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1999年2月18日

情報社会の価値観

『読売新聞』 「論点」 1999年2月18日 18版

公文 俊平

 産業社会ではだれでもが財やサービスの生産・販売者ともなれば購入・消費者ともなったように、これからの情報社会では、だれでもが知識や情報の創造・普及者ともなれば通有・享受者ともなる。また、産業社会の人々(市民)が自分で企業を起こしたり、あるいは企業の従業員となって生産や販売に従事したように、情報社会の人々(智民)は、自分で智業を起こしたり、あるいは智業の参加者となって創造や普及に従事するようになるだろう。「智業」とは、産業社会での企業にあたる、情報社会での知識・情報の創造・普及を業として行う組織のことである。

 産業社会で売買される財やサービス、すなわち「商品」が、使用価値と同時に交換価値をもっているように、情報社会で普及・通有される知識や情報、すなわち「通識」は、なんらかの事実についての知識や情報であると同時に、それ自体としてなんらかの価値−−たとえば、「真」、「善」、「美」、「正」、「快」などといった価値−−を常にもっている。

 そうした価値は通識の普及者が付与するものでもあれば、通有者が見いだすものでもある。通有者が通識に見いだす価値には、通有者自身にとっての価値もあれば、普及者がそれに付与しようと思っていると通有者が判断する価値もある。

 世の中には「ナマに近い事実」はあっても「あらゆる偏見から自由な意見」はありえない。人がどのような知識や情報を、どういう順序や配列にしたがって提供しようとするかという意思決定自体の中に、その情報の価値に対する評価が含まれている。

 少なくとも、情報の受け手の中には、その評価と思われるものを、提供される知識や情報そのものの中に、またその選択や配列、つまりその編集の仕方の中に、読み取ろうとする場合がある。その際に、情報価値についての評価に基づく編集の仕方を、情報の出し手の意図を示すものと誤解する場合が起こり得る。受け手の行動を観察・論評する第三者でも、そのように判断することもある。

 そうだとすれば、ここに二つの基本的な論点が浮かび上がってくる。

 第一に、意図や評価なしの知識や情報の提供を、その出し手に要求するのは無意味である。むしろ、出し手の側がそれに主観的に付与している意図や評価そのものについての情報をも、積極的に開示してくれと要求する方が、まだしも意味があるというものである。

 第二に、人は、知識や情報の提供に必然的に伴う意図や評価の体系そのものを評価し選択する必要に迫られる。もっと平たく言えば、だれの(どの個人の、どのグループの)出す知識・情報であれば安心して信頼できるかを決める必要に迫られる。

 その場合の信頼とは、ひっきょう、出し手の意図や評価それ自体を受け手が通有することにほかな)らない。つまり、出し手がもっているのと同じ世界観や価値観を、受け手が抱くようになることにほかならない。(ここで「世界観」といったのは、事実への評価の体系のことであり、「価値観」といったのは、評価自体の評価の体系のことである)

 ところで、そのような世界観や価値観には、広い範囲の人々が通有する普遍的ないし公的なものと、ごく狭い範囲の人々だけが通有する私的なものとがある。その中間に、さまざまな範囲のさまざまなグループによって通有される、いってみれば「共的」なものがある。

 これまでの産業社会では、世界観や価値観はどちらかというと公私の両極に分化する傾向が強かったように思われる。少なくともマスメディア、とりわけ日本のマスメディアは、暗にではあれ、できるかぎり広い範囲の人々(ただし日本社会の中でだけの話だが)に通有されうるような公的な世界観や価値観に立脚し、読者とそれを通有しようと努めてきたのではないか。

 しかし、万人が情報の出し手ともなれば受け手ともなる情報社会では、人々の世界観や価値観は、むしろ「共的」な方向に集中していくだろう。もちろんそのことは、人々が単一の世界観や価値観をもつようになることを意味しない。多種多様なグループが、多種多様な世界観や価値観を抱き、それを明示しながら互いに協働したり競争したりするようになるのが、情報社会の姿だろう。恐らくこれからのメディアも、「智業」となってそのような方向をめざして進むようになるのではないか。