GLOCOM - Publication

Center for Global Communications,International University of Japan

智場、GLOCOM Review、コラム…


 

急変する社会と法制度

現状のままで情報社会に対応できるか

名和小太郎(関西大学総合情報学部教授)

青柳武彦(GLOCOM主任研究員)

林紘一郎(GLOCOM特別研究員・慶應義塾大学教授)

林   GLOCOMは情報社会の到来を予見して、学者としてもインターネットのような技術を積極的に利用して、社会科学的研究をしていこうという意味で、きわめて先進的な機関だと思います。初期のころは、センター・オブ・エクセレンスとして、先進的ユーザーであることを身をもって示したり、提言を次々と出して世論をリードしたということもありました。しかし、情報を世界に向けて発信していこうという初期の目的や、制度の問題を含めた社会システム全体の見直しは、10年の歴史を経てやっと具体化しつつあるといった感じです。

 技術の問題は最初に出てくる問題で、それを追いかけるだけでも大変です。だんだん技術が普遍的になってくると、いろいろなところで摩擦を起こします。特に、制度が保守的なもので、制度が変わらないと技術が入ってもダメという局面が、随所に見られるようになりました。青柳さんは、これまで、多方面でそういう面をカバーされていて、4月からは名和先生を客員教授に迎えます。だんだんGLOCOMも、制度の問題に腰をすえて取り組むという感じになってきたのではないでしょうか。今回は、そのキックオフのような意味で、「いま何が問題か、これから何をとりあげて、どのような仕組みを提言し、実践していくべきか」というお話をしていただければと思います。

技術革新と法整備

青柳  このたび、名和先生に客員教授としてGLOCOMにおいでいただけることになり、とても喜んでおります。その理由のひとつは、名和さんが法律専門家出身ではない法律学者であるということです。林さんもそうですが、私は、それは大きな意味をもっていると思います。いままで、いろいろな場で法律の専門家と議論することが多々あったのですが、ものの考え方に非常に大きなギャップを感じてきました。弁護士、検事、裁判官出身の方は、例外はあるにせよ、解釈論的な対応を大変強く支持する傾向が強く、専門家出身でない法律学者は、立法論的な対応を強く支持するという傾向があると思います。法律の専門家は、現行の法律体系の価値を非常に高く評価し、条文についての知識が十分にあり、解釈論的対応に自信があるので、新しい法律を作らなくても十分対応できるという立場を取られることが多い。

 それに対して、専門家出身でない法律学者は、現行の法律価値体系よりも、より新しく、より異なった価値体系を明確に確立するということに大きな価値を見出す傾向が強いのですね。特に法律的な安定性という観点からいうと、この差は大きいと思います。現行の法律でなんとか対応できるということと、たとえ裁判になった時にでも、結果が明確に予測できるということは全く違います。

 一昨年、GLOCOMは「コンピュータ2000問題」について研究会を行い、対応策についていろいろと提言をしました。その時も、ある筋から「年末年始の債権債務の移動時に、コンピュータが止まったりして事故が起こる危険性が考えられるから、すぐに立法論的な対応をするように運動してほしい」という要望がきたことがあります。早速、研究会で検討したのですが、法律の専門家の方々の反応は、 そういう必要はない、現行法で十分対応できる」というものでした。さきほども申しましたが、十分対応できるということと、紛争が起きた時でも結果が明確に予測できる法的安定性があるということは全く違います。米国では「コンピュータ2000年問題」に関してたくさんの法律ができましたが、必ずしも法律的な空白を埋めるものばかりではありませんでした。それは現行法の解釈の幅を限定して、産業界を政策的にリードするものだったのです。社会変化は急速なのですから、日本も、もっとそういう面があっても良いと思います。

 名和さんのたくさんの著作を拝見しても、良い意味で専門家的でない柔軟な発想の部分が沢山あると思います。林さんも、もともとそういう方ですので、これからのGLOCOMには強力な非専門家的法律学者集団ができつつあると思っています。

林  名和さん、いかがでしょうか。

名和  僕はきちんとした法律のディシプリンがなくて口出ししているわけで、これは何十年もきちんとしたディシプリンのなかで仕事をしてこられた方からご覧になると、穴だらけの議論だと思います。きちんとした術語の使い方も知らないわけですから。プロの方と議論して、解釈論にしても立法論にしても、当方に勝ち目はないわけですね、率直に言って。

 技術には技術予測、経済には経済予測がある。しかし、法律には未来予測というのはないのですね。未来予測というのはどうやるかというと、現在ある事実をみて、これを歴史的に眺めたり、あるいは外国との落差を考えたりして、そのトレンドがどうなるかみていくという方法でしょう。つまり「法律の世界は現状はこうだ。これを、このまま放っておくと、こんな方向へ動いていくんだろう」というようなやりかたですが、これは、たぶん法律屋さんのなさらないことですから、多少は希少価値があるかなということです。

林   私は法学部を出たんですが、青柳さんと違って、会社(NTT)の仕事で直接これを生かすというケースはあまりなかったんです。そこに民営化問題が起きた。いままで公衆電気通信法という独占を前提にした法律があって、今度は自由化を前提にした法律をつくるという、会社人間としては劇的変化のところへきた。このプロセスで、ある程度の責任を負うポストについて、世間に対して「こういう仕組みがいいんじゃないか」と説明する役割になったときに、いま名和さんがおっしゃったような、制度のもたらす結果について未来予測をせざるをえなくなった。そのときに、やはり法律論は青柳さんがおっしゃったような制約があるので、とくにガラッと仕組みを変えようというときには、延長するだけでは新しいものができない。となると、何か別のものを借りてこなくてはなならいということになって、借りてくるとすれば、お隣の経済学から借りてくるのがいいのではないかと。そのあたりから、経済学に入っていったというのが私の経緯なんです。

 そこでいくつかのことを感じたのですが、一つは、私が学生だった頃は、法学部と経済学部は教養課程では一緒で、3年から分かれていったんですが、いまは経済学が独立して、しかも東大では場所までかなり離れてしまい、法律と経済は隣り合わせの学問だという感じが極めて薄くなったなという印象です。ところがアメリカはそうではなく、法律と経済の両方をやっている人はいくらでもいる。法学部は大学院コースしかないので、アンダーグラジュエイトのときは経済学をやっている人はいっぱいいる。日本はこの対話がすごく薄いなと感じたわけです。

 もう一つは、私もコンピュータの世界に60年代末から入っていたので、法律の分野は「技術」と「制度」のつながりというのがすごく薄いなと感じた。そういう隙間を狙っていけば、私も学者として生きていけるかなと考えまして。(笑)

 ただ、どうもやってみると、青柳さんの冒頭の話とは逆のことを私はいま感じているんです。インターディシプリナリなことをやろうというのがGLOCOMの流儀でもあると思うんですけど、インターディシプリナリなことができる人は限られていて、私には資格がないと思うんです。私は「掛け算の法則」と呼んでいるんですが、経済学でも法学でも60点ぐらいはとれるというので、合わせれば120点だといううぬぼれをもっていたわけですが、0.6×0.6=0.36で縮んでしまうのではないかと。だから、むしろ逆に法学をずっとやってきた人はやっぱり偉いなと。願わくは、そういう人の中から、柔軟な発想のできる人が出てきてくれないかというのが私の正直なところです。

青柳  柔軟な発想ができるかどうかは極めて重要なことと思います。先日亡くなった私の親しい友人に市来八郎という弁護士がいました。彼は経済学部出身で弁護士になったのですが、ある人が「あなたは途中で路線を変更して弁護士になったのですか」と聞きました。答えは「自分は法律家になりたいので、わざわざ経済学部に入ったのだ」というものでした。たいへん立派な話だと思います。インターディシプリンな思考があってのことと思います。ただ、幅が広いのは結構なのですが、林さんがおっしゃったような経済学の論理および実世界の論理と、法律の論理というのはずいぶん違うなということを私は感じています。先ほどの解釈論か立法論かの議論に関わってくるわけですが、テレフォンカードで大きな問題が生じたことがあります。NTTとしては事前に法律上の検討もすべて済ませて発売したわけですが、非常に大きな法律的問題が続出したのです。

 89年に、変造テレフォンカードを使った被告が有価証券行使罪に問われたのに対し、無罪1の判決が出てしまいました。理由はなんと「公衆電話機をだましても変造有価証券の『行使』にはあたらない」というものです。同じ年に度数を変造したテレフォンカードを他人に売りつけて変造有価証券交付罪に問われた被告も無罪2になってしまいました。その折の法律的論理は「有価証券は文書である、文書には可視性、可読性がある、テレフォンカードは可視性がない、したがって有価証券とはいえない」というものでした。実世界の論理からいうとびっくり仰天するようなものです。はじめのケースについては、東京地検は東京高裁に控訴して、今度は「テレフォンカードは、一定度数の電話利用権を券面上に記載してある有価証券にあたり、行使の相手は特定の電話機とは必ずしもいえずNTTや不特定の人を相手にしたものと解すべきである」という逆転有罪判決3を得ました。そして91年に最高裁が有価証券変造罪で起訴された被告に対して有罪の判決4を下して、ようやく天下晴れてテレフォンカードは有価証券としてみなされるようになったのです。

 この間に立法論的対応は全く行われていません。結局、法律的紛争には「絶対」はないわけです。解釈論的対応がいかに社会コストが大きいか分かると思います。司法府、立法府の責任は重大だと思います。法的な安定性を確保してやらないと、なかなか新しい技術は発展しません。ところが、法律は後追いの文化が本質ですから、未来を予測して先取りするという要素がありません。しかし、ギャップがあまり大きすぎるとこういうことになります。

林  法務省は5年ぐらいかけて、有体物を中心に成り立っている今の法体系に、情報という無体物をどう入れたらいいかという研究会を進め始めたらしいですね。しかし、5年かかると言っているということは、この問題がいかに難しいかということでもあると思うんですね。そのあたり、名和さんは直感的にお気づきになって、いろんな切り口で新しい問題に取り組んでこられたのではないかと思うのですが。

名和  法律が後追いであるというお話がありました。話を技術に移すと、林さんが以前からよく例にお出しになるタイプライターのQWERTY配列5がありますね。つまり、技術の社会的な受容は、けっこう偶然の所産であるという話です。法律にもこのような偶然性があるんですね。つまり、ある種の偶然でできちゃった制度を解釈論などで膨らまして、なんとか本来の枠にはめ込んでいくということがあるんだと思うんですね。

 私は著作権法に近いところにいるわけですが、ここでは、著作権法の既存の言葉とか定義とか論理とかを土台にしてそれをデジタル領域に膨らましていくことになります。だが、出発点が古典的な本の世界ですから、QWERTY配列があとの技術発展をうまく吸収できなかったようなことがあるのですね。たとえば、送信権という権利がネットワーク環境で著作権に新しく定義されたのですが、英語の翻訳をみると「emission」じゃなくて「transmission」なんですね。そうすると、電気通信をやっている人間からみるとかなり違和感がある。ネットワークの世界と言葉使いが合わないじゃないかということを議論したことがあるのですが、法律の専門家から「そんなこと言ってもだめです。送信権はかくかくしかじかの経緯で定義されてきたから、それを膨らませていかなければいけない」というような注意を受けました。

 技術のほうはアナーキーですから、とんでもないものがでてくる。そうすると、そのへんのつなぎがだんだんと怪しくなってきて、論理にしても言葉の理解にしても、専門家でないと理解できないようになる。絡んだスパゲッティのような複雑なプログラムみたいになっている。昔は、著作権法というのは、出版社とかレコード会社などが関心を持っていればよかったのに、いまは、万人が関心を持たなければいけなくなってきたわけですね。にもかかわらず、論理も錯綜し、言葉も通常人が使う言葉とどんどん離れてくるのはまずいのではないかというのですが。弁護士の皆さんにとっては、非常にオポチュニティは増えてきたとは思いますが。

 といいながらも、もう一方には、冷静にみると反対の動向があると思うのですね。それは法律をつくる際、後追いではなく、先取りの方法がでてきたということですね。具合が悪いという現象がはっきり出ていないのに法律が変わってしまう。これは、たとえばいい例が著作権法で、いわゆる著作権管理情報を改ざんしたら、著作権を侵害したこととみなすというように改正されました。しかしどうでしょうか。まず、現在の著作物に著作権管理情報がきちんとはいっているかという問題があります。つぎに、それを生かして著作権をきちんとコントロールするような仕組みがあるかという問題もあります。さらに、それが具合悪くて何か著作権侵害を起こしているかという問題もあります。現実には、ないに近いわけです。まったくないとはいいませんが、どの程度あるかという議論は詰めてないと思うんですね。ところが、どんどんそういう法律ができてしまう。

 しかし、私はやはり後追いのほうが正常だと思います。法律をつくるほうの感覚からいくと。先取りだと新しいオポチュニティをつぶしてしまう可能性があると思うので、それははしり過ぎではないかと思いますね。もうひとつ、先取りがまずいのではないかという理由があります。それは、先取りで法律を作ると利害関係者がいませんから簡単にできるのですね。それが後追いということになると、利害関係者がたくさんいる。既得権益をもった人もたくさんいる。だから、動きが鈍くなる。これがいやなので先取りする。これは、よくない傾向だと思います。

青柳  私も法律は未来を先取すべきではないと思います。「憲法は民族の文化の追認である」という言葉があるくらいですから、法律がどうしても後追いになるのは運命的なものでしょう。とくに、文化や技術の発展の方向を法律が先取りして規定することがあってはならないと思います。さきほど立法論的な対応をすべきだといったのは、50年も100年も遅れるのはいくらなんでもひどいので、せめて5年か10年遅れで、現状にキャッチアップすべきではないかということです。

林  これは、成文法主体の国と判例法主体の国とでは、また違った面があると思いますが、日本は紙に書いた法律が中心になっているし、裁判例がアメリカほど多くないということもあって、そのへんの矛盾があると思います。さきほどの話に戻りますが、名和さんが著作権問題を始められて、私もたまたま始めてみたのですが、著作権問題というのは非常に大きな視点で、無体物を法律がどう取り扱うかのリーディングケースだと理解しています。たとえば、民法において、モノとは有体物であるという規定がありますが、これは100年も経っているので変えたいのだが、なかなか変えられないという要素があります。それに引き換え、無体のものが有体物に体化したところをとらえて、それに権利を設定している著作権のようなものは、非常にそのあたりの関係がはっきりしているので、まず、これから検討していくのはいいのではないか。

 かたや、民法と刑法では、モノに対する扱いが違うというところが気になっています。刑法では、有名な電気窃盗事件で、判例法の国でもないのに判例の方で窃盗を認めてしまったという、当時としてはきわめて画期的なことがありました。その後、窃盗や強盗のところでは、電気もモノとみなすことになった。そして、さきほど話にあったテレホンカードのような電磁的記録も、刑法上で犯罪とみなすようになりました。次は、民事・商事のほうで無体物をどうするかについて考える時期にきているのではないでしょうか。

 それが、ケースとしては著作権がもっとも顕著ですが、たとえばドメイン・ネームやその周辺に広がってきている。電子商取引になれば、もっとそういうものが出てくるというのが私の理解です。

青柳  民事訴訟法は1996年に大きく改訂されました。その時に、情報通信の発達にあわせて大幅な改正をやろうじゃないかという意欲的な運動もあり、多くの提言も出たのですが、結局、ふたをあけてみると多くの問題が未解決のままで残りました。しかし、その後、やはり立法論的な対応をしなければいけないということで、いくつか例がでてきました。たとえば電子署名法6が今度できましたが、これによって、今後は「本人性の確認7」ができて「非かいざん性の確認8」ができさえすれば電磁的記録の証拠能力が認められるようになったわけです。これにより、電子商取引がかなり推進されるようになると思います。

新しい仕組み、新しいルール

林  名和さんたちの著書『ITユーザの法律と倫理』9を拝見して、私と同じようなことを考えていらっしゃるのかなとも思いましたし、名和・大谷組のほうが先をいっているかなとも思ったのですが、私流にいうと、ネットワークがらみといいますか、たとえば、電子署名をどう扱うか、コンテンツに対する責任を誰が負うか、名誉毀損、不正アクセスをどうするかなど、やはりモノが流通すると、流通過程に着目して規律を定めるということに、当然なっていきますね。私は、まったく別の考え方からメディア法をやってきました。著作権法は著作権法だと思っていましたし、メディア法については、私の出身のNTTその他から頼まれたこともあるし、自分の経験も生かせるので、これはこれでやってきました。この2つに接点があるとは思わずにやってきたわけですが、いまの時点になると随分接点があるような気がして、その上で著書を拝見いたしますと、お二人とも似たようなことをお考えかなという感じがいたしました。つまり、流通のところに着目して、新しい仕組みを作っていくということにならざるを得ないのかなと思います。その極限でいま問題になっているのが、猥褻情報であれ、名誉毀損であれ、著作権侵害であれ、ある情報が明らかに違法行為であるとすると、それは当事者をどう取り締まるかという観点もありますが、仲介した人を取り締まるということにしないと、実効性が担保できないという動きになってきていて、結果としては仲介業者問題の重要性が高まっている。著作権法もやや似たようなところがあって、これまで独占であった仲介業者に着目して、多様化したものにすると同時に、責任の範囲を明確化する必要がありそうだという認識をもちました。

名和  商取引に広げて議論するという力は私にはありませんが、著作権法の世界でみると、圧倒的に問題が起きているのは流通面です。ところが、著作権法は創作のところが大切で、流通のほうは「著作隣接権」、つまり一段格落ちの権利です。いまは、出版にしても放送にしても流通経路のほうが大きな意味をもっています。実際に事業者として大きい力をもっています。流通事業者の力によって、生産物がたくさん出るか出ないかが決まるという時代になってきました。著作権については、可能であれば、隣接権の方に重点を置いた仕組みが、いまの時代、これからの時代にはふさわしいのではないかと思っています。

 最近、私は伝統的な出版の流通について、いろいろな分野の人たちに集まっていただいて研究会をやっています。すでにCD-ROMの時代は終わって、電子出版がネットワークを通じて動き始めています。こうなると、実質的にはネットワーク出版は電子図書館になってしまいます。電子図書館について、いままでずっと考えられてきたことは公共性ということです。日本でいえば「31条」10です。これがネットワーク出版と真っ向からぶつかってきます。公共性と事業の話がまぜこぜになってしまう。いまは、図書館でもビデオをサービスするような時代ですから、テキストの話がただちに音楽や映像の話へとつながります。ですから、図書館の議論をしていても、実際に表に出てくるのはMPEGの話とかグヌーテラの話になってしまいます。そうすると、いままであった垣根が全然なくなってしまい、分野ごとのルールがまぜこぜになってしまうということがあります。図書館も流通のプレイヤーです。つまり、ここでも流通が焦点になります。

青柳  流通、特に電子商取引の分野では、非常に大きな問題がありますね。現行の民法の解釈論的対応ではどうにもならない点、あるいは適用しない方が良いという点がたくさんあります。今度の、電子商取引関連の法律を大幅に再検討しようという動きにも出ています。たとえば、日本の民法においては一般的な意思表示の効力の発生は到達主義です。ところが、契約成立の時期に関しては発信主義が取られています。しかし電子商取引であれば、意思表示は瞬時に相手に到達し、その確認の返事も瞬時に返ってきます。したがって電子商取引では、契約成立の時期は一般的な意思表示の効力の発生時期と合わせて、到達主義に変えてしまった方が良いのです。到達主義に変えても、確認の受信者側が蒙る時間の不利益11は何もありません。逆に、受諾の発信をした者が契約が成立したと思っていたら回線の故障で相手に到達していなかった、などというトラブルが防げるわけです。

 また、これから大変大きな問題になると思われるのが、電子的エージェントの問題です。ネットワークに自分のエージェントを発信すると、そのエージェントがネットワーク上を駆け巡ります。そして、いろいろな相手と擬人的に交渉してなにかを買ってきたりするわけです。この場合、エージェントとはいったいどういう法的資格を持っているのか難しい問題になります。発信した本人の代理ということでしょうが、いまの民法の規定では、法定代理か任意代理のどちらかになります。法定代理というのは未成年者や禁治産者の後見人に代理権を与えるもので、いわば、私的自治の補充にあたりますからこれではない。もう一つの任意代理というのは、本人から代理権を授与されるもので、いわば私的自治の拡張です。しかし、法主体性12を持たない電子的エージェントに対して、そういう民法上の代理理論を適用するのはまったく無理なのです。法が文化を先取りすることはできませんが、せめて新しい環境に適合するようにどんどん変えていかないと、法的安定性がいつまでたってもできないし、社会の進歩もないと思います。

林  いまお二人が話されたのは砂漠に楼閣をつくるような発想で、それはそれで大事ですが、実現ということになると既存の利害関係者と真っ向から対立することになりかねない。これはどう考えたらいいのか。あるいは、公文流に言えば、物財のルールに変わって智の取引ルールのような時代になるわけだから、既存のものは時間とともに廃れていくので、モノ中心の体系のほかに知的財の体系をつくって、時間をかけて逐次代替していくのか。私にはそのへんのことはちょっとわかりませんが、そのためには、「智のゲームはこんなふうになりそうだ」という未来予測がないと、制度の設計はできませんよね。

 たとえば、ものすごく大きな観点から言えば、資本主義が長く続いた過程で所有権が成立し、金を払わないとモノが買えないという交換を主体にやってきたあたりのことが、そもそも、ガラッと変わるのか。

名和  未来予測ですが、私はいつも、WTO(世界貿易機構)の流れを参照しているということです。いってみれば規制緩和の方向、すべてのことに関して、流れは規制を緩める方向に向かっている。したがってマクロにみれば、WTOと日本のルールが違っていればかなわないだろうと思います。著作権法にしても、WTOの方でもルールづくりをやっているわけだから、いずれはWTOの主導で再編成されてくるだろうとみています。

 そのWTOのルールはどんなものかといえば、表現を変えて言えば、「主官庁の力がユーザに移る」ということになると思います。著作権制度でいえば、日本でいうと文化庁、国際的にいえばWIPO13の力が、ユーザに移っていくでしょう。ただ、「ユーザ」という言葉がくせ者で、「事業者」の場合もあれば「エンドユーザ」の場合もある。これまでは、事業者の力が圧倒的に強かった。たとえば、ジュネーブで新しい国際条約を作ろうというときには、事業者はロビー活動をしている。しかし、いずれはエンドユーザの影響力が出てくるのではないかと思っています。

 ですから、基本的に次の三つの流れがあります。一つは、国際機関・政府がおさえてきた法律の仕組み、二つめは、法律の足りないところを契約で補うといった市場主義的な考え方、三つめが、エンドユーザが自分の価値観にしたがって、つまり、あまり法律を配慮せずに、やっていることが影響力を持つ。これらの三つの動向は、利害が重なるところもあるし、分かれるところもあると思います。

 とくに最後のユーザ主導の方法は、著作権法の世界ではナプスターとかグヌーテラ14とかが新しい環境をつくってしまった。はじめの二つの考え方が予想もしなかったものだ。なぜ予想できなかったかというと、エンドユーザの数の怖さを無視していたためでしょう。いままでは多者が一者を相手に裁判をすることができたが、一者が多者を相手にする裁判が生じたということです。明大の夏井高人先生は、「これはいままでの法律家が予想してなかったことである」と指摘しています。だんだんと法改正の駆動が官庁からユーザに移っていって、そのユーザのなかで、事業者とエンドユーザが結構いい勝負をするようになるのではないか。

林  いま提起された問題は、要するに「法律とは何だろう」「ルールっていったいなんだ」ということではないかと思います。

青柳  さきほど林さんが、判例を重視し、コモンローを主体とする英米法の国家のほうが、新しい時代に対して柔軟に対応できる可能性があるという趣旨のことをおっしゃったと思います。しかし特定の問題に関しては、日本とアメリカの関係が若干逆になっている場合があるような気がします。法の欠缺15の問題は、日本のような成文法中心の大陸法系国家のほうが対応が硬直的で、アメリカのような判例を重視する国のほうが対応が柔軟と思っていたのですが、名和さんと大谷和子さんの著書『ITユーザの法律と倫理』に、電子掲示板を偽名で運用してプログラムのアップロードとダウンロードの便宜を提供し、100万ドルを越えるプログラムが違法コピーされた事件に対してマサチューセッツ連邦地裁は、被告のMITの学生に対して処罰すべき法律が存在しないことをもって、無罪と判決したというケースが出ています。日本でしたら、専門家はみんな解釈論の達人ですからこんな判決は出ないでしょう。現に、ナプスターやグヌーテラのようなサイトを運用することは、著作権侵害の幇助になるだろうという説がでています。

林  今度は議論が相当激しくなりそうな、猥褻情報とか青少年有害情報という範疇のことを考えると、規範とは何か、どうやったら社会の規律は保てるのか、というところに考え方の違いがあるような気がする。青柳さんは、意外にもというか、法的にもかなり規律をつくったほうがいいという説のようですが、そのお考えをお話しいただけませんか。

青柳  いま、参議院の自民党の女性議員グループが中心になって「青少年社会環境対策基本法案」をつくっていて、次期国会に提出しようとしています。青少年に対して有害な影響のあるテレビ、ビデオゲーム、雑誌、刊行物等については、業界が自主規制を行うことを促進しています。ところが、それに対する反対運動にはすさまじいものがあります。1月15日には、テレビ局の6人のキャスターが記者会見を行って反対を表明しています。表現の自由を法律で規制するのはよくないから、自主規制にまかせろといっているものですが、これはおかしい。この法案は自主規制をしなさい、というものなんです。「自主規制をしなさい」と勧告しても、成果が上がらなければ事業者の名前を公表してしまうというものです。私に言わせれば、そんなものは法律的規制でもなんでもありませんから、もっと厳しくしても良いくらいに思っています。どういう時に勧告をするかの判断を任せられないという意見もありますが、公表された時に事業者が社会的制裁を受けるのは、勧告の内容に社会的な合意がある場合だけです。表現の自由も、公共の利益のためには制限されることがあっても当然なはずです。

林  名和さん、なにかご意見はありませんか。

名和  たとえば、「自主規制をしなさい」というルールがあって、なにかあれば「自主規制で示した約束と違うではないか。詐欺ではないか」ということで、公取委かなにかがその事業者の責任を問えるような仕組みがほしい。「私の会社はこうします」と宣言させ、それと違っていたら会社はその責任をとらざるをえないような仕組みにする。

青柳  それは大変結構ですね。

名和  いってみれば技術標準、ISO的な発想を進めてくるとこうなると思う。

青柳  基本的には、私も法律でしばるのではなく純粋に自主規制でやる方が良いと思います。ただ、現状では法律で統制した方がいいといったのは、民放にしても出版業界にしても、たいした努力もしてこなかったし、現実の成果もあがっていないからです。そういう場合には時限立法でいいから、違反したら罰則があるという内容の法律を作って、ある程度の実効があがったら、この「青少年社会環境対策基本法案」のような自主規制を推進する法律に変えれば良いと思います。

林  論点をクリアにするためにお聞きしておきたいのですが、たとえば週刊誌のヘアヌードとか、テレビの深夜番組とか、一般的水準としてどうお考えですか。けしからんと思いますか?

青柳  私はタカ派なんですが、あの程度のものは別にかまわないと思っています。

林  自販機が道路にあって、酒もたばこも未成年者が買えるというのは?

青柳  あれは未成年でも誰でもが買えてしまうから、よくないと思います。

林  そういうことを禁止する条例を市がつくるといったら、賛成されるわけですね。

青柳  すでに長野県をのぞく全国の都道府県には、そういう有害図書・刊行物等をとりしまる条例があるんです。それらの都道府県から、「責任を自治体ばかりに任せずに、国としてもきちんと法律を作って根拠を示してほしい」という陳情が参議院の自民党女性議員のところにたくさんきたわけです。その後、1年近く検討を続けてきた結果、いまの原案ができてきたのです。反論する人たちがすぐいう言葉ですが、テレビでも映画でも、「良い作品なのに、その中に有害な場面があるからといって禁止するのはよくない」というものがあります。

 しかし、人間の精神活動には有意識、無意識、更には理性と感性という面があって、意識的理性の部分は思ったより小さいんですね。無意識の部分、特に無意識的感性の世界では、有害な環境からの影響に支配されてしまうことが多いのです。「良い作品」というのは、この有意識的理性、つまり大脳新皮質の世界の話で、悪い影響というのは無意識的感性、つまり大脳辺縁系の世界の話です。ですから、「良い作品」でも悪い影響を与えることはいくらでもあるのです。

 環境に影響されて犯罪に走る青少年の発生が単に偶発的なものであれば、対策は個別的対症療法的にとるしかありませんが、たとえ小さい比率でも環境との相関関係が高い、あるいは因果関係の蓋然性が高い場合には、ある程度必然性のある事象として把握して、人智の限りを尽くして対応するべきであるというのが私の意見です。

良識に即した法制度とは?

林  いまのお話に象徴されるように、こういう問題を突き詰めていくと、いま揺らいでいるものがたくさん見えてきて、とくに個人の価値観というのは多様性を認めれば認めるほど、千差万別である。アメリカに行くと何でもありという世界にびっくりして、こんなものも言論の自由に含まれるのかというような感じを抱きますが、あの国は伝統的に規制をかけるというよりはモア・ボイスで、「反対の人はもっと言え」、それでどこかに収斂していくというスタイルでやってきています。

 では、日本はどうすればよいのか。立法でいく、サークル/クラブのような仲間の倫理でいく、宣言して社会的な認知を受けてやる。強行法規的に何かを決めなければいけない部分と、きわめて緩やかでいい部分、国が触れてはいけない部分などがあって、そういう価値基準が、来るべき社会ではいままでとは違ってきたというのが、まず基本線ではないでしょうか。

名和  さきほど技術標準の話をしました。私は昔、ロケットエンジンの品質保証をやりました。どうやるかというと、当時はミルスペック(米国の軍用規格)だったのですが、たとえば、「1mプラスマイナス1mm」のものをつくるというと、「なぜ、それだったらちゃんと飛ぶのか」と顧客に聞かれるのです。納得させるための実験資料がいっぱいいる。「1mmを測る装置は確かか?」「その記録の正しさをだれが責任を持つのか?」どれも証拠が必要です。顧客は言いたい放題。これはたいへんでした。

 ところが、ある日気づいたら、ミルスペックはイギリスを通って、ISO9000いう名前で日本にきている。日本のビジネスの人は、それを看板にするまでしか考えていないが、あれはエンドユーザに納得してもらうスペックです。日本の消費者やユーザに自分でスペックを理解する力ができれば、これは非常に大きな消費者保護のツールになる。エンドユーザからの圧力のかけ方があれば、法律の世界も変わってくるのではないでしょうか。時間はかかるかもしれませんが。

 10年ぐらい前までは、弱者は黙っていても官僚のパタナリズムで守ってもらえた。いまはアメリカ型になってきて、言わなければやってくれないから、消費者にしても、弱者はどんどん取り残されてしまう時代だと思います。どんどん自分たちから言いたいことは言う。曲がりなりにも、役所はパブリックコメントを求めるようになりました。あとは、消費者、エンドユーザがどこまで力をもつかということでしょう。一揆主義的あるいはサンジカリズム的な言い分ですが、この力を無視することはできないでしょう。インターネットはこれを支える技術的、理念的な要素をもっています。私はそれほど悲観していません。

青柳  日本では、これからの情報通信技術と現実世界の間のギャップを埋めるために、当面は裁判所の判決がかなり力をもってくるのではないかと考えています。ふつうに考えると、日本は大陸法系で成文法を重視するから硬直的と思われますが、必ずしもそうではない面があります。アメリカは州の力が強いから、連邦裁判所は憲法に書いていないことは何もできない、州の裁判所も州の法律に書いていないことは何もできません。しかし、日本の裁判所は、憲法に書いてあろうがなかろうが何でもできます。当然のことですが、明治時代の大審院判決もどんどんひっくりかえっています。

 とくに注目されているのは、昨年4月に出た最高裁のキルビー特許判決ですね。富士通の鳴戸さん(当時専務のちに副会長。現常勤顧問兼富士通総研会長)が陣頭指揮をして9年間の法廷闘争を勝ち抜いたケースです。富士通の代理人の羽柴隆弁護士は最終上申書を書きあげた翌日に他界されたとのことです。特許権者のテキサスインスツルメント社が富士通に対して使用差止請求をしていて、最高裁まで行きました。最高裁の判決は「特許に無効事由が明白に存在する場合の使用差止請求は権利の乱用である」という趣旨で上告を棄却したという裁判です。これが、注目の的となった。私は個人的には拍手をしています。

 この判決は、日本の行政法の仕組みを貫く「公定力16」という考え方を否定するきっかけになるかもしれない画期的なものだからです。公定力というのは「たとえ瑕疵ある行政行為でも、それが『当該行政機関』によって取り消されるまでは有効に存続すると推定する」というものです。裁判所といえども、特許庁が付与した特許の有効・無効の判断には立ち入ることができないという、まさに「官は過たず」、「余所者には容喙を許さない」、行政府と立法府のチェック&バランスなどは認めないという行政の独善のあらわれです。アメリカにはこういう考え方はまったくありませんから、裁判所に特許権侵害で訴えられた被告は、根拠さえあれば特許の無効を主張することで対抗することができます。日本でも、今後は事情が多少は変わってくることが期待されます。

林  法律にもベストエフォートというのはないものかと思います。日本はあまりにも完璧主義で、立法をやろうとするといろいろな事態を想定したりして、それはそれで美徳ではあったが、ドッグイヤーの場合は、とにかく早く結論に達しないといけない。それがそんなに点数が高くなくてもいいんじゃないか、という時代になりつつあるのではないでしょうか。ベストエフォートの和訳を見たことがないので、アメリカ人的発想をとらないと、この言葉の感じはなかなか理解できないのかもしれないが、真似をしてみる価値はあるのではないでしょうか。ベターエフォートでいいというわけではなく、ベストエフォートと思ってやらなくてはならないが、結果として欠陥があっても、とにかく前に進んでいく。一歩ずつ進んでいくと、積み上がってあるところにいく、というぐらいのことかなという気がしています。

 名和さんと共同研究17し、また、それぞれでも研究を進め、1年後に再度鼎談をして自らを採点してみるということをお約束して終わりにさせていただきたいと思います。
どうもありがとうございました。

【注】

1 89年9月28日東京地裁判決

2 89年11月2日千葉地裁刑事第三部判決

3 90年7月5日東京高裁判決

4 91年4月5日最高裁判決

5 キーボードの左側上段はQWERTYの順に並んでいるが、これは垂直のバーで打鍵することを前提にした100年以上前の技術を前提に試行錯誤で開発され、タイピスト学校で採用されたことによって「事実上の標準」となったもの。歴史的偶然で技術が固定化(lock-in)され、経路依存性(path-dependence)が生ずるという象徴的事例として、一人勝ち現象の解明や「複雑系の経済学」に大きな影響を与えた。

6 「電子署名及び認証業務に関する法律」2000年5月31日公布、2001年4月1日施行
7 ネットワーク上での取引は、紙は存在しないし物理的な署名や印鑑も存在しないから「なりすまし」が横行して、取引の安全性が阻害される恐れがある。そこで、公開鍵暗号技術などを応用した電子署名技術が開発され「本人性」の確認ができるようになったので、これを法律的にも認知したもの。

8 メッセージの発信者の本人性が確認できても、ネットワークのどこかで改ざんされる危険性があると、やはり取引の安全性が阻害される。そこで、万一改ざんされた場合でも、ハッシュ関数技術などを使って検出する技術が開発されている。

9 名和小太郎・大谷和子(編著) 『ITユーザの法律と倫理』 共立出版 2001年

10 著作権法31条によれば、図書館において「資料の保存のため」にコピーすることや、利用者一人につき1部コピーをすることは、著作権侵害にはならないとされている。

11 たとえば、相手からの確認の返事を待っている間に仕入れ商品の相場が高騰してしまうなどの、時間に関する不利益をいう。

12 法律的行為を行うにあたって責任と権利の能力を持つ主体の属性

13 WIPO: World Intellectual Property Organization 国際知的所有権機関

14 ナプスター、グヌーテラの意義については、上村圭介 「ファイル交換ソフトウェアの行方」 『GLOCOM Review』 2000年10月号

15 適用すべき法律が存在しないこと

16 行政行為には、拘束力、公定力、執行力、不可争力、不可辺効力という五つの効力がある。行政官庁はこれにもとづいて法律にしたがって国民の権利義務及びその変更を決定している。法律論的根拠は、国民から与えられている専門性に関する信頼と委託であるといわれているが、私の見解では立法府や司法府からの優越や介入拒否の根拠とするには無理がある。

17 名和・林のほか牧野二郎氏(弁護士)などGLOCOM外の研究者・実務家を含めた共同研究「ディジタル創作物の権利保護のあり方に関する研究」(慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所研究・教育基金の助成による。期間は2年間)。

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