情報化と近代文明5
公文俊平(所長)
第3章:内からの経済成長と情報化
第3.2節: 内からの産業化
情報化はなによりもまず、われわれ自身の内なる変化(知的エンパワーメント)に発し、その影響が外界にも及んでいく過程である。その意味では、情報社会をどのような社会として構築していくかは、われわれ自身の社会設計構想やその実現努力のいかんに大きく依存している。情報化を単にわれわれの生活の外部で(とりわけ海外で)発生して、その影響がわれわれの生活に及んでくるととらえて、“変化への対応”を試みるだけでは、不十分という他ない。1
そのような観点から、第一次情報革命と同時並行的に進行している第三次産業革命の特質を、まず捉えなおしてみよう。先に、産業化とは機械化とサービス化に他ならないと述べたが、その意味では、第三次産業革命は、情報処理・通信の機械化とサービス化の過程に他ならない。つまり、人々は、情報処理や通信のための機械の生産・販売や、情報処理・通信サービスの提供を、新しい産業として行うようになる。続いて、既存の組織(企業、政府、学校、病院等)やさらには個人が、それらの機械やサービスを購入して、自らの業務や日常生活に適用することによって、業務の生産性を引き上げたり、新製品やサービスを生みだしたり、新しいライフスタイルを編みだしたりするようになる。その過程で、新しい経済発展が、長期的・全面的に起こっていくのである。
しかし、第三次産業革命の過程で生まれてくる“ニュー・エコノミー”は、いくつかの点で過去の経済とは質的に異なっている。2 なかでもとりわけ重要な違いは、経済行為一般と営利行為(資本主義的行為)との関係や、経済行為一般と市場での(貨幣を媒介とした)交換行為との関係の変化の中に見いだせるように思う。
すなわち、先にも見たように、実は、すでに20世紀の第二次産業革命の成熟局面において、産業化は、乗用車や各種の家電製品のような“耐久消費財”(あるいは、英語から直訳すれば“消費者用耐久財”)を広く普及させていた。より正確に言えば、それらは、“消費財”というよりは“生産財”、すなわち、人々が工場の外、企業の外で、自ら財やサービスの生産を行うための“個人・家計用機械”だったのである。
新商品”、“準商品”、“準貨幣”、“非商品”
とはいえ、第二次産業革命の時代にあっては、これらの機械を使用して個人・家計が生産した大量の財やサービスのほとんどは、当の生産主体によって直接消費され、ほとんど市場に出ることはなかった。だが、それらが本来の意味での国民総生産(GNP)ないし国内総生産(GDP)――すなわち、一国民が、あるいは一国内において、一定期間内に新たに生産された財・サービスの全体――の一部を、それも重要な一部を構成していたことは疑いない。しかし政府は、それを公式の国民総生産統計に含める試みは、帰属家賃を除いては事実上何もしなかった。もちろん(?)その部分にまで課税ベースを広げようともしなかった。政府の国民総生産統計に含まれている非市場向けの生産は、“政府サービス”と、教育・医療・福祉・宗教・文化・レクリエーションなどの社会的サービスを家計に提供する団体による“対家計民間非営利サービス”だけである。
だが、第三次産業革命に伴って出現してきたパソコンや携帯電話、ゲーム機やカーナビ、あるいはプリンターやデジカメのような情報通信機械は、家計用からさらに進んだ“個人用”の機械であって、これによって個人的な財・サービスの生産規模はますます増大している。3
そればかりではない。人々は、インターネットを利用して、自分が個人的に生産した(あるいは保有している)、財やサービスの物々交換や商品(“新商品”)としての販売まで行い始めた。4 さらに、“LETS”や“エコマネー”のような局地的な通貨(“準貨幣”)まで発明して、これまで市場向けに商品として生産・販売されてきたのとは異なる種類の財やサービス(たとえばケアのサービスや、個人相手の情報提供など)の生産や交換を、いわば“準商品”の生産や交換としても行い始めた。5 他方では、いわゆるNGOやNPOの活動の形で、そもそも販売を前提としていない、一方的に提供される(個人や家計によって消費される)財やサービスの生産(つまり“非商品”ないし“互酬財・サービス”の生産)や配布にも、大々的にたずさわり始めた。これらさまざまの財やサービスも、それらが人々によって生産され消費されていることには、在来の資本主義的企業によって商品として生産され販売されている他の財やサービスと変わりはない。つまり、それらもまた“国内総生産”の大きな一部をなしているのである。今後情報化がさらに進むにつれて、国民経済あるいは世界経済に占めるこの種の“非商品”ないし“準商品”の生産や消費の比重は、ますます大きくなっていくだろう。
歴史的には、商品交換は“共同体と共同体との間”で、いってみれば無縁の人々との間に、始まったと考えられている。つまり、もともと知己でもなければ、ましてや信頼関係もない個人や集団の間に、最低限の社会的結びつきを可能にしていったのが、商品交換であって、その意味では、そうした交換を媒介する“貨幣”の最初の形が、多くの人々に共通に欲せられる商品性をそのもの自体がもっている“商品貨幣”でなくてはならなかったのは、当然のことであった。
これに対し、同時進行する第三次産業革命と第一次情報革命の中で起こっている新しい動きは、まず“共同体の中”から起こっていると見ることができるのではないだろうか。つまり、最初からお互い同士を熟知していて、その間に取引や商品交換を持ち込むのは水くさいと思われるほどの濃密な間柄や相互の信頼関係がすでに形成されているところに、いってみればそのような濃密な関係をあえて薄めつつ、そこに計算や交換の要素をもちこもうとしているのが、今日の“内からの”産業化・商品化とでも呼ぶのがふさわしい新しい動きなのではあるまいか。もちろん、その背景には、知的にエンパワーされた個人や集団が、みずから生産を行うばかりか、複雑な費用計算や価格の比較、あるいは需給のマッチングなどを行う能力を身につけてきた、あるいはそれを支援するためのインフラやアプリケーションが整備されてきた、という事情がある。そうであれば、そこで利用される交換の媒介手段としての“準貨幣”は、もはやそのもの自体として独自の商品価値をもつ必要はなく、それを媒介手段として利用する(つまり、それと引き替えに財やサービスを提供する)という合意が、共同体の内部に形成されていさえすればよいことになる。
もう一つの興味深い動きは、購買者主導型の新しい動きである。たとえば、www.kakaku.comのサイトにアクセスして、自分の買いたい商品を一番安く売っている店やそこでの価格を調べ、そこから購入するか、あるいは別の店での値引き交渉の材料に使う。6 あるいは、“リバース・オークション”と呼ばれている仕組みを使って、買い手の方が、かくかくの品物を購入したいと呼びかけて、一番好ましい条件を提示してきた売り手から買うことも可能になってきた。また、“グループ・バイ”のように、売り手と買い手の間に双方向のコミュニケーションの場を用意して、かくかくの品物ならこれだけのまとまった数を購入する用意があるから生産してくれないかとか、これだけの数の買い手がいるなら生産してもいいですよ、と呼びかけるところもある。7 このような傾向がさらに進めば、買い手のグループが特定企業の株式の過半を直接保有して、自分たちの意向にしたがった生産を行わせるとか、企業の規模も一定の範囲内に抑えておくといった行動が、一般化するかもしれない。8
こうした傾向の行きつくところは、これまでの市場や貨幣が媒介しない、さらにはこれまでのような営利追求企業が媒介しない、“非商品”や“準商品”の生産や流通が、経済活動の優位に多くの部分を占める経済の誕生と成長である。
新納税原則
だが、そうなってくると、もっぱら在来的な商品の生産や消費を、またそれに伴って発生する所得や利潤を、その課税ベースとしてきた政府の財政は、中央も地方も、税収の相対的な不足に苦しむ傾向が強まるだろう。9
この問題はよく、インターネット上で行われる商取引きの捕捉と課税の問題として議論されることが多い。確かに、通常の意味での商品(ただしその一部は、これまでの分類でいえば個人や家計にあたる主体が生産した商品)がインターネット上で取り引きされる比重も、今後確実に高まっていくだろう。電子商取引の促進のために、あえてその部分には課税しないという政策的選択がありうることは確かだが、その部分をいつまでも非課税のままに置いておくというわけにもいかないだろう。
しかし、より重要なのは、ここでいう“非商品”や“準商品”の扱いである。本来ならば、当然この部分にも課税することを考えてしかるべきだろう。ただし、その捕捉や税額の決定は困難を極めるばかりでなく、それをあえて強行しようとすれば智民たちの強い反発を招くだろう。
ではどうすべきか。もちろんこれからの情報社会では、政府の規模や役割、とくにこれまでの“国民国家”のレベルの政府のそれは、どちらかといえば小さくなる方向に変化していくに違いない。他方、国民国家レベルの政府に比べて、超国家的なレベルや地方レベルの政府の役割は、むしろ増大していくだろう。いずれにせよ、政府一般が無用になることは考えられない。そうだとすれば、各レベルの政府の活動を支えるための費用の支弁も、やはりなされなくてはならない。では、それを誰がどのような形で行うのが適切だろうか。
もちろん、これまで租税原則とされてきた“能力説”の立場自体を捨て去る必要はないだろう。問題は、能力の指標である。すでに見たところからすれば、貨幣的な所得額は、これからの情報社会では適切な指標とはいえない。直接の生産・消費、あるいは通常の貨幣を媒介としない交換の比重が、増大することは確実だからである。また、情報化の本質が、人々の“知的能力”の増進にあるとすれば、所得及び消費とならんで、課税ベースの三本柱の一つとなる“資産”の重要な要素として、知的能力(ないし人的資本)を加えるのが適当だと思われる。とはいえ、これを客観的な貨幣価値に換算することは極めて困難だろう。
そうだとすれば、むしろ発想の抜本的な転換を行う必要があるのではないか。すなわち、政府を支えるための費用負担というか貢献は、その種類(たとえば金納だけでなく物納やサービス納も含めて)や、規模、さらには時期にいたるまで、基本的に各人の自由な決定に委ねることにするのである。10 もちろん、それを実効あるものにするための制度的な仕組み、たとえば何らかのガイドラインないしは先例が作られることは望ましいし、多くの、あるいは創造的な貢献をした人々を表彰・顕彰する仕組みなども考えられよう。
【注】
1 欧米の文化とは異なる日本の文化の特質の一つに、適応志向がある。日本人は、自分が常に外界の事物のさまざまな作用を受けており、それに対応して自分自身の状態を変化させるべく努めている。満員電車に押し込まれたり、酔っぱらいにからまれたり、上司に叱られたり、同僚に無視されたりするだけでなく、親には失業され、妻には入院され、赤ん坊には夜泣きされ、貯金をはたいて買った株には値下がりされる中で、よくわけのわからぬIT革命とかグローバル化とやらの流れに日々翻弄されながらも、「なんとかしなくちゃ」とか「がんばらなくちゃ」といいつつ自分自身に鞭打っているのが、典型的な日本人の暮らしであろう。「朝顔に釣瓶取られてもらい水」という句は、日本人のこうした認識や心情が、日本の文化に深く根ざしたものであることを示している。
社会のさまざまな変化も、私が引き起こしているものというよりは、外からやってきたものであって、それ自体はいかんともしがたい。私にできることは、それに応じて自分自身を変えていくことだけである。しかし、それさえそれほど容易なことではない。とくに、過去の成功の記憶が生々しければ生々しいだけ、新しい構造的な変化の発生を看取して、それに対応できるように私自身をも構造的に変革していくことは、それに必要とする心理的エネルギーの大きさを思っただけでも、ため息がでるほど困難である。とりあえずは、がんばって耐えていれば、そのうちに外界の変化がもとに戻ってくれるかもしれない。そうならないのであれば、いっそ、変化が有無を言わさぬ形で来るところまで来てくれたら、その時にはその時で腹をくくった対応のしようもあるというものであろう。だがいうまでもなく一番望ましいのは、相手が私の事情をよく理解した上で、私に対して及ぼす作用の仕方を配慮し手加減してくれることである。
日本人の多くがもつこのような文化(世界観や価値観)は、外界を自分の操作・制御や改変努力(つまり“エンジニアリング”)の対象と見る欧米の文化とは、対極的である。欧米人の目からすれば、外界の事物の性質は、もっぱら自分が(あるいは誰かが)その操作・制御・改変をしやすいかどうかということを基準にして記述される。だから、私が飲みやすい(私に飲まれやすい)ワインはdrinkableであり、だましやすい(私に騙されやすい)相手はgullibleであり、統治しやすい(私に統治されやすい)人民はgovernableであり、命令して使いやすい部下はresponsibleであり、期待や付託にきちんと応えてくれるという意味で期待・付託しやすい組織はaccountableであるということになる。
もちろん、以上の議論は類型化した一般論であって、欧米人が自己組織の努力をいっさいせず、日本人が他者制御の努力をなんらしないということではない。また一方が正しくて他方が誤っているということでもない。外界の変化を所与として受け入れる傾向が、日本人の場合、欧米人に比べて相対的に強いということを言いたいだけである。その上で、現在起こっている情報革命の波を、単に所与のものとして、まずは無視し、次いで様子を眺め、いよいよ変化が疑いのないもの、後戻りしようのないものとわかったところで、それへの対応を考えようとする姿勢だけでよいものか、と反省してみたいのである。
2 たとえば、カリフォルニア大学バークレー校のある経済学者は、情報通信革命によって、これまでの市場取引の大前提とされていた三つの条件(排除性、競合性、透明性)が消滅してしまったと指摘している(J. Bradford DeLong, "Speculative Microeconomics for Tomorrow's Economy." Nov 14, 1999, Version C5. http://econ161.berkeley.edu/ )が、以下の私の議論は、それとはやや異なった観点からのものである。
3 アンドリュー・オドリズコによれば、1997年に世界中の人々が個人的に撮影した写真の総量は(1枚10キロバイトに圧縮したとしても)50万テラバイトにのぼったという。他方、米国議会図書館に収められている文書の総量は20テラバイト、画像と音楽は3000テラバイトにすぎない。
4 そのために、ネットワーク上で通用する“電子貨幣”を作ろうとする試みは、これまでのところほとんどが失敗に終わっているが、最近、情報ファイルの交換媒介に的をしぼった“モジョ”とよばれる電子貨幣と、その利用のためのサイバーコミュニティ・システムとでもいうべきアプリケーション(モジョネーション)が提案され、関心を集めている。(http://www.mojonation.net )
5 “エコマネー”との対比でいえば、この種の“準商品”は、“エコモディティ”と呼ぶのが適切だろう。
6 このサイトは、今ではほとんどの携帯電話からもアクセス可能になっている。しかも、希望すれば、最安値が変動したときにメールで知らせてくれるサービスも受けられる。
7 たとえば、“たのみこむ”という名前の“グループ・バイ”のサイトhttp://www.tanomi.comがあるが、ここに行ってみると、さまざまな商品のコーナーがあって、「現在、この商品をお買い上げ予定の方は10人です。あと290人必要です」といったアナウンスがなされている。
8 日本における智民の代表の一人である伊藤穣一は、“NPOバイアウト”という言葉で、このアイデアを概念化している(http://www.ibm.co.jp/e-column/itoh/itoh01.html )。また、伊藤穣一・松山大河の“対談:NPOによるインターネット・サービスの可能性、”『ホットワイアード』 vol.22、2000年5月16日号(http://www.hotwired.co.jp/matrix/0005/02/)も面白い。
9 たとえば、テネシー大学のドナルド・ブルース教授の予測では、米国の各州はインターネット販売によって、2003年には110億ドルの売上税収入を失いそうだという。 (www.hotwired.co.jp/news/news/Business/story/20000807105.html )
10 将来、“智民革命”が達成された暁には、智民の“権利宣言”の主要な柱の一つに、政府活動の支弁費用負担の智民自身による決定権が加えられるのではないか、と筆者は想像している。