ITで教育は変わるのか?
豊福晋平(主任研究員)
「○○で教育が変わる」といったキャッチフレーズは、昔から新聞や書籍でもよく遭遇する言葉のひとつである。最近の流行は当然ITであり、世界の先進各国がいずれも緊急の課題として、学校へのコンピュータ導入台数や教育機関のネットワーク接続率実績を競い合っている状態にある。しかし、はっきりとした数字として台数や導入率の比較がよく報告される一方で、ITを用いることで達成されるべきビジョンは、今ひとつ明らかでないと感じるのは私だけであろうか。一様に「今後、ITは社会的重要度を増すであろう」という認識と、「ITそれ自体や、ITによって変化する新しい社会のありように適応する人材を育成する」という点については基本的な合意があるものの、既存の教育システムに対してどのようなインパクトを与え、何を変化させるのか、という具体的な話題になると、その人の立場や思想信条によって導かれる答えは多種多様になり、たいがいの場合、話は微妙なすれ違いを残したまま、まとまった結論に至らないことが多い。例えば、ある者は制度疲労を起こしている教育システムのドラスティックな変更を主張し、ある者は授業での理解習得向上のために優れた教材開発が急務と述べ、また、ある者は世間に出回っているソリューションでは使い物にならない、教育現場が分かっていない証拠だと批判するといった具合である。このような「総論賛成、各論まとまらず」の出来事を何度も繰り返していると、「○○で教育が変わる」議論は、結局いつも机上の空論で終わってしまうのではないかという危惧さえ抱いてしまう。
何故こんな事をわざわざ述べるのかと言えば、私の専門(教育工学)の研究目的が、教育に影響を及ぼすような新しいテクノロジーを紹介し、その導入手段の開発や効果測定を行うことにあるからである。この領域の成立は1920年前後といわれ、工場での大量生産や労働管理を始めとした産業手法を教育分野にも適用し、カリキュラムや授業の科学的分析と合理化効率化を図ることが当初の目標とされた。これらは、現代教育システムの基盤を構成するために、大きな役割を果たしてきたのである。戦後は、技術革新の歴史とシンクロして、新しいメディアや機器を教育で活用しようとする研究が盛んになり、テレビやコンピュータ利用といったメジャーなトピックでは、すでに数十年の蓄積がある。しかし一方で、同じ教育分野の研究者にあっても、教育工学者はいたって評判が悪く「君ら狼少年じゃないのか、メーカーとグルになって国や教育委員会を騙しているだけじゃないのか」と皮肉られる事も多い。新しいテクノロジーが世の中に現れるたび、研究者は「テレビ放送で教育が変わる」とか「インターネットで学校革命」などと声高に言い続けてきたのに、過去数十年の間に開発研究された機材で、教育に相当のインパクトを与えたと言い切れるものはほとんどない。学校現場で辛くも生き残っているのはOHPぐらいのもので、大半は埃をかぶってガラクタと化してしまった。語学LL教室や、今では警察の免許センターでしか見られないレスポンスアナライザーなどはその典型である。かくいう私も、実は10年以上前にパーソナルコンピュータの持つインパクトに心動かされ、数人の研究仲間と共に「これは保守的な教育システムに殴り込みをかける最後の黒船になるかもしれない」と乗り込んだ迷える研究者の一人だが、当初の期待とは裏腹に、一向に変わらない教育現場の現実を目の当たりにして、もはや「ITで教育が変わる」と能天気に言い切れない事を悔しく思うのである。
そこで「○○で教育が変わる」議論について改めて考えてみると、根本的な2つの疑問が浮かび上がってくる。ひとつは、「何故、新しいテクノロジーが教育システムを変革するような期待を抱かせるのか?」ということ。もうひとつは、「何故、新しいテクノロジーはなかなか教育システムを変革するに至らないのか?」ということである。このことを解明せずに「教育が変わる」と言い続けていたのでは、もはや狼少年の謗りを受けても反論できない。
テクノロジー・プッシュとディマンド・プル
教育工学ではその答えとして、教育に新しい機器や仕掛けが導入される際の動機づけには、「テクノロジー・プッシュ」と「ディマンド・プル」の2通りがあると説明する。すなわち、技術開発が先行して出来上がったものを、教育に適用できないかと考えるのがテクノロジー・プッシュであり、逆に、教育場面でこんなものが必要だ、という要望が先に立って開発がなされるのがディマンド・プルである。理想的には、教育側からの働きかけによって開発されるディマンド・プルが望ましいが、実際に導入検討がなされるケースは圧倒的にテクノロジー・プッシュで、この事こそが問題であるという。つまりテクノロジー・プッシュは、開発された機材や仕掛けが、そもそも教育をターゲットとしたものではないため、教育現場の実状にそぐわない事が多い。導入にあたってきちんと現場ニーズの掘り起こしを行い、きめ細かな設計開発が行われれば、必ず現場にも浸透するはずだという主張である。
この主張は一見もっともなのだが、実態を見ると納得がゆかない場面も多い。現に、PCやネットワークを中心としたITの導入では、一方で、教育現場向けの様々なアプリケーションやプロジェクトが教師を交えて検討されているのに、現場での普及や動機づけには必ずしもプラスに影響していないからである。これは出来上がった製品の出来不出来や、関わった人間の怠慢といったレベルではなくて、もっと別な次元の問題であるように思われる。
私自身の経験を述べれば、「役に立つソフトはニーズに密着するべき」との思いから、現場の先生と徹底的に仕様検討してソフトウェア構築を行った経験が何度があるのだが、出来上がったモノはそれなり満足のゆく仕上がりであるはずが、何故か色あせてつまらなく見えてしまうことが少なくない。開発者(私)は新しいテクノロジーを使って「これで何かできそうだ」とわくわくし、この期待感をなんとか製品に込めたいと努力したつもりであったのが、完成品からはその思いのかけらも感じ取れず、しばしば愕然としてしまうのである。これは、あくまで自分自身の感触に過ぎないのだが、新しいテクノロジーと出会った時の期待感と、教育用として完成された時のそのモノに対する失望感には、先の2つの疑問への答えがあるような気がしてならない。つまり、テクノロジーと教育との接点では、漠然とした将来への展望や期待を抱かせるが、実際これを具体化しようとすると、どちらの枠組みを前提とするのか、どの程度の自由度をもって、何の要素を加えたり掛け合わせたりするのか、によって、世の中に立ち現れる姿もインパクトも大きく変わってくるということである。
何故テクノロジーに期待するのか?
まず、「何故、私たちは新しいテクノロジーにわくわくするのか?テクノロジーが教育システムを変革するような期待を抱かせるのか?」について考えてみるうちに、漠然とした議論の中にもおおよそ3つの方向があることが分かってきた。すなわち、
a) ITをもっぱら教科学習の教授場面で用いることで、「知識習得型」として効果的な習得や学力向上を目的とするもの
b) 子供のうちからITの操作技能に慣れさせておこうとする「コンピュータ・リテラシー育成」を目的とするもの
c) ITの成立背景やカルチャーを含めたそのものを既存の教育システムに対するインパクトとして与え、システムの再構築と他領域との融合を図ろうとするもの
である。
このうち、a)は、もっぱらITを手段として活かそうとする立場であり、b)は、新しいIT要素を学校で教えようとする立場である。いずれも現行の教育システムの枠組みをいじらないことを暗黙の前提としているのに対して、c)では、もっと大胆にITと教育が正面からぶつかり合い、時代の要請に合った新たなモノへと昇華融合させることを目標としている。
この点について自分に問い直せば、すでにa)やb)は関心のうちにない。これらは、すでに日本では過去の課題になりつつあるからである。a)についていえば、日本では質の高い学習指導要領や各種の資料メディアが揃っており、ことさら新しい機材を持ち込んでも大幅な効率化や成績向上、あるいは教材配布コストの軽減といった直接的なメリットが見込めない。また、b)についていえば、技術の陳腐化が急速に進んでいるため、表面的な操作技能を教えても将来役に立つ見込みがほとんどないと言われている。ちなみにアメリカでは、早くから教育機関へのインターネット接続を進めているが、a)、b)について言えば、著しい学校間格差を是正するために、基礎学力の保証や教材配布コストの圧縮といった具体的なメリットがあり、納得できる理由がきちんと存在するのである。
では、私自身がなぜITにわくわくするのかと言えば、既存の教育システムにはない要素を、ITに投影しているからと答えるだろう。その意味で、ITは単に技術として無色透明ではなく、成立するに至った背景や独自の文化を明確に背負っていることを意識せずにはいられない。これらは、従来の社会の枠組みとはきれいに重なり合わないし、むしろこれまでになかった様々な可能性を与え、時として枠組み自体の大幅な変更を求めるものである。事実、インターネットやパーソナルコンピュータの背景となったハッカー文化は、既存の社会システムを変革するための明確な意図と、I・イリイチの「コンヴィヴィアリティのための道具」を初めとしたラジカルなアイデアを原動力として、個人にコンピュータパワーを与えるべく運動し続け、現代社会に大きな影響を与えてきたのであった。私たち研究仲間は、パーソナルコンピュータが生み出された理由や、インターネット創成期の歴史を知った時に、現在の教育システムにはない決定的な「何か」をそこに嗅ぎ分け、これがこれまでにない様々な示唆や可能性を与えてくれることを、あるいは、厚い壁をうち破る黒船となることを願っていたのであろう。
例えば、先生自身がコンピュータを教えられないのを後目に、器用な子どもたが自由自在に使いだした時、教室の権力構造はどう変わるのか?民主的で自発的なメディアの登場によって、一方的に情報を整理伝達する場であった授業はどうなるのか?あるいは、ITによって加速変容する情報公開やボランティアのありかたは、保護者と学校の関係や地域社会をどのように変えてゆくのか?おそらく、様々な混乱や議論が起こる中で、きっと新しい学校や地域社会のありようが見えてくるに違いない。この研究テーマに目を付けた頃、私たちはそんなことをぼんやりと考えていたのであった。少なくとも十数年前は。
教育を変えられない3つの理由
さて、話は現実に戻る。もうひとつの疑問、「何故、新しいテクノロジーはなかなか教育システムを変革するに至らないのか?」についてだが、教育現場自体が保守的であるという以外に、主に自らに原因がある理由を3つほど考えてみた。
まず、ひとつめの理由は、手持ちの分析研究手法がどれも手垢にまみれていて、新しい「何か」の要素を描き出すには不十分に過ぎたということであった。授業や単元といった枠組みや教育内容、教師と児童生徒の関係、教室や学校という場所、これらの要素は、すでに暗黙の前提として与えられており、比較のためのデータは客観的教育効果でなければならなかった。つまり、「特定単元の課題を扱った授業において、教材Aと教材Bでは授業後のスコアが何点違う」といった話が行われる土俵で、「コンピュータパワーと子供達を出会わせるとこんな凄い事が起きるのだ」と主張しても、議論は最初からかみ合うわけがない。
これは、教育工学というフレーム自体が持つ呪縛のようなものである。先述の通り、教育工学の本来の目的は、教育の科学化、合理化、効率化にあり、そのために産業手法を取り入れた、いわば産業主義の申し子であった。しかし、時代は変わり、知識の詰め込みが批判され、代わりに個性や創造性が新たな課題とされているのに、それらを扱う手法もスケールも現実に追いついていない。これではせっかく先進的なテーマであっても、旧来の方法論に無理矢理すりあわせるか、はみ出して相手にされないか、のいずれかということになってしまう。
ふたつめの理由として、私たちが困惑させられたのは、テクノロジーの持つインパクトが教育に持ち込まれたとたん、矮小化無毒化されてしまう、巧妙なまでの仕掛けであった。ふつう一教員、あるいは一学校がきちんと研究成果を発表するには、国や自治体の教育委員会から研究指定を受け、さらに、成果発表にあたっては「一時限の授業」を公開形式で行う必要がある。すると、授業や単元といった要素は、最初から折込み済みの条件となる。こうなると、もはやテクノロジーと教育の関係は対等ではなくて、学習単元にどうやってテクノロジーを組み込むかという議論に変質してしまう。これらは一見同じでも、後者におけるテクノロジーは、教育目標を達成するための単なる手段(教具)としての意味合いしか持たない。手段にまで落ちぶれたテクノロジーは、今度は、教師が「教えるのに必要としないから使わない」という形で合理化してしまい、結局そのまま封印されてしまうことになる。
つまり、研究成果を形にするため、授業で使えるように、現実の指導形態や授業時間に合わせて丁寧に最適化を行うほど、元のテクノロジーのインパクトはミニチュア化し、飼い慣らされ、そのうちにすっかり失われてしまう。皮肉なことではあるが、ディマンドを明らかにする現場教師とテクノロジーを提供する開発者(研究者)は、教育工学の主張する競合関係というより、むしろ共犯関係にあって、知らず知らずのうちに矮小化、無毒化のプロセスに加担していることになる。よほどの覚悟と注意がなければ既存のシステムに飲み込まれてしまうのである。
3つめの理由としては、ITの適用範囲が広範になり大規模になっているのに、これら全体を見通せる人が少ないことが挙げられる。十年ほど前、コンピュータ利用教育で、何人ものスーパー教師が脚光を浴びていた頃があった。この時期、それぞれがかなりユニークな思想で実践を行い、見る者を圧倒していたのである。しかしながら、仕掛けが次第に大がかりになり、ネットワークを利用する昨今になると、以前ほどインパクトのある実践は表に出てこなくなってしまった。扱うものがコンピュータだけなら普段指導する教室や学校で話は済んでしまうのに、それ以外に維持管理や周囲との折衝、あるいは開発といった要素が多層的に加わることで、一人のユニークネスではカバー仕切れなくなってしまったようである。その意味では、授業や教室といった枠組みを離れ、場合によっては領域をまたぐような、俯瞰的見方の出来る存在が改めて必要とされているのである。
前途は多難、だが、
ここに挙げた3つの理由は、いずれも教育をフィールドにする以上自らを拘泥し、場合によっては、当初のテクノロジーの持つインパクトを見失いかねないものばかりである。したがって、「○○で教育は変わる」のか?という最初の問いに答えるなら、安直なやり方ではそうそう「変えられない」のである。その意味で、私たち研究者はいま非常に難しい立場にあることを自覚せずにいられない。一方では、「教育を変える」ことをはっきりと目標におき、大胆な理想を語る夢想家でありつつも、他方では、現実の教育に対してエフェクトする徹底的な実践家でなければならない。現実を俯瞰しつつこれに縛られない発想と、アイデアを机上の空論に終わらせずに実現化を図る微妙なバランス感覚、さらには、既存のシステムにからめ取られないような、一種の狡猾さが要求されているのである。
私自身すでにインターネットと教育の話題に関わりだして6年。研究仲間の中には「形が決まって、もう面白い話題がなくなった」と別のトピックに移る人も出始めた。たしかに、社会や家庭にとってITは新しいものではなくなり、学校への導入も先行研究プロジェクトというよりは普及の段階に入っている。しかしながら、各地の学校が続々とネットワーク接続される段に至っても、多くはこれらをどう扱ったらよいか、きちんとした解が見いだせていない。私自身は、この状況をまだ何とかできるのではないかという希望を持ちつつ、本当のITのインパクトを真剣に考え、現実に見いだしてゆくような協働関係を、教育現場や地域と結んでゆきたいと考えている。