への転換を引き起こしたといってよいだろう。(あるいは、それ以前には明確な長波が見出されなかったとすれば、下降局面から始まる長波それ自体を引き起こしたといってよいだろう。ちなみに、徳川時代あるいはそれ以前にまでさかのぼる六十年周期の長波の存在は、まんざら考えられなくもないようだが、その検証は今後の課題として残しておきたい。)(注)

注。今回の共同研究の参加者の一人である公文は、少なくとも文化文政時代までは、六十年周期の長波の存在が認められそうだという議論をしてみたことがある。堺屋太一も同様な指摘をしている(『満足化社会の方程式』、日本経済新聞社、1994年)。また、経済システムの六十年周期は上昇局面から始まると見る方がより適切だとすれば、経済の最初の六十年期としては、西欧に範をとった近代的な産業化が本格的に開始された1885−1945年をとることもできるが、さらにもう六十年遡って、いわゆるプロト産業化の時代の出発点となる1825‐1885年をとってみることができるかもしれない。

次に、第二の六十年期の出発点をなす1910年代の「山の十年」に注目して見よう。この十年間には、日本を取り巻く国際環境にまぎれもなく大きな変化がおこっていた。日清戦争に勝ち、さらに日露戦争に辛勝して北東アジアでの軍事的脅威の一掃に成功した日本は、第一次世界大戦では漁夫の利を占め、西欧列強のひそみにならって、朝鮮半島から満州へ、さらに華北やシベリアへ、あるいは南洋諸島へとその勢力範囲の拡大に努めようとしたところで、国際環境の急変に直面したのである。その第一は、新たに極東の軍事大国となった日本が、これまでのような同盟国英国の支持を期待できなくなったことである。加えて、日露戦争においては日本を財政的に支援したばかりか講和条約締結に仲介の労をとってくれた新興世界大国アメリカの力が極東に及ぶにつれて、日米両国の利害対立も日本をめぐる国際関係の前面に出てきた。こうして、日英同盟は廃棄の方向に向かう一方、「世界最終戦争」は日米間で戦われることになるといった石原莞爾などの見通しが出てきた。しかし第二に、国際関係のあり方自体が、それまでの帝国主義的な領土・植民地の獲得競争から大きく変質し始めた。第一次世界大戦の悲惨さに驚愕した国際世論に澎湃として台頭したのは、侵略戦争や植民地獲得戦争を国際正義に反するとする(つまり、それまでの主権国家による「国威の増進・発揚競争」の正統性を否定する)見方であった。その第三は、植民地や従属国に巻き起こった民族独立や国家主権の確立をめざす動きであり、アメリカが見せたそれへの機敏な対処であった。アメリカは、国際世論の変化をいち早く看て取り、「機会均等、門扉開放、主権尊重」の新しい政治的なイデオロギーの衣の下に、みずからの行動の正当化を試みた。だが日本は、今度もまたこのような国際環境の変化の意味の的確な理解や、それに対応した行動様式の変更の国内的合意の取り付けに苦しむ中で、それまでの上昇のエネルギーを急速に喪失していったのである。

注。当時米国のエール大学教授だった朝河貫一は、これを見て『日本の禍機』(講談社学術文庫に所収、1987年)と題する一書を公にして、第一次大戦後の国際環境変化の本質の開明を試みると共に、その理解を誤った場合に日本を襲いかねない危険について、日本への忠告を試みた。しかし、朝河の忠告に耳を傾けた人は少なかったように思われる。

 日本はさらに、1970年代にいたって、三度目の「山の十年」に遭遇した。この時も、過去二回と同様、そこで生じた国際環境の変化の認知と、それへの的確な対処の仕方をめぐる合意の形成は、容易には進まなかった。すでに1960年代の終わりごろから、戦後日本の経済発展のための強力な枠組みとなっていたIMF-GATT体制が揺らぎはじめていた。その結果、1971年の「ニクソン・ショック」(米国の金・ドル本位制からの離脱) の後、1973年には日本も為替の変動相場制への移行を余儀なくされた。1972年の二度目の「ニクソン・ショック」(日本の「頭越し」の米中国交正常化) は、冷戦体制下の国際政治に見られた東西二極構造の変質を予告するものだった。さらに1970年代に二度にわたって世界を襲った「石油危機」は、資源・環境の有限性を人々に否応なく自覚させた。だが、長期的に見てより大きな意味を持っていたにもかかわらず、その認知が著しく遅れたのは、70年代のマイクロチップスの開発に端を発した情報通信技術の革命と、それがおよぼすさまざまな社会的インパクトだった。こうして日本は三度目の長期下降過程を経験することになり、この過程は今もなお続いている。

次に、長波の下降局面から上昇局面への転換の契機となる「下降の谷」を見てみよう。直近の下降の谷にあたる1940年代には、その前半に野口悠紀雄のいう「1940年体制」への転換(『1940年体制』、東洋経済新報社、1995年)が起こり、その後半には現行憲法(以下「昭和憲法」と呼ぶことにする) の公布を含む一連の「戦後改革」が起こっている。つまり、この下降の谷の十年は、体制改革の十年だったということができる。第二期の上昇局面にあたる戦後の高度経済成長は、1940年代を通じて構築・再編成された法律的・制度的な枠組みの下に、はじめて可能になったといえよう。私たちは、1940年代を通じて構築されて第二の六十年期の上昇局面を律した日本の社会・経済体制のことを、「1940年代体制」と呼ぶことを提案したい。それに対しては、敗戦の前後で時代の性格は一変したのだから、1940年代を何か一続きの時代としてくくってしまうのはおかしいという異論が、当然でうるだろう。だがそれは、私たちの多くが今なお残している戦争の後遺症と、戦後の日本に押しつけられた「東京裁判史観」とでも言うべき特異な歴史観の呪縛によるものではないだろうか。近年の歴史家や社会科学者の研究によれば、「戦前」と「戦後」の間には、とりわけ制度や政策面では、断絶よりはむしろ連続性の方が大きかったことが、次第に確認されつつある。もちろん、私たちも、連続性の方を重視する立場に立っている。

これを手がかりに、もう六十年前の1880年代を振り返ってみよう。維新の動乱がようやく終息した後の相対的安定期にあたるこの十年間には、西欧的な政党制度や通貨制度(銀本位制)、内閣や枢密院などが形作られ、さらに大日本帝国憲法(明治憲法) が公布され、帝国議会が発足している。まさに、戦前の大日本帝国の上昇発展を支えた法律や制度の根幹が、この十年間に作られたのである。私たちはそれを「1980年代体制」と呼ぶことを提案したい。

 だとすれば、私たちは今、新しい憲法(以下「平成憲法」と仮称することにする) を含む二一世紀の日本の発展を支える新社会・経済体制(恐らく「2000年代体制」と呼ぶのが適切な体制) の本格的構築の前夜にいることになる。その意味では、現在試みられている行政改革は、かりに実現したとしても(あるいは失敗したとしても)、それで改革が終わりになるようなものではなくて、さらに大きな抜本的体制転換の序章の序章にしかあたらないのではないだろうか。1990年代後半の制度改革の試みは、2000年代体制の構築の助走としての意味をもっているように思われる。

 結局、下降から上昇への局面転換は、「谷の十年」に抜本的な体制転換の実現に成功することがそのきっかけになるのではないだろうか。いうまでもないが、これまでに下降と上昇の波の交替がほぼ三十年おきに繰り返されてきたからといって、この次も必ずそれが起きる、それもほぼ同様なタイミングで起きるという保証は、物理的なシステムならいざ知らず、社会システムのような「複雑系」においては、あろうはずがない。それは、私たちが次の十年ほどの間に新しい体制の構築に必ず成功するという保証など、どこにもないということでもある。たかだか言えるのは、そうした改革の試みが澎湃として起こったり、それに成功したりする確率が、この時期には相対的に高いということにすぎないだろう。

というわけで、それぞれの六十年期の後半に見られる驀進的な上昇・発展は、下降の谷においてようやく実現される憲法の制定や改正まで含むほどの抜本的な体制転換によって可能になる。後述するように、この体制転換は、同時に新しい国家的・国民的な発展の目標に関する広汎な合意の形成をも伴っている。だが、そうした体制や目標の転換が本来必要とされたのは、それに先立って、日本を取り巻く内外の環境変化があったからである。(これまた後述するように、環境条件の変化の中には、前の時代に設定された国家的・国民的目標の達成と、それによる目標喪失感覚の広がりも含まれている。)先に見たように、この意味での環境変化が発生するのは、上昇の山の十年においてである。ということは、既存の体制や目標の転換の必要が漠然とながらも自覚されてから、その本格的な実行が行われるまでには、人間でいえば一世代にあたる、三十年にもおよぶ時間がかかってしまうということでもある。人間は経験から学ぶ能力を備えているとよく言われるが、実際に学ぶための時間は意外に長くかかるものらしい。あるいは、過去に苦労して経験から学び取った(そしてそれによって輝かしい成功をおさめることができた)教訓、しかし変化した環境条件の下ではもはやその妥当性の多くを失ってしまう教訓を、忘れ去ることは容易には出来ないものらしい。混迷と下降の三十年は、限られた予知や学習能力しか持たなず、えてして過ちを犯しがちな人間が、新しい経験から新しい教訓を学び取って実践に移すための不可避のリードタイムなのかもしれない。あるいは過去の経験に固執する旧世代が、歴史の舞台から消え去るために必要な前提であり時間であるのかもしれない。

下降の三十年は、単なる混乱や迷走の三十年にはとどまらない。とりわけその後半の十五年(紛争の十五年)には、歴史的な大事件が勃発する。第一下降過程(1855−1885年)の後半には、開国が引き起こした大インフレに続いて、革命と内戦の時代がやってきた。三世紀近くにわたって日本を統治してきた「公儀」、すなわち徳川幕府を崩壊させ、新政権を出現させる政治革命(明治維新)と、それに伴う一連の国内紛争が次ぎつきに発生したのである。維新直後の戊辰戦争(1868−69年)だけでも、死者の規模は日清戦争での日本軍死者の規模を上回った。それ以後も、西南戦争(1877年)にいたるまで、士族や農民の武装蜂起が絶えることはなかったし、武力による反乱の成功の可能性がないことが明らかになってからも「自由民権運動」型の政治的な異議申立ては激しく試みられた。自由民権運動の波の頂点が1880年代の前半にあったことはよく知られている。盛り上がり、噴出しようとする人々の新たな政治的・経済的なエネルギーを汲み取って効果的に発揮させるための制度的な枠組となったのが、1880年代体制に他ならなかったのである。

第二下降過程(1915−45年)の後半には、世界的な大不況に続いて、「十五年戦争」とも呼ばれる一連の対外戦争の時代がやってきた。その結果、日本は数百万の人命と第一上昇過程以来獲得した領土のすべてを失ったばかりか、国内の主要都市の大半は焦土と化した。1940年代体制は、総力戦に対応したり、敗戦後の復興を支えたりすることが緊急に必要とされているという待った無しの状況で、それもそのすくなからぬ部分は占領軍の権威と圧力を借りて、ようやく構築されたのである。

そして今、私たちは第三下降過程(1975−2005年)の後半にあたる「紛争の十五年」の、ちょうど真中にいる。前の二回と同様に、経済の深刻な混乱や不況のかなりの部分はすでに経験している。それに続いて起こったのは、前の二回の例で言えば、革命・内戦、もしくは対外戦争・占領だった。今回私たちの前途に待ちうけている歴史的大事件とは、いったい何なのだろうか。本格的な対外的な戦争の可能性は、戦争を始める、戦争に巻き込まれる、侵略・攻撃を受けるなど、どの可能性もほとんどないように思われる。では革命の可能性はどうか。第一の下降過程とは違って、第二の下降過程では「昭和維新」の名のもとに軍部や官僚の一部による革命の可能性が模索されたり、既存の政治指導者の暗殺やクーデターがたびたび試みられたりしたものの、政権の全面的な打倒と奪取までにはいたらなかった。軍部や革新官僚たちは、現体制と妥協する道を選び、その内部で発言権を強めたり「横紙破り」の行動をとったりするにとどまった。今度の第三の下降過程でも、「昭和維新」を標榜する政治勢力(大前研一氏など)が一時期登場はしたものの、ほとんど影響力をもてないままに終わった。1993年には、野党連合がそれまでの与党だった自民党を一度は政権の座から追放するところまでいったが、その後が続かず、野党連合の少なからぬ部分は自民党との連立路線に転換してしまった。純粋野党の共産党の大躍進が見られるとはいえ、共産党による政権獲得への道は恐らく遠い。既成の政党以外の政治勢力にも、何ら見るべきものはない。つまり、革命もまた近い将来に関する限り、事実上起こりそうもない。軍事的な戦争も政治的な革命もないとすれば、何がありうべき第三の大事件なのか。私たちは、日本の経済的な「沈没」がそれではないかと考えている。つまり、たとえば金融システムの崩壊によって、日本が経済面での、とりわけ財政・金融面での自律能力を喪失したとみなされる結果、世界経済の安定のために、日本経済が一種の国際管理下に置かれる可能性である。もう一つの可能性は、コンピューターのいわゆる「2000年問題」(これは日本だけが直面している問題ではないのだが)への対応の失敗が引き起こす経済的・社会的大混乱である。ことによると、第三の下降過程の終わりに発生する(そして過去の内戦や敗戦に匹敵する)可能性のもっとも高い大混乱というのは、この「2000年」問題なのかもしれない。

第三節:各六十年期の国家的・国民的目標

先に述べたように、「山の十年」に発生した内外の環境変化がもたらした目標の喪失感や混迷を、「谷の十年」にいたってようやく最終的に脱却して、環境変化に対応しうる国内体制の本格的な再編成と、新しい国家的・国民的発展目標の設定とそれを実現するための大戦略の選択に成功するまでには、ほとんど一世代に近い時間がかかっている。

それでは、これまでの日本は、どのような目標と戦略を、それぞれの六十年期の後半(上昇の三十年)において採用してきたのだろうか。「坂の上の雲」を見つめて走った第一期の上昇の三十年に採用されたのは、基本的発展目標としては、

  1. 国内的には「文明開化」(つまり西欧化) の達成と、
  2. 国際的には「世界列強」の一角に伍すること、

    であり、目標実現のための大戦略としては、

  3. 「富国強兵」(つまり産業化と軍事化) の二正面作戦の遂行、

が選ばれたのだった。このような認識は、1880年代に制定された大日本国憲法の中に、体制化されているといってよいだろう。

19世紀後半の国際社会は、近代化の第一局面にあたる「軍事化」の面では、主権国家による国威の増進・発揚競争が成熟段階に達し、覇権国イギリスが、国際的な勢力均衡のバランサーとなって、「パクス・ブリタニカ」体制の下にヨーロッパでは「平和の百年」を実現する一方で、アフリカやアジアの植民地化を進めていた。また、近代化の第二局面にあたる「産業化」の面では、18世紀末以来の「第一次産業革命」が、鉄道の発達を牽引力とするその成熟段階に入っていた。したがって、西欧型の近代化においては後発国となっていたことを自覚した日本が、産業化と軍事化の二正面作戦を採択したのは、ほとんど歴史的必然だったといってよいだろう。その選択は妥当であり、日本はその後三十年ほどの間に、これらの目標を見事に達成してのけた。二十世紀初頭の日本は、アジア唯一の近代産業国家として台頭したばかりか、極東の軍事的脅威を一掃して、アジアの地域的覇権国としての地位を固めたのである。

 これに対し、戦後になってようやく明確な認識と大方の合意をえた第二の六十年期(1915−75年)のための新しい発展目標は、周知のように、

  1. 国内的には「民主主義」つまり、民主社会の確立と、
  2. 国際的には「平和主義」、つまり平和国家の構築、

    の二つであり、これらの目標実現のための大戦略としては、

  3. 「経済発展」への特化(つまり軍事的発展戦略の放棄)

の戦略が選ばれた。以上の三点をめぐって形成された国民的合意がいかに広くまた深いものだったかは、戦後のいわゆる保革対立の政治状況の中でも、自民党から共産党まで、すべての政党が民主主義と平和主義の旗は一貫して掲げてきたことや、自民党の池田内閣が第一次安保闘争後の社会的な虚脱状態の隙間を埋めようとして所得倍増政策を打ち出した時に、野党の社会党がそれよりも一パーセント高い成長率を想定した政策でそれに対抗しようとしたことなどに、端的に表れている。1940年代に改正された昭和憲法は、発展戦略についての認識はともかく、国家的・国民的発展目標に関する限り、上の二点の認識をまさしく体制化したものだといってよいだろう。

二十世紀中葉の世界は、第二次産業革命(重化学工業革命)の成熟期に入ろうとしていた。そこでの課題は、自動車や家電に代表される機械を人々の消費生活の中に広く普及させ、そのライフスタイルを一変させるところにあった。1950年代に出現した米ソ冷戦の二極対立構造は、極東の生産基地と同時に消費基地(豊かな生活のモデル)としても日本がもちうる重要性にアメリカの目を向けさせ、民主主義と平和主義を実現するために、日本が経済成長一辺倒の戦略を採用することを、国際政治的にも可能にしたのである。

そして今回もまた、日本が選んだ目標と戦略は適切であった。戦後の「追いつき型高度経済成長」のめざましい成功は、それを余す所なく証明している。与党の自民党は、共産主義・社会主義の脅威をものともせず、国民多数の支持を集めて、米国の核とドルの傘の下で、(そして野党第一党の社会党との暗黙の役割分担を前提に、)長期単独政権の座を守り通した。経済発展の面では、1968年に日本のGNP は当時の西独を抜いて自由世界第二位となり、その20年後には、一人あたりGNP で米国をも追い越してしまったのである。

それでは、まもなく後半の「上昇の三十年」に入ろうとしている(ことが期待される)第三の六十年期において、日本はどのような新たな国家的・国民的な発展目標やその実現戦略を選択することになるのだろうか。あるいはどのようなものを選ぶのが適切なのだろうか。この点については、とりあえずの私たちの提案として、次のものを掲げておこう。すなわち、発展目標としては、

  1. 国内的には「地域主義」と、
  2. 国際的には「地球主義」、

    の二つを選ぶべきであり、これらの目標実現のための大戦略としては、

  3. 「情報化」の本格的推進、

戦略が採用されてしかるべきである。すでに述べたように、二十世紀末の現在は、その百年前や二百年前の産業革命に匹敵する、新しい第三次産業革命(情報産業革命)の突破段階にある。その意味では、情報産業化の本格的推進は、日本にとっても不可避の歴史的課題である。だがそれだけではない、世界は同時に、産業化そのものを超える、いわば過去の軍事化および産業化に続く近代化そのものの第三局面(情報化局面)ともいうべき社会変化の時代を迎えている。いいかえれば、単なる産業革命にとどまらない深くかつ広い社会変化(情報社会化)が、産業化のいっそうの進展と同時並行的に進行し始めている。それに伴って、これまでの主権国家や産業企業とは質的に異なる新しいタイプの社会組織が、それこそ無数に生まれつつある。これらの新しい組織は、当面、適当な名前がないので、非政府組織(NGO)とか非営利組織(NPO)などと呼ばれているが、私たちはそれを情報智業、あるいはたんに智業と呼ぶことを提唱したい。智業は国家による国威の増進・発揚や企業による富の蓄積と誇示とは違って、価値のある情報や知識の普及を通じて自らの知的影響力(智力)を入手・発揮することを目的として活動する組織である。同様に、主権国家と共に進化した国民や、産業企業と共に進化した市民は、情報智業の台頭に伴って新しい意識や行動様式を持つようになり、智民として智業と共進化していくようになる。智民とは、情報の積極的探索・創造・普及者であると同時に、自分たちが望ましいと考える社会的な目標の実現を目指して、互いにコミュニケーション(交流)やコラボレーション(協働)を行う人々である。彼らは情報智業のメンバーとして、また情報智業の活動の対象として、未来の情報社会の中核となる。

つまり、私たちのいう「情報化」とは、単なる情報産業化だけでなく、上の意味での情報智業化をも含んだ広義の概念である。その意味では、第三期の戦略は、第一期の富国強兵戦略と似た一種の二正面戦略ということになるだろう。

地域化と地球化を本格的に達成しようと思えば、現在の憲法が想定しているような中央集権的な国家の体制的枠組そのものを取り替える必要があるだろう。第三期の日本は、国内的には大幅な地方分権化を取り入れた連邦国家として再編成されなければならない。また国際的には、軍事面だけでなく経済や情報通信面でも、超国家的な国際機関への国家主権の部分的移譲を当然のこととして前提した政治権力体として再編成されなければならない。つまり、現行の憲法は改正されなければならない。来るべき「2000年代体制」は、新しい憲法の定める体制として構築される可能性が高いと私たちが考えるのは、そのためである。

第四節:長波のいくつかの含意

今回の共同研究において、私たちは、現代日本の(そして他の諸国や世界にも見られる可能性のある)社会変動の長波を、ほぼ六〇年の周期を持つ一続きの長波とみなすところから出発した。そして、社会意識の面では、一つの長波は下降(模索)から始まって上昇(発展)に終わると考えた。他方、社会制度の面では、一つの長波は上昇(制度の基本的枠組みの形成)から始まって下降(制度の寿命の引き伸ばしの試み)に終わると考えた。そのさい、継起する長波の形や位置は基本的におなじだとみなした。

しかし、こうしたいわば単純化した見方のかわりに、より複雑な、そして統合的な見方を採用することも可能である。ここでは、二つの方向について、その可能性を探ってみたい。

その第一は、長波を、六〇年ごとに反復する一連の波と見る代わりに、九〇年ごとに発生し、互いに三〇年の重複期間を持つS字型の波の反復と見る視点である。たとえば、近代日本の長波の第二期は、1915年ごろから始まって2005年まで続くと見るのである。その場合には、1915年から1945年にいたる「下降の三〇年」は、長波の第一期(の最後の三十年)と重複することになる。同様に、1975年から2005年にいたる「下降の三十年」は、長波の第三期の最初の三〇年と重複することになる(第五図参照)。

このような見方にたてば、さきに「下降の三〇年」と呼んだ三〇年間は、前の長波の最終局面にあたると同時に、新しい長波の最初の局面にあたることになる。つまり、変化した環境の中で古い意識や制度を維持しようとする試みと、新しい意識や制度を形作ろうとする試みとがせめぎ会うのが、このいってみれば複雑な時代の特徴だということになる。それに対し、「上昇の三十年」は、それぞれの長波の真中にあたり、それぞれの長波が担う歴史的性格や課題が純粋に表明される三〇年だということになるだろう。いいかえれば、この時代は、相対的に単純な時代なのである。こうして私たちは、下降に始まる社会意識の六〇年周期の波と上昇に始まる制度の六〇年周期の波を、統合的に把握することが可能になるだろう。

長波論:第一章