1999年05月
公文俊平
要旨
GLOCOMでは、1998年秋に、共同研究『2005年日本浮上:現代日本の長波』を出版した。その中で、幕末以降の近代の日本の社会変化を、それぞれ30年ごとの下降と上昇の局面からなる、合計60年周期の長波の循環という観点から再解釈している。つまり、正弦波で示されるような社会変化の循環パターンを想定したわけである。
本稿では、この解釈の枠組みを若干修正し、社会変化を90年周期の波動として捉える。しかし、それぞれの波は、前後の波と30年の重なりをもつため、波の頂点は60年ごとに訪れると考える。その上で、時間的には江戸時代にまでさかのぼって長波による解釈を適用し、近世における社会変化の新たな解釈を試みる。
さらに本稿では、これらの時代変化の波を貫くより高次の波──超長波──を仮定し、個別の長波が、ウジ社会の進化とイエ社会の進化という二つのより大きな流れを構成していることを概観する。
1. 前提:長波共同研究で採用した歴史解釈の枠組み
私どもは、昨年の秋に、共同研究『2005年日本浮上:現代日本の長波』を出版した。その中では、幕末以降の日本の社会変化を、それぞれ30年ごとの下降と上昇の局面からなる合計60年周期の、長波の循環という観点から再解釈してみた。つまり、正弦波で示されるような社会変化の循環パターンを想定したわけである(文章末の第1図「正弦波として解釈された長波」を参照)。
そこで採用された解釈の枠組みは、次のようなものであった。
長波の頂上あたりにきたところで、日本社会は内外の環境変化に直面する。これにどう対応するかが、次の時代にとっての中心課題となる。しかし、当初はこの変化の意味を正確に理解することさえ困難で、さまざまな試行錯誤や、過去の発展を単純に持続させようとするオーバーシュートないしはバブル的な現象も現れる。ほとんどの試みはむなしく挫折し、人々は未来への信頼を失い、社会の流れは全体として下降に向う。しかし、下降の底に近づくにつれて、新しい環境変化の意味が明確になり、それに対応するための政策や制度の改革が、ようやく本格的に進められるようになる。改革に反対する勢力は、権力を失い歴史の舞台から去る。そこでようやく新しい国家的・国民的な社会発展の目標への広汎な合意が形成され、新しい社会発展の時代が始まり、長波は再び上昇局面に入る。(つまり、最初に環境変化が感知されてから、それに対応するための体制が本格的に構築されるまでには、約30年の期間が必要とされる。)時代の課題も、それに対処する方法も明確になった今、人々は未来への自信を取り戻し、合意された発展目標の達成をめざして全力をあげる。しかし、再び30年ほどたって、新しい上昇発展がその頂上に近づいたところで、社会は再び環境変化に直面する。
今回はこのような解釈の枠組みを若干修正した上で、時間的には江戸時代にまでさかのぼって適用してみたいと思う。もちろん、詳しい分析をするだけの余裕はないので、ここではとりあえずのデッサンのようなものをお見せしたいと思う。読者の皆様のコメントを頂戴できれば幸いである。
2. 歴史解釈の枠組みの修正
まず、波の姿としては、これまでのような60年周期の正弦波の循環よりはむしろ、それぞれが90年の長さを持つS字型の波の継起を、考えてみることにする。そして個々の90年の波を、それぞれが30年の期間を持つ3つの波の継起に分割してみることにして、それらの三つの部分を、長波の「出現局面」、「発展局面」、および「衰退局面」、とそれぞれ呼ぶことにする。次に、これらの波は、互いに約60年の期間を置いて、次々と反復されるものと考えよう(文章末の第2図「S字型の波の継起として解釈された長波」を参照)。
その場合には、図に見られるように、それぞれの波は、互いに重複する時期を部分的に持つことになる。すなわち、新しい波の出現局面は、それに先行する波の衰退局面と重複する。同様に既存の波の衰退局面は、次の波の出現局面と重複する。他方、波の発展局面は、他の波とは重複していないことになる。(しかし、後の記述からも見られるように、60年周期の正弦波型長波の循環という見方にも、それはそれで捨てがたいものがある。この二つの見方をどのように統合するかについての試案は、後にお示ししようと思う。)
S字型の長波を想定することは、先に見た歴史の解釈の枠組みを若干修正することにつながる。なんらかの環境変化に直面した社会は、一方で既存の政策や制度自体は変えないままで、何とかそれに対応して行こうとする。しかし、これまでの発展の波は、もはや上昇の本格的な勢いを失い、迷走して(あるいは場合によってはいったんオーバーシュートしてから)ついには消えて行く運命をたどる。その一方では、古い波と同時並行する形で、新しい波が出現してくる。新しい時代認識を前提とした新しい政策や制度を模索する試みがあらわれてくるのである。二つの波が互いに交錯し、相互干渉しあうために、社会は混乱する。この二つの波の確執が最終的に解消するのが、S字型長波の発展局面である。そこでは新しい波の優位が確立して、新しい発展が起こる。言いかえれば、それぞれの波の発展局面は、他の波とは重複していないために、その波が表している時代の性格が、最も純粋に現れるのであると考えられる。
他方、波の重複する30年間は、時代の性格が、複雑でわかりにくいものになるのも当然であるということになる。
S字型の長波を想定する立場からすると、幕末以来の近代日本の三つの長波の特徴は、第1表のようにまとめてみることができそうである。
3. 長波の新解釈を江戸時代に適用するそこで今度は、同じような見方が江戸時代にもあてはまらないかを検討してみよう。かつて私ども──というのは村上泰亮、佐藤誠三郎、および私の3人であるが──は、『文明としてのイエ社会』(中央公論社、1979年)で、日本の「近代化」とは、「イエ」型の組織原理に立脚する社会集団(武士団)の出現と進化過程の全体であるという見方にたって、日本の近代化は、平安時代の末期にすでに始まっていたと主張した。つまり、広義の「近代」には、いわゆる「封建」時代も含まれると考えたのである。
そのような観点から、私どもは、鎌倉〜室町時代がイエの最初の形態である「原イエ」(武士同族団)とその連合国家(鎌倉・室町幕府)の形成・発展・衰退期にあたるとすれば、江戸時代はイエの第二の進化形態にあたる「大イエ」(大名家、藩)とその連合国家(徳川幕府)の形成・発展・衰退期にあたると考えた。
そして、明治国家とは、欧米の近代主権国家をモデルとした、イエ社会のいっそうの集権化、つまり自立的な個々の藩を解体・統合(廃藩置県)した「単一イエ国家」に他ならず、その意味では、幕末・維新以降の日本の(狭義の)「近代化」とは、イエの第三の(そして恐らくは最終の)進化形態にあたる「単一イエ国家」の形成・発展・衰退の過程に他ならないと考えたのである。
そこで今回は、イエ社会の進化(つまり、私どものいう広義の日本近代化)の第二の時代にありる「大イエ」の時代の三百数十年(1555〜1885年)に対しても、ほぼ60年おきに出現・交代するS字型の発展の波の仮説があてはまるかどうかを、暫定的に検証して見たいと思う。以下では、この三百数十年のことを、歴史家の用語を借りて、便宜上、日本の「近世」と呼んでおく。
さて、S字型長波仮説に従えば、時代の性格というか課題の相対的に分かりやすい時代が、中30年をおいて反復出現することになる。近代日本の長波の流れをそのまま過去に引き伸ばしてみるならば、それにあたる時代は、それぞれ、
| 1585〜1615年 | (秀吉・家康の時代) |
| 1645〜1675年 | (四代将軍家綱の時代) |
| 1705〜1735年 | (白石・吉宗の時代:享保の改革) |
| 1765〜1795年 | (田沼時代から寛政の改革へ) |
| 1825〜1855年 | (藩政改革・天保の改革の時代) |
ごろの時代ということになるであろう。
まず結論からいうと、このような見方はかなりよくあてはまりそうである。江戸時代のいわゆる「三大改革」のすべてが、この時代にはいっているのも、はなはだ興味深いところである。実は、私自身、半信半疑で年表を眺めてみた結果、これは案外いけそうであると気がついて驚いてしまったくらいである。
大胆に要約すれば、社会システムとして見た場合の、徳川体制の存続・発展にとっての主要な課題は三つあったといっていいであろう。
その第一は、諸大名の連合国家として成立した徳川体制のいっそうの強化(組織としての幕府の権威の確立)による統治構造の安定化であった。(それは結局のところ、西欧近代的な集権国家の構築を必要とした。)
その第二は、商業化・都市化がもたらす武士(および武士が依拠する農民)の困窮と新興勢力の台頭への対応であった。(それは結局のところ、西欧型産業化を必要とした。)
その第三は、日本近海に進出してくるシナおよびヨーロッパの勢力への対応であった。(それは結局のところ全面的開国を必要とした。)
そこで、これらの課題を念頭におきながら、いささか結論を先取りするようになるが、先の第1表に対応させる形で、「近世日本の長波」の要点を、私の独断と偏見でまずまとめてみよう。
以下では、この第2表のまとめを念頭におきながら、近世の「五つの波」の特徴をそれぞれ簡単に眺めて見よう。(といっても、以下にあげる史実自体はすべて、普通の概説書や年表からの引き写しである。)
4. それぞれの長波の概観
4.1 天下統一の波(1555〜1645)
戦国時代に終わりを告げる天下統一への動きは、織田信長の台頭によって、ようやくその可能性が見えてきた。ここから近世第一の波(天下統一の波)の出現局面(1555〜1585)が始まる。この時代の基本的課題は、鉄砲の伝来や足軽(新歩兵集団)の活用に代表される新しい軍事技術の有効利用と、それによる統一政権の確立であった。統一政権をどのような形のものとして構想・実現すべきかも、難しい課題であった。
桶狭間の戦い(1560)で今川義元を倒した織田信長とその麾下の新型軍事集団は、その後もめざましい進撃を続け、京都への入京(1568)に成功し、足利幕府を倒し(1573)、さらに安土城を築く(1576)が、天皇(とそれが代表する旧ウジ国家機構)を全面的に否定しようとした信長自身は、明智光秀の叛乱によって非業の死を遂げる(1582)。これが、第一の波の出現局面(1555〜1585)にあたる。なお、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が信長の家臣となった(1558)のも、徳川家康が信長と同盟を結んだ(1562)のも、この時期のことであった。
天下統一の波の発展局面(1585〜1615)の前半は、秀吉の支配期にあたる。信長の弔い合戦で主導権を握った秀吉は、旧ウジ国家と妥協して関白・太政大臣・太閤となり(1585、1586、1591)、近年の学者が「平和令」と呼ぶ、私闘の禁令(惣無事令)を発布(1587)する一方で、国内統一の余勢を駆って朝鮮に出兵する(1592〜1598)が、醍醐の花見(1598)の後数ヶ月もしないうちに死去した。なおこの間、家康は、江戸に入府(1590)し、内大臣(1596)に任ぜられている。
発展局面の後半は、徳川の覇権の確立期にあたる。関ケ原の戦い(1600)で事実上の覇権を手にした家康は、信長や秀吉とは異なる統一政権構想を選択し、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先例を踏襲して、征夷大将軍となって徳川幕府を開く(1603)形で、大イエ連合国家体制を構築するが、すぐに将軍職を息子の秀忠に譲って(1605)、将軍職(つまり、新連合国家の首長の地位)は徳川家世襲とする決意を天下に示す。江戸城もやがて完成(1606)する。しかし、政治の実権は依然として家康の手にあり(大御所政治)、徳川政権の基盤となった東国の統治は秀忠にまかせた家康は、伏見城(1601修築)や駿府城(1606完成)を拠点にして、京都ににらみをきかせつつ、西国の大名の統治にあたる。またこの間、二度の大阪の陣(1614、1615)によって豊臣家を壊滅させて、徳川家による軍事的支配体制を最終的に確立すると共に、武家諸法度(1615)、禁中並公家諸法度(1615)を発布して、新連合国家の法的枠組みを整備した。対外的には、貿易の振興をはかって、島津氏の琉球属国化を許すと共に、朝鮮との国交回復を実現する一方、オランダとの通商も開始した(1609)。この時代には、家康が認可した朱印船による対外貿易も始まり(1601)、対外摩擦を招くまでに隆盛を極めた。しかし、キリスト教の布教については、黙認からしだいに禁止の姿勢を強め、ついにポルトガル人バテレンの大追放(1613)にいたった。
この局面の終わりで生じた社会環境の大きな変化は、豊臣家の滅亡による平和な時代の到来(元和偃武(げんなえんぶ))と、徳川家の支配を中心とする新しい国家体制の成立であった。
天下統一の波の衰退局面(1615〜1645)は、豊臣家の滅亡(1615)および家康の死(1616)と共に始まるが、そこに見られた困難は、第一に、新国家における「大御所」と「将軍」の間の、また個人としての将軍と官僚機構としての幕閣の間の、二つの二重権力構造の解消が容易には実現させられなかったこと、第二に、有力な外様大名の間には、新しい環境変化を必ずしも全面的に受け入れようとはしないものが残ったこと、第三に、新国家体制の確立が要求したり、平和の到来が引き金を引いたりしたために生じた、人々の奢侈や華麗さへの欲求が、武士の困窮を引き起こし、それがさらに農民負担のいっそうの増大と困窮を引き起こし、ほとんど農村の再生産構造が崩壊するまでにいたったこと、などに見られる。その極まるところが島原一揆(1637〜1638)や寛永の大飢饉(1641〜1643)であった。
4.2 幕府専制化の波(1615〜1705)
近世第二の長波にあたる幕府専制化の波の時代にとっての基本課題は、第一に幕府に反逆する可能性のある政治勢力の徹底的な無力化をはかり、第二に権力の二重構造を解消して、個人中心ではなしに組織、それも幕府本来の組織を中心とする効果的な統治機構を構築・運用するとともに、第三に平和な時代の国家運営のための経済的再生産基盤を確立する、ということであったといってよいであろう。さらに、東アジアの国際関係の中に、新国家をどのように位置付けるべきかという、もう一つの基本課題もあった。
この長波の出現局面(1615〜1645)は、天下統一の波の衰退局面と重複している。その前半は、秀忠が、後半は家光が、それぞれ権力を実質的に掌握した時代にあたる。
家康の死去(1616)の翌年、大軍勢を引き連れて上洛(1617)した秀忠は、大名の転封や、大名・公家・寺社等への領知朱印状の交付を行う。さらに広島城主福島正則を改易(1619)した後で、10年近い歳月をかけて、大阪城の大普請(1620〜1629)を行い、豊臣氏の大阪城の廃墟を新しい徳川氏の大阪城で覆った。この間、秀忠は、娘和子を後水尾天皇の妃として入内(1620)させ、家康の側近であった老中本間正純を改易(1622)し、徳川一門中最大の領知の保有者松平忠直を豊後に配流(1623)した上で、将軍職を家光に譲る(1623)。徳川国家による京都律令国家の支配は、後水野尾天皇の突然の譲位と、和子の生んだ女一宮興子内親王の七歳での即位(1629)によって、ほぼ確立する。
秀忠の死去(1632)によって実権を得た家光は、まず肥後の加藤忠広と弟の徳川忠長を改易すると共に、九州地方に何人もの譜代大名を転封して、その権威を示す。さらに惣目付(1932)や国廻衆(1933)による江戸市中や全国の監視体制をしく。また、大御所秀忠を補佐する年寄りと家光を補佐する年寄の間には、合議体制が次第につくられていった。他方、幕閣の中枢部では、定まった役割としての「職(しょく)」を規定された老中・六人衆・町奉行による統治機構が、それぞれに与えられた「法度(はっと)」(1634)を根拠として成立して行く。この体制は、当初は将軍による職の直轄制として考案されたのであるが、家光の病気もあり、直轄制自体は後に否定(1638)された。この他、将軍直轄軍の再編成や軍役令の制定(1633)、武家諸法度の大改訂(1635)を通じた大名身分の明確化や参勤交代の制度化も行われた。経済政策面では、新田開発の奨励や、明の永楽銭にかわる寛永通宝の鋳造(1636)が行われた。
秀忠・家光の下での幕府の対外政策は、いわゆる「鎖国」政策であった。幕府はキリシタンの禁止をさらに強化する一方、当時の国際社会でのオランダ・イギリス対スペイン・ポルトガルの紛争に対しては中立の姿勢をとり、貿易をも制限した。あるいは、当時ようやく増大しつつあった明国船の来航による貿易とのバランスをはかろうとした。この鎖国政策は、全国的なキリシタン改め令(1635)、日本人の海外渡航と大船建造の禁止(1635)、ポルトガル人の追放令(1639)、さらに来航したポルトガル人の処刑(1640)を経て完成したといわれている。
近世第二の波の発展局面(1645〜1675)は、家光死去(1651)の後、弱冠11歳で突然将軍職を継ぐことになった四代家綱の下で、幕閣の官僚たちによる専制機構が、名実ともに確立・発展して行った時代である。今回の将軍職継承にさいしては、もはや大名や一門の改易は見られず、浪人由井正雪の陰謀の発覚した慶安の変(1651)が起こるにとどまった。そもそも四代将軍家綱の宣下自体が行われたのも、家光の死去の後、慶安の変の処理が一段落してからのことであった。つまり、家光が「大御所」として将軍の上に君臨することはついになかったのである。これ以後数代にわたって、新将軍の宣下は前将軍の死後となる時代が続く。また、将軍職の継承者も、事実上幕閣の決定によって徳川一門の中から選ばれるという先例がここにできた。
幕府の施策は、寛永大飢饉(1641〜1643)対策を直接の契機として、諸大名や直臣の個別的な施政の内容、とりわけ農政にまで及ぶようになる。たとえば、関東の幕府領を対象に出された「土民仕置条々」(1643)の志向するところは、単なる倹約の徹底を越えて、農民の生活や労働のあり方から訴訟のルールの規定、田畑の売買禁止など、新体制の経済的基盤をなす「百姓の成り立ち」にまで及んでいた。この大飢饉以来、百姓を餓死させてはならないという考え方が全国的に普及し、軍役や普請のための動員を少なくする一方、すでに17世紀初期から各地で始まっていた大規模な新田開発の試みには一定の制限をかけて、むしろ本田畑の質の維持改善をはかる方向での「勧農」を奨励する(1666年の諸国山川掟)ほか、困窮時の百姓支援の仕組みもさまざまに工夫されるようになったのである。
幕府はまた、寛文(かんぶん)年間(1661〜1672)を通じて、諸大名から公家・門跡(もんぜき)・寺社にいたるまで領地判物・朱印状をいっせいに発給して、土地所有権の再確認を行い、その支配体制を安定化させた。また、諸宗寺院法度(1665)によって、全国の寺院を通じてその檀家(つまり国民一人一人)の信仰の動向を把握させることにして、農民と村落に対する支配の安定化をもはかった。
この時代以後、外様大名の改易や転封は激減する。外様大名の存在は、もはや幕府の存続を脅かすものではなくなったのである。また大名は、幕府の要職につかない限り、その奉公によって恩賞としての領知を将軍から与えられることもなくなった。そもそも戦乱自体が、島原の乱および蝦夷地でのシャクシャインの蜂起とその鎮圧(1669〜1671)を最後に、まったく姿を消してしまったのである。(幕府は、海外での紛争に対しても中立路線を堅持し、明からのたびたびの軍事支援要請にも頑として応じなかった。)
幕府の監視の主たる対象も、大名から浪人にかわった。他方、家光の時代にはまだ多く見られた殉死に対しては、家綱が改訂した武家諸法度の中でそれを禁止(1663)したことに見られるように、大イエやその連合国家に仕える官僚としての武士の忠誠の対象は、個人としての主君ではなくて、組織としての「お家」(藩や幕府)に変わっていく。これによって主人の代替わりごとに家臣の忠誠を再確認したり、下克上を恐れたりする必要は、次第になくなっていった。
この時代に最も急速に進んだのは、江戸の都市化であった。それに伴い、町人の家督相続法(1648)や株仲間独占禁止(1657)など、町人生活を規制するさまざまなルールが作られた。江戸では、湯女、美人画、歌舞伎、浄瑠璃などが流行し、その禁止令なども出された。しかし、この時代の都市化の活気をもっともよく示しているのは、大火であろう。江戸の華ともいわれた火事は、江戸城の本丸まで焼失し死者十万八千人を出したといわれる明暦大火(1657)を典型例として、しばしば江戸を見舞うようになった。
しかし同時に、この時代には農村の生活も相対的に安定したことも見逃せない。幕府は、全国的な新田開発の勢いが一段落した時期をとらえて分地制限令(1673)を出して、小規模農家の分割相続を禁止して小家族農民の維持をはかるとともに、検地を大々的に推進し(とくに1677年以降)、あわせて小農民の村落形成に見合った年貢の村請制を導入して行った。
この発展局面の終わり頃には、武威を基幹として構築されていた(つまり武官としての「番方」を文官としての「役方」の上位に置いていた)幕府の統治機構が、その有効性を失ったことが見えてくる。経済発展の勢いが一段落すると、戦乱のなくなった時代には無用の長物となった武士を大量に抱えつづけている限り、幕府であれ大名であれ、その財政は赤字基調になる他なくなってきたのである。これが、この時代に生じた主要な環境変化であるといってよいであろう。
幕府専制化の波の最後にあたるその衰退局面(1675〜1705)──いったんオーバーシュートした後の衰退というのがより適切であるかもしれないが──は、五代将軍綱吉の治世(1680〜1708)とほぼ重なっている。綱吉は、服喪や忌引きの規則を定めた服忌(ぶっき)令(1684〜1693)や、犬・猫から虫にいたる生き物の殺生や虐待を禁じた「生類(しょうるい)憐みの令」(1687〜1708)の発布と適用に執念を燃やした将軍として有名である。後者はさらに捨て子や捨て病人の禁止にまで拡張された。
この衰退局面の後半には、相撲や歌舞伎の普及で知られる江戸文化の華が開いた元禄時代(1688〜1704)が含まれる。この時代には、官僚の腐敗が広がる一方で、大名・旗本だけでなく、幕府自体の財政まで完全に赤字に転落し、通貨の増発と同時に改鋳益の入手を目的とする貨幣の改鋳(1695以来)がたびたび行われるようになったが、幕府財政の建て直しには及ばないかった。それはまさに元禄通貨バブルとでも呼ぶことがふさわしい状況であった。
世間を熱狂させた赤穂浪士の仇討(1702)や、富士山の大噴火(1707)が起こったのもこの時代のことであった。幕府は復旧の資金として全国から49万両の国役金を集めたが、そのうち実際に復興用に支出されたのは6万3000両にすぎず、残りは勘定奉行の荻原重秀らが流用したらしいといわれている。
4.3 重農主義の波(1675〜1765)
近世第三の長波にあたる、元禄・享保年間を中心とする90年間におよぶ時代の歴史的課題は、前時代の平和の副産物とでもいうべき武家の財政の赤字と、統治機構の腐敗への対処であった。そこで試みられたのは、統治の基本理念やその機構の再確立、および統治の社会・経済基盤の再編成にまでいたる、全面的な体制改革であった。綱吉や白石の後をうけて、「米公方」徳川吉宗が推進したいわゆる「亨保(きょうほう)の改革」は、組織面では従来の慣行にとらわれることなく、下々の意見を吸い上げるとともに、人材の思いきった登用を行い、実務的な官僚機構を将軍の指導化に構築・運用しようとするものであった。経済政策面では、財政支出の節約をはかる一方で、一つ前の発展局面(家綱の時代)にすでに大きな発展を見せていた産業としての農業、とりわけ米作の生産力の拡大をさらに推進するとともにその産物を徹底的に利用し尽くすことでこの課題に応えようとした、いってみればいささか保守的ともいうべき試みであった。それはある程度の成功を収めたものの、結局は民衆の大きな不満を招き、一揆や打ちこわしが各地に頻発することになる。
その意味では、この時代は「重農主義」の時代と呼ぶのがふさわしいであろう。つまり、近世第三の長波は重農主義の波であったと解釈することができるであろう。
もちろん、この時代を通じて実質的に進展した最大の社会変化は、その前の時代以来の農業生産力の増進を基盤として生じた、全国規模での商品経済化であった。つまり、近世第三の波は、実態経済面で見るならば商品経済化の波でもあったといえる。それはちょうど、近世第二の波が、実態経済面で見るならば農業生産力の発展の波だったことに対応している。
余談であるが、元禄から享保にかけてのこの第三の波の時代は、そこで内面化させられた価値観(たとえば綱吉が普及した、けがれを嫌う物忌み)の面でも、また組織を運営していく上でのさまざまな原理原則(たとえば吉宗が構築した「日本型」の組織構造)の面でも、今日の日本社会に通ずる多くのものを残しているといわれる。そういう面からみても、重農主義の長波の時代は、まさに最初にふれた大イエの超長波の、さらにいえば原イエ⇒大イエ⇒単一イエと続く、全体としてのイエ社会の進化過程の、頂点をなすものであるといえそうである。
第三の波の出現局面(1675〜1705)は、幕府専制化の波の衰退局面と重複しているのであるが、ここでは同じ元禄時代を、古い波の終焉ではなくて新しい波の開始という観点から、あらためて見直してみるところから始めよう。
綱吉はまず、恒例となった代初めの武家諸法度の発布(1683)にさいして、その第一条を、「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」から、「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」にあらためる。その上で、上述した服忌令や「生類憐みの令」の発布と適用に、ほとんど常軌を逸しているともいいたくなるほどの熱意を見せた。これは、一面において、専制化の波の時代に行われた幕府統治機構の強化を、極端にまで推し進めようとする試みであったと解釈できる。彼は、幕府専制体制の周辺部に出現したアウトサイダーとしての「かぶき者」たちまでも、徹底的に弾圧した。しかし、他面において、綱吉の試みは、今や完全に文治の時代に入った幕府体制の統治の根幹を、殺生や死を忌み嫌う方向への人々の価値観の改革に求めるところに置こうとした、「文化大革命」の試みであったともいえる。その意味では、彼の試みは、まさに新しい長波の出発点をなすにふさわしいものであった。
綱吉はまた、湯島聖堂の建立(1691)に見られるように、儒教を重視する一方で、神道や仏教とも深いつながりをもち、寺社造営に巨額の支出を行う。逆に、慣例となっていた日光の東照権現社参はやめてしまった。また、京都の朝廷による221年ぶりの大嘗祭(だいじょうさい)の復活(1687)や192年ぶりの賀茂の葵祭(あおいまつり)の再興(1694)を許したり、荒廃した山陵の修理を行ったりする(1697)方向に、幕府の政策を転換する。これらは、幕府がその権威の補強のために、既成の宗教や朝廷を積極的に利用しようとする保守的な姿勢をとるようになったことを意味する。
行政面では、譜代門閥大名の合議による幕閣運営の体制にかわって、側用人を重用した将軍専制を行うようにした。なかでも側用人に登用(1688)されてから最後には大老(1700)にまで昇り詰めた柳沢保明(やすあきら)(松平吉保(よしやす))は、綱吉の側近として大きな役割を果たした。これは、綱吉が、後継ぎのなかった家綱の死後、多数の家臣を引き連れて館林藩から江戸城に入ってきたことともかかわりがあるであろうが、老中たちの合議制や輪番制自体がすでに硬直し始めていたためも多分にあると思われる。ともあれ、自らの家臣団と側用人・御用取次とに大きく依存して幕府を運営するという統治の新しい構造は、綱吉の甥から将軍世子さらに六代将軍となった家宣や、紀州藩主から八代将軍となった吉宗にも受け継がれて、近世第三の波の時代を特徴づけるものとなる。
しかし、綱吉のこれらの試みは、肝腎の商品経済化、とりわけそれがもたらした大名や幕府の財政難への対処という面では、ほとんどその実をあげることができなかった。この時代に始まった(1695)貨幣の改鋳(金銀の含有量の引き下げ)はその後も繰り返し試みられるが、経済規模の拡大に対応した通貨供給量の増大という通貨政策上の必要を満たしたことは別として、経済政策としてはそれだけではとうてい抜本的な対策にはなりえなかったことは、いうまでもないであろう。
農本的開発主義の波の発展局面(1705〜1735)の前半には新井白石が、後半には徳川吉宗が活躍し、体制改革の担い手となった。すでに甲府時代から家宣の侍講(じこう)であった儒者の白石は、家宣の将軍専制体制の下で、側用人間部詮房(まなべあきふさ)の政策ブレーンとして、その影響力を発揮した。家宣政権の下では、服忌令は残されたが、生類憐れみの令は即刻廃止(1709)され、また、当時横行していた賄賂政治も否定された。さらに絵島事件(1714)を契機として、綱吉時代以来緩みがちとなっていた大奥の綱紀粛清にも踏み切る。他方、朝廷との関係は、家宣の舅近衛基熙(もとひろ)とその息子の家熙(いえひろ)関白任官(1690〜1703、1707〜1712)によってさらに改善され、「公武一体」化が進んだ。しかし、財政再建には成功しないまま、家宣は在位4年弱で病死した。
僅か満3歳でその後を継いだ七代将軍家継の、事実上の後見人となった間部と白石は、将軍の地位そのものに格式と権威をもたせるべく、綱吉時代以上に熱心に、儀礼・典礼を重視するようになる。また、幼い家継に皇女との婚約を予約させる形で、公武一体化をさらに推進する。
近世第三の波を実体的に特徴づける商品経済化の進展は、この発展の局面においてとりわけ顕著にみられた。農業では干し鰯(か)や油糟などの金肥を使用する農法が普及した。商品経済化は、大阪を集散地として全国に及んだ。また、商品を扱う問屋の間でも、新興商人勢力、すなわち専業問屋、なかでも自己資金で仕入れて販売する仕入れ問屋の台頭が見られるようになった。越後屋(三井)は、その典型であった。江戸の人口も、商品流通の拡大に対応して、その取り扱い業務に従事する労働力が大量に流入したらしく、この時期急増した。
白石は、このような状況の中で、三つの経済政策を推進しようとする。すなわち「四公六民」だったはずが実質30パーセントを切るまでに低下していた年貢の増徴(1713)、貨幣の再改鋳(1714)による質の回復、および金銀の海外流出を防ぐ目的での貿易の統制(1715)である。しかし、これらの政策が効果を発揮し始める前に家継は六歳九ヶ月で夭折(1716)し、それと共に白石らもその地位を失うことになる。
紀州藩主から八代将軍となった吉宗は、すでに1710年代前半に、藩政改革に成功した経験をもっていた。その改革は、武術と実学を奨励する一方で、経済政策としては支出の抑制(節約と行政整理)と収入増大(治水・土地開発、物産奨励、流通の活発化)策を組み合わせたものであったが、紀州藩ではめざましい財政再建効果をあげたのである。
江戸城に多数の家臣を引き連れて入った吉宗は、幕府政治の原則である老中執政制への復帰を標榜して前代の側用人(そばようにん)を廃止したが、その代わりに御用取次(ごようとりつぎ)という職を新設した。しかし違ったのは御用取次の身分と待遇だけで、その機能自体はかつての側用人ととくに違ったものではなかった。つまり、ここでも将軍−御用取次−三奉行−実務官僚という形で、将軍専制を頂点とする行政官僚機構の階層構造が基本的には踏襲されたのである。吉宗の改革は、この構造の中に徹底した実務指向と実力主義を取り入れて、有能な人物をどしどし登用するとともに、行政官の間での衆議や諌言を尊重したところにあるといえるであろう。
では吉宗の改革政策自体の内容はどんなものであったであろうか。彼はまず、武家諸法度については、白石が改訂したものを、綱吉時代のものに戻した。しかし綱吉が嫌っていた鷹狩は復活させることにした。また、白石の始めた貿易統制政策はそのまま引き継ぐ一方、統制の裏をくぐろうとする密貿易の取締りを強化した。吉宗のこうした過去に対する是々非々型の政策姿勢は、彼の時代と、綱吉・白石の時代の基本的連続性を示すものであるということができるであろう。
そこから吉宗は、いよいよ、過去の経験を生かした彼自身の改革策の導入に踏み切った。まず、貸借訴訟を今後は当事者間の相対ですますように定めた「相対済(あいたいすま)し令」(1719)を出して、幕府の官僚を煩瑣な訴訟業務から解放した。続いて、奢侈を禁じつつ支出の抑制合理化を細目にわたってはかる倹約令(1722)を発し、さらに役職に伴う加増は役職についている期間だけに限定する「足高(あしだか)の制」を導入(1723)して、支出の節減をはかった。また財政専管の老中を置くとともに、厳格な予算制度を導入した。
他方、当時もはや幕臣への給与の支払いすらままならなくなっていた幕府財政の収入増加策としては、まず急場をしのぐための上ヶ米(あげまい)の制(1722)を導入した。これは、万石以上の各大名に対して、参勤交代期間の半減および江戸城普請手伝いの免除と引き換えに、石高の1パーセント分の米を上納させて、幕臣への給与にあてるという制度であった。
より抜本的な対策としては、吉宗は、
1. 新しい土木・河川管理技術にもとづく新田開発の奨励、
2. 年貢の定率化(定免法(じょうめんほう))とセットにした年貢の増徴、
3. 当時農業生産の拡大と金銀再改鋳のデフレ政策の両方の影響を受けて、他の物価に比べてそれだけが低下基調にあった米価の、市場での価格操作による高米価の実現、
という三つの政策を採用した。これによって、幕府や大名が、より多くの田畑から、より高率の年貢を徴収し、それをより高い価格で換金できるようにすることをめざしたわけである。
吉宗は、これらの政策がいちおうの効果をあげ始めたとみると、通貨発行量の拡大のために、諸藩の藩札の発行をまず解禁(1730)し、ついで通貨の品位切り下げのための改鋳をも許可(1736)する。
他方、長らく停止されていた日光社参を六五年ぶりに、それも大々的な軍役の形で復活(1728)させる。さらに緊急避難のための措置であった上ヶ米(あげまい)の制も停止(1730)して、参勤交代制を旧に復する(1731)と共に、普請手伝いも復活(1732)させる。これらは、徳川政権が大名たちに対する軍事指揮権に立脚して成立しているという政権の本質の再確認であったということができるであろう。
しかし、吉宗の農本的開発主義に立脚した体制改革は、完全な成功をおさめるわけにはとうていいかなかった。もともと無理をおして強行した新田開発の再開は、各地での風水害被害の多発をもたらす。年貢の増徴は、飢饉や一揆・打ちこわしの頻発といった民衆の反撥を招く。江戸での最初の打ちこわしは、1733年に起こった。
こうして農本的開発主義の波は、その最後の衰退局面(1735〜1765)に入っていくのである。衰退局面では、全国各地での風水害や飢饉、そして強訴・越訴や一揆・打ちこわしに加えて、江戸からさらに全国にかけての天然痘の流行も見られた。また、この局面の末期には、尊王論者の台頭が見られ、幕府がこれを処罰した宝暦事件(1758)や明和事件(1766)なども起こっている。ようやく確立したかに見えた幕府体制の正統性にいろいろな側面から疑義が出され、体制の根本的な動揺の兆しが見え始めたのが、この時代であるということができるであろう。
4.4 重商主義の波(1735〜1825)
近世第四の長波にあたる時代の歴史的課題は、保守的・強権的にすぎた享保の改革が噴出させた民衆の不満と、それがもたらす体制の正統性の動揺への対処であった。民衆の間には一方的な搾取の対象とされる苦しみへの不満と共に、ますます拡大する経済発展の可能性を十分に組みつくしきれないことへの不満もあった。前者を代表したのが農民や都市の貧民であり、後者を代表したのが大阪や江戸の豊かな町人層であった。これらの課題に対する対処の方向も、二つ見られた。その一つが晩年の吉宗によって代表される統治機構の法制化であり、いま一つが田沼父子によって代表される重商主義的開発政策であった。私は、後者を重視する立場から、この近世第四の長波のことを重商主義の波と呼びたいと思う。
田沼の重商主義的開発政策はしばらくはめざましい成功をおさめるが、やがて腐敗堕落やインフレが広がり、民衆の怨嗟の声の高まる中で失脚、松平定信の「寛政の改革」を契機として、(恐らく通常の場合よりはかなり早めに)その衰退局面に入っていく。
第三の重農主義の波の衰退局面と重複する重商主義の波の出現局面(1735〜1765)の、前半は 吉宗(1684〜1751)の晩年期と、後半は九代将軍家重の治世(1745〜1771)と、ほぼ重なっている。享保改革が一段落した後の吉宗が対処しなければならなかった最初の課題が、将軍専制型の統治機構の制度的強化であった。なにしろ吉宗の嗣子の家重は、病弱・柔弱の上に酒色におぼれるばかりの人物であったからである。吉宗は、統治機構自体の法制化とでもいうべき工夫によって、対処をはかった。すなわち、その時々に個人の判断にゆだねるのではなく、先例の中に解決策が常に見出せるように、物忌令の集大成(1736)、幕府の基本法典を網羅した御定書百箇条(おさだめがきひゃっかじょう)(1742)や御触書寛保集成(おふれがきかんぽうしゅうせい)(1744)の編纂、さらには寺院の本末関係を整理した寺院本末帳の作成(1745)などが次々と行われた。また朝廷との協調関係もより積極的に構築しようとして、再興以来再び途絶えていた大嘗祭の再再興(1738)を幕府の方から申し出たりした。
吉宗は他方、家重以外の息子の宗武と宗尹(むねただ)に、かつての徳川御三家に匹敵する田安家(1730)と一橋家(1740)をそれぞれ創立させ、その上で隠居して将軍職を家重に譲った(1745)。存命中の将軍職委譲は、二代将軍秀忠以来のことであった。
出現局面の後半、家重の時代には、とくに目新しい政策、とりわけ経済政策はとられていない。吉宗の重農主義的開発政策の新しい立場からの見直しとそのいっそうの展開という課題は、十代将軍家治(いえはる)の治世(1760〜1786)の下で側用人(1767)から老中(1772)になった田沼意次(おきつぐ)の手で、ようやくいちおうの解決を見ることになる。
近世第四の波の発展局面(1765〜1795)は、その最初の3分の2が、いわゆる田沼時代にあた
歴史学者の竹内誠によれば「近年、一八世紀後半の田沼時代は、同じく近世社会のうちでも近世社会独自の展開の頂点をなす画期として、その文化・社会・経済などが学界でも特に注目されつつある」ということである。
小身の旗本の家に生まれた田沼意次は、将軍の小姓役から老中にまで昇り詰め、一代で大名に昇進した。彼が推進した政治は、旧来の伝統的な幕府の政治の枠からははみ出ていた。辻善之助は、すでに大正時代に出版されたその著作『田沼時代』の中で、従来の田沼悪政論を批判して、この時代における「新気運の潮流」を積極的に評価したそうである。すなわち、その他の時代のように年号によってではなく、田沼個人の名を冠して呼ばれるようになったこの時代には、民意の伸張、因襲主義の破壊、思想の自由と学問芸術の発達がみられ、外国貿易の奨励や商業資本との結託といった重商主義的な政策がとられたのである。格式にとらわれない人材登用策も積極的に採用された。しかも、田沼が行った新田や鉱山開発の奨励、あるいは特定の商品の仕入れや販売を独占する株仲間の公認(とその代償としての運上金や冥加金の徴収)や、各種の「座」や「会所」を通じた幕府直轄の専売制度の推進などは、その先駆がすでに徳川吉宗が享保改革で採用した開発主義政策のなかにもみられたように、経済政策としての連続性をももっていた。田沼が設立した座や会所の中には、鉱産物系の銅座(1766)や鉄座・真鍮座(1780)だけでなく、人参座、朱座、龍脳座、明礬会所、石灰会所などがあった。また、1769年には、尼崎藩領の兵庫・西宮およびその周辺の商品生産の盛んな豊かな農村を幕領に編入し、これらの都市部と農村部のそれぞれに株仲間を組織して、大阪の商業地との結合がはかられた。貨幣政策の面では、一定の量目を表示した貨幣としての「五匁銀」の鋳造(1765)や、銀貨でありながら金貨の単位で表示され、金貨との兌換が約束されている新通貨(南鐐二朱銀)の発行(1772)が行われた。後者は、金貨を使用していた東日本の通貨圏と銀貨を使用していた西日本の通貨圏との一元化をめざす画期的な政策であったといえる。
なお、田沼一族は、吉宗以来の紀州系の家臣団に属しており、意次はそのグループのリーダーとして、彼らの支持を集めながら台頭し、同時に彼らを存分に使いこなすようになっていったのである。ここにも吉宗の時代との連続性が見られる。
しかし、旧紀州系家臣団の頂点に立って振るわれた田沼の権勢に対しては、当然のことながら譜代大名たちの強い反発が巻き起こった。加えて、当時気候が寒冷化していた日本列島は、天明年間の1783年から1786年にかけて、未曾有の天災・飢饉に見舞われ、それをきっかけに百姓一揆や都市の打ちこわしが各地に発生した。こうして反田沼の風潮が世にみなぎる中で、田沼は将軍毒殺の疑いまでかけられて失脚してしまう(1786)。
田沼にかわって政権を握ったのは、吉宗の孫で、田安家から白河松平家に養子にいった松平定信であった。彼が推進した寛政改革は、田沼政治への反動として、風紀の紊乱を正し、倹約を奨励し、言論・思想を統制しつつ、農村の復興や都市の秩序の再建、物価の操作などをめざすと共に幕府財政の再建をはかるものであった。しかし、少なくとも経済政策に関するかぎり、その実態は田沼の始めた政策の延長線上にあり、しかもその推進は農村の豪農や都市の豪商の力に依存せざるをえなかった。そして、田沼の行きすぎた「金権」政治が世の悪評を買ったように、定信の行きすぎた緊縮政治や思想統制も世の悪評を買う。天明年間から寛政年間にかけては、田沼や定信の政治を風刺した黄表紙本が、ぞくぞくと出版され、1万部とか1万数千部といった単位で売れると同時に江戸や大阪の市中にあった多数の貸本屋を通じて、武士だけでなく広く町人の間でも読まれた。次のナショナリズムの波の時代にさらに強まっていく教育・学習熱は、すでにこの時代から高まりつつあった。
近世第四の波の発展局面は、初期産業化の時代にもあたる。桐生の織物、山形の紅花、河内の木綿などに代表されるような、特産物の生産が各地で始まり、農業生産力の増大と商品農業化の進展があいまって、豪農層が台頭してくる。それは同時に一面では農村の階級分化をも推し進め、一揆の増大ともつながるが、私には、当時の一揆の増大は、農民の困窮の結果というよりはむしろ、農民のパワーの増大、満たされきれない向上意欲からくる不満の発露といった性格の方がより強いように思われる。あの天明の大飢饉のさなかに菅江真澄の東北「遊覧」が可能であったという一事をもってしても、それがおしはかれるのではないであろうか。同じことは都市の町人のパワーの増大についてもいえる。私には、1787年の江戸の大打ちこわしが、なんとなく1968年の大学紛争に重なって見える。60年周期説の見方にたてば、1780〜1795年と1960〜1975年はともに「発展の15年」の時代にあたっているのである。
ところで、この初期産業化の時代はまた、藩政改革の時代にもあたる。米沢藩主の上杉鷹山(ようざん)とその家老莅戸太華(のぞきどたいか)の、松代藩主の真田幸弘とその家老の恩田杢(もく)、松江藩の藩主松平不昧(ぶまい)といった「名君」や「賢相」が各地に輩出して、殖産興業を中心とする農村と藩財政の立て直しをはかるのであるが、それは同時に、次第に力を蓄えてきた農民や商人の協力なしには不可能であって、そのためには武士以外の庶民もまた藩という共同体の一員であるという考え方を承認せざるをえなくなる。少なくとも、新たに台頭してくる豪農や豪商の少なからぬ部分が自分たちもまた藩共同体の一員であるという一体感(アイデンティティー)を確立するようになったとき、「藩国家」意識が次第に醸成されてくるといっていいであろう。それこそが、日本におけるナショナリズムの萌芽といってよく、この一体感が次の時代の西南雄藩の改革とナショナリズムの発露、さらには藩国家を超える「天下」つまり全国的なナショナリズムの台頭に結びついていったと思われる。
それにしても、この重商主義の波の発展局面には、順調な一直線の発展がみられたというわけではなかったように見える。むしろ度々の一揆や打ちこわしの起こる中での発展であり、また田沼時代や寛政改革の末期には、為政者に対する怨嗟の声が巷に満ち溢れていた。次のナショナリズムの波の時代にはさらに顕著となる発展局面のこのような特徴は、この時代が江戸時代を貫く超長波の下降局面に重なっていたことと関係があるようにも思われる。
重商主義の波の最後にあたるその衰退局面(1795〜1825)は、緊縮財政を基調とする文化年間(1804〜1818)から家斉の放漫財政に移った文政年間(1818〜1830)と、かなりの程度重なっている。それは、二つ前の長波の衰退期に開花した、上方の豪商が担い手となった元禄文化に対比される、江戸のいわゆる「化政」文化の時代でもある。第四の波の発展局面の文化が「いきな通人」の主導という性格が強かったとすれば、衰退局面での化政文化は、「やぼな江戸ッ子」が主たる担い手となった点にその特徴があった。発展局面を風靡した蕪村の俳諧から衰退局面での一茶の俳諧への、あるいは黄表紙の政治諷刺から滑稽本の弥次北膝栗毛への転換は、なかなか興味深いものである。
4.5 ナショナリズムの波(1795〜1855)
寛政の改革を推進した松平定信が、後年もらしたという「泰平二百年、ただおそるべきは蕃夷と百姓の一揆なり」という言葉は、近世第五の長波期の特徴を簡明に表現している。この時代に、徳川大イエ国家は、内外からの脅威にさられて激しく動揺した。
第四の波の衰退局面と重複している第五の波の出現局面(1795〜1825)にあたる30年の時代の到来を告げる出来事といえば、何といっても、漂流民大黒屋光太夫の送り届けを名目としつつ日本との通商の開始をもくろんだ、エカテリーナ二世の意を受けたロシヤの使節アダム・ラックスマンの根室来航(1792)であろう。大黒屋光太夫が持ちかえった異国に関する豊富な情報は、当代一流の蘭学者桂川甫周(ほしゅう)によって詳しく書きとめられ『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』(1794)として出版された。この書物を通じて、また帰国者から直接話を聞く形で、新しい情報は急速に広がっていった。
ラックスマンに続いて、1804年にはロシヤの遣日全権大使レザノフが先年の約束(長崎入港の許可)の履行を求めて長崎に来航したが、その時までには幕府の姿勢が変わっていたために、要求は拒否され、それが1806年のロシヤによるエトロフ島襲撃事件につながり、幕府に(そして国民にも)大きな衝撃を与え、海防論が高まった。外国船の来航はその後も頻々と続き、結局幕府による異国船打払令の発出(1825)をもたらす。つまり第五の波がになった最大の課題は、異国の脅威への対処、それも鎖国の「祖法」を貫くための「攘夷」という形での対処となった。
歴史学者の青木美智男はこの時代の特徴を次のように概観している。「化政期は、200年におよぶ戦争のなかった時代が、内と外から本格的にゆさぶられる時代である。それは崩れゆく秩序と、あらたな時代への胎動が交錯する矛盾にみちた複雑な時代であるともいえよう。[中略]こうした複雑な時代の政治や、そこに生きる人間模様を的確につかみ、時代像を豊かに描くのは至難のことである。」確かにそうであるが、すくなくともその難しさの一半は、この時代が近世第四の長波の衰退局面であると同時に、第五の長波の出現局面にあたるという二重性を持っているという視点を取ることによって、理解できるであろう。さらに言えば、それに加えて、江戸時代の超長波の下降の最終局面であると同時に、明治維新以降に明かな形を取って現れる現代日本の(つまり日本の近代化=西欧化)の超長波の出現局面にもあたるという視点を付け加えるならば、この時代の「時代像を豊かに描く」ことがさらに容易になるのではないであろうか。
第五の波の発展局面(1825〜1855)の最大の特徴は、それが下から盛り上る民衆の活力に支えられた発展であったという点に求めることができそうである。農民たちは時に一揆も起こしたが、日常的には訴願や訴訟(いわゆる「公事」)を熱心に起こして、自分たちの生活状態の改善に努めるようになった。村々には「公事師(くじし)」と呼ばれる訴訟代理人が生まれて活躍した。近所の子供たちを集めて模擬裁判をしたり息子たちに訴訟指導をすることを老後の楽しみにした夫婦も現れたといわれる。村の生活の中には「遊び日」が増え、若者たちは「地芝居」に熱中するようになる。(私は少年時代を四国の農村で過ごしたが、そこには同様な習慣が強固に残っていて、祖母は戦争中でも遊び日のしきたりを守ろうとしていた。また、敗戦と共に「地芝居」は猛烈な勢いで復活した。「公事」という言葉も日常語として使われていた。)村での女性の地位も向上し、妻の勝手による離縁や「飛び出し離婚」も増えるようになったといわれる。最初の4ヶ月間だけでも430万人もの人が加わり「日本国が動く」といわれた文政13年(1830)の伊勢お陰参り(その60年ほど前の1771年に見られた明和のお陰参りの参加者は、その半分の200万人ほどだったという)も、社会不安と同時に、当時の人々や社会一般の活力や経済力の向上なしには考えられないのではないであろうか。
しかし何よりも注目すべきは、この時代の人々をおおったすさまじい学習熱であろう。初期産業化がすでに第四の波の田沼時代から明確な形を取って始まっていたとするならば、第五の波の発展局面には「初期情報化」という言葉が妥当するように思われる。この時期、全国に寺子屋が普及し、日本人の識字率はまず間違いなく世界最高水準に達した。江戸や大阪では「かわら版」が繁盛し、広告のためのちらし、つまり「引き札」も大量にまかれるようになった。大都市ばかりでなく地方にも、仕事の合間に教養としての文化に親しみ、著作をものする人々が生まれた。越後塩沢の商人鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜』(1835)や下総の医師赤松宗旦の『利根川図志』(1855)などはなかでも有名である。学問の面では、経世家とか農政家と呼ばれた本多利明、海保青稜(かいほせいりょう)、大蔵永常(ながつね)、二宮尊徳などといった実学者たちの活躍が、すでに第五の波の出現局面から目立つようになり、発展局面での幕政や藩政改革の試みに大きな思想的影響を及ぼした。
さて、この第五の波の時代にも、前の田沼時代から顕著になった初期産業化の流れは当然続いていた。しかし、今回の発展局面でのその上昇の力は、いかにも弱かったように思われる。むしろ、初期産業化の進展が作り出した全国的な商品流通や、それによって可能になった特産物の生産に特化する食料非自給(「買い食い」)型の生産のシステムには、脆弱性が残っていた。それが寒冷期への気候の移行がもたらした1830年代半ばの一連の大飢饉(天保の大飢饉)によって一気に崩壊したために、飢饉の経済的および政治的な影響がとりわけ深刻なものになったのではないであろうか。
ともあれ経済活動に関するかぎり、第五の波の発展局面は、本来ならば「浮上の10年」(1835〜1845)に入ろうとするところで中断してしまった。それに代わって引き起こされたのが、長州や薩摩などの「西南雄藩」(と後に呼ばれるようになった諸藩)を中心とする藩政改革の試みや、天保の改革と呼ばれた老中水野忠邦の主導下での幕政改革の試みであった。前者が大きな成功をおさめたのに対し、後者は惨めな失敗に終わって、それが幕府の倒壊と維新新政府の成立につながっていったことは、いうまでもあらない。
どちらの改革の試みにも共通に見られる特徴は、政府主導型の「社会主義的産業化」とでも呼びたくなるような開発主義的経済政策の導入(特産物の生産奨励と専売化、問屋や株仲間の廃止、正札販売の励行の試みなどはその典型であろう)と、攘夷の実行を可能にするための軍事制度の改革と軍事力の拡大であった。有能な人材の発掘・登用の試みも競って行われた。改革の成否を分けたのは、改革の結果あるいは前提としての統治の正統性の調達、とりわけ領内の商人や農民層の「国家」(当時は「藩」のことを国家と呼ぶのが普通で、徳川国家のことは「天下」と呼ばれていた)との一体感の醸成にあったと思われる。西南雄藩(個々の国家)はそれに曲がりなりにも成功したが、全体の規模がはるかに大きい幕府(全体としての天下)にとっては、それはあまりにも困難な課題であった。結局、国家的な一体感の広汎な形成と、それを基盤とするより集権的な国家機構の構築は、下からの新しい革命によって初めて可能になった。
第五の波の衰退局面(1855〜1885)は、その出現局面と同様、異国船の来航によって始まる。いうまでもなくそれが「黒船」の来航であり、今回はそれが「開国」をもたらした。攘夷と開国のはざまで揺れ動いた幕閣が最終的に開国を決断したのは、当時の日本が置かれていた国際環境との関係でいえば不可避の決断であったが、国内政治的には失点となり、攘夷勢力の決起と幕府自体の崩壊を引き起こす。第五の波の衰退局面は、同時に近代日本の長波の第一の波の出現局面にもあたっていたのである。幕府の動揺と崩壊の物語は、同時に新政治勢力の出現と新国家の形成の物語にもなった。
以上で、日本近世の5つの波の概観をひとまず終わる。ここで、まとめの意味で、前掲の第2表に対応する図を第3図に描いてみよう(文章末の第3図「近世日本の長波」を参照)。
最後に、以上の分析が示唆しているように思われる、日本史の「超長波」とでもいうべき社会進化の波について一言して、この試論を終えることにする。
これまでに見てきた近世日本の五つの長波は、全体として一つの超長波を形作っているように見える。その頂点にあたるのが第三の重農主義の長波である。いいかえれば八代将軍吉宗の時代が、近世日本の超長波(すなわち大イエの超長波)の頂点(1735年ごろ)をなす。同様に、第一の長波と第五の長波は、超長波の底にあたるといってよさそうである。
そうであるとすれば、近代日本の超長波(すなわち単一イエの超長波)は、いつまで続くのであろうか。その頂点はいつになるのであろうか。ここにも五つの長波がありうるとするならば、超長波の頂点は、近代第三の長波、つまり情報化の波の頂点(2035?)あたりであるということになる。もし、今回の超長波はそれほど長くないとするならば、1975年ごろにその頂点を迎えた第二の長波(産業化の波)で近代日本の超長期の上昇過程はすでに終わっていて、これからの日本は全体として超長期的な下降過程を辿りつづけるとみなければならなくなる。どちらがより適切であるかという判断はここでは留保しておこう。
なお、今の段階ではほとんど座興にすぎないが、このような見方をさらに過去に延長して見ると、この試論の最初で述べたように、近世日本の超長波(大イエの超長波)は、全体としては室町末期から戦国期をも含む合わせてほぼ450年の長さをもつ波(1435〜1885)であるとみることができるかもしれない。そして、そのさらに前には、中世日本の超長波(原イエの超長波)があって、その頂点は、足利義満の時代(1375年ごろ)にあたっていたという想定もできそうである。これは、吉宗の時代からは360年(長波6つ分)前にあたる。また、この原イエの超長波の始点は、東国に「開発(かいほつ)領主」たちが出現しはじめた、9世紀前半、たとえば835年ごろに、求めることができるかもしれない。つまり、原イエの超長波は、大イエの超長波よりはずっと長く、700年に近い期間(835〜1525)に及んでいるように思われる。
しかも、先に示唆したように、この原イエの超長波は、同時に、私流の言い方でいうならばウジ社会の四度目の超長波(単一ウジ国家の解体の波、つまり荘園=私領化の波)と重複している。つまり日本の「中世」は、単一ウジの解体の時代であると同時に、原イエの勃興の時代であるという二重性をもっていると解釈できるのである。そして後者の視点にたつならば、この超長波の頂点にあたるのは藤原道長の時代(1015年ごろ)であったとみてよいであろう。これは義満の時代の360年前にあたる。
そうであるとすれば、さらにそのもう一つ前には、ウジ社会の第三の超長波、つまりシナの隋・唐帝国の国家統治体制をモデルとして、それまでは個々の大ウジが分権的に支配していた人民や土地の国有化を行った、恐らく聖徳太子の時代の6世紀末から大化の改新をへて藤原氏が実権を握る10世紀初めにいたる、合わせて330年ほどの長さ(595〜925)を持つ「単一ウジ国家の波(律令化の波)」があって、その頂点が平城京への遷都が行われ東大寺の大仏が鋳造された聖武天皇の時代(8世紀半ば)であったとみることはできないであろうか。そうであるとすれば、その前にあるのはいうまでもなく、ほぼ450年にわたる(235〜685)ウジ社会の第二の超長波すなわち「大ウジの波(古墳時代の波)」でなければならない。その頂点はと考えると、これは当然倭王武の時代(5世紀後半)にあたるであろうといいたくなる。また、それに先立つウジ社会最初の超長波、すなわち「原ウジの波(弥生時代の波)は、紀元前4世紀ごろから4世紀初めまで、ほぼ700年にわたって続いたといいたくなる。その頂点はもちろん、原ウジの連合国家が成立した3世紀半ばの邪馬台国の時代であろう。
5. 日本史の超長波仮説
以上の考察をもとに、ウジ社会の進化の後、それと一部重複する形でイエ社会の進化が続いた有史以来の日本の歴史を、超長波という観点からまとめてみよう。
ウジ社会の超長波
イエ社会の超長波
(この超長波は、ウジおよびイエに続く日本社会のこの次の文明進化段階としてのネティズンのコミュニティの時代、ないしは情報文明の時代の開始期と重なっているかもしれない。)
以上を図にして示すと、第4図(文章末の第4図「日本史の超長波仮説」を参照)のようになりそうである。
公文 俊平(くもんしゅんぺい)
国際大学グローバル・コミュニケーション・センター所長