第1回 【社会】「消費社会とゲーム」 (塚原氏×井上氏) / 2008年05月11日

塚原 史 (つかはら ふみ)
早稲田大学 法学部 教授
早稲田大学政治経済学部卒業。京都大学大学院でフランス文学を専攻し、その後フランス政府給費留学生としてパリ第3大学に留学。早稲田で教えはじめた年の秋に、30歳で最初の訳書ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(今村氏と共訳)を出版。以後、現代思想(ボードリヤール、リオタール、ブルデュー)とアヴァンギャルド芸術(ダダ、未来派、シュルレアリスム、荒川修作、松澤宥)を軸として二十世紀文化論(現代アート、写真、映画など)を研究。

井上 明人
国際大学GLOCOM研究員
ゲームやインターネット文化の最先端研究。『特集=任天堂/Nintendo「宮本茂をめぐって コンピュータ・ゲームにおける作者の成立」』(ユリイカ, 6月号, 青土社, 2006)など著作論文多数。
1-1: 第1回イノベーション行動科学フォーラム
ボードリアール、フォーエバー。消費社会論から、「差別(異)化」と「新しさ」の行方を探る。

第1回研究フォーラム「消費社会とゲーム」
(c)やまざきゆにこ2007
消費社会とは、新しさを次々に消費する社会。
新しさとは、ディファレンシエ、
つまり次々と(今までとは違う)新しいものが提供されてくることと思われている。
しかし、現代的な新しさとは何だろうか。
独り歩きしている「差別化」とは、どんな考え方だったのだろうか。
イノベーションという言葉があるが、
以前は社会が変わるというときは、
レボリューション(革命)という言葉が使われた。
今はむしろレボリューションよりも、
イノベーションによって世界が動いている気がする。
ボードリヤールの記号論で消費社会を捉えると、
イノベーションとは「新しい記号」を生み出すことにすぎないのだろうか?
ボードリアール、フォーエバーと、
少しセンチメンタルな副題をつけてみた。
「消費社会の神話と構造」を30年近く前に出して、
今年は節目で、3月にボードリヤールが亡くなった。
その数ヶ月後に、この本を共訳した社会思想家の今村さん、彼も亡くなった。
今日の話は、アーサークラーク、
「2001年宇宙の旅」から始まって、
そこからボードリヤールまで、
その流れの中で、
差別化や新しさを探るという形で話してみたい。
1-2: 新しさとは?差別化とは?
アーサークラークの予言。世界を閉じることで、新しいものは一切生まれなくなる。
第1回研究フォーラム「消費社会とゲーム」
(c)やまざきゆにこ2007
アーサークラークは文学作家というよりも思想家で、
彼が予言したものはほとんど実現している。
53年に「幼年期の終わり」という本を出している。
地球上にコンフリクトが絶えない中で、
巨大なUFOが飛んできてエイリアンが、
コンフリクトをすべてコントロールしてしまう。
何か起こりそうになると、
それを強力なテレパシーで止めてしまう。
おもしろいことに、コンフリクトが起きなくなると、
新しいものが一切生まれなくなることだ。
創造的な文化が事実上終わってしまう。
世界は、再び戻ることのない過去の輝きの中で、
それをかみしめて生きていくことになる。
その予言が当たったかはわからないが、
コンフリクトの終わりに生まれてくるのは消費社会。
モノの前に人々が一列に並んでいて、
身分や社会的秩序がなくなる社会。
エイリアンが地球人に唯一禁じたことは、
地球の外に出ることであった。
地球に閉じ込めておいて、
その中で楽しくやってくださいという意味。
もちろん今の地球はコンフリクトはあるわけだが、
新しいものが生まれにくくなる世界を半世紀前に、
アーサークラークが予言していた。
1-3: 非生産消費から始まった「差別化」
差別化(differentiation)という言葉の起源は、生産性・効率性と正反対。「時間の非生産的消費」が差別化だった。
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(c)やまざきゆにこ2007
一番最初に「差別化」を言ったのは、
19世紀のヴェブレン。
富裕層の富の蓄積が盛んになってくると、
階級の内部で差を見せることが大事になる。
差別化とは、
そのときの「微妙な差異」のことだった。
つまり差別化という言葉は、
商品の機能とかデザインではなく、
もっと社会的なものとして使っている。
ヴェブレンの指摘はおもしろい。
アメリカの大学以前の中等教育機関、
エリート養成機関でラテン語など無駄なことを教えるのは、
時間の非生産的消費というものが、
差別化の源泉になるからだと言う。
たとえばポロのように、あまりおもしろくもなく、
準備がたいへんなスポーツをする理由は、
(時間の非生産的消費による)差別化のためだと。
ボードリヤールは「消費社会の神話と構造」の中で、
差別化※という言葉を再び使っている。
※塚原教授は、ボードリヤールの翻訳の際、「ディファレンシエ」(仏語)を「差異化」と訳している。ここから先、ボードリヤールの「差異化」という言葉を使っていくこととする。
1-4: コードに服従した消費
消費社会の構図。個性化の消滅。差異化の強制や、ある種のコードへの服従。
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ボードリヤールの主張は、
消費社会の商品についての考えで、
集団への所属、集団からの脱出、
人と自分を区別する記号として、
モノを操作するということだ。
人は商品を自分で選んでいると思っているが、
実はこの行動は、差異化(differentiation)の強制や、
ある種のコードへの服従になってしまっている。
でも、本人は気付いていない。
マルクスは、価値には使用価値と交換価値、
その二つがあることを提案した。
ボードリヤールは、ソシュールの記号論を
マルクスの価値理論に取り入れた。
コーヒーミルを買うとき、
人は何を基準にして買うのだろうか?
機能そのものは、差異化というほどのものはない。
消費というものを社会的・心理的な行動と捉えた時、
コーヒーミルは、
直接的な機能とは別の要素によって区別される。
デザイン、形、色、重さなどの、
何らかの本質的な要素によって区別される商品を、
ボードリヤールは「モノ(Objet)」と呼んだ。
1-5: オリジナルよりも価値を持つ「複製(copy)」
「新しさ」を問う。オリジナルの価値、オリジナルよりも「新しい」複製の価値。
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「新しさ」に関する重要な思想家は、
ベンヤミン、ブアスティン、ボードリヤールの三人。
「新しさ」というものを「オリジナルと複製」、
これら二つの関係で議論を展開した。
オリジナルとは、今これ一つしかない。
だからみんなありがたがる。
市場である作品が天文学的価格がつくのは、
それ一個しかないから。
その一方で、今、一つしかないものは、必ず古くなる。
たとえばモナリザは、500年くらい前のもので、
修復とかほとんどしていないので、ひび割れてきたり、
黒ずんでいて、モノとして見たときに新品とは到底言えない。
技術的複製、その方が新しさということでは優れている。
本物のモナリザよりも複製の方が、
「新しさ」という意味では優れている。
実際にそうなっていると言ったのが、ダニエルブアスティン。
彼は面白い事を言っていて、
シカゴ美術館に印象派の展覧会が来たことがあって、
観客が皆文句を言ったらしい。絵が暗いと。
実物を初めて見る前に、みんな複製で見ている。
私の知っている方が、もっときれいよと感じる。
フォームからシャドウ(実体のないもの)へと、
価値観が変わってきていると指摘した。
ブアスティンのアメリカ文化の指摘。
シボレーのコンパーチブルの車のCMで、
グランドキャニオンに車が止まっていて、
家族が外に立っていているシーンがあった。
父親はステレオビューワで、
車の中からグランドキャニオンを写して見ている。
外の家族は、車を写真にとっている。
グランドキャニオンそのものというよりも、
そこに行ったのだという記録をとるところに、
価値をもつようになった象徴である。
彼は、それを指摘した。
つまりベンヤミンは、
オリジナルの優位性が崩れたことを指摘し、
ブアスティンはさらにもう一歩進めて、
複製の方がもっと価値を持つようになったと言った。
なぜゴッホのひまわりは高いかというと、
どれだけコピーが作られるかということ。
コピーライトとは、コピーの権利。
つまり、たくさん複製されること、それが価値。
「オリジナルの価値」の意味が、
「モノを持っている」ことから、
「情報としての価値」となっている。
1-6: シミュラークルの時代
消費社会の新しいものとは、「記号 = オリジナルの存在しない複製」。
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その次に現れるのが、ボードリヤール。
また違った形で、オリジナルと複製について、
示唆に富んだ提案をしている。
ボードリヤールは、
オリジナルと複製の関係を根本的に変えてしまった。
レベル1: 最初は、模造。
本物と模造では、もちろん本物に価値がある。
レベル2: 生産の段階、機械による複製。
オリジナルがあるから、複製がある。
レベル3: シミュレーションの時代。
ここでは、記号がデータ化される。
この時代の「複製」をボードリヤールは、
「シミュラークル」と呼んでいる。
神の似姿という意味の言葉が、
ラテン語のシミュラークル。
そもそも「神の似姿」とは、不在の複製。
神様が見えるわけではないので、
そういう概念だった。
オリジナルのもっている物質性が記号に置き換えられ、
オリジナルがない世界が生まれてくる。
これをエンターテイメントの世界で映像化したのが、
マトリクス。
「現実が、虚像化されてしまっている」
1-7: 記号的な差異化
モードとしての新しさは、記号的な差異でしかない。
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消費社会と新しさというものを
わかりやすくあらわしている領域はモード、
流行のファッション。
アヴァンギャルドとモードの関係は、
矛盾をはらんでいて興味深い。
アヴァンギャルドとは、
「前衛」という戦争用語で、
後に政治に使われ、
そしてファッションに使われるようになった。
アヴァンギャルドという様式はなく、
バロック、古典主義などを否定する。
否定するのがアヴァンギャルドなのだから。
しかしアヴァンギャルドとモードが結びつく、
そういうことが起こった。
たとえば、シャネルはそう。
そこで提示しようとしていることは、
伝統の否定、過去との断絶。
だけど、それは記号的な差異でしかない。
まったく新しいもの、
変化というものではなく、
変換と言った方が良い。
1-8: 経験の差異化を生む社会的装置
映画装置の発明の歴史は、「技術」ではなく「経験」の差異化の好例。
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新しさを作るという例として面白いのは、
映画を観る装置の発明の歴史。
ビデオという装置は、映画を家庭で見るために、
映画よりあとに生まれたものと考えられがちであるが、
実は「ビデオの方が先に生まれていた」という物語だ。
エジソンがキネトスコープを発明する。
彼が作った最初の映像が、
「フレッドオッツのくしゃみ」というもの。
それから一年後、リュミエール兄弟が、
シネマトグラフ、まさに映画の原型をつくる。
ビジネスとしては、あきらかにシネマトグラフが勝った。
そこにはエジソンの誤算があった。
彼のキネトスコープはコイン装置なので、
同じ映像を一人ひとりが別々に見る装置。
リュミエール兄弟の映画は、
暗い中で知らない人同士が同じ場面を見ている。
同じ夢を見ているような「共感を生む装置」とは、
今までまったくなかったものであった。
どうやって見るかについては、
写真の場合は見る人にまかされていた。
映画は、見方を共有させる、
いわば社会的装置であったといえる。
1-9: ボードリヤール フォーエバー
4年前にボードリヤールが日本に来た。
早稲田での講演の最後に、
「若者に未来に向けてのメッセージを」と問われると、
「私にはメッセージはありません」と言って、
会場をわかせた。
「私は、未来のメッセージの運び手ではない」と。
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これは、未来の社会について、若い人たちに、
未来はこうなるよとか、
そういうことを言うこと自体がばかげているということ。
未来とは、どこかにあって、
そこにたどりつくというのではなく、ここにある。
未来のメッセージとは、
君たちが自分で作りなさいということだった。
最初にアーサークラークの大予言から始まったが、
彼は「そうなってほしい」と思ったからではなく、
そうなるかもしれないという、
同時代の人に対する警告だった。
それから50年くらいたって、ボードリヤールが
「未来のメッセージの運び手ではない」と言ったことは、
まさにこれから新しいページが開かれるという発想だ。
ボードリヤールはさすがというか、
それが反響を与えた。
「新しさ」というコンセプトは、
広い意味での消費社会の中で生まれたと言うこともできる。
それまではおじいさんのようにお父さんが、
自分もお父さんのように生きればよい。
新しさの幅が小さかった。
それに対して消費社会自体は、
生活が変わったという意味では革命だった。
「イノベーション」は新しさ、
それに加えて有用性、効率性を生み出すものと考えられている。
しかしボードリヤールは、
効率性については、どちらかというとネガティブ。
なぜなら、社会は効率よく機能しなくてよい、
という考え方があるからだ。
ストライキで地下鉄が止まっても、社会が止まったとは思わずに、
それを一つの権利と思う考え方がある。
生産社会と消費社会、
その二つからイノベーションを考えようとするのが、この研究会。
新しさというものに対して価値を認める、
というすりこまれたものはあるが、
それは消費社会を前提としたイノベーション。
そのための差異化の中身が、効率性であったりする。
資本主義社会と消費社会のセット、
それを崩すためのキーは、エコ(地球環境を守ること)なのだろうか。
資本主義の中の、差異化としてのエコというのもある。
今の感覚は、「こりゃあかんわ」まで来ているような気がする。
一方で、新しいものを作って、BRICSの何億人にモノを売ろうとしている。
そのインパクトのすさまじさは、とんでもない。
我々の捉えようとしているイノベーションとは、
消費社会を前提としているのか、違うのかを決める必要がある。
1-10: ゲームの面白さを決定する「レベルデザイン」
ゲームの本質=レベルデザイン。そこに見え隠れするデベロッパーの意図。
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宮本さんはマリオを作って、
今まであらゆるヒットするゲームをプロデュースしてきた人。
彼のねらっていることは、
「ユーザーをクリエイティブにすること」
しかしプレイヤーは、そもそもクリエイティブではない。
そこで、だんだんクリエイティブになっていくプロセス、
それをデザインする。
それが、彼のゲームが人を熱中させる秘密だ。
この「レベルデザイン」という概念は、
10年前くらいから、かなり普及することになる。
ゲームの難易度、それは単純なものではなく、
ユーザのセルフモチベーションと深く関わっている。
マリオでいえば、「出会うところ」「練習するところ」
「応用するところ」「究めるところ」、
その4つをどうデザインするかがすべて。
だんだんユーザが学んでいく、
ユーザの能力をすこしずつ引き上げていくこと、
それをどうデザインするかが大切。
ゼルダの伝説、NINTENDO64で作った、
3次元でぐりぐり動くはじめてのゲーム。
イトウガビン氏はこのゲームに対し、警鐘を鳴らす。
「宮本さんの設計した神の手が見え、
プレイヤーが操り人形になってしまって楽しめなかった」と。
もう一つは、シムシティなどを作っているウィル・ライト。
2000年ころに彼が作ってヒットした、
Simsというのがある。
家を作って、その中で簡易AIをもった人形が、
勝手に生活する。AIが勝手に生活をするので、
プレイヤーは家具とか、家を設計したりする。
Simsのユーザが何をしたか?それがもっと面白い。
Simsのもともと用意されたデータセットは、
たくさんはなかったが、
ユーザが自分でバットマンなどの服装を勝手に作り始めた。
普通に遊んでいるユーザだけでなく、
スキンをつくるクリエーターが出てきた。
ウィルライト自身がそういう社会現象を分析した。
カジュアルゲーマー、コレクター、そしてウェブマスター、
最後にクリエーターという、梯子を昇っていく。
こういう段階をデザインすることが大事だと分析した。
これを食物連鎖の生態系のようだと表現した。
1-11: 強力な文脈共有の場としてのニコニコ動画
仮想世界に対するユーザの関わり方。セカンドライフとニコニコ動画の違いから何を見るか。
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利用者が広がらないセカンドライフ。
セカンドライフは、
プレイヤーが自分の世界をすべて空間の中に作れる。完全になんでも作れる。
セカンドライフ上で、結婚式をやったり、
会議をやったり、店舗で実際にモノが買えたり。
しかし、報道過剰でユーザアカウント数は伸びても、
リピーターが増えない。
1100万人がアカウントをもっていても、
常時接続は4万人程度。
そして日本発の新しい文化、ニコニコ動画。
Youtubeの動画サービスに、
ユーザ間でコメントをつけあって見るもの。
音声の自動合成ソフトがすごい人気になっていて、
人間の声ではなく、ソフトの中に声があって、
それに歌を歌わせると、けっこううまく歌う。
オリジナルが全くない世界で、
みながコメントし合う。
非常につまらないゲームを、皆で楽しむ。
それも同じ。
文脈を共有する場を強力に用意することで、
それが面白いものとして受容可能になっている。
Youtubeではコンテクストの共有ができないが、
ニコニコ動画では、「これってばかっぽいよね」
というアイロニカルな気持ちの共有が可能。
ニコニコ動画は、
サービスとして収益としては成功していないが、
ユーザの参加率がすごい。
5人に一人はコメントを入れる。
「いま・ここ」(アウラー)感の複製。
セカンドライフは、非常に高度なことができるので、
クリエイターにとっては天国だが、
初参加者には敷居が高く、楽しめない。
一方でニコニコ動画は、ちょっと行けば、
「ばかっぽいよね」とコメントするだけで、
参加ができる。楽しめる。
このことは宮本の言う、「レベルデザイン」とつながる。
生産なのか、消費なのか、よくわからなくなっている。
彼らが何かを生産しているのか? それはよくわからない。
はるか昔に誰も遊ばなくなったゲームを持ち出して、
皆で楽しむ、それは生産なのか、消費なのか?
わけのわからない世界ができている。
それを伝えたかった。
ニコニコ動画も、ラノベも、
いわばコミュニケーションツールとして、
文脈共有の楽しみ方をするもの。
この価値は、「差異化」ではなく「文脈共有」。
作品そのもののよしあしではなく、
それでどれだけ盛り上がれるか、
そこに価値がある。
1-12: 差異化のためのコミュニティ内部の同質化
消費社会を特徴づける、差異化と同質化。
第1回研究フォーラム「消費社会とゲーム」
(c)やまざきゆにこ2007
ニコニコ動画は、生産と消費が一体化した社会構造。
近代の生産とは、労働と結びついていた。
テクノロジーが台頭することで、
労働の意味が変わってきている。
生産が見えなくなってきている。
それは、今までの研究の盲点かもしれない。
生産のバーチャル化も起きているのだ。
コミュニケーションを楽しむ場であるが、
そこに生産もしながら関わるという意味。
ビジネス的なものも少しある。
セカンドライフもversion 2がでてきて、
もっと生産の場になってくることもあるだろう。
宮本さん的な知恵が入れば、そうなるだろう。
ネットの中での階層は、貧富ではない。
ウィル・ライトも、食物連鎖と言っていて、
階層とは言っていない。
誰もがその階段を上っていける。
では、階層が存在しないと、
差異化は存在しないのだろうか。
階級というか、階層的な差異化というのは、
一つの差異化ではあるが、横の差異化もある。
今までは階層の中で、差異化する消費。
消費によって、階層を作っていた。
しかしネット社会のように階層のない世界ができると、
差異化の前に、まず共感が必要になる。
同質化した人たちが集い、確認し合うことで、
自分のコミュニティを
他のコミュニティから差異化する。
ニコニコ動画のムーブメントは、
反社会的というよりは、脱社会的。
積極的に参加するでもなく、反発するでもなく、
そこにコミットメントすること自体に、
強い感覚を持てない人たちがいる。
そういう脱社会性とつながっていると言われる。
ニコニコ動画は、個人がリスペクトされる構図になっていない。
却って、個が出ないようになっている。
「オレタチ、盛り上がっているよね」という、
個人の名誉というよりは、
集団性の確認が動機付けになっている。
そういう構造になってきている。
1-13: 生産=消費の社会構造
消費社会からの脱却、それは自分で作ること。生産=消費の社会構造。
第1回研究フォーラム「消費社会とゲーム」
cやまざきゆにこ2007
しかし、われわれの消費の仕方は、
本当に差異化のためばかりなのだろうか。
マーケティングにうれしそうに乗ってしまう、
CMでやっているものを、嬉しそうに買うことはある。
だが、すべてが記号化された消費だけなのだろうか。
たとえば、本当にエコ生活している人が、
マーケティング用語としてのロハスという言葉で、
一くくりにされるのは心外だろう。
大事なのは、自分らしさ。他人と比べての差異化ではなく。
これは、自我の拡大。他我ではなく自我の拡大。
自分にとっての自分であり、
社会性と切断された領域があるのではないか。
しかし、誰かに強制されているわけでもなく、
自分から選んでいるんだけれども、誘導されている、
というのがボードリヤールの見方。
選んでいるとはなにか?という問題もある。
孤立できないということ。
それならば、自分で作るしかないのか。
手帳を自分で作るということが現実的に考えられるということは、
生産と消費が近い証拠かもしれない。
それがイノベーションの機会なのかもしれない。